日清食品HD の歴史

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創業 1948年
創業者 安藤百福
創業地 大阪府泉大津市
創業 1948年9月、安藤百福氏が大阪府泉大津市汐見町で株式会社中交総社を設立した。資
1948年9月、安藤百福氏が大阪府泉大津市汐見町で株式会社中交総社を設立した。資本金は500万円で、事業目的には魚介類の加工販売、紡績その他の繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版が並んでいる。1949年9月にサンシー殖産へ商号を変更して本店を大阪市北区へ移したが、1957年、理事長を務めた信用組合の破綻処理で安藤百福氏は全財産を失った。48歳で振り出しに戻り、自宅裏の小屋で1年をかけて麺を油で揚げて乾かす製法にたどり着く。1958年8月に即席袋めん"チキンラーメン"を開発し、同年12月に商号を日清食品へ改めた。1959年12月に大阪府高槻市の工場が完成し、1963年10月には東京・大阪両証券取引所の第二部へ上場している。
決断 新しい市場を作った直後に、その市場の秩序を自ら決めにかかった。チキンラーメンの発
新しい市場を作った直後に、その市場の秩序を自ら決めにかかった。チキンラーメンの発売から数年で即席麺のメーカーは数百社まで乱立し、模倣と乱売が横行する。1962年6月、安藤百福氏は即席ラーメン製造法の特許を取得して、約110社へ無断製造の中止を通告し、警告を無視したエース食品には大阪地裁へ証拠保全を申請した。もっとも先願をめぐる係争もあり、行使は排除ではなく牽制と和解にとどまっている。1971年9月には容器が食器を兼ねるカップヌードルを発売している。袋めん30円の時代に100円を付けたため問屋は扱わず、テレビCMで調理法を伝えたうえで、開かれて間もない銀座の歩行者天国で実演販売した。1990年にはブランド別に8人のマネージャーを置いて生産から利益責任までを一人へ負わせ、先行各社に1年2か月遅れた"ラ王"を同じ250円で出して半年で65億円を売った。
現況 伸びているのは米州だが、利益の半分近くは国内の即席麺が出している。2026年3月
伸びているのは米州だが、利益の半分近くは国内の即席麺が出している。2026年3月期の連結売上高は7,881億円、営業利益は623億円である。セグメント別では日清食品が売上2,419億円・利益321億円で、報告セグメント利益681億円の47%を占める。米州地域は売上1,637億円と国内即席麺に次ぐ規模へ育ったが、利益は前期の189億円から106億円へ減り、設備投資は327億円と全セグメントで最も大きい。2006年11月に1株870円の対抗公開買付で業界2位を取得しており、その明星食品は売上483億円・利益34億円のセグメントとして残っている。安売りに乗らず自ら値を決める姿勢が、国内即席麺の高い利益率を現在まで残した。
競合 1979年、日清食品は米国でのカップ麺生産に乗り出していた東洋水産を特許侵害で訴
1979年、日清食品は米国でのカップ麺生産に乗り出していた東洋水産を特許侵害で訴え、東洋水産側も特許無効を主張して争ったが、最終的には互いに特許使用を自由に認め合う和解で決着した。国内で維持してきた価格帯は、そのまま北米市場では競争上の弱みに転じていた。1994年、東洋水産は約100億円を投じて米国第3工場を稼働させ、低所得層の食費で賄える値段と味に商品を合わせ込んだ。日清食品はカップヌードルの価格帯を崩さずに北米へ進出したため、2004年時点でも米国シェアは東洋水産に及ばず、中国でも3%にとどまっていた。国内では明星食品を加えてカップめんで約6割を占め、値上げを通せる立場にある。一方で米州地域の営業利益は2026年3月期に前期の189億円から106億円へ減り、量で競う市場では価格で下支えできないことが数字に出た。
長期業績の推移 1950〜2026年
日清食品ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1948年〜 発明と、特許で業界そのものをつくった創業期

筆者考察y.sugiura, author

日清食品の創業期を貫いていたのは、めんの製法そのものよりも、誰に作らせ誰に売らせるかという判断だった。安藤百福氏は1958年に油熱乾燥法でチキンラーメンを作り、うどん1玉6円の時代に35円という高い値を付けた。高いものを扱わせるには信用が要る。袋に発売元として三菱商事の名を刷り込んで問屋から現金を取り、その現金で高槻の土地と工場を取得した。原料代と設備費は手形で払ったから、手元には常に現金が残る。売れることが確かめられる前に量産の構えを作っておく順序が、模倣が追いつくまでの時間を買っていた。

1961年に130社まで増えた同業は、日清食品にとって脅威であると同時に市場そのものでもあった。安藤氏は名称を使う同業13社へ警告書を送って提訴し、製法を争う業者の工場には証拠保全が入った。その直後に特許を公開して61社と使用許諾を結んだのは譲歩ではない。誰に作らせるかを選べる立場と、業界団体の理事長という席を、同じ手で取りにいったのである。1962年末に業者は約50社へ減り、残った各社は日清食品の製法で作ることになった。上場の年に売上高が3年で10倍へ伸びた背景には、この整理がある。

日清食品の資本金 1960年3月から1961年6月まで(万円)

2,000 60年3月 5,000 60年8月 10,000 60年11月 15,000 61年6月
  • 出所は証券 1963年15(11)(174)「新規上場会社紹介 日清食品株式会社」。

1948年〜中交総社からチキンラーメンまでの十年

1948年9月、安藤百福氏は魚介類の加工販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版及び販売を目的として株式会社中交総社を大阪府泉大津市汐見町に設立した。資本金は500万円で、翌1949年9月にはサンシー殖産株式会社へ商号を変更し、本店を大阪市北区へ移した。安藤氏は1910年3月5日、台湾南部で生まれた。22歳でメリヤス製品を日本内地へ移入する事業を興したのち、幻燈機の製造やバラック住宅の製造など複数の事業に携わっている。戦時中は飛行機部品の下請けを営んでいた際に憲兵隊へ連行され、出獄まで45日を要し、その後さらに60日間を大阪市北区の中央病院で過ごした。戦後は泉大津で製塩業やいわしの干物作りに着手したが、大阪府警の告発を受けGHQに逮捕され、出獄した時点では財産の大半を没収された後だった。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
    • [2]設立時の資本金 500万円
    • [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
    • [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
    • [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収

サンシー殖産の時代、安藤氏は大阪華銀という信用組合の理事長を引き受けていた。戦後の日本は食糧難のなかで政府が粉食を奨励し、学校給食にパンを取り入れていたが、安藤氏は日本人に合うのはパンよりめん類ではないかと考え、美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価の五つを大衆食品の条件に置いて製品を組み立てた。1年近い試行錯誤の末にたどり着いたのが油熱乾燥法で、1958年8月、その応用第1弾として即席袋めん"チキンラーメン"の製造販売を開始した。同年12月には本店を大阪市中央区へ移すとともに、商号を日清食品株式会社へ変更した。

  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
    • [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
    • [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
    • [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始
参考文献[1]-[13]
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
    • [2]設立時の資本金 500万円
    • [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
    • [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
    • [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
    • [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
    • [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収
    • [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
    • [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
    • [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始

1959年〜大商社を担保にした量産と全国流通の確保

チキンラーメンは1袋35円と、うどん1玉6円の6倍にあたる値で、当初は問屋が引き取らなかった。安藤氏は袋に販売を三菱商事が担う旨を刷り込んで問屋の信用を取りつけ、現金での決済を迫った。三菱商事大阪支店の穀肥部長だった佐南正司氏が社名を外すよう頼んだ直後、安藤氏は社名入りの袋を大量に印刷所へ発注しており、社長の高垣勝次郎氏から取引をやめると怒鳴られても袋は変わらなかった。原料代や設備費の支払いには手形を使ったため、手元には現金が積み上がった。1959年春、安藤氏はその現金を注ぎ込んで大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を一気に購入し、床面積6,600平方メートルの工場を建設して量産を開始した。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [14]チキンラーメン1袋35円に対し、問屋はうどん1玉6円と比べて6倍の値だと渋った
    • [15]包装に「発売元・三菱商事」の文字を印刷し、三菱商事との取引も現金とした
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
    • [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
    • [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
    • [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設

工場は1959年12月に完成し、日清食品は同時に本店を高槻へ移した。従業員は1961年に1,000人を超えた。販売では当初から三菱商事、伊藤忠商事、東食の三社を総発売元に据え、それぞれの傘下の流通機構へ製品を流すことで販売上のリスクを避けた。直売はほとんどなく、原材料の仕入も大部分をこの三社に頼った。資本金は1960年3月に2,000万円、同年8月に5,000万円、同年11月に1億円、1961年6月に1億5,000万円と、1年余りで30倍に増えた。1960年にはテレビCMの放映を始め、取引金融機関には三和銀行と三井銀行が並んだ。1962年6月にはウェーブ食品の営業権を譲り受け、その地に東京工場を置いて関東の生産拠点とした。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [21]1961年に従業員1,000人超
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
    • [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
    • [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
    • [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [25]1960年3月からテレビ番組の提供を始め、テレビ媒体へ本格的に進出

製品を少しでも多く回してもらおうと、出荷の作業に手を貸す問屋まで現れた。真冬の夜にはたき火を焚きながら"チキンラーメン"の積み込みを待つ問屋のトラックが、仕上がった端から運び出そうと高槻工場の前に二重三重に並んだ。日清食品の二つ目の製品は、1960年7月20日に売り出した"即席冷し千金蕎麦"である。そば粉を主な原料とし、抹茶と葉緑素を加えたもので、湯を注いだ後、そばとつゆを分けて氷で冷やしてから食べる。1961年6月20日発売の"チキンラーメンプラスカレー"では、高槻工場ができた記念に、空袋10枚で特賞100万円を狙える抽せんを行った。のちに各社が繰り返す消費者向けキャンペーンは、これが先がけとなった。同年9月には、製品の多様化によって企業体質を強化するねらいから高槻工場内に研究所を開設し、所長は安藤氏が兼任した。"千金蕎麦"は1年、"プラスカレー"は3年で生産を打ち切ったが、以後も焼そばや日本そばと、新しい即席めんのジャンルを先んじて開発していった。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [28]製品の割り当てを優先させようと出荷を手伝った問屋関係者
    • [29]高槻工場前に並んだ問屋のトラックの列と真冬の夜のたき火での待機
    • [30]1960年7月20日「即席冷し千金蕎麦」の発売(そば粉主原料・抹茶と葉緑素を配合・氷で冷やして食べる)
    • [31]1961年6月20日「チキンラーメンプラスカレー」の発売と空袋10枚・特賞100万円の抽せん(消費者向けキャンペーンのはしり)
    • [32]1961年9月 高槻工場内への研究所開設・所長は社長の安藤百福が兼任
    • [33]「千金蕎麦」1年・「チキンラーメンプラスカレー」3年での生産打ち切り
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [34]製法特許のチキンラーメン企業化以来、焼そば・日本そばなど新しい即席めんのジャンルを先んじて開発
参考文献[14]-[34]
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [14]チキンラーメン1袋35円に対し、問屋はうどん1玉6円と比べて6倍の値だと渋った
    • [15]包装に「発売元・三菱商事」の文字を印刷し、三菱商事との取引も現金とした
    • [25]1960年3月からテレビ番組の提供を始め、テレビ媒体へ本格的に進出
    • [28]製品の割り当てを優先させようと出荷を手伝った問屋関係者
    • [29]高槻工場前に並んだ問屋のトラックの列と真冬の夜のたき火での待機
    • [30]1960年7月20日「即席冷し千金蕎麦」の発売(そば粉主原料・抹茶と葉緑素を配合・氷で冷やして食べる)
    • [31]1961年6月20日「チキンラーメンプラスカレー」の発売と空袋10枚・特賞100万円の抽せん(消費者向けキャンペーンのはしり)
    • [32]1961年9月 高槻工場内への研究所開設・所長は社長の安藤百福が兼任
    • [33]「千金蕎麦」1年・「チキンラーメンプラスカレー」3年での生産打ち切り
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
    • [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
    • [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
    • [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設
    • [21]1961年に従業員1,000人超
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
    • [34]製法特許のチキンラーメン企業化以来、焼そば・日本そばなど新しい即席めんのジャンルを先んじて開発
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
    • [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
    • [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
    • [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化

1961年〜特許の行使と公開、そして二部上場

即席めんは装置が簡単で大量生産が利くため、新規参入が相次いだ。1961年には130社に達し、需給が崩れて乱売と粗悪品が出回った。日清食品は、〈チキンラーメン〉の名称が1960年9月に周知商標として公告決定されると、この名称を使っていた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁へ提訴した。製法特許を争ったエース食品に対しては、1962年5月に大阪地裁が工場へ立ち入って証拠保全の写真を撮った。当時の即席ラーメンのメーカー数はセミ・インスタントを含めて全国140社を超え、特許騒動は業者の去就を迷わせた。特許の先願をめぐっては、大和通商の陳栄泰氏が、自分が最初に開発し出願したのに日清食品の対応は横暴だとして仮処分を申請した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [35]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
    • [37]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [36]1961年のメーカー数 130社
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [38]1960年9月の周知商標の公告決定を受け、〈チキンラーメン〉の名称を使用していた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁に提訴
    • [39]1962年5月29日、大阪地裁がエース食品の工場に立ち入り証拠保全の写真を撮影
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
    • [40]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
    • [41]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請

日清食品は同業他社の要望を受けて特許を公開し、61社と使用許諾契約を締結した。安藤氏は1959年に日本即席ラーメン協会を設立し、1964年には社団法人日本即席ラーメン工業協会として品質向上と業界の共存共栄を図る組織に改めて、自ら理事長を務めた。300社を超えた業者の整理では、気心の合う者どうしを組ませてヘッドとなるメーカーを10社ほどに絞り、残りをその翼下へ入れる方法を取った。メーカー数は1962年末には約50社まで減り、特許で争っていた大和通商とも和解が成立した。安藤氏は後年、『私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです』と振り返っている。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [42]同業他社の要望を受けた特許の公開
    • [44]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
    • [43]特許使用許諾契約 61社
    • [47]安藤百福の発言「私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです」
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [45]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [46]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立

1963年10月21日、日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は1億5,000万円、上場株式数は300万株、従業員は930名で、大株主には安藤百福氏の158万600株に続いて安藤宏寿氏の42万株、三菱商事の12万4,000株が並んだ。1963年3月期の製品別売上比率はチキンラーメンとチキンラーメンプラスカレーで89%を占め、残る11%がチキンラーメンニュータッチだった。売上高は3年で10倍に伸び、2件の特許取得と三菱商事・伊藤忠商事・東食を販売代理店としたことがその背景にあった。上場時の役員は社長の安藤百福氏、専務の安藤宏寿氏、常務の砥上峰次氏と有元一馬氏らで、決算期は3月31日の年1回だった。上場と同じ1963年6月には"日清焼そば"の製造販売を始め、上場の翌年には資本金を2億2,500万円へ増資した。

  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [48]上場年月日 1963年10月21日
    • [50]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
    • [51]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
    • [52]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
    • [55]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
    • [56]決算期 3月31日の年1回
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [49]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
    • [53]3年で10倍の増収
    • [54]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [57]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
    • [58]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円
参考文献[35]-[58]
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [35]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
    • [37]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
    • [42]同業他社の要望を受けた特許の公開
    • [44]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [36]1961年のメーカー数 130社
    • [46]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立
    • [48]上場年月日 1963年10月21日
    • [50]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
    • [51]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
    • [52]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
    • [55]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
    • [56]決算期 3月31日の年1回
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [38]1960年9月の周知商標の公告決定を受け、〈チキンラーメン〉の名称を使用していた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁に提訴
    • [39]1962年5月29日、大阪地裁がエース食品の工場に立ち入り証拠保全の写真を撮影
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
    • [40]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
    • [41]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
    • [43]特許使用許諾契約 61社
    • [47]安藤百福の発言「私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです」
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [45]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [49]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
    • [53]3年で10倍の増収
    • [54]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [57]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
    • [58]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円

第2章 1964年〜 袋めんの頭打ちと、容器内調理という作り直し15円乱売からカップヌードル100円への価格帯転換

筆者考察y.sugiura, author

即席めんの値段は、作り手ではなく売り場が決めていた。1966年に15円ラーメンが出たとき、原料費と販売経費から引いた下限はちょうどその15円で、それ以上は下げようがない。安藤百福氏が理事長として公正競争規約をまとめ、公正取引委員会が差別価格を禁じたのは、価格の底が抜けるのを止めるためだった。しかし底を守っても天井は上がらない。袋めんの生産量が5年続けて1桁成長にとどまったのは、1食30円台の商品をどれだけ改良しても、家庭が買う量がそれ以上増えなかったからである。改良の余地と市場の余地は別のところにあった。

カップヌードルの1食100円は、その天井を外へ持ち出した価格だった。器と湯と箸を客の側に用意させる代わりに、日清食品は容器と具材と製法を製品の中へ入れ、袋めんの3倍の値を付けた。問屋が売れないと答えたのは棚を知る者として正しく、食品売り場では100円のめんは高すぎる。だから日清食品は売り場のほうを変えた。自衛隊の演習場、百貨店、銭湯、警察署、銀座の歩行者天国、そして自動販売機。そこで値段を比べられる相手は袋めんではなく、食堂の一杯か空腹そのものだった。カップライスが1か月で注文を失ったのは、比べる相手が家の台所にあったからである。

1964年〜15円ラーメンの乱売と、"出前一丁"への競争軸の移行

協会で価格の底を引き上げる

原料価格と販売経費から逆算すると、小売価格が最低15円を割れば品質を保てず採算も合わないというのが当時の見方だった。1960年代半ばの即席ラーメン業界は安売りの応酬とともに始まり、平均30円だった小売価格に対して1963年ごろから20円ラーメンが売られるようになり、1966年5月には15円ラーメンまで店頭に出た。試食セールや記念セールの名目による割引きは、大手各社のトップブランドにまで及んだ。これに対し、安藤百福氏が理事長を務める日本ラーメン工業協会は、景品類の提供を制限する公正競争規約案を1965年12月14日の臨時総会で可決した。規約は公正取引委員会の認可を受け、1966年4月1日に実施へ移された。それでも乱売は収まらず、公取委が乱売を不公正な取引と判定して差別価格の禁止を勧告したのは1967年6月16日である。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [59]品質保障と採算の下限としての小売価格15円
    • [60]昭和40年代の即席ラーメン業界の乱売合戦での幕開け
    • [61]1963年ごろからの平均小売価格30円を下回る20円ラーメンの出現
    • [62]1966年5月 15円ラーメンの登場
    • [63]大手各社のトップブランドの値崩れと試食セール・記念セールによる割引き
    • [64]1965年12月14日 日本ラーメン工業協会臨時総会での公正競争規約案の可決
    • [65]1966年4月1日 即席めん類製造業における景品類の提供の制限に関する公正競争規約の実施
    • [66]1967年6月16日 公正取引委員会による差別価格禁止の勧告
ごまラー油で他社製品と分ける

即席ラーメンに求められる品質は、生めんに近いタイプを軸とした上質なものへ移り始めていた。めんの質で先を行っていたのは競合で、明星食品の"明星チャルメラ"(1966年9月7日発売)はめんの出来で抜きん出ており、1967年10月16日にエースコックが投入した"駅前ラーメン"は大判100gの流れを切り開いていた。日清食品では、1964年8月の焼そば事件が心理面の傷として残り、同年10月に一部で売り出した"日清ランチ"も出足の勢いを保てず、1967年秋の時点で社内に強い危機意識が広がっていた。他社品との違いを別添の「ごまラー油」に置いた"出前一丁"は1968年に発売され、スープを別に添える型の代表的な製品となった。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [67]生めんタイプを中心とする高品質即席ラーメンへの嗜好の移動
    • [68]1966年9月7日 明星食品「明星チャルメラ」の発売とめん質の優位
    • [69]1967年10月16日 エースコック「駅前ラーメン」の発売と大判100g時代
    • [70]1964年8月の焼そば事件と1967年10月発売「日清ランチ」の伸び悩み
    • [71]1967年秋の日清食品社内の危機感
    • [72]「出前一丁」の最大の特徴かつ他社商品との差別点としてのごまラー油の添付
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [73]スープ別添の代表としての「出前一丁」
万国博の入場券で棚を押さえる

日清食品は"出前一丁"の拡販に全社を動員した。1968年7月には営業本部営業二課を主体に姫路と豊橋の小売店を巡回し、東京支店営業部は営業車11台を連ねて静岡県伊東市までパレードしている。同月22日には日本PTA全国協議会から推奨品の指定を受けた。1969年4月1日から翌年6月30日までの15か月間には、全めん製品の空袋5枚を1口として万国博覧会の入場券ペア1万組を進呈する販促を実施し、447日のロングランに332万1108通の応募が集まった。"出前一丁"は発売から1年を待たずに全即席ラーメン中の売り上げ第1位となり、1968年に3億1104万食を売った。売上高は1968年3月期の111億円から1970年3月期には213億円へ伸びている。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [74]1968年7月の姫路・豊橋での小売店巡回と営業車11台による伊東市までのパレード
    • [75]1968年7月22日「出前一丁」の日本PTA全国協議会推奨品指定
    • [76]1969年4月1日〜1970年6月30日の日清万国博プレゼントセール 447日間・応募332万1108通
    • [77]発売1年を待たずに全即席ラーメン中売り上げ第1位となった「出前一丁」
    • [78]1968年の「出前一丁」販売数 3億1104万食
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [79]売上高 1968年3月期111億円・1970年3月期213億円
参考文献[59]-[79]
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [59]品質保障と採算の下限としての小売価格15円
    • [60]昭和40年代の即席ラーメン業界の乱売合戦での幕開け
    • [61]1963年ごろからの平均小売価格30円を下回る20円ラーメンの出現
    • [62]1966年5月 15円ラーメンの登場
    • [63]大手各社のトップブランドの値崩れと試食セール・記念セールによる割引き
    • [64]1965年12月14日 日本ラーメン工業協会臨時総会での公正競争規約案の可決
    • [65]1966年4月1日 即席めん類製造業における景品類の提供の制限に関する公正競争規約の実施
    • [66]1967年6月16日 公正取引委員会による差別価格禁止の勧告
    • [67]生めんタイプを中心とする高品質即席ラーメンへの嗜好の移動
    • [68]1966年9月7日 明星食品「明星チャルメラ」の発売とめん質の優位
    • [69]1967年10月16日 エースコック「駅前ラーメン」の発売と大判100g時代
    • [70]1964年8月の焼そば事件と1967年10月発売「日清ランチ」の伸び悩み
    • [71]1967年秋の日清食品社内の危機感
    • [72]「出前一丁」の最大の特徴かつ他社商品との差別点としてのごまラー油の添付
    • [74]1968年7月の姫路・豊橋での小売店巡回と営業車11台による伊東市までのパレード
    • [75]1968年7月22日「出前一丁」の日本PTA全国協議会推奨品指定
    • [76]1969年4月1日〜1970年6月30日の日清万国博プレゼントセール 447日間・応募332万1108通
    • [77]発売1年を待たずに全即席ラーメン中売り上げ第1位となった「出前一丁」
    • [78]1968年の「出前一丁」販売数 3億1104万食
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [73]スープ別添の代表としての「出前一丁」
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [79]売上高 1968年3月期111億円・1970年3月期213億円

1971年〜容器内調理という"カップヌードル"の設計

どんぶりと箸を前提から外す

袋めん市場は1967年ごろから販売量の伸びが鈍りはじめた。業界の袋めん生産数量は1962年の年間10億食から1966年の30億食まで急伸したのち、1967年31億食、1968年33億食、1969年35億食、1970年36億食、1971年36億5000万食と、5年続けて1桁の成長にとどまった。即席めんを国際商品に育てる手がかりを求め、安藤百福氏は1966年6月にアメリカ、7月にヨーロッパで市場を調べた。伸び悩みは日清食品の製品にも表れており、"チキンラーメン"は1966年の1億1700万食から1971年には9078万食に減り、"出前一丁"も1968年の3億1104万食に対して1971年が3億3597万食と横ばいに近かった。旅の最大の収穫は、西洋の人々が食事にどんぶりと箸を使わないと知ったことで、箸で食べ鍋で煮る必要のある即席ラーメンは、その点で不便な食べ物だった。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [80]1958年のチキンラーメン発売から10年を経た袋めん市場の成熟化と1967年ごろからの販売量の伸びの鈍化
    • [81]袋めん生産数量の推移 1962年10億食→1966年30億食→1971年36億5000万食・5年連続1桁成長
    • [82]1966年6月のアメリカ視察・7月のヨーロッパ視察と国際商品化のための市場調査
    • [83]「チキンラーメン」1966年1億1700万食→1971年9078万食・「出前一丁」1968年3億1104万食→1971年3億3597万食
    • [84]視察で得た最大のヒント「西洋人はどんぶりと箸では食べない」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [85]箸と鍋を要する即席ラーメンの不便さ
めんを宙づりにして固定する

紙コップ型の容器に収めるには、口径の広いどんぶり向けだった従来の即席めんより直径を詰め、厚みはおよそ2倍にする必要があり、6cmの厚さのかたまりをむらなく揚げることが求められた。縦型容器に合うめんをどう作るかが、設計上の壁になったのである。突破口は"チキンラーメン"の油熱処理法にあった。味をつけためんをほぐしたまま穴あきの鉄型に詰め、ふたをして油に入れると、先に揚がった部分が上のめんを順に持ち上げ、上側は密に、下側は疎に仕上がった。容器の底から浮かせて中ほどでめんを留める方式は、運ぶ途中の崩れを防ぐこと、湯戻りをよくすること、上に具材を載せることを一度にかなえ、のちに実用新案権となった。4件の特許で完成した製品であり、生産設備に多額の資金を必要とするので、追随は簡単ではないと会社は見込んでいた。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [86]縦型容器に伴う厚さ6cmのめんの均一な油揚げという課題
    • [87]穴のあいた鉄型とふたによる油揚げ法と、上が密で下が疎になるめんの状態
    • [88]中間保持法(宙づり)の4つの効用と実用新案権の取得
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [89]4種の特許による完成と、生産設備の資金負担による後続参入の困難
食品問屋を通さずに売る

1971年3月から10億円を投じた専用工場を茨城県藤代町に建設し、同年10月16日に日産20万食で操業を始めた。1食100円という価格について、東京の有力問屋の首脳は売れないと答え、安藤氏は担当者に食品問屋以外のルートで売るよう指示した。最初の取引は朝霞の自衛隊が演習中の食糧として購入したもので、同年9月18日の本格発売は新宿の伊勢丹をはじめとする都内の百貨店から始まった。販売先は喫茶店や銭湯から警察署・消防署にまで及び、11月21日には銀座の歩行者天国でも売り出した。自動販売機は東京都内に2,000台を置く計画で、その貸し出しのために1972年10月、資本金1,000万円の日清リースを設立している。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [90]1971年3月からの10億円を投じた茨城県藤代町の専産工場建設と同年10月16日の操業開始・日産20万食
    • [97]東京都内に自動販売機2,000台を設置する販売計画
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [91]1食100円に対する東京の有力問屋首脳の否定的な反応
    • [92]食品問屋以外のルートで販売するようにという安藤百福の指示
    • [93]最初の取引 朝霞の自衛隊による演習中の食糧としての購入
    • [94]1971年9月18日 新宿伊勢丹など東京都内の百貨店での本格発売開始
    • [95]喫茶店・銭湯・警察署・消防署などへの販売開拓
    • [96]1971年11月21日 銀座歩行者天国での販売開始
    • [98]1972年10月 カップヌードル専用自動販売機の貸し出しのための日清リース設立・資本金1,000万円
参考文献[80]-[98]
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [80]1958年のチキンラーメン発売から10年を経た袋めん市場の成熟化と1967年ごろからの販売量の伸びの鈍化
    • [81]袋めん生産数量の推移 1962年10億食→1966年30億食→1971年36億5000万食・5年連続1桁成長
    • [82]1966年6月のアメリカ視察・7月のヨーロッパ視察と国際商品化のための市場調査
    • [83]「チキンラーメン」1966年1億1700万食→1971年9078万食・「出前一丁」1968年3億1104万食→1971年3億3597万食
    • [84]視察で得た最大のヒント「西洋人はどんぶりと箸では食べない」
    • [86]縦型容器に伴う厚さ6cmのめんの均一な油揚げという課題
    • [87]穴のあいた鉄型とふたによる油揚げ法と、上が密で下が疎になるめんの状態
    • [88]中間保持法(宙づり)の4つの効用と実用新案権の取得
    • [91]1食100円に対する東京の有力問屋首脳の否定的な反応
    • [92]食品問屋以外のルートで販売するようにという安藤百福の指示
    • [93]最初の取引 朝霞の自衛隊による演習中の食糧としての購入
    • [94]1971年9月18日 新宿伊勢丹など東京都内の百貨店での本格発売開始
    • [95]喫茶店・銭湯・警察署・消防署などへの販売開拓
    • [96]1971年11月21日 銀座歩行者天国での販売開始
    • [98]1972年10月 カップヌードル専用自動販売機の貸し出しのための日清リース設立・資本金1,000万円
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [85]箸と鍋を要する即席ラーメンの不便さ
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [89]4種の特許による完成と、生産設備の資金負担による後続参入の困難
    • [90]1971年3月からの10億円を投じた茨城県藤代町の専産工場建設と同年10月16日の操業開始・日産20万食
    • [97]東京都内に自動販売機2,000台を設置する販売計画

1974年〜原材料難と"カップライス"撤退を経た1,000億円

小麦の35%値上げを吸収する

関東工場を建てる資金を賄うため、日清食品は1971年12月に資本金を5億5,000万円から10億円へ増やし、その増資分をすべて同工場に振り向けた。1972年8月1日には東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部への昇格上場を果たし、東京証券取引所ではこの日969円で取引を終えた。原材料価格は、1972年7月に国際小麦価格が上がり始めたのを発端に高騰し、1973年12月1日には政府による小麦の国内売り渡し価格の35%引き上げ、1974年1月からは製粉各社による小麦粉の販売価格37%値上げへと波及した。1973年7月に業界が袋めんを5円上げ、1食40円に改めていた措置では、このコスト増を吸収できなかった。1974年度の実質経済成長率が戦後初のマイナスとなる中でも、売上高は1974年3月期の458億円から1975年3月期に641億円まで増えた。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [99]1971年12月1日 資本金5億5,000万円から10億円へ増資・増資金は全額関東工場の建設資金
    • [100]1972年8月1日 東京・大阪・名古屋各証券取引所第1部への昇格上場と当日終値969円
    • [101]1973年12月1日の小麦の政府売渡価格35%引き上げと1974年1月からの小麦粉販売価格37%値上げ
    • [102]1973年7月の袋めん5円値上げ(1食40円)と原材料高騰への対応の限界
    • [103]1974年度の実質経済成長率の戦後初のマイナス
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [104]売上高 1974年3月期458億円・1975年3月期641億円
ロサンゼルスで現地生産に移す

アメリカでの現地生産は、国内の頭打ちと同じ時期に始まった。米国日清フードは1970年に設立され、日清食品が55%、味の素が25%、三菱商事が20%を出資している。ロサンゼルス近郊ガーデナ市の工場は1972年4月に操業を始め、食品関係の現地生産としてはキッコーマンの醤油に先行した。原材料の小麦粉と植物油は日本での生産コストの60〜65%を占め、その多くを米国からの輸入に頼っていたため、現地で作る原価上の理があった。当初年間2,000万食だった生産は、1974年初めには2シフト制で3,500万食まで増えた。1973年10月からロサンゼルスの一般番組でテレビスポットを流すと、自社銘柄"トップラーメン"の認知度は15%から60%へ、購入頻度は4%から16%へ上がった。同じ月には"カップヌードル"の現地生産も始めている。

  • 日経ビジネス 1974年4月1日号
    • [105]米国日清フードの設立1970年・出資比率 日清食品55%/味の素25%/三菱商事20%
    • [106]1972年4月のガーデナ市工場の操業開始とキッコーマン醤油に先行した現地生産
    • [107]小麦粉・植物油が日本での生産コストの60〜65%を占め主に米国からの輸入に依存
    • [108]生産量 当初年間2,000万食→1974年初め2シフト制で3,500万食
    • [109]1973年10月のロサンゼルスでのテレビスポットと「トップラーメン」認知度15%→60%・購入頻度4%→16%
    • [110]1973年10月からのカップヌードルの現地生産開始
30億円を投じたコメから退く

滋賀工場に設けた専用の生産設備への投資額は30億円で、当時の資本金の約2倍にあたり、年間の利益とほぼ同じ規模だった。この設備で作る"カップライス"は7種類をそろえた大型新製品として1975年10月22日に売り出され、全国に出荷できる体制が整った同年11月からは50億円を出荷の目標に掲げた。発売1か月を境に注文はにわかに止まり、件数は前月の10分の1を下回った。安藤氏がスーパーを訪ねて主婦に聞くと、ご飯なら家で炊けても、ラーメンは家庭では作れないという答えが返ってきたといい、店によっては"カップライス"1個と同じ値段で即席めんが6食手に入った。コメを使った製品では、1967年に出した"日清ランチ"で5億円の損失を抱えて撤退した前例があり、日清食品は今回も販売を打ち切った。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [111]滋賀工場の専用設備への30億円投資(当時の資本金の約2倍・ほぼ年間利益に匹敵)
    • [112]1975年10月22日「カップライス」7種類の発売
    • [113]1975年11月からの出荷目標50億円
    • [114]発売1か月後の注文途絶と前月比10分の1未満への落ち込み
    • [115]スーパーで聞き取った主婦の回答(ご飯は家で炊けるがラーメンはつくれない)
    • [116]カップライス1個の値段で即席めんが6食買える小売店の存在
    • [118]「カップライス」の販売中止
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [117]1967年発売の「日清ランチ」での5億円の損失と撤退
商品ごとに専任チームを置く

1976年4月1日、日清食品はマーケティング部を新設し、初代部長に取締役開発部長だった安藤宏基氏を充てた。部が置かれるまで、研究・生産・販売・宣伝の担当者はそれぞれ別の指揮系統のもとで動いていた。新しい部は新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライスの4つの開発部門と宣伝課から成り、製品ごとの専任チームが企画から宣伝までを一人の指揮で進めるプロダクトマネージャー制がとられ、1976年にはこの仕組みから、容器の形を切り口に市場を広げた「日清焼そばUFO」と「日清のどん兵衛」が生まれた。即席めんメーカーで売上高が1,000億円を超えたのは日清食品が最初で、1980年3月期の計上額は1,038億5,600万円だった。同年12月16日には欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場も果たしたが、この改組が後に残したのは容器の変化以上に、誰が何を決めるかという仕組みの変化だった。

  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [119]1976年4月1日 マーケティング部の新設と初代部長 安藤宏基(前 取締役開発部長)
    • [120]研究・生産・販売・宣伝の担当者をプロダクトマネージャーの指揮下に置く運用
    • [121]マーケティング部の4開発部門(新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライス)と宣伝課・プロダクトマネージャー制
    • [122]1976年の「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」と容器の形状を切り口とした展開
    • [123]1980年3月期 売上高1,038億5,600万円・即席めんメーカー初の1,000億円企業
    • [124]1980年12月16日 欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場
参考文献[99]-[124]
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
    • [99]1971年12月1日 資本金5億5,000万円から10億円へ増資・増資金は全額関東工場の建設資金
    • [100]1972年8月1日 東京・大阪・名古屋各証券取引所第1部への昇格上場と当日終値969円
    • [101]1973年12月1日の小麦の政府売渡価格35%引き上げと1974年1月からの小麦粉販売価格37%値上げ
    • [102]1973年7月の袋めん5円値上げ(1食40円)と原材料高騰への対応の限界
    • [103]1974年度の実質経済成長率の戦後初のマイナス
    • [111]滋賀工場の専用設備への30億円投資(当時の資本金の約2倍・ほぼ年間利益に匹敵)
    • [112]1975年10月22日「カップライス」7種類の発売
    • [113]1975年11月からの出荷目標50億円
    • [114]発売1か月後の注文途絶と前月比10分の1未満への落ち込み
    • [115]スーパーで聞き取った主婦の回答(ご飯は家で炊けるがラーメンはつくれない)
    • [116]カップライス1個の値段で即席めんが6食買える小売店の存在
    • [118]「カップライス」の販売中止
    • [119]1976年4月1日 マーケティング部の新設と初代部長 安藤宏基(前 取締役開発部長)
    • [120]研究・生産・販売・宣伝の担当者をプロダクトマネージャーの指揮下に置く運用
    • [121]マーケティング部の4開発部門(新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライス)と宣伝課・プロダクトマネージャー制
    • [122]1976年の「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」と容器の形状を切り口とした展開
    • [123]1980年3月期 売上高1,038億5,600万円・即席めんメーカー初の1,000億円企業
    • [124]1980年12月16日 欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [104]売上高 1974年3月期458億円・1975年3月期641億円
  • 日経ビジネス 1974年4月1日号
    • [105]米国日清フードの設立1970年・出資比率 日清食品55%/味の素25%/三菱商事20%
    • [106]1972年4月のガーデナ市工場の操業開始とキッコーマン醤油に先行した現地生産
    • [107]小麦粉・植物油が日本での生産コストの60〜65%を占め主に米国からの輸入に依存
    • [108]生産量 当初年間2,000万食→1974年初め2シフト制で3,500万食
    • [109]1973年10月のロサンゼルスでのテレビスポットと「トップラーメン」認知度15%→60%・購入頻度4%→16%
    • [110]1973年10月からのカップヌードルの現地生産開始
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [117]1967年発売の「日清ランチ」での5億円の損失と撤退

第3章 1981-2008 (気が向いたら執筆します!) 承継のやり直しと、社内競争でしのいだ成熟期

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) 三代目の登用と、値上げによる収益の作り直し

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歴史年表 1948〜2017年

日清食品ホールディングスの沿革1948〜2017年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1963年発明と、特許で業界そのものをつくった創業期中交総社を設立★
サンシー殖産に商号変更、本店を移転★
瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(「チキンラーメン」)を開発★★
本店を移転、日清食品に商号変更★
工場が竣工、同時に本社を移転★
製法特許を武器とした、即席麺市場の主導権の掌握

1958年に麺を油で揚げて乾かす製法で"チキンラーメン"を発明した日清食品の安藤百福社長が、1962年に製造法の特許を取得すると、これを盾に約110社の同業をけん制し、模倣業者への提訴・証拠保全申請に踏み切って、即席麺という新市場の主導権を握ろうとした判断。

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★★★
エース食品に証拠保全を申請★★
東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部に株式上場★
1964〜1980年袋めんの頭打ちと、容器内調理という作り直し即席めんの生産工場として横浜工場が竣工★
カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ(U.S.A.)Co.,Inc.を設立。(注1)★★
発売を機に始まった、即席麺という商品そのものの再発明

1971年9月、日清食品(安藤百福社長)は、麺・具・スープを容器に封じた即席麺"カップヌードル"を1個100円で発売した。袋めんの標準価格が30円だった時代に高価格を貫き、問屋が扱わないなかテレビCMと銀座歩行者天国での直接販売に踏み切った経営判断である。容器が食器と調理器を兼ねる調理型により、日清食品は袋めんとは別の即席麺を作り直した。

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★★★
カップめんの生産工場として関東工場が竣工★
米ダートインダストリーズとの合弁で日清ダートを設立★
食品総合研究所を新設★
年間売上高1,000億円達成。(注3)★
1981〜2008年承継のやり直しと、社内競争でしのいだ成熟期香港タイポー地区に日清食品有限公司を設立。(注1)★
安藤宏基東京本社ビルが竣工、東京支社を東京本社に商号変更★
安藤宏基中央研究所(食品総合研究所・食品安全研究所)完成★
安藤宏基ベアトリースフーズCo.,(HK)Ltd.に資本参加。(注1)★
安藤宏基ヨーク本社に資本参加。(注1)★
安藤宏基ピギー食品に資本参加。(注1)★
安藤宏基シスコに資本参加。(注1)★
安藤宏基中国内の第一号の生産基地として、珠海市金海岸永南食品有限公司が操業開始。(注1)★★
安藤宏基「インスタントラーメン発明記念館」を開設★
安藤宏基上海市閔行区に日清(上海)食品安全研究開発有限公司を設立★
安藤宏基スティール・パートナーズの敵対的TOBに対する、ホワイトナイトとしての介入

2006年10月末、米投資ファンドのスティール・パートナーズが即席麺2位級の明星食品に敵対的TOBを仕掛けた。明星の要請を受けた日清食品は、安藤宏基社長のもとでホワイトナイト(白馬の騎士)として参戦し、11月15日の取締役会で公開買付けと資本業務提携を決議して同日覚書に調印。12月22日を企業結合日として明星食品を子会社化し、翌2007年3月31日の株式交換で完全子会社とした経営判断である。

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★★★
安藤宏基持株会社制に移行★★
安藤宏基日清食品HDに商号変更★
2009〜2026年三代目の登用と、値上げによる収益の作り直し安藤宏基持株会社アングルサイド Ltd.に資本参加★
安藤宏基横浜みなとみらいに「カップヌードルミュージアム 横浜」を開設★
安藤宏基ぼんちに資本参加。(注1)★
安藤宏基新研究所「the WAVE」竣工★
安藤宏基Premier Foods plcとRelationship Agreementを締結★
安藤宏基日清食品有限公司が香港証券取引所メインボード市場に株式を上場★
出典・参考 13件
出典・参考
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
  • 日経ビジネス 1974年4月1日号
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
  • 証券 1963年15(11)(174)

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