歴史的意義 — 転換点と教訓の読み解き 一次資料と財務データから読む節目

なぜ大衆文化の主役が映画からテレビへ移っても、映画に固執し続けたのか?(筆者所感)

日活の80年を貫くのは、製作・配給・興行を一社で握る垂直統合への執着であった。そして、文化の担い手としてのプライドが、自身の栄光と衰退を招いた点に悲劇があった。そもそも1912年の創立が、競合する映画4商社の合併によって製作から劇場興行までを一社で押さえようとする試みだった。戦時統制で製作を奪われた後も、堀久作社長は劇場網と不動産で稼いだ資金を撮影所再建へ注ぎ、1954年に一貫経営を取り戻した。配給契約館1500館を抱えた1955年の体制は、撮影所から映画館までを自社で貫く昭和の映画産業の典型形だった。

だが垂直統合は、観客が減り始めた瞬間に固定費の塊へ反転する。テレビの普及で映画館の動員が細っても堀社長は斜陽論を否定し続け、ホテルやボウリングへの多角化はかえって借入と未収入金を膨らませた。1962年以降の無配転落から丸の内日活、日活国際会館と続いた資産売却の過程は、多角化資産が事業の柱ではなく赤字の穴埋め原資として消費されたことを示す。1971年のロマンポルノ転換は、撮影所と直営館を残したまま中身だけを入れ替える、垂直統合に最後まで固執した延命策だった。

延命は17年続いたものの、構造は変わらなかった。1978年に減資と総額130億円規模の第三者割当で資本を組み替え「にっかつ」へ改称しても、黒字と20億円規模の赤字が交互に現れる損益は安定しない。そこへ家庭用ビデオが二度目の視聴革命をもたらした。1985年1月期にビデオ収入が売上の36%と劇場収入を逆転した数字は、新たな収益源の登場であると同時に、劇場で成人映画を観る商売の終わりを告げていた。レンタル店の棚を押さえたアダルトビデオ専業との競争に敗れ、1988年の一般映画回帰も実らず、1993年7月の会社更生法申請で上場企業としての歴史に終止符を打った。

同じ時代を生きた映画大手5社(松竹・東宝・大映・東映・日活)の明暗は、何を売る会社かを再定義する早さで分かれた。東宝と松竹は撮影所や都心の土地を興行・不動産収益へ振り向け、東映はヤクザ映画とアニメに路線を絞って生き残り、製作にこだわった大映と日活が市場から退場した。再建後の日活はナムコ、インデックスを経て日本テレビ系列に入り、調布の撮影所とともに存続したが、文化の担い手としてではなく、映像制作の下請け企業に甘んじている。テレビの台頭を理解しながら、映画に固執し続けた。それほどまでに、文化の担い手としてのプライドが業態転換のボトルネックとなった。

参考文献・出所

会社銀行八十年史 1955
会社年鑑 1986年版 1986
日活公式サイト 沿革
企業の歴史 明治百年 1968
資本異動総覧 1983年版 1982/11
日本経済新聞「私の履歴書」(堀久作)
経済展望 33(6) 1961/6
新日本経済 31(3) 1967/3
実業の日本 1960年10月15日号 1960/10
週刊東洋経済 1970年5月2日号 1970/5
週刊東洋経済 1973年9月8日号 1973/9
database-meian.jp 「日活の歴史/堀久作」 2017
読売新聞 1971年6月3日朝刊 1971/6
日経ビジネス 1976年11月8日号 1976/11