The社史 — 上場企業の歴史を振り返る
日本の上場企業を中心とした253社の企業史をまとめた個人サイト。創業から現在に至る意思決定の軌跡を、財務データや業績推移とともに記録しています。
- ニッスイ — 1911年設立。久原財閥出身の田村市郎が下関で「田村汽船漁業部(日本水産)」を創業。英国製トロール船で遠洋漁業という市場を創出し、戦後は北洋漁業と南氷洋捕鯨で漁獲量首位を築いた。1943年の戦時統制で創業家経営は断絶し、戦後の財閥解体で所有と経営は分離したが、漁船集中投資による拡大という経営の型は引き継がれた。1977年の200カイリ規制で主力漁場の半分を失っても、労使関係を優先して漁労投資に固執したため、食品事業への構造転換は脱漁労を急いだ同業のニチロや極洋から半世紀分遅れた。2001年に米ゴートンズ(1.75億米ドル=当時約210億円)を買収して食品事業のグローバル展開を本格化、2022年には社名を「ニッスイ」に変更し、115年続いた水産会社からの脱皮を目指している。
- INPEX — 2006年に経営統合で発足。帝国石油(1941年設立)と国際石油開発(1966年設立)の2社統合で、国際石油開発帝石ホールディングス(INPEX)として発足した。経済産業大臣が約2割の株式と拒否権付黄金株を保有する半官半民の国内最大手E&P企業であり、実質的に経産省が経営権を保持。1998年に国際石油開発が単独取得した豪州WA-285-P鉱区(イクシスガス田)について、2012年に340億米ドルの投資を決断。2018年に操業開始し、政府系企業として日本へのエネルギー供給の一端を担う。
- コムシスホールディングス — 1951年創業。電気通信工事業界の有力者21名が出資し東京にて日本通信建設を設立。翌1952年に電電公社(現NTT)の指定工事会社認定を受け、公社の設備投資計画に連動して受注を伸ばした。このため、1985年のNTT民営化後も売上の過半をNTTに依存する構造は変わらず、発注者1社依存が経営課題だった。そこで、2003年に同業2社と統合してコムシスHDを設立。2018年にNDS・SYSKEN・北陸電話工事の上場3社一括統合で全国施工体制を完成させた。2025年3月期のNTT関連比率は44%まで低下し、社会インフラ施工企業への転身に踏み出した。
- 大成建設 — 1873年創業。大倉喜八郎が大倉組商会を興し、建設請負を柱に据えた。1887年に渋沢栄一らと日本初の法人建設会社「有限責任日本土木会社」を設立し、1927年には日本初の地下鉄工事を完工。戦後の高度経済成長期を通じて、鹿島・清水・大林・竹中と並ぶスーパーゼネコン5社の一角を築いた。しかし、バブル崩壊後は国内における受注難に直面し、2009年のリーマンショックで上場来初の連結営業赤字に転落。国内では同業他社(ピーエス三菱・東洋建設)の買収でバリューチェンの拡大で収益性の改善を目指す。
- 大林組 — 1892年創業。乾物問屋出身の大林芳五郎が大阪で土木建築請負業を興した。1914年に東京駅丸の内本屋と生駒トンネルを同年完工し、1936〜40年には施工高で業界1位となった。戦後は沖縄米軍基地でアメリカ式機械化工法を習得し、1964年にバンコクへ業界初の海外常駐事務所を構えた。2018年就任の蓮輪賢治社長は脱請負型ゼネコン化を掲げ、北米でウェブコー・MWH・GCONなど4件のM&Aを重ねた。2024年にはデータセンターへ10年1,000億円を投じるMiTASUNを設立し、請負業から複合事業体への転身に踏み出した。
- 清水建設 — 1804年創業。越中富山出身の大工・清水喜助が江戸神田鍛冶町で開業した。1887年に相談役となった渋沢栄一が営業方針を「民間の建築工事」と定め、官公需依存の大手組と一線を画した。民間オフィス・工場を主要顧客とする堅実経営で1989年度に業界トップの業績を築いた。しかし資材高騰と工期逼迫が重なった2024年3月期には、価格転嫁がきかない民間工事比率の高さが逆に働き、売上高2兆55億円で上場来初の営業赤字247億円を計上した。2022年に道路舗装大手の日本道路を連結子会社化し、建築・土木に続く第3の柱へ広げつつある。
- 長谷工コーポレーション — 1937年創業。長谷川武彦が兵庫県尼崎市で「長谷川工務店」を起業。1950年の芦屋打出荘アパートでRC造へ参入し、1968年のマンション事業参入から5年で施工戸数首位となった。しかし1985年以降の「脱マンション」でホテル・リゾートに1,000億円を投じたため、バブル崩壊で有利子負債は1兆3,000億円、株価は1999年1月に13円まで下落した。1997年の1,850億円一括損失でマンション専業へ回帰し、特命受注85%で2018年3月期の経常利益は1,005億円。累計施工70万戸・首都圏シェア34%を築きつつある。
- 鹿島建設 — 1840年創業。鹿島岩吉が江戸で大工として独立し、2代目岩蔵が1860年に横浜で「英一番館」を施工した。1880年に鉄道専業へ転じ、1934年の丹那トンネル完工で土木技術を固め、1963年に受注高世界一となった。しかし過当競争下で営業利益率1%前後が常態化し、1993年のゼネコン汚職を経て2010年に初の連結営業赤字へ落ちた。2011年以降は震災復興と労働供給制約で選別受注が進み、FY24は営業利益1,519億円へ回復。開発事業資産1兆2,000億円を積み、請負と開発の二軸経営へ進みつつある。
- 大和ハウス工業 — 1955年創業。石橋信夫が大阪で18人の仲間と興し、鋼管柱の「パイプハウス」と1959年の「ミゼットハウス」でプレハブ住宅産業の起点を築いた。1976年の流通店舗事業で土地情報と施工力を非住宅へ広げた。しかし1994年3月期に有利子負債は3,877億円へ膨張。創業者の無借金経営の信念で1997年3月期から毎期5割前後で削減した。2013年にフジタを子会社化し、2017年の米Stanley-Martin買収で海外住宅へ参入。2025年3月期の連結売上高5兆4,348億円で、総合不動産グループへ転身しつつある。
- 積水ハウス — 1960年創業。積水化学工業ハウス事業部を母体に資本金1億円で発足。1963年に田鍋健が社長就任し、直接販売・責任施工の垂直統合で15年連続増収増益を築いた。しかし2008年のリーマンショックで45年続いた無赤字記録が途切れ、請負依存の見直しを迫られた。それでも賃貸管理・リフォームへ軸足を移し、ストック型収益を柱に据えた。2017年の米Woodside Homes買収で海外進出を始動し、2024年のMDC Holdings(約49.4億米ドル)取得で国際事業比率を16%から31%へ倍増させつつある。
- 日揮ホールディングス — 1928年創業。実吉雅郎が東京市麹町区で「日本揮発油」を設立した。製油所建設が昭和恐慌で頓挫し、米UOP社提携の精製特許販売と設計料で出発した。戦後は横浜工務部で国内製油所建設を積み上げ、総合エンジニアリング会社として定着した。しかし1972年アルジェリア製油所で約50億円の赤字、1985年以降は4期連続営業赤字に沈んだ。それでも渡辺英二社長が海外調達比率を50%へ引き上げ1991年に黒字復帰した。2019年に「日揮ホールディングス」へ改組し、イクシスLNGの575億円特損を経て量から質への選別受注へ転じつつある。
- 日清製粉グループ本社 — 1900年、正田貞一郎が群馬県館林で館林製粉を設立。米国製ローラーミルを輸入し、水車粉と輸入粉が9割を占めた国内市場へ機械式製粉で参入した。1908年に旧日清製粉を合併して社名を継承し、不況で経営難に陥る競合工場を次々と吸収しながら国内製粉シェアおよそ35%の業界首位を築いた。戦後は食糧管理制度下の需要拡大に乗り、1960年代以降は飼料・食品・医薬・エンジニアリングの5本柱で多角化を進め、1989年のカナダ・ロジャーズフーズ買収から海外製粉網の構築に入った。2019年の豪州アライド・ピナクル買収でのれん残高は427億円へ膨らんだが、コロナ禍と食糧インフレで2023年3月期に創立以来初の親会社純損失104億円を計上、2024年3月期には北米製粉の利益急伸で営業利益478億円まで戻した。2025年7月には小麦粉価格改定で人件費転嫁に踏み切り、国内値上げと海外再建という2つの経営課題を抱える。
- 日本M&Aセンター — 1991年、日本オリベッティ出身の分林保弘が大阪で日本エム・アンド・エー・センターを設立した。創業者が培った全国の会計事務所人脈を基盤に、会計事務所と地方銀行の二層ネットワークで案件情報を束ねる仲介モデルを築いた。1992年の日本経済新聞一面広告で「後継社」の概念を提示して約400社の問い合わせを獲得し、1999年の経営書出版と2000年の全国金融M&A研究会発足で地方銀行との関係を制度化、2006年に東証マザーズ、2007年に東証一部へ上場した。2016年以降はシンガポール・インドネシア・マレーシア・ベトナムで東南アジア拠点網を整備し、2021年10月に持株会社制へ移行した。しかし移行2か月後の2021年12月に不正会計が発覚し、2025年3月期は品質管理の厳格化による成約遅延と仲介業者約700社の乱立が重なって減収決算となった。
- クックパッド — 1997年創業。慶應義塾大学藤沢キャンパス出身の佐野陽光が神奈川県藤沢市で有限会社コインを設立し、翌1998年からインターネット上でレシピ投稿サイトの提供を始めた。ユーザー投稿によるUGC型モデルで日本最大のレシピプラットフォームに成長し、2009年に東証マザーズへ上場、2015年12月期には売上高100億円を突破した。2012年に穐田誉輝が社長に就いて多角化と海外買収を加速したが、2016年に議決権43.6%を握る創業者の佐野が穐田社長を解任し経営が混乱した。クラシルなどの短尺動画レシピの台頭でテキスト型UGCの優位性が崩れ、2021年から三期連続の営業赤字、従業員は409名から147名へ半減した。2023年10月に創業者が11年ぶりに社長復帰し、事業モデルの再定義を進めている。
- 明治ホールディングス — 1906年、糖業家の相馬半治が台湾台南に資本金500万円で明治製糖を設立した。砂糖消費を内製化する意図で1916年に東京菓子(後の明治製菓)、1940年に明治乳業を傘下へ取り込み、製糖・製菓・乳業の三本柱が揃った。1945年の敗戦で外地資産と資本関係をすべて失い、川崎工場の廃墟で1946年にペニシリン製造へ踏み切ったことで、菓子と医薬品という異質な二事業を同居させるポートフォリオが定まった。1980年3月期には食料部門が30億円の経常赤字、薬品部門が61億円の黒字と主役が交代し、1990年には米ボーデンとの20年提携を解消して自社ブランド路線へ舵を切った。2009年に明治製菓と明治乳業が103年ぶりに再合流して明治ホールディングスが発足、2018年のKMバイオロジクス買収や2024年のコスタイベ商業化を経て、2025年6月就任の松田克也社長のもと「食と医の融合」の再定義が進行している。
- 日本ハム — 1942年創業。大社義規が徳島市寺島本町で総勢7人の食肉加工場を興し、戦後の食生活洋風化を追い風に徳島ハムから全国企業へと育てた。1963年に旭化成・宮崎輝の提案で業界4位の鳥清ハムを吸収合併し社名を日本ハムに改め、3位から一躍首位に立った。1977年に米Day-Lee Foodsを買収して食肉企業として初の本格海外M&Aに踏み切り、1991年の牛肉輸入自由化に備えて豪州で垂直統合を築いた。しかし2002年の子会社・日本フードによる食肉偽装事件で創業者一族が退任し、海外事業本部の長期赤字と3度の下方修正を経て、2022年就任の井川伸久がウルグアイBPU売却と加工ライン20%削減に踏み切った。2026年3月期の事業利益見通しは640億円となり、中計2026の目標610億円を1年前倒しで超過する水準に到達している。
- エムスリー — 2000年9月創業。マッキンゼーで35歳のパートナーに昇格した谷村格が、ヘルスケアコンサルタントとして見続けてきた製薬MRと医師のマッチング非効率を解くべく、ソニーコミュニケーションネットワーク(So-net)の出資を受けて東京都品川区で起業した。翌10月に立ち上げた「MR君」は複数の製薬会社が一つのプラットフォームを共有する世界的にも例のない設計で、2004年9月の東証マザーズ上場を経て医師ポータル「m3.com」を中核に成長した。2011年の英Doctors.net.uk買収を皮切りに現地ポータルを買い集めるM&Aモデルを確立し、コロナ禍のFY21には連結売上2,082億円・営業利益951億円・営業利益率45.7%という極端な山を築いた。反動で利益はピークから3割落ち込み、2022年の「ホワイト・ジャック・プロジェクト」以降は予防医療と患者サポートを次の柱に据え、医師軸から生活者側へ事業対象を拡大しつつある。
- DeNA — 1999年3月、マッキンゼーのパートナーだった南場智子が東京都渋谷区で株式会社ディー・エヌ・エーを設立した。創業事業のオークション「ビッターズ」はヤフオクのネットワーク効果に敗れたが、2004年のモバオク投入と2005年の東証マザーズ上場で事業の重心をモバイルへ移し、2009年の「怪盗ロワイヤル」を起点とするソーシャルゲームで広告から課金へと収益構造を転換した。2013年3月期には過去最高益に達したものの、2010年の米ngmoco買収(約4億ドル)は日米の開発文化の溝を埋められず2016年に解散、2016年のWelQ問題で組織風土の歪みも露呈した。2018年以降はライブ配信・オートモーティブ・ヘルスケアへ80億円の分散投資を行ったが、IRIAM(89億円)・アルム(247億円)の買収はいずれも減損に至り、2024年3月期には287億円の最終赤字に転落した。2021年に旧郵政省出身の岡村信悟へ社長交代し、売上成長から収益性を重視する成熟企業へ移行しつつある。
- サッポロビール — 1876年、明治政府の北海道開拓使が札幌に設けた麦酒醸造所を源流とする。村橋久成・中川清兵衛らが技術的基盤を築き、札幌麦酒として民営化された後、1906年に日本麦酒・大阪麦酒と三社合同して大日本麦酒が成立し、国内シェア約77%の寡占企業となった。1949年に過度経済力集中排除法で朝日麦酒と日本麦酒へ分割され、戦後再出発期に柴田清社長が戦前の「サッポロ」「ヱビス」を封印して新ブランド「ニッポンビール」に賭けた判断が致命傷となり、キリンに家庭用市場を奪われて以後半世紀のシェア3位が固定化した。1986年の恵比寿工場閉鎖と1994年の恵比寿ガーデンプレイス開業で不動産事業を第二の柱に据え、本業ビールの劣勢を資産収益が覆い隠す構造が定着した。2007年のスティール・パートナーズと2023年の3D Investmentから同じ資本効率の問いを突きつけられ、2025年にようやく事業持株会社体制への移行と不動産事業への外部資本導入という根本解決へ動き出した。
- アサヒグループHD — 1949年9月、大日本麦酒の分割により朝日麦酒として発足した。吹田・西宮・博多の各工場を引き継いだが、首都圏の供給力と販売網の不足が長期の制約となり、シェアは最終的に9.6%まで落ち込んだ。メインバンクの住友銀行が村井勉・樋口廣太郎を連続して送り込み、1987年発売のアサヒスーパードライで市場の勢力図を塗り替え、2001年に業界首位に立った。2012年のカルピス買収(約920億円)で飲料事業の質を転換し、2016年の欧州事業取得(約1.2兆円)と2020年のCUB買収(約1.17兆円)で日本・欧州・豪州の三極体制を確立した。成長市場ではなく成熟市場を束ね、プレミアム化で収益性を高める経営スタイルが、現在のアサヒグループに確立されている。
- キリンHD — 1907年創業。外国人経営のThe Japan Brewery Companyが大日本麦酒の合同提案を拒否し、明治屋と三菱系資本の出資を受けて麒麟麦酒株式会社を設立した。戦後は家庭用市場の掌握と計画的な設備投資で1972年12月に国内ビールシェア60.1%を達成し、業界首位を長く維持した。1987年のスーパードライ発売で味の転換を迫られながらも既存顧客離反のリスクから主力ラガー維持を選び、1989年にシェアは48.4%まで下落、2001年にはアサヒに首位を譲った。1982年に医薬開発研究所を設置してバイオ医薬に参入し、1990年のEPO製剤「エスポー」投入と2008年の協和発酵工業買収で第二の柱を育てた。2011年のスキンカリオール買収の失敗と2015年の約1,400億円減損を経て海外戦略を再定義し、2024年6月のファンケル完全子会社化でビール・飲料・ヘルスサイエンスの三事業体制へ事業ポートフォリオを組み替えている。
- ABCマート — 1985年創業。三木正浩が29歳で「国際貿易商事」を設立し欧米カジュアルウェアの輸入卸売業を興した。1986年に英ホーキンスの国内独占販売権を取得し、1990年の韓国生産委託でSPAを構築。1993年には価格を30%下げながら利益率24%を確保した。しかし1995年の木村拓哉起用40億円TVCMで需要を短期に使い尽くし、卸売単独の限界が表面化した。1999年にSC積極出店へ転じ、2019年に国内1000店を超える靴専門チェーン最大手となった。2025年12月就任表明の服部喜一郎社長は海外展開の加速を掲げつつある。
- 日本マクドナルド — 1971年創業。輸入雑貨商の藤田田が米マクドナルドと折半出資で設立し、ロイヤリティ1%・契約期間30年の破格条件で銀座三越に1号店を開いた。直営・都市圏ドミナントと千葉専用工場の組合せで店舗網を広げ、1984年に外食産業初の売上高1,000億円超を記録した。しかし1990年代に都市圏の出店余地が飽和し、定価を1994年210円から2002年59円まで下げた値下げ路線で2期連続最終赤字に陥った。2003年の藤田逝去で経営権は米本社へ移り、以降は米本社選任のプロ経営者が4〜6年周期で交代する体制に移行しつつある。
- 双日 — 1862年創業。岩井文助商店、1874年の鈴木商店、1892年の日本綿花の三系譜を源流に、1968年の日商岩井発足を経て2004年にニチメンと合併し双日となった。UFJ銀行の不良債権処理が促した統合で、発足時の連結有利子負債は1兆5000億円超。2500億円の損失処理で旧日商岩井の聖域だった航空機ファイナンスを撤退候補に据えた。2016年就任の藤本昌義社長が非資源型差別化路線を敷き、FY22に純利益1112億円で発足来最高益を更新。2024年就任の植村幸祐社長はカタマリ戦略で非資源1000億円超を掲げつつある。
- セリア — 1985年創業。河合宏光が岐阜県大垣市で催事場の移動販売業を始めた。1987年に山洋エージェンシー設立、1994年に常設店舗へ転換し、1997年に中堅規模で異例の独自発注システムを導入した。2003年に「セリア」へ改称・ジャスダック上場、2004年に直営全509店で業界初のリアルタイムPOSを稼働、2009年3月期にキャンドゥを抜き業界2位となった。しかし2022年以降の円安で輸入雑貨の仕入原価が上昇、100円均一では価格転嫁が効かない。2014年就任の河合映治2代目社長は「残存者利益」を取る方針を示しつつある。
- キッコーマン — 1917年創業。千葉県野田の茂木家・高梨家を中心とする一族八家が野田醤油を設立し、約200の商標を「キッコーマン」へ集約した。1934年にシェア9.1%で国内首位となり、2位ヤマサと倍以上の差を築いた。1957年に米国KIKKOMAN INTERNATIONALを設立し、照り焼きで醤油を汎用調味料として浸透させた。1972年には純利益2〜3年分の1,300万米ドルをウィスコンシン州の現地工場に投じ、模倣困難な障壁を築いた。2000年代以降はデルモンテ・焼酎・コカ・コーラ系飲料の多角化から順次撤退し、北米醤油を軸に選択と集中を進めつつある。
- 味の素 — 1909年創業。二代目鈴木三郎助が池田菊苗のグルタミン酸塩発見を家業のヨード製薬と切り離して引き受け、家庭用調味料「味の素」を発売した。1914年の川崎工場移転と全国特約店網でMSG市場の独占的地位を築いた。しかし1956年の協和発酵工業による直接発酵法の発表で単一技術依存が露呈し、1963年のクノール食品設立を起点に総合食品化へ転じた。1998年設立の味の素ファインテクノが半導体用ABFで高収益の柱を育て、2019年の312億円減損を機にROIC経営へ転換。資本効率を軸とする事業選別へ重心を移しつつある。
- ニチレイ — 1942年創業。日本水産・日魯漁業ほか水産大手18社の陸上部門を戦時統制下で統合した帝国水産統制として発足。1945年に日本冷蔵へ改称し全国220か所の冷蔵・製氷工場を継承して独立系首位を築いた。1951年就任の木村幸鉱二郎社長が水産・冷凍・煉製品・缶詰・畜産の5分野で総合食品メーカーへ転換を図ったが、1980年3月期に水産部門が赤字に転落した。1985年の「ニチレイ」改称で冷凍食品・システム物流・都心不動産の3本柱を築き、2005年に持株会社体制へ移行。2026年には北米で1億ドル超の新工場建設を決断した。
- JT — 1949年創業。大蔵省専売局の解体で日本専売公社が発足し、たばこ・塩・樟脳の専売を担う国家の財政装置となった。1985年に日本たばこ産業として民営化されたが、円高・増税・関税撤廃で国内シェアは1985年度の97.6%から1987年度の90.2%へ落ちた。1999年にRJRナビスコの米国外たばこ事業を72億ドル、2007年に英Gallaherを約2兆2,500億円で買収し、利益の源泉を国内から海外へ移した。2022年にたばこ事業の本社機能をスイスのジュネーブへ統合し、グローバルたばこ企業へ転身しつつある。
- J.フロント リテイリング — 2007年創業。大丸と松坂屋HDが共同株式移転で持株会社Jフロントリテイリングを設立し、大丸の奥田務がCEOに就いた。発端は2006年12月の松坂屋銀座店再開発相談で、合算売上1兆1,664億円の百貨店2強体制となった。しかし国内市場の縮小は止まらず、2012年のパルコ持分法適用化と2017年のGINZA SIX開業で不動産・SC事業へ重心を移した。2020年にパルコを658億円で完全子会社化した直後のコロナ禍でFY20に純損失261億円を計上。2023年就任の小野圭一社長のもとリテール本業回帰へ転じつつある。
- ZOZO — 1998年創業。前澤友作が千葉市で有限会社スタートトゥデイを興し、輸入CD・レコード通販から事業を始めた。2004年にECモール「ZOZOTOWN」を開き、ユナイテッドアローズ・BEAMS・SHIPS出店で受託販売手数料を約30%まで引き上げ、物流内製を武器に特化型プラットフォームを築いた。しかし2019年にZHDが公開買付けで50.1%を取得し、前澤氏退任で澤田宏太郎体制に移った。LYST買収とMUSINSA出店を重ねつつ、2025年以降の計画未達でAIエージェントと物流効率化を次世代の柱に据えつつある。
- 三越伊勢丹ホールディングス — 1673年創業。伊勢松阪出身の三井高利が江戸本町で呉服店越後屋を興し、現銀掛値なし・店前売り・切売りで江戸呉服流通を変えた。1904年のデパートメントストア宣言で百貨店三越へ転じ、1886年創業の伊勢丹と2008年4月に経営統合した。しかし直後のリーマンショックでFY09純損失635億円、2020年のコロナ禍でFY20営業赤字209億円と沈んだ。2021年就任の細谷敏幸が識別顧客戦略と連邦戦略を掲げ、FY24営業利益763億円と過去最高を記録。2027年度850億円目標へ人的資本を不動産・金融に振り向けつつある。
- 東洋紡 — 1882年創業。渋沢栄一が大阪府に華族資本で大阪紡績会社を興し、1914年に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、据付錘44万錘・綿糸2.8万梱で国内首位を獲得した。しかし1954年に英ICIのポリエステル技術提携を見送ったため、帝人・東レに8年遅れて合繊序列の業界下位まで後退した。1968年の化成品事業部発足で犬山工場をパルプからフィルムへ転換し、2013年開発のコスモシャインエスアールエフで大型液晶パネル向け世界シェア60%を獲得、2022年に繊維事業を分社して機能素材メーカーへ再定義しつつある。
- 鐘紡 — 1887年創業。三越・大丸ら五社出資で東京綿商社として発足し、1889年に鐘ヶ淵紡績へ転身した。武藤山治が紡績大合同論のもと買収を重ね、1933年に全業種売上高首位の日本最大企業となった。戦後はペンタゴン経営で化粧品・食品・住宅へ多角化したが、利益の大半を化粧品が支え繊維赤字の補填に消える偏在に陥った。1975年の無配後は販売子会社への押し込みと「低稼働」の不適切会計が常態化し、2003年の粉飾発覚で630億円の債務超過となった。2006年に化粧品を花王へ約4,100億円で譲渡、2007年に120年の歴史を閉じた。
- ユニチカ — 1889年創業。広岡信五郎が尼崎紡績会社を設立し、1918年に大日本紡績、1964年にニチボーへ商号を変更した。1926年設立の日本レイヨンと1969年10月に対等合併しユニチカが発足、売上1,661億円で業界2位となった。しかし旧二社の管理手法の違いが投資配分の調整を長期化させ、1975年3月期に経常赤字185億円、1977年から三和銀行の経営関与が始まった。1980年にPETフィルム参入で重心を高分子へ移したが、2024年11月に祖業の繊維事業から撤退しREVICへ870億円の金融支援を要請した。
- 東急不動産ホールディングス — 1918年創業。渋沢栄一・中野武営らが田園都市株式会社を設立し、1921年参画の五島慶太が田園調布で総面積18%を道路・公園に充てた。戦時休眠を経て1953年12月に資本金3億円の東急不動産として独立し、沿線型私鉄ディベロッパーの純粋形となった。1961年の業界初の提携住宅ローンと1962年の津田山ニュータウンで骨格を固め、1970年ごろ「デベロッパー東急」の地位を築いた。2013年9月に3社同時上場廃止で持株会社化し、FY23営業収益1兆58億円を元手に広域渋谷圏と再エネへ重心を移しつつある。
- コスモス薬品 — 1973年創業。宮崎県延岡市の薬剤師・宇野正晃が66平方メートルの個人薬局「宇野回天堂薬局」を開いた。1983年に有限会社コスモス薬品を設立し、1993年の宮崎市浮之城店で小商圏型メガドラッグストアの原型を築いた。2003年にポイント還元を全廃して毎日低価格販売へ転換し、2004年11月に東証マザーズへ上場。以後は「地続き」戦略で中国・四国・関西・中部・北陸へ順次拡大した。2019年に東京渋谷区広尾で関東進出を果たし、2025年5月期にはM&Aゼロの自力出店のみで連結売上高1兆113億円・1609店舗に到達した。
- セブン&アイHD — 1958年創業。伊藤雅俊が洋品店「羊華堂」を源流に株式会社ヨーカ堂を設立、関東ドミナントで総合スーパーを積み上げたが1972年時点で業界10位だった。1973年に米サウスランド社とロイヤリティ0.5%で提携し、1974年に豊洲の酒屋を1号店にセブンイレブンを開業、5年で591店へ急伸した。2005年に持株会社化、2021年にスピードウェイを210億ドルで買収し世界最大のコンビニ網を築いた。2023年のバリューアクト株主提案を機に不採算事業整理へ踏み込み、2024年にクシュタールから買収提案を受ける立場へ反転した。
- 帝人 — 1918年創業。鈴木商店の金子直吉が秦逸三・久村清太の研究を支援し、米沢で帝国人造絹糸として発足した。1927年の鈴木商店倒産で独立企業へ移行し、大屋晋三の主導で1957年にICIとの提携によりポリエステル「テトロン」、1962年にナイロンへ参入した。1968年設立の未来事業本部は50超の新規事業に分散したが、1980年のベニロン発売と2011年のフェブリク上市で医薬品を第二の柱に育てた。2000年のトワロン買収で高機能繊維世界上位に立ち、2017年のCSP買収で自動車部品にも踏み込んだ素材複合企業となった。
- 東レ — 1926年創業。三井物産の子会社として資本金1,000万円で滋賀県大津に東洋レーヨンを設立した。1951年に米デュポンとナイロン特許実施権契約を結び、資本金7.5億円を上回る10.8億円を投じて合成繊維メーカーへ転換した。1971年販売の炭素繊維トレカは約40年の赤字を経て、2006年にB787の主要構造材として全面採用された。2014年Zoltek、2018年TenCateの買収で産業用途へ拡張したが収益化は道半ばにとどまり、2024年にDプロを立ち上げ資本効率経営へ舵を切った。
- クラレ — 1926年創業。倉敷紡績社長・大原孫三郎が岡山県倉敷市にレーヨン子会社の倉敷絹織を興した。1950年に合成繊維ビニロンの工業化に成功し、1964年に人工皮革クラリーノ、1972年にガスバリア樹脂エバールと独自素材を連続で立ち上げた。2001年に祖業レーヨンを停止し、同年のClariantからのポバール・PVB事業取得、2014年の米DuPontビニルアセテート事業買収でポバール世界首位を盤石にした。2018年の米Calgon Carbon買収で環境関連にも踏み込み、連結売上高は8000億円規模へ倍増した。
- 旭化成 — 1923年創業。野口遵が宮崎県延岡にアンモニア合成工場を設け、水力発電と化学技術を起点に肥料・繊維・火薬を派生させた。1946年に財閥解体で旭化成工業として独立し、水俣はチッソが引き継いだ。1961年就任の宮崎輝は31年在任し、繊維の黒字で新規事業の赤字を許容する健全な赤字部門の方針で石油化学・住宅・医療機器・医薬品へ広げた。1992年の急逝後は山本一元がROE経営で食品・酒類・繊維を整理し、2012年以降はZOLL・Polypore・Veloxisなど約7000億円のM&Aでヘルスケアへ軸を移した。
- SUMCO — 1999年創業。住友金属工業と三菱マテリアル系の共同出資で発足し、2002年に三社のシリコンウェーハ事業を統合した。2005年11月に東証一部へ上場し、FY07は売上4,749億円・営業利益1,403億円まで伸ばしたが、リーマン後のFY09に純損失1,004億円を出し3期連続赤字へ沈んだ。2011年就任の橋本眞幸が長期契約と300mm先端品集中で再建し、FY22は売上4,410億円のピークへ戻した。FY23の設備投資3,154億円を機にFY25は純損失117億円へ再転落し、66年続いた小径ウェーハから撤退した。
- ネクソン — 2002年創業。東京で生まれた日本法人が、3年後に韓国の親会社からPCオンライン事業を会社分割で引き取り、親子関係を反転させて事業持株会社となった。『メイプルストーリー』『アラド戦記』の2本のIPが20年超にわたり収益を支え、2011年東証一部上場を経てFY24売上4,462億円で過去最高を更新。本籍は日本、稼ぎ頭は韓国・中国という地理的ねじれを抱えたまま、創業者から米国人プロ経営者、韓国開発出身のイ・ジョンホンへと経営を繋ぎ、FY27売上7,500億円の長期目標を掲げている。
- 王子ホールディングス — 1873年創業。渋沢栄一が抄紙会社を興し、1933年合併で国内シェア80%・新聞用紙95%・34工場体制を築いた。1949年の集中排除法で苫小牧1工場・資本金4億円へ縮小されたが、北日本製紙・日本パルプ工業・東洋パルプ・神崎製紙を順に吸収し、1996年本州製紙合併で「王子製紙」の名を取り戻した。2012年に持株会社制へ移行。2024年4月に欧州Walkiグループを買収し、2025年3月期売上高1兆8,493億円のうち半分近くを海外で稼ぐ素材メーカーへ再定義されつつある。
- 北越コーポレーション — 1907年創業。長岡の紙卸商・田村文四郎らが稲藁と信濃川の水力を活かし板紙製造に進出した。戦後は抄紙機増設で1955年に洋紙生産国内5位へ躍り出て、新潟地震と中越地震の被災を経ながら設備投資を継続した。2006年の王子製紙による敵対的買収を三菱商事への第三者割当増資で阻止し、2009年紀州製紙の完全子会社化と2018年の商号変更で総合紙業へ軸を広げた。2021年にはオアシスが岸本社長体制への異議を申し立てており、資本防衛の代償として生じた経営体制の長期固定化が、新たな株主対立の伏線に転じている。
- レンゴー — 1909年創業。大陸放浪から戻った井上貞治郎が上野公園で起業を決意し、翌1910年にボール紙へシワをつけた梱包材を段ボールと命名して国産化した。1920年に5社合併で聯合紙器を設立し、1923年に日本製紙を吸収、1930年に淀川工場を得て原紙から加工まで一貫生産体制を築いた。1972年に商号をレンゴーへ改め、1999年のセッツ合併で住友商事と接近、2000年に大坪清が社長に就いた。1998年朋和産業で軟包装、2016年トライウォール買収で重包装を取り込み、段ボール専業から総合パッケージング企業へ組み替えた。
- レゾナックHD — 1908年、森矗昶が沃度製造の総房水産を創業。1934年に長野県大町でアルミ製錬の国産化に成功し、1939年に日本電気工業と昭和肥料が合併し昭和電工が誕生した。1957年に米フィリップス・ペトロリウムからポリエチレン技術を導入し石油化学へ転換、大分コンビナートを主力に据えた。しかし1986年、電力高騰で日本初のアルミ製錬を完全停止し、その後1988年BOC、2017年SGL買収で黒鉛電極世界トップへ躍り出た。2018年12月期に営業利益1800億円の最高益で得たキャッシュを軍資金に、2020年4月約9600億円で日立化成を買収し半導体後工程材料を新主力に据えた。こうして2023年1月、84年続いた昭和電工の社名を捨て持株会社レゾナック・ホールディングスへ移行し、総合化学から先端材料企業への変態を不可逆にした。
- 住友化学 — 住友化学の起点は化学工業ではなく公害対策である。1913年、別子銅山の亜硫酸ガス被害に対処するため、住友総本店は新居浜でガスを硫酸に回収し肥料を製造する事業を立ち上げた。1934年に住友化学工業へ改称、アンモニア・染料・医薬・アルミと原料系列を下流へ広げ総合化学へ脱皮した。1958年には他社に先駆け愛媛工場でポリエチレンを工業化して石油化学へ参入、農薬スミチオンとピレスロイドで世界シェアを握り、住友製薬と韓国東友ファインケムでも有力地位を得た。しかしアサハン・シンガポール・サウジラービグの国家プロジェクト型海外石化と北米医薬への大型投資が裏目に出て、その結果2024年3月期は営業赤字4,888億円・最終赤字3,118億円という戦後最大級の損失を計上。多角化と縮みの振幅が住友化学の歴史そのものとなっている。
- 日産化学 — 1887年、高峰譲吉・渋沢栄一・益田孝らが化学肥料の国産化を目指し東京人造肥料会社を設立、日本初の化学肥料メーカーとして出発。1923年の3社合併で業界再編を主導し、1937年に日産財閥傘下入りで日産化学工業へ改称、1949年上場。1965年に石油化学へ後発参入したが、1973年オイルショック後の構造不況で1982・83年と二期連続赤字に陥る。そこで1988年、中井武夫社長は塩ビを東ソー、高級アルコールを協和発酵、ポリエチを丸善石油化学へ売却し、類例なき石油化学全面撤退を断行。以降は農薬・医薬品・機能性材料の三本柱に集中し、サンマイト・リバロ・半導体コーティングや液晶配向膜で高付加価値路線を確立。その結果2024年3月期は営業利益率約17%に達したが、フルララネル独占契約満了後の利益構造再設計が次の課題である。
- 東ソー — 1935年、徳山曹達専務の岩瀬徳三郎が山口県富田町に東洋曹達工業を設立、翌年アンモニア法ソーダ灰の量産を開始、ソーダ専業の単一拠点として戦時下を乗り切った。しかし1946年のGHQ賠償指定で本業を4年奪われた間にセメントや有機薬品へ多角化、1964年の周南コンビナート参入で塩ビモノマー・低密度ポリエチレンへ進出。1969年に四日市へ第二拠点を伸ばし、1990年に新大協和石油化学を合併し総合化学会社へ脱皮。以後は半導体スパッタリングターゲット、ハイシリカゼオライト、ジルコニア、バイオサイエンス、水処理プラントなど機能商品・エンジニアリングを育て、2025年3月期は連結売上高1兆633億円。一方クロル・アルカリの営業利益はほぼゼロまで沈み、機能商品とエンジニアリングが営業利益の8割近くを稼ぐ構造へ役割交代している。
- トクヤマ — 1918年、岩井勝次郎が輸入アルカリの国産化を旗印に山口県徳山町で日本曹達工業を設立、アンモニア法ソーダ灰の生産を始めた。しかし市況崩壊で発足直後から赤字続きとなり、1932年に苛性ソーダへ転換し延命、1936年に徳山曹達へ改称、1949年東証上場。さらに1938年には副生炭酸石灰を起点にセメントへ、1964年の徳山コンビナート発足で塩素起点のポリプロや塩ビへ進出、化成品・セメント・樹脂の3本柱を1工場で組み上げた。1984年に始めた多結晶シリコンは太陽電池向けに賭けたマレーシア工場が2016年に1006億円の純損失でゼロ円譲渡撤退する一方、1978年種蒔きの歯科器材オムニクロマと半導体先端品向け多結晶シリコンはニッチ深掘りで2020年代の再建を支える柱に育ち、装置と立地と市場の組み合わせを組み直す試行が続く。
- デンカ — 1915年、第1次大戦の石灰窒素輸入途絶を機に、三井資本が藤山常一の北海カーバイド工場を引き取り苫小牧で電気化学工業を設立。青海で自家水力発電所と石灰石鉱山を垂直統合。戦後の食糧増産策と1951年からの40%高率配当の蓄積を原資に、1951年渋川で塩ビ、1953年青海でセメントへ進出、世界3社目のクロロプレンゴム企業化、東芝から譲り受けた医薬子会社が後のがん治療薬「デリタクト」を育て素材総合化学へ脱皮。2014年に三井物産と組み米DuPontからクロロプレンゴム拠点を取得。しかし2025年5月に同拠点の暫定停止を発表。同年セメント72年の歴史も畳み、その結果2025年3月期は戦後初の純損失123億円計上。こうしてMission2030の下、祖業連鎖を解体し電子・先端プロダクツとライフイノベーションへ重心を移す。
- イビデン — 1912年に立川勇次郎が大垣市で揖斐川電力を設立し、安価な水力電力で紡績工場を誘致する地域産業モデルから出発した。1917年にカーバイド製造で垂直統合を築いたが、戦時統制で1942年に売電を失い化学専業へ転じ、1960年のメラミン化粧板で蓄えたエッチング技術が1970年のプリント配線板参入を支えた。1991年に電気炉が消えカーバイドから撤退、1994年のインテル攻略で研究予算と40代エース50名を投入、1995年の素材転換と噛み合い1996年に大量受注を得た。しかし2017年に約600億円の構造改革費用で赤字転落しても無借金体質で翌年に投資再開、2022年3月期のインテル向け売上は約1736億円に達した。こうして直近はAIサーバー向けICパッケージ基板で7〜8割のシェアを握る先端半導体部材メーカーへ転身した。
- 信越化学工業 — 1926年に信濃電気の越寿三郎と日本窒素肥料の野口遵が信越窒素肥料を設立、長野の余剰電力を石灰窒素に変える構想で出発した。昭和恐慌で操業休止に陥るも1931年に小坂順造が再建、1940年に信越化学工業へ改称。1953年にGE契約でシリコーン量産、1957年に最後発で塩ビ参入、1967年にダウコーニングと信越半導体を合弁し素材メーカーへ脱皮。1973年にシンテックを合弁、1976年に小田切新太郎が優先交渉権で完全子会社化、1979年に信越半導体も取り込んだ。1978年就任の金川千尋は「フル生産・全量販売」と逆張りを50年貫き、その結果15期連続増益と時価総額22倍を達成、やがてシンテックは2001年に世界首位となった。2023年3月期に連結営業利益率35.5%、金川は96歳で逝去するも規律は斎藤恭彦に継承された。
- 日本触媒 — 1941年に八谷泰造がバナジウム触媒で無水フタル酸の工業化を目指しヲサメ合成化学工業を設立。1944年に吹田工場が稼働5日目で爆発・死亡者を出したが継続を決断、1949年に日本触媒化学工業へ改称。三井化学・ダイセル・旭化成が爆発リスクで撤退するなか1960年頃に国内シェア70%を握り、石油化学への原料転換とアクリル酸国産化を進めた。1985年に姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)を後発参入、アクリル酸からの一貫体制とP&G獲得を武器に1年で国内首位に立った。やがて紙おむつ市場の拡大でSAP輸出比率は売上の8割、米欧・インドネシアへ拠点を広げた。しかし2019年発表の三洋化成との経営統合はコロナ禍と欧州SAPの119億円減損で2020年10月に白紙撤回。爆発リスクと原料一貫の構造優位をどう収益に結ぶかが問われる。
- 協和キリン — 1936年に宝酒造・合同酒精・日本酒類の3社が幡ヶ谷に協和化学研究所を設立、加藤辨三郎が糖蜜からブタノール発酵で軍需転用に挑んだ。1949年に協和発酵工業として再出発、1951年にメルク提携でストレプトマイシン国内製造を始め医薬品参入。1960〜80年代は医薬品・酒類・化学品・食品の4事業部で発酵基盤の多角化経営を営み、1991年のコニールで循環器も拡げた。その後2001〜08年にヤンセン協和売却・酒類のアサヒ譲渡・化学品と食品の分社化を進め、2008年にキリンHDのTOBを受諾、キリンファーマと合併し協和発酵キリンへ。さらに2019年に協和発酵バイオを売却し医薬品単一会社へ純化、Crysvitaなど抗体医薬のスペシャリティファーマ化が進む。2025年の特別希望退職と韓中再編を経て次期中計の成長軌道に向き合う。
- 三井化学 — 源流は1933年大牟田の東洋高圧工業、1941年の三井化学工業、1955年に三井系7社と興亜石油が共同出資した三井石油化学工業で、1958年に岩国で日本最初期のエチレンコンビナートが稼働、戦後石油化学の起点となった。過剰設備の宿命に直面し、岩国大竹エチレンを浮島石油化学に集約、1997年に三井東圧化学と対等合併し三井化学が発足。しかし住友化学との統合は3年足らずで撤回、リーマン後3期連続純損失に転落した。淡輪敏は構造改革で営業利益を2014年3月期420億円から2017年3月期1021億円に戻し、その後橋本修は石化と成長領域を切り分け、千葉で出光と2027年度クラッカー集約、西日本もLLP連携を検討。ライフ&ヘルスケア・モビリティ・ICTと汎用石化を別論理で扱う二軸経営で産構法以来の過剰設備問題に三度向き合う。
- 三菱ケミカルグループ — 2005年に三菱化学と三菱ウェルファーマの株式移転で三菱ケミカルHDが発足、小林喜光の「KAITEKI経営」で三菱樹脂・三菱レイヨン・大陽日酸・田辺三菱を取り込み、2兆1894億円の売上は2025年3月期に4兆4074億円へ倍増し総合化学最大手となった。しかし持株会社下に事業会社が並ぶ構造は統合を10年以上低く保ち、化学・医薬・産業ガスをどう束ねるかが通奏低音となった。2017年に事業会社3社統合後もERPは10種類超併存、米国から日本製品を発注できない状態が続いた。だが2021年招聘のギルソンの急進改革は大量退職と現場乖離を生み頓挫、2024年に生え抜きの筑本学が「つなぐ」で現実路線へ揺り戻し、石化再編より自社の稼ぐ力を優先、混乱の自己総括から新中計を出発させた。20年を経ても寄せ集めの一体化は途上にある。
- UBE — 1897年、渡辺祐策ら宇部の地元有志が資本金4.5万円で沖ノ山炭鉱を設立。「炭を掘り尽くせば、また元の農漁村になってしまう」との危機感から、石炭が枯れる前に機械・セメント・化学を3年刻みで仕込み、1942年に宇部発祥4社の自己統合で宇部興産が発足した。戦後はカプロラクタム・アンモニアの量産化学品とセメントを軸とする総合素材企業へ拡大し、1957年から石炭部門7,000名を多角化事業に配転して炭鉱から撤退した。だが原料を輸入ナフサや海外資源に頼る構造は市況に翻弄され続け、2022年4月に社名をUBEへ改めると同時に祖業セメントをUBE三菱セメントへ承継して連結から外し、2025年にはカプロ・アンモニア国内生産停止を前倒しで決めた。こうして創業期の多角化の論理が、128年後に2度目の祖業転換として反復している。
- 野村総合研究所 — 1965年、野村證券が調査部門を分離して日本初の本格的民間シンクタンク野村総合研究所を設立し、同時期に証券電算化を担う野村電子計算センターも立ち上げた。やがて報告書を売る会社と計算機時間を売る会社が1988年1月に合併し、「リサーチ+IT」という他のSIerにない二枚看板を備えた現NRIへ合流した。金融機関向け共同利用型システムを起点にコンサルから運用まで1社で抱える独自モデルが定着し、2001年12月の東証一部上場で得た資金はデータセンターと運用基盤に振り向けられ、稼ぎ頭は金融IT運用へ移った。営業利益率は大企業向けSIerとして破格の15%超を維持し、2024年の社長交代後は17%台に乗せている。ただし海外比率は16%前後に張り付き、国内金融に深く差し込んだ強みがそのまま地理的拡張の遅さに反転している。
- 電通グループ — 1901年7月、光永星郎が資本金10万円で広告会社を東京に起こし、4ヶ月後に電報通信社を併設。1906年に日本電報通信社を設立、翌年に日本広告と合併し、新聞社に通信配信と広告枠を抱き合わせる交渉力で昭和初期まで首位を保った。だが戦時統制で通信を失い広告専業に追い込まれ、戦後70年で世界5位のメガ・エージェンシーへ駆け上がる。決定打は2013年の英Aegis買収(約4,000億円)で、海外売上比率を一桁台から過半へ押し上げ、米Merkle買収でCRM・データにも足場を築いた。しかし2024〜2025年に海外のれん減損6,300億円超、最終赤字3,276億円、上場後初の無配を計上し、五十嵐博社長はAegis以来の海外膨張路線の否定を中計で宣言。こうして創業125年目、日本資本のまま欧米で生き残れるかが問われている。
- メルカリ — 2013年2月、ウノウの設立・売却を経験した山田進太郎が株式会社コウゾウを設立し、7月にスマホ完結型フリマアプリ「メルカリ」を投入。PC前提のオークション型では拾えなかった個人間取引の摩擦を即決価格で取り除き、テレビCMと大型調達で日本のCtoC市場を創出した。2018年6月に東証マザーズへ上場し時価総額は一時7,000億円超に達したが、株価は3分の1まで暴落、米国子会社では累計181億円の減損や不正決済に直面した。一方2017年設立のメルペイで決済領域に進出し、フリマ売上金を決済原資に回す独自の資金循環を築いたが、あと払い拡大で2023年6月期末には貸倒引当金54億円・未収入金前年比353億円増、営業CFはマイナスへ転じた。こうして国内で勝ち海外で負け、テックと金融両方のリスクを抱える事業体に変貌している。
- 花王 — 1887年6月、岐阜の酒造家出身・長瀬富郎が東京日本橋馬喰町で石鹸と輸入文具の小売を開業。1890年に桐箱入り「花王石鹸」の自社製造へ転じ、流通から製造へ事業を広げた。1925年法人化、1940年に日本有機を設立して原料・量産・流通の三層を社内に抱え、戦時期に蓄えた高級アルコール・油脂化学の技術は1957年の和歌山工場での合成洗剤量産投資へ結実した。1964年には全国27万件の小売との再販契約で問屋を介さない販社網を築き、日次販売データが新製品開発と価格管理を支える仕組みへ発展。やがて1985年参入のフロッピーディスク事業は売上800億円規模に達したが1998年撤退、後藤社長は役員降格と賞与カットで決着した。こうして1999年のEVA経営から2023年中計K27のROIC経営へ指標を組み替え、選別を進めている。
- 武田薬品工業 — 1781年6月、初代武田長兵衛が大阪道修町で薬種商として創業し、和漢薬仲買を130年以上営んだ。1914年第一次大戦でドイツからの医薬品輸入が途絶え、1915年に武田製薬所を新設し自社製造へ転じた。戦後はアリナミンで国民的ブランドを築き、抗がん剤リュープリンの米国展開で創薬型国際企業へ転換。1993年社長就任の武田國男はキノホルム薬害引当を片付け、非医薬の多角化を手放し医薬専業へ舵を切った。だが2010年代以降は買収で時間を買う路線へ転じ、2019年のShire買収(約6.2兆円)で世界トップ10入りを果たしたが、買収プレミアム回収と巨額有利子負債、アリナミン売却、グローバル経営人材の内部育成という宿題を抱えた。こうして240年事業の重心を川上へ移し続けた末、武田は「買う力」で次の成長を描けるかが問われている。
- アステラス製薬 — 1923年に山内健二が大阪・道修町で創業した山之内薬品商会を起点に、1985年のH2ブロッカー「ガスター」で欧米へ技術輸出した中堅が、2005年に大阪発の藤沢薬品工業と対等合併しアステラス製薬となった。武田に次ぐ国内2位級メガファーマで、2008年に開発本社を米国に置く。その後2010年のOSI約4000億円買収で前立腺がん薬XTANDIが世界標準治療となり、2016年3月期は売上1兆3727億円・純利益1936億円の最高益を記録。だが2017年就任の安川健司が「自前主義では勝てない」と外部導入を加速したため、2020年オーデンテスのAT132開発遅延、2023年IVERIC bio約8000億円買収と中止が相次ぎ、その結果2024年3月期純利益は170億円へ急落。岡村直樹体制は量から質への転換で立て直しを図る。
- 住友ファーマ — 1897年に大阪・道修町の薬種商21名が共同出資した大日本製薬は、108年の独立中堅期を経て2005年に住友製薬と合併し大日本住友製薬となった。2009年のSepracor約26億ドル買収でラツーダを米国精神科の柱に据え、FY17営業利益881億円の最高益。さらに2019年Sumitovant約30億ドル買収でオルゴビクス等3製品を取得しFY21売上は5,600億円へ膨らんだ。だが2022年に住友ファーマへ商号変更した直後、ラツーダ米国独占終了とキンモビ減損が重なり、その結果FY23は基幹3製品の計画崩れでのれんを一括清算、純損失約3,150億円を計上。野村博から木村徹へ社長交代し、北米1,000人削減を断行。FY24は当期利益236億円へV字回復、アジア事業を丸紅へ720億円で譲渡し米日2拠点へ縮約する。
- 塩野義製薬 — 1878年に大阪・道修町で塩野義三郎が薬種問屋として創業、洋薬へ業態転換のうえ1910年に塩野製薬所を設立し1949年に上場した中堅は、2008年就任の手代木功のもとで疾患領域を感染症一本に絞る選択と集中に踏み切った。武田・アステラス・第一三共が大型M&Aで欧米メガファーマ化するなか、領域を削り自社販売可能な規模に留める逆張りで、自社創出のインテグラーゼ阻害薬ドルテグラビルをGSKとの合弁ViiVで世界展開した。その結果2019年3月期は営業利益率38.1%、有利子負債は10年で社債9億円まで圧縮。さらに2022年11月には国産初の経口COVID-19治療薬ゾコーバが緊急承認され、2023年3月期売上は4,267億円と20年越しの過去最高を更新。問屋出自の中堅が領域絞り込みとロイヤリティ経営で財務構造を変えた。
- 中外製薬 — 1925年に上野十蔵が中外新薬商会として創業、ドイツ薬品の輸入代理から注射薬製造へ踏み出した。戦後は解毒剤グロンサンで基盤を築いたが単一製品依存が響き、1966年に無配転落と早期退職420名募集に追い込まれた。これを機に1970年代からバイオ研究へ着手、さらに1991年のノイトロジン上市で遺伝子組換え技術を蓄積し抗体医薬の土台とした。2002年、スイスのロシュと戦略提携を結び過半出資を受け入れ、創薬と初期開発に特化し後期臨床と海外販売はロシュ網に委ねるモデルへ移行。資本の過半を外国企業に預けつつ上場と経営自主性を保つ前例のない契約で、投資規模と海外販売網の壁を一度に解いた。その結果アクテムラやヘムライブラを世界展開、2023年12月期は売上1兆1114億円・営業利益4392億円、グローバル創薬企業へ姿を変えた。
- エーザイ — 1936年に田辺製薬常務の内藤豊次が東京三河島に副業で立てた桜ヶ丘研究所が起源。1955年にエーザイへ改称、1961年に東証一部上場した中堅は、抗生物質の価格競争を演じる武田・三共・塩野義から距離を取り、競争の薄い循環器系に絞った。1974年に世界初の代謝性強心剤ノイキノン、1997年にアルツハイマー治療剤アリセプト、2023年に疾患修飾療法レケンビと、四半世紀おきに「世界初」を重ねた。やがて2008年のMGIファーマ4137億円買収では財務規律を曲げ借入に踏み込んだが、そこから生まれた抗がん剤レンビマがメルク提携で2023年度2976億円まで伸び、レケンビ投資の原資となった。こうしてアリセプトで26年磨いた米国の認知症専門医ネットワークが参入障壁として効き、絞り込みと長期の待ちが大手と衝突しない経路を築いた。
- ロート製薬 — 1899年に山田安民が信天堂山田安民薬房として創業、胃腸薬「胃活」で出発し1909年に「ロート目薬」を発売、胃腸薬と目薬の二本柱で国内大衆薬シェア首位を築いた。少品種超量産と広告一点集中で40%シェアを取る高回転収益を実現したが、1983年に胃腸薬首位を譲り、症状別細分化への対応遅れが露呈。1975年に近江兄弟社倒産で宙に浮いたメンソレータム商標使用権を取得、1988年に米メンソレータム社を買収して所有型へ切り替え、軟膏を第三の収益源に据えた。さらに1991年の中国合弁を起点にアジア事業を構築し、アジア売上比率は6%から32%へ上昇。2001年から皮膚科学を生かしたスキンケアに本格投資し「肌ラボ」が第四の柱に育った。こうして山田家5代の同族経営のもと、大衆薬メーカーから総合ヘルスケア企業への転換を進める。
- テルモ — 1921年、北里柴三郎ら医学者が国産体温計の自給を志して赤線検温器を設立した。第一次大戦でドイツ輸入が途絶した医療現場への国産供給から出発し、1963年のディスポーザブル注射筒で消耗品メーカーへ事業構造を組み替えた。その後、1971年の欧米拠点設置を起点に海外展開を進め、1999年の3M人工心肺、2011年のカリディアンBCT、2016〜17年のボルトンメディカル等を取得して心臓血管・血液血漿・ホスピタルの3カンパニー体制を構築した。しかし買収事業の収益化に10年近くを要し、血液システム事業はFY15・FY16に赤字へ沈んだのちFY17以降に回復、FY24は売上収益1兆361億円・営業利益1,576億円、海外売上比率7割超に達した。こうして自前開発では届かない治療領域を買収で順に補完する経営パターンが定着した。
- 第一三共 — 2005年に三共と第一製薬の経営統合で発足した。2008年にインドのランバクシーを約5000億円で買収し新興国ジェネリック市場へ打って出るが、翌2009年3月期に同買収の減損を主因に純損失2155億円を計上、統合4年で巨額の穴を開けた。狙いだったオルメサルタン世界展開も誤算に飲まれて崩れる一方、社内では15人規模のチームが大手が次々に断念した抗体薬物複合体(ADC)の研究に着手していた。やがてその技術が2020年に抗がん剤エンハーツとして結実、FY24に売上収益1兆6016億円・営業利益2116億円へ拡大し、FY25は1兆8863億円のうちエンハーツが5528億円(約29%)を占めるまでに成長した。つまり後発薬で外した穴を、統合時に偶然結合した自前技術を15年温め続けて埋め切る経路を歩んだ会社である。
- 大塚HD — 1921年、徳島の塩田地帯で輸液工場として出発した。医薬品メーカーが酒販ルートでオロナミンCを売り、輸液の発想でポカリスエットを作り、米Pharmaviteを買収してネイチャーメイドを取り込み、自社創製の抗精神病薬エビリファイで世界の中枢神経市場に入り込んだ。こうして普通は同居しない医薬と消費財を、鳴門の塩田由来の化学プラント的工場運営で100年束ね続けた異色の企業である。リスクの取り方は一貫して「外す時は大きく外す」賭け方で、エビリファイ以後はその賭けが減損として周期的に顕在化、FY23には1724億円の評価損を計上した。それでもFY24は売上2.3兆円・営業利益3235億円の最高益を更新し、ニュートラシューティカルズが消費財として医薬の波を吸収する二階建て構造が中枢神経領域への賭けを財務面から支えている。
- 日本ペイント — 1881年、開成学校で化学を学んだ茂木重次郎がドイツ人化学者ワグネルから塗料製造技術を習得し、東京芝区に共同組合「光明社」を創業した。日本初の洋式ペイント国産化を果たしたが、唯一の顧客は海軍で需要構造の脆弱さが戦前経営を制約した。その後1898年に日本ペイント製造を設立し小畑家が約60年経営を担い、戦後は自動車需要で関西ペイントと二社寡占を形成した。やがて1962年シンガポールでの合弁が長期的転機となり、ウットラム社がNIPSEAを形成、2014年の第三者割当でアジア事業を連結化、2021年の1.3兆円増資で出資が過半に達し資本逆転が完了した。こうして豪Dulux・欧Cromology HDの大型買収を経てグローバル塗料企業へ転換し、2025年は中国弱含み下でプレミアム戦略と地域別差別化で利益成長を追っている。
- オリエンタルランド — 1960年、京成電鉄社長の川崎千春が渡米時にディズニーランドを訪れ日本誘致を構想した。私鉄経営の延長で浦安沖を埋め立てる計画が立案され、漁業補償4年・埋立工事11年を費やし京成の経営危機や三井不動産の撤回要請を越えて1979年にディズニー社と独占ライセンスのロイヤリティ契約を結んだ。こうして1983年開業の東京ディズニーランドは初年度から993万人を集め、アトラクション投資でリピーター比率約90%の集客循環を確立した。しかし1パーク体制打開へ約3,350億円を投じ1996年に東証一部上場、2001年に東京ディズニーシーを開業し入園者2,500万人を超えた。その後値上げと変動価格制で客単価を引き上げ、2024年ファンタジースプリングス開業を経てFY25は売上6,794億円・営業利益1,721億円の最高益となった。
- ヤフー — 1996年、ソフトバンクと米Yahooの合弁で設立された。ディレクトリ型検索を起点に日本最大のポータルへ成長し、Yahoo!オークションでCtoCを事実上独占してPC時代の象徴となったが、井上雅博社長16年の長期政権で組織慣性が強まりスマホ移行を読み違えた。しかし2012年の「爆速経営」で執行役員をほぼ総入れ替え、川邊健太郎ら旧電脳隊出身者を中核へ据え、Yahoo!ショッピング出店料無料化、アスクル・ZOZO買収、ソフトバンクとPayPay設立で広告・商取引・決済を束ねる経済圏づくりへ踏み出した。さらに2019年に米Yahoo株を買い戻して資本独立した。だが、2021年LINEとの経営統合と2023年LINEヤフー再合併を経て主導権はLINE側に移り、ヤフーがLINEを取り込む当初構図は逆転、組織一体化は道半ばにある。
- トレンドマイクロ — 1988年に米国で創業した台湾発のアンチウイルスベンダーが、1996年に持株会社を東京に据え、1999年NASDAQ・2000年東証一部の二重上場という異例の資本構成を整えた。研究を台湾、販売を各国現地法人、資本を東京に分けるグループ分業でPC向け対策で成長したが、FY07の営業利益率34%をピークに成熟期へ入った。しかし2016年TippingPoint買収で連結のれんが183億円へ跳ね、ネットワーク・サーバ・クラウドを束ねる多層防御へ転換、さらに2019年Cloud Conformity取得で設定監査、2022年VicOne設立で車載領域も取り込んだ。こうしてFY25は売上2,759億円・営業利益577億円まで戻し、Vision OneのARRを軸に、PC防御からAIインフラを守る側へ立ち位置を移している。
- サイバーエージェント — 1998年、24歳の藤田晋がネット広告の営業代行で創業し、クリック保証型「サイバークリック」で広告会社へ転換。2000年東証マザーズ上場で207億円を調達したがITバブル崩壊で評価損が膨らみ、2001年には村上ファンドの株主提案も受ける。しかし2003年終身雇用宣言で人材を束ね、2004年投資有価証券売却で黒字化し基盤を整えた。さらに2011年スマホシフト宣言でモバイルゲームを柱にし、2015年テレ朝とAbemaTVを設立、累計1000億円超でネットTVへ参入。ウマ娘ヒットでFY21は売上6,664億円・営業利益1,043億円と最高益。一方、AbemaTV投資負担で2019年12月総会の社長選任賛成率は57.56%まで低下し、2025年12月、藤田は創業以来初の交代で山内隆裕に引き継ぎポスト創業者時代へ入った。
- 楽天グループ — 1997年、三木谷浩史が月額5万円の固定料金で13店から仮想商店街「楽天市場」を始めた。百貨店系モールが月100万円の出店料を取る時代に敷居を一桁下げて商店主を取り込み、2002年固定料金制を廃し売上連動型へ転換、さらに2003年に旅行・証券を取得し三領域を整えた。こうして在庫を持たずクロスユースを生み、ID・ポイントで束ねる「楽天経済圏」は連結売上2兆4965億円、総資産28兆円まで膨らむ。2019年第4の携帯事業者として自前基地局網に踏み出し、2020〜2022年の累計純損失8400億円、有利子負債3兆4000億円に達したが、FY25にモバイルEBITDAが黒字化し契約1000万回線と営業黒字に到達。仮想化ネットワーク外販、みずほとの金融連合、自社LLMを並走させ、経済圏を通信とAIで拡張する局面に入った。
- 富士フイルム — 1934年、写真フィルム国産化を掲げ大日本セルロイドから富士写真フイルムを分離設立。1936年量産失敗で36万円の累積赤字を出すが、1938年小田原工場で立て直し、戦後は4大特約店体制で国内を押さえた。1962年富士ゼロックスで複写機参入、1977年F-II 400でコダックに技術優位を確立、1981年FCRで医療画像へ進み、1985年国内シェア70%超に達した。しかし2000年代デジカメ急成長で本業が消失する局面で、古森重隆下で持株会社化、富山化学買収、Merck CDMO取得、SonoSite買収を連鎖。さらに2019年富士ゼロックスを完全子会社化、バイオCDMOと日立画像診断取得でヘルスケアを強化。こうして後藤禎一体制のFY26はEMとバイオCDMOを成長エンジンに据え、複合テクノロジー企業の姿を固めている。
- コニカミノルタ — 1873年東京麹町で開業した小西屋六兵衛店を起点に、1929年フィルム製造、1949年東証上場を経て写真材料の老舗を築いた。1971年電子複写機事業で情報機器へ重心を移し、1987年コニカへ改称、2003年ミノルタと株式交換で統合、持株会社体制へ移った。デジタル化で祖業を失った後は複写機で再生したが、情報機器一本足の構造は2010年代に陰り、2017年米Ambry Genetics買収も統合難航と市況悪化で減損となった。その結果2024年AmbryをTempus AIへ6億ドルで売却、約5,200名削減、FY24は営業損失640億円・当期損失475億円を集中計上。しかしFY25Q3累計は営業利益333億円・当期利益214億円に戻し、社外取締役過半の体制下で半導体装置向け光学部品や機能材料を次の柱に据える局面にある。
- 資生堂 — 1872年、薬剤師免許第一号の福原有信が東京銀座で資生堂薬局を開き、1897年「オイデルミン」で化粧品メーカーへ業態転換。1923年関東大震災後の流通混乱を機に問屋を販売会社化するチェインストア方式を発明、1952年躍進五ヵ年計画で販売・広告・製造に集中投資、1964年国内シェア首位へ到達。しかし1997年の再販価格維持撤廃で前提が崩れ、ドラッグストアとネット口コミにチャネルを侵食。2005年から前田新造のメガブランド戦略、2014年に魚谷雅彦がVISION 2020で海外プレステージへ舵、2019年Drunk Elephant買収、さらに2021年パーソナルケア売却と米3ブランド譲渡で低価格帯から退く。2025年CEO藤原下のFY25はコア営業利益445億円・利益率4.6%、プレステージ作り替えの途上にある。
- 出光興産 — 1911年6月、出光佐三が福岡県門司で出光商会を興し機械油販売から事業を始めた。1940年3月に出光興産として法人化、1953年の日章丸事件ではイランへ自社タンカーを派遣し原油を直接輸入、1957年の徳山製油所竣工で元売から精製まで一貫体制を築いた。1963年には生産調整に反発して石油連盟を脱退、2006年10月の東証一部上場まで約40年、民族系最大手として独立路線を貫いた。しかし2010年代の需要縮小と原油急落で2015年3月期に純損失1,380億円を計上、2016年12月に昭和シェル株31.3%を取得し2019年4月に完全子会社化、業界4社体制を実質2社体制へ塗り替えた。こうして独立にこだわった会社が業界再編の主導者へ転じ、2023〜2030年度のカーボンニュートラル投資約8,000億円を掲げるまでに至っている。
- ENEOS HD — 1888年5月、内藤久寛らが新潟で日本石油会社を創業、1894年に日本石油株式会社へ改称し、1921年宝田石油・1941年小倉石油の合併で民族資本集約を主導した。戦後は外資・共同石油系と並立する分散構造を経て、1999年4月に三菱石油と合併、2010年4月の新日鉱HD統合でJXホールディングスが発足した。しかし2015年3月期に原油急落で純損失2,772億円、翌期も連続赤字となり再編の必然が露わになった。その結果、2017年4月の東燃ゼネラル吸収で国内元売シェア50%超を築き、2020年6月にENEOS HDへ商号変更、2023年10月の和歌山製油所停止で精製能力を193万から164万B/Dへ削減、2025年3月にはJX金属を分離上場した。油・ブランド・非鉄の三源流を脱炭素時代に解きほぐす段階に入っている。
- 横浜ゴム — 1917年10月、横浜電線製造と米B.F.グッドリッチの折半出資で横濱護謨製造を設立、電線会社の多角化として国産タイヤを生んだ。1923年震災と1945年空襲で平沼・鶴見・海外5工場を失う二度の危機を経て、1950年に東京・大阪両証取一部へ上場、1952年平塚へ集約し再建を果たした。しかし1960年代の量産投資でブリヂストンに首位を譲り、1978年連続赤字を機にADVANで性能差別化へ転換、住友ゴムの伸長で2000年代には三位へ後退し半世紀の踊り場が続いた。停滞を破ったのが2016年Alliance Tire買収以降の農機・産業用M&Aで、2023年Trelleborg・2025年Goodyear OTRを経てFY24売上は1兆円を突破した。こうして乗用車からオフハイウェイ領域へ利益源を移す第二の創業期に入っている。
- ブリヂストン — 1931年3月、石橋正二郎が日本足袋から独立、久留米にブリッヂストンタイヤを設立した。地下足袋のゴム加硫技術をタイヤへ転用、戦後モータリゼーションで成長し、1961年10月の上場まで30年非上場を貫いた。1960年の東京工場新設で2工場集中体制を組み単独首位を固めた。1988年5月にはピレリとの対抗TOBで総額26億ドルの米ファイアストンを買収、米欧11工場を獲得し世界有数の地位へ飛躍した。しかし統合は難航し、2000年に米650万本自主回収(損失818億円)の品質危機に直面した。その結果、四極体制と2007年バンダグ買収を経て、2019年トムトムテレマティクス買収以降は「ブリヂストン3.0」のもとモビリティソリューション企業への転換を進めている。
- AGC — 1907年、岩崎俊弥が板ガラス国産化のため旭硝子を設立、1909年尼崎工場で日本初の工業生産にこぎつけた。1944年戦時統制で三菱化成へ統合され旭硝子の名は消えたが、1950年の財閥解体で三分割・旧名で再発足、同年上場した。1981年グラバーベル買収で欧州・北米・アジアの三極体制を組み、2009年にはスマホ向け化学強化ガラスで電子部材へ重心を移した。さらに2016年以降はバイオCDMOを買収で積み上げ、2018年に社名をAGCへ変更しガラスとライフサイエンスの二軸経営を打ち出した。しかし2024年12月期にCDMOで1,248億円の減損を計上、2025年に米コロラド撤退とシングルユース絞り込みを決め、2026年利益目標を2,000億円から1,800億円へ下方修正、ポートフォリオ再点検を迫られている。
- 日本電気硝子 — 1944年、NECが真空管用ガラス内製化のため設立、1949年12月に従業員90名で独立し特殊ガラスメーカーとして再出発した。1965年には資本金3億円の会社が約20億円を投じ滋賀・高月にCRT専用工場を建設、旭硝子独占市場に第二供給者として食い込み、FY81には売上の54%をCRTに依存する基幹部材供給者へ躍進した。1987年にTFT液晶基板ガラスを立ち上げ、2000年オーバーフロー法でFY07に売上3,683億円・営業利益1,009億円のピークへ到達した。しかし韓国・台湾勢の追い上げでFY14売上は半減、2017年買収の欧州PPG事業は2019年に減損、2023年韓国整理で純損失262億円、2025年英国撤退と代償を繰り返し払う展開となった。その結果、EGP2028のもと半導体関連と超薄板ガラスへ重心を移している。
- 太平洋セメント — 1881年創業の小野田、1883年に浅野総一郎が官営工場を借り受けた浅野系、1923年の秩父 ── 明治以来3系譜のセメント会社は、1994年に小野田と秩父が、1998年に秩父小野田と日本セメントが合流して太平洋セメントとなり、国内シェア首位に立った。背景には国内需要のピークアウトがあり、2005年度5,909万トンから2024年度3,266万トンへ45%減少した市場で、1990年買収の米カルポルトランドを北米収益柱に育て、海外と値上げで縮小を埋めた。しかしリーマンショック後のFY08は純損失353億円、エネルギー高騰のFY22も純損失332億円、FY25はフィリピン子会社で減損244億円。その結果、統合で得た規模は同規模の損失を周期的に受け止める器となり、田浦体制下で値上げ浸透と原価改善に重心を置いている。
- 東海カーボン — 1918年、名古屋電燈の福沢桃介は木曽川水力発電の余剰電力の出口を探し、顧問技師・寒川恒貞の提案で電気製鋼所が消費する米アチソン製黒鉛電極を国産化するため、資本金50万円で東海電極製造を設立した。電力の副産物として生まれた会社は、電極とカーボンブラックの2枚看板で高度成長と円高を乗り越え、1992年の東洋カーボン合併で国内首位、2017年の米SGL買収でアジア・北米・欧州3極体制を築いた。その結果、中国環境規制と電炉鉄鋼需要急増が重なったFY18は売上2,313億円・純利益734億円の過去最高益に達した。しかし7年後のFY24は特別損失769億円・純損失565億円を計上し、2025年6月に滋賀工場の電極生産中止と独Tokai Erftcarbon譲渡を決定 ── 買収で掴んだ欧州拠点を自ら手放すことになった。
- TOTO — 1917年、森村組の大倉和親は「東洋市場」を狙って小倉に資本金100万円で東洋陶器を設立し、洋風建築便器の国産化に挑んだ。一次大戦後の不況で1923年に減資を迫られたが、皮肉にも同年の関東大震災が衛生陶器市場を初めて作った。つまり水回り国産化は震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒に成立した。戦後は団地・五輪需要に乗り、1969年に商標「TOTO」を統一、1970年に東陶機器へ社名変更、1980年に温水洗浄便座「ウォシュレット」を発売して家電製品を量産する業態へ脱皮した。1990年代に米国・中国・東南アジアへ拠点を分散配置し、2007年にTOTO株式会社へ商号変更。リーマンショックで純損失262億円を出したが、喜多村円体制下のリモデル経済化で立て直し、現在は中国不動産変調と国内リモデル深耕を並走させている。
- 日本ガイシ — 1919年5月、森村組系の日本陶器が碍子部門を分離し、資本金200万円で日本碍子が名古屋に設立された。「碍子」は高圧送電線の絶縁体を意味し、創業時の顧客は電力会社に限られた。1936年に点火プラグ部門を日本特殊陶業として分離独立、戦後の電源開発と朝鮮戦争で碍子需要が急増した。1964年の「6:4構想」で多角化に舵を切り、1976年フォード向けハニカム担体納入で自動車排ガス浄化セラミックスを収益柱に育て、1986年に漢字「日本碍子」を片仮名「日本ガイシ」へ変更。その後はNAS電池・半導体装置用部材へとセラミック技術の用途を乗り換え続けた。しかし2025年にはNAS電池を23年で撤退する一方、独1837年創業の熱交換器メーカーを270百万ユーロで買収し、2026年4月にNGKコーポレーションへ社名変更する方針を発表した。
- 日本特殊陶業 — 1936年10月、日本碍子のセラミック技術を基盤に日本特殊陶業が名古屋で設立され、スパークプラグ国産化を掲げて創業した。戦時中は航空機向け点火プラグで軍需に応えたが、終戦で軍需が消滅し1945年11月に2,000名を解雇、創業10年で存続が焦点の転機を迎えた。しかし戦後は自動車再建で需要が回復、1956年米国視察後の生産改善を経て1966年に国内シェア70%でデンソーを引き離した。その後は1959年ブラジル現地生産から海外展開を進め、1967年セラミックICパッケージ、1982年酸素センサーへ用途を広げた。リーマンショックでFY09は最終赤字に転落したが、2013年に10億本計画を打ち出して補修用主軸モデルを世界に拡張。2023年に英文商号をNiterraへ変更し、川合尊体制下で「セラミックスのその先へ」を掲げる。
- 日本製鉄 — 源流は1934年設立の旧日本製鐵で、戦後の集中排除法で八幡製鐵と富士製鐵に強制分割された。1970年3月、両社は再合併して新日本製鐵を発足、粗鋼生産量で世界最大級に到達し、翌71年稼働の大分製鉄所を主力に米鉄鋼業を追い越した。しかし1973年石油危機で構造不況に転じ、1978〜1987年に4次合理化、1988年釜石高炉停止。並行して1984年に半導体・シリコンウエハーへ多角化したが、20年の試行は失敗、1999年LSI事業部廃止で本業回帰となった。その後2012年に住金と統合し新日鉄住金、2017年に日新製鋼を完全子会社化、2019年日本製鉄へ商号変更。2023年12月にUSスチール買収計画を公表、2025年6月のクロージングを経て、2030年までに粗鋼能力の6割超を海外で賄う体制へ転換している。
- 神戸製鋼所 — 1905年、鈴木商店の番頭・金子直吉が艦船部品の国産化を狙って神戸の小林製鋼所を買収し神戸製鋼所と改称、1911年に独立した。1927年に母体の鈴木商店が金融恐慌で倒産しても本体は生き残り、鉄鋼・アルミ・銅・機械・溶接・建設機械を並立させる独立系の複合素材メーカーへ育つ。しかし複合経営はどの分野でも首位を取れない中途半端さを抱え、2009年以降4度も純損失を計上、2017年10月にはアルミ・銅製品の検査データ改ざんが発覚し信頼は地に落ちた。その後、2002年に副業として始めた神戸発電所IPP事業を山口貢体制で主力化し、2023年までに神戸4基+真岡2基の6基体制へ拡張した結果、2025年3月期には創業120年で過去最高の純利益1201億円を記録、鉄鋼市況に依存しない第3の柱を育てる局面に入っている。
- JFEホールディングス — 1990年代の国内鉄鋼需要低迷と設備過剰に追い込まれた川崎製鉄と日本鋼管は、2002年9月に共同株式移転でJFEホールディングスを設立、翌年4月にスチール・エンジニアリング・都市開発・技研の4社へ再編した。統合比率は日本鋼管0.75対川鉄1.00で川鉄主導となり、国内高炉業界は新日鉄・JFE・神戸製鋼の三極体制へ集約される。延命策のはずの統合は、しかし中国粗鋼生産の爆発的拡大を追い風に、2006年3月期に過去最高益3259億円を計上した。その後はリーマンショック・中国の過剰供給・コロナ禍で2012年と2020年3月期に最終赤字、2023年9月には京浜地区上工程休止で高炉を8基から7基に縮小した。さらに2024年からは北野嘉久新体制のもと、国内縮小と印JSW合弁を軸とするインド拡張への組み換えに舵を切っている。
- 日本製鋼所 — 1907年11月、北海道炭礦汽船と英アームストロング・ビッカースの日英三社共同出資で、民間兵器メーカー・日本製鋼所が室蘭に設立された。日英同盟と帝国海軍の軍拡を背景に、室蘭は砲身、広島は砲弾、武蔵は戦車という分担で戦時下の最大規模に達した。しかし戦後は兵器生産を停止し民需転換を迫られ、1950年に過度経済力集中排除法で解散・再設立、1961年に独アンケル社提携で射出成形機に参入する。油圧ショベルは小松・日立建機に敗れ1986年撤退、80〜90年代は赤字と人員削減が続き、2015〜17年3月期は風力発電機部品の不具合と室蘭減損で3期連続赤字に沈む。その結果、2020年4月に素形材・エンジニアリングをM&Eへ分社化、本体を産業機械・防衛機器へ転換、2025年3月期は過去最高益228億円で30年超の改革が実を結んだ。
- 三井金属鉱業 — 1874年、三井組が明治政府から神岡鉱山の払い下げを受け、1892年に三井鉱山合資会社を設立して三井財閥の非鉄部門を築いた。国内最大の亜鉛産出を誇る神岡を核に採掘から製錬まで一貫体制を構築、財閥解体で1950年に独立、高度成長期の需要で多角化を進める。しかし1971年ニクソンショック以降の円高と72年表面化のイタイイタイ病補償が直撃、1981年の再建計画から始まる鉱山縮小は2001年神岡採掘中止まで23年続いた。その間に銅箔やTABテープ等への転換を進め、2001年中計「MAP500」で電子材料をコアに据え、資源会社から先端材料メーカーへ自己定義を更新した。その結果2020年代は非鉄市況高騰とAIサーバー向け銅箔需要拡大で過去最高益に到達、25年度新中計のもと機能材料・金属両軸で構造改革と成長投資を進めている。
- 三菱マテリアル — 1873年、三菱合資会社が吉岡鉱山を取得、尾去沢・細倉・生野・明延を順次取得し1918年に鉱業部門を分離して三菱鉱業を設立した。戦前は財閥の鉱山・炭鉱を担う資源企業として国家供給を支え、戦後の過度経済力集中排除法で非鉄部門が太平鉱業として分離、後に三菱金属へ商号変更する。しかし1971年以降の円高と品位低下で国内鉱山閉鎖を強いられ、1987年までに主要鉱山整理を終えた。その結果1990年に三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し三菱マテリアルが発足、精錬・セメント・超硬工具を3本柱とする総合素材メーカーへ転じる。2017年12月のグループ品質不正で絞り込みへ動き、2022年UBE三菱セメント設立でセメントを切り離し、銅製錬と超硬工具を軸に再構築を進めている。市況追い風で2026年3月期は過去最高水準に到達しつつある。
- 住友金属鉱山 — 1691年、住友家が愛媛の別子銅山採掘を開始し、約230年にわたり直営する日本屈指の銅山として育てた。別子の銅は住友機械・化学・電工・林業・銀行など財閥事業群の資本供給源となり、明治期は広瀬宰平の機械化投資で近代鉱山へ生まれ変わる。1927年に直営から住友別子鉱山株式会社へ法人化、戦後の財閥解体で1950年に金属部門が住友金属鉱山として独立した。その後、1960年代以降は競争力低下と円高で段階的閉山が進み、1973年には原点の別子銅山も閉山となる。しかし1985年に鹿児島・菱刈鉱区で国内唯一の商業生産金山・菱刈鉱山を開山、米モレンシー・インドネシアのニッケル・チリのケブラダブランカ・カナダのコテ金鉱山など海外案件と電池材料(Ni系正極材)でEV時代に備えた。2025年は財務戦略見直しで資本効率重視へ転じている。
- DOWA — 1884年、藤田組が官営小坂鉱山の払い下げを受けて参入した。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混じる黒鉱の製錬が難航し閉山指示まで受けたが、久原房之助が1902年に黒鉱自溶製錬を確立、1906年に国内産出額一位となった。その後、花岡・柵原を加えて鉱種と地理を分散し、1945年に同和鉱業へ改称した。しかし1971年のニクソンショックと硫化鉱悪化で全鉱山が圧迫され、一万名の従業員を三千名へ縮める縮小均衡が続いた。2002年に吉川廣和が社長就任、市場性・競争力・社員のやる気の三基準で18事業を整理する「雑木林経営」を断行、環境・リサイクルへ転換し2007年3月期に過去最高益263億円を計上した。2006年にDOWAホールディングスへ移行、現在は環境・製錬・電子材料・金属加工・熱処理の五本柱で海外展開と複合コンビナート再構築を進めている。
- 古河電工 — 1896年、古河財閥は足尾銅山の銅加工のため横浜電線製造を設立、1920年に古河電気工業へ改称、戦後は電池・金属・アルミを束ね非鉄総合メーカーへ成長した。1990年合弁のJDSU株で2兆円規模の含み益を抱え、これを原資に2001年11月、古河潤之助社長は米ルーセントの光ファイバ部門OFSを約2,250億円で買収、光への転換に賭けた。しかし直後のITバブル崩壊で2003・2004年3月期に計2,541億円の赤字を出して潤之助は辞任、その後20年で非コアを切り離し情報通信・電装・機能製品の3セグメントへ収斂した。2020年代のAI需要で買収時の光ファイバ特許が生き、2025年3月期は売上1兆2,018億円・経常利益486億円まで回復、同年4月にLighteraで再出発し24年越しの回収段階に立っている。
- 住友電工 — 1897年、住友本店が経営難の日本製銅を買収して大阪に住友伸銅場を開き、銅電線と伸銅製品を始めた。1911年に電線部門を分離し1939年に住友電気工業へ改称、1931年イゲタロイ、1949年ハーネス、1974年光ファイバ立ち上げを経て自動車・通信・エネルギーの部品供給者へ姿を変えた。2006年の独ハーネス買収と2007年の住友電装子会社化で2008年3月期に営業利益1,489億円まで膨らんだが、翌期リーマンショックで235億円へ縮んだ。一方、長く赤字の情報通信が2024年度に生成AI光デバイス需要で黒字転換、売上4兆6,798億円・営業利益3,207億円と過去最高を更新した。2025年10月には住友電設売却と住友理工完全子会社化を公表し、自動車偏重から情報通信・環境エネルギーを含む多極化への転換点に立っている。
- フジクラ — 1910年3月、藤倉電線護謨合名から電線部門を分離して藤倉電線が誕生した。財閥の後ろ盾なき独立系として住友電工・古河電工と並ぶ「電線御三家」の一角を占め、「技術のフジクラ」を旗印に光ファイバ・光ケーブル・融着接続機へ資源を寄せ、1949年東証上場、1992年フジクラへ改称した。2005年に電力事業を古河電工合弁ビスキャスへ譲渡、2013年4カンパニー制でも収益は改善せず、その結果2020年3月期に自動車電装の構造改革で過去最大の純損失385億円を出した。2021年4月にカンパニー制を廃止し選択と集中へ戻し、2022年3月期に純利益391億円でV字回復した。さらに生成AI光ケーブル需要で2025年3月期は売上9,793億円・営業利益1,355億円・純利益911億円と過去最高、株価は5年で約50倍に跳ね上がった。
- しずおかフィナンシャルグループ — 母体の静岡銀行は1943年3月、戦時統制下で静岡三十五銀行と遠州銀行の合併で誕生した一県一行主義由来の地銀である。1961年東証一部上場、1974年葵リースを皮切りに証券・キャピタルを束ね、バブル崩壊後も公的資金に頼らず不良債権処理を完遂、2005年就任の中西勝則頭取がBPR・マーケットイン改革で組織文化を組み替えた。しかし2016年のマイナス金利で預貸金モデルが圧迫され、2020年4月に山梨中央銀行と「静岡・山梨アライアンス」を開始、経営統合でなく広域連携で収益を狙う柴田久社長の方針が形となった。さらに2022年10月に持株会社しずおかFGへ移行、2025年6月に八十二銀行を加えた「富士山・アルプスアライアンス」へ拡張、2025年3月期は連結純利益746億円・ROE目標8.5%で次の成長曲線を描いている。
- リクルートHD — 1960年に東京大学卒の江副浩正が個人創業した大学新聞広告社が源流で、1962年の「企業への招待」創刊から訪問件数勝負の営業文化を組織の背骨に据えた。1976年の住宅情報誌、2001年のホットペッパーと生活領域へ多角化を広げる一方、子会社リクルートコスモスの未公開株譲渡が1988年のリクルート事件に発展し、江副は社長辞任、1989年に逮捕された。バブル崩壊で1995年3月期末に有利子負債は約1.4兆円まで膨張、ダイエーへの株式売却と買い戻しを経て1997年就任の河野栄子のもと、OPT制度や派遣事業取り込みで12年かけて返済を完遂した。しかし2012年、当時36歳の出木場久征が約1000億円でIndeedを買収し、2014年10月に時価総額1.82兆円で東証上場、2018年にGlassdoorを取り込んでHRテクノロジーを連結の主役に据えた。こうして2025年度通期は売上収益3兆6647億円・EBITDA+S 7638億円の最高益見込みとなり、国内情報誌企業から米国HRプラットフォーム企業への変態を不可逆にした。
- オークマ — 1898年に大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業し、1904年に工作機械へ転じ、1916年に大隈鐵工所へ改称、1918年7月に株式会社化した。1949年5月に名古屋・東京・大阪で上場、1966年には数値制御装置「OSP」を自社開発し、富士通製NCを搭載する分業構造が主流の業界で機械と制御の両方を持つ稀有なメーカーとなった。しかし1973年のオイルショックで業績悪化、1976年には従業員の約20%にあたる380名の希望退職と社長個人ベンツの売却まで踏み込んだが、1980年に経常利益55億円で再建を果たした。その後1991年に社名をオークマへ改め、1993年末からのバブル崩壊後には676名の希望退職と定年60歳から56歳への引下げを打ち出すも、労働省の異例の説明要請で撤回し前田豊社長が引責辞任、人員削減を世に問わない静かな再建が組織に染み付いた。2009年のリーマン・ショックで売上は1673億円から603億円へ3分の1に縮み純損失188億円を計上したが、2008年6月就任の花木義麿は2013年からドリームサイト群を順次新設し、機電情知一体の統合設計を量産現場で具現化した。こうしてFY22は売上2276億円と過去最高水準まで回復し、2018年6月就任の家城淳が「令和は自動化の時代」を掲げ次の構造転換を進めている。
- アマダ — 1946年9月、天田勇が東京都豊島区高田南町で天田製作所を創業し、修理業や水道局向け部品製造の町工場として出発した。大手工作機械メーカーが市場規模の限定を理由に見送った金属用ハンドソーに着眼し、輸入機械を買う余裕もないなかカタログと特許資料だけを頼りに独自設計を進め、1955年に国産1号機を完成させた。創業者・天田勇はメーカーこそ営業力を持つべきだと確信し、1965年から大手商社代理店への依存を捨てて自社直販網を構築、分割払いで中小板金業者を開拓し、1961年に東証2部、1969年に東証一部へ昇格した。1971年の米シアトル進出を皮切りに欧州・中国・東南アジアへ販売網を広げ、1973年の園池製作所、1978年のワシノ機械、1986年の仏プロメカム・シッソン・レーマン社など不振の競合を次々と取り込み、板金機械業界の再編者となった。しかし2009年のリーマン・ショックで売上は1360億円・営業損失96億円と創業以来初の赤字に沈み、2003年就任の岡本満夫が掲げたエンジニアリングのアマダ路線とレーザー加工機への重点投資で立て直し、FY23には売上4035億円・営業利益565億円と過去最高益を更新した。こうして2018年のMarvel・オリイメック二重買収を経て持株会社体制を5年で解消し、2022年4月に東証プライム移行、2025年にはエイチアンドエフを過去最大級のM&Aで取り込んでいる。
- ディスコ — 1937年5月、広島県呉の海軍工廠で働いていた関家三男が独立し、砲弾研磨用の工業砥石を製造する第一製砥所を創業した。戦後は積算電力計用磁石の切断砥石へ舵を切り、1958年11月に株式会社化して本社を東京都港区芝へ移し、1965年にはパイロット社向けに0.14mmレジノイド砥石を独自開発、1968年にはシリコンウエハー切断砥石へ踏み込んだ。1969年に米国DISCO ABRASIVE SYSTEMSを設立して半導体メーカー集積地に直販拠点を置き、1975年にダイシングソー販売を開始、1977年4月に商号をディスコへ変更してダイシングソー世界シェアは1980年に約60%に達した。しかし1992年に半導体拡散炉事業から撤退して50億円の損失を計上、賃金カット・残業規制・早期退職制度に踏み込み、1997年に事業領域を「切る・削る・磨く」に絞るDisco Valuesを制定、社内通貨Willで経常利益を社員の経費権限に連動させる仕組みを組み込んだ。1999年12月に東証一部上場、2008年から第3代の関家一馬が自律経営体制を運用し、ダイシングソー世界シェアは2010年代に約70%まで拡大した。こうしてFY24は売上3933億円・営業利益1668億円・営業利益率42.4%と生成AI時代の象徴的な数字に到達し、HBM・先端ロジック向けパッケージングで高精度化への要求が一段と高まった。
- 日本郵政 — 1871年に前島密の建議で始まった新式郵便は、1873年の郵便料金全国均一制、1875年の郵便為替・郵便貯金、1916年の簡易生命保険と段階的に拡張し、郵便局は手紙・貯蓄・保険を一括して扱う複合窓口として明治から大正にかけて全国へ広がった。1980年代末には郵便貯金残高が民間都市銀行を上回り、約2万4000局の郵便局網は国内最大の店舗網に膨らんだが、民業圧迫論が1990年代の行革で焦点となり、小泉構造改革は2007年10月に4社分割民営化を実施、2015年11月には3社同時上場という戦後最大級のIPOで仕上げた。しかし上場直前に約6200億円で買収した豪Toll Holdingsは翌2017年3月期にのれん減損で連結純損失290億円を計上、2019年にはかんぽ生命の不適切販売問題が数十万件単位で発覚し業務停止命令を受け、2021年3月には楽天グループに1500億円を出資した。2024年10月には30年ぶりに郵便料金を改定し通常はがき63円を85円へ引き上げたが構造的赤字を覆い隠すには至らず、2025年4月にトナミHDを子会社化、ロジスティードHDとも資本提携を結んだ。こうして2025年6月発足の鈴木康雄体制のもと、同年11月の次期中計骨子では総合物流企業化への転換を打ち出し、公共性と株式会社性の両立は民営化20年を経ても次期中計に持ち越された課題となっている。
- 豊田自動織機 — 1926年11月、豊田佐吉のG型自動織機を量産するため豊田紡織の子会社として愛知県刈谷町に豊田自動織機製作所が設立された。英プラット社に特許実施権を供与するほどの技術水準を誇り、1933年に社内へ自動車部を設置、1937年8月にはトヨタ自動車工業として分離独立させた。しかし1951年の朝鮮特需終焉で繊維機械需要は構造的低迷へ転じ、社長を兼任した石田退三は1600名の余剰人員を雇用維持のためトヨタ向けOEMへ振り向け、1952年にS型エンジン、1953年に車両組立、1956年にはフォークリフトの自社生産を開始してトヨタ自販の販路で国内シェア首位を確保した。並行して1960年からカーエアコン用コンプレッサーを量産、1967年の長草工場でスターレット・スプリンター・カムリの受託を順次拡大し、織機メーカーからトヨタグループの中核部品・車両受託会社へ実態を変えた。その後2017年には独キオンの統合提案への危機感から蘭Vanderlande社を約1400億円で買収し、物流ソリューション事業で世界4位へ浮上した。こうして2025年6月にはトヨタ自動車が1株16300円でTOBを予告し、米エリオット・マネジメントが7%超を積み増して価格の過小さを公に指摘、1950年代以降固定化した親子構造に資本市場から異議が突きつけられる歴史的局面を迎えた。
- SMC — 1959年、東京タングステン出身の大村進が東京・千代田で焼結金属工業を設立し、空気圧機器向けフィルター製造から出発した。1960年に補助機器の完成品製造へ進出、1971年までに圧縮空気浄化機器とシリンダーを内製化してコンプレッサーを除く主要機構を12年で一貫生産化した。さらに1960年の大阪営業所を皮切りに全国直販網を張り、代理店の在庫保有を禁じて品目24万点を本社に集約、1983年のオンライン受発注で受注から平均48時間以内の即納体制を築いた。在庫リスクを引き受け数理統計で需要を読む逆張り設計が、同業が模倣しにくい高利益率モデルとして固まった。1987年に東証2部上場、1989年に専務から昇格した髙田芳行が約30年のトップダウン経営で年200億円規模の海外設備投資を継続し、2000年のSMC北京製造を皮切りに海外売上比率は7割を超えた。しかし2016年には海外調査会社からの会計疑義で株価が一時35%下落する局面もあったが、収益構造は揺るがず市場の懸念を払拭した。こうして2021年に長男の髙田芳樹へ世襲、2024年3月期は連結売上高7,768億円・当期純利益1,783億円の過去最高を更新し、空気圧機器の世界首位を堅持している。
- コマツ — 1921年、竹内鉱業の機械部門が独立する形で石川県小松に小松製作所が設立され、鉱山機械・採掘機械・電気鋳鋼を初期事業として出発した。1931年に農林省要請でトラクター製造を開始し、1938年に粟津工場で満州向けに販売したが、終戦後にトラクター発注が白紙撤回され深刻な経営危機に直面、100日ストライキを経て就任した河合良成社長は1949年から米軍向け砲弾生産で経営を安定させた。しかし売上の72%を砲弾に依存する構造はアナリストから危険視され、朝鮮戦争終結を受けて1956年にブルドーザーへ全面転換、1947年のD50試作以来蓄積した技術が即座に量産体制へ移行した。1960年の資本自由化大綱でキャタピラー三菱が設立されると、河合は全社的品質管理と米カミンズ社製エンジン搭載で品質防衛に成功し、1968年に油圧ショベルへ後発参入、650拠点の直販網を活かして1976年に国内シェア首位を獲得した。1998年開発のKomtraxはIoT普及前に建機のデジタル化を実用化し、2017年のジョイグローバル買収で鉱山機械をフルライン化、こうして2022年3月期は連結売上高2兆8023億円・当期純利益2372億円に到達した。近年はバッテリービジネス参入や2ラインモデル戦略で電動化・自動化・カーボンニュートラルへの本格対応が経営の最前線を形成している。
- 住友重機械工業 — 1888年に愛媛県新居浜の別子銅山で発足した住友別子鉱業所工作方が源流で、1928年に新居浜製作所へ改称、1934年に住友機械製作所として独立法人化された。戦後の財閥解体で住友グループからの発注理由を失い、1954〜55年に2期連続赤字、1955年3月期は資本金2.7億円を上回る6.9億円の損失で鮫島竜雄社長が引責辞任した。資産再評価積立金で欠損を補填し1961年名古屋・1965年千葉・1966年スイスのネスタール社提携で射出成形機と拠点を分散、1969年6月には浦賀重工業と合併して住友重機械工業が発足、1972年に追浜の50万トンドックを構えて大型タンカー時代の重工業メーカーとなった。しかし1985年プラザ合意後の造船不況で1987年と2001〜2002年に2度の1000名規模の希望退職を断行、2008年以降はSHI Demag・Hansen・SHI FW・Lafert・Invertekと欧州M&Aを積み増し造船依存からの脱却を進めた。こうして合併から55年後の2024年2月、ついに新造船事業からの撤退を発表し、置き土産として1983年に米Eatonと組んだ半導体イオン注入装置事業(2009年に合弁解消し完全子会社化)が骨太事業の筆頭に据え直された。2025年12月就任の渡部敏朗社長CEOは500名規模の希望退職と新日本造機の149億円事業譲渡を同時に発表し、造船会社から半導体装置メーカーへという重工業では珍しい転身が今まさに進行している。
- 日立建機 — 1948年に建設省が日立製作所へパワーショベル2台を発注したことが日立建機の源流で、戦時中に車両・起重機・戦車で蓄積された重機械技術を民需へ転用する形で事業が始まった。1949年にU05、1950年にU06を量産化し、1955年には日立建設機械サービスを設立、1960年代の割賦販売で新車販売の80%が割賦取引となり借入金は134億円に達した。1970年10月に日立建設機械製造と旧日立建機を合併して新生日立建機を発足させたが、自己資本比率はわずか6.4%、1971〜72年に2期連続経常赤字で累計28.1億円の損失を計上し自己資本比率は1.8%まで低下した。しかし1974年に足立工場を閉鎖して跡地を売却、土浦工場へ135億円を投じて一貫生産体制を築き、1981年に株式上場を実現した。1983年から米ジョン・ディア社、1986年から伊フィアット社とOEM提携で北米・欧州を開拓し、2001年からはフィアットとの提携を解消してアムステルダム工場を新設、自社ブランドへの二段階移行を成功させ2007年度に欧州売上1672億円を計上した。こうして2009年のカナダ・ウェンコ社買収で鉱山機械へ進出、2021年にディアとの北米提携を解消、2022年1月には日立製作所が保有株式約26%を伊藤忠商事らのHCJIへ売却して筆頭株主が交代、2026年には社名を「LANDCROS」へ一新して独立した総合建機メーカーとしての第2の創業を宣言する段階を迎えている。
- クボタ — 1890年、19歳の久保田権四郎が大阪で鋳物屋「大手鋳物」を個人創業したのがクボタの源流で、外国の技術書も海外指導者も存在しない状況から7年の試行錯誤を経て1897年に「合わせ型斜吹鋳造法」を独力で開発し、国産鋳鉄管の量産技術を日本で初めて確立した。1900年代には国内シェア60%規模の鋳鉄管メーカーとして戦前の水道インフラを牽引したが、1919年設立の実用自動車製造による三輪車・四輪車参入はカーブでの横転事故などで失敗、1947年に戦時の発動機生産設備を耕うん機へ転用して農機分野へ本格参入し、1961年の農業基本法を追い風に国内農機市場の地位を固めた。1972年には廣慶太郎社長が国内代替需要への危機感から米国クボタトラクターCorp.を設立、40〜100馬力帯と20〜40馬力帯の小型トラクタでジョンディアとの正面対決を避けたニッチから北米市場へ食い込んだ。しかし1999年2月に公正取引委員会が約30年続いた鋳鉄管ヤミカルテルを認定して3社を刑事告発、2005年6月にはクボタ神崎工場周辺の住民石綿被害が報道され2006年3月期に救済金33億円を計上、二度の経営危機で経営トップが交代した。こうして2012年にノルウェーのKverneland ASAを約181億円、2022年にインドのEscortsを買収して欧州とインドを取り込み、2019年12月から基幹システム刷新「K-RISE」を始動、2023年までに連結売上3兆円・営業利益3000億円規模へ到達したが、2025年は北米トラクタ市場縮小と米国相互関税の影響で量からROIC重視への経営モデル転換を迫られている。
- 荏原製作所 — 1905年に東京帝大の井口在屋が世界初の渦巻ポンプ理論を発表し、その弟子の畠山一清が1912年に東京日暮里でゐのくち式機械事務所を起こした。1920年に株式会社荏原製作所を品川で設立、東京市の入札を突破口に輸入品を駆逐し昭和初期には国内シェア60%を握った。1949年に東証・大証一部へ上場、1956年の荏原インフィルコ設立で水処理へ、1965年の藤沢工場で標準ポンプ量産へと領域を広げた。しかし2003年3月期にはガス化溶融炉のゴミ処理プラント工期遅延で285億円の最終赤字に転落し、2007年には副社長横領で社長交代、同年売却した羽田工場跡地は2019年最高裁でアスベスト訴訟敗訴と、2000年代は不祥事と特別損失が続いた。その間、1987年に藤沢で蒔いた半導体向け真空機器の種が2001年の熊本CMP装置を経て育ち、2015年の指名委員会等設置会社移行と2018年就任の浅見正男体制下で精密・電子事業が主力へ昇格した。こうして2024年12月期に売上収益8,667億円・営業利益980億円の過去最高を記録し、2025年3月就任の細田修吾は売上1兆円を公約として掲げ、老舗ポンプ会社が半導体装置会社へ姿を変える途上にある。
- ダイキン — 1924年、大阪砲兵工廠出身の山田晃が大阪・難波新川に合資会社大阪金属工業所を設立し、飛行機用ラジエーターチューブから出発した。元上司の推挙で陸軍指定工場となり砲弾製造で急成長した戦前の軍需ベンチャーは、1933年に技術顧問の退役海軍少将・太田十男の進言でフレオンガス研究に踏み切り、1935年に国内初のフロン生産に成功して空調・化学プラントへの足がかりを得た。戦後は朝鮮戦争の米軍向け81ミリ迫撃砲弾特需で経営危機を切り抜け、得た資金を冷凍機とフロンへ再投資して砲弾メーカーから空調メーカーへと企業性格を根本から組み替えた。1995年の中国進出では業務用空調を官公庁・オフィス向けに絞った差別化で高収益モデルを築き、1998年からの欧州本格展開はローカル販社の連続買収で販路を拡大した。こうして2006年にマレーシアのOYL社を約2,460億円、2012年11月に米住宅用空調首位のGoodman社を約2,950億円で買収し、グローバル空調メーカーの地位を確立した。2014年から十河政則が社長兼COOに就き井上礼之会長との二人三脚体制で運営してきたが、2025年は米国関税影響290億円・北米住宅用需要の急減・データセンター向け急拡大という三方からの圧力に直面し、次期中計では北米首位と資本効率改善の同時達成が課題となった。
- 日本精工 — 1916年11月、資本金35万円で東京都品川区に日本精工が設立され、鉄道・工作機械・自動車の動力を伝える軸受を輸入から国産へ置き換える専業メーカーとして出発した。1962年の米NSKコーポレーション設立を皮切りに米欧・アジアへ製造販売拠点を積み上げ、1990年には英UPI社買収で欧州製造・販売網を拡張し、SKF・シェフラーに次ぐ世界3位の座を100年かけて築いた。しかし売上の6割を占める自動車部品は電動化とインフレに直撃され利益率を長く押し下げ、2023年には主力のステアリング事業を投資ファンドJISへ預けるところまで追い込まれた。一方で2021年に英BKV(ブリュエル・ケアー・バイブロ)を買って始めたCMS事業は、産業機械を売り切り型から状態監視まで含めた継続収益型へ組み替える仕掛けとなった。こうして2025年3月期はJIS主導の構造改革で売却時90億円赤字から43億円利益へと反転したステアリング事業の買戻しに合意したが、連結営業利益は285億円(営業利益率3.6%)にとどまり2015年3月期のピーク10%には程遠い。市井明俊体制は欧州ポーランド工場の再編とDX1000億円投資、電動油圧ブレーキ用ボールねじの拡販を並走させ、2026年5月の次期中計発表で軸受専業への回帰とCMSによる収益モデル転換の同時達成を再定義する局面に立つ。
- NTN — 1923年、三重県桑名の町工場が「NTN」の3文字ブランドを名乗り、そこから100年かけて世界4位級の軸受メーカーへ育った。鉄道・工作機械・自動車のあらゆる回転部に必要とされる標準部品でありながら、世界最大手のSKFやシェフラーといった欧州勢と国内首位のNSKに挟まれ、数量と単価の両面で主導権を取りにくい産業のなか、NTNは欧州・北米への現地生産投資を重ね2000年代にはフランスの老舗メーカーを子会社化するところまで踏み込んだ。しかし2013年・2014年は欧米カルテル制裁金で2期連続の巨額損失、2020年3月期はコロナ前夜の需要減で純損失440億円という創業以来最大級の赤字を計上し、モデルライフが長く値上げの通りにくい自動車軸受は赤字の温床となった。2024年、鵜飼英一社長は中期経営計画に「Final」の名を付け、過去の過大投資を3年で一掃すると宣言、構造改革費用350億円を3年累計で積む異例の計画を打ち出した。こうしてFY24は構造改革費用189億円を先行計上して純損失▲238億円に着地し、FY25 1Hでは売上4,023億円・営業利益129億円と減収増益で着地、通期予想を上方修正した。風力発電向けセンサー、航空機向け軸受、インド市場のCVJ倍増を成長軸に据え、欧州買収と自動車依存が残した重荷を桑名集約と海外拠点再編で解消する途上にある。
- ジェイテクト — 1921年に大阪で生まれた光洋精工と、1941年にトヨタ自動車から分離独立した豊田工機──軸受メーカーと工作機械メーカーという異なる出自の2社が、2006年のトヨタグループ部品再編の号令で合併しジェイテクトが誕生した。ステアリング世界シェアNo.1、ベアリング国内3強の一角、工作機械という3事業を同時に抱える珍しい企業としての出発だったが、合併直後のリーマン・ショックで2期連続の赤字に沈み、3事業をどう一つの会社としてまとめ上げるかという課題を残したまま約20年が過ぎた。2024年、生産技術出身のプロパー社長・近藤禎人が就任し、会社の価値や意義を表す一言が見つからなかったとも語ったとされる。北米では生産効率悪化のロスコストが約80億円規模で発生していたが、3チーム構成の北米タスクフォースチームを投入し、FY25 2Q時点で価格適正化50億円・生産性改善15億円の効果を上げ上期黒字化を達成した。さらに2025年8月には欧州ニードル・ローラー・ベアリング事業の譲渡を完了し、合併以来の重荷だった欧米事業がようやく再建の見通しを得た。こうしてトランプ関税の年間50〜60億円のコスト影響には顧客との転嫁交渉と仕入れ切替で凌ぎつつ、近藤は「能動型」ビジネスへの転換を掲げ、ソリューション共創センターと統合制御ソフト「Pairdriver®」で次期中計に向け一つの顔を持つ会社への再定義を試みている。
- ミネベアミツミ — 設立1年で経営危機に陥ったミニチュアベアリング専業メーカーは、1952年に鮎川義介の仲介で高橋精一郎を筆頭株主に迎えて再建の道筋をつけた。1966年に社長へ就いた高橋高見は1971年のニクソン・ショック後にシンガポールへ、1980年にタイへ生産を移し、1988年までにベアリング生産の99%を海外に置いた。国内銀行が尻込みした投資をスイス外債などで賄い、円高のたび競合の価格競争力が削られる裏で同社の利益は厚みを増した。1971年には東証・大証・名証一部上場と米SKF社REED工場買収を同年に重ね、海外移管のスピードがそのまま成長スピードを規定する経営モデルの骨格となった。しかし1984年のDRAM参入や1985年の三協精機TOBなどの多角化は迷走し、2008年まで連結売上3,000億円前後の壁を越えられずベアリング偏重のまま20年が過ぎた。2008年就任の貝沼由久は独myonic取得に始まる中小M&Aを連打し、2017年のミツミ電機統合を起点に「部品のユニクロ」と称する垂直統合を掲げ、ユーシン・エイブリック・ホンダロック・日立パワーデバイスを取り込んだ。こうして売上収益は2017年3月期6,389億円から2025年3月期1兆5,227億円へ倍増し、貝沼はベアリング・半導体・モーター・アクセス製品を「4本槍」と定義して光デバイス・機構部品を非コアに切り分け、為替先回り型の立地戦略を米中対立下で再点検する段階に入った。
- 日立製作所 — 1910年、技術者・小平浪平が久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場で5馬力誘導電動機の国産化に成功した。輸入電機へのロイヤリティへの問題意識から外国提携を避ける国産技術主義を掲げ、創業から40年以上にわたり自前の研究開発に資源を集中した。1920年に株式会社日立製作所として独立、1921年に日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて鉄道車両にも進出、戦時期の合併で18工場体制まで拡張し、戦後の労働争議と大量人員削減を経て1949年に東証へ上場した。戦後の技術格差を前に国産技術主義を転換し、1952〜54年にRCA・GE・WE各社と提携してテレビ・発電機・半導体に同時参入、非電機事業を子会社化して上場させる親子上場構造を60年以上維持しつつグループを拡大した。しかし2009年3月期に製造業として過去最大の7,880億円最終赤字を計上し、子会社会長から呼び戻された川村隆が構造改革を断行、テレビ自社生産やHDDから撤退し上場子会社の整理を進めた。こうして2020年のスイスABBパワーグリッド事業約7,200億円、2021年の米GlobalLogic約1兆円の大型買収を経て社会インフラとデジタルの融合企業へ転換、2024年3月期は連結売上9兆7,287億円・過去最高水準の営業利益を記録した。2024年4月就任の徳永俊昭体制下でLumadaを共通言語にグローバル人事制度と海外比率引き上げを進めている。
- 三菱電機 — 1921年1月、三菱造船(現三菱重工業)神戸造船所の電機製作所を継承する形で三菱電機が発足し、神戸製作所での変圧器・電動機・扇風機から事業を始めた。1923年の長崎、1924年の名古屋と順に拠点を広げ、戦時期には大阪・福山・中津川・郡山・和歌山・姫路を新設して10以上の国内製作所を擁する重電メーカーへ成長した。1944年に研究機能を本店研究部から研究所へ格上げし、財閥解体と企業再建を経て1949年5月に東証へ上場、戦後は静岡(民生用冷機)・北伊丹(半導体量産)・鎌倉(エレクトロニクス)と重電の軸足にエレクトロニクス・半導体・家電を重ねた。1977年の4事業本部制から1993年の9事業本部体制まで総合電機の典型を形づくったが、2001年の「Changes for the Better」と2003年の委員会等設置会社移行で本部単位の集約と選択集中に転じ、2016年にはイタリアの業務用空調デルクリマを完全子会社化した。しかし2021年の長崎製作所での鉄道車両向け空調機器の架空検査発覚で杉山武史社長が辞任し、専務の漆間啓が緊急登板する事態に陥った。こうして2025年は2,378人が応募したネクストステージ支援制度(早期退職)と3年で1兆円のM&A投資枠を同時に動かし、米国関税影響300億円とレアアース輸出規制という新たなリスクを抱えながら、2025年3月期の連結営業利益は過去最高水準の3,918億円へ更新した。
- 富士電機 — 1923年、古河電気工業とドイツ・シーメンスが合弁で設立した富士電機は、資本金1,000万円のうちシーメンス分300万円が機械現物と技術供与の振替だったため設立時点から現金不足を抱え、1923年度から1931年度までの9期中7期で最終赤字となった。川崎工場の新設は借入に依存し、日立・三菱電機・明電舎が先行する重電市場での後発参入は4期連続減収につながり、1931年に名取和作社長は全従業員の16%にあたる205名の人員削減を実施し自らも引責辞任した。合弁出自が生んだ構造的な資金制約は戦前期の収益力を長く縛った。それから78年後の2009年3月期、リーマン・ショックで純損失733億円・営業赤字188億円を計上し、2009年6月就任の北澤通宏社長はパワー半導体への集中を選びSiC(炭化ケイ素)モジュール開発と松本工場への増産投資を進めた。こうしてEV用インバータと再エネ向け需要を取り込み2024年3月期に営業利益1,060億円・純利益753億円の過去最高を記録、2024年11月にはデンソーと総額2,116億円のパワー半導体共同投資を決定し経済産業省から705億円の補助も得た。2025年度はSiC生産能力を2.5倍へ引き上げ、北米データセンター向けの一貫供給で「まるごと提案」を展開、合弁出自の後発企業がパワー半導体という特定分野で世界的な競争力を持つ事業会社へと姿を変えた。
- 安川電機 — 1915年に九州で創業した安川電機は、創業から17年間赤字を垂れ流したのちに重電からの撤退と「安川のモートル」への特化で息を吹き返した。1964年には家電を避けて産業用モータという地味な領域に活路を見出し、この選択が1977年のMOTOMAN開発とその後のサーボ・インバータ・ロボットという三本柱につながった。日本で初めて工業用ロボットの量産に踏み込んだ拠点は、半導体・自動車・電子部品の生産自動化に深く食い込み、産業用モータと同じく地道な内製主義で世界市場の一角を取った。しかし2016年策定の「2025年ビジョン」で掲げた営業利益1,000億円・営業利益率15%の目標は、中国ローカル勢の台頭と半導体市況の読み違いで2025年に達成断念を迫られた。2024年度(2025年2月期)は売上収益5,376億円・営業利益501億円にとどまり、4Qには棚卸評価損約40億円が発生、小川昌寛社長は決算説明会で「市場環境に対して読みが楽観的過ぎた」と率直に認めた。こうして2016年の長期計画策定から10年、初めて自ら設定した長期目標を下ろした安川は、量依存からROIC重視への転換を宣言し、代理店経由からアカウントベース営業へとシフトした。さらに2025年10月には東京ロボティクス株式取得とNVIDIA・富士通との三社協業を発表、慎重に距離を置いてきたヒューマノイドロボット分野に本格参入し、次の跳躍先を探っている。
- ソシオネクスト — 2014年9月に富士通とパナソニックの受け皿として準備会社が横浜に設立され、2015年3月の会社分割で両社のSoC事業を統合してソシオネクストが発足した。エルピーダ破綻・ルネサス再建・東芝半導体分社が連続した日本半導体再編の最終局面で、汎用品とカスタム設計受託を抱えた混成会社として船出した。2016年に米Bayside Designを取得して北米設計力を補強、2018年4月に汎用品延命を断念し顧客ごとに設計するSolution SoC専業へ舵を切った。こうして2022年10月に東証プライムへ上場、富士通・パナソニック・日本政策投資銀行からの資本独立を果たし、2024年3月期に売上高2212億円・営業利益355億円・営業利益率16.0%の最高業績へ到達した。しかし2025年3月期は中国通信機器向けの在庫調整長期化で初の減収減益(売上1885億円・営業利益250億円)に転じ、2025年10月には中国車載向け新規量産品の原価率悪化で通期予想を下方修正した。成長ドライバーが短期的に利益を押し下げる逆説の解消が、肥塚雅博体制の正念場となっている。
- ニデック — 1973年7月、27歳の永守重信が京都市西京区で資本金200万円の日本電産を創業した。国内では「若すぎる」と門前払いされ、渡米して3Mから5億円の注文を取り、海外実績を国内信用の梃子に変える営業の型を固めた。1979年にHDD向けスピンドルモータの開発に着手し、1989年に世界シェア72.2%、同年に信濃特機をティアックから買収して約88.7%の独占体制を築いた。しかし1995年3月期にHDD需要急減で25億円の最終赤字に転落したのを機に、永守はM&A主軸の多角化へ舵を切り、共立マシナリ・三協精機・日本サーボ・エマソンのモータ事業・ワールプールのエンブラコ・三菱重工工作機械・TAKISAWAなど累計60社を超える買収で車載・家電・産業用へ事業を広げた。2023年4月、創立50周年を機に商号を日本電産からニデックへ変更、2024年2月に元ソニー出身の岸田光哉が社長に就任して創業者と並走する後継体制が発足した。2024年3月期の連結売上高は2兆3471億円に達し、HDDモータ一本足の零細企業から半世紀で総合モータメーカーへ変態した。
- オムロン — 1933年5月、立石一真が大阪市都島区でレントゲン用タイマ製造の立石電機製作所を創業し、1945年に戦災を避け京都へ疎開して関西発の制御機器メーカーの地歩を固めた。1955年に販売・研究・生産を分社運営する「プロデューサ・システム」を考案し、後のカンパニー制と分散経営の原型を据えた。1959年に「OMRON」を商標化し、1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式信号機、1967年に阪急北千里駅の世界初の無人駅システムと「世界初」を連発した。こうしてFA・社会システム・ヘルスケアの三本柱が出揃い、1990年に社名をオムロン株式会社へ変更した。しかし2009年3月期にリーマンショックで純損失291億円を出し、以降は車載電装・ATM・MEMSの切離しと制御機器への集中投資を同時に進め、2015年Adept・2017年Microscanの買収でFAロボティクスへ本格参入した。2022年に辻永順太が社長CEOに就任し、JMDC子会社化でデータヘルスへ踏み出したが、2024年3月期はFA市況低迷と中国減速で当期利益が81億円まで急減し、創業以来最大規模の構造改革の只中にある。
- GSユアサ — 日本電池は1917年に島津製作所の蓄電池工場が独立する形で設立され、1918年創業の湯浅七左衛門の湯浅蓄電池製造所と並んで国内鉛蓄電池の二強を80年以上担った。1967年には自動車用鉛蓄電池の国内シェア36%で1位を握り、補修市場の優位がGSブランドの稼ぐ力の源泉となった。しかし1990年代にカー用品店とディーラー網の台頭で補修単価が10年で約40%下落し、1999年3月期に上場後初の最終赤字35億円を計上した。こうして2004年に日本電池とユアサコーポレーションは「減産のための統合」としてジーエス・ユアサコーポレーションを発足させ、初年度2005年3月期に147億円の最終赤字を出したうえで高槻工場閉鎖と496名の希望退職に踏み切った。鉛で稼いだキャッシュは2007年の三菱商事・三菱自との合弁リチウムエナジージャパン、2009年のホンダとの合弁ブルーエナジーへ振り向け、車載LiBの種を撒いた。2024年にLEJを清算して直営化し、2025年3月期に連結営業利益500億円と過去最高水準を記録、阿部貴志社長の第七次中計で産業用LiBへの「攻め」が宣言された。20年越しの賭けが第二の本業へ育ちつつある局面である。
- NEC — 1899年7月、日本電気は米ウェスタン・エレクトリックとの合弁で日本初の外資系メーカーとして設立され、電話交換機を祖業とした。1978年に小林宏治会長が「C&C」を提唱し、PC-9800シリーズとDRAM世界シェア首位で1980年代の黄金期を築いたが、韓国・台湾勢の台頭とDOS/V普及で1990年代末に競争力分散が顕在化、1999年3月期に当時過去最大1500億円の赤字へ沈んだ。2002年に半導体事業を分社しNECエレクトロニクスを設立、2009年3月期にはリーマンショックで上場後最大2966億円の最終赤字を計上し、祖業周辺の処理コストが噴き出した。こうして2010年にルネサスへ半導体を統合、2013年にスマートフォン撤退、2014年にBIGLOBEを約700億円で売却と「捨て続ける」10年が続いた。2020年に森田隆之が社長に就任、2023年4月にBluStellar戦略を本格始動して1万点の製品を500商材30シナリオへ集約、シナリオ・オファリング型へ事業モデルを書き換えた。2025年3月期に連結営業利益2565億円の過去最高水準を達成し、同年10月に米CSGを約4417億円で買収して「捨てるフェーズ」から「北米で買うフェーズ」へ軸足を移した。
- 富士通 — 1935年6月に富士電機製造の電話部が分離独立して富士通信機製造として設立され、母体が古河電工とドイツ・シーメンスの合弁会社だった経緯から欧州系通信機メーカーの性格を帯びた。1954年に日本初の商用リレー式自動計算機FACOM100を開発し、1967年に富士通へ改称、池田敏雄主導のIBM互換戦略で1980年に国内売上で日本IBMを抜いた。1990年に英ICLを80%出資で買収、1997年に米Amdahlを完全子会社化し、欧州・北米・日本の3極でメインフレーム事業を展開した。しかし2002年3月期にITバブル崩壊と通信不況のダブル直撃で連結最終赤字3825億円を計上、以後20年にわたって半導体・携帯・PC・HDDを次々と切り離す捨て続ける構造改革が続いた。2019年6月にSE出身として初めて時田隆仁が社長に就き、2020年にジョブ型人事を導入、2021年10月に業種横断オファリングのFujitsu Uvanceを発表して中計2025で売上7000億円をコミットした。リージョンズ部門の調整後営業利益率はFY24 3Qに19.4%へ3.3ポイント改善し、2026年1月にメインフレーム販売の2030年度末終了を発表、捨てる時代の終わりと育てる時代の始まりの境目に立っている。
- ルネサスエレクトロニクス — 2002年11月に日本電気が半導体事業を切り出してNECエレクトロニクスを設立し、2010年4月に日立・三菱系のルネサステクノロジと合併してルネサスエレクトロニクスが発足、車載マイコン世界首位の日本最大の半導体会社が誕生した。しかし発足直後の2011年3月に東日本大震災で主力の那珂工場が被災、3期で累計3400億円超の純損失を計上し、2013年9月に産業革新機構・トヨタ・日産などが第三者割当を引き受ける実質的な公的救済に踏み込んだ。車載マイコンに絞り込む縮小均衡で黒字を取り戻し、2017年に米Intersilを取得してアナログ領域へ横展開した。2018年6月に45歳の柴田英利がCEOに就任し「縮みっぱなしからの脱却」を宣言、2019年に米IDT、2021年に英Dialogを約6000億円で買収して民生・電源領域を取り込み、2024年8月には豪Altiumを約9000億円で取得してEDA上流へ進出した。FY22に営業利益4242億円の統合後最高益を記録したが、2025年にSiC調達先の米Wolfspeed破綻で2376億円の減損を計上、自前SiC開発を断念し外部依存と調達リスクの管理が次の論点となっている。
- セイコーエプソン — 1942年5月、長野県諏訪で時計部品加工の有限会社大和工業として創業、1959年にセイコー系の諏訪精工舎へ商号変更し、1961年に子会社の信州精器(後のエプソン)を設立した。1964年の東京オリンピックで世界初の水晶式ポータブルプリンター「クリスタル・クロノメーター」を公式計時用に提供したことが、コンピュータ周辺機器への進出のきっかけとなった。1975年に「EPSON」をブランド化、ウオッチ用に磨いた水晶振動子・液晶・LSIの3基盤技術をドットマトリクスプリンターMX-80・インクジェット・液晶プロジェクターへ横展開し、1985年11月に諏訪精工舎がエプソンを吸収合併してセイコーエプソンとなった。しかし2009年3月期に液晶・水晶の構造的供給過剰で純損失1113億円という統合以来最大の赤字を計上、技術者出身の碓井稔がプリンティング集中の構造改革を進め、2017年にエプソンイメージングデバイスを吸収合併してデバイス整理を完了した。2018年に小川恭範へ社長交代、2024年12月には商業印刷向けデジタルフロントエンド世界トップの米Fiery, LLCを完全子会社化し、インクジェット販売から印刷ソリューション上流へ踏み出した。時計部品加工の会社が80年余りで印刷ソフトウェア領域を抱える企業へ姿を変える最新局面にある。
- パナソニック — 1918年、松下幸之助が資金約200円と自宅の土間で松下電気器具製作所を創業、1927年に統一商標「ナショナル」を制定して水道哲学に基づく廉価大量供給の思想を打ち出した。1952年のフィリップス技術提携でブラウン管を導入し三種の神器を網羅、1957年のナショナル店会で全国販社網を組織化し、1976年の松下電子部品分離以降は子会社群が独立採算で量産を担う垂直統合体制を築いた。しかし1990年に約7800億円で買収した米MCAは5年で実質撤退、2000年代の累計5000億円超を投じたプラズマテレビ事業も液晶との規格競争に敗れ、2009年に約4000億円で買収した三洋電機の統合費用と重なって2012〜2013年3月期に2期連続で合計1兆5000億円超の純損失を計上した。こうして2012年に津賀一宏が社長に就いてプラズマ撤退と事業整理を断行、テスラ向け車載電池とトヨタとの角形電池合弁でBtoB転換を進め、2021年に楠見雄規が就任して8633億円で米ブルーヨンダーを買収、2022年4月に持株会社体制へ移行した。2025年3月期は売上8兆4582億円・営業利益率5.0%にとどまり、約1万人規模の構造改革で収益体質の転換が続いている。
- シャープ — 1912年、金属加工職人の早川徳次が東京市本所で個人創業、1915年に文具メーカー依頼の「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」開発で自社製品メーカーへ転身した。1923年の関東大震災で妻子・工場・特許のすべてを失い、特許を譲渡して大阪へ転居、1924年に阿倍野で早川金属工業所として再起した。1925年に国内初の鉱石ラジオを輸入品の半額で投入、1953年に白黒テレビで4年連続国内シェア1位、1964年に世界初のオールトランジスタ電卓を開発と「新技術の国産化と低価格投入」のパターンを繰り返した。しかし1970年に大阪万博出展を見送り、当時資本金105億円の7割にあたる75億円を半導体内製化に振り向け、「液晶のシャープ」の技術基盤を据えた。2001年に町田勝彦社長がAQUOSを投入し、2004年の亀山工場・2009年の堺工場と1兆円規模の液晶投資を続けたが、韓国・台湾勢のパネル投資と円高で採算が崩れ、2013年3月期に創業以来最大5453億円の最終赤字に沈んだ。こうして2016年8月、台湾の鴻海精密工業の3888億円出資を受け入れ、戦後初めて日本の大手電機が海外資本傘下に入る歴史的決着を迎え、再建は2026年時点でもなお道半ばにある。
- ソニー — 1946年、井深大と盛田昭夫が東京・日本橋の白木屋焼け跡で資本金19万円の東京通信工業を設立、1950年に高周波バイアス法特許を25万円で取得しテープレコーダー市場で大手10年を封じた。1955年のトランジスタラジオでは米流通業者のOEM要請を拒否し「SONY」ブランドで米国市場を攻め、1968年トリニトロン、1979年ウォークマンで世界の家電市場を定義した。1988年CBSレコード約20億ドル、1989年コロンビア映画約48億ドルを連続買収しエンタテインメント企業へ転身したが、コロンビアは1994年に約2,700億円の減損を計上した。しかし2003年のソニーショック以降テレビ事業の8年連続赤字とリーマンショックが重なり、FY11は純損失4,567億円を記録した。2012年就任の平井一夫は2014年VAIO、2017年リチウムイオン電池を手放しPlayStationとCMOSイメージセンサーへ集中、2018年4月就任の吉田憲一郎は2020年9月にソニーフィナンシャルを約3,955億円で完全子会社化、2021年4月にソニーグループへ社名変更し純粋持株会社体制を完成させた。FY24は連結売上12兆9,571億円・営業利益1兆4,072億円の最高益、CMOSイメージセンサーは世界シェア約5割に達した。
- TDK — 1935年、東京工業大学の加藤与五郎・武井武が発明したフェライトの工業化を志し、齋藤憲三が資本金2万円で東京電気化学工業を設立した。1937年に蒲田工場でフェライトコアの製品化に世界で初めて成功し、戦後はGHQのスーパーヘテロダイン令を追い風にラジオ部品メーカーとして伸び、1952年に磁気録音テープ生産を開始した。1977年に松下寿電子からビデオテープ5万巻の緊急受注を月産3千巻の能力で引き受け、大歳寛専務の「責任はオレがとる」の決断で4年連続倍増ペースの大増産を実現、1982年に磁気テープ世界シェア3割強で首位に立った。しかし2001年度はインターネットバブル崩壊で上場来初の営業赤字437億円規模に転落、澤部肇が853名の人員削減と損益分岐点引き下げの構造改革を断行した。2005年に香港ATL(リチウムポリマー電池)を約87億円で買収し、その電池キャッシュを原資に2008年に独EPCOSを約1,700億円で買収、2013年には磁気テープ事業を完全撤退した。こうして2022年度に連結売上初の2兆円超を達成、2024年度はエナジー応用製品が売上1兆1,765億円で全体の5割強を占め、創業90年を経て連結売上2兆2,048億円・営業利益2,242億円の電子部品メーカーへ姿を変えた。
- 三洋電機 — 1947年、松下幸之助の妻の弟で松下電器の専務を約30年務めた井植歳男が、戦後の公職追放を機に独立し大阪府守口で三洋電機製作所を創業、松下から譲り受けた兵庫の北条工場で自転車用発電ランプを製造した。1950年に同ランプで国内シェア約70%を確保して法人化、1953年8月には英フーバー方式を模した噴流式洗濯機を競合の半額の2万8000円で発売し、月産30台から1年余で1万台へ拡大、1961年に洗濯機国内首位に立った。1976年にウォーイック社を31億円余で買収しアーカンソー州でカラーテレビ現地生産を開始、1980年に年産96万台で松下・ソニーを上回る日本企業最大の北米現地生産体制を築いた。しかし1990年代以降は二次電池への傾斜投資の一方、2001年の米コダックとの有機EL合弁に320億円を投じて巨額損失に終わり、家電収益力の低下と重なり2002年度に創業以来初の最終赤字へ転落した。2006年度には継続企業の前提に疑義の注記が付され、2009年12月にパナソニックの株式公開買付で連結子会社化、2011年4月に完全子会社化が完了した。ピーク時売上2兆円から井植家同族経営64年の独立企業の歴史に幕を下ろし、リチウムイオン電池技術はパナソニックの米テスラ向け車載電池事業へ引き継がれた。
- アルプスアルパイン — 1948年11月、東芝出身の片岡勝太郎が東京・大田区で資本金50万円・従業員23名の片岡電気を設立し、ラジオ用可変蓄電器の高品質「アルプス」ブランドを秋葉原で販売した。「安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は一社もない」との信念で1953年の朝鮮動乱後の倒産ラッシュを品質一本で乗り切り、1961年に東証二部上場、1964年にアルプス電気へ改称した。1967年に米モトローラとの合弁アルプス・モトローラを設立し、1978年に完全子会社化してアルパインへ改称、北米専門店向け高価格帯のカーオーディオ事業を確立した。しかし平成3年3月期の売上3,500億円超のピーク後5期連続減収となり、1993年6月に1,300名の希望退職と東北3工場閉鎖、品種12万から8万への削減を断行した。だがリーマンショック直撃で平成21年3月期に売上5,400億円規模・営業赤字265億円規模に急落、2012年6月に創業家外初の社長として栗山年弘が就任し車載2,000億円・スマホ1,000億円の数値目標で資源を集中、平成28年3月期に営業利益約600億円規模へ約9倍に回復させた。2019年1月にアルパインとの経営統合でアルプスアルパインへ商号変更、2024年に中期経営計画を白紙撤回し統合効果と「何を捨てるか」が経営の中核に据えられている。
- パイオニア — 1938年1月、楽器会社の倒産を経た松本望が東京市文京区で福音商会電気製作所を創業し、電気動力式スピーカーの製造を始めた。1947年に福音電機として法人化、1950年の永久磁石型スピーカー「PE-8」で音響総合メーカーへ脱皮し、1955年のテレビ事業は大手の前に撤退して音響専業に回帰、1962年に世界初のセパレートステレオを発表した。1971年には同族企業からの脱皮を掲げ外部から石塚庸三を社長に迎え、本業重視と専門経営者路線で独自色を固めた。1980年に家庭用レーザーディスクプレーヤー「VP-1000」を発表し、特許収入を軸に世界シェアピーク約50%・売上700億円規模の高収益構造を築き、1990年には世界初のGPS民生用カーナビを発表して車載機器の柱を仕込んだ。しかしレーザーディスクの技術を転用したプラズマディスプレイへ巨額投資を断行したが液晶陣営の大型化とコスト低減で市場が想定を超える速度で縮小、2008年にプラズマを含む映像ディスプレイ事業から撤退し1万名規模の人員削減に踏み切った。こうして2018年12月に香港系BPEA(現EQT)が全株式取得で合意、2019年に希望退職3,000名を募集して東証上場を廃止、2025年には台湾イノラックスの傘下に入り独立上場80年余の歴史に区切りをつけた。
- 日本ビクター — 1927年9月、米ビクタートーキングマシンが対日直接進出して横浜で日本ビクター蓄音機を設立、外資系現地法人として蓄音機製造を開始した。1928年に日産財閥、1943年に戦時統制下で東芝、戦後の1954年には松下電器との資本提携と、米ビクター・日産・東芝・松下と親会社が四度変遷する数奇な来歴を辿り、1945年に日本ビクターへ改称、1960年に東証上場した。蓄音機由来のアナログ記録技術と松下傘下でも保たれた研究開発の独立性を武器にVHS方式を独自開発し、1976年に松下電器によるVHS採用決定を勝ち取った。ベータマックスとの規格競争はライセンス制度を軸に1980年代半ばにVHS陣営の勝利として決着し、売上高7,000億円規模に到達した。しかし1987年のS-VHS投入後も価格下落とライセンス料率引き下げが続き、デジタル化対応の遅れも重なって1993年3月期に最終赤字430億円規模を計上、2008年3月期は売上6,600億円規模に対し最終赤字475億円規模で単独経営は事実上の限界に達した。こうして2008年10月にケンウッドと経営統合し持株会社JVCケンウッドを設立、米ビクターの日本法人として出発した独立企業80年余の歴史に幕を下ろし、JVCブランドは現在も車載音響・映像機器を軸にグループ内で生き続けている。
- 赤井電機 — 1924年、赤井舛吉が東京港区でソケットラジオ部品の製造を始めたのが赤井電機の出発点だが、戦時中の企業統合で一度消滅し、1947年に舛吉の子・赤井三郎が小型フォノモーターの製造で再興した。1951年に三郎は省スペース設計の縦型テープレコーダーで大手との差別化を図り、1956年に自ら渡米して米キャリアフォン・ロバーツ社との契約を勝ち取り商社経由ではない現地直接販売の独自輸出モデルを築いた。1965年以降は東大・東工大卒に年収200万円という破格の待遇で技術陣を集め、170店の代理店網で欧州・アフリカ・中東へ拡大、1968年の東証二部上場時には輸出比率約9割・売上高純利益率12.8%の「猛烈高収益会社」として証券市場に異様な興奮を巻き起こした。しかし1973年12月、実質創業者の赤井三郎がスキー旅行中に急逝し後継争いで経営が迷走、1985年のプラザ合意後の急激な円高で輸出比率9割の構造が一気に崩壊、1981年に最終赤字へ転落して三菱銀行出身社長が就任、1995年には香港系セミテックが支援に入った。だがVHS対ベータマックス規格争いに乗り遅れライセンス収入を逸し、ビデオ事業は売上半数を占めながら低収益にとどまり財務体質を蝕み続けた。こうして2000年11月に民事再生法の適用を申請、76年の独立メーカー史に幕を下ろし、「アカイ」ブランドは現在も海外でプロ向けサンプラー等に生き続けている。
- 横河電機 — 1915年、帝国劇場や三越本店の設計で名を馳せた建築家・横河民輔が電気計器の国産化を目的として東京渋谷に電気計器研究所を個人創業し、甥の横河一郎ら20代の若い技術者に開発を託した。1917年に精密電気計器の国産化を実現し通信省・海軍省の評価を得て、1920年12月に株式会社横河電機製作所として法人化、横河家同族経営のもとで計測器専業メーカーの基盤を築いた。戦時中は陸軍指定工場として高射砲算定器を生産し従業員1.2万名に達したが、終戦で4工場を閉鎖し1万名以上を解雇して1,200名体制で再出発した。1955年に米フォックスボロ社と技術提携してプラント制御技術を導入し、1963年には米HPと51対49で合弁YHPを設立、1975年に総合制御システムCENTUMを発表してプラント制御メーカーへの転換を宣言、1983年4月に北辰電機との合併で国内体制を強化した。しかし1999年にHPとの合弁を解消して電子計測器事業を喪失、2003年に北辰合併以来の人員削減なし方針を撤回、2015年には1,105名の希望退職と事業構造改善費166億円の構造改革を断行した。こうして2016年に英KBC社を約279億円で買収、2024年以降はBaxEnergy・Intellisync・WiSNAMの欧州SaaS連続買収でデジタルソリューション企業へ転換、重野社長のもと中期経営計画GS2028で次の成長軌道を模索している。
- アドバンテスト — 1954年、通信省電気試験所出身の武田郁夫が30歳で独立し愛知県豊橋市にタケダ理研工業を設立、電機大手が手がけない電子計測器のニッチ市場で代替品のない独自製品を高価格で売るモデルから出発した。1972年には通産省補助金を得て国産初のICテストシステムT320を発売し半導体検査装置メーカーへの足がかりを得たが、1975年のオイルショックで売上高80億円・赤字1億円・有利子負債50億円の経営危機に陥り、メインバンクの融資拒否と社内クーデターで武田は自ら設立した会社の社長の座を追われた。窮地の武田は通信省時代の元上司で当時富士通社長の清宮博に救済を直訴、病床の清宮は社内の反対を押し切り救済出資を決断、1976年4月に逝去した。1976年2月就任の海輪利正は原価計算が存在しない致命的な経営基盤の不在を見抜き機種別原価管理を導入、ICテスタ事業へ集中投資し新製品比率を1976年4%から1981年45%へ伸ばした。こうして1983年2月に東証2部上場、1985年にアドバンテストへ商号変更、1996年に半導体検査装置の世界シェア約40%を確保した。しかしFY08は729億円の大赤字、2017年に富士通が残る全株式を530億円で売却し約40年の資本関係に終止符、HPC/AIとHBMの需要拡大を追い風に2023年3月期は最高純利益1,712億円、MTP3ではSoCテスタ年間5,000台体制を視野に入れる成長局面に入った。
- キーエンス — 1972年、二度の起業失敗を経験した滝崎武光が27歳で兵庫県伊丹市にリード電機を個人創業し、自動線材切断機の製造を始めた。1973年にトヨタ自動車のプレス金型保護のため交流磁界を応用した金属二枚送り検出器を開発、原価ではなく顧客が得る導入効果に基づき8万5000円で値付けする付加価値価格と、商社代理店を介さない直販体制を打ち出した。1982年には営業利益率2割の祖業・線材切断機を売却し、粗利率4割超のセンサー事業へ経営資源を集中、創業10年で既存安定収益を手放す異例の決断を下した。1986年にキーエンスへ商号を変更、1987年10月に大阪証券取引所第二部に上場し公募増資で約200億円を調達、自己資本比率は上場前62.6%から1987年度90.3%へ一段ジャンプした。創業期に確立した直販体制・標準品特化・付加価値価格の三原則と、営業利益連動の給与体系が高収益と人材獲得の好循環を生み、2003年の日経ビジネスは「利益率40%驚異の経営」と特集、2017年度に平均給与2,000万円を突破した。こうして2014年度に海外売上比率5割を突破、2021年に滝崎は個人資産4兆円規模で日本一の資産家に立ち、2025年10月には44歳の中野鉄也が5代目社長に昇格、創業者を組織規範に置き換えた利益率至上経営の継続性が次の検証主題に据えられている。
- デンソー — 1949年12月、トヨタ自動車が経営危機の事業再編で電装品部門を切り出し、初代社長に林虎雄を据えて日本電装を設立した。資本金1500万円ながらラジエータ部門の累積赤字1.4億円を借入金として継承し、自己資本比率5%という脆弱な財務で出発、設立3か月後には1400名中473名を解雇する苦境を朝鮮戦争特需で乗り越えた。1953年に独ロバート・ボシュ社と業務資本提携し、ボシュ株式10%付与の対価として技術全面公開を獲得、カーヒーター・噴射ポンプ・スパークプラグ・カーエアコンへ4年で領域を広げ1961年に機械工業初のデミング賞を受賞した。1982年に売上高1兆円計画でトヨタ依存脱却・海外進出・エレクトロニクスの三本柱を掲げ、1996年に日本電装からデンソーへ社名変更してグローバルブランドを統一した。しかし2019年の燃料ポンプリコールで製品保証引当金2148億円を計上し、トヨタ向け売上比率約50%という構造は40年経ても変わらず、2017年の長期ビジョン2030で電動化に舵を切り、4500億円規模の自社株買いと先進安全運転支援システムの外販拡大という事業と資本両面の変革に着手した。
- レーザーテック — 1960年7月、松下通信工業を離れた内山康が29歳で東京目黒区に東京ITV研究所を設立し、工場を持たず研究開発に資源を集中するファブライト経営を最初から選んだ。1975年に大規模集積回路用フォトマスクの欠陥検査装置を世界初開発し、1980年には自社製品100%を達成して下請けから脱却、1986年に社名をレーザーテックへ改めた。1992年に創業者が61歳で急逝した後も技術者出身の内部昇格者が経営を担う独自の承継形態を定着させ、1990年に株式店頭公開を果たした。しかし2008年のリーマン・ショックで液晶向け事業が価格競争に陥り、2009年6月期に赤字転落して売上は86億円まで縮小した。同年7月就任の岡林理が液晶事業を大幅縮小して半導体集中を断行し、2011年にNEDOプロジェクトに参加してEUV(極端紫外線)検査装置の独自開発に着手、2017年にEUVマスクブランクス検査装置「アビックスイー120」を世界初実用化した。こうしてEUVマスク検査の世界シェア実質100%を握り、TSMC・サムスン・インテルの代替不可能なサプライヤーとなり、2024年度の売上高は約2500億円・営業利益率48%へ達した。2024年7月に仙洞田哲也が第6代社長に就任し、2030年6月期売上4000〜5000億円規模を掲げる計画を引き継いだ。
- カシオ計算機 — 1946年4月、樫尾忠雄ら樫尾4兄弟が東京都三鷹市に樫尾製作所を設立し、1957年6月に世界初の小型純電気式計算機「14-A」を商品化してカシオ計算機株式会社となった。1970年に米Casio, Inc.設立と東証二部上場を同時に実現し、1972年8月発売の「カシオミニ」12,800円は「6ケタ表示のおもちゃみたいな電卓が作れるか」という社内外の批判を押し切って個人向けパーソナル電卓市場そのものを生み出した。標準品ではなく特注LSIを選んだ判断が時計・楽器・電子辞書への横展開を可能にし、1974年の電子腕時計、1980年のカシオトーン、1983年のG-SHOCKと需要創造型商品を続けて投入、売上6000億円規模の総合電子機器メーカーに育った。しかし2001年3月期にITバブル崩壊で純損失249億円を計上し、デジタルカメラ・携帯電話・液晶ディスプレイ・半導体デバイスをスマートフォン普及で軒並み撤退、2018年にはコンパクトデジカメも撤退した。連結売上はピークの6000億円超から2024年度2617億円へ半減し、2022年6月に非創業家初の社長として増田裕一が登用されたが約2年半で交代、2025年4月に高野晋が後任に就いた。創業80年を迎えるカシオはG-SHOCKと教育関数電卓の2本柱に経営資源を集約する構造改革の途上にある。
- ファナック — 1956年、富士通の技術担当常務・尾見半左右が3C構想のもと制御分野の担当者として稲葉清右衛門を指名し、稲葉は工作機械をコンピュータで数値制御するNC装置の研究開発に着手して1959年に電気圧パルスモーターを発明・特許取得した。参入から約10年の長い赤字期は社内で「神代の時代」と呼ばれ、1965年の初黒字を経て1972年に富士通から分離独立し富士通ファナックが設立された。1975年に独シーメンスと相互援助契約を結び、1980年に本社と工場を山梨県忍野村へ全面移転、汎用NC装置への一点集中と忍野立地という独自モデルでNC装置の国内シェア七割を確保し、1985年には売上高経常利益率36.6%で全上場企業中日本一の収益力を達成した。1983年に東証一部上場、2000年代から富士通の保有株を段階売却して経営の自立を完成させた。しかし2010年頃から米アップルのiPhone筐体切削に用いるロボドリルが爆発的に普及し、サムスン向けも含めFY2014にアジア向け売上が3915億円へ跳ね上がる一方、FY2019には需要減退で純利益が734億円へ半減し汎用NCと特定製品連動型の二面構造が表面化した。2019年に非創業家の山口賢治が社長就任、2020年に稲葉清右衛門が95歳で逝去し64年続いた創業者時代が幕を閉じ、新型協働ロボットCRXシリーズと新CNC500i-Aを軸に自動化の敷居を下げる次世代戦略への転換を進めている。
- ローム — 1954年12月、立命館大学を卒業した佐藤研一郎が京都市上京区で個人企業・東洋電具製作所を創業し、炭素皮膜固定抵抗器メーカーとして出発した。1969年にIC開発・販売へ踏み出して受動部品専業から半導体メーカーへ転換し、日立や東芝が汎用DRAMに巨額投資を注ぐなかで「トラ(大手)の尻尾は絶対に踏まない」方針でビデオ・オーディオ向けカスタムICという隙間を狙い、回路図を米国のデザインハウスから購入する3番手戦略で大手のシェアを侵食した。1970年に米シリコンバレーに販売会社、1971年に製造子会社エクサーを設立、1981年にローム株式会社へ商号変更し1989年に東証一部上場を果たした。1991年6月の株主総会で常務3人を含む取締役5人を更迭し、不要受注を切る値上げ交渉を断行して1992年3月期に過去最高益140億円を達成、無借金経営と自己資本比率80%超という財務体質を築いた。2008年に沖電気の半導体事業部門を買収し、翌2009年に佐藤が退任して54年のオーナー経営が幕を閉じた。同年に独サイクリスタル社を買収してSiCウェハ垂直統合に踏み出し、2012年にSiC製MOSFETを世界初量産化、2023年にJIPコンソーシアムを通じた東芝非公開化に約3000億円を出資した。しかしEV需要鈍化で2025年3月期は営業損失401億円・純損失501億円と12年ぶりの赤字に転落し、2026年3月にはデンソーから株式取得提案を受領、独立系存続か車載Tier1傘下入りかの岐路に立つ。
- 京セラ — 1959年4月、松風工業でアルミナ磁器の研究開発に従事していた稲盛和夫が27歳で独立し、宮木電機の創業家・宮木男也らの出資を得て京都セラミック株式会社を設立した。資本金300万円で稲盛は株主順位第4位という独特な技術者起業として出発し、ブラウン管テレビ用絶縁部品「U字ケルシマ」を松下電器向けに月産20万本量産して創業翌年から黒字を確保した。国内大手の信用を得られなかった京セラは創業3年目から渡米を繰り返し、1966年に米IBMからIC用アルミナ基板の大口受注を獲得して半導体パッケージ市場へ本格参入、1969年に鹿児島県川内工場を建設し1983年にはICパッケージ世界シェア約7割の寡占地位を確保した。1971年の上場後は買収による多角化に踏み切り光学精密機器・電子機器へ広げ、1984年に第二電電企画へ発起人出資して通信に参画、1990年に米AVX社を子会社化した。しかし1990年代に半導体パッケージ素材がセラミックから樹脂へ転換する波に岐阜のイビデンの後塵を拝し祖業のシェアを侵食され、2008年に三洋電機から約500億円で買収した携帯電話事業もスマホ普及で市場が消滅しアメーバ経営は技術パラダイム転換に無力だった。2024年度ROEが0.7%まで沈み、2025年から谷本秀夫から作島弘文への社長交代と監査等委員会設置会社への移行、KDDI株式売却と自社株買いによる初の本格的な資本効率改善が進行している。
- 太陽誘電 — 1950年3月23日、誘電体セラミックスの研究者・佐藤彦八が東京都杉並区で太陽誘電を創業した。社名は研究対象の誘電体に「太陽」を冠したもので、創業同年9月にチタン酸バリウムセラミックコンデンサを商品化し、佐藤は半導体には一切参入しない方針を打ち出して全社員約1150名のうち約125名を研究部門へ配置する受動部品専業の道を貫いた。1956年に高崎工場、1967年に台湾現地法人、1973年5月にチップ型積層セラミックコンデンサ(MLCC)の本格量産を開始し、1970年に東証二部上場時には固定磁器コンデンサで国内シェア約20%・業界首位を握った。1984年7月にニッケル内部電極の大容量MLCCを世界初商品化して業界標準技術を生み出し、1988年9月にCD-Rを世界初商品化して光記録メディア事業に参入、1998年DVD-R・2008年LTHタイプのブルーレイと3世代の光メディアで先行性を保った。しかしHDD大容量化とクラウド普及で需要は縮小、2011年3月期に記録メディア事業で70.3億円の減損を計上し、2015年6月にCD-R世界初商品化から27年でThat'sブランドの全面撤退を決断した。2018年にエルナーを子会社化して車載向けアルミ電解コンデンサを加え、2023年10月にユーロ円建て転換社債500億円を全額MLCC増産投資に充当した。中期経営計画2025は売上目標4000億円に対し2025年3月期実績3414億円・純利益23億円で未達となり、2026年度開始の次期中計ではAIサーバー向けMLCC需要を捉えた本来の開発主導型への回帰を目指している。
- 村田製作所 — 1944年10月、京都の碍子屋に生まれた村田昭が京都市中京区四条大宮北に150平方メートルの工場を構えて村田製作所を個人創業し、三菱電機伊丹製作所から軍用通信機向けチタン酸化物セラミックコンデンサ(チタコン)の試作を3カ月で完成させた。終戦で軍需が消滅した後はラジオ向けチタコンの民需を取り込み、1950年12月に株式会社化、京都大学工学部の田中哲郎教授との産学連携でチタン酸バリウムを実用化、1959年に大宮技術研究所を設立して正特性サーミスタ「ポジスタ」とセラミックフィルターを世界初商品化した。1963年に大証二部、1970年に東証一部に指定替えとなり、セラミックフィルターは世界シェア80%へ育った。1965年に米Murata Electronics North Americaを設立、1980年3月に多国籍企業Erie Technological Productsの株式3分の2を取得して北米・欧州の拠点を一挙に獲得し、1979年には同業他社が海外生産で為替リスクを減らすなか輸出取引の96%を円建てに統一する逆張りの通貨戦略をとった。MLCCとセラミックフィルターの世界シェアが収益を支え、2022年3月期に売上1兆8125億円・営業利益4240億円の最高益を更新したが、2010年代に投資した高周波モジュール・リチウムイオン二次電池・MEMSセンサの「第2の柱」は相次いで挫折し、2022年買収のResonant社のれんは2026年2月の3Q決算で全額438億円減損、MEMSセンサ104億円・電池145億円の構造改革費用も計上した。AIサーバー向けMLCCと自動車ADAS向けインダクタが牽引役に浮上し、コンポーネント主軸の強さは崩れていない。
- 日東電工 — 1918年10月、第一次世界大戦で欧州からの電気絶縁材料の輸入が途絶したことを背景に、東京・大崎で従業員14名・初代社長稲村藤太郎の日東電気工業が設立された。1930年頃から主要顧客の日立製作所が絶縁ワニスの内製化に動いて経営難に陥り、1937年5月に日立が株式100%を取得して完全子会社化、1948年7月の財閥解体に伴う株式売却で独立を回復した。1951年4月に国内初のビニルテープ開発に成功し、1961年2月に乾電池・磁気テープ部門をマクセル電気工業として分離して日立に売却、BtoBの電気・電子材料専業へ特化した。1975年頃から土方三郎社長が「三新活動」を開始し、過去3年以内の新製品が売上の30%を占める自己規律と研究開発費5%を制度化、1978年に「電子・医療・防食・膜」の4領域を骨格に据え、1988年9月に商号を日東電工へ改めた。1999年1月に尾道事業所で液晶偏光板の量産体制を整え、韓国・台湾・中国の液晶パネルメーカーに張り付く顧客追随型の現地生産で世界シェア首位級に達した。しかし2009年3月期にリーマンショックで売上が前期比22.4%減・営業利益138億円へ急落、2011年2月に米Avecia Biotechnologyを買収して核酸医薬CDMOへ参入、2017年11月に杭州錦江集団へ大型偏光板技術を供与してコモディティ領域から撤退し、2022年6月にMondi plcのパーソナルケア事業を買収した。創業107年目の2025年3月期に連結売上収益が初めて1兆円を超え1兆139億円・営業利益1857億円の過去最高を更新した。
- カナデビア — 1881年、英国人E.H.ハンターが大阪安治川岸に大阪鉄工所を創立し、関西の民間造船業の源流の一つとして出発した。1934年に日本産業(日産コンツェルン)の傘下に入り、1936年には日立製作所の系列下へ移った後、1943年に「日立造船」と社名を改めた。戦後は1947年に財閥解体で日立との資本関係を切り、独立系造船メーカーとして大型船受注を伸ばしたが、1977年のアタカ工業系列化を皮切りに環境・水処理プラントを柱に組み入れていった。しかし1980年代後半以降の韓国・中国勢の台頭で造船事業の採算は悪化し、2002年10月に造船事業をユニバーサル造船(現ジャパンマリンユナイテッド)へ営業譲渡し、社名の核である「造船」が事業から消えた。その後2014年にスイスのAE&E Inova、2018年に豪Osmoflo、2022年に独Steinmüller Babcockを買収して環境プラント事業を欧州中心に拡大し、2024年10月に81年ぶりに社名を「カナデビア」へ変更した。こうして2025年3月期は連結売上収益6,105億円・営業利益269億円の過去最高益となり、社名変更と最高益更新が同じ年度に重なる節目を迎えた。
- 三菱重工業 — 1887年、三菱財閥が旧徳川幕府の長崎熔鉄所の払い下げを明治政府から受け、海運の船舶修繕をイギリスに頼る不便を解消する垂直統合の発想から造船事業を始めた。1917年に三菱造船が独立、1934年に三菱航空機との合併で三菱重工業が発足し、1938年の戦艦武蔵竣工と零戦量産で日本最大級の軍需企業となった。しかし戦後の財閥解体で新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の三社へ強制分割され、15年の別会社運営を経て1964年に再合併、売上3,000億円規模の大企業として復活した。1953年のF-86Fライセンス生産から戦闘機の二社寡占を築き、1970年の関西電力美浜原発1号機以降は原子力でも顧客囲い込み型のビジネスモデルを確立した。しかしMU-300、欧州大型客船で約2,500億円の損失、2008年設立の三菱航空機が手掛けたSpaceJet(旧MRJ)で累計1兆円規模の損失を出し2023年に開発中止となるなど、技術完成主義が撤退判断を遅らせる組織課題が繰り返し露呈した。こうして民間整理を終え、2024年3月期は売上4兆6,571億円・純利益2,220億円の過去最高益を達成、防衛・GTCC・原子力の寡占事業に資源を集中させた。
- 川崎重工業 — 1878年、貿易商の川崎正蔵が東京築地に川崎築地造船所を創業し、富国強兵下の海運近代化に商機を見出した。築地の敷地拡張限界から1887年に明治政府から官営兵庫造船所の払い下げを50年分割払いで取得して神戸へ移り、三菱に次ぐ国内第二位の造船所へ成長した。1896年に株式会社川崎造船所として法人化し松方正義の三男・幸次郎が初代社長に就任、海軍艦艇の主力供給企業となったが、1922年のワシントン軍縮条約と昭和恐慌の二重逆風で1931年に和議を申請し3,000名の人員整理を敢行した。しかし海軍艦艇建造能力の喪失は国益に反するとの判断から政府特別融資で存続し、1939年に川崎重工業へ商号変更、戦時期には艦艇・航空機・鉄道車両を量産する巨大軍需企業となった。戦後は財閥解体で5事業に分離されたが、1969年に川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の三社が再合併し総合重工メーカーとして復活、Kawasakiブランドの二輪車と産業ロボットで多角化を進めた。しかし2013年には三井造船との統合を巡り長谷川社長が取締役会で解任される異例の事態を経験した。こうして2025年度第3四半期累計で売上1兆5,614億円・事業利益824億円の過去最高を記録し、配当性向からDOE4%へ還元方針を転換した。
- IHI — 1853年のペリー来航を契機に江戸幕府が隅田川河口の石川島に設けた洋式造船所が源流であり、明治政府の払い下げを受けた平野富二が運営し、1889年に渋沢栄一の経営参画を得て有限責任石川島造船所として法人化された。1890年に株式会社東京石川島造船所へ改組し渋沢が初代会長に就任、第一銀行融資を梃子に近代的設備を整えた。1929年には航空機部門を立川飛行機、自動車部門をいすゞ自動車の前身として分離独立させ、1945年に石川島重工業へ商号変更、戦後は陸上部門が売上8割を占める機械メーカーへ実質的に変容していた。1960年12月、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業として発足、土光敏夫社長は石油時代の大型タンカー需要を見据え相生の大型ドックを獲得して大型船建造に参入した。しかし1970年代のオイルショックで造船需要は構造的に減退、2002年に住友重機械との統合でIHIマリンユナイテッドへ造船事業を分社化し、航空エンジン・ターボチャージャー・防衛・社会インフラの4領域へ集中した。こうして2007年7月に商号をIHIへ改め「造船」の名を離脱、2021年には航空エンジン検査問題で682億円の最終赤字を計上したが、2026年5月から井手新社長体制で航空エンジンと原子力を中核とする新中期経営計画の策定に着手している。
- 横浜フィナンシャルグループ — 1920年5月、第一次世界大戦後の反動恐慌で横浜最大の普通銀行であった七十四銀行と横浜貯蓄銀行が同時に破綻し、横浜の金融秩序は崩壊の危機に直面した。同年12月16日、預金者救済と地域経済の安定を目的に政府・日本銀行による特別融資1,600万円を原資として横浜興信銀行が開業、役員無報酬・株式無配当という公共的使命を負って発足した。1927年の左右田銀行、1928年の第二銀行、1932年の関東興信銀行を吸収し、1941年には戦時下の一県一行主義政策で県内6行を合併、1945年には横浜正金銀行を除き神奈川県唯一の本店銀行となった。1957年に「横浜銀行」へ改称し、神奈川県の人口流入と京浜工業地帯の集積を背景に1969年に地方銀行の預金量で全国首位に立った。しかし1990年代後半のバブル崩壊で1998〜1999年に劣後ローンと優先株あわせて2,200億円の公的資金を受け入れたが、2004年8月に当初計画より1年半前倒しで完済した。こうして2016年4月に東日本銀行と統合してコンコルディア・フィナンシャルグループを設立、2023年に神奈川銀行を完全子会社化、2025年10月に横浜フィナンシャルグループへ商号変更した。FY24は連結純利益828億円・連結総資産約24.8兆円で国内地銀グループ上位に位置する。
- 日産自動車 — 1933年12月、日産財閥の創業者鮎川義介が「自動車は年に1万台や1.5万台を造らねばならぬ」という量産前提の判断から自動車製造株式会社を設立し、戸畑鋳物が保有していた小型車ダットサン事業を足がかりに翌1934年に日産自動車へ商号変更、新設の横浜工場で量産を開始した。1936年には自動車製造事業法の指定会社となりトヨタ・いすゞと並ぶ国策メーカーの地位を得た。戦後は1952年に英オースチン社と技術提携、1959年のダットサンブルーバード自社開発で技術的空白を埋め、1962年に追浜工場を新設、1966年にプリンス自動車を吸収合併して国内第二位を固めた。しかし設備投資でトヨタに1年半遅れる構造は埋まらず、1993年3月期に経常赤字へ転落した。1999年3月にルノーと資本業務提携を結びカルロス・ゴーンがCOOを経て社長に就任、リバイバルプランで国内5工場閉鎖と約2万1000名の人員削減を実行、2000年3月期に6843億円の最終赤字を計上したが翌期で一期黒字化した。だが2018年11月のゴーン逮捕以降は経営の求心力を失い、2024年11月にグローバル9000名の人員削減を決定、同年12月にホンダ・三菱との3社経営統合協議の開始が公表された。2025年以降はエスピノーサ新社長のもとで「Re:Nissan」構造改革を1年に集中実施している。
- いすゞ自動車 — 1916年の東京石川島造船所の自動車製造を源流とし、1937年4月に商工省と陸軍の主導で東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同して東京自動車工業が発足、1941年にヂーゼル自動車工業へ改称した。陸軍の要請で東京都日野市に新設した工場は管轄の違いから1942年に日野重工業として分離され、財閥解体期に継承株式の全面売却を強いられた結果、戦後商用車市場で日野自動車という宿命の競合相手を自ら生み出した。1949年にいすゞ自動車へ改称して東証に上場し、1959年投入の小型トラック「エルフ」で国産ディーゼル小型商用車の支配的地位を築いた。1971年9月には米GMと全面提携、GMがいすゞ株式34%を取得して主要株主となったが、1982年に決定したRカー20万台構想は対米輸出規制の延長により頓挫し、1993年に乗用車事業から撤退した。2006年4月にGMが全株式を市場で売却して資本関係を解消、トヨタが約5.9%を取得して商用車専業メーカーへ立ち位置を固めた。こうして2019年12月にスウェーデンのボルボから傘下のUDトラックスを2,500億円で取得し、1942年の日野分離以来の競争構図を80年かけて書き換えた。2026年には大型トラック生産をUD上尾工場に約400億円で集約、2027年3月期は営業利益で過去最高益を更新する見通しを維持している。
- トヨタ自動車 — 1933年9月、豊田自動織機製作所の豊田喜一郎が社内に自動車部を設置し、輸入シボレーを分解調査して1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を完成させ、1937年8月にトヨタ自動車工業として分離独立した。1949年のドッジ・ライン下では月賦回収停滞で資金繰りが破綻し、1600名の希望退職と製販分離による再建を余儀なくされ、創業者喜一郎は責任を負って退任した。この痛みが増員に頼らず稼働率を高める思想を生み、大野耐一によるかんばん方式として1963年に全社導入された。1955年初代クラウン、1959年には需要月産5000台規模の段階で月産1万台対応の元町工場を建設、1966年カローラ専用の高岡工場で月産2万台体制を築き、日産との競争を設備投資の規模と速度の勝負に転換した。1984年のGMとの合弁NUMMIで北米現地生産を実地検証し、1986年にケンタッキー州TMMを単独で立ち上げた。1997年10月、世界初の量産ハイブリッド乗用車プリウスを発売し電動化技術で先行、2009年3月期にはリーマン・ショックで創業以来初の営業赤字4610億円を計上したが、研究開発費を温存して再建した。しかし2022年以降、日野・ダイハツ・豊田自動織機で認証不正が相次ぎ発覚し、グループ品質ガバナンスの再構築が課題となった。こうしてFY23は営業利益5兆3529億円の過去最高を達成、2023年4月就任の佐藤恒治社長のもとで全固体電池の実用化と次世代BEVの量産体制構築を推し進めている。
- 日野自動車 — 1910年8月設立の東京瓦斯工業を源流とし、1937年4月に東京自動車工業として統合され、1941年4月にヂーゼル自動車工業へ商号変更したのち、補助金制度の矛盾を解消するため1942年5月に日野製造所が分離独立して日野重工業として発足した。戦車製造の軍需工場として出発したが終戦で約7000名に解雇通告し、残留300名で日野産業として民生品トラック生産へ転じた。1949年5月に日野ヂーゼル工業として東証へ上場、1961年に小型乗用車「コンテッサ」で乗用車市場に参入したが商用車中心の販売網と相容れず苦戦し、1966年10月にトヨタ自動車との業務提携で乗用車から撤退して大型トラック専業へ転じた。1974年の「D号作戦」で普通トラックの国内シェア首位を確保し、2001年8月にトヨタの第三者割当増資引受でトヨタ連結子会社となった。2017年10月には創業地・日野市の本社工場を閉鎖し500億円を投じた茨城県古河工場へ集約、生産効率を約20%向上させた。しかし2003年から約20年にわたるエンジン認証不正が2022年3月に国内でも発覚し3期連続の最終赤字に転落、トヨタは経営支援を中止した。こうして2023年5月に三菱ふそうとの経営統合構想が公表されたが2024年2月に無期限延期となり、商用車専業メーカーとしての独立経営の維持が現在の焦点である。
- 三菱自動車 — 1970年4月、三菱重工業の全額出資によって三菱自動車工業が設立され、同年6月に名古屋・水島・京都など計4製作所を譲り受けて営業を開始した。背景には1960年代の乗用車販売でトヨタ・日産に劣勢だった三菱重工側の事情と、日本進出を模索していた米クライスラーの意向が重なっていた。1971年にクライスラーが株式15%を取得する資本提携が成立したが、同時に締結された「合衆国流通契約」は北米市場で2ドア車限定かつクライスラーの独占販売を強い、主力の4ドア小型車輸出と自社販売網の構築を封じる不平等条約として働いた。1982年発売のSUV「パジェロ」とパリ・ダカールラリーでの実績で海外知名度を確立し、1988年12月に東京・大阪・名古屋三市場へ上場した。2000年3月にダイムラークライスラーと提携し同社が34%を取得して親会社的立場に立ったが、2001年と2004年の二度のリコール隠しで自己資本比率は1.4%まで低下、2005年11月にダイムラーが全株式を売却して提携は解消された。こうして2016年5月に日産自動車と戦略提携を結びルノー・日産アライアンスに参画したが、2021年3月期には国内6拠点の減損1179億円を含む特別損失2982億円を計上、2024年12月には日産・ホンダ・三菱の3社経営統合協議の開始が公表された。
- マツダ — 1920年1月、松田重次郎が広島でコルク製品の国産化を目指して東洋コルク工業を設立した。第一次世界大戦後のコルク需要急減を受けて1927年に東洋工業へ改名、工作機械とオート三輪へ転身し、1931年に三輪トラック「マツダ号DA型」を投入した。1945年8月の原爆投下で本社工場は被害を受けたが宇品周辺の立地で設備損傷は軽微にとどまり、同年12月には三輪トラック生産を再開、1949年に東証へ上場した。1960年に軽乗用車R360クーペを30万円という前例ない低価格で投入、同年10月には独NSU社からロータリーエンジンの特許権譲受を発表し、1967年5月にコスモスポーツで世界初の実用量産化を実現した。しかし1973年10月の第一次オイルショックでロータリーの燃費の悪さが露呈し、1975年3月期に戦後初の営業赤字へ沈み主力銀行・住友銀行から役員派遣を受けた。1979年11月に米フォードと資本業務提携を結び北米現地生産で規模拡大に舵を切ったが、バブル崩壊後の5チャンネル販売網過剰と2008年以降のフォード撤退で2008年3月期から4期連続の営業赤字に陥った。こうしてSKYACTIVと魂動デザインで再生し、2017年8月にトヨタと対等資本提携、両社折半の米アラバマ合弁工場「Mazda Toyota Manufacturing U.S.A.」を2021年9月に稼働させ、2026年には毛籠勝弘社長のもとで合計2000億円の原価低減と新型CX-5投入を進めている。
- ホンダ — 1946年10月、本田宗一郎が静岡県浜松市に本田技術研究所を設立し、旧日本陸軍の無線機用発電エンジンを転用した自転車用補助動力エンジンの製造販売から事業を起こした。1948年9月に本田技研工業として法人化し、1949年から経営参謀の藤沢武夫が参画して「技術の宗一郎、経営の藤沢」の二人三脚体制が成立した。1952年、本田は資本金6,000万円に対して4億5,000万円という業界で「暴挙」と呼ばれた巨額投資で米国製工作機械を大量輸入し、1958年発売のスーパーカブで世界累計1億台を突破するベストセラーを生み、1961年のマン島TTレース完全制覇で技術力を世界に示した。1972年には米国マスキー法を独力で克服したCVCCエンジンをシビックに搭載し、自前主義というホンダの性格を決定づけた。1978年には日本メーカー初の北米四輪現地生産を発表、1982年11月にメアリズビル工場で生産を開始し、1989年にはアコードが米国市場で最も売れた乗用車となった。しかし2018年2月に英国スウィンドン工場閉鎖で欧州完成車生産から撤退、2021年3月には埼玉県狭山工場の完成車生産も終了した。こうして2024年12月にホンダ・日産・三菱の3社経営統合協議が公表されたが2025年2月に決裂し、2026年3月期通期で約3,600億円の一過性費用、うちEV関連2,900億円を計上、2040年全面EV目標を修正してICE・HEVへ軸足を取り戻す局面に入った。
- スズキ — 1909年10月、鈴木道雄が静岡県浜松市に鈴木式織機製作所を開業し、国産織機の製造販売から事業を起こした。戦後の綿紡績業衰退で1952年に原動機付自転車「パワーフリー号」を投入、1954年に鈴木自動車工業へ社名変更し、1955年10月に軽自動車「スズライトSS」で軽四輪の先駆けとなった。1978年6月に鈴木道雄の娘婿として鈴木修が社長に就任し、40年以上の長期政権の基礎を築いた。1979年5月、軽商用車「アルト」を47万円という業界初の50万円割れ価格で投入し主婦層の二台目需要を掘り起こした。1981年8月に米GMと資本業務提携を結び、1982年4月にはインド政府系マルチ・ウドヨグ社と合弁契約を締結、1983年12月の初代「マルチ800」がインド乗用車市場の半数超のシェアを長期に維持する成長エンジンとなった。しかし2009年12月に独フォルクスワーゲンと包括提携を結ぶも価値観の衝突で2011年に対立、国際商業会議所の仲裁で2015年8月にスズキ側勝訴、約4,602億円分の株式買戻しが命じられた。こうして2019年8月にトヨタと業務資本提携を調印し、2026年現在はマルチ・スズキの200万台体制へ向けカルコダ第2工場とハンサルプール第4工場の稼働で次の成長段階へ踏み出している。
- SUBARU — 1917年5月、海軍予備役中尉を退役した中島知久平が群馬県太田町で民間の飛行機研究所を創設したのが源流であり、1931年に株式会社中島飛行機製作所として発展、1941〜1945年の航空機生産で機体シェア28%を占める日本最大級の航空機メーカーとなった。1945年8月の敗戦で富士産業株式会社へ改組され、1950年の過度経済力集中排除法で12社に分割された後、うち5社が1953年7月に再結集して富士重工業株式会社が発足した。1958年5月、航空機設計者出身の百瀬晋六が中心となって軽自動車「スバル360」を投入し、独自のモノコック構造で「てんとう虫」の愛称で長く親しまれた。1966年発売の初代スバル1000で水平対向エンジンと前輪駆動を組み合わせ、1972年には世界に先駆けて乗用車に四輪駆動を市販化し「水平対向+AWD」の独自技術を確立した。1990年代前半の業績悪化では1996年に日産自動車から川合勇副社長を社長として迎え、その後は日産→GM→トヨタと12年で3度の大株主交代を経験した。2014年には独自の運転支援システム「アイサイト」第2世代を投入、北米SUV市場依存度70%超の構造を築き、2017年4月に社名をSUBARUへ変更した。こうして2026年3月期は米国トランプ政権の追加関税下で営業利益1000億円水準の確保を最優先課題に掲げ、矢島工場でのBEV生産投資を進めている。
- ヤマハ発動機 — 1955年7月、日本楽器製造(現ヤマハ株式会社)から二輪車製造部門を分離独立させる形でヤマハ発動機が静岡県浜松市に設立された。戦時中に軍需用プロペラ製造のため大量導入された約1,000台の工作機械が遊休資産として残されており、楽器製造だけでは活用しきれない生産設備の転用先を模索した結果が二輪車事業への参入だった。初代社長の川上源一は日本楽器社長を兼任しつつ新会社を率い、初号機「YA-1」が1955年の浅間高原レースと富士登山レースで優勝、後発参入者として一気に注目を集めた。1960年には小型船外機事業に参入し、北米市場を中心に1970年代に有力地位を獲得、二輪車とマリンの「二本柱経営」を確立した。しかし1979〜1983年の「HY戦争」でホンダとの過剰競争に敗れ、1982年に戦後初の営業赤字、1984年には▲350億円の巨額赤字を出し、1983年に川上源一を含む経営陣が刷新された。その後は東南アジア二輪と1984年参入の産業用ロボット、2001年参入のゴルフカーで多角化を深め、2018年2月期には過去最高を更新した。こうしてリーマン後の2010年に就任した柳弘之が「感動創造企業」理念のもとプレミアム戦略へ転換、2025年2月就任の設楽元文社長のもと、米トランプ関税と鉄鋼関税の二重逆風下で価格戦略の見直しと事業ポートフォリオの再整理を進めている。
- 良品計画 — 1980年、西友のプライベートブランドとして「しるしのない良い品」を掲げて無印良品が登場し、ナチュラル志向と過剰包装への反発という時代潮流に乗って西友グループ内で突出した売上を記録した。1989年6月、西友はこの事業を切り出すために資本金1億円で良品計画を東京都豊島区に設立し、翌1990年3月に営業譲渡を受けて卸売PBから直営小売へ業態転換した。1991年7月には設立から2年で英国リバティ社と提携してロンドンに出店、1995年8月の店頭登録、1998年12月の東証二部上場を経て、2000年8月に東証一部へ指定替えされた。しかし2001年、団塊ジュニア向けの品揃え拡張で死に筋と在庫が膨らみ、ユニクロや青山商事の価格破壊で価値尺度が崩れて独立後初の本格的な業績調整に入った。立て直しの中心となった松井忠三は2002年10月に山本耀司率いるヨウジヤマモトに衣料品のデザインを全面委託し、2001年3月設立のMUJI(HONG KONG)を皮切りに代理店モデルから直営方式へ切り替え、2018年2月期には売上高3788億円・純利益301億円の最高益に達した。だが2020年8月期はコロナ禍で純損失169億円に転落、海外4地域すべてが営業赤字となった。こうして2021年9月にファーストリテイリング副社長を経た堂前宣夫が社長に就き「規模でトップは目指さない」を掲げ、ローソン全店展開と600坪中型店で生活圏密着モデルへ転換、2025年8月期は売上高7846億円・営業利益738億円と3期連続の最高益を更新した。
- サイゼリヤ — 1967年7月、東京理科大学物理学科出身の正垣泰彦が千葉県市川市本八幡で個人店舗「レストラン・サイゼリヤ」を開いた。研究者の道を断念し、ゼロから自力で事業を興すなら食べ物屋が最も適しているという判断による選択だった。開業翌年、店内で起きた暴力団同士の喧嘩のさなかに投げ込まれた石油ストーブで店舗は全焼したが、1968年5月、同じ本八幡でイタリア料理店「サイゼリヤ」1号店として再出発した。1970年代前半は1日売上3万円前後にとどまったが、1975年頃に正垣は「最後の賭け」として全メニューを6〜7割引まで一挙に下げ、看板の「ミラノ風ドリア」を304円で売り出して繁盛店へ転じた。1973年5月に株式会社マリアーヌ商会として法人化し、1977年12月の市川北口店から多店舗化を開始、自己資本の3倍を借入で調達し投資リターン20%を確保するドミナント戦略で全国展開した。1994年のテレビ放映を機に広告宣伝費を売上高比0.3%に抑え浮いた原資を食材原価に回すモデルを固め、1998年4月に店頭登録、2000年8月に東証一部へ指定された。2003年6月に上海薩莉亜餐飲有限公司を設立して中国本土へ本格進出し、2022年4月に東証プライム市場へ移行、2023年11月に海外500店舗を突破した。こうして2025年は5〜10月の半年でベトナム・オーストラリア・武漢・広東省・マレーシアと5カ国・地域で新会社を集中設立し、東南アジアから南半球までの新展開段階に入った。
- ニコン — 第一次世界大戦下で日本海軍がドイツ製光学機器の輸入途絶に直面したことを受け、岩崎小弥太率いる三菱財閥が海軍要請に応えて1917年に日本光学工業を設立した。藤井レンズ製造所を買収し1918年に大井工場を新設して光学ガラスの国産化に取り組み、1927年にようやく安定量産を実現した。戦時中は測距儀・双眼鏡・照準器など海軍向け光学機器で従業員2万5000名・国内20工場の巨大軍需企業へ膨張したが、1945年の終戦で全需要を一夜で失い、大井工場を除く19工場を閉鎖、約2万名を整理解雇して1724名で再起を図った。1948年にカメラとレンズの量産を正式に開始、進駐軍将兵が認めたレンズ品質を突破口に高級カメラメーカーとして輸出市場を開いた。1980年に初号機NSR-1010Gの開発に成功してステッパー事業に参入、1983年には世界シェア首位を確保しカメラと露光装置の二本柱を確立した。しかし1990年代後半に半導体産業の重心が台湾・韓国へ移行する過程でオランダASMLに顧客対応で後れを取り、シェアを失った。FY1998に182億円、FY2001に60億円、FY2002に81億円と連続最終赤字を計上、カメラもミラーレス移行で苦戦して二事業が同時不振となった。こうして2026年3月期第3四半期にはデジタルマニュファクチャリング事業で925億円の減損を計上、2026年5月公表予定の次期中計のもとで業務用動画機・次世代露光装置への投資再配置を進めている。
- オリンパス — 第一次世界大戦下のドイツ光学機器輸入途絶を受け、山下長が1919年10月に資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に設立し、翌1920年には国産顕微鏡「旭号」を完成させた。しかし体温計と顕微鏡の二事業の同時運営は資金的に成り立たず、1923年に体温計事業を後のテルモへ売却して顕微鏡へ集中し、1928年には株主の森下仁丹との係争を経て1929年に和解した。1933年に海軍省指定工場となり、1943〜1944年に長野県諏訪・伊那へ疎開した工場が戦後の生産基盤として機能し、1949年に株式上場した。1950年に東大医師の要請で世界初の胃カメラ開発に着手し、1955年には全国胃カメラ研究会の事務局を引き受けて消化器科医のネットワークを抱え込む構造を築いた。1961年7月発売の「ペンEE」は累計100万台を超えカメラメーカーとしての認知度を全国に広げた。しかし1987年に金融資産運用を積極化、バブル崩壊後に約950億円の含み損を抱えて先送りし、2008年の英Gyrus Group2,597億円買収のFA報酬問題が2011年7月に表面化、約1,000億円の損失隠しが戦後日本のガバナンス論議の焦点となった。こうしてバリューアクト・キャピタルの関与を受けて医療事業への集中を加速し、2020年には101年のカメラ事業を日本産業パートナーズへ売却し医療機器専業へ転換、FY2024/3期は売上9,362億円・当期利益2,426億円となったが、2023年以降のFDA警告書対応でElevate変革プログラムを継続中である。
- SCREEN HD — 1868年に石田才次郎が京都で銅版印刷を手掛ける石田旭山印刷所を個人創業した。2代目の石田敬三は1920年代に写真印刷の普及を見据え、輸入に頼っていた写真製版用ガラススクリーンの国産化に着手し、1934年に「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を独自開発、商工省から工業研究奨励金7,000円を得た。量産工程の確立に約20年を要し、1943年10月に株式会社大日本スクリーン製造所を設立して事業基盤を整えた。1962年に大証2部上場、1963年にはソニーと共同でカラーテレビ向けシャドーマスクの開発に着手し、写真製版で培ったエッチング技術の応用先を開拓した。1975年にウエハー腐食機(ウェット式エッチング装置)を独自開発して半導体装置メーカーへの業態転換に踏み出し、1994年に電子工業向け機器の売上が印刷関連を上回った。1990年代初頭に洗浄装置でシェア22%首位を握っていたが、石田明社長は1997年に「FC-3000」を発表し設備投資184億円で多賀事業所を新設、シリコンサイクル不況下のFY1998に営業赤字131億円を出しても300mmウエハ対応の先行投資を貫き、2001年3月には彦根事業所Fab.FC-1で本格量産を開始した。この賭けで中堅競合が次々と脱落し寡占構造が固定化された。こうして2014年10月にSCREENホールディングスへ商号変更、2022年時点でバッチ式48%・枚葉式33%の世界シェアを確保、2025年度にはニコンから事業譲受でLeVina直描露光機・Lemotia PLPコータを取り込み後工程に進出、来期営業利益率25%確保を見込んでいる。
- HOYA — 1941年11月、製紙業を営んでいた山中正一・山中茂兄弟が東京府北多摩郡保谷町で東洋光学硝子製造所を創業し、太平洋戦争下の軍需用光学ガラス国産化という国家要請に応えて異業種から参入した。山中正一は溶解炉の前に筵を敷いて寝泊まりする執念で坩堝の形状と溶融温度の試行錯誤を重ね、約2年を経て1943年3月に光学ガラス「保谷BK7」の溶融に到達した。海軍管理工場の指定を受けたが1945年の終戦で軍需は消滅、続くクリスタル食器の北米輸出も1949年の単一為替レート「1ドル360円」制定で約40%の円高圧力により採算が崩壊し、1950年に従業員550名の大半を解雇して100名未満で再起した。創業から9年で2度の経営危機を経験したこの体験が分散志向の原点となった。1957年に32歳で社長に就任した鈴木哲夫は系列3社合併・事業部制・直販網整備を5ヵ年計画の3本柱とし、シェアを「資産」と定義して主力製品でシェア50%以上を目標に掲げ、1987年時点で眼鏡レンズ36%・クリスタル食器65%・光学レンズ60%・マスクブランクス世界75%を確保した。しかし1990年のコンタクトレンズ全量回収でシェアが15%から1.3%へ急落、39億円の損失を計上し、これを契機にROE経営へ転換した。こうして2007年にペンタックスを買収しEUVマスクブランクスで独占的地位を固め、FY2025/3期は売上収益8,660億円・営業利益2,600億円、2026年1月には1,000億円規模の自社株買いを決議した。
- キヤノン — 1933年11月、映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎が東京六本木のアパートの一室に精機光学研究所を創立し、出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅だった。1935年にカメラの国産化に成功しブランド名を千手観音由来の「kwanon」から「Canon」へ改め、1937年に資本金100万円で精機光学工業として正式設立された。1945年の終戦を機に御手洗毅は産婦人科医を断念して経営に専念し、1947年にキヤノンカメラへ社名変更した。1951年には東京大田区下丸子に資本金2,000万円の10倍となる2億円を投じて本社工場を新設し、高級カメラに特化する戦略で売上高利益率10%超を維持、3年で投資を回収した。1967年に「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化方針を打ち出したが電卓事業の価格競争で1975年に無配転落、1977年に賀来龍三郎が常務から副社長と専務を飛ばす異例の形で社長に抜擢された。1985年に米HP社とLBPのOEM供給契約を締結し、LBPは1990年に世界シェア70%、HP向け販売高はFY2002に6,110億円に達した。1990年にBJ-10vでインクジェット市場でも二大ブランドとなり連結売上高1兆円を突破した。こうして2015年にスウェーデンのアクシス、2016年に東芝メディカルシステムズを約6,655億円で買収して新たな柱を得て、2026年3月期決算発表に合わせ小川新社長への代表取締役交代を発表しPhase VII五ヵ年計画を進めている。
- リコー — 富国生命の保険セールスマンから理研コンツェルンの感光紙部門長に抜擢された市村清は、古参社員との衝突で感光紙製造装置を自らハンマーで破壊する事態に至ったが、理研総帥の大河内正敏博士は市村を処分せず1936年2月に感光紙部門を分離して資本金35万円・従業員33名の理研感光紙を設立し、経営の一切を市村に一任した。1938年に理研光学工業へ改称してカメラ製造に進出、1950年発売のリコーフレックスは朝鮮戦争特需で月産1万台を記録し本田技研・ソニーと並ぶ「花形三羽烏」の一角となった。1955年発売の卓上型複写機「リコピー101」で事務機市場へ参入したが、1965年3月期に8億4000万円の不良資産を一括処理して無配転落となり戦後初の経営危機を迎えた。1965年発売の静電複写機「電子リコピーBS2」で2年半で復配を果たした。1977年にハノーバーメッセでOAコンセプトを世界初提唱し、全国約7,000人のセールスマンと直系販売会社・大塚商会の三層販売網で1989年3月期に経常利益219億円のピークに達した。しかし1992年3月期に上場以来初の営業赤字17億円、1991年11月に浜田広社長が約370億円コストダウンのCRPを発表し役員23人に辞表提出を求めた。2008年10月に近藤史朗が北米事務機販売大手IKONを1,705億円で買収したがリーマンショックと文化的摩擦で頓挫、2017年4月就任の山下良則のもとで2018年3月期に1,759億円の減損損失と最終赤字1,180億円を計上した。こうして2022年9月にPFU株式80%を840億円で取得、2026年3月25日予定の新中期経営戦略発表へ向けデジタルサービス企業への再定義を進めている。
- シチズン時計 — 1918年に設立された尚工舎時計研究所を源流とし、1930年5月、尚工舎を母体として東京都新宿区高田馬場にシチズン時計株式会社が設立され腕時計の製造・販売を本格的に開始した。「市民に親しまれる時計」という社名思想のもと、1941年9月の日東精機合併で工作機械生産も開始し事業多角化の布石を打った。1949年5月に東京証券取引所へ上場、しかしクオーツ時計では1969年に世界初商品化を果たしたセイコーに先行され後発の立場に置かれた。1976年、シチズンは「時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断」として腕時計のムーブメントを他社に売る外販という業界の禁じ手を打ち、香港経由で組み立てられた10ドル級の低価格腕時計が欧米市場に広がった結果、1986年度に腕時計生産量で世界シェア1位をセイコーから奪取した。しかし2000年代に展開した携帯電話向けカメラモジュールや小型液晶パネルなどの電子デバイス多角化は、2009年3月期に純損失258億円、2013年3月期にも89億円の純損失と二度の大型減損を経て段階的に清算された。2008年にBulova、2012年にスイスLa Joux-Perret、2016年にFrederique Constantを取得して高級時計事業を強化、2016年10月に持株会社体制を解消し時計と工作機械の二軸経営へ回帰した。コロナ禍の2021年3月期には252億円の上場後最大級の赤字を計上したが、こうして2025年6月に佐藤敏彦から大治良高へ社長交代し、中期経営計画2027のもとで時計事業の成長戦略を強力に推し進める体制に入った。
- バンダイナムコHD — 2005年9月、玩具最大手のバンダイと業務用ゲーム大手のナムコが株式移転で共同持株会社バンダイナムコHDを設立し東証一部に上場した。統合の発端はプレイステーション2向け「機動戦士ガンダム1年戦争」の共同開発にあり、初代社長にはバンダイ出身の髙須武男が就いた。しかし2010年3月期にはリーマンショック後の需要減退とアミューズメント施設の減損が重なり初の当期純損失299億円を計上した。その後、ガンダム、ドラゴンボール、ELDEN RINGなど強力なIPを玩具・ゲーム・映像で同時展開するIP軸経営を徹底し、2018年4月にはハイターゲット向け事業をBANDAI SPIRITSへ承継して大人コア層へ軸足を移した。コロナ禍の巣ごもり需要も追い風となり、2022年3月期に売上8,892億円・営業利益1,254億円の最高益を更新した。こうして2025年に財務出身の浅古有寿が5代目社長に就き「360投資」を掲げ、同年3月期は売上1兆2,415億円・営業利益1,802億円・純利益1,293億円と過去最高を達成、玩具とゲームの寄せ集めから脱却したエンタメ複合企業として確立した。
- TOPPAN(凸版印刷) — 1900年1月、東京市下谷区二長町でヨーロッパ最先端の製版技術「エルヘート凸版法」を導入した技術型ベンチャーとして凸版印刷合資会社が設立された。有価証券・教科書印刷で全国最大手となり、1965年にカナダMooreとの合弁でビジネスフォームへ、1973年に朝霞精密工場でフォトマスク・シャドウマスク生産へ進出し、印刷技術を半導体・ディスプレイへ応用した。2008年3月期に売上1兆6,704億円のピークを記録するも、リーマンショックを直撃し2009年3月期に純損失77億円の初赤字へ転落、以後10年超の踊り場が続いた。しかし2022年6月就任の麿秀晴は「印刷の殻脱ぎ」を掲げ、2021年の米InterFlex買収・フォトマスク分社化を布石に、2023年10月に123年続いた「凸版印刷」の社名を捨てTOPPANホールディングスへ移行した。政策保有株式の売却益を北米軟包装と半導体フォトマスクへ振り向け、2025年4月には米Sonocoの軟包装事業を取得、同年3月期は売上1兆7,179億円で17年ぶりに最高売上を更新、海外比率約47%に達した。同年6月、大矢諭が社長を引き継ぎ次の成長段階に入った。
- 大日本印刷 — 1876年10月、佐久間貞一らが東京府下京橋区で秀英舎を創業し、官公庁文書の活版印刷から出発した。1935年2月に日清印刷を合併し大日本印刷へ商号変更、当時日本最大の印刷会社となった。1966年7月に中央研究所を完成させ、印刷の高精度パターン転写技術をフォトマスク・カラーフィルタ・シャドウマスクなど半導体・ディスプレイ向け部材へ応用した。2008年3月期に売上1兆6,160億円のピークに達したが、リーマンショックと丸善・ジュンク堂買収による出版流通垂直統合の重さが重なり、2009年3月期に初の純損失209億円を計上、2019年3月期にも構造改革で過去最大▲356億円の赤字を計上した。しかし2018年6月就任の北島義斉はDX・SXを軸に変革を進め、2021年3月に鶴瀬工場でリチウムイオン電池パウチ生産を開始、2023年2月公表の経営基本方針でROE10%・5年3,000億円の自己株式取得を掲げた。こうして政策保有株式売却益を成長投資へ振り向け、2025年3月期は売上1兆4,576億円・営業利益936億円・純利益1,107億円となり、売上構成17%のエレクトロニクス部門が営業利益の6割を担う構造へ変貌した。
- ヤマハ — 1889年、医療機器修理工だった山葉寅楠が浜松の小学校から依頼されたオルガン修理をきっかけに山葉風琴製造所を開業した。1897年10月に日本楽器製造株式会社へ改組し、1899年ピアノ、1915年ハーモニカと商品群を広げ総合楽器メーカーへ育った。しかし第一次大戦後の景気後退で1926年に105日間のストライキが起き、住友財閥出身の川上嘉市が招聘されて川上家支配が確立した。1950年に川上源一が社長に就任し、1953年の欧米視察を踏まえ翌年ヤマハ音楽教室を組織化、「教育→体験→購入」の導線で国内ピアノシェア60〜70%を獲得、1960年のロサンゼルス現地法人設立で商社を排した直販を貫き、1970年には世界シェア約30%へ達した。だが合歓の郷・つま恋・キロロなど累計約350億円のリゾート投資やFRPスポーツ等の多角化が後年の重荷となり、1992年に川上家は退場、2000年3月期に最終赤字407億円へ転落した。こうして2013年に事業部制を廃止し「音」を軸に楽器・音響へ回帰、2018年に時価総額1兆円を突破し、2026年3月期は売上高4,620億円を見込む段階に至った。
- 任天堂 — 1889年、山内房治郎が京都・寺町通二条で花札の製造販売を始め、村井兄弟商会のタバコ販路に相乗りして全国へ広げた。1949年に山内積良が急逝、早稲田大学在学中の孫・山内溥が22歳で社長に就き、家内工業からの脱却を進め1953年に国産初プラスチック製トランプを量産、1959年のディズニー提携と全国テレビCMで国内シェア約80%を握り1962年に大阪・京都の証券取引所へ上場した。タクシー・即席ライス・ラブホテルなど多角化に全敗した経験から「娯楽専業」を選び取り、1983年7月に14,800円の家庭用ファミリーコンピュータを発売、ハード普及→ソフトで長期回収の事業モデルを確立した。しかしDS・Wiiの後継機3DSとWii Uが前世代の成功を再現できず、2009年3月期をピークに8期連続減収、2012年と2014年に最終赤字へ転落、2015年7月には岩田聡社長が55歳で急逝した。こうして2017年3月に携帯機と据置機を統合したNintendo Switchを投入、累計1億台超を売り上げ、2025年6月には8年ぶりの新ハードSwitch 2を世界同時発売、2026年2月時点で累計1,500万台を達成し単一プラットフォーム戦略の次段階に踏み出した。
- 伊藤忠商事 — 1858年、15歳の初代伊藤忠兵衛が近江国豊郷村から麻布の行商を始め、1872年に大阪本町で「紅忠」を開いて呉服太物に転じた。1885年に対米貿易へ参入し神戸とサンフランシスコに拠点を置き、1895年に上海で中国産綿糸の輸入を始めて関西紡績群への販売で繊維商社の型を固めた。第一次大戦期に4支店6出張所まで広げた反動で1920年に赤字転落、丸紅商店分離と大同貿易切り離しで延命し、戦時統合と財閥解体を経て1949年12月に伊藤忠商事として再出発した。1965年に越後正一が東亜石油株38.5%を取得し「和製メジャー」構想に踏み込んだが、オイルショック後に累計約1,300億円の損失を抱え1985年に撤退、1977年には住友銀行の要請で安宅産業を救済合併し非繊維化を進めた。しかし2000年3月期に丹羽宇一郎が特別損失3,950億円を一括処理、CTC上場益で相殺する独特の再生劇を演じた。こうしてファミリーマート完全子会社化とCITICへの6,890億円出資で非資源を厚くし、2025年3月期は連結純利益8,803億円の最高益、2026年3月期は商社「3冠」復帰へ9,000億円計画を掲げた。
- 丸紅 — 1858年に初代伊藤忠兵衛が大阪で始めた麻布の持下り商いを源流とし、1872年の「紅忠」開店、1918年の二代忠兵衛による伊藤忠商事と丸紅商店の分離を経た。1941年に岸本商店・伊藤忠と合併し三興となり1944年に大建産業へ商号変更、1949年12月に過度経済力集中排除法による分割で丸紅株式会社として再独立した。分割交渉では綿のれんを伊藤忠に譲り、丸紅は綿以外の繊維を背負って出発、1955年2月の高島屋飯田吸収で機械・金属を取り込み、1961年には非繊維売上で伊藤忠に半期400億円の差をつけ「総合商社化」の口火を切った。しかし1976年のロッキード事件で商社ガバナンスの弱点を世に晒し、エネルギー部門の出遅れと不良資産処理の遅延が重なり、1998年以降の損失処理で伊藤忠との差を再び広げた。その後2013年度に米穀物大手ガビロンを約27億ドルで買収するも穀価下落で2016年3月期純利益622億円へ沈み、2020年3月期はチリ銅減損で1974億円に縮んだ。こうして柿木真澄体制で立て直し2023年3月期に純利益5,430億円の最高益を更新、2025年4月に外資コンサル出身の大本晶之が社長に就き、2030年度時価総額10兆円・3年1.7兆円投資計画を掲げた。
- 豊田通商 — 1936年10月、トヨタ自動車工業の自動車販売金融を目的に資本金100万円のトヨタ金融が設立された。1942年4月に豐田産業へ改称、1948年7月の解散後に商事部門を継承して日新通商が名古屋市に発足し、1956年7月に豐田通商へ商号を改めた。1960年10月に米国法人を設立、1961年に名証、1977年1月に東証へ上場し、トヨタ向け物流商社として中堅の位置を保った。2000年4月の加商、2006年4月の経営再建中トーメンとの連続合併で総合商社化し、2012年12月には仏パリ上場のアフリカ流通大手CFAOを約23億ユーロで買収、自動車・医薬品・消費財の現地流通網を獲得した。しかし2016年3月期は資源価格急落で特別損失927億円・純損失437億円を計上、同年6月に貸谷伊知郎が社長へ就任した。その後IFRS適用初年度の2017年3月期に当期利益1,079億円へV字回復、2022年8月にユーラスエナジー、2025年1月にエレマテックを完全子会社化した。こうして2025年3月期は売上10兆3,095億円・当期利益3,625億円と最高益を更新、同年4月就任の今井斗志光社長は2028年3月期の利益4,500億円・ROE15%・総還元性向40%以上を掲げ、グループ内商社からの資本政策的自立を打ち出した。
- 三井物産 — 1876年7月、益田孝らが旧三井物産会社を設立し、三井財閥の石炭販売受託から綿花・機械・鉱産物へ取扱を広げて日本初の総合商社の原型を築いた。1909年に株式会社三井物産へ改組し戦前期の対外取引中核を担ったが、1947年7月に過度経済力集中排除法のもとGHQ指導で解散させられ、数百社へ分散した。1959年2月、分散していた旧三井物産系商社が再統合され現在の三井物産が発足、戦後復興期から海外網を再構築した。1976年の創業100周年に総額5,000億円のイラン石油化学プロジェクト(IJPC)に踏み込んだが、1978年のイラン革命と1980年のイラン・イラク戦争で頓挫し約2,500億円の損失を負った。それでも資源上流投資は続き、しかし2016年3月期にチリ銅減損と米シェールガス評価損で当期純損失834億円という戦後初の大規模赤字を計上した。安永竜夫体制で「基礎収益力」を持ち込み非資源シフトを進め、2020年6月就任の堀健一が組織横断経営を徹底、2023年3月期に当期利益1兆1,306億円で24年ぶりに商社利益首位へ復帰した。こうして20年交渉の末に約8,000億円のRhodes Ridge鉄鉱石事業へ参画、モザンビークLNGも再始動し、基礎営業キャッシュ・フロー100億ドル構想へ進んだ。
- 東京エレクトロン — 1963年11月、日商出身の久保徳雄と小高敏夫がTBSから資本金500万円の出資を受け東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立、VTRやカーラジオの輸出入から出発した。1964年に小高が渡米し米サームコの拡散炉と米フェアチャイルドのICテスター代理店契約を獲得、1台4,000万円のテスターをデモ用に自費購入する賭けで日本電気を皮切りに国内ICメーカーへ納入、IC産業勃興の仕掛人となった。1974年の石油ショックを機に売上6割を占めた消費財輸出からの撤退を決断、1978年までに完了し7つの商品選定基準でIC装置に特化した。1984年の米サームコ合弁買収などで商社からメーカーへ業態を転換、1994年10月に海外を直販へ全面転換し6年で海外売上比率を34%から70%へ引き上げた。しかし2010年3月期はリーマン・ショックで創業以来初の赤字、2014年3月期は太陽光パネル装置事業の撤退で純損失194億円、2013年9月合意の米Applied Materialsとの経営統合も2015年4月に独禁法の壁で頓挫した。こうして独自路線で半導体スーパーサイクルに乗り、2025年3月期は売上2兆4,316億円・営業利益率28.7%、生成AI需要を追い風に売上3兆円・営業利益率35%を中期目標に掲げた。
- 住友商事 — 住友財閥は1920年に総理事・鈴木馬左也が「商社設立禁止宣言」を発令し25年にわたり商社事業への参入を封じたが、1945年8月の終戦と復員社員の生活基盤確保のため古田俊之助総理事がこれを撤回、同年11月に大阪で日本建設産業として発足したのが住友商事の源流である。1952年に商号を住友商事へ改称、住友金属工業や住友金属鉱山の販売機能を担う「金ヘン商社」として後発の地歩を築き、1949年8月に東京証券取引所へ上場した。1981年就任の植村光雄社長は「10年以上の長期プロジェクトには手を出さない」と明言し、三井のIJPCや三菱のブルネイLNGをよそに約20年の堅実経営で財務を蓄えた。しかし1996年6月に「ミスター・カッパー」浜中泰男の10年に及ぶ簿外取引が発覚し、1997年3月期に銅地金取引関連損2,852億円を計上、純損失1,456億円となった。その後1988年表明の「総合事業会社構想」に沿い2005年アンバトビー、2010年ウジミナス、2012年米テキサスタイトオイルへ大型投資を進めたが、2015年3月期に合計3,103億円を一括減損し最終赤字731億円へ転落した。こうして2025年10月にSCSK完全子会社化へ約8,800億円・米航空機リースへ約3,000億円を投じ、デジタル・リース主導の第二の路線転換に踏み出した。
- 三菱商事 — 1947年にGHQの財閥解体方針で旧三菱商事は解散させられ、商権とのれんが事実上消滅したが、1954年7月、和光実業・不二商事・東京貿易・東西交易の四社合同で三菱商事株式会社を再発足させた。三菱グループの重工業・化学を背景に鉄鋼・非鉄・機械を主軸とする非繊維型の商品構成を初期条件として持ち、1968年に藤野忠次郎社長が「トレーディング・アンド・ディベロップメント」を掲げシェル45%・三菱商事45%・ブルネイ政府10%でブルネイLNG開発に参画、同社の投資額は約421億円に達し年間約200億円規模の安定配当の循環構造を得た。1985年に諸橋晋六が「Kプラン」で過去依存型構造を警告したが、2011年のチリAAS約4,200億円取得など資源投資が積み上がり、2016年3月期にAAS減損2,712億円で連結最終赤字1,493億円へ転落した。しかし小林健は「掘れば売れるは終わり」と転換を宣言、2020年に蘭Eneco社を約4,885億円で買収、同年8月のバークシャー大量保有を契機に株主意識経営へ舵を切った。こうして2022年就任の中西勝也は「循環型成長モデル」を掲げ、日本KFC売却・ローソン連結除外・LNGカナダ運開・米シェールAethon参画を進め、2027年度に連結純利益1.2兆円・ROE12%以上を掲げる経営戦略2027を本格始動させた。
- 安宅産業 — 1909年7月、数え31歳の安宅弥吉が大阪市船越町で従業員10名・香港支店一つの安宅商会を個人創業し、鉛・亜鉛・錫など非鉄地金の輸入を主力に「地金の安宅」と呼ばれる商圏を築いた。住友電線・日本ペイント・住友伸銅所・川崎造船所・八幡製鐵所など国内製造業との直接取引を軸に据え、1919年に株式会社、1943年に「安宅産業」へ商号変更した。1926年に非財閥系ながら官営八幡製鐵所の指定商に認定され鉄鋼流通の中枢に食い込み、1956年に大阪証券取引所へ上場、十大商社の一角に数えられる「金へん商社」となった。しかし1955年に会長就任の安宅英一が持株比率2%余で22年にわたり「安宅ファミリー」を通じ重要人事を掌握、1966年の住友銀行主導の住友商事との合併構想を破談に追い込み、1969年には越田左多男社長を解任した。後任の市川政夫は売上1兆円を掲げ借入依存の積極投資へ舵を切り、1973年にカナダの石油精製会社NRCと総代理店契約を結びBPから10年間中東原油を買い切る義務を負った。だが同年10月のオイルショックでNRCが負債5億7,000万ドルで破綻、1976年度に1,330億円の最終赤字、不良債権2,000億円超に達し、住友銀行・協和銀行を中心とする16行協調融資団2,646億円を経て、1977年10月1日に伊藤忠商事へ吸収合併され68年の歴史を閉じた。
- サンリオ — 1960年8月、山梨県庁職員だった辻信太郎が県知事や副知事を出資者に資本金100万円で山梨シルクセンターを設立し、絹製品販売から出発した。創業直後に韓国向け輸出で500万円の不渡手形を掴み倒産寸前に陥ったが、百貨店前の路上物販で3カ月で完済しギフト商品の企画販売へと事業軸を移した。1971年に新宿で直営「ギフトゲート」を開店、1973年4月に株式会社サンリオへ商号変更、1974年に制作室の20代女性社員がハローキティを生み、1976年から自社IPのライセンス供与を始め、1982年4月に東証2部へ上場した。しかし1990年12月のサンリオピューロランド開園とバブル崩壊が重なり、財テクの売却機を逃して1991年3月期から8期連続最終赤字、累計赤字1,010億円・自己資本比率3%まで低下した。1998年からのキティ再デザインで瞬間的に回復したが、単一キャラクター依存の脆さが2000年代に露呈し、2009年から海外ライセンス強化と物販分離で構造改革を進めた。こうして2020年6月、孫の辻朋邦が35歳で社長に就き「第二の創業」を掲げてポートフォリオ分散を本格化、FY2024/3期に売上高は過去最高水準を更新、時価総額はかつての10倍超に膨らみ、「もうキティだけに頼らない」複数IP経営への変貌が進む段階に入った。
- ヤオハン — 1930年、和田良平が「八百半」から暖簾分けする形で八百半熱海支店を創業し、熱海の旅館向けに野菜を卸す商いから出発した。1955年に八百半食品デパートへ商号を変更、翌1956年に商業界の倉本長治の指導で現金正札廉価販売を導入し、旅館掛売を廃して仕入資金の回転を加速させた。1962年に和田一夫が33歳で社長に就任、伊豆半島から神奈川へ店舗を広げ、1972年にグループ年商100億円を突破した。「流通のソニーになる」を掲げ、1971年9月にブラジル・サンパウロのピニエーロス店を皮切りに南米進出、1975年の金融引き締めで1977年にブラジルヤオハンが破綻したが撤回せず1974年にシンガポールへ進出、東南アジアで店舗網を広げた。1990年にグループ本社を香港へ移転し、長江実業の李嘉誠ら華僑人脈を築きながら中国1000店構想を打ち出した。しかし1990年代前半に総額約600億円の社債発行で1994年時点の有利子負債は1,200億円へ膨張、1993年から経営指導料の架空計上による粉飾決算が常態化した。こうして1997年9月18日に負債総額約1,600億円で会社更生法を申請、ピーク時16カ国450店舗・年商5,000億円の国際流通グループは67年で崩壊、和田一夫は全役職を辞任し私財を失った。
- 高島屋 — 1831年、京都烏丸松原で飯田新七が古着・木綿の店を構えたのが起点で、屋号は妻の父の出身地である近江国高島郡から取った。1909年に髙島屋飯田合名会社、1919年に株式会社髙島屋呉服店、1930年に商号を「株式会社髙島屋」へ改め、同月に大阪南区難波の南海店を開設、1933年3月に東京店を中央区日本橋へ移して同年に大阪・東京両取引所へ上場した。1944年に本店を京都から大阪難波へ移し、1957年からは横浜・立川・米子・大宮・柏など地域子会社方式で全国網を築き、1963年12月設立の東神開発で商業施設運営の地盤を社内に抱え込んだ。しかし1956年の国鉄新宿駅駅ビル進出は地元商店街の反対で阻まれ、首都圏旗艦店は1991年11月公表の新宿店出店まで35年も先送りされた。1989年6月のシンガポール進出を皮切りに上海・ホーチミン・バンコクへ展開、店舗運営と商業施設開発を一体化したASEANデベロッパー化を進めた。連結売上高は2002年2月期1兆2,058億円から2010年2月期8,777億円へ後退、2021年2月期はコロナ禍と訪日客消滅で連結純損失340億円となった。こうして2024年4月にROIC経営を本格導入し東神開発に機能を集約、2025年2月期は連結営業利益575億円・純利益395億円の過去最高水準まで回復、本業の呉服商から派生した不動産機能が縮小を補う構造へ移行した。
- そごう — 1830年、伊兵衛が天保の改革下にあった大坂の坐摩神社近くで古着商「大和屋」を開業した。1877年に「十合呉服店」へ改称し新品呉服を扱う専門店へ業態転換、1919年に株式会社化して百貨店へ移行した。1933年の神戸店開業など拡張投資の代償で1935年に創業家の十合家は保有株式を売却し板谷家へ経営権が移った。1957年の有楽町東京店開業も賃料負担で3期連続赤字に陥り、大和銀行主導で日本興業銀行出身の水島廣雄が副社長に就いた。1960年の坂内社長急逝後の株主間紛争を収束させる調停役として1962年に水島が社長に就任し、各店舗を別会社化して現地資本との共同出資と銀行借入で建設資金を賄う出店モデルを敷いた。1967年の千葉そごうを皮切りに横浜・広島・船橋・八王子へ展開、1987年には日本最大級の横浜そごうを開業し、1992年にはグループ売上1.4兆円・国内外35店舗で百貨店業界売上首位に立った。しかしバブル崩壊で地価下落・郊外SC台頭・百貨店成長停止の三つの前提が同時に反転、1995年2月に水島が代表権を返上、2000年3月に旧興銀を中心に総額6,390億円の債権放棄を要請したが世論の反発で頓挫した。こうして同年7月に負債総額約1兆8,700億円で民事再生法を申請、国内小売業最大規模の経営破綻となり、首位到達からわずか8年で転落した。
- 丸井 — 1931年2月、富山県出身で27歳の青井忠治が東京・中野で月賦販売商・丸二商会の中野店を買い取って独立した。愛媛勢が主流の月賦業界で外様の立場ながら中央線沿線の集約出店モデルを築き、1937年5月に資本金5万円で株式会社丸井を設立した。1952年の渡米で米国カード文化に触発され1960年に店舗専用クレジットカードを発行、1962年には資本金3.6億円に4億円を投じて新宿店を開業し、1970年に競合の緑屋を抜いて月賦百貨店売上首位を奪取した。1974年のオンライン信用照会システムと1975年の店舗即時発行で若者の高額DCブランド購買を分割払いで支える独自モデルを完成させ、1987年に26期連続増収増益、1988年にカード会員1,000万人を突破した。しかし1981年参入のキャッシング事業はグレーゾーン金利を前提とし、2006年1月の最高裁違法認定と同年12月の改正貸金業法施行で15年累計1,247億円の利息返還を強いられた。2005年就任の青井浩は、対話型経営への転換と同年3月のVISAスペシャルライセンシー取得を踏まえ、2006年4月にエポスカードを発行、汎用カードへの進化と賃貸型小売への転換で2010年代に11年連続増益を達成した。こうして2025年5月の新中計で「フィンテック中心・『好き』を応援するビジネス」へ戦略転換し、新自主運営ユニットの展開と2031年3月期ROE15%以上を掲げた。
- クレディセゾン — 1951年5月、岡本虎二郎が東京で月賦百貨店「株式会社緑屋」を設立し、家電・家具・洋服を月賦で販売する戦後の耐久消費財普及を担った。1963年7月東証二部、1968年6月一部指定を経て、1976年3月に西武百貨店と資本提携しセゾングループのクレジット・ファイナンス基幹会社となった。1980年8月に株式会社西武クレジットへ商号変更、1982年8月に西武カード(現セゾンカード)を発行、セゾンカウンターでの店頭即時発行で郵送発行が常識だった業界の慣行を覆した。1989年10月にクレディセゾンへ商号変更、1988年7月のVISA・MasterCardを皮切りに1995年JCB、1997年AMEXと4大国際ブランドすべてを扱う唯一のカード会社となり、2006年1月にはみずほ系のユーシーカードを吸収合併し業界再編の主役を担った。しかし2006年の貸金業法改正による過払金返還とリーマンショックが重なり、2009年3月期に連結純損失555億円を計上した。その後2014年5月のシンガポール拠点設立、2018年6月のCredit Saison India設立で海外レンディング事業へ軸足を移し、林野宏は「ポイント競争に参加せず独自の経済圏を」と独自路線を打ち出した。こうして2023年7月のスルガ銀行資本参加で「Non-Bank×Bank」連携を確立、2025年3月期は連結事業利益936億円の過去最高益を更新、インド債権残高3,000億円超を達成し中計FY26の1,000億円目標へ進んだ。
- イオン — 1758年に三重県四日市の呉服商「篠原屋」から暖簾分けした岡田屋を源流とし、1926年9月に株式会社岡田屋呉服店として法人化、戦後は1959年11月に岡田屋へ商号変更し百貨店業へ転じた。1969年2月に兵庫のフタギ、大阪のシロと共同出資で(旧)ジャスコを設立、1970年3月に4社合併でジャスコ株式会社が発足、岡田卓也が「連邦経営」を旗印に1970年代を通じ家業的な地域スーパーを次々吸収した。1974年9月に三証券取引所市場第二部上場、1976年8月に東証一部指定、1985年6月のマレーシア・ダヤブミ店で日系GMSのASEAN進出の先駆けとなり、1989年9月にグループ名称を「イオン」へ統一、2001年8月にイオン株式会社へ社名変更した。2000年6月の大店法廃止を追い風に2002年7月にイオンモールが東証一部上場、2003年11月のマイカル、2013年8月のダイエーをはじめウエルシア・マルエツ・カスミ・フジ・いなげやと連続買収を重ねた。しかし2020年6月に岡田元也から吉田昭夫が社長を引き継いだ翌期、2021年2月期にコロナ禍と減損で連結純損失710億円という過去最大の赤字を計上した。こうしてプライベートブランド「トップバリュ」を1兆円規模に育て、イオンモール・イオンディライトの非上場化を進め、2025年2月期は連結売上10兆1,349億円と日本の小売業で初めて10兆円台に乗せた。
- あおぞら銀行 — 1957年4月、長期信用銀行法に基づき不動産金融に比重を置く長信銀として日本不動産銀行が資本金10億円で設立された。1964年9月に東証へ上場、1977年10月に日本債券信用銀行へ行名変更し総合長信銀へ脱皮を図ったが、バブル崩壊後の不動産関連融資が不良債権化し、1998年12月に金融再生法に基づく特別公的管理に入って国有化された。2000年9月にソフトバンク・オリックス・東京海上を中心とする企業連合による買い取りで再民営化、2001年1月にあおぞら銀行へ改称、2003年に米系ファンドのサーベラスがソフトバンク株式を取得し収益性重視のガバナンスを持ち込んだ。2006年4月に長信銀免許を返上して普通銀行へ転換、同年11月に東証一部へ再上場した。しかし2009年3月期にサブプライム関連の海外クレジット減損で純損失2,425億円に沈み、2009年4月に対面網ゼロを長所に転じた個人ネット預金(後のBANKブランド)を開始、2015年6月に破綻処理から15年越しで公的資金を完済した。2019年6月就任の谷川啓体制でLBO・ベンチャーデット・環境ファイナンスのニッチ深掘りを進めたが、2023年度に米国オフィス向けノンリコースローンと外債評価損で純損失499億円を計上した。こうして2024年7月に大和証券グループ本社を引受先とする第三者割当増資519億円を実行、大見秀人新社長のもと2027年度親会社株主純利益330億円を目指す投資銀行型モデルの実証段階に入った。
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ — 1656年に初代鴻池善右衛門が大阪で両替店を開いた江戸初期の鴻池家、1870年に土佐藩郷士出身の岩崎弥太郎が大阪・西長堀で起こした海運業、1919年8月に株式会社三菱銀行として分離独立した3つの系譜が源流である。1923年の関東大震災では本店金庫を開放して罹災銀行の業務を支え、1927年の金融恐慌では中小企業を救済して三菱銀行は信用力を高めた。1933年12月には大阪系の鴻池・山口・三十四の3行が対等合併で三和銀行を創立、初年度から預金10億円超で国内普通銀行首位に立った。戦後の財閥解体で三菱は1948年10月に「三菱」名を禁じられ千代田銀行へ改称、1953年7月に復帰した。1971年に業界初のオンラインCD設置、1984年6月の米バンク・オブ・カリフォルニア買収で海外を加速、1996年4月に外為専門の東京銀行と合併し東京三菱銀行が発足、資金量で世界一となった。しかし2001年4月発足の旧UFJの経営難を受け2005年10月にUFJホールディングスと統合し国内最大の三菱UFJフィナンシャル・グループが誕生した。2008年3月にリーマン・ショック直前のモルガン・スタンレーへ約90億ドルを出資、同年8月に米ユニオンバンクを完全子会社化したが、2022年12月に14年保有のMUB個人向け事業をUSバンコープに約80億ドルで売却しホールセール集中へ転じた。こうして亀澤宏規CEOのもと2025年3月期は親会社株主純利益1兆8,629億円の過去最高益を計上、中長期ROE12%目標を掲げAMを「第4の柱」に据える構造転換に着手した。
- りそなホールディングス — 主源流の大和銀行は1918年5月に野村徳七が大阪野村銀行として設立、1925年7月から信託業務を兼営し戦前の都銀としては珍しい商業銀行と信託の一体運営を始めた。1943年に大和銀行へ改称、1949年5月に東京・大阪両証取へ上場、関西基盤と信託兼営を一貫して維持した。一方、関東側では協和銀行と埼玉銀行が1991年4月に合併し協和埼玉銀行が発足、1992年9月にあさひ銀行へ改称した。1995年9月に大和銀行ニューヨーク支店で行員の無断債券取引と簿外損失約11億ドルが発覚、米司法省の刑事告発を受けて1996年2月に米国市場から全面撤退した。2001年12月に大和銀行ホールディングスが発足、2002年3月にあさひ銀行が加わり同年10月にりそなホールディングスへ改称、2003年3月に大和とあさひを合併してりそな銀行が発足した。しかし2003年5月17日、繰延税金資産取り崩しで自己資本が不足し、政府は預金保険法102条1号措置に基づき約1兆9,600億円の公的資金を注入、戦後最大級の救済となった。同年6月、JR東日本副社長の細谷英二が会長に外部招聘され「ダントツのリテール銀行」を旗印に4大メガと別路線を貫いた。こうして2015年6月に12年越しで公的資金を完済、南昌宏CEOのもと2025年3月期は親会社株主純利益2,133億円の過去最高益を計上、中長期ROE10%超・OHR40%台を掲げる次期中計へ進んだ。
- 三井住友トラストグループ — 1922年4月の信託業法公布を受け、三井銀行常務でアメリカ信託事情に通じた米山梅吉が三井合名理事長・團琢磨の支持のもと準備を進め、関東大震災を越えて1924年3月25日にわが国最初の信託会社・三井信託株式会社を設立した。1925年7月には住友吉左衛門ら住友関係者の資本で住友信託が創立、9月に開業し、両行は財閥資本を背景に戦前の信託業を牽引した。1948年7月に三井信託は東京信託銀行へ、住友信託は富士信託銀行へ改称し、財閥色払拭と銀行業務兼営に踏み出した。1952年6月に貸付信託法が施行され住友信託が第1号募集を実施、集めた資金は電力・鉄鋼などの基幹産業に流れ戦後復興と高度成長を長期資金で支えた。1984年6月には住友信託が日本パイプ製造から本邦第1号の土地信託を受託、不動産融資への傾斜を強めた。しかしバブル崩壊で1994年度に三井信託は2,000億円を償却、2001年度には経常損失3,300億円・純損失2,779億円という巨額赤字を記録、2008年度はリーマンショックで経常損失1,169億円を計上した。生き残りのため2011年4月、中央三井トラストHDと住友信託銀行が経営統合し三井住友トラストHDが発足、国内最大の専業信託グループが誕生した。こうして2020年6月就任の高倉透がPBR向上とROE10%以上を掲げ2021年5月に政策保有株式ゼロ方針を公表、プロダクト与信シフトを進め、2024年度に経常利益3,676億円・親会社株主純利益2,576億円まで戻し、2025年就任の大山一也のもと預金から運用・信託への長期テーマを基軸に据えた。
- 三井住友フィナンシャルグループ — 1670年に住友家が両替商「泉屋」を始めて225年後の1895年、住友吉左衛門が資本金100万円の住友銀行を大阪・中之島で開業した。1916年には市中銀行のトップを切ってサンフランシスコに支店を出し、別子銅山仕込みの厚い自己資本と国際志向を武器に1929年末には普通銀行中首位へ駆け上がった。戦後は1948年に大阪銀行と改称した4年間を経て1952年に住友銀行へ復帰、堀田庄三の合理主義経営でトップバンクへ肉迫し、1977年の安宅産業1132億円、1995年3月期のイトマン関連8000億円超と他都銀に先駆けた不良債権処理で再建を急いだ。しかし2001年4月にさくら銀行と合併して三井住友銀行が発足、2002年12月に持株会社三井住友FGを設立して国内2位のメガバンクとして再出発した。こうして2019年に就任した太田純が「脱金融」を掲げ政策保有株式削減と事業ポートフォリオ入替を加速、2023年に急逝した太田を継いだ中島達のもと2025年3月期は経常利益1兆7195億円・純利益1兆1780億円と過去最高水準に達し、2030年頃ROE11%・利益2兆円というグローバルピア水準を長期目標として掲げた。
- 千葉銀行 — 1878年11月設立の千葉第九十八国立銀行を源流に、戦時下の1県1行主義に従い1943年3月、千葉合同銀行・第九十八銀行・小見川農商銀行の3行が合併し資本金1000万円・70店舗の千葉銀行が発足、翌1944年に千葉貯蓄銀行を合併し県内唯一の本店銀行となった。発足直後の敗戦・インフレ・預金封鎖を経て1948年に90%減資、1956年の融資問題と1958年の不正融資事件、1960年代初頭の大規模労働争議という内部のつまずきに直面した。しかし1964年にバンクフラワー「ひまわり」で企業イメージを刷新、1970年10月に東証2部、翌1971年8月に1部へ上場し、京葉工業地帯の形成と県北西部のベッドタウン化を取り込んで地銀上位行の地位を固めた。1987年のニューヨーク、1989年の香港、1991年のロンドンと海外3極を整備したのち、2009年3月に頭取就任した佐久間英利は12年間でリーマン直撃の経常利益93億円から地銀首位級まで業績を引き上げ、TSUBASAアライアンスの中核となった。2021年6月に米本努へ交代し、DXを成長の柱に据えたが2023年の仕組債販売で業務改善命令を受け信頼回復が最優先課題となった。こうして2025年3月期は経常利益1075億円・純利益742億円、金利上昇下で県内設備投資需要を取り込み収益を伸ばしている。
- ふくおかフィナンシャルグループ — 1945年3月、戦時下の1県1行主義のもとで十七・筑邦・嘉穂・福岡貯蓄の4行が新立合併し、資本金2500万円・店舗131カ店の福岡銀行が誕生した。九州最大であるだけでなく全国地方銀行の預金高で第1位という巨艦地銀の船出だったが、1953年7月の銀行史上初とされるストライキとエネルギー革命による石炭産業の衰退で預金高首位の座から退き、1955年に日銀考査役の蟻川五二郎が頭取に迎えられ以後4代続く日銀出身頭取のもとで再建を進めた。1980年9月に東証一部へ昇格、1980年代以降はロンドン・香港・ニューヨークと海外網を広げ東アジアシフトを先行させた。しかし2007年4月に福岡銀行・熊本ファミリー銀行・親和銀行を束ねる持株会社としてふくおかフィナンシャルグループが発足、初代社長谷正明が県境を越えた広域統合モデルを示し、2014年に柴戸隆成が継いだ。こうして2021年5月、福岡銀行を母体とする日本初のデジタルネイティブバンク「みんなの銀行」を開業させ、2022年4月就任の五島久が事業ポートフォリオ再定義を進めた。2025年3月期は連結経常収益4557億円・純利益721億円、2027年度の連結純利益1000億円を目標に基幹システムのモダナイズや量子コンピュータ・ステーブルコインまで視野に入れた先行投資を続けている。
- みずほフィナンシャルグループ — 安田善次郎が1880年に興した合本安田銀行を源流とする富士銀行、1902年に特殊銀行として誕生した日本興業銀行、1971年に第一・日本勧業合併で発足した第一勧業銀行の3行が、2000年9月に共同持株会社みずほホールディングスを設立し総資産世界最大級のメガバンクが誕生した。しかし発足直後の2002年4月、勘定系切替えに伴うATM停止と二重引落が全国規模で発生し金融庁から業務改善命令を受けた。出身3行の論理で接続した設計が発足の瞬間からガバナンス上の弱点として露呈、2011年3月の震災義援金処理を起因とする再障害でも同様の構造課題が繰り返された。こうして2013年7月にみずほ銀行とみずほコーポレート銀行を合併させOne Bank化を達成、3行統合時の積み残しだった勘定系も4000億円超・延べ35万人月を投じた次期基盤MINORIへの全面移行で2019年7月に19年越しの清算を遂げた。だが稼働からわずか1年半後の2021年2月から再びシステム障害が通年8回連発、2022年2月に就任した木原正裕は企業風土・人事・業務プロセスの三位一体改革と新人事制度〈かなで〉、米州CIBビジネス拡大を並行して進め、2023年には米Greenhillを買収しM&A体制を整えた。2025年3月期は経常収益9兆303億円・純利益8854億円と過去最高益圏に到達した。
- オリックス — 1964年4月、日綿実業・日商・岩井産業の三商社と三和銀行・東洋信託・日本興業・日本勧業・神戸の五銀行が資本金1億円を持ち寄り、大阪市中央区高麗橋にオリエント・リース株式会社を設立、米国生まれのリースという新業態を日本に持ち込む実験会社として産声を上げた。設立直後の昭和40年不況下で営業拠点と新卒採用の整備から始めた同社は3期目で黒字化、1970年4月に大証2部へ上場した。1980年に就任した宮内義彦は20年におよぶ長期政権のもと連結経営と多角的金融サービス企業への脱皮を掲げ、1986年大阪市岡証券への資本参加、1988年阪急ブレーブス取得と異業種展開を進めた。こうして1989年4月、創立25周年に「オリックス」へ商号変更し自らリース会社の看板を下ろし、1991年オリックス生命保険、1998年4月山一信託銀行買収、同年9月ニューヨーク証券取引所上場と総合金融サービス企業への変身を加速させた。2011年に就任した井上亮は2013年Robecoで運用、2014年弥生でSaaS、2015年関西エアポートで空港運営に踏み込み、14年で営業収益を9701億円から2兆8748億円へ約3倍に押し上げた。2025年1月に髙橋英丈へ社長交代、2025年3月期は総資産16.9兆円・純利益3516億円、「目指すはブラックストーン」と「投資しかしない会社は目指さない」の二輪で次期中計に向かう。
- 大和証券グループ本社 — 1902年5月、大阪の有力米穀商藤本商店5代目店主の藤本清兵衛がコールマーケットの担い手として藤本ビルブローカーを開業、米穀流通の余技から金融業へ踏み出した。1904年の日露戦争開戦に伴う国庫債券のロンドン輸出は1億7000万円に達し日本最初の国際証券取引となり、1933年に証券専業へ転じた後、1937年には日本最初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足させた。戦時統合下の1943年12月に日本信託銀行と合併し資本金1875万円の大和証券が誕生、1948年8月にわが国初の転換社債、1954年6月に日本初の累積投資制度「積立オープン」と「商品開発で食う」社風を固めた。1971年の初のアジアダラー債、1977年の初のユーロ円債、1987年の世界銀行サムライ債と海外ブリッジ業務でも先行し、1999年4月には証券業界初の純粋持株会社化で大和証券グループ本社へ移行した。しかし三井住友FGとの合弁を2010年1月に解消、2011年5月に大和ネクスト銀行を立ち上げ、リーマン後の2011年・2012年3月期は2期連続赤字に沈んだ。こうして2024年4月に就任した荻野明彦は単品商品売買から資産管理型ビジネスへの転換を進め、同年5月にあおぞら銀行と資本業務提携、2025年3月期は連結営業収益1兆3720億円・純利益1543億円となった。
- 野村ホールディングス — 1872年に初代野村徳七が大阪・農人橋詰町で両替商「野村徳七商店」を開いた。2代目徳七が1919年6月に資本金1000万円の大阪野村銀行を設立、1925年12月にその証券部を資本金500万円で分離独立させて野村證券を創設し、社長には片岡音二郎が就任した。1926年6月に『財界研究』を創刊し1927年3月にニューヨーク駐在員事務所を開設、調査と海外の二本柱を業界他社に先駆けて整備した。戦後は1947〜48年の配電株公募で業界最大の販売実績を上げ、1951年6月に戦後第1回投資信託、1961年10月には自社株を3取引所に上場して業界首位を固めた。1981年7月にNSIが邦証券として初めてNYSE会員権を取得し、1986年3月にはNILがロンドン証取会員資格を得てグローバル投資銀行への入口に立った。しかし1991年の損失補塡問題と2008年9月のリーマン破綻に伴う旧リーマンのアジア・パシフィックおよび欧州・中東部門承継は、2009年3月期に▲7082億円、2019年3月期にも▲1004億円の純損失を生み、海外で稼ぐ野村と国内リテールで安定収益を上げる野村の二律背反を露呈させた。こうして2020年4月就任の奥田健太郎は2024年4月に営業部門をウェルス・マネジメント部門へ改称、2025年4月にはマッコーリーのアセットマネジメント事業買収とバンキング部門新設を発表、2025年3月期は連結収益1兆8925億円・純利益3407億円と過去最高水準に達した。
- SOMPOホールディングス — 2010年4月、業界2位の損害保険ジャパンと4位の日本興亜損害保険が共同株式移転で持株会社NKSJホールディングスを設立、東京海上HD・MS&ADと並ぶ3メガ損保体制が整った。しかし設立初年度から129億円の純損失を計上、翌2012年3月期にはタイ洪水と東日本大震災の支払いが重なり純損失923億円まで膨らんだ。本丸の損保事業会社が「損害保険ジャパン日本興亜」として一本化されたのは設立から4年4か月後の2014年9月で、持株会社の商号も同年に「損保ジャパン日本興亜」、2016年10月に「SOMPOホールディングス」と書き換えられた。2012年に第2代社長就任の櫻田謙悟は2015年12月にワタミの介護を取得して介護事業を第二の柱に据え、2017年3月にバミューダの再保険会社Endurance Specialty Holdingsを約6,300億円で買収、海外保険事業をSompo International Holdings傘下に置いた。こうして海外保険事業の売上は2015年3月期の2944億円から2018年3月期に6413億円へ倍増した。だが2023年12月、損保ジャパンは中古車販売大手ビッグモーターをめぐる保険金不正請求問題で金融庁から業務改善命令を受け、政策株式保有慣行まで指弾された。IFRS移行後の2025年3月期は保険収益5兆655億円・親会社所有者帰属当期利益2431億円と過去最高益、海外で稼ぎ国内で謝るという両極化構造の組み直しが現体制の課題となっている。
- 日本取引所グループ — 1878年5月に東京株式取引所、6月に大阪株式取引所がそれぞれ設立免許を取得し、近代日本の資本市場の出発点として別々に歩んだ。戦時統制と1949年4月の会員組織への再設立、1969年7月のTOPIX算出開始、1988年9月の株価指数先物市場開設を経て、1999年に立会場を閉場し電子取引プラットフォームへ姿を変えた。2001年に両取引所は会員組織から株式会社へ組織変更、2007年8月の単独株式移転で東京証券取引所グループを設立した。こうして2012年8月に東証GがTOBで大証株式の66.7%を取得、2013年1月に合併で日本取引所グループへ商号変更し同日東証一部に上場、135年目に同じ持株会社のもとへ束ねられた。初代CEO斉藤惇のもと現物は東証、デリバティブは大阪取引所という機能分担を完成させ、2019年10月には東京商品取引所をTOBで完全子会社化し総合取引所化を進めた。2015年6月就任の清田瞭は「企業統治、株主が鍛える」を主軸に8年間でガバナンス改革を主導、2022年4月に東証は1961年以来の1部・2部制度を廃止しプライム・スタンダード・グロースの3区分へ再編した。こうして2023年6月就任の山道裕己のもと、2025年3月発表の中期経営計画2027は最終年度ROE18%以上のみを掲げる異例の構成で、2025年3月期は売上収益1622億円・営業利益901億円・当期利益610億円と2期連続の過去最高益となった。
- MS&ADインシュアランスグループホールディングス — 1918年10月、三井物産常務小田柿拾郎の発案で資本金50万円の大正海上火災保険が設立され、1893年大阪保険を源流とする住友系の系譜と並走しながら戦時統制下の1944年3月に大阪海上と旧住友海上が合併し大阪住友海上火災保険が誕生した。三井系の旧大正海上は1991年4月、創立73年を経て三井海上火災保険へ改称、財閥解体から半世紀を経てようやく本来の屋号を取り戻した。2001年10月には三井海上と住友海上が合併し三井住友海上火災保険が発足、2008年4月に三井住友海上グループHDを設立した。こうして2010年4月、株式交換であいおい損害保険とニッセイ同和損害保険を取り込みMS&ADインシュアランスグループHDが発足、3社統合で国内損保最大級の規模を得た。しかし2013年9月の機能別再編合意以降、完全合併ではなく1グループ2社体制という中間解が12年間続き、2016年2月のロイズ大手Amlin約6300億円買収は計画未達で2020年10月に売却、北米中小型ボルトオンへ舵を切った。だが2024年の保険料調整問題で公取から13億円の課徴金を受け、政策株式は2024年3月末3.6兆円から2025年9月末2.3兆円へ加速売却、2025年3月期は親会社株主帰属当期純利益6917億円と過去最高となった。こうして2025年11月、12年越しの中間解に終止符が打たれ、2027年4月に三井住友海上とあいおいニッセイ同和損保は正式合併、コスト削減1500億円規模・2030年度修正利益7000億円超の目標が示された。
- 第一生命ホールディングス — 1900年の保険業法立案者で農商務省初代保険課長の矢野恒太が、1902年9月に第一生命保険相互会社を設立、日本で最初の相互組織による生命保険会社として基金20万円で発足した。代理店を置かず営業コストを削減する合理的経営と養老保険の高料高配主義を掲げ、1932年8月に保有契約高10億円で業界第2位を確保し、1938年11月には日比谷の第一生命館が完成した。戦後はオンライン化と1963年の企業年金保険、1972年米ジョン・ハンコック生命との国際団体保険提携を経て、1970年に保有契約高10兆円で世界生保ベストテン入り、1991年には総資産20兆円を突破した。こうして2010年4月、108年続いた相互会社形態を解いて株式会社に組織変更したうえで東京証券取引所市場第一部に上場、業界最大規模の相互会社株式会社化となった。2015年2月には米Protective Life Corporationを完全子会社化、2016年10月に持株会社体制へ移行した。しかし2018〜2021年に営業職員による巨額金銭詐取事件が表面化、稲垣精二は販売品質再構築に追われた。こうして2022年に菊田徹也が社長就任、2024年3月のベネフィット・ワン買収で非保険サービスへ本格参入、英M&G・米Canyon Partnersへのマイノリティ出資連鎖で海外戦略の質を変えた。2025年3月期は経常収益9兆8732億円・純利益4296億円、修正ROE目標は2026年度10%から12%以上へ引き上げられた。
- 東京海上ホールディングス — 1879年8月、渋沢栄一の主唱と岩崎弥太郎の出資により日本初の海上保険専業会社として東京海上保険会社が創業した。初代頭取に蜂須賀茂韶が就き、邦船保険を国内資本で引き受ける受け皿として構想されたが1890年以降のイギリス事業で巨額損失を出して経営危機に陥り、1894年7月に26歳の各務鎌吉をロンドンに派遣して半額減資と業務改革で窮地を脱した。1914年にわが国初の自動車保険を引き受け、1944年3月の3社合併で新生・東京海上火災保険が発足したが戦争で世界49都市の海外網は丸ごと失われた。戦後は1955年12月の自賠責、1974年2月の業界初自動車保険オンラインで電算化を先導、1990年度の元受保険料1兆5501億円は20年で9.5倍となり1986年以降は世界ベストスリーにランクされた。2002年4月にミレアホールディングスを設立、2008年7月に東京海上ホールディングスへ商号変更した。こうして2008年12月、米フィラデルフィア・コンソリデーテッドを約47億ドルで買収、2015年10月には米HCCを約75億ドルで取得、2020年2月の米PURE約31億ドル買収で海外M&Aの最終ピースが揃った。だが2024年5月、政策株式3.5兆円を2030年3月末までに全売却する方針を決議、金融庁要請を受けた業界全体の構造転換を主導した。2025年3月期は親会社株主帰属当期純利益1兆552億円と邦損保で初の1兆円超え、海外保険事業の経常収益4兆3098億円が国内損害保険3兆8865億円を上回る構造となった。
- T&Dホールディングス — 明治期の生保乱立を整理する業界粛正方針を受け、1902年7月に真宗生命・護国生命・北海生命の3社が合併し大同生命保険が発足、初代社長に広岡久右衛門が就いた。社名は『春秋左氏伝』の「小異を捨てて大同につく」から取られ、企業市場に特化して契約の80.7%を企業から集める独自路線を築いた。一方、太陽生命のルーツは1893年5月名古屋市創立の名古屋生命保険で、1908年7月に東京移転と同時に太陽生命保険へ改称、戦後は短満期月掛け貯蓄保険と1968年5月の「ひまわり保険」発売で個人市場を量で押さえた。1947年7月の大同、1948年2月の太陽はいずれも相互組織化を選び、戦後の中堅生保として大手と棲み分けた。こうして2004年4月、大同生命・太陽生命・T&Dフィナンシャル生命の3社が共同株式移転でT&Dホールディングスを設立し東証一部に上場、初代社長に宮戸直輝が就任した。販売基盤を分けたまま経営資源だけを束ねる連邦型の枠組みで、2021年3月期には経常収益2兆4139億円・親会社純利益1623億円とピークに達した。しかし2022年3月期は太陽生命セグメントが単体で866億円の損失を計上、翌2023年3月期は経常損失741億円・純損失1321億円と発足以降最大の赤字に転落、3社連合が抱える金融リスクが集中的に跳ね返った。こうして2023年6月就任の森山昌彦は「3社併存」から「3社一体」へ重心を移し、2025年3月期は経常収益3兆7304億円・純利益1264億円と過去最高水準まで戻った。
- 三井不動産 — 1941年7月、三井不動産は三井物産から不動産部門の分離継承を受け資本金300万円・三井11家の全額出資で発足、1914年8月の三井合名会社内「不動産課」を実質的な源流とする同族管理会社だった。1945年8月のGHQ財閥解体で三井11家の株式は一般市場へ放出され、1949年5月に東証、6月に大証へ上場、1956年10月には清算中の三井本社を吸収合併して中核資産を受け継いだ。1955年に社長就任の江戸英雄は1957年に「社運を賭けた」千葉県市原の埋立事業へ踏み込み、海面を埋め立てて土地を生み出す手法を全国に横展開した。こうして1968年4月に日本初の超高層ビル霞が関ビルディング(36階)を竣工、1974年9月の新宿三井ビル(55階)で容積率を起点とする事業設計を業界に持ち込んだ。1981年「ららぽーと船橋」、1984年「三井ガーデンホテル大阪」と商業・ホテルへも広げ、2005年7月の日本橋三井タワー、2007年1月の東京ミッドタウンで都心ミクストユース戦略の型を固めた。2018年10月の55ハドソンヤード、2024年の50ハドソンヤード竣工で北米資産2兆円のうち3物件に8000億円含み益が集中する構造となった。2023年4月就任の植田俊は「街づくりから産業づくりへ」を旗印に2024年5月「& INNOVATION 2030」を発表、2030年度ROE8.5%以上・総還元性向50%以上を掲げ、2025年3月期は売上高2兆6254億円・純利益2488億円の過去最高となった。
- 三菱地所 — 1890年3月、三菱財閥の岩崎弥之助が明治政府から丸ノ内一帯の陸軍用地を128万円で買収、当時草原で商業用地としてほぼ無価値の荒地に「竹を植えて虎でも飼うさ」と応じた。1894年に三菱1号館を建てたが東京駅未開業で1896年から9年間新規建築は止まり、1904年再開後の1918年までに19棟の赤レンガ・RC建築で「一丁倫敦」を成立させた。1923年に丸ノ内ビルヂングを竣工、1937年5月に三菱合資会社から地所課を切り出し三菱地所が設立された。戦後のGHQ財閥解体で1950年に陽和不動産・関東不動産との3社へ分割されたが、外部買い占め脅威を機に1953年に再合併した。1952年社長就任の渡辺武次郎は1959年「丸の内総合改造計画」で赤レンガ街を31メートル統一の近代ビル群へ建て替えた一方、皇居美観への配慮から超高層化を退け1968年の霞ヶ関ビル登場以降は他社に後れをとった。しかし1995年5月にロックフェラーセンター・プロパティーズが連邦破産法を申請し1000億円の固定資産除却損を計上、これを転機に2002年の丸ビル建て替えを起点として2007年の東京ミッドタウン、2018年の東京ミッドタウン日比谷へと都心ミクストユース戦略の型を固めた。こうして2024年以降は丸の内事業の質向上と米国データセンター事業の二本柱を据え、2030年度の事業利益4000億円とROE10%を目標に、政策保有株式を2027年度までに半減し総還元80%水準を維持する方針を進めている。
- 東京建物 — 1896年10月、初代安田善次郎らの発起により資本金100万円をもって東京市日本橋区呉服町に設立された日本最古級の総合不動産会社で、月賦建築請負・土地建物担保貸付・土地建物販売仲介の3事業を法人組織で立ち上げた。住宅金融公庫も銀行住宅ローンも存在しない時代に、今日の住宅ローンや不動産担保融資の原型を定款に同居させた設計だった。1903年3月の天津支店、1923年の関東大震災、1929年11月の東京建物本社ビルディング竣工を経て、戦時下に旧安田系の不動産・倉庫機能を吸収し、戦後はGHQの財閥解体で制限会社に指定された。1968年9月の藤沢市マンション分譲、1979年11月の新宿センタービル竣工、1998年11月のSPC法第1号登録と業態を広げ、2003年4月にマンションブランドを「Brillia」へ統一した。しかし2011年12月期、東京建物は経常損失108億円・純損失717億円という創業以来最大級の赤字を計上、長期保有資産の含み損が一度に表面化した。こうして2016年就任の野村均は都心再開発を軸とする成長路線へ舵を切り、霞が関コモンゲート・中野セントラルパーク・東京スクエアガーデン・大手町タワー・「Brillia Tower 池袋」・「Hareza Tower」、2024年1月の「ONE DOJIMA PROJECT」を相次いで竣工させた。2024年12月期は営業収益4637億円・経常利益717億円・純利益658億円の過去最高となり、717億円の赤字を出した会社が13年後に同額の経常利益を計上、2025年1月就任の小澤克人体制へバトンが渡った。
- 住友不動産 — 1949年12月、財閥解体に伴い株式会社住友本社の不動産部門を継承する泉不動産として設立、三菱地所の丸の内・三井不動産の日本橋に対し東京に目ぼしい一等地を持たない後発デベロッパーとしての出発だった。1957年5月に住友不動産へ商号変更、1963年4月に清算中の住友本社を吸収合併、1964年8月に神戸で初のマンション分譲、1970年10月に東証・大証第1部へ上場した。1974年に住友銀行副頭取から転じた安藤太郎が社長に就任、1976年に大阪ビジネスパーク開発から撤退し東京都心のオフィスビル賃貸へ経営資源を集中投下する逆張りに踏み切った。1982年9月の新宿NSビル竣工時点で首都圏で賃貸ビル12棟・年間101億円の安定収入を生み出し、以後30年の基本路線を固めた。しかし1998年3月期にバブル崩壊の後始末で特別損失681億円を計上し株価が206円まで沈んだ後も、同業他社がJ-REITで物件売却するなか自社保有・長期運用にこだわった。こうして不動産賃貸セグメント営業利益は2012年3月期の896億円から2020年3月期に1694億円へ倍増、2019年1月にインド事業会社Goisu Realtyを設立し2023年10月のワーリー地区での延床100万平方メートル超の用地取得を含め総投資額約1兆円のインド事業を立ち上げた。2025年3月期は営業収益1兆142億円・経常利益2683億円・当期純利益1916億円と過去最高を更新、仁島浩順体制下で借入で攻める時代から営業キャッシュフローで投資と還元を賄うステージへの移行が進んでいる。
- 東武鉄道 — 1897年11月、東京から北関東を結ぶ鉄道敷設を目的に資本金265万円で東武鉄道が設立され、初代社長に末延道成が就いた。1899年8月に伊勢崎線の北千住〜久喜間で営業を開始したが経営は振るわず、1905年に山梨出身の相場師・実業家である根津嘉一郎が株式を取得して経営に参画、約40万円を投じて利根川に549メートルの大鉄橋を架設し群馬・栃木方面へ延伸する積極策に転じた。1910年に伊勢崎線が全通、1929年4月に日光線が全通し電車100キロを超える長距離運転を私鉄として最初に実現した。1942年から1944年の戦時統合で京浜・小田急・京王を合併した「大東急」が誕生したが、東武自身は1937年の上州鉄道、1944年の総武鉄道吸収などでJRを除く関東最大の路線網(営業463.3キロ)を築いた。1962年5月の日比谷線、1987年の有楽町線と相互乗入れを拡大、自社路線を延ばさず他社との結節で沿線価値を高める手法を固めた。こうして2012年5月、総額約1430億円を投じた東京スカイツリーが開業しタワー部分だけで初年度営業利益91億円を計上、レジャー事業利益は2011年3月期の赤字6.2億円から2013年3月期の105.9億円へ急回復した。だが2021年3月期はコロナ禍で純損失249億円に転落、構造改革を経て2024年3月期は営業収益6359億円・経常利益720億円と過去最高、2023年6月に根津嘉澄から都筑豊へ社長交代、120年続いた創業家支配に終止符が打たれた。
- 東急 — 1922年9月、五島慶太が資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立、関東で初めて阪急モデルを本格導入した郊外電鉄として目黒〜田園調布〜蒲田間の路線建設に着手した。1923年9月の関東大震災で都心から郊外への移住需要が拡大、1928年に渋沢栄一の田園都市株式会社を合併して田園調布の高級住宅地を取得、1932年に東横線が桜木町まで全通した。1942年から1944年にかけての戦時統合で京浜電気鉄道・小田急電鉄・京王電気軌道を順に合併し資本金2億480万円の「大東急」が出現、1948年6月の会社再編成で京王・小田急・京急が再独立し東急は東横線と渋谷ターミナルを軸に再出発した。1953年7月、五島慶太が「城西南地区開発趣意書」を提出し多摩丘陵を選定、1956年「多摩川西南新都市計画」決定後の1959年から2000年の犬蔵地区まで55地区・3204ヘクタールの区画整理を約40年にわたり続けた。1966年の田園都市線溝の口〜長津田開通、1984年の中央林間延伸で全通した。しかしバブル期に拡大したリゾート・百貨店事業の不振が表面化し1995年3月期に特別損失429億円を計上、非中核事業整理に転じた。こうして2013年3月の東横線渋谷駅地下化を起点に2018年の渋谷ストリーム・2019年の渋谷スクランブルスクエア第I期と渋谷再開発を進め、2019年10月に持株会社体制へ移行、2025年3月期は営業収益1兆549億円・経常利益1077億円と過去最高、渋谷3大プロジェクトに総額6000億円の投資計画が進行中である。
- 小田急電鉄 — 1923年5月、利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1350万円で設立、関東大震災が建設計画を直撃するなか1927年4月に新宿から小田原までの82.5kmを全線一挙に開業し当時の日本最長の電気鉄道となった。1929年4月の江ノ島線開通で湘南海岸への行楽輸送に乗り出したが沿線の多くは未開発の原野で、観光私鉄としての離陸は容易ではなく、創業期は需要不足が経営を押し戻した。1942年5月の戦時統合で東京急行電鉄に吸収され「大東急」体制に組み込まれ、1948年6月に資本金1億円で再独立、戦後はバス・百貨店・不動産・箱根観光を矢継ぎ早に取り込み新宿ターミナルと沿線の二本柱を組み立てた。1958年頃から通勤線への性格転換が進み、1961年6月の小田急百貨店設立、1962年11月の新宿店開業、1964年12月の小田急不動産設立で多角化を進めた。だが朝の混雑率250%超に対し1964年12月に都市計画決定された複々線化事業は沿線住民との用地調整が長期化、代々木上原から登戸まで全面完成したのは2018年3月で54年と総事業費約3100億円を要した。こうして2017年6月就任の星野晃司の下で複々線化が完成、しかし2021年3月期にはコロナ禍で創業以来初の連結赤字を計上、不動産売却で有利子負債を1262億円圧縮した。2024年6月就任の鈴木滋は「地域価値創造型企業」を掲げ、2025年3月期から交通業・不動産業・生活サービス業の3区分に再編、不動産を収益の第1の柱に置く事業構造への転換に踏み出した。
- 京王電鉄 — 1910年9月、京王電気軌道が資本金125万円で設立され、新宿から八王子への電気鉄道を構想したが軌道条例に基づく路面電車として東京府の認可を受けて1913年4月に笹塚から調布までの約12kmで電車営業を始めた。建設資金の調達難から森村財閥の融資系列に入り、1914年に富士瓦斯紡績の井上篤太郎が専務取締役に就任、1928年に新宿から東八王子までの直通運転を開始した。1933年に渋谷から井ノ頭公園で帝都電鉄が開業し1934年4月に吉祥寺まで全通、戦時統合で京王帝都電鉄に承継された。1944年5月の陸上交通事業調整法で東京急行電鉄に吸収され「大東急」体制に組み込まれたが、1948年6月に資本金5千万円で京王帝都電鉄として再独立、京王線と井の頭線という性格の異なる二路線とバス3営業所を引き継いだ。1961年の京王百貨店設立、1971年6月の京王プラザホテル(47階建て・日本初の超高層ホテル)開業、1980年3月の都営新宿線相互乗り入れ開始で多摩〜都心が一本に結ばれ、1990年3月の相模原線全通で多摩ニュータウンへのアクセスを担った。1998年7月、社名を京王電鉄へ改めて戦時統合の最後の痕跡を整理した。しかし2021年3月期はコロナ禍で創業以来初の経常赤字180億円、鉄道旅客がコロナ前比約14%減という構造変化を受け賃貸中心だった不動産事業を販売とファンドビジネスへ舵を切った。2025年3月期は連結営業収益4529億円・経常利益533億円と過去最高、2030年代に新宿駅西南口再開発と笹塚〜仙川連続立体交差事業の二大投資が控える。
- 京成電鉄 — 1909年6月、本多貞次郎らが京成電気軌道を資本金約150万円で設立、成田山新勝寺への参詣客輸送を主目的とする電気鉄道として1912年11月に押上から市川までで開業した。社名は「東京」と「成田」の頭文字を組み合わせたもので、1921年に船橋〜千葉、1926年に津田沼〜成田花咲町、1930年4月に成田までの全通を迎えるのに設立から21年を要した。1933年12月の日暮里から上野公園までの開業で京成上野駅が誕生し、後の空港アクセス鉄道の基盤を提供した。1945年6月に商号を京成電鉄に変更、1949年5月に東証上場、1960年12月に都営地下鉄1号線(現浅草線)との相互乗り入れが始まり国鉄並走の構造的不利を相対化した。同じ1960年、三井不動産・朝日土地興業とともにオリエンタルランドを設立、京成の出資比率は当初約52%に達した。1978年5月の成田空港開港でスカイライナーの運行を開始したが、150億円を投じた空港線7.1kmの未稼働、過大な土地投資の金利負担で1977年時点では経営危機にあった。しかし1983年のディズニーランド開業で浦安エリアの価値は一変、2010年7月に成田スカイアクセス線が開業し日暮里〜成田空港を最速約36分で結んだ。こうして2025年3月期の連結純利益約700億円のうちオリエンタルランドからの持分法投資利益が大きな比重を占め、2024年9月末で約21%保有のオリエンタルランド株時価が京成本体の時価総額を上回る「ねじれ」が生じ、英パリサー・キャピタル等のアクティビストの関心を集めている。
- 東日本旅客鉄道 — 1987年4月1日、年間1兆円以上の赤字と約37兆円の累積債務を抱えた日本国有鉄道が115年の歴史に幕を下ろし、6社の旅客会社と1社の貨物会社に分割民営化された。最大の営業エリアを引き継いだ東日本旅客鉄道は、関東・東北・甲信越の1都16県の在来線と東北・上越新幹線を軸に発足、首都圏通勤輸送の安定収益が本州3社のなかで際立った。1990年に東京圏駅ビル開発(現アトレ)を設立して駅ナカ商業の原型を築き、1991年6月に東北・上越新幹線が東京駅へ乗り入れた。1992年に山形新幹線、1997年に秋田新幹線と北陸新幹線高崎〜長野間が開業し、1993年10月に東京・大阪・名古屋の各証取一部に上場、2002年6月の政府保有株完売で完全民営化に達した。2001年11月にIC乗車券Suicaを首都圏424駅で導入、2004年に電子マネー機能を追加し、駅ナカ・不動産・電子マネーと鉄道周辺事業を立ち上げた。2019年3月期に連結営業収益は初めて3兆円を超え純利益2952億円の過去最高を記録した。しかし2021年3月期はコロナ禍で運輸収入が4割減り、発足以来初の純損失5779億円を計上、鉄道一本足の脆さが表面化した。こうして2024年4月就任の喜勢陽一は「2軸の経営」を掲げ、Suicaを軸にした生活サービス基盤への転換と総事業費約6000億円の高輪ゲートウェイシティを進め、2025年3月期の不動産・ホテル事業利益は1203億円と過去最高を更新、2025年3月に新ビジョン「勇翔2034」へ移行し2033年度までの「Suica経済圏」創出を掲げた。
- 西日本旅客鉄道 — 1987年4月の国鉄分割民営化でJR西日本が大阪市北区に発足、北陸・近畿・中国・北九州の2府16県にまたがる山陽新幹線と近畿圏の在来線網を引き継いだ。首都圏の通勤需要という安定収益源を持たない西の鉄道会社として出発し、1991年10月に山陽新幹線を新幹線鉄道保有機構から譲り受け自社保有へ切り替えた。1995年1月の阪神・淡路大震災で東海道本線が約2カ月半、山陽新幹線が約3カ月不通となる打撃を受けつつ、1996年10月に東京・大阪等の証取に上場、2004年3月に完全民営化した。しかし完全民営化からわずか1年後、2005年4月25日午前9時18分頃、福知山線塚口〜尼崎間で上り快速列車が制限速度70km/hの右カーブに約116km/hで進入し先頭2両がマンションに激突、乗客106名と運転士1名のあわせて107名が死亡し562名が負傷したJR発足後最悪の事故が起きた。日勤教育と過密ダイヤの安全管理体制が根底から問い直され、以後の経営は利益の前に安全を据え直した。2011年の大阪ステーションシティ、2013年のグランフロント大阪で駅資産を第二の収益源に据え、2019年3月期は経常利益1838億円とコロナ前ピークを記録した。だが2021年3月期はコロナ禍で初の通期赤字となる純損失2332億円を計上、運輸事業だけで2515億円の営業損失を出した。こうして長谷川一明社長は組織風土の改革に踏み込み、4期連続の増収増益で2025年3月期に営業利益1801億円まで戻し、中期経営計画2025は連結営業利益のライフデザイン分野比率を4割へ引き上げる目標を掲げた。
- 東海旅客鉄道 — 1939年11月の鉄道幹線調査会答申案で東京〜下関間に「弾丸列車」が打ち出され、戦中の中断を経て1955年に国鉄総裁就任の十河信二が広軌新幹線建設に踏み切った。建設費は当初予算1972億円から3800億円へ膨張し十河は完成を見ずに退任、1964年10月1日に東海道新幹線が東京〜新大阪間515.4kmで開業した。1987年4月の国鉄分割民営化で東海道新幹線を引き継ぎ東海旅客鉄道が設立、収益力のある同社は東海道新幹線の価格を2兆円以上も上回る5.1兆円もの債務を割り当てられたが、1991年10月に新幹線施設をリース方式から自社保有へ移行、1992年3月に「のぞみ」を300系で運転開始し東京〜新大阪間を2時間30分に短縮した。1997年10月に証取上場、1999年12月にJRセントラルタワーズ竣工、2003年10月に品川駅開業で全列車270km/h運転、2006年4月に完全民営化した。2007年7月にN700系、2020年3月にN700S投入で「のぞみ12本ダイヤ」(1時間最大12本)を実現、2019年3月期は連結営業収益1兆8781億円・純利益4387億円・運輸業利益6648億円の過去最高を記録した。こうして2014年10月に品川〜名古屋間のリニア中央新幹線が本格着工し、全額自己負担で建設する鉄道史上前例のない経営判断に踏み切った。しかし2021年3月期はコロナ禍で純損失2015億円と発足以来初の赤字、リニアは2024年に2027年開業を断念し総工費は当初5.5兆円から11兆円に倍増、2025年3月期は営業収益1兆8318億円・純利益4584億円とコロナ前最高益を上回ったが、静岡工区のトンネル進捗が今後の経営を左右している。
- ヤマトホールディングス — 1919年、小倉康臣が東京市京橋区で大和運輸を創立、車両4台で三越呉服店や日本橋魚河岸の商業貨物輸送から事業基盤を固めた。1929年には東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始したが、1960年代に長距離路線へ参入した際は日本通運や西濃運輸の後塵を拝し三番手に甘んじた。しかし1971年に社長就任の2代目小倉昌男は法人大口を諦め、1976年1月20日に宅急便を開始、初日11個から10年で年間3億個へ伸ばし運輸省の路線免許行政と訴訟も辞さず全国網を築いた。1996年クール宅急便、2003年小笠原諸島でネットワークを完成、2005年に持株会社化しヤマトHDへ移行した。だがEC拡大で個数増と単価下落が同時進行し2017年3月期に経常利益が694億円から348億円へ半減、宅配クライシスを受け27年ぶりの全面値上げと総量規制に踏み切った。こうして2023年6月に最大の競合だった日本郵便と協業合意、投函サービスを委ね自社は法人向けへ寄せ、2024年12月にナカノ商会を約88%取得、FY25は売上1兆7626億円と多角化の産みの苦しみにある。
- 日本郵船 — 1885年10月、明治政府の仲裁で岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社と政府系の共同運輸会社が合併し、資本金1100万円・汽船58隻・6万4610総トンの日本郵船が発足、白地に二引の旗章を掲げた。1893年にボンベイ航路で日本初の遠洋定期航路を実現し、1896年に欧州・北米シアトル・豪州航路へ参入、欧州勢が独占したアジア幹線へ食い込んだ。第二次大戦で185隻・113万総トンを失い終戦時37隻まで減船したが、1949年東証上場、1964年世界初のチップ専用船「呉丸」、1968年に日本初のコンテナ船「箱根丸II」を北米航路に就航、1983年LNG船進出で総合海運へ脱皮した。しかしリーマン後の構造不況で2017年3月期に上場来最大の純損失2657億円を計上し、邦船3社で定期コンテナ船事業を統合してONEを設立、長年の主力を切り離した。ところがコロナ禍の運賃高騰でONEが急膨張し、2022年3月期は経常利益1兆31億円・純利益1兆91億円と海運業界初の1兆円超を記録、2023年3月期も2期連続で1兆円を超えた。こうして2023年4月に曽我貴也が社長就任、超過利益をLNG燃料船20隻計画やNYK Energy Ocean取得に振り向け、FY25は経常利益4908億円となった。
- 商船三井 — 1884年5月、関西の船主93名が大同合併して大阪商船を設立、瀬戸内・近海に強い同社と1942年に三井物産船舶部から独立した三井船舶が、1964年4月の海運再建整備臨時措置法のもと対等合併し大阪商船三井船舶が発足した。資本金131億円・所有船86隻・127万重量トンで邦船大手6社体制の一角を占め、ドライバルクとエネルギー輸送を軸とする不定期専用船事業が収益の柱となった。1999年4月にナビックスラインを吸収し商船三井へ商号変更、2004年にダイビル子会社化で安定収益源を確保した。2008年3月期は資源バブルで経常利益3022億円・純利益1903億円の過去最高益を記録した。しかしリーマン後にコンテナ船事業が構造的赤字へ転落、2016年10月に邦船3社で定期コンテナ船事業の統合を発表し、2017年7月にONEを設立、出資比率31%で持分法適用へ移管した。だがコロナ禍の運賃急騰でONEが急膨張し、2022年3月期に経常利益7217億円と前期から7倍に膨らんだ。こうして2021年4月就任の橋本剛が2023年4月にBLUE ACTION 2035を策定、2035年度税前利益4000億円を掲げLNG船・FSRU・洋上風力へ1兆2000億円の投資枠を設定、FY25は経常利益4197億円・売上1兆7754億円となった。
- 川崎汽船 — 1919年4月、川崎造船所が保有汽船11隻を現物出資し資本金2000万円で川崎汽船を設立、神戸を拠点に外航海運会社として歩み始めた。同年に川崎造船所・國際汽船との3社提携でKラインを結成、1950年に海運民営還元で東京・大阪・名古屋に上場した。1964年に飯野汽船を吸収し6大グループの一角を確保、1968年にフルコンテナ船ごうるでんげいとぶりっじと第一とよた丸を竣工させ、1970年7月の第十とよた丸でPCC(自動車専用船)を世界で初めて実用化、1983年には邦船初のLNG運搬船尾州丸を竣工させた。しかし2010年代にコンテナ船事業の累計損失が3000億円を超え、FY16に純損失1394億円・自己資本2194億円まで毀損した。こうして2017年7月に日本郵船・商船三井とONEを設立(出資31%)、2018年4月にコンテナ船自社運航を50年で終了し、用船解約特損で自己資本は1035億円まで縮小した。だが2019年4月就任の明珍幸一は海運専業を選び、コロナ禍の運賃高騰でFY21に持分法投資利益6561億円・純利益6424億円の過去最高益、自己資本は5年で約16倍の1兆6484億円へ回復した。2025年4月に五十嵐誠が社長就任、FY24は営業利益1028億円となり自動車船・LNG船・鉄鋼原料の3事業集中体制を続ける。
- NIPPON EXPRESSホールディングス — 1872年、江戸時代の飛脚問屋・和泉屋支配人だった佐々木荘助らが陸運元会社を設立、1875年に内国通運へ改称し鉄道の駅頭集配を担う通運業の原型を築いた。1937年10月、日中戦争下で「日本通運株式会社法」に基づく国策会社として日本通運が発足、1941年に東京合同運送ほか56社を吸収し全国の通運業者を一元化した。1950年に通運事業法施行で民営化し東証上場、1955年に国内航空貨物混載、1962年に米国日通設立、1964年東京五輪で「ミロのヴィーナス」を運搬、1977年に宅配便ペリカン便を開始した。しかしヤマト・佐川との競争で劣勢が続き、2009年に日本郵便とJPエクスプレスを設立したが累積損失681億円を出し、2010年7月にペリカン便33年の歴史に幕を下ろした。その後B2Bの専門物流に経営資源を集中し、2017年に「We Find the Way」を制定、2022年1月に持株会社化してNIPPON EXPRESSホールディングスへ移行した。こうして2023年5月にオーストリアのcargo-partnerを845百万ユーロ(約1267億円)でグループ過去最大買収、2024年2月発表の経営計画2028で売上3兆円・海外比率40%を掲げ、FY23は売上2兆2390億円・営業利益600億円となり、欧米メガフォワーダーへの追走を続けている。
- 日本航空 — 1951年8月、戦後初の民間航空会社として日本航空が資本金1億円で設立、1953年10月に「日本航空株式会社法」に基づき政府との折半出資の半官半民会社へ改組され、本邦唯一の国際線免許会社となった。1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設、1970年にボーイング747運航、1983年にIATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一となり1987年まで5年首位を維持した。同年11月の中曽根政権下で完全民営化したが、8つに分かれた労組や政治圧力下の不採算路線維持といった国策会社の体質は残存した。2002年10月に日本エアシステムと統合、2004年に国際線・国内線を分社、2007年ワンワールド加盟も赤字体質は温存された。こうしてリーマンショックが追い打ちとなり、2010年1月19日に負債2兆3200億円で会社更生法を申請、戦後最大の事業会社破綻となった。同年2月に78歳の稲盛和夫が無報酬で会長就任しアメーバ経営とJALフィロソフィを持ち込み、約16000人削減・45路線廃止を断行、2012年9月に破綻から2年8ヶ月で再上場、FY11は経常利益1976億円・営業利益率15.6%と世界最高水準を記録した。だが2020年のコロナ禍でFY20売上67%減・純損失2866億円の2度目の危機を被ったが破綻後の自己資本で乗り切り、2024年4月に客室乗務員出身の鳥取三津子がJAL初の女性社長に就任、FY24は売上1兆8440億円・営業利益1686億円で過去最高となった。
- ANAホールディングス — 1952年12月、戦後の定期航空再興を目指して資本金1億5千万円で日本ヘリコプター輸送が設立、1953年2月にヘリコプターで営業を開始した。1955年にDC-3で固定翼旅客輸送へ移行、1957年12月に全日本空輸へ社名変更、1958年に極東航空を合併、1965年にボーイング727でジェット化、1972年に東証一部昇格と路線網を広げた。しかし1970年閣議了解と1972年運輸大臣通達による「45/47体制」は国際線をJALに独占させ、全日空は国内専業に33年閉じ込められた。1985年11月の中曽根内閣の複数社制転換を受け、1986年3月に東京-グアム線で国際定期便就航の悲願を達成、1999年10月にスターアライアンスへ加盟、2011年には世界初のボーイング787商業運航で国際線を拡大した。2013年4月に持株会社化しANAホールディングスへ移行、2017年Peach連結子会社化を経てFY18は売上初の2兆583億円・営業利益1650億円と最高益を記録した。だがコロナ禍でFY20は売上63%減の7286億円・営業赤字4647億円、劣後ローン4000億円と公募増資3321億円で約1兆円を調達した。こうして2022年4月就任の芝田浩二のもと、2024年2月にAirJapanで3ブランド体制を構築、2025年8月にNCAを完全子会社化、FY24は売上2兆2618億円・営業利益1966億円となり負債圧縮と復配を両立した。
- 三菱倉庫 — 1887年4月、三菱為換店の倉庫業務を継承し、東京・深川に有限責任東京倉庫会社が設立された。1907年に神戸港で海陸一貫取扱施設を完成させ、1918年3月に三菱倉庫へ商号変更、1931年には東京・江戸橋で日本初のトランクルームサービスを開始した。戦後1946年の財閥解体で三菱本社から独立し1949年に東証上場、1962年11月に東京・深川でコンピュータ・倉庫・住宅の複合賃貸ビルを建設して不動産事業へ参入、1963年に自動車運送、1971年に航空貨物と陸海空の総合物流の骨格を整えた。1973年の東京ダイヤビルディング、1992年の神戸ハーバーランド、1984年シンガポールを皮切りに東南アジアへ拠点を広げた。しかし倉庫業の利幅は薄く、不動産セグメント利益が物流の3倍以上を稼ぐ構造が定着、2010年9月の富士物流TOB(最大104億円)で3PLを強化したものの自前主義中心は続いた。こうして2022年6月就任の斉藤秀親が海外加速を打ち出し、2023年10月にCavalier Logistics(米英4社)を買収、富士物流以来13年ぶりの大型M&Aで現地企業取込みへ転じた。2025年3月発表の経営計画[2025-2030]はM&A投資1000億円以上・2030年度事業利益630億円・ROE10%を掲げ、政策保有株1000億円売却と総還元性向60%で資本効率改善を進め、FY24は営業収益2840億円・純利益318億円で物流不動産シナジー戦略へ舵を切った。
- NTT — 1952年8月に発足した日本電信電話公社が1985年4月1日に民営化、戦後日本最大の民営化として日本電信電話(NTT)が誕生した。1986年2月に東証上場、売出価格119万7千円のNTT株は個人投資家ブームの象徴となり時価総額は世界最大級に達した。1991年7月にNTTドコモ、1992年にNTTデータを分離、1999年7月の持株会社化でNTT東日本・西日本・コミュニケーションズへ地域分割し、上場子会社が並立する分権型グループ体制が固まった。連結営業収益は10兆円台で安定推移したが、固定通信の縮小をモバイルとデータが補う構造となり、2010年にNTTデータが南アのDimension Dataを約2860億円で買収するなどグローバル展開を試みた。しかし2019年5月にIOWN構想を発表すると上場子会社分散経営との矛盾が顕在化、2020年9月にドコモのTOBへ約4兆2500億円を投じて完全子会社化に踏み切り、グループ再統合へ舵を切った。こうして2022年6月就任の島田明社長が「普通の会社になりたい」と掲げ、2024年4月に改正NTT法が成立し研究成果開示義務撤廃と外国人役員制限緩和を実現、2025年5月にはNTTデータグループへ約2兆3700億円のTOBを発表し合計約6兆6000億円で分権から集権への転換を最終段階に進めた。FY25は連結営業収益13兆7047億円・当期利益1兆16億円で通期初の1兆円超となった。
- KDDI — 1984年6月、京セラ創業者の稲盛和夫が「1000億円ほどかける」と宣言して第二電電企画を設立、京セラ・セコム・ソニー・三菱商事・東京電力など25社の財界連合型出資(資本金16億円・京セラ筆頭28%)で電電公社民営化を控えた通信市場へ参入した。1985年4月に第二電電へ商号変更、1986年10月にサービス開始、1987年に全国セルラー子会社で携帯電話事業に進出、1993年9月に東証二部上場した。1999年2月のNTTドコモのiモード投入で非NTT陣営は規模確保が急務となり、2000年10月に長距離のDDI・国際のKDD・携帯のIDOが合併してKDDIが発足、auブランドを立ち上げた。2002年3月にCDMA方式へ一本化を断行し、同年12月の着うた投入で若年層を獲得、2004年3月期には携帯純増数で年間ドコモを抜いて首位に立った。しかしスマホ普及と通信料金値下げ圧力のもと、2016年4月に「au経済圏の最大化」を掲げ、JCOM・ビッグローブ・auじぶん銀行・au PAYを束ね生活基盤企業への転換を進めた。こうして2024年4月に三菱商事と共同でローソンをTOBし約1.4万店舗の物理接点を取得、通信史上異例の小売参入を実行した。だが2026年1月にビッグローブとジー・プランで広告代理の架空循環取引が発覚、累計売上取消2461億円・営業利益影響1508億円となり、松田浩路社長のもと26.3期第3四半期は売上4兆4718億円・営業利益8713億円を維持しつつガバナンス再構築とAI事業会社始動に挑む局面となった。
- ボーダフォン(現ソフトバンク) — 1986年12月、国鉄分割民営化を控え資本金32億円で鉄道通信が設立、旧国鉄の基幹光ファイバー網を承継し1989年5月に(旧)日本テレコムを吸収して日本テレコムへ商号変更、NTT・KDDに次ぐ第3固定通信事業者となった。1991年7月に東京デジタルホンを設立して携帯電話事業へ参入、1994年9月に東証二部上場、1999年10月にデジタルホン・デジタルツーカー9社をJ-フォンへ統一、2000年11月には世界初のカメラ付き携帯J-SH04(シャープ製)で写メールを普及させた。2001年10月に英ボーダフォン・グループが公開買付で66.7%を取得、2003年12月にボーダフォンHD、2004年10月にボーダフォン株式会社へ商号変更し、3年で3度の改名を経た。しかしグローバル端末「Vodafone 3G」が日本のフィーチャーフォン文化に合わず契約者は純減、2005年8月に上場廃止に追い込まれた。こうして2006年3月に孫正義が1兆7500億円のLBOで買収、同年10月にソフトバンクモバイルへ商号変更、月額980円のホワイトプランと2008年7月のiPhone 3G独占販売で巻き返した。2015年7月にソフトバンク株式会社へ改称、2018年12月に13年ぶり東証一部再上場、時価総額約7兆円となった。さらに2019年6月にヤフー、2021年3月にLINE、2022年10月にPayPayを子会社化し2023年10月にLINEヤフーが発足、宮川潤一社長のもとFY24は売上6兆5443億円・純利益5261億円となり、AIデータセンター投資へ進んだ。
- 光通信 — 1988年2月、日本大学を中退して4年間アルバイト生活を送った重田康光が23歳で東京都豊島区に光通信を設立、ホームテレホンの訪問販売で創業し同年8月に第二電電と代理店契約を締結した。1990年からシャープ製OA機器を扱い、NTTタウンページ掲載の約530万社を組織的にアタックする中小企業営業モデルを確立した。1994年5月に携帯電話専門店HITSHOP第1号店を開設、1998年3月にFC方式へ転換し、1999年8月期末に全国1816店へ拡大、同年に東証一部上場、ネットバブルで時価総額3兆円を突破した。しかし2000年に「寝かせ」と呼ばれる架空契約問題が発覚、20日連続ストップ安で約8カ月で株価は約100分の1まで暴落し、特別損失685億円をソフトバンク株売却益800億円で相殺してかろうじて黒字を確保した。こうして重田は法人向けOA機器訪問販売へ原点回帰し、有利子負債を2308億円から3年で373億円へ圧縮、HITSHOPも2600店から394店へ縮小、2003年に年間1500名の大量採用と複写機ストック型収入で2004年8月期に黒字転換した。2014年ウォーターサーバー、2015年電力、保険と多品目展開でアセット化を深め、2018年に時価総額1兆円を再突破、2024年3月期に過去最高益1222億円を達成、2026年3月期は自己資本1兆11億円・ストック利益920億円・15期連続増配と「二度目の兆円企業」の地位を固めた。
- 東京電力ホールディングス — 1951年5月、GHQの電力再編成令で関東配電と日本発送電の設備を引き継ぎ東京電力が発足、同年8月に東京・大阪証券取引所一部に上場し、9電力体制の一角として首都圏3000万人超の電力供給を独占した。1955年に「水主火従」から「火主水従」へ転換、1966年に福島第一原発の建設に着工、1971年3月にBWR1号機(46万kW)の営業運転を開始した。福島第一6基・福島第二4基・柏崎刈羽7基の計17基体制を構築し、1985年運開の柏崎刈羽は7基合計821万kWで世界最大級の原発サイトとなり、販売電力量は国内全体の約3分の1を占める安定配当銘柄となった。しかし2002年の定期検査データ改ざんで全17基が停止、2007年7月の中越沖地震で柏崎刈羽全7基が停止しFY07・FY08は2期連続赤字を記録した。こうして2011年3月11日の東日本大震災で福島第一1〜4号機が炉心損傷・水素爆発し、レベル7事故となり住民約16万人が避難、FY10は純損失1兆2473億円を計上した。2012年5月に原子力損害賠償支援機構が1兆円出資し戦後初の民間電力実質国有化となり、自己資本は2兆7797億円から7923億円まで毀損した。2015年10月に中部電力との合弁JERAへ火力を移管、2016年4月に東京電力ホールディングスへ商号変更し4社分割、FY24は売上6兆8103億円・純利益1612億円、2026年1月に柏崎刈羽6号機が約15年ぶりに再稼働した。
- 中部電力 — 1951年5月、電気事業再編成令で中部配電と日本発送電の設備を引き継ぎ中部電力が設立、愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県を供給エリアとし、同年8月に東京・名古屋・大阪の証券取引所へ同時上場した。トヨタ自動車をはじめとする中京工業地帯の産業用電力需要を担い、東京電力・関西電力に次ぐ中堅電力として成長した。1976年3月に浜岡原発1号機が運開、最終的に5基体制となったが、東海地震の想定震源域の真上という特殊立地のため地震学者から長年建設の当否を問われ続け、2005年1月に老朽化した1・2号機の廃炉を決定した。しかし2011年3月の福島第一原発事故から2か月後、菅直人首相の要請を受けて5月9日に浜岡全号機停止を決断、年間約2500億円規模の代替火力燃料費が膨張しFY11は経常損失678億円・純損失921億円、3期連続赤字に沈んだ。こうして2015年4月に東京電力との合弁会社JERAを設立、2019年4月までに国内火力を全面移管し自社発電所を持たない電力会社となり、2020年4月に持株会社体制へ移行、林欣吾社長が就任して「電力は数ある事業の一つでしかない」と表明した。2021年4月に不動産デベロッパーの日本エスコンを子会社化、2024年1月にジェネックス取得で再エネを拡大、FY21は燃料高騰で再び赤字に転落したものの、FY23は経常利益5092億円・純利益4031億円、2030年度経常利益2500億円・新成長分野とエネルギー事業の利益1対1を掲げる。
- 関西電力 — 1951年5月、GHQ主導の電気事業再編成令により関西配電と日本発送電の設備を引き継ぎ、資本金16億9000万円・水力113万kWと火力115万kWで関西電力が設立された。1950年代は黒部川第四発電所(くろよん)に代表される大型水力開発に注力し、1962年に福井県美浜町を建設地に選定、1970年の大阪万博開催に合わせて美浜発電所1号機が日本の電力会社初の商用原子力発電を実現した。続いて高浜(1974年〜)、大飯(1979年〜)と若狭湾沿岸に集中立地し、2010年時点で総出力約976万kW・原子力比率約5割と国内で最も原発依存度の高い電力会社となった。しかし2004年8月に美浜3号機の2次系配管破損で作業員5名死亡、2011年3月の福島第一原発事故で全原発が停止、2012年3月期は経常損失2655億円・純損失2423億円となり、2015年3月期までの4期連続赤字で経常損失累計は8431億円、自己資本は約8000億円毀損した。こうして2016年1月に高浜3・4号機が再稼働、2018年に大飯3・4号機も再稼働して業績は反転した。だが2019年9月に旧経営幹部75名が高浜町元助役から30年超で総額約3億6000万円の金品を受領していた事実が発覚、2020年6月に指名委員会等設置会社へ移行しガバナンスを全面刷新した。2020年4月に関西電力送配電を分社化、2022年6月就任の森望のもと2023年末に保有全7基658万kWがフル稼働体制に入り、FY24は売上4兆594億円・経常利益7660億円・純利益4419億円と創業以来最高益を達成、データセンターへ10年で1兆円超の投資を表明した。
- 東京ガス — 1885年10月、東京府の官営瓦斯局の払い下げを受け、渋沢栄一ら実業家が関与して東京瓦斯会社が創立、石炭ガス灯で首都の夜を照らした。1944年に関東瓦斯ほか19社を合併吸収して首都圏全域へ供給エリアを拡大、1949年に東京証券取引所へ上場、1962年に熱量を3600kcalから5000kcalへ引き上げた。1966年に根岸LNG基地稼働、1969年11月にLNG船「ポーラ・アラスカ号」がアラスカから根岸基地に入港し日本初のLNG輸入を実現、1972年からは熱量を5000kcalから11000kcalへ引き上げる天然ガス転換事業を開始、約400万世帯のガス機器を1台ずつ交換する世界に類例のない事業を1988年10月に16年かけて完遂した。1998年に扇島LNG基地稼働、2016年に4番目の主力基地となる日立LNG基地を稼働させ関東1都6県を首都圏最大の都市ガス会社として供給した。しかし2016年4月の電力小売全面自由化と2017年4月のガス自由化で攻めと守りの二正面に置かれ、電力営業利益は2017年3月期45億円から2023年3月期511億円へ伸ばした。こうして2022年4月に東京ガスネットワークへ導管を分社化しホールディングス型へ移行、ウクライナ侵攻によるLNG高騰でFY22は売上3兆2896億円・経常利益4088億円・純利益2809億円の過去最高益を記録した。だが2023年12月に米シェールガス会社ロッククリフ・エナジーを約27億ドル(約4050億円)で取得、笹山晋一社長のもと量から質への転換と北米上流統合を進めるが、価格正常化でFY24は経常利益2282億円、FY25は1136億円・純利益742億円まで落ち込んだ。
- 大阪ガス — 1897年4月、資本金35万円で大阪瓦斯が設立、1905年10月に大阪市内でガス供給を開始し石炭ガスのかまど・ガス灯から事業が始まった。1933年に本社ビルが竣工して関西の代表的公益企業となり、1945年10月の戦時統合で神戸ガス・京都ガスなど14社を合併吸収して近畿2府4県をカバーする国内第2位の都市ガス会社となった。1971年10月に泉北製造所第一工場稼働、1972年12月にブルネイLNG船「ガディニア号」が到着し東京ガスに次ぐ日本2社目のLNG導入を実現、1975年5月から始まった天然ガス転換事業は1990年12月に約15年かけて無事故で完遂された。1983年にオージス総研、2009年4月に泉北天然ガス発電所を稼働し、2016年4月の電力小売自由化と2017年4月のガス自由化で関西電力との顧客争奪戦に突入した。しかし海外エネルギー事業は2014〜15年3月期に赤字を計上、未開発鉱区への探鉱投資で「300億円超の損失」を出した案件もあり、生産実績のない場所には掘らず開発済み鉱区を買う方針へ転換した。こうして2019年7月に米テキサスのサビン・オイル・アンド・ガスを買収(日本企業初の米シェール開発買収)、同年12月にフリーポートLNG液化が商業運転開始しシェール・LNG液化・IPPの3本柱を整えた。2022年4月に大阪ガスネットワークへ導管を分社化、藤原正隆社長のもとFY24は経常利益2266億円・純利益1327億円の過去最高、FY25は経常利益1896億円・純利益1344億円・海外営業利益540億円となり、2027年3月期ROE8%を掲げる。
- 東宝 — 1932年8月、阪急電鉄の創業者・小林一三が東京の日比谷に株式会社東京宝塚劇場を設立、阪急が大阪で築いた鉄道沿線に劇場・百貨店を配置するモデルを東京へ移植した。1934年元旦の東京宝塚劇場開場で松竹との興行戦が始まり、1937年に写真化学研究所・JOスタジオなど映画関連4社を統合して東宝映画を設立、1943年に合併して東宝株式会社が発足し、製作・配給・興行・演劇を一体運用する垂直統合体制を固めた。1948年に1200名規模の人員整理で第三次東宝争議を経験、1949年に東京・大阪・名古屋の証券取引所へ上場、1954年公開「ゴジラ」第1作は観客動員961万人を記録し70年以上続くフランチャイズに育った。1960年代以降のテレビ普及で映画観客が急減したが、日比谷・有楽町・新宿の一等地不動産が利益を支え、1962年のダイヤモンド誌は半期5〜6億円の利益が家賃収入だけでまかなえると分析した。1984年に有楽町センタービル、1987年にマリオン竣工、2003年4月にヴァージン・シネマズ買収でTOHOシネマズへ改称し全国シネコン網を一元化した。こうして2010年代半ばにTOHO animationレーベルで自社製作モデルへ転換、2020年10月公開「鬼滅の刃 無限列車編」は国内興収404億円で歴代1位を記録した。さらに2023年11月公開の「ゴジラ-1.0」は北米で5641万ドルを稼ぎ日本映画初のアカデミー賞視覚効果賞を受賞、2024年6月にサイエンスSARU、10月に北米GKIDSを子会社化し、松岡宏泰社長のもとFY24は連結営業収入3131億円・経常利益644億円となり、映画事業508億円が不動産168億円の3倍となった。
- セコム — 1962年7月、29歳の飯田亮と戸田壽一が東京で日本警備保障を設立、「安全はタダ」とされた社会で民間警備という業態そのものを創出した。1964年の東京オリンピック選手村警備を単独受注して社会的認知を広げ、1966年6月には日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発、人が巡回する警備からセンサー・通信・駆けつけ要員を組み合わせた機械警備モデルへ転換した。1968年12月の3億円事件で機械警備への批判もあったが、飯田は1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな」と社内に指示、1974年6月東証二部、1978年5月一部指定、1981年に韓国三星と合弁でエスワン設立、家庭用「マイアラーム」を発売した。1983年12月にセコムへ社名変更し、警備業ではなく「社会システム産業」を目指すと宣言、1991年6月に在宅医療・訪問看護、1998年に東洋火災(現セコム損保)に資本参加、2001年に日本初の自由診療保険「メディコム」を発売した。こうして2006年12月に防災大手の能美防災、2012年4月にニッタン、同年10月にデータセンターのアット東京を子会社化し6セグメント体制を整え、FY18に連結売上高初の1兆円超を達成した。さらに2015年12月にセコムドローン、2022年1月にAIバーチャル警備とロボット「cocobo」を発売、2017年10月にコンタクトセンターのTMJ、2023年8月にアルテリア・ネットワークスへ資本参加した。2024年4月就任の吉田保幸社長のもと、FY24は連結売上1兆1999億円・営業利益1442億円・経常利益1751億円となり、セキュリティ営業利益1149億円が稼ぎ頭であり続けている。
- コナミグループ — 1969年3月、上月景正が大阪でジュークボックスの修理・レンタル業を創業、1973年にコナミ工業を設立してアミューズメント機器の製造に踏み出した。1981年に「スクランブル」「フロッガー」が北米市場でヒット、1982年に米国現地法人Konami of Americaを設立し1984年に大阪証券取引所新二部上場、1988年に東京・大阪両一部指定を受けた。1985年「グラディウス」、1986年「悪魔城ドラキュラ」、1995年前後の「実況パワフルプロ野球」「ウイニングイレブン」、1998年1月発売「メタルギアソリッド」(小島秀夫監督)が世界累計700万本超のヒットとなり、家庭用ゲームの国際的IPメーカーへ成長した。1991年にコナミへ商号変更、1997年にラスベガスでKonami Gaming, Inc.設立でカジノ向けゲーミング機器事業へ参入、1999年ロンドン上場・2002年NY上場、2001年2月にフィットネスクラブ大手のピープル(現コナミスポーツ)を子会社化、2006年3月に持株会社へ移行した。しかしスマホ普及を受けて2010年代前半にモバイルシフトを断行、2012年6月に上月拓也が社長就任、「パワプロアプリ」「遊戯王 デュエルリンクス」のF2Pモデルでデジタル事業利益はFY14の169億円からFY18に438億円へ伸びた。こうして2015年10月にコナミホールディングス、2022年7月にコナミグループへ商号変更、2019年12月に銀座・有明・大阪の3拠点開発体制を整えeスポーツも開拓した。FY24は連結売上高4216億円・当期純利益746億円の過去最高益、デジタル事業利益882億円はFY13の7.5倍となり、知的財産の多面収益化を軸とする総合エンタテインメント企業の姿が定着した。
- ニトリ — 1967年12月、似鳥昭雄が札幌市内に「似鳥家具店」を開業、1972年3月に株式会社似鳥家具卸センターを設立して法人化した。同年の渡米視察で米国の家具価格が日本の3分の1である現実に直面し、「日本の暮らしを米国並みに豊かにしたい」という経営理念を据えて製造から小売までを一貫するSPA構想を温めた。1978年1月にチェーン化構想を発表し札幌でドミナント展開を開始、1982年の函館店は目標6億円に対し12億円を記録し資金繰りが好転、1989年9月に札幌証券取引所へ上場した。1993年に本州展開を開始、1994年10月にインドネシアで海外生産、2004年にベトナム工場(完全子会社方式)と中国・平湖物流拠点を立ち上げ、海外工場と独自物流を組み合わせたSPA型サプライチェーンを完成させた。2002年10月に東証一部上場、2008年のリーマンショック時にはベトナム生産を原資に値下げ攻勢をかけ「お、ねだん以上。」を浸透させた。こうして2010年に持株会社体制へ移行しニトリホールディングスへ商号変更、2016年に白井俊之が社長就任、36期連続増収増益を達成し2020年に時価総額2兆円を突破した。だが2021年1月のホームセンター島忠TOBは異業態統合に苦戦し減損94億円を計上、円安進行が円高前提のSPAを直撃して2024年3月期に36期連続増収増益の記録が途絶えた。同年2月に似鳥が社長兼務へ復帰し「危機感が変革を生む」と陣頭指揮を執り、為替環境反転下のSPAモデルの組み換えに挑んでいる。
- 靴のマルトミ — 1950年、冨永光行が名古屋で「丸富靴店」を開業、職人が仕立てる高級品で大卒初任給に匹敵した靴を、靴工場を回って流れ作業による既製靴の量産を提案させ、製造原価600円の商品を1足1000円で販売、靴を耐久財から日常消耗品へ変えた。1957年に合資会社靴のマルトミを設立、名古屋駅地下街サンロード店で都心立地に進出、1965年には従業員不正を機に掛け売りを禁止し現金主義を徹底、1973年に株式会社へ改組した。1975年に郊外ロードサイドへ出店軸を転換、大店法が大型店出店を抑える隙間を突いて小型郊外専門店を量産する戦略を確立した。1980年前後に「靴流通センター」の全国展開を本格化、1983年10月に全店オンライン化、1985年に郊外型おもちゃ専門店BANBANを立ち上げ、1986年に靴小売業として国内シェア首位、1990年に名古屋証券取引所へ上場、1993年には1700店超・売上高約1717億円に到達した。しかし1994年2月期に17期ぶりの減益、大店法の運用緩和で郊外SCが台頭しロードサイド小型店は集客力で劣後、1994〜1995年に約180店を一気に閉鎖した。こうして1998年に最終赤字、1999年には3年で380店閉鎖の経営改善計画を発表したが初年度311店閉鎖でも損失は拡大、計画は度重ねて修正を迫られた。2000年12月、手形決済資金が確保できず民事再生手続を申請、負債総額約761億円、ピークから7年での破綻となり、規制依存型多店舗モデルが規制変化にどれほど脆いかを示した事例として小売業界に残った。
- ファーストリテイリング(ユニクロ/GU) — 1949年3月、柳井等が山口県宇部市の宇部新川駅前商店街で紳士服店メンズショップ小郡商事を開業、宇部興産の企業城下町商圏に依存する地方商店として出発し、1960年に株式会社へ改組した。1972年に早稲田大卒・イトーヨーカ堂修業を経た長男の柳井正が入社、1984年6月の社長就任と同時に祖業を分離して広島市繁華街にユニクロ一号店を開業した。だが繁華街は賃料が高く構造的赤字となり、翌1985年に下関市郊外のユニクロ山の田店でロードサイド郊外型へ転換、自動車を持つファミリー層に低価格普段着を届けるモデルを固めた。1991年9月にファーストリテイリングへ商号変更、日本長期信用銀行広島支店の融資を突破口に年30店規模の出店と全店POSを整備した。1994年7月に広島証券取引所上場で約130億円を調達、自己資本比率を12%台から63%台へ改善し、東レ出身の長谷川靖彦氏の仲介で中国沿海部4社と委託生産契約を締結、SPAモデルを完成させた。こうして2000年秋の原宿店開業を起点とするフリース旋風で売上高純利益率15%という前例ない水準を記録、2005年に200坪フォーマットを撤廃、2006年11月にニューヨーク・ソーホーで1000坪のグローバル旗艦店一号店を開業し、同年3月に低価格業態GUを設立した。インディテックスと並ぶ価格帯別マルチブランド戦略を展開し、FY23は連結売上収益2兆7665億円・事業利益3081億円・従業員約5万9000名となり、現在は中国減速と北米急成長への対応と取締役15名への定員拡大による世代交代に踏み出している。
- ソフトバンクグループ — 1981年9月、24歳の孫正義が福岡市内で日本ソフトバンクを設立、シャープや日本電気と独占販売契約を結びパソコン用ソフトウェアの全国卸売流通網を構築、設立2年目には月商4億円に達した。1990年にソフトバンクへ商号変更、1994年7月の店頭登録で得た資金で同年12月に米国の展示会大手コムデックスとIT出版社ジフ・デービスを買収、シリコンバレーへの情報アクセス経路を獲得した。1996年1月に米ヤフーとの合弁でヤフー株式会社を設立し検索市場の最先発を確保、1995年以降の社債発行で売上を超える資金を調達する財務手法を定着させ、ITバブルでは時価総額が一時20兆円に達した。2001年6月にADSL「Yahoo!BB」で街頭モデム無料配布の先行投資型を実行し5年目に黒字転換、2004年7月に日本テレコムを買収した。こうして2006年4月に英ボーダフォン日本事業を約1兆7500億円のLBOで買収し携帯キャリアへ転身、2013年7月に米スプリントを約1兆8000億円で取得、2016年9月には英ARMを買収し通信から投資持株会社への重心移動を加速させた。2017年5月にサウジPIFと運用額986億ドルのソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF1)を組成、外部資金比率は33%から96%へ跳ね上がり業績は投資先株価変動と連動する体質となった。だが2020年3月にコロナショックで4兆5000億円の資産売却と最大2兆5000億円の自社株買いを公表、2023年9月にARMをナスダック上場させた。2025年4月に米オープンAIへ最大300億ドル出資を決定、Arm・Ampere・Graphcoreで半導体エンジニア8400人を結集し、AI時代の総合インフラ事業体への進化を目指す。
The社史(カバレッジ253社)
ビジネスパーソンに長期視点を普及するため、1人で創っています
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ニッスイ
売上高8,861億円営業利益317億円
1911年設立。久原財閥出身の田村市郎が下関で「田村汽船漁業部(日本水産)」を創業。英国製トロール船で遠洋漁業という市場を創出し、戦後は北洋漁業と南氷洋捕鯨で漁獲量首位を築いた。1943年の戦時統制で創業家経営は断絶し、戦後の財閥解体で所有と経営は分離したが、漁船集中投資による拡大という経営の型は引き継がれた。1977年の200カイリ規制で主力漁場の半分を失っても、労使関係を優先して漁労投資に固執したため、食品事業への構造転換は脱漁労を急いだ同業のニチロや極洋から半世紀分遅れた。2001年に米ゴートンズ(1.75億米ドル=当時約210億円)を買収して食品事業のグローバル展開を本格化、2022年には社名を「ニッスイ」に変更し、115年続いた水産会社からの脱皮を目指している。
営業利益販管費売上原価売上高営業利益率
FY2006〜FY2025
1605
INPEX
売上高20,113億円営業利益11,354億円
2006年に経営統合で発足。帝国石油(1941年設立)と国際石油開発(1966年設立)の2社統合で、国際石油開発帝石ホールディングス(INPEX)として発足した。経済産業大臣が約2割の株式と拒否権付黄金株を保有する半官半民の国内最大手E&P企業であり、実質的に経産省が経営権を保持。1998年に国際石油開発が単独取得した豪州WA-285-P鉱区(イクシスガス田)について、2012年に340億米ドルの投資を決断。2018年に操業開始し、政府系企業として日本へのエネルギー供給の一端を担う。
営業利益その他販管費売上原価売上高営業利益率
FY2007〜FY2025
1721
コムシスHD
売上高6,146億円営業利益459億円
1951年創業。電気通信工事業界の有力者21名が出資し東京にて日本通信建設を設立。翌1952年に電電公社(現NTT)の指定工事会社認定を受け、公社の設備投資計画に連動して受注を伸ばした。このため、1985年のNTT民営化後も売上の過半をNTTに依存する構造は変わらず、発注者1社依存が経営課題だった。そこで、2003年に同業2社と統合してコムシスHDを設立。2018年にNDS・SYSKEN・北陸電話工事の上場3社一括統合で全国施工体制を完成させた。2025年3月期のNTT関連比率は44%まで低下し、社会インフラ施工企業への転身に踏み出した。
営業利益販管費売上原価営業利益率
FY2006〜FY2025
建設・不動産13社調査済
食品・飲料11社調査済
化学・素材27社調査済
- INPEX粗利率57.0%(FY25)
- 鐘紡粗利率48.2%(FY06)
- 日産化学粗利率46.4%(FY24)
- 日本ペイント粗利率42.3%(FY25)
- 富士フイルム粗利率40.7%(FY24)
- 日東電工粗利率39.0%(FY24)
- 信越化学工業粗利率38.4%(FY24)
- 旭化成粗利率31.5%(FY24)
- トクヤマ粗利率31.5%(FY24)
- クラレ粗利率30.5%(FY25)
- 三菱ケミカルグループ粗利率29.0%(FY24)
- 住友化学粗利率27.8%(FY24)
- 東ソー粗利率24.4%(FY24)
- レゾナックHD粗利率24.0%(FY25)
- 東洋紡粗利率23.0%(FY24)
- 北越コーポレーション粗利率22.5%(FY24)
- 三井化学粗利率21.5%(FY24)
- デンカ粗利率21.1%(FY24)
- ユニチカ粗利率20.3%(FY24)
- 東レ粗利率19.7%(FY24)
- 王子ホールディングス粗利率18.9%(FY24)
- UBE粗利率18.7%(FY24)
- レンゴー粗利率18.3%(FY24)
- 帝人粗利率18.2%(FY24)
- 日本触媒粗利率17.2%(FY24)
- ENEOS HD粗利率9.0%(FY24)
- 出光興産粗利率7.5%(FY24)
医薬品・医療13社調査済
鉄鋼・非鉄15社調査済
重工7社調査済
機械・精密22社調査済
- ディスコ粗利率70.6%(FY24)
- 横河電機粗利率47.6%(FY24)
- SMC粗利率45.8%(FY24)
- アマダ粗利率43.5%(FY24)
- コニカミノルタ粗利率42.5%(FY24)
- シチズン時計粗利率42.5%(FY24)
- 村田製作所粗利率41.2%(FY24)
- ファナック粗利率37.0%(FY24)
- 横浜ゴム粗利率36.2%(FY25)
- セイコーエプソン粗利率36.2%(FY24)
- 安川電機粗利率35.6%(FY24)
- ダイキン粗利率34.2%(FY24)
- 荏原製作所粗利率32.6%(FY25)
- コマツ粗利率32.2%(FY24)
- オークマ粗利率31.7%(FY24)
- 日立建機粗利率31.3%(FY24)
- TDK粗利率31.2%(FY24)
- クボタ粗利率29.3%(FY25)
- 太陽誘電粗利率21.0%(FY24)
- ミネベアミツミ粗利率17.8%(FY24)
- アルプスアルパイン粗利率17.7%(FY24)
- オムロン営業利益率3.6%(FY24)
電機・事務機18社調査済
- レーザーテック粗利率59.0%(FY24)
- キヤノン粗利率46.7%(FY25)
- カシオ計算機粗利率43.3%(FY24)
- リコー粗利率34.4%(FY24)
- 日本ビクター粗利率33.2%(FY08)
- パナソニック粗利率31.1%(FY24)
- NEC粗利率31.0%(FY24)
- 三菱電機粗利率30.6%(FY24)
- ソニー粗利率29.3%(FY24)
- 日立製作所粗利率28.8%(FY24)
- 富士電機粗利率28.3%(FY24)
- GSユアサ粗利率24.0%(FY24)
- TOPPAN(凸版印刷)粗利率24.0%(FY24)
- 大日本印刷粗利率23.2%(FY24)
- シャープ粗利率18.8%(FY24)
- パイオニア粗利率17.9%(FY17)
- 三洋電機純利益率-2.4%(FY10)
- 赤井電機
半導体・部品12社調査済
自動車・部品18社調査済
- 日本特殊陶業粗利率39.5%(FY24)
- ブリヂストン粗利率38.5%(FY25)
- ヤマハ発動機粗利率31.0%(FY25)
- スズキ粗利率26.8%(FY24)
- トヨタ自動車粗利率26.1%(FY24)
- 豊田自動織機粗利率23.3%(FY24)
- 日本精工粗利率21.7%(FY24)
- マツダ粗利率21.5%(FY24)
- ホンダ粗利率21.5%(FY24)
- SUBARU粗利率20.9%(FY24)
- いすゞ自動車粗利率20.6%(FY24)
- 三菱自動車粗利率19.2%(FY24)
- 住友電工粗利率18.8%(FY24)
- 日野自動車粗利率17.4%(FY24)
- NTN粗利率17.1%(FY24)
- デンソー粗利率15.4%(FY24)
- ジェイテクト粗利率14.9%(FY24)
- 日産自動車粗利率13.4%(FY24)
インフラ・運輸22社調査済
- 東海旅客鉄道粗利率49.3%(FY24)
- 東日本旅客鉄道粗利率35.7%(FY24)
- 東急粗利率31.7%(FY24)
- 東武鉄道粗利率31.3%(FY24)
- 小田急電鉄粗利率29.8%(FY24)
- 京成電鉄粗利率27.8%(FY24)
- 京王電鉄粗利率25.0%(FY24)
- 西日本旅客鉄道粗利率24.5%(FY24)
- 大阪ガス粗利率19.6%(FY24)
- ANAホールディングス粗利率18.5%(FY24)
- 日本郵船粗利率18.1%(FY24)
- 商船三井粗利率17.9%(FY24)
- 川崎汽船粗利率17.4%(FY24)
- 東京ガス粗利率15.4%(FY24)
- 三菱倉庫粗利率12.8%(FY24)
- 関西電力粗利率10.8%(FY24)
- NIPPON EXPRESSホールディングス粗利率9.3%(FY25)
- 日本航空営業利益率9.1%(FY24)
- 日本郵政粗利率7.1%(FY24)
- 中部電力粗利率6.6%(FY24)
- ヤマトホールディングス粗利率4.0%(FY24)
- 東京電力ホールディングス粗利率3.4%(FY24)
IT・通信16社調査済
- クックパッド粗利率98.6%(FY25)
- ZOZO粗利率93.0%(FY24)
- クレディセゾン粗利率85.9%(FY24)
- トレンドマイクロ粗利率76.9%(FY25)
- ヤフー粗利率72.4%(FY24)
- メルカリ粗利率71.8%(FY24)
- ネクソン粗利率59.4%(FY25)
- DeNA粗利率56.5%(FY24)
- ソフトバンクグループ粗利率51.8%(FY24)
- ボーダフォン(現ソフトバンク)粗利率48.3%(FY24)
- KDDI粗利率42.4%(FY24)
- 野村総合研究所粗利率36.0%(FY24)
- 富士通粗利率32.9%(FY24)
- サイバーエージェント粗利率30.2%(FY25)
- NTT営業利益率12.0%(FY24)
- 楽天グループ営業利益率0.6%(FY25)
総合商社8社調査済
小売・日用品17社調査済
金融19社調査済
- 大和証券グループ本社粗利率56.0%(FY24)
- 日本取引所グループ営業利益率54.9%(FY24)
- 横浜フィナンシャルグループ粗利率30.8%(FY24)
- しずおかフィナンシャルグループ粗利率29.9%(FY24)
- 千葉銀行粗利率29.7%(FY24)
- りそなホールディングス粗利率26.1%(FY24)
- ふくおかフィナンシャルグループ粗利率22.7%(FY24)
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ粗利率19.6%(FY24)
- 東京海上ホールディングス粗利率17.3%(FY24)
- 三井住友フィナンシャルグループ粗利率16.9%(FY24)
- オリックス営業利益率16.7%(FY24)
- みずほフィナンシャルグループ粗利率12.9%(FY24)
- 三井住友トラストグループ粗利率12.6%(FY24)
- 野村ホールディングス営業利益率10.0%(FY24)
- あおぞら銀行粗利率7.6%(FY24)
- 第一生命ホールディングス粗利率7.3%(FY24)
- SOMPOホールディングス営業利益率6.2%(FY24)
- T&Dホールディングス粗利率5.3%(FY24)
- MS&ADインシュアランスグループホールディングス粗利率-8.5%(FY24)