日清食品の創業期を貫いていたのは、めんの製法そのものよりも、誰に作らせ誰に売らせるかという判断だった。安藤百福氏は1958年に油熱乾燥法でチキンラーメンを作り、うどん1玉6円の時代に35円という高い値を付けた。高いものを扱わせるには信用が要る。袋に発売元として三菱商事の名を刷り込んで問屋から現金を取り、その現金で高槻の土地と工場を取得した。原料代と設備費は手形で払ったから、手元には常に現金が残る。売れることが確かめられる前に量産の構えを作っておく順序が、模倣が追いつくまでの時間を買っていた。
1961年に130社まで増えた同業は、日清食品にとって脅威であると同時に市場そのものでもあった。安藤氏は名称を使う同業13社へ警告書を送って提訴し、製法を争う業者の工場には証拠保全が入った。その直後に特許を公開して61社と使用許諾を結んだのは譲歩ではない。誰に作らせるかを選べる立場と、業界団体の理事長という席を、同じ手で取りにいったのである。1962年末に業者は約50社へ減り、残った各社は日清食品の製法で作ることになった。上場の年に売上高が3年で10倍へ伸びた背景には、この整理がある。
1948年9月、安藤百福氏は魚介類の加工販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版及び販売を目的として株式会社中交総社を大阪府泉大津市汐見町に設立した。資本金は500万円で、翌1949年9月にはサンシー殖産株式会社へ商号を変更し、本店を大阪市北区へ移した。安藤氏は1910年3月5日、台湾南部で生まれた。22歳でメリヤス製品を日本内地へ移入する事業を興したのち、幻燈機の製造やバラック住宅の製造など複数の事業に携わっている。戦時中は飛行機部品の下請けを営んでいた際に憲兵隊へ連行され、出獄まで45日を要し、その後さらに60日間を大阪市北区の中央病院で過ごした。戦後は泉大津で製塩業やいわしの干物作りに着手したが、大阪府警の告発を受けGHQに逮捕され、出獄した時点では財産の大半を没収された後だった。
サンシー殖産の時代、安藤氏は大阪華銀という信用組合の理事長を引き受けていた。戦後の日本は食糧難のなかで政府が粉食を奨励し、学校給食にパンを取り入れていたが、安藤氏は日本人に合うのはパンよりめん類ではないかと考え、美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価の五つを大衆食品の条件に置いて製品を組み立てた。1年近い試行錯誤の末にたどり着いたのが油熱乾燥法で、1958年8月、その応用第1弾として即席袋めん"チキンラーメン"の製造販売を開始した。同年12月には本店を大阪市中央区へ移すとともに、商号を日清食品株式会社へ変更した。
チキンラーメンは1袋35円と、うどん1玉6円の6倍にあたる値で、当初は問屋が引き取らなかった。安藤氏は袋に販売を三菱商事が担う旨を刷り込んで問屋の信用を取りつけ、現金での決済を迫った。三菱商事大阪支店の穀肥部長だった佐南正司氏が社名を外すよう頼んだ直後、安藤氏は社名入りの袋を大量に印刷所へ発注しており、社長の高垣勝次郎氏から取引をやめると怒鳴られても袋は変わらなかった。原料代や設備費の支払いには手形を使ったため、手元には現金が積み上がった。1959年春、安藤氏はその現金を注ぎ込んで大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を一気に購入し、床面積6,600平方メートルの工場を建設して量産を開始した。
工場は1959年12月に完成し、日清食品は同時に本店を高槻へ移した。従業員は1961年に1,000人を超えた。販売では当初から三菱商事、伊藤忠商事、東食の三社を総発売元に据え、それぞれの傘下の流通機構へ製品を流すことで販売上のリスクを避けた。直売はほとんどなく、原材料の仕入も大部分をこの三社に頼った。資本金は1960年3月に2,000万円、同年8月に5,000万円、同年11月に1億円、1961年6月に1億5,000万円と、1年余りで30倍に増えた。1960年にはテレビCMの放映を始め、取引金融機関には三和銀行と三井銀行が並んだ。1962年6月にはウェーブ食品の営業権を譲り受け、その地に東京工場を置いて関東の生産拠点とした。
製品を少しでも多く回してもらおうと、出荷の作業に手を貸す問屋まで現れた。真冬の夜にはたき火を焚きながら"チキンラーメン"の積み込みを待つ問屋のトラックが、仕上がった端から運び出そうと高槻工場の前に二重三重に並んだ。日清食品の二つ目の製品は、1960年7月20日に売り出した"即席冷し千金蕎麦"である。そば粉を主な原料とし、抹茶と葉緑素を加えたもので、湯を注いだ後、そばとつゆを分けて氷で冷やしてから食べる。1961年6月20日発売の"チキンラーメンプラスカレー"では、高槻工場ができた記念に、空袋10枚で特賞100万円を狙える抽せんを行った。のちに各社が繰り返す消費者向けキャンペーンは、これが先がけとなった。同年9月には、製品の多様化によって企業体質を強化するねらいから高槻工場内に研究所を開設し、所長は安藤氏が兼任した。"千金蕎麦"は1年、"プラスカレー"は3年で生産を打ち切ったが、以後も焼そばや日本そばと、新しい即席めんのジャンルを先んじて開発していった。
即席めんは装置が簡単で大量生産が利くため、新規参入が相次いだ。1961年には130社に達し、需給が崩れて乱売と粗悪品が出回った。日清食品は、〈チキンラーメン〉の名称が1960年9月に周知商標として公告決定されると、この名称を使っていた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁へ提訴した。製法特許を争ったエース食品に対しては、1962年5月に大阪地裁が工場へ立ち入って証拠保全の写真を撮った。当時の即席ラーメンのメーカー数はセミ・インスタントを含めて全国140社を超え、特許騒動は業者の去就を迷わせた。特許の先願をめぐっては、大和通商の陳栄泰氏が、自分が最初に開発し出願したのに日清食品の対応は横暴だとして仮処分を申請した。
日清食品は同業他社の要望を受けて特許を公開し、61社と使用許諾契約を締結した。安藤氏は1959年に日本即席ラーメン協会を設立し、1964年には社団法人日本即席ラーメン工業協会として品質向上と業界の共存共栄を図る組織に改めて、自ら理事長を務めた。300社を超えた業者の整理では、気心の合う者どうしを組ませてヘッドとなるメーカーを10社ほどに絞り、残りをその翼下へ入れる方法を取った。メーカー数は1962年末には約50社まで減り、特許で争っていた大和通商とも和解が成立した。安藤氏は後年、『私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです』と振り返っている。
1963年10月21日、日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は1億5,000万円、上場株式数は300万株、従業員は930名で、大株主には安藤百福氏の158万600株に続いて安藤宏寿氏の42万株、三菱商事の12万4,000株が並んだ。1963年3月期の製品別売上比率はチキンラーメンとチキンラーメンプラスカレーで89%を占め、残る11%がチキンラーメンニュータッチだった。売上高は3年で10倍に伸び、2件の特許取得と三菱商事・伊藤忠商事・東食を販売代理店としたことがその背景にあった。上場時の役員は社長の安藤百福氏、専務の安藤宏寿氏、常務の砥上峰次氏と有元一馬氏らで、決算期は3月31日の年1回だった。上場と同じ1963年6月には"日清焼そば"の製造販売を始め、上場の翌年には資本金を2億2,500万円へ増資した。
即席めんの値段は、作り手ではなく売り場が決めていた。1966年に15円ラーメンが出たとき、原料費と販売経費から引いた下限はちょうどその15円で、それ以上は下げようがない。安藤百福氏が理事長として公正競争規約をまとめ、公正取引委員会が差別価格を禁じたのは、価格の底が抜けるのを止めるためだった。しかし底を守っても天井は上がらない。袋めんの生産量が5年続けて1桁成長にとどまったのは、1食30円台の商品をどれだけ改良しても、家庭が買う量がそれ以上増えなかったからである。改良の余地と市場の余地は別のところにあった。
カップヌードルの1食100円は、その天井を外へ持ち出した価格だった。器と湯と箸を客の側に用意させる代わりに、日清食品は容器と具材と製法を製品の中へ入れ、袋めんの3倍の値を付けた。問屋が売れないと答えたのは棚を知る者として正しく、食品売り場では100円のめんは高すぎる。だから日清食品は売り場のほうを変えた。自衛隊の演習場、百貨店、銭湯、警察署、銀座の歩行者天国、そして自動販売機。そこで値段を比べられる相手は袋めんではなく、食堂の一杯か空腹そのものだった。カップライスが1か月で注文を失ったのは、比べる相手が家の台所にあったからである。
原料価格と販売経費から逆算すると、小売価格が最低15円を割れば品質を保てず採算も合わないというのが当時の見方だった。1960年代半ばの即席ラーメン業界は安売りの応酬とともに始まり、平均30円だった小売価格に対して1963年ごろから20円ラーメンが売られるようになり、1966年5月には15円ラーメンまで店頭に出た。試食セールや記念セールの名目による割引きは、大手各社のトップブランドにまで及んだ。これに対し、安藤百福氏が理事長を務める日本ラーメン工業協会は、景品類の提供を制限する公正競争規約案を1965年12月14日の臨時総会で可決した。規約は公正取引委員会の認可を受け、1966年4月1日に実施へ移された。それでも乱売は収まらず、公取委が乱売を不公正な取引と判定して差別価格の禁止を勧告したのは1967年6月16日である。
即席ラーメンに求められる品質は、生めんに近いタイプを軸とした上質なものへ移り始めていた。めんの質で先を行っていたのは競合で、明星食品の"明星チャルメラ"(1966年9月7日発売)はめんの出来で抜きん出ており、1967年10月16日にエースコックが投入した"駅前ラーメン"は大判100gの流れを切り開いていた。日清食品では、1964年8月の焼そば事件が心理面の傷として残り、同年10月に一部で売り出した"日清ランチ"も出足の勢いを保てず、1967年秋の時点で社内に強い危機意識が広がっていた。他社品との違いを別添の「ごまラー油」に置いた"出前一丁"は1968年に発売され、スープを別に添える型の代表的な製品となった。
日清食品は"出前一丁"の拡販に全社を動員した。1968年7月には営業本部営業二課を主体に姫路と豊橋の小売店を巡回し、東京支店営業部は営業車11台を連ねて静岡県伊東市までパレードしている。同月22日には日本PTA全国協議会から推奨品の指定を受けた。1969年4月1日から翌年6月30日までの15か月間には、全めん製品の空袋5枚を1口として万国博覧会の入場券ペア1万組を進呈する販促を実施し、447日のロングランに332万1108通の応募が集まった。"出前一丁"は発売から1年を待たずに全即席ラーメン中の売り上げ第1位となり、1968年に3億1104万食を売った。売上高は1968年3月期の111億円から1970年3月期には213億円へ伸びている。
袋めん市場は1967年ごろから販売量の伸びが鈍りはじめた。業界の袋めん生産数量は1962年の年間10億食から1966年の30億食まで急伸したのち、1967年31億食、1968年33億食、1969年35億食、1970年36億食、1971年36億5000万食と、5年続けて1桁の成長にとどまった。即席めんを国際商品に育てる手がかりを求め、安藤百福氏は1966年6月にアメリカ、7月にヨーロッパで市場を調べた。伸び悩みは日清食品の製品にも表れており、"チキンラーメン"は1966年の1億1700万食から1971年には9078万食に減り、"出前一丁"も1968年の3億1104万食に対して1971年が3億3597万食と横ばいに近かった。旅の最大の収穫は、西洋の人々が食事にどんぶりと箸を使わないと知ったことで、箸で食べ鍋で煮る必要のある即席ラーメンは、その点で不便な食べ物だった。
紙コップ型の容器に収めるには、口径の広いどんぶり向けだった従来の即席めんより直径を詰め、厚みはおよそ2倍にする必要があり、6cmの厚さのかたまりをむらなく揚げることが求められた。縦型容器に合うめんをどう作るかが、設計上の壁になったのである。突破口は"チキンラーメン"の油熱処理法にあった。味をつけためんをほぐしたまま穴あきの鉄型に詰め、ふたをして油に入れると、先に揚がった部分が上のめんを順に持ち上げ、上側は密に、下側は疎に仕上がった。容器の底から浮かせて中ほどでめんを留める方式は、運ぶ途中の崩れを防ぐこと、湯戻りをよくすること、上に具材を載せることを一度にかなえ、のちに実用新案権となった。4件の特許で完成した製品であり、生産設備に多額の資金を必要とするので、追随は簡単ではないと会社は見込んでいた。
1971年3月から10億円を投じた専用工場を茨城県藤代町に建設し、同年10月16日に日産20万食で操業を始めた。1食100円という価格について、東京の有力問屋の首脳は売れないと答え、安藤氏は担当者に食品問屋以外のルートで売るよう指示した。最初の取引は朝霞の自衛隊が演習中の食糧として購入したもので、同年9月18日の本格発売は新宿の伊勢丹をはじめとする都内の百貨店から始まった。販売先は喫茶店や銭湯から警察署・消防署にまで及び、11月21日には銀座の歩行者天国でも売り出した。自動販売機は東京都内に2,000台を置く計画で、その貸し出しのために1972年10月、資本金1,000万円の日清リースを設立している。
関東工場を建てる資金を賄うため、日清食品は1971年12月に資本金を5億5,000万円から10億円へ増やし、その増資分をすべて同工場に振り向けた。1972年8月1日には東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部への昇格上場を果たし、東京証券取引所ではこの日969円で取引を終えた。原材料価格は、1972年7月に国際小麦価格が上がり始めたのを発端に高騰し、1973年12月1日には政府による小麦の国内売り渡し価格の35%引き上げ、1974年1月からは製粉各社による小麦粉の販売価格37%値上げへと波及した。1973年7月に業界が袋めんを5円上げ、1食40円に改めていた措置では、このコスト増を吸収できなかった。1974年度の実質経済成長率が戦後初のマイナスとなる中でも、売上高は1974年3月期の458億円から1975年3月期に641億円まで増えた。
アメリカでの現地生産は、国内の頭打ちと同じ時期に始まった。米国日清フードは1970年に設立され、日清食品が55%、味の素が25%、三菱商事が20%を出資している。ロサンゼルス近郊ガーデナ市の工場は1972年4月に操業を始め、食品関係の現地生産としてはキッコーマンの醤油に先行した。原材料の小麦粉と植物油は日本での生産コストの60〜65%を占め、その多くを米国からの輸入に頼っていたため、現地で作る原価上の理があった。当初年間2,000万食だった生産は、1974年初めには2シフト制で3,500万食まで増えた。1973年10月からロサンゼルスの一般番組でテレビスポットを流すと、自社銘柄"トップラーメン"の認知度は15%から60%へ、購入頻度は4%から16%へ上がった。同じ月には"カップヌードル"の現地生産も始めている。
滋賀工場に設けた専用の生産設備への投資額は30億円で、当時の資本金の約2倍にあたり、年間の利益とほぼ同じ規模だった。この設備で作る"カップライス"は7種類をそろえた大型新製品として1975年10月22日に売り出され、全国に出荷できる体制が整った同年11月からは50億円を出荷の目標に掲げた。発売1か月を境に注文はにわかに止まり、件数は前月の10分の1を下回った。安藤氏がスーパーを訪ねて主婦に聞くと、ご飯なら家で炊けても、ラーメンは家庭では作れないという答えが返ってきたといい、店によっては"カップライス"1個と同じ値段で即席めんが6食手に入った。コメを使った製品では、1967年に出した"日清ランチ"で5億円の損失を抱えて撤退した前例があり、日清食品は今回も販売を打ち切った。
1976年4月1日、日清食品はマーケティング部を新設し、初代部長に取締役開発部長だった安藤宏基氏を充てた。部が置かれるまで、研究・生産・販売・宣伝の担当者はそれぞれ別の指揮系統のもとで動いていた。新しい部は新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライスの4つの開発部門と宣伝課から成り、製品ごとの専任チームが企画から宣伝までを一人の指揮で進めるプロダクトマネージャー制がとられ、1976年にはこの仕組みから、容器の形を切り口に市場を広げた「日清焼そばUFO」と「日清のどん兵衛」が生まれた。即席めんメーカーで売上高が1,000億円を超えたのは日清食品が最初で、1980年3月期の計上額は1,038億5,600万円だった。同年12月16日には欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場も果たしたが、この改組が後に残したのは容器の変化以上に、誰が何を決めるかという仕組みの変化だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1948〜1963年発明と、特許で業界そのものをつくった創業期 | 中交総社を設立 | ★ | ||
| サンシー殖産に商号変更、本店を移転 | ★ | |||
| 瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(「チキンラーメン」)を開発 | ★★ | |||
| 本店を移転、日清食品に商号変更 | ★ | |||
| 工場が竣工、同時に本社を移転 | ★ | |||
| 製法特許を武器とした、即席麺市場の主導権の掌握 1958年に麺を油で揚げて乾かす製法で"チキンラーメン"を発明した日清食品の安藤百福社長が、1962年に製造法の特許を取得すると、これを盾に約110社の同業をけん制し、模倣業者への提訴・証拠保全申請に踏み切って、即席麺という新市場の主導権を握ろうとした判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| エース食品に証拠保全を申請 | ★★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | |||
| 1964〜1980年袋めんの頭打ちと、容器内調理という作り直し | 即席めんの生産工場として横浜工場が竣工 | ★ | ||
| カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ(U.S.A.)Co.,Inc.を設立。(注1) | ★★ | |||
| 発売を機に始まった、即席麺という商品そのものの再発明 1971年9月、日清食品(安藤百福社長)は、麺・具・スープを容器に封じた即席麺"カップヌードル"を1個100円で発売した。袋めんの標準価格が30円だった時代に高価格を貫き、問屋が扱わないなかテレビCMと銀座歩行者天国での直接販売に踏み切った経営判断である。容器が食器と調理器を兼ねる調理型により、日清食品は袋めんとは別の即席麺を作り直した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| カップめんの生産工場として関東工場が竣工 | ★ | |||
| 米ダートインダストリーズとの合弁で日清ダートを設立 | ★ | |||
| 食品総合研究所を新設 | ★ | |||
| 年間売上高1,000億円達成。(注3) | ★ | |||
| 1981〜2008年承継のやり直しと、社内競争でしのいだ成熟期 | 香港タイポー地区に日清食品有限公司を設立。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | 東京本社ビルが竣工、東京支社を東京本社に商号変更 | ★ | ||
| 安藤宏基 | 中央研究所(食品総合研究所・食品安全研究所)完成 | ★ | ||
| 安藤宏基 | ベアトリースフーズCo.,(HK)Ltd.に資本参加。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | ヨーク本社に資本参加。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | ピギー食品に資本参加。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | シスコに資本参加。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | 中国内の第一号の生産基地として、珠海市金海岸永南食品有限公司が操業開始。(注1) | ★★ | ||
| 安藤宏基 | 「インスタントラーメン発明記念館」を開設 | ★ | ||
| 安藤宏基 | 上海市閔行区に日清(上海)食品安全研究開発有限公司を設立 | ★ | ||
| 安藤宏基 | スティール・パートナーズの敵対的TOBに対する、ホワイトナイトとしての介入 2006年10月末、米投資ファンドのスティール・パートナーズが即席麺2位級の明星食品に敵対的TOBを仕掛けた。明星の要請を受けた日清食品は、安藤宏基社長のもとでホワイトナイト(白馬の騎士)として参戦し、11月15日の取締役会で公開買付けと資本業務提携を決議して同日覚書に調印。12月22日を企業結合日として明星食品を子会社化し、翌2007年3月31日の株式交換で完全子会社とした経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 安藤宏基 | 持株会社制に移行 | ★★ | ||
| 安藤宏基 | 日清食品HDに商号変更 | ★ | ||
| 2009〜2026年三代目の登用と、値上げによる収益の作り直し | 安藤宏基 | 持株会社アングルサイド Ltd.に資本参加 | ★ | |
| 安藤宏基 | 横浜みなとみらいに「カップヌードルミュージアム 横浜」を開設 | ★ | ||
| 安藤宏基 | ぼんちに資本参加。(注1) | ★ | ||
| 安藤宏基 | 新研究所「the WAVE」竣工 | ★ | ||
| 安藤宏基 | Premier Foods plcとRelationship Agreementを締結 | ★ | ||
| 安藤宏基 | 日清食品有限公司が香港証券取引所メインボード市場に株式を上場 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日清食品ホールディングス)