The社史 — 上場企業の歴史を振り返る
日本の上場企業を中心とした253社の企業史をまとめた個人サイト。創業から現在に至る意思決定の軌跡を、財務データや業績推移とともに記録しています。
- ニッスイ — ニッスイは1911年、田村市郎が下関で田村汽船漁業部を創業し遠洋トロール漁業に乗り出したことに始まる。戦後の1952年に魚肉ソーセージの本格生産を開始して食品メーカーへの転換を図り、1974年の米国・チリ進出を起点にグローバル水産食品企業へと成長した。2001年に北米家庭用水産冷凍食品の最大手ブランド「ゴートンズ」を買収して海外食品事業の柱を確立している。 2022年12月に「日本水産」から「ニッスイ」に社名を変更し、長期ビジョン「Good Foods 2030」のもとで水産・食品・ファインケミカルの三本柱による成長を目指す。2025年3月期には売上高8861億円・営業利益318億円を達成し、2026年1月にはチリのサーモン養殖会社PY社を完全子会社化して南米養殖事業の2030年8万トン体制を見据える。中期経営計画「Good Foods Recipe2」では2028年3月期に売上高9700億円・営業利益410億円を掲げ、売上高1兆円の射程圏に入った。
- INPEX — INPEXは国際石油開発と帝国石油の経営統合によって誕生した日本最大の石油・天然ガス開発会社である。前身の国際石油開発が豪州沖で発見したイクシスガス田を軸に、日本企業として初めて大型LNGプロジェクトのオペレーターを務め、資源開発における日本の存在感を一変させた。 イクシスLNGプロジェクトは発見から操業開始まで約16年、総事業費約340億米ドルを投じた巨大事業であり、その成否がINPEXの企業価値そのものを左右してきた。2018年の操業開始以降は安定収益源として連結利益を支え、足元では脱炭素時代を見据えた水素・CCSへの投資と新規LNG開発を両輪で進めている。
- コムシスホールディングス — 1951年、電気通信工事業界の有力者21名が出資して「日本通信建設」を設立した。電電公社の指定工事会社として受注の100%を1社に依存する構造は、1985年のNTT民営化を経ても根本的には変わらず、2003年に同業3社が統合してコムシスホールディングスを設立した後も、売上高の過半はNTTグループ向けだった。 この制約を解こうとする試みが、20年間のM&Aを貫く一本の線である。2010年のつうけん、2018年のNDS・SYSKEN・北陸電話工事の3社一括統合で通信工事の全国体制を完成させ、並行して再エネ・ガス・舗装と非通信領域にも進出した。2025/3期の計画でNTT関連売上比率は44%まで低下し、売上高6,146億円・営業利益460億円で過去最高を更新した。
- 大成建設 — 大成建設の歴史は、明治政府の建設需要を取り込んだ大倉組商会の創業から始まる。日本初の法人建設会社の設立、財閥解体後の「建設」社名採用、建設業界初の株式公開と、同社は繰り返し業界の制度的枠組みを先行して設定してきた。この「業界初」の蓄積が、のちに組織の大成と呼ばれる内部管理体制の磨き込みと結びつき、スーパーゼネコン5社の一角を占める規模を支えた。 しかし2009年のリーマン後初赤字以降、同社の軌跡は単純な成長物語ではなくなる。グループ子会社の相次ぐ完全子会社化、2022〜2023年の建築事業赤字・施工不良問題、そして2023年以降のM&A主導の業界再編路線という3つの転換が連続した。2025年9月にはスーパーゼネコン史上最大規模とされる東洋建設TOBが完了し、土木売上高で業界トップを射程に収める新局面に入っている。
- 大林組 — 1892年、乾物問屋出身の大林芳五郎が大阪で創業した大林組は、創業6年目に大阪市築港工事を受注し、1914年には東京中央停車場(東京駅)と生駒トンネルを同時に完工した。東西二大工事の完成で全国区のゼネコンに成長し、1936〜40年には施工高業界1位を記録。戦後は沖縄米軍基地工事でアメリカ式の機械化工法を習得し、1964年にバンコクへ業界初の常駐事務所を開設して海外進出を開始した。 2018年に就任した蓮輪賢治社長は、建設事業への依存を変えるため営業利益の3割以上を不動産・グリーンエネルギー・海外建設で稼ぐ目標を掲げた。北米ではM&A4件を重ねて事業領域を広げ、データセンター事業に10年間で1,000億円を投資する計画を発表。佐藤俊美社長(2025年就任)のもとで北米建設の1兆円規模拡大を視野に入れ、乾物問屋から始まった130年の建設請負業は複合事業体へと変わりつつある。
- 清水建設 — 1804年に越中富山の大工が江戸で開いた大工業は、渋沢栄一の30年にわたる経営指導のもとで「民間の建築工事」を主軸に据え、220年後もその路線を変えていない。民間建築への集中は、バブル期に首都圏の大型ビル需要を独占して業界トップの業績を生んだ。 しかし同じ構造が、資材価格の高騰と工期逼迫が重なった2024年3月期に上場来初の営業赤字247億円を生んだ。公共事業ならスライド条項で転嫁できるコスト上昇を、民間工事の多い清水建設は自ら吸収せざるを得なかった。好況期に最も恩恵を受け、不況期に最も痛む ── 「民間建築に強い堅実経営」の二面性が、この企業の歴史を貫いている。
- 長谷工コーポレーション — 1937年に尼崎の個人工務店として創業した長谷工は、1968年のマンション事業参入から5年で施工戸数業界1位に駆け上がった。首都圏シェア20%を握った1980年代、「脱マンション」を掲げてホテル・リゾートに1,000億円を投じたが、バブル崩壊で有利子負債は1兆3,000億円に膨張し、株価は13円まで下落した。 再建の柱は、多角化の全否定だった。1,850億円の特損を一括計上してマンション専業に回帰し、土地を自ら仕入れてデベロッパーに持ち込む「特命受注」の比率を85%まで高めた結果、2018年3月期には連結経常利益1,005億円に到達した。累計施工70万戸、日本の分譲マンションの約1割を建てた企業は、いま単体受注高7,000億円の規模にまで成長している。
- 鹿島建設 — 1860年、横浜で日本初の洋風建築「英一番館」を施工した鹿島は、以後160年以上にわたり各時代の先端技術を要する建造物を最初に手がけてきた。鉄道、ダム、原子炉、超高層ビル ── その都度「初めて」の施工実績が次の大型案件を呼び込み、1963年には年間受注高で世界一に達した。 しかし受注規模の大きさは収益力を意味しなかった。建設業界全体の過当競争構造の中で営業利益率1%未満が常態化し、2010年には初の営業赤字に転落した。転機は2011年以降の震災復興・五輪需要と技能労働者の減少が重なった供給制約で、選別受注が可能になったことだった。営業利益はFY14の127億円からFY16の1,554億円へ3年で12倍に跳ね上がり、「建てる技術」がようやく利益に変わる構造が生まれた。
- 大和ハウス工業 — 大和ハウス工業は1955年、石橋信夫が大阪で創業した。戦後の木材不足と住宅難を背景に鋼管構造の「パイプハウス」で建築の工業化に先鞭をつけ、1959年発売の「ミゼットハウス」は3時間で建つ家として爆発的に売れ、日本のプレハブ住宅産業の礎を築いた。住宅事業で築いた顧客基盤と施工力を武器に、1976年には遊休地と出店企業をマッチングする流通店舗事業に参入し、住宅メーカーの枠を超える多角化の一歩を踏み出した。 創業者が貫いた無借金経営の信念のもとバブル崩壊後も財務健全性を維持し、2001年の大和団地合併でマンション事業を本体に統合、2013年のフジタ子会社化で売上高を一気に拡大した。2017年以降は米国住宅市場にも本格参入し、物流施設や半導体工場など事業施設の大型化も加速。2025年3月期の連結売上高は5兆4,348億円に達し、国内外でハウジングからビジネスまで幅広い領域を手がける総合不動産グループへと進化を遂げている。
- 積水ハウス — 1960年、積水化学工業のハウス事業部を母体に発足した積水ハウスは、プレハブが安物と見なされた時代に高級化路線へ舵を切り、自社ローンや売り建て方式など需要を自ら創り出す経営で15年連続増収増益を達成した。1991年に住宅業界初の売上高1兆円に到達し、業界首位を確立した。 リーマンショックで創業以来初の赤字に転落した経験から、請負型ビジネスへの依存を見直し、賃貸管理・リフォームなどストック型事業の比重を高めた。2017年以降は米国戸建住宅ビルダーの段階的買収に踏み切り、2024年にMDC Holdingsを約7,200億円で取得して売上高4兆円を突破。国内で磨いた住宅技術を米国に移植する「テクノロジー・トランスファー」戦略の成否が、次の成長を左右する。
- 日揮ホールディングス — 1928年に「日本揮発油」として創業した日揮は、製油所の建設を断念したことで逆に石油産業の「知恵」を売るビジネスモデルを見出し、特許収入からエンジニアリングへと事業を転換した。戦後は国内製油所建設で成長し、1968年から海外大型プラントへ軸足を移した。 1972年のアルジェリアで50億円の赤字を出しながらも海外受注をやめず、1976年には同じアルジェリアで1,450億円を受注した。1985年の円高では4期連続赤字に陥るが、当時の業界では異例だった海外調達比率50%への転換で黒字化し、競合を引き離した。この「大型ランプサム契約で攻め、損失も引き受ける」構造は2024年まで変わらず、イクシスLNG損失575億円を経て、選別受注への転換が進んでいる。
- 日清製粉グループ本社 — 1900年に正田家が群馬県館林で起こした機械式製粉会社は、不況のたびに競合工場を合併しながら国内製粉シェア約4割を築いた。食生活の洋風化が1960〜70年代の製粉需要を押し上げ、医薬・飼料・エンジニアリングへの多角化が製粉一本足のリスクを分散。1989年のカナダ買収を皮切りに3回の海外製粉大型M&Aを実行し、売上高は2001年の3,000億円台から2024年には8,500億円超へ拡大した。 転機は2019年の豪州最大手Allied Pinnacle買収だった。買収翌年にコロナが直撃し、ウクライナ情勢による食糧インフレが追い打ちをかけ、2023年3月期に創立以来初の純損失▲104億円を計上した。一方で北米製粉は同じ食糧インフレを販売マージンの改善機会として活かし、業績が急回復。FY23(2024年3月期)の連結営業利益は単年最高水準の478億円に達した。
- 日本M&Aセンター — 1991年設立。創業者の分林保弘が日本オリベッティ時代に築いた会計事務所との人脈を起点に、全国の会計事務所と地方銀行をネットワーク化し、中小企業の事業承継を仲介するビジネスモデルを構築した。日経新聞への広告出稿や書籍出版で市場を啓蒙しつつ、全国金融研究会やバンクオブザイヤー表彰制度で地銀との関係を制度化し、東証一部上場を果たした。しかし2021年の不正会計発覚で信頼基盤が毀損し、競合の急増とともに転換期を迎えている。
- クックパッド — 1997年に佐野陽光が神奈川県藤沢市で有限会社コインを設立し、翌年レシピ投稿サイトを開始した。ユーザー投稿型テキストレシピという独自のUGCモデルで日本最大のレシピプラットフォームに成長し、広告と有料課金の二本柱で2015年に売上高100億円を突破した。しかし2016年の社長解任劇を契機に経営が混乱し、動画レシピの台頭で有料会員が流出。3期連続の営業赤字に転落し、従業員は半減した。
- 明治ホールディングス — 1906年に台湾で誕生した製糖会社が、空襲で焼け落ちた工場でペニシリンを作り始めたとき、「食品製造」と「医薬品」を一つの企業に共存させる百年の歴史が動き出した。製糖・製菓・乳業という三事業に分裂したまま戦後を生き延びた明治グループは、103年後の2009年に統合という宿命を果たして売上1兆円超の食品・医薬コングロマリットとなった。 しかし「食と医の融合」という統合の本質的な価値は、持株会社化から16年が経った現在も実現しきれていない。コスタイベ(レプリコンワクチン)の風評被害による販売低迷と、工場閉鎖・人事制度改革という構造変革の課題が、現在の明治HDで並行して進んでいる。
- 日本ハム — 戦後の食生活洋風化という追い風に乗り、創業者・大社義規は「後退したことがない」と言い切りながら業界再編を主導して1963年に業界トップに立った。1973年の球団買収はブランドを全国に届けたが、1977年に始めた米国・豪州への食肉投資は30年近く収益を生まず、2002年の偽装事件では創業者一族が退いた。 信頼回復に10年を費やした後、2022年から構造改革を本格化させた第8代社長が不採算事業の整理と製造ライン削減を実行した。加工肉ではシャウエッセン、海外では食肉を中心に業容を安定化し、2026年3月期に事業利益640億円という過去最高益見通しへ。1977年に始めた海外投資が長い投資フェーズを経て、黒字事業として貢献するに至った。
- エムスリー — マッキンゼーで35歳のパートナーになった谷村格は、ヘルスケアコンサルタントとして見続けた「製薬MR8万5千人と医師の非効率なマッチング」を、インターネットで解こうと2000年に独立した。最初の主力サービスMR君は、複数の製薬会社が1つのプラットフォームを共有する世界的にも例のない設計で、ネットを介したビジネス特許まで取得した。 そこから25年、エムスリーは日本の医師の半数以上を会員化した医師ポータルを軸に、治験・電子カルテ・人材・欧米の医薬品情報DBへと領域を広げ、コロナ禍では営業利益率45%という異常値をつけた。コロナ反動で利益が3割落ちた今、会社は予防医療と患者サポートに次の柱を求めて買収を続けている。
- DeNA — 1999年、南場智子がマッキンゼーを退職して東京都渋谷区に設立した。オークション事業「ビッターズ」でヤフオクに敗れた後、2004年にモバイル領域へ転換し、2009年のモバゲータウンを起点にソーシャルゲームで急成長を遂げた。2011年にプロ野球球団を取得し、2013年に売上高2,024億円・過去最高益を記録したが、米ngmoco買収の失敗やキュレーションメディア問題を経て成長の踊り場に入った。ゲーム事業への収益依存からの脱却が経営課題として続いている。
- サッポロビール — サッポロビールの源流は1876年に明治政府の北海道開拓使が札幌に設立した麦酒醸造所にあり、開拓使廃止後は村橋久成・中川清兵衛らの札幌麦酒として事業が継承されてきた。1906年の札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合同で大日本麦酒が成立すると、国内ビール市場の約77%を占める寡占企業へと一気に飛躍したが、戦後の過度経済力集中排除法の適用によって1949年に日本麦酒と朝日麦酒という二社へと強制的に分割された。戦後再出発期に柴田清社長が既存ブランドを封印して新ブランド「ニッポンビール」を投入する失策を犯し、キリンへの大規模なシェア流出を招いて以後半世紀にわたるシェア3位が構造的に固定化し、社内では「柴田の大誤算」と呼ばれて長く語り継がれてきた。 1971年のヱビスビール復活と1994年の恵比寿ガーデンプレイス開業によってプレミアム戦略と不動産事業という二本柱を獲得したものの、ビール本業は普及価格帯で劣後し続け、資産運用会社的な性格を強く帯びた独特の収益構造が2007年の米スティール・パートナーズによる買収提案と防衛劇を招く結果となった。2011年のポッカ買収と海外酒類M&Aで成長を図ったが、2023年には今度は3D Investmentから再び資本効率への問いを突きつけられ、2025年にはついに事業持株会社体制への移行決定と不動産事業への外部資本導入という16年越しの具体的な回答に踏み出した。2026年10月の酒税改定と次期中期経営計画を目前に控え、プレミアム・ビール集中戦略と2030年の国内酒類事業利益率10%以上の目標を掲げて国内外の構造改革に本格的に取り組んでいる。
- アサヒグループHD — 1949年、大日本麦酒の分割により朝日麦酒として発足し、西日本を地盤に再出発した。長期のシェア低迷を経て住友銀行主導の経営刷新を受け、1987年のスーパードライ発売でビール市場の勢力図を塗り替えた。国内成熟市場での反転経験を原型に、2016年以降は欧州・豪州で計2兆円超の大型買収を断行し、プレミアムビールを軸にしたグローバル三極体制を構築した。
- キリンHD — 1907年、外国人経営のビール会社を三菱系資本と明治屋の出資で株式会社化し、麒麟麦酒として独立した。戦後は家庭用市場の掌握と計画的な設備投資によりシェア60%超を達成して業界首位を長期間維持したが、1987年のスーパードライ攻勢でシェアが急落した。その後は医薬品事業やファンケル完全子会社化など事業ポートフォリオの転換を図り、ビール・飲料・ヘルスサイエンスの三本柱で経営を再構築している。
- ABCマート — 1985年、三木正浩が29歳で設立した輸入卸売会社を起源とし、ホーキンスの独占販売権取得と韓国での生産体制構築によりSPA型の靴卸売業を確立した。1990年に小売業ABCマートを開始し、1999年以降はショッピングセンターへの積極出店で全国チェーン化を加速。創業者退任後も漸進型経営のもとで国内1000店舗を突破し、韓国・台湾を含むアジア展開を推進する靴専門チェーン最大手に成長した。
- 日本マクドナルド — 1971年、輸入雑貨商の藤田田が米マクドナルドと合弁で日本マクドナルドを設立し、銀座三越に1号店を開業した。ロイヤリティ1%・契約期間30年という破格の条件のもと都市圏ドミナント戦略で急成長し、1984年に外食産業初の売上高1000億円を突破した。出店余地の飽和後は低価格路線で客数維持を図ったが客単価の毀損を招き、藤田体制の終焉を経て米本社主導の経営へと移行した。
- 双日 — UFJ銀行の不良債権処理を契機に、明治期から独立して発展してきた三系統の商社が一つに束ねられた。旧日商岩井の「精神的支柱」だった航空機ファイナンス事業の撤退を含む2500億円規模の損失処理が断行され、合併直後から旧ニチメン系と旧日商岩井系の組織文化衝突が表面化し、2012年3月期には最終赤字36億円を記録した。 その制約が転換点となり、大手総合商社との正面競合を避け「双日らしさ」を打ち出した藤本路線は、副業解禁・ジョブ型雇用を商社業界に先行して導入し、ベトナム・省エネ・水産などの非資源分野への集中投資と組み合わせた。2023年3月期には純利益1112億円と双日発足以来の最高益を達成し、財務再建フェーズから収益拡大フェーズへの転換を数字で示した。
- セリア — 1985年に岐阜県大垣市で移動販売業として創業し、1994年に100円ショップの常設店舗展開に転換した。業界の常識に反してリアルタイムPOSと独自の発注支援システムを全店導入し、データに基づく品揃え最適化で高収益体制を確立。新店舗ブランド「Color the days」で雑貨比率を急上昇させ、2009年にキャンドゥを抜いて業界2位に浮上した。2代目社長のもとでIT経営を深化させている。
- キッコーマン — キッコーマンの源流は江戸期以来の醤油醸造が集積する千葉県野田にあり、茂木家と高梨家を中心とする一族八家が1917年に野田醤油株式会社を設立して近代的な株式会社方式で醸造業を統合した出発点にさかのぼる。各家の醸造設備を現物出資で集約し、約200もの商標を「キッコーマン」の単一ブランドに統一した判断はのちに茂木啓三郎によって「すばらしい英断」と呼ばれ、1930年代の業界淘汰局面では量産設備とブランド統合への集中投資によって国内醤油シェアで圧倒的な首位の座を獲得するに至った。1928年の野田争議では組合員全員解雇という強硬な対応を選択して近代工場運営への移行を加速させ、企業城下町における雇用関係を再定義する歴史的な契機ともなった。 戦後の再出発期を経て1957年に米国法人KIKKOMAN INTERNATIONALを設立すると、照り焼きなどの肉料理を通じて醤油を汎用調味料として現地に訴求するという非常識とも言える戦略で北米市場の開拓に踏み出した。1972年には純利益の2〜3年分に相当する投資でウィスコンシン州に現地生産工場を設立するという分析では正当化しにくい大型投資を社長の確信だけで押し切り、これが後発企業の追随を構造的に困難にする最大の競争優位を生み出すことになった。一方で2000年代以降に取り組んだ焼酎・デルモンテ・飲料等の多角化は合理的な分析のもとでの参入であったがゆえに参入障壁も低く、北米醤油ほどの圧倒的な優位は築けず、現在は北米第3工場の建設と数量回復を軸とした次期中計の準備が経営の中心課題となっている。
- 味の素 — 1888年のヨード製造に端を発し、1909年に池田菊苗のうま味発見を事業化して調味料「味の素」の販売を開始した。全国特約店網と川崎工場の量産体制でMSG市場を支配したが、協和発酵の直接発酵法登場を契機に総合食品化と海外展開を加速した。飼料用アミノ酸の増産と海外食品事業への拡大を経て、2019年のROIC導入により資本効率を重視する経営管理へ転換し、半導体材料ABFという高収益事業も育成している。
- ニチレイ — ニチレイの源流は太平洋戦争下の1942年に日本水産・日魯漁業など大手水産会社の陸上部門を統合して発足した帝国水産統制株式会社にあり、戦時下の鮮魚需給管理という国策要請のもとで全国二百二十余か所の冷凍・製氷・冷蔵工場を承継した特異な出発であった。終戦後の1945年に日本冷蔵へと改称して民間企業として再出発し、1949年の東証上場を経て独立系の冷蔵倉庫会社としての地位を固めた。1951年就任の木村幸鉱二郎社長のもとで水産・冷凍・煉製品・缶詰・畜産の五分野を軸とする総合食品メーカーへの転換が図られたが、1980年には創業以来の主力であった水産部門が赤字転落し、経営資源の配分を根本から見直す構造改革へと踏み切ることになった。 1985年の社名変更による「ニチレイ」ブランドへの統一を起点に、家庭向け冷凍食品・システム物流・都心不動産という三つの柱を育て、2005年の持株会社体制への移行を経て食品・物流・不動産の事業別経営が確立された。2007年以降は純国産鶏「純和鶏」の垂直統合や欧州低温物流買収など原料調達と海外物流の両面での深化が進み、本格炒め炒飯に代表される品質訴求型の主力商品群も確立された。しかし2025年以降は原材料高騰と値上げ疲れによる低価格志向の拡大で加工食品事業の利益構造に変調が生じ、2026年に北米イノバジアン事業向けに一億ドル超を投じる新工場建設を決断するなど、国内再設計と海外内製化を同時並行で進める新たな経営局面へと移行している。
- JT — 1949年に日本専売公社として設立され、1985年の民営化で日本たばこ産業として発足した。国内たばこ市場の構造的縮小に対し、1999年のRJRナビスコ海外事業買収と2007年のGallaher買収という二度の大型M&Aで世界3位のたばこ企業に成長。国内では希望退職の募集と20工場超の閉鎖で徹底的な構造改革を実行し、2022年にはたばこ事業の本社機能をジュネーブに統合してグローバル経営体制を確立した。
- J.フロント リテイリング — 松坂屋銀座店の再開発問題を契機に2007年、大丸と松坂屋HDが経営統合してJフロントリテイリングが発足した。以後17年で百貨店市場の縮小・パルコ傘下化・GINZA SIX開業・コロナ禍という四つの局面を経て、不動産・SC事業を軸とした多角化企業へと変容し続けた。 2021年2月期に261億円の最終赤字を計上したコロナの打撃は、2年間で1,038億円の有利子負債削減という財務構造改革を引き出した。インバウンド急回復と重なりFY24(2025年2月期)に事業利益520億円を達成、中計最終年度の目標を初年度で達成した。2024年就任の小野社長は「強みはリテールにある」と宣言し、業界が加速する「場所貸し」モデルへの逆張りとしてリテール本業回帰を選んでいる。
- ZOZO — ZOZOの源流は1998年に前澤友作氏が千葉市で設立した有限会社スタートトゥデイにあり、輸入CD・レコードの通信販売という極めて小さな事業からの出発であった。2000年のEC専業化を経て2004年にファッションブランドを集積するモール型サイト「ZOZOTOWN」が開設され、2005年のユナイテッドアローズ出店を契機としてBEAMS・SHIPSといったセレクトショップが相次いで参加し、受託販売モデルに基づくファッション特化型プラットフォームとしての独自のポジションが市場のなかで確立されていった。外部からの資本調達に依存せず借入金中心の財務運営によって経営権を維持する選択が初期段階から一貫して貫かれ、高収益な受託販売手数料が成長の原資として機能し続けた初期段階であった。 2006年以降はZOZOBASEと呼ばれる習志野の物流拠点を中核に据えた垂直統合型オペレーションを構築し、2010年のスマートフォンアプリ投入を契機として若年層の主要な購買接点を押さえる戦略が成功を収めた。2018年のZOZOSUITによる試行錯誤を経て基幹システムの全面リプレイスに着手し、2019年にはZホールディングスの公開買付けを受け入れて連結子会社化され前澤氏は退任し、澤田宏太郎氏による組織経営体制への移行が実現した。2024年以降はラグジュアリー検索大手LYSTの買収と韓国ファッションプラットフォームMUSINSAの出店によるカテゴリー拡張を本格化させる一方、2025年秋以降は長夏と低価格志向の影響で商品取扱高が計画未達となる新たな局面に直面し、AIエージェント活用と物流効率化を両輪とする次世代戦略への転換期を迎えている。
- 三越伊勢丹ホールディングス — 1673年に三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を開き、1886年には小菅丹治が神田で「伊勢屋丹治呉服店」を構えた。300年以上の時を経た2008年、日本最古の呉服系百貨店と新興の対面型百貨店が経営統合し、初年度から純損失635億円を計上している。 統合後の17年間は120年続いた百貨店モデルからの脱却を模索する歴史であり、自主編集主義・構造改革優先・識別顧客戦略という3つの路線が衝突と修正を繰り返し、コロナ禍の営業赤字210億円を経て2024年度営業利益763億円という過去最高益にたどり着いた。
- 東洋紡 — 東洋紡の源流は1882年に渋沢栄一らが主導して大阪府大阪市に設立した大阪紡績会社にあり、華族資本と民間企業家の連携によって成立した日本初の本格的な民間大規模紡績として、蒸気機関を動力源とする二十四時間操業という当時としては画期的な生産体制を確立した。1886年に同じ渋沢人脈で誕生した三重紡績と1914年に合併して東洋紡績株式会社が発足し、据付錘数と綿糸生産量の双方で国内首位の座を獲得して戦前期の日本紡績業を代表する存在となったが、第二次世界大戦後の合成繊維時代の到来に際して1954年に英国インペリアル・ケミカル・インダストリーズからのポリエステル技術提携の打診を見送る判断を下し、先行したライバルとの競争において十年近い決定的な出遅れを被った。 ポリエステル出遅れと繊維不況の連続によって主力事業が構造的に縮小する中、東洋紡は1968年に化成品事業部を発足させて犬山工場のパルプ生産からフィルム生産への転換を決断し、以後半世紀近くにわたり十か所以上の国内工場を段階的に閉鎖しながら非繊維領域への事業転換を進めていった。2013年に開発した偏光子保護用超複屈折フィルム「コスモシャインエスアールエフ」が大型液晶パネル向けで世界シェア六十パーセントを獲得する主力商品となり、2022年には繊維事業を分社して機能素材メーカーとしての制度的な再定義を完了し、2025年から2026年にかけては生産能力増強工事と価格改定の収益化によって持続的な利益成長フェーズへの転換点を迎えている。
- 鐘紡 — 1887年に東京綿商社として創業し、1889年に鐘ヶ淵紡績として紡績業に転じた。中上川彦次郎・武藤山治のもとで紡績大合同論を推進し、1933年には全業種の売上高ランキングで日本企業1位に立った。戦後は化粧品事業で高収益を確保したが、繊維事業の構造的赤字をペンタゴン経営の名のもとに延命し続け、1975年に無配転落。2003年に粉飾決算の露呈で630億円の債務超過に陥り、化粧品を花王へ、繊維をセーレンへ売却した末に2007年に会社解散を決議した。
- ユニチカ — 1889年に尼崎紡績会社として兵庫県尼崎に設立され、大日本紡績を経て1969年に日本レイヨンとの合併でユニチカが発足した。ビニロン・ナイロン・PETフィルムなど多方面に展開したが、合併後は繊維事業の低収益と固定費負担に苦しみ、1977年には三和銀行が経営に介入した。1971年の資産売却に始まる53年間の段階的縮小を経て、2024年に祖業の繊維事業からの撤退とREVICへの金融支援要請に至った。
- 東急不動産ホールディングス — 渋沢栄一らが1918年に立ち上げた田園都市株式会社は、田園調布で総面積の18%を道路と公園に充てる住環境を打ち出し、後の郊外住宅地のひな形となった。戦時統合で休眠したこの事業は、五島慶太の公職追放解除後、1953年に東急不動産として独立し、沿線型私鉄ディベロッパーの純粋形を担う会社として再出発した。 津田山ニュータウン、提携住宅ローン、東急ハンズと業態を増やし「デベロッパー東急」と呼ばれた同社は、バブル崩壊とリストラを経て2013年に持株会社化、東急コミュニティー・東急リバブルと統合した。FY23の営業利益は1,202億円、渋谷再開発と再エネを軸に2031/3期1,500億円目標を掲げる総合不動産HDへと姿を変えている。
- コスモス薬品 — 1973年創業。薬剤師の宇野正晃が宮崎県延岡市の個人薬局から出発し、20年の助走期間を経て小商圏型メガドラッグストアという独自業態を確立した。商圏人口1万〜2万人のエリアに2,000平方メートル超の大型店をドミナント出店し、医薬品の高粗利を原資に食品を低価格で販売するEDLP戦略を徹底。九州から地続きで全国へ拡大し、M&Aを52年間一度も行わず全店舗を自力出店のみで展開して2025年に売上高1兆円を突破した。
- セブン&アイHD — セブン&アイ・ホールディングスの源流は1920年に浅草で創業した洋品店「羊華堂」に遡り、1946年の北千住移転を経て1958年に伊藤雅俊が株式会社ヨーカ堂として設立したスーパーマーケットにある。欧米視察を通じてスーパー業態の将来性を確信した伊藤は、1973年に米国サウスランド社との業務提携によってセブンイレブンの国内展開権を取得し、翌1974年に東京都江東区豊洲で本格的なフランチャイズ一号店を開業し、ドミナント出店戦略と高度なポイントオブセールスシステムの活用によって国内最大のコンビニチェーンへと急成長していった。業務提携から五年後には五百店舗を突破する圧倒的な店舗網拡大が進み、総合スーパー事業を二十年で二十七店舗展開したイトーヨーカ堂の成長速度とは対照的な伸びを実現した。 2005年9月にセブン&アイ・ホールディングスを設立しイトーヨーカ堂・セブンイレブン・デニーズの経営統合を実施、同年十一月に米国セブンイレブンを公開買付けで完全子会社化、ミレニアムリテイリング買収でそごう・西武を加えて、コンビニ・スーパー・百貨店・レストラン・金融の多業態小売コングロマリットを形成した。2021年のスピードウェイ買収で世界のコンビニ店舗数で圧倒的規模を誇るグローバル企業の地位を確立したが、2020年以降はバリューアクトからコンビニ事業への集中を求める対話が始まり、2023年には株主提案に発展、そごう・西武売却、ヨーカ堂店舗閉鎖、クシュタールによる買収提案、米国セブンイレブンのIPO準備着手、二兆円自社株買いという抜本的な事業再編と資本政策の連鎖が動き始めている。
- 帝人 — 1918年に鈴木商店の金子直吉の支援のもと帝国人造絹糸として米沢で設立され、レーヨン製造から出発した。鈴木商店の破綻を経て独立し、戦後は大屋晋三社長のもとでアセテート・ポリエステル・ナイロンと合成繊維に多角化、1971年にはレーヨンから完全撤退した。未来事業本部による新規事業探索を経て医薬品と高機能素材に軸足を移し、ベニロンやフェブリクで医薬品事業を確立。2000年のアラミド繊維事業買収でグローバル特殊繊維に進出し、素材・医薬・自動車部品の複合企業として事業ポートフォリオの再構成を続けている。
- 東レ — 東レの源流は1926年に三井物産の子会社として資本金1,000万円で滋賀県大津に設立された東洋レーヨンにあり、第一次世界大戦期に蓄積された三井物産の利益の投資先として選択された化学繊維事業が、琵琶湖水系の良質な水を求めて大津に進出したところから始まった。1951年には米デュポンとのナイロン技術提携契約にロイヤルティ前払い金300万ドルという当時の資本金を大きく上回る巨額投資を投じ、レーヨンから合成繊維メーカーへの事業構造転換を一気に進めた。1970年代の繊維不況期には他社が相次いで非繊維分野へ本業を切り替えるなか、藤吉次英社長が1975年に「脱繊維」を明確に否定し、繊維技術の深さから樹脂・フィルム・炭素繊維といった先端材料へと事業を派生させる独自の経営哲学が社内に定着した。 1971年販売開始の炭素繊維「トレカ」は約40年にわたって赤字を抱えたが、東レは撤退せず品質改良への投資を続け、2006年のB787主要構造材としての全面採用で航空機用炭素繊維における圧倒的地位を確立した。2014年の米Zoltek社買収、2018年のオランダTenCate社買収で産業用途への拡張を図ったが、風力発電向け需要の伸び悩みで収益化は道半ばに留まり、2024年にはPBR1倍割れ常態化を背景として特定事業改善プロジェクト「Dプロ」を立ち上げ投下資本効率の抜本見直しに踏み出した。2026年3月期には繊維セグメント売上収益1兆円を達成する一方、炭素繊維複合材料ではサプライチェーン在庫調整の長期化を抱え、次期中期経営計画の策定に向けた構造改革のトランジションイヤーを迎えている。
- クラレ — クラレは1926年に倉敷紡績の子会社「倉敷絹織」としてレーヨン生産を目的に創業した。1950年に日本初の国産技術による合成繊維ビニロンの工業化に成功し、1960年代から70年代にかけて人工皮革クラリーノ、ガスバリア樹脂エバール、イソプレンケミカルなど独自の高機能素材を連続的に開発。1970年に「クラレ」へ改称し、繊維メーカーから高機能素材メーカーへの転身を内外に宣言した。 2001年にレーヨン生産を停止して祖業と完全に決別し、同年のスイスClariantからのポバール事業買収を皮切りに、2012年の米MonoSol買収、2014年の米DuPontビニルアセテート事業買収でポバール世界シェア首位を確立した。2018年には米Calgon Carbon買収で活性炭事業にも進出し、売上高は3750億円から8000億円超へ倍増。「世のため人のため、他人のやれないことをやる」を企業理念に、ニッチ市場でグローバルトップを獲る戦略を一貫して追求してきた。
- 旭化成 — 旭化成の源流は1923年に日本窒素肥料が宮崎県延岡に設けたカザレー式アンモニア合成工場にあり、五ヶ瀬川の水力発電で得られた安価な電力を立地条件としてアンモニア・硫安・化学繊維・火薬という複数の事業が単一の化学技術から派生する独特の多角化構造を築いていた。1931年に野口遵が設立した延岡アンモニア絹糸が公式な設立年とされ、1933年の三社合併と1943年の日本窒素火薬との合併を経て、終戦後の財閥解体によって1946年に日本窒素コンツェルンから独立して旭化成工業が誕生した。水俣の工場はチッソへ引き継がれ、旭化成は後の水俣病の巨額賠償を免れることとなったが、1960年前後にはポリエステルなど合成繊維の普及でレーヨン・ベンベルグの競争力が低下し、1961年には売上高純利益率が1.3%まで急落する繊維不況を経験した。 1961年に社長へ就任した宮崎輝は31年間にわたって経営の中枢に座り続け、繊維事業の合理化で生み出した利益の範囲内で新規事業の赤字を許容する「健全な赤字部門」の経営哲学のもとで、石油化学・住宅・医療機器・医薬品・食品と幅広い事業基盤を築き上げた。しかし拡大一辺倒の経営は撤退判断の遅れという負の側面を伴い、1992年の宮崎急逝後には山本一元社長のもとでROE経営と非中核事業の売却が開始され、食品・酒類・化学繊維からの段階的撤退が進められた。2012年のZOLL買収を皮切りに、Polypore・Veloxis・Sage・Bionovaと続く約7000億円規模のヘルスケア・電池材料への大型M&Aが展開され、2026年にはマテリアル・住宅・ヘルスケアの三本柱体制のもと西日本エチレン体制再編を含むケミカル構造転換と自己株式取得という新局面を迎えている。
- SUMCO — SUMCOは1999年に住友金属工業と三菱マテリアル系が共同出資して生まれた統合会社で、シリコンウェーハ業界における日本側の最後の集約として登場した。2002年に三社の事業を束ねて発足し、わずか3年で東証一部上場まで駆け上がったが、その直後にリーマンショック後の半導体市況急落を受けて1,000億円超の純損失を計上した。 業績の回復を主導したのは2011年に就任した橋本眞幸で、長期契約による価格規律と300mm先端品集中の二つを軸に据え、AI需要が顕在化した2022年に売上4,410億円のピークを記録した。しかし年間3,000億円規模の設備投資を続けた結果、市況調整下のFY25は純損失に転落し、66年続けた小径ウェーハ事業からの撤退も決断した。
- ネクソン — 韓国で生まれたオンラインゲーム会社が、日本に上場会社の本籍を置き、業績の8割以上を韓国・中国で稼ぐ。2002年に東京で設立された日本法人が、3年後に韓国の親会社からPCオンライン事業を会社分割で引き取り、グループの事業持株会社になった瞬間から、ネクソンの不思議な構造は始まった。 『メイプルストーリー』と『アラド戦記』という2本のIPだけで20年以上売上を作り続け、2024年には4,462億円と過去最高を更新。それでも経営トップは韓国系創業者から米国人プロ経営者、そしてふたたび韓国開発出身者へと交代し、その都度「IPに集中する」という同じ答えを別の言葉で語り直してきた会社である。
- 王子ホールディングス — 1949年、過度経済力集中排除法は国内シェア80%・新聞用紙95%を握っていた王子製紙を3つに割り、苫小牧の1工場だけを抱えた小さな会社に転落させた。資本金4億円・社員数千人で再出発した同社が、合併と海外M&Aを四半世紀ごとに重ねて再び業界の頂点に戻るまでの道筋は、戦後日本の独禁政策が生み落とした最も長い「復元」の物語である。 そして2024年、その王子は売上1兆8,493億円の半分近くを海外で稼ぐ多国籍企業となり、フィンランドのサステナブル包装会社Walkiを買収した。新聞用紙で築いた帝国を、欧州の脱プラ市場で組み直そうとしている。
- 北越コーポレーション — 新潟県長岡市の紙卸商・田村文四郎らが北越製紙を設立し、信濃川流域の水力と稲藁を活かした板紙製造から出発した。戦後復興期に洋紙生産で国内五位の地位を確保し、新潟地震・中越地震の被災を乗り越えながら設備投資を継続した。二〇〇六年の王子製紙による敵対的買収を三菱商事との連携で退けたが、その代償として系列化と経営体制の長期固定化を招き、大王製紙の株式取得やオアシスとの株主対立という新たな緊張を抱えている。
- レンゴー — 井上貞治郎が国産初の段ボールを製造し「段ボール」の名称を生んだ創業者である。五社合併による聯合紙器の設立を経て日本の段ボール産業の基礎を築き、淀川工場の建設と地方工場展開で一貫生産体制を確立した。大坪清社長のもとでセッツの合併や朋和産業の子会社化、トライウォール買収など業界再編と多角化を推進し、段ボール業界を百年以上にわたり牽引している。
- レゾナックHD — 1934年に日本で初めてアルミニウム製錬の工業化に成功した電気化学のパイオニアは、1957年にフィリップス・ペトロリウムからポリエチレン技術を導入して石油化学に転じ、2020年に約9600億円を投じて日立化成を買収し、2023年には84年続いた昭和電工の社名を捨ててレゾナックに変わった。 三度の業態転換はいずれも基幹事業の限界に直面した末の選択だった。電力高騰で国内アルミ製錬は1986年に消滅し、出自の石油化学事業は2025年に子会社へ承継され、会社はいま半導体後工程材料の世界トップ企業として自己定義を書き換えている。創業以来一貫しているのは、外部技術の導入と大型買収を恐れない経営姿勢である。
- 住友化学 — 1913年に別子銅山の煙害対策として亜硫酸ガスから硫酸を回収し肥料を作るために新居浜で始まった事業は、110年後の2024年3月期に営業赤字4,888億円・最終赤字3,118億円という戦後最大級の損失を計上した。煙害解決という出発点は、戦後アサハン・シンガポール・サウジラービグと続く国家プロジェクト型の海外石化に姿を変え、最後にその清算費用が経営を直撃した。 その110年の間に住友化学は1958年に他社に先駆けて石油化学へ進出し、農薬スミチオンとピレスロイド系殺虫剤で世界シェアを握り、住友製薬を分離独立させて医薬の柱を育て、韓国の東友ファインケムでディスプレイ材料の有力地位に就いた。多角化と縮みの判断は10年単位で振れ、その振幅の大きさが住友化学の歴史そのものになっている。
- 日産化学 — 日産化学の源流は1887年、高峰譲吉・渋沢栄一・益田孝ら明治の財界人が化学肥料の国産化を目的に設立した東京人造肥料会社にあり、日本初の化学肥料メーカーとしての創業以来、農業化学品という主戦場を一貫して保持し続けてきた。大正期の業界再編と1937年の日産財閥傘下入りを経て、戦後に独立企業として再出発した後も、同社の経営史はつねに自社の事業ポートフォリオを根底から問い直す決断の連続であった。1965年に満を持して参入した石油化学事業は、1973年のオイルショックを境に構造不況の中で二期連続赤字に転落し、1988年には中井武夫社長の決断のもと全三部門からの完全撤退という、当時の石油化学業界でも類を見ない判断によって主力事業を丸ごと手放す道を選んだ。 撤退後は農薬・医薬品・機能性材料という三本柱に経営資源を集中する高付加価値路線へと方針を転換し、シリウスやサンマイトなどの農薬、ランデル・リバロといった医薬品、そして半導体向けコーティング材料や液晶向け配向膜材料といったニッチながら代替不能な機能性素材を相次いで投入して収益構造を作り変えた。2018年の商号変更を経てグローバル展開を加速し、2024年3月期には営業利益率約17パーセントを達成する高収益体制を確立するに至った。2025年以降はフルララネル原薬の独占契約満了を控え、MAH社との動物薬協業の深耕、ベルダーやライゾニックといった新規除草剤の上市、そしてバイオ農薬のグローバル展開によって、ロイヤリティ消失後の利益構造を再設計する次の局面に踏み出している。
- 東ソー — 山口県の海辺で1935年にソーダ灰を焼き始めた1社1工場の会社が、35年後に四日市へ二本目の脚を伸ばし、55年後には合併で売上を3300億円規模へ押し上げた。三度の地理的・組織的ジャンプの度に、東ソーは「ソーダ専業」「総合化学」「機能商品メーカー」へと姿を変えてきた。 2025年3月期の連結売上高1兆633億円のうち、伝統のクロル・アルカリ事業の営業利益はほぼゼロに沈み、代わりに機能商品とエンジニアリングが利益の8割を稼ぎ出す構造となった。基盤事業が稼げない局面で会社を支える収益源を入れ替えてきた90年の歴史が、この姿に重なっている。
- トクヤマ — 1918年に輸入アルカリの国産化を旗印に山口の港町で生まれた日本曹達工業は、ソーダ灰の市況崩壊で発足直後から赤字続きとなり、1932年に苛性ソーダへ転換して延命した。徳山工場の副生石灰がセメントを呼び、コンビナートの塩素がポリプロと塩ビを呼び、化成品・セメント・樹脂の3本柱が積み上がっていった。 1984年に始めた多結晶シリコンと1978年に種を蒔いた歯科器材は、30年後にまったく違う表情で実を結ぶ。太陽電池向けに賭けたマレーシア工場は2016年に1006億円の純損失を出して事実上ゼロ円譲渡で撤退、一方で歯科のオムニクロマと半導体先端品向け多結晶シリコンは2020年代の再建を支える柱に育った。同じ「先端への賭け」が、なぜ片方では沈み、片方では浮いたのか。
- デンカ — 第1次大戦による石灰窒素の輸入途絶を機に、三井資本が一人の科学者の発明を引き取って1915年に立ち上げた電気化学工業は、カーバイドを起点に塩ビ・クロロプレン・セメント・石化・電子材料・医薬と110年で枝葉を増やし続けてきた。世界で3社目となるクロロプレンゴム企業化や、東芝から譲り受けた小さな医薬子会社が後のがん治療薬につながるなど、素材一筋の会社が偶然の選択で次の柱を引き当ててきた歴史でもある。 その結果が、2014年に三井物産と組んでDuPontから引き取った米国クロロプレンゴム拠点と、2025年に発表されたその暫定停止である。同じ年にセメント事業も72年の歴史を畳み、戦後初の純損失123億円を計上した。「日本になければ、つくればよい」を旗印にしてきた素材総合化学が、Mission2030という名のスペシャリティ集約計画の下で、自分たちが築いた事業の半分を意図的に手放しつつある。
- イビデン — イビデンの源流は1912年に立川勇次郎が岐阜県大垣市に設立した揖斐川電力株式会社であり、揖斐川の水力資源を活用した発電事業を出発点としている。安価な電力を武器に大日本紡績をはじめとする紡績工場を地域に誘致し、発電と電力需要創出を同時に設計する地域産業モデルによって高度経済成長期まで大垣の繊維産業を支え続けた。1917年に大垣工場を新設してカーバイド製造を開始し垂直統合型の事業モデルを築いたが、戦時中の水力発電会社の統合再編で1942年に売電事業から完全撤退してカーバイド専業への転換を余儀なくされた。1960年には建材分野としてメラミン化粧板の製造を開始し、この工程で培ったエッチング技術がのちのプリント配線板参入の技術的基盤となっていった。 1970年のプリント配線板参入と1987年のプラスチック製パッケージ基板事業開始を経て、1991年に最後の電気炉の火が消えカーバイド事業から撤退した時点で、イビデンは半導体関連部材メーカーへと本質的な転換を遂げた。1994年発足のインテル攻略プロジェクトでは全社の研究開発予算と40代のエース社員50名を集中投入し、1995年のインテル素材転換決定と噛み合う形で1996年に大量受注を獲得、過去最高益を連続で達成する歴史的成功を収めた。2017年には約600億円の構造改革費用計上による最終赤字を経ながら翌年には直ちに投資を再開し、データセンター需要の拡大を取り込んで2022年3月期にはインテル向け売上が約1736億円に達した。近年はAIサーバー向けICパッケージ基板で70〜80%という圧倒的シェアを掌握する先端半導体部材メーカーへと変貌を遂げつつある。
- 信越化学工業 — 信越化学工業は1926年9月、信濃電気の越寿三郎と日本窒素肥料の野口遵が提携して設立した信越窒素肥料株式会社を源流とする化学メーカーであり、長野県の余剰電力を石灰窒素という肥料に転換する限定的な事業構想から出発したにもかかわらず、昭和恐慌による操業休止、小坂家経営下での再建、社名変更という試練を経て肥料会社から素材メーカーへの転換を果たした稀有な企業である。戦後1953年にGE社との技術契約で日本初のシリコーン量産を開始し、1957年には国内最後発で塩化ビニル事業に参入、1967年にはダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立して半導体シリコン製造にも乗り出すなど、肥料から素材へ技術の隣接領域を連鎖的に広げる成長パターンを確立した。 1973年に米国テキサス州に設立した塩ビ合弁会社シンテックを、1976年の合弁解消時に小田切新太郎社長の判断で100パーセント子会社化し、1978年に金川千尋が同社長に就任して以降は「フル生産、全量販売」と「常在戦場」を掲げて不況時にも減産せず増産投資を続ける逆張り経営を50年にわたり一貫して維持し続けた。金川体制下では15期連続増益、連結売上高約3倍、営業利益率30パーセント超、時価総額約22倍という「失われた30年」の日本企業として群を抜く実績を叩き出し、シンテックは2001年に世界最大の塩ビメーカーとなった。2023年に金川が96歳で逝去したのちも同じ経営哲学は斎藤恭彦現社長のもとで継承され、2025年にはAI向け半導体材料の需要拡大と原材料コスト管理、そして1400億円規模の売出と自己株式取得を軸とした資本政策の更新という新しい局面に踏み出している。
- 日本触媒 — 八谷泰造がバナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に成功し、ヲサメ合成化学工業として創業した。爆発事故を乗り越えて国内シェア七〇パーセントを確保し、石油化学への原料転換とアクリル酸の国産化を経て、一九八五年に高吸水性樹脂の製造に参入した。紙おむつ市場の拡大に乗りグローバルなシェアを獲得したが、三洋化成との経営統合は業績格差の拡大により白紙撤回された。触媒技術を基盤に化学品と機能性材料を展開する。
- 協和キリン — 協和キリンの源流は1936年、宝酒造・合同酒精・日本酒類の三社が共同出資して東京渋谷の幡ヶ谷に設立した協和化学研究所にあり、宝酒造から派遣された加藤辨三郎が糖蜜からブタノールを製造するという発酵技術の軍需転用に挑んだことが事業の出発点となった。戦後の1949年に協和発酵工業として再出発した同社は、1951年にメルク社との技術提携でストレプトマイシンの製造を開始して医薬品事業に本格参入し、1960年代から1980年代にかけて医薬品・酒類・化学品・食品という四事業部体制を築き、発酵技術という共通基盤のもとで多角化経営を営む独特の企業体として成長していった。1991年のコニール発売など循環器領域への進出も進み、発酵バイオ技術を核に据えた企業としての地位を確立していった。 2001年から2008年にかけて同社は非中核事業の段階的分離を断行し、ヤンセン協和売却、酒類事業のアサヒビール譲渡、化学品事業と食品事業の分社化を経て、2008年にはキリンHDのTOBを受け入れて同社の子会社となるという重大な転換点を迎えた。同年10月にキリンファーマとの合併で協和発酵キリンとなり、その後2019年には高収益子会社の協和発酵バイオをキリンHDに売却して医薬品単一事業会社としての性格を鮮明にした。抗体医薬を軸にCrysvita・Poteligeo・Libmeldy・フォゼベルといったグローバル戦略品を育てるスペシャリティファーマへの転換を進めつつ、2025年には特別希望退職制度の導入と韓国・中国市場の事業再編を経て、2026年以降の次期中期経営計画における新たな成長軌道の設計が最重要課題として経営の前面に浮上している。
- 三井化学 — 1955年の設立から70年、三井化学は石油化学産業の宿命である設備過剰と再編に直面し続けてきた。岩国大竹のエチレンを浮島化学に集約し、三菱化学発足の2年後に三井東圧と合併し、住友化学との統合は3年で撤回した。再編の波が来るたびに合従連衡の相手を変えながら、汎用品依存からの脱却を試みてきた70年史である。 リーマン後には3期連続の純損失を経験し、淡輪敏が構造改革で営業利益1021億円まで戻した。橋本修は石油化学と成長領域を「別の塊」と切り分け、千葉地区では出光興産との27年度クラッカー集約を進める。70年前に三井系8社で始めた共同事業が、いま業界数社への収斂を主導する立場へと回り始めている。
- 三菱ケミカルグループ — 2005年に三菱化学と三菱ウェルファーマの統合で発足した会社は、その後20年間で三菱樹脂・三菱レイヨン・大陽日酸・田辺三菱を次々と呑み込み、売上4兆円超の総合化学最大手に成長したが、取り込むことと一体化することは必ずしも同時には進まなかった。 2017年にようやく事業会社3社を統合してもなお、ERPは10種類以上が併存し、米国から日本の製品を発注できない状態が残った。外国人社長を招いた急進改革は経営と従業員の心の乖離を生んで頓挫し、2024年に生え抜き筑本学が「つなぐ」を旗印に現実路線へ揺り戻すことになった。
- UBE — 1897年に山口県宇部で資本金4.5万円の沖ノ山炭鉱として始まったUBEは、創業者・渡辺祐策が「炭を掘り尽くせば宇部の町は滅びる」と語った言葉のとおり、石炭が枯れる前に機械・セメント・化学へ多角化した。1942年に宇部発祥の4社を合併して宇部興産が誕生し、戦後はセメントと化学量産品を二本柱に総合素材企業へと拡大した。 ところが祖業を生んだ論理は、80年後に祖業そのものを切り離す論理に転じた。2022年4月、社名を80年使った宇部興産からUBEに変え、同時にセメント関連事業をUBE三菱セメントに承継して連結から外した。さらに2025年には1955年に始めたカプロラクタム、1968年に建てたアンモニア工業の国内停止を前倒しで決めた。「石炭が枯れる前に多角化する」は、「化学量産品が枯れる前にスペシャリティへ転換する」と形を変えて反復されている。
- 野村総合研究所 — 調査報告書を書く会社と、計算機を動かす会社。出自も商品も違う2社が1988年に合流して現在のNRIが生まれた。「リサーチとIT」という他のSIerが持たない二枚看板が、野村證券を起点とする金融機関の電算化と結びつき、上流のコンサルと下流の運用を1社で抱える独自モデルが定着した。 2001年の東証一部上場以降、収益の柱は研究レポートではなく金融ITの共同利用型運用へ移った。営業利益率は大企業向けSIerとして破格の15%超を維持し、2024年の社長交代後も国内DX投資の追い風で17%台に乗っている。一方で海外比率は16%前後に張り付いたままだ。
- 電通グループ — 1901年に通信社と広告代理店を抱き合わせで創業し、戦時統制で通信を失って広告専業に追い込まれた会社が、戦後70年かけて世界5位のメガ・エージェンシーへ駆け上がった。決定打となったのは2013年の英Aegis買収で、買収規模は約4,000億円、日本の広告会社が本気でグローバル化に踏み切る最初で最大の賭けだった。 そして2024年と2025年、その賭けの請求書が届く。海外のれんに2年連続で計6,300億円超の減損、最終赤字3,276億円、上場後初の無配。買収で手に入れた成長エンジンが収益を生まなくなり、社長五十嵐博は自社のM&A戦略を公式に否定する中期計画を出すに至った。100年以上にわたり広告で世界を追ってきた電通は、グローバル化の頓挫により厳しい局面に立たされている。
- メルカリ — 山田進太郎がスマートフォン特化型のフリマアプリ「メルカリ」を開発し、テレビCMと大型資金調達で急成長して日本のCtoC市場を開拓した。二〇一八年に東証マザーズに上場したが、米国子会社での累計百八十一億円の減損や不正決済問題にも直面した。メルペイの設立で決済領域に進出し、あと払いサービスの拡大でプラットフォームの金融化を進めている。
- 花王 — 長瀬富郎が東京日本橋で石鹸と輸入文具の小売業として創業し、流通から製造へと事業領域を拡大した。合成洗剤への転換と販社改革で強固な流通網と情報基盤を構築し、紙おむつ・化粧品・化学品へと多角化を進めた。EVA経営やトータルコストリダクションなど独自の経営手法で高収益体質を維持し、二〇〇六年のカネボウ化粧品買収で化粧品大手にも躍進した日用品・化学品メーカーである。
- 武田薬品工業 — 初代武田長兵衛が大阪道修町で薬種商として創業し、和漢薬の仲買を百三十年以上にわたり営んだ。第一次世界大戦での輸入途絶を機に自社製造に転じ、大衆薬アリナミンで国民的ブランドを確立した。リュープリンの成功で創薬型国際企業への転換を果たし、武田國男社長の多角化事業売却を経て、二〇一九年のShire買収で世界トップ十入りを実現した。希少疾患・血漿分画製剤を中核とするグローバル製薬企業である。
- アステラス製薬 — 1923年に大阪の薬種商として始まった山之内製薬は、戦後上場と国内工場拡張を経て1980年代に欧州へ進出、2005年に同じ大阪発の藤沢薬品工業と合併してアステラス製薬となった。合併の狙いは国内首位級の規模を背景に研究開発と海外販売を一気に世界水準へ引き上げることにあった。 転機は2010年のOSIファーマシューティカルズ約4000億円買収である。前立腺がん治療薬XTANDIの伸長で2015年3月期に売上1兆3727億円・純利益1936億円の最高益を出したが、2017年に就任した安川健司は「自前主義では勝てない」と外部導入路線を加速し、2023年のIVERIC bio約8000億円買収と相次ぐ開発中止が重なり2024年3月期の純利益は170億円まで落ち込んだ。
- 住友ファーマ — 道修町の薬種商21名が1897年に立ち上げた小さな製薬所は、108年後に住友グループの製薬部門と合併し、北米で26億ドルを投じてラツーダの国を作り上げた。だがその拡大の速度は、特許切れの崖を渡りきる足場を築く前に、自らの足元を崩した。 2024年3月期に計上した3,150億円の純損失は、2005年合併以降に積み上げた北米M&Aののれんを一気に焼き払う規模だった。1年後の2025年3月期、同社は236億円の黒字に戻り、アジア事業を720億円で売却して米日2拠点へ縮約した。拡大と清算が、ほぼ同じ20年間に同居している。
- 塩野義製薬 — 1878年に大阪・道修町の薬種問屋として始まった塩野義は、和漢薬から洋薬、自社製造、製薬専業へと業態を変えながら130年を生き延びた老舗である。その老舗が、2008年に研究開発出身の手代木功を社長に据えた瞬間から、疾患領域を感染症一本に絞るという異例の選択と集中に踏み切った。 ViiV社からのHIVロイヤリティで利益体質は一変し、2018年3月期に営業利益1,386億円・営業利益率38%に達した。2022年11月には国産初の経口COVID-19治療薬ゾコーバが緊急承認され、2023年3月期売上は4,267億円と20年越しに過去最高を更新。2025年3月期には総資産1兆5,353億円・自己資本1兆3,619億円まで膨らんだ。「感染症で世界と戦う」一本のテーマが、財務構造を作り変えた歴史である。
- 中外製薬 — 1925年、上野十蔵が中外新薬商会として創業し、ドイツ製薬品の輸入代理から注射薬の自社製造へ転換した。戦後は解毒剤グロンサンで経営基盤を築いたが単一製品依存により1966年に無配転落を経験。1970年代からバイオ研究に着手し、1991年のノイトロジン上市で遺伝子組換え製剤の技術を蓄積した。2002年にスイス・ロシュと戦略提携を締結して過半出資を受け入れ、創薬と初期開発に特化する事業モデルを構築。アクテムラやヘムライブラなどの抗体医薬品を世界市場に送り出し、バイオ製薬企業への転換を果たした。
- エーザイ — エーザイは武田・三共・塩野義といった大手より一周り小さい中堅として、抗生物質の価格競争から距離を取り、競合の少ない循環器系と神経系に研究を絞ることで生き延びてきた。その絞り込みが1974年のノイキノン(世界初の代謝性強心剤)、1997年のアリセプト(世界初のアルツハイマー治療剤)、2023年のレケンビ(世界初の疾患修飾療法)と、ほぼ四半世紀おきの「世界初」として結実してきた。 特に認知症領域では、アリセプトで切り拓いた医師ネットワークと診断パスウェイを26年かけて磨き続け、レケンビ時代にそのまま参入障壁として効かせている。先発の大手が手を出しにくい領域を選び、そこで腰を据えて待ち続ける──エーザイの強さはこの一点に集約される。
- ロート製薬 — 1899年、山田安民が信天堂山田安民薬房として創業し、胃腸薬「胃活」の製造販売で出発した。1909年に点眼薬「ロート目薬」を発売して眼科領域に参入し、胃腸薬と目薬の二本柱で国内大衆薬市場のシェア首位を確立した。1975年にメンソレータムの商標使用権を取得して第三の収益源を獲得し、1988年には米メンソレータム社を買収してブランド主権を掌握。2001年以降はスキンケアに本格投資し、東南アジア・中国への生産拠点展開を進めた。創業家・山田家5代にわたる同族経営のもと、大衆薬メーカーから総合ヘルスケア企業への転換を推進している。
- テルモ — 1921年、北里柴三郎ら医学者が国産体温計の自給を志して設立した「赤線検温器」が、テルモの出発点である。輸入依存だった医療現場に国産品を供給する「不足を埋める」事業から始まり、1963年のディスポーザブル注射筒で同社は供給者から市場創出者へと立場を変えた。 1971年の欧米拠点設置から半世紀、買収で取得した3M人工心肺・カリディアンBCT・ボルトンメディカル等を束ね、心臓血管・血液血漿・ホスピタルの3カンパニー体制を作り上げた。FY24売上収益は1兆361億円、営業利益1,576億円。検温器1本だった会社が、海外売上比率7割超の医療機器メーカーへと変質した過程は、買収と現地化の連続であった。
- 第一三共 — 2008年、第一三共はインドのランバクシーを約5000億円で買収し、新興国ジェネリックで世界に打って出ようとした。翌2009年3月期、同買収に伴う減損を主因に純損失2155億円を計上し、統合からわずか4年で巨額の穴を開ける。 しかし同じ時期に社内では15人規模の小さなチームがADC(抗体薬物複合体)の研究に着手していた。その技術が2020年に「エンハーツ」として結実し、2024年3月期には売上1.6兆円・営業利益2116億円、ADC関連売上だけで約4000億円へと拡大した。
- 大塚HD — 1921年に徳島の塩田地帯で輸液工場として出発した大塚は、医薬品メーカーが酒販ルートでオロナミンCを売り、輸液の発想で「飲む点滴」ポカリスエットを作り、米国のサプリ会社を買ってネイチャーメイドを取り込み、自社創製の抗精神病薬エビリファイで世界の中枢神経市場に入り込んだ。普通は同居しない医薬と消費財を、100年かけて一つの工場リテラシーで束ね続けた会社である。 通底するのはリスクの取り方である。医薬メーカーが酒販ルートに踏み込むのも、国内にサプリ市場がない時代に米Pharmaviteを買うのも、競合の少ない中枢神経領域に開発資源を集中させるのも、すべて「外す時は大きく外す」賭け方だ。エビリファイ以後はその賭けが減損として周期的に顕在化し、FY23には1724億円の評価損を計上する。それでも事業利益は年率2桁で伸び、FY24は売上2.3兆円・営業利益3235億円と過去最高を更新した。
- 日本ペイント — 日本ペイントの源流は1881年10月、開成学校で化学を学んだ茂木重次郎がドイツ人化学者ワグネルから塗料製造技術を習得したうえで東京芝区三田四国町に創業した共同組合「光明社」にあり、日本で初めて洋式ペイントを国産化した塗料メーカーとして事業を開始したものの、創業時の唯一の顧客が海軍であったという極めて限定的な需要構造の脆弱さが戦前期を通じて経営を制約し続けた。1898年の日本ペイント製造設立を経て1917年の経営危機を乗り越え、大阪支店長出身の小畑源三郎から長男の小畑千秋へと引き継がれた小畑家が約60年にわたって経営を担い、戦後の高度成長期には自動車生産の急増を背景に関西ペイントとの二社寡占を形成して国内塗料業界の巨人としての地位を確立していった。 1962年にシンガポールでチャロン・ポカパン社との合弁事業を開始したことが長期的な転機となり、のちに呉清亮の創業したウットラム社が合弁相手を継承してNIPSEAグループを形成、60年にわたる日本ペイントとの協業の果てに2014年にはウットラムによる第三者割当増資を受け入れてアジア合弁事業の連結化を断行した。2021年には1.3兆円規模の増資でウットラムの出資比率は過半に達し、資本の完全な逆転が実現した。豪Dulux社や欧Cromology HDの大型買収を経てアジア・オセアニア・欧州にまたがるグローバル塗料企業への構造転換が進行中であり、2025年の決算では中国市場の弱含みを背景にプレミアム戦略と地域別の差別化施策によって利益成長を追求する新局面を迎えている。
- オリエンタルランド — 1960年設立。京成電鉄社長の川崎千春がディズニーランド誘致を構想し、浦安沖の漁場埋立から事業を開始した。15年の用地造成と三井不動産の反対を経てディズニー社との独占ライセンス契約を締結し、1983年に東京ディズニーランドを開業。出資なしのロイヤリティ方式という世界唯一の契約形態のもと、2001年の東京ディズニーシー開業で2パーク体制を確立し、入園料の段階的値上げと大型投資で収益を拡大し続けている。
- ヤフー — 1996年にソフトバンクと米Yahooの合弁で設立され、ディレクトリ型検索をもとに日本最大のポータルサイトへ成長した。PV最大化による広告モデルで高収益を実現し、Yahoo!オークションでCtoC市場を寡占したが、スマートフォン対応の遅れで2008年以降は成長が鈍化した。2012年の爆速経営で世代交代を断行し、EC無料化やPayPay設立、ZOZO・LINE統合を通じてプラットフォーム経済圏の再構築を推進している。
- トレンドマイクロ — 台湾発のアンチウイルスベンダーが、創業から8年足らずで本社機能を東京に移し、日米二重上場という当時のセキュリティ業界では異例の資本構成を手に入れた。PCを守る会社として出発した会社は、2016年のTippingPoint買収と2019年のCloud Conformity取得を経て、エンドポイント・ネットワーク・クラウドを串刺しにする多層プラットフォームへ姿を変える。 2020年代に入り、その多層化は「Vision One」という単一プラットフォームへ集約され、さらに自動車VicOneとWistronとの合弁を通じてAIインフラ・主権AIまで守備範囲を広げた。36年で守る対象は、ディスク上のファイルから国家のAIデータセンターへと動いている。
- サイバーエージェント — 1998年、24歳の藤田晋がインターネット広告の営業代行で創業し、クリック保証型広告「サイバークリック」で広告会社への転換を果たした。2000年に東証マザーズに上場して207億円を調達したが、ITバブル崩壊後は赤字が続き、村上ファンドの株主提案や終身雇用宣言など独自の経営判断で局面を打開した。2011年のスマホシフト宣言でモバイル対応を断行し、ゲーム事業を急拡大。2015年にはAbemaTVを設立してインターネットテレビに巨額投資を継続し、広告・ゲーム・メディアの三本柱で事業を構成している。
- 楽天グループ — 月額5万円の固定料金で13店から始めた仮想商店街は、ショッピング・旅行・金融を1つのIDとポイントで束ねる「楽天経済圏」へと姿を変えた。在庫を持たないノータッチモデルで業種をまたいでクロスユースを生み出す設計が、連結売上を2兆4965億円、総資産を28兆円まで押し上げた中核ロジックである。 その経済圏を毎月の通信契約という最強の接点で囲い込むため、2019年に第4のMNOとして自前基地局網に踏み出した。2020〜2022年の累計純損失は8400億円、有利子負債は3兆4000億円まで膨らんだ末、2025年3月期にモバイルEBITDAが黒字化し、契約1000万回線と2年連続の営業黒字に到達した。
- 富士フイルム — 富士フイルムの源流は1934年9月、写真フィルムの国産化を旗印として大日本セルロイドから分離独立する形で設立された富士写真フイルム株式会社にあり、創業直後の1936年に量産の失敗という深刻な経営危機を経験しながらも1938年に小田原工場を新設して生産体制を立て直し、戦後にはフジカラーサービスを拠点とした全国4大特約店体制を築いて日本の写真フィルム市場を段階的に制覇していった稀有な企業史を持つ。1962年には米ゼロックスとの合弁で富士ゼロックスを設立して複写機事業に参入し、1965年のN100に始まるカラーフィルム開発、1976年のF-II 400による国際技術優位の確立、1981年のX線画像診断システムFCRによる医療画像分野の蓄積を経て、1985年には写真フィルムの国内シェア70パーセントに達して同市場の圧倒的な勝者としての地位を確立した。 2000年代初頭のデジタルカメラ急成長によって写真フィルム市場が文字通り消失する未曽有の構造変化に直面し、古森重隆前社長のもとで富士ゼロックスの連結化・持株会社体制への移行・富山化学買収による医薬品参入・Merck社CDMO事業の取得・SonoSite買収といった大胆な事業転換を連鎖的に断行して危機を乗り越えた。2018年の米ゼロックス買収頓挫を経て2019年には富士ゼロックスの完全子会社化でドキュメント事業を完全に取り込み、バイオCDMOの設備拡張と日立画像診断事業の取得によってヘルスケアをさらに強化、後藤禎一現社長のもとで2026年3月期にはEM事業とバイオCDMO事業が新たな成長エンジンとして機能する複合型テクノロジー企業としての姿を確立しつつある。
- コニカミノルタ — 写真材料の老舗だった小西六が、デジタルカメラの普及で祖業を失ったあと、ミノルタとの経営統合で複写機メーカーに生まれ変わった。だが情報機器一本足の収益構造は2010年代に陰りはじめ、米遺伝子診断会社Ambry Geneticsへの大型M&Aで多角化を狙うも、巨額減損として跳ね返った。 2017年の買収から7年後の2024年、Ambryを売却し人員5,200名を削減して、ようやく構造改革を完遂した。FY24は営業損失640億円・当期損失475億円という「決算改革年度」と引き換えに、FY25第3四半期累計で事業貢献利益347億円まで回復している。
- 資生堂 — 資生堂の源流は1872年9月、薬剤師免許第一号を取得した福原有信が東京銀座の商業動線の中心に開業した資生堂薬局にあり、日本で初めての民間洋式調剤薬局として出発した同社は、1888年の石鹸製造販売、1897年の化粧水オイデルミン発売を経て調剤業から化粧品事業へと段階的に軸足を移し、1915年の商標「花椿」の考案と1923年のチェインストア方式導入によって日本の化粧品流通を組織化する独自の事業モデルを築き上げ、1927年の株式会社化を経て戦後の全国展開の土台を固めていった。1952年策定の躍進五ヵ年計画と1964年の国内化粧品シェア首位獲得を経て、日本市場における圧倒的な勝者としての地位を築き上げると同時に、販社・チェインストアを軸とする独特の流通統制システムを完成させた。 1986年の仏カリタ社買収を皮切りに海外M&Aを積極化し、1997年の再販価格維持撤廃によって流通構造が大きく変わる中で、2000年代には前田新造社長のもとでメガブランド戦略を展開して国内事業の再建を果たした。2010年の米ベアエッセンシャル買収、2019年のDrunk Elephant買収を経てグローバルプレステージ市場での存在感を強化した一方で、2021年のパーソナルケア事業売却と米国3ブランドの譲渡によって低価格帯からの撤退とスキンケア集中の戦略を明確化させた。中国市場の需要変動と米州事業の苦戦という外部環境のなかで、藤原憲太郎現社長の経営体制下では資本効率改善とコスト削減を両立する構造改革の実行と、2026年の財務基盤改善と次期成長段階への移行という二つの課題に正面から向き合う局面を迎えている。
- 出光興産 — 1911年に門司で機械油販売から始まった出光は、国際メジャーと国の統制の双方に逆らう独立路線で戦後の石油業界を歩んだ。1953年には国際紛争下のイランから原油を運び出し、1963年には生産調整に反発して石油連盟を脱退し、2006年まで上場せず非公開の民族系最大手として異例の立ち位置を保った。 その反骨の独立路線は、2010年代の需要縮小と原油急落で転機を迎えた。2015年3月期には営業赤字1,048億円・純損失1,380億円を計上し、翌年には昭和シェル石油株31.3%を取得して創業家との対立を呼びながらも、4社体制を2社体制に塗り替える再編の主導者へ転じた。独立にこだわった会社が、業界全体の生存戦略を決める側に回るまでの約110年を追う。
- ENEOS HD — 1888年に内藤久寛らが新潟で創業した有限責任日本石油会社を源流とし、1999年の日本石油と三菱石油の合併、2010年の新日本石油と新日鉱ホールディングス統合によるJXホールディングス発足、2017年の東燃ゼネラル吸収による国内元売シェア50%超の寡占化と、石油業界の再編史そのものを体現してきた。 2015年3月期には資源価格下落で営業赤字2,189億円、純損失2,772億円を計上し、統合直後から市況耐性を問われる局面を迎えた。2020年のENEOSホールディングスへの商号変更と2025年のJX金属分離上場により、油とブランドと非鉄という三つの源流を、脱炭素時代に合わせて再び解きほぐす作業が進んでいる。
- 横浜ゴム — 電線会社の多角化として米B.F.グッドリッチ社と組んで生まれた合弁会社は、創業6年目で関東大震災により最初の工場を、終戦の年に2代目工場を空襲で失った。戦後は古河の手を離れて独立し、平塚8万坪に総合工場を構え直す。 ただし量産化ではブリヂストンに先を越され、国内3位の座が半世紀以上続いた。停滞を破ったのは2016年のAlliance Tire買収から始まる農機・産業用タイヤ(OHT)への大型M&A三連発で、2024年に売上1兆円を突破し2025年には1兆2200億円計画に到達した。
- ブリヂストン — 1931年、石橋正二郎が日本足袋の事業部からタイヤ製造を独立させ、福岡県久留米市にブリッヂストンタイヤ株式会社を設立した。地下足袋で培ったゴム技術を自動車用タイヤに転用し、戦後のモータリゼーションに乗じて国内シェアを拡大。1961年の上場まで30年間非上場を維持し、石橋家は富裕税納付で日本1位となった。1988年に米ファイアストンを買収して世界有数のタイヤメーカーに躍進し、品質問題やリストラを乗り越えてグローバル経営体制を構築した。
- AGC — 1907年に三菱の支援で板ガラスの国産化に挑んだ旭硝子は、1981年のグラバーベル買収で欧州・北米・アジアの三極体制を組み上げ、2009年にはスマートフォン向け化学強化ガラスを立ち上げてディスプレイ・電子部材の高付加価値路線へ舵を切った。素材を磨き上げて単価を取りにいくのが、この会社の本来の戦い方である。 その本業の上に2016年から積み上げたのがバイオ医薬品CDMOで、2018年の社名変更と並走して欧米三極を一気に揃えた新事業の柱だった。だが2024年12月期に同事業で1,248億円の減損を計上、2025年にはコロラド拠点から撤退してシングルユース技術へ絞り直す。本業のガラスは依然として稼ぐ一方、買収で築いた新事業には早くも課題が突き付けられている。
- 日本電気硝子 — 1949年に日本電気(NEC)から分離独立した従業員90名の中小メーカーが、1965年にCRT専用工場を社運を賭けて滋賀県湖北に建設した。3代社長長崎準一の「やる以上はその性格にふさわしい規模でやる必要がある」という判断は、国内CRTガラスで旭硝子と並ぶ2社体制を築き、FY1981には売上の54%をCRTに依存する構造を生んだ。 1987年に始めたTFT液晶基板ガラスが2000年のオーバーフロー法採用で主力に育ち、FY07には売上3,683億円・営業利益1,009億円のピークに達した。しかし液晶基板の価格下落と韓国・台湾勢との競争で、14年後のFY14には売上が半減。2017年にPPGから買収した欧州ガラス繊維事業は2019年に減損、2023年には韓国拠点整理と純損失261億円、2025年には英国拠点を撤退 ── 主力交代の代償を繰り返し払いながら、半導体関連と超薄板ガラスへ重心を移している。
- 太平洋セメント — 1883年に官営工場を借り受けた浅野総一郎、1881年に山口小野田で創業した笠井順八、1923年の秩父セメント ── 明治期以来3つの系譜に分かれて競い合ったセメント会社は、1994年に小野田と秩父が、1998年に秩父小野田と日本セメントが合流し、1社に束ねられた。国内需要が2005年度の5,909万トンから2024年度3,266万トンへ45%減少した市場で、統合は延命ではなく選択肢だった。 統合後の太平洋セメントは1990年買収の米カルポルトランドを収益柱に育て、国内の需要縮小を海外と値上げで埋め合わせる構造を作った。しかしリーマンショック後のFY08は純損失353億円、2023年3月期もエネルギー高騰で純損失332億円、2026年3月期はフィリピン子会社で減損損失244億円 ── 統合で得た規模は、同じ規模の損失を周期的に受け止める器にもなっている。
- 東海カーボン — 1918年、名古屋電燈を経営していた福沢桃介は、木曽川水系に築いた水力発電所の余剰電力の出口を探していた。顧問技術者の寒川恒貞は電気製鋼を提案し、その電気製鋼所で消費される米アチソン社製黒鉛電極を国産化するため、資本金50万円の東海電極製造を設立した。電力の副産物として生まれた会社が、100年後に連結売上3,404億円の炭素専業メーカーに成長した出発点である。 電極とカーボンブラックの2枚看板で高度成長・自動車産業・プラザ合意後の円高を乗り越え、2017年には米SGL買収で電極事業のアジア・北米・欧州3極体制を実現。2018年の電極市況急騰で純利益734億円という過去最高益に達した。しかし7年後のFY24には特別損失769億円と純損失565億円を計上し、2025年6月に国内滋賀工場の電極生産中止と独Tokai Erftcarbonの譲渡を決定 ── 買収で掴んだ欧州拠点を自ら手放すことになった。
- TOTO — 1917年、小倉の丘に「東洋陶器」という会社が建った。洋風建築の便器を国産化するためだけの会社は、設立から数年赤字を続け、1923年には減資を迫られた。それを救ったのは皮肉にも関東大震災で、瓦礫の復興需要が衛生陶器市場を初めて作った。 その50年後、同じ会社が温水洗浄便座というまったく新しいカテゴリーを発明し、さらに45年後にはその商品名がオックスフォード英語辞典に載る。一方で進出40年の中国大陸では工場の4割を閉める。水回りの国産化から出発した企業が、世界と国内それぞれで生活文化を作り直している。
- 日本ガイシ — 1919年、日本陶器の碍子部門が愛知の名古屋で独立した。社名の「碍子」は高圧送電線を支える絶縁体を意味し、設立の目的も明確だった。それから106年後の2025年、その絶縁子製品は売上の1割以下になり、売上の7割以上が海外で稼がれ、社長は「2026年4月にNGKコーポレーションに社名変更する」と発表した。 この会社の歴史は、碍子という一製品から始まったセラミック技術が、時代ごとに用途を乗り換えてきた記録である。耐酸機器、排ガス浄化ハニカム、ベリリウム銅、NAS電池、半導体製造装置用部材。2025年にはNAS電池事業を23年で撤退する一方、ドイツの1837年創業の熱交換器メーカーを270百万ユーロで買収した。作るものが変わり続ける中で、セラミック技術だけが軸として残った。
- 日本特殊陶業 — 1936年、日本碍子の技術を基盤にスパークプラグの製造で創業した。終戦後の2000名解雇を経て生産改善と海外展開を推進し、1966年に点火プラグの国内シェア70%を確保した。補修用市場での高収益体制を築きながら、1967年にはセラミックICパッケージにも参入して半導体向け事業を開拓。ブラジル・東南アジア・欧米に生産拠点を展開し、スパークプラグ10億本生産を掲げる自動車点火プラグの世界的メーカーに成長した。
- 日本製鉄 — 日本製鉄の源流は1934年に官民合同で設立された旧日本製鐵にあり、戦後の過度経済力集中排除法の適用によって八幡製鐵と富士製鐵という二つの独立した高炉メーカーへと強制的に分割された経緯を持つ。両社は戦後復興から高度成長期を通じて旺盛な鉄鋼需要に応える形で設備投資を拡大し続けたが、構造不況下の慢性的な供給過剰と国際競争の激化を背景として再統合の機運が急速に高まり、1970年3月の大規模合併によって新日本製鐵が誕生する歴史的な節目を迎えた。合併により粗鋼生産量は世界最大級の水準へと一気に到達し、大分製鉄所の新設など国内拠点の拡充と輸出産業としての存在感の飛躍的な拡大によって、戦後日本の鉄鋼業が米国鉄鋼業を追い越して世界の頂点に立つ象徴的な主体へと駆け上がった。 しかし1970年代以降の構造不況と円高の進行、中国鋼材勢の急速な台頭を含む国際競争の激化によって経営環境は大きく変化し、1978年から1987年にかけて4次にわたる大規模合理化が繰り返されて1988年の釜石高炉の停止など国内生産拠点の継続的な削減が実施された。並行して半導体やシリコンウエハー・エレクトロニクス分野への多角化は約20年に及ぶ試行を経てすべて失敗に終わり、鉄鋼本業への全面的な回帰が経営上不可避となる結末に至った。2012年には住友金属工業との経営統合によって新日鉄住金が発足し、2019年には日本製鉄への商号変更、2023年のUSスチール買収計画の公表と2025年6月のクロージングを経て、国内回帰ではなく海外生産基盤の積極的な獲得を経営戦略の中核へと明確に据え直す歴史的な大規模転換に踏み出した局面に到達している。
- 神戸製鋼所 — 1905年、神戸の商社・鈴木商店の番頭・金子直吉は、艦船部品を国産化するために小林製鋼所という町工場を買収し、神戸製鋼所と改称した。その鈴木商店は1927年の金融恐慌で倒産し、親会社を失った神戸製鋼所は独立企業として戦中戦後を生き延びる。鉄鋼・アルミ・機械・溶接と、商材を次々に増やしていった。 2017年10月、長年にわたる製品検査データの改ざん問題が発覚し、信頼は地に落ちた。ところがその約8年後の2025年3月期、同社は創業120年目にして過去最高の当期純利益1201億円を記録する。鉄鋼市況に左右されない電力事業という第3の柱が、素材事業と機械事業の谷を埋めるようになっていた。
- JFEホールディングス — 1990年代の設備過剰と内需縮小に追い込まれた川崎製鉄と日本鋼管は、2002年に株式移転でJFEホールディングスをつくった。統合比率は日本鋼管0.75対川崎製鉄1.00。発足直後は「収益第一」以外の経営方針を持てないほど追い詰められていた。 しかし中国特需で2006年3月期に当期純利益3,259億円の過去最高益を計上し、その後リーマンショックと中国の過剰生産、コロナ禍で二度の大型赤字を経験する。2020年3月期の1,977億円の最終赤字を引き金に京浜地区上工程休止を決断し、国内縮小とインド拡張という地理的組み換えへと舵を切った。
- 日本製鋼所 — 1907年、北海道炭礦汽船と英アームストロング・ビッカースの3社が共同出資で、日本の民間兵器メーカーとして日本製鋼所を設立した。日英同盟下で軍艦の大砲・戦車・戦闘機の部品を作り、1938年には陸海軍の管理工場となる。 戦後は民需転換を迫られ、1961年にドイツ・アンケル社と提携して射出成形機事業に参入。油圧ショベルで失敗し、1980〜90年代は赤字と人員削減を繰り返した。2015〜17年に素形材事業の減損で3期連続赤字に沈んだのち、2020年にその事業を分社、産業機械と防衛関連機器を両輪に転換した結果、2025年3月期に過去最高益となる営業利益228億円を計上する構造転換に成功した。
- 三井金属鉱業 — 三井金属鉱業は1874年に三井組が明治政府から神岡鉱山の払い下げを受けたことに端を発し、1892年の三井鉱山合資会社設立を経て三井財閥の非鉄金属部門として事業を拡大してきた歴史である。国内最大の亜鉛産出量を誇る神岡鉱山を基盤として採掘から製錬までの一貫体制を構築し、戦後の財閥解体を経て1950年に独立企業として発足した後も、高度経済成長期の旺盛な非鉄金属需要を追い風に海外鉱山の権益取得や製錬事業の拡充を進めて多角化の地盤を固めた。しかし1971年のニクソンショックによる円高進行と1972年に表面化したイタイイタイ病の補償問題は、神岡鉱山を中心とし収益モデルに深刻な打撃を与え、以後の経営は長い縮小均衡の局面へと移行するた。 1978年の一時帰休と1981年の再建計画から始まった鉱山縮小の歴史は2001年の神岡鉱山採掘中止まで23年にわたって続き、その間に三井金属は銅箔や半導体向けTABテープなど電子材料分野への事業転換を粘り強く進めて収益基盤を形成していった。2001年の中期経営計画「MAP500」で電子材料をコア事業と位置づけて以降は資源会社から先端材料メーカーへの自己定義の更新が加速し、2020年代に入ってからは非鉄金属市況の高騰とAIサーバー向け高付加価値銅箔の需要拡大を追い風として過去最高益を達成する好調な局面に到達している。現在は2025年度から始まる新中期経営計画「25中計」のもとで機能材料と金属の両セグメントで構造改革と成長投資を並行して進めており、株主還元の強化と長期成長戦略の同時追求が経営の基本線となっている。
- 三菱マテリアル — 三菱マテリアルは1918年に三菱合資会社の鉱業部門を分離して三菱鉱業として発足した歴史を源流に持つ会社である。戦前には三菱財閥の鉱山と炭鉱を一手に担い、岡山県の吉岡鉱山の1873年取得を起点に尾去沢・細倉・生野・明延といった非鉄金属鉱山を相次いで取得して日本有数の資源企業へと成長していった。戦後の過度経済力集中排除法の適用によって非鉄金属事業が太平鉱業として分離され、後に三菱金属へと商号変更を経て独立企業としての歩みを開始したが、1971年のニクソンショック以降の円高進行と鉱脈品位の低下によって国内鉱山の段階的な閉鎖を余儀なくされ、15年にわたる縮小の末に1987年までに主要鉱山の整理を完了する厳しい局面を辿った。 鉱山整理の完了が三菱金属と三菱鉱業セメントの長年の再合同への条件を整え、1990年に両社が合併して三菱マテリアルが発足する戦後の素材産業再編における歴史的な節目を迎えた。発足後は精錬・セメント・超硬工具を3本柱とする総合素材メーカーとして経営を展開し、シリコンウエハー事業ではSUMCOを設立するなど先端材料への展開も加速させた。しかし2017年12月のグループ会社品質不正の発覚を契機として事業ポートフォリオの絞り込みに踏み切り、セメント事業は2022年のUBE三菱セメント設立で切り離され、焼結部品や銅管なども売却された。現在は銅製錬と超硬工具を軸とする構造再構築を進めており、市況の追い風を背景に2026年3月期業績は大幅な上方修正を経て過去最高水準に到達しつつある。
- 住友金属鉱山 — 住友金属鉱山の源流は1691年に住友家が愛媛県の別子銅山の採掘を開始したことに端を発し、元禄期から約二百三十年にわたって住友家が直営してきた日本屈指の銅山を中核事業として育ててきた長い歴史を持つ会社である。別子銅山から得られる銅は住友家の中核事業として機能しただけでなく、鉱山機械・化学肥料・銅加工・植林・金融といった住友財閥の主要事業群の資本供給源として大きな役割を果たし、明治期以降の機械化投資と西洋技術の導入によって大規模な近代鉱山として生まれ変わっていった。1927年には住友本社が長年の直営体制を改めて住友別子鉱山株式会社を設立して法人経営へ移行し、戦後の財閥解体を経て1950年に金属部門が住友金属鉱山として独立を果たした。 1960年代以降は国内鉱山の競争力低下と円高の進行を受けて段階的な閉山が進められ、1973年には住友家の原点事業である別子銅山もついに閉山を迎える節目を経験した。しかし1985年には鹿児島県の菱刈鉱区で国内唯一の商業生産金山である菱刈鉱山を開山するなど、資源事業での新展開を切り拓く動きも並行して進められた。その後は海外資源開発への参入を加速させ、米モレンシー銅山やインドネシアのニッケル権益、チリのケブラダブランカやカナダのコテ金鉱山など大型プロジェクトを推進するとともに、電池材料(ニッケル系正極材)分野にも進出してEV時代の成長分野への布陣を整えている。2025年には財務戦略を見直して自己資本比率の適正水準を見直すなど、資本効率重視の経営への転換も進めている。
- DOWA — DOWAホールディングスの源流は1884年に藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けたことに始まり、金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した特異な黒鉱を産出する難しい鉱山での製錬技術の確立を長年の課題として挑戦してきた歴史を持つ会社である。1902年に久原房之助のもとで黒鉱自溶製錬に成功し、1906年には生産額で国内全鉱山中一位を達成する歴史的な成功を収めた。その後は花岡鉱山や柵原鉱山の取得を通じて鉱山群の拡充を進め、非鉄金属と硫化鉱という異なる鉱種を組み合わせた分散型の鉱山ポートフォリオを形成し、1945年には商号を同和鉱業に変更して戦後の独立企業としての歩みを開始する形となった。DOWAの経営文化に深く刻まれる判断となった。 しかし1971年のニクソンショック以降の円高と硫化鉱の採算悪化によって国内鉱山の全てで経営が圧迫され、1万名規模であった従業員を1990年代までに3千名規模にまで縮小する長い縮小均衡の時代を経験した。2002年には吉川廣和社長が就任して事業の存廃を市場性・競争力・社員のやる気という三基準で徹底的に判断する構造改革を断行し、鉱山会社から環境・リサイクル企業への事業転換を実現する転換点を迎えた。2006年にはDOWAホールディングスへと商号変更を行って持株会社体制へ移行し、環境リサイクル・製錬・電子材料・金属加工・熱処理の五部門を柱とする現在の事業構造を確立した。2020年代に入ってからは海外展開の本格化と製錬・リサイクル複合コンビナートの再構築が新たな経営課題として浮上している。
- 古河電工 — 1896年、古河財閥は足尾銅山の銅を加工するために横浜電線製造を設立した。銅線・電線から出発した会社は、1990年代のネットバブル期に光ファイバを次の柱と定め、2001年11月に米ルーセントの光ファイバ部門(OFS)を約2,250億円で買収する。 直後のバブル崩壊で2003年3月期▲1,140億円、2004年3月期▲1,401億円と2期連続の巨額赤字を計上し、社長は責任を取って退任した。以後20年以上にわたり非コア事業を次々と切り出しながら構造改革を続け、2020年代にAI・データセンター需要が本格化すると、買収時に確保した光ファイバ技術群が生きた。2025年3月期は売上高1兆2,018億円・経常利益486億円まで回復している。
- 住友電工 — 1897年に住友本店が日本製銅を買収して開いた伸銅場が、銅から電線、電線から化合物半導体、光ファイバ、超硬工具、ワイヤーハーネスへと事業を枝分かれさせてきた。非鉄素材のメーカーが、自動車・通信・エネルギーという3つの巨大インフラ産業の部品供給者に変形していく過程である。 2009年3月期に営業利益が2,352億円から235億円へ1桁縮み、長く不採算だった情報通信セグメントも2010年代半ばまで赤字を抱えた。その情報通信が2024年度に生成AI向け光デバイス需要で黒字転換し、売上4兆6,798億円・営業利益3,207億円と過去最高を更新した。自動車偏重の収益が多極化に向かう転換点に、いま住友電工は立っている。
- フジクラ — 電線御三家の独立系一角として1910年に誕生したフジクラは、住友電工・古河電工に対し「技術のフジクラ」を旗印に、光ファイバと超多心光ケーブルに資源を寄せてきた。2005年に電力事業を古河電工と統合し、2013年に社内カンパニー制を敷き、2021年にそれを解体した、事業を組み替え続けた会社である。 2020年3月期、構造改革関連で特別損失307億円を計上して純損失は過去最大の385億円。4年後の2025年3月期には売上9,793億円、営業利益1,355億円、営業利益率13.8%と過去最高を更新した。生成AI向けデータセンターの高密度光ケーブル需要を捉えた結果で、1974年に光ファイバ事業に踏み込んだ独立系電線メーカーが半世紀後に業界の成長銘柄として急浮上する展開となった。
- しずおかフィナンシャルグループ — しずおかフィナンシャルグループは2022年10月に静岡銀行を完全子会社化して発足した若い持株会社だが、母体の静岡銀行は1943年の戦時金融統制下で静岡三十五銀行と遠州銀行が合併して誕生した古い地銀である。戦時の一県一行主義が残した地銀が、80年を経て証券・リース・不動産投資顧問を抱える連邦型グループに組み替えられた構図である。 「統合や提携は将来のビジネスモデルをどう創っていくか、そのための手段であって、目的ではありません」という柴田久社長の立場が、2020年の山梨中央銀行との静岡・山梨アライアンス、2022年の持株会社移行、2025年の八十二銀行を加えた富士山・アルプスアライアンスと形を変えて繰り返されてきた。経営統合ではなく資本関係を持たない広域連携で成長を取る──それがしずおかFGの選択である。
- リクルートHD — リクルートホールディングスの源流は1960年に東京大学卒業直後の江副浩正が個人で創業した大学新聞広告社にあり、1962年に就職情報誌「企業への招待」を創刊して訪問件数で勝負する泥臭い営業体質を組織の中核文化として定着させながら急速に成長を遂げてきた会社である。就職情報誌から住宅情報・旅行・結婚など生活領域の情報メディアへと多角化を次々と展開し、営業主導の独自の組織文化を武器に1970年代から1980年代にかけて日本の情報サービス業界を代表する存在へと駆け上がっていった。1988年のリクルート事件で江副浩正本人が逮捕される大規模な経営危機に陥り、バブル崩壊後の1990年代半ばには有利子負債が約1.4兆円に達する深刻な財務苦境を経験することとなった。 しかしリクルートは本業の強力なキャッシュ創出力を武器に12年という長い時間をかけて有利子負債を返済完了し、2000年代後半には財務健全化を実現する経営再建を成し遂げた。2012年には当時36歳の出木場久征が推進役となってIndeedの約1000億円規模の買収を実行し、グローバル人材マッチング市場への本格進出を実現する転機を迎えた。2014年10月には東京証券取引所への上場を果たして時価総額1.82兆円を記録し、2018年のGlassdoor買収を経てHRテクノロジー事業がグローバルな成長エンジンとして機能する現在の事業構造を確立した。2025年度通期見通しでは連結売上収益3兆6647億円、EBITDA+S 7638億円の過去最高を更新する見通しが示されており、米国HRテクノロジー事業の堅調な推移を背景に国内情報誌企業からグローバルHRテクノロジー企業への変貌が完全に定着した局面にある。
- オークマ — 1898年に製麺機の個人商会として名古屋で始まったオークマは、1904年に工作機械へ転じ、1966年にNC装置「OSP」を自社開発して機械と制御の両方を持つ稀有なメーカーとなった。1976年のオイルショック後と1993年のバブル崩壊後に2度の大規模リストラを経験し、2度目は定年引下げ撤回・社長引責辞任という経営トラウマを残した。 2009年のリーマン・ショックで売上は1,673億円から603億円へ3分の1に縮み、188億円の純損失を計上する。この危機を起点に「機電情知」一体の自動化戦略へ転換し、FY22に売上2,276億円と過去最高水準まで回復した。米中摩擦・中国市況悪化が繰り返し業績を揺らすなか、家城体制は現場適用できる自動化とAIに絞った差別化戦略で再び構造転換を進めている。
- アマダ — 1946年に東京の町工場として発足したアマダは、大手工作機械メーカーが見送った「金属用ハンドソー」という空白市場に着眼し、1955年にカタログ研究だけで国産1号機を完成させた。創業者・天田勇は「メーカーは営業力を持つべき」と確信し、1965年から代理店依存を捨てて直販網の構築に踏み切る。この「販売のアマダ」が、以後の急成長と業界再編の土台になった。 1971年の米国進出を皮切りに欧州・中国・東南アジアへ広がり、1973年の園池製作所・1978年のワシノ機械など経営不振の競合を次々買収して板金機械業界の再編者となった。2009年のリーマン・ショックで売上は半減し初の営業赤字に沈むが、「エンジニアリングのアマダ」への転換とレーザー・ソリューション路線で立て直し、FY23には売上4,035億円・営業利益565億円と過去最高益を更新。2025年にはエイチアンドエフを過去最大級のM&Aで取り込み、半導体・新素材加工への領域拡大に踏み込んでいる。
- ディスコ — 1937年に広島県呉の海軍工廠から独立した関家三男が砲弾研磨用の工業砥石で始めた町工場は、1965年のパイロット向け0.14mmレジノイド砥石、1968年のシリコンウエハー切断砥石と、他社が踏み込まなかった精密加工領域へ技術を伸ばし、1977年に「ディスコ」へ改称した。ダイシングソー世界シェアは1980年時点で約60%、2010年代には約70%に達し、半導体前工程のニッチトップ地位を固めていく。 しかしこの会社には「事業集中」を決定づけた失敗がある。1992年に半導体拡散炉事業から撤退し50億円の損失を計上、賃金カット・早期退職に追い込まれた。1997年に制定された「Disco Values」は事業領域を「切る・削る・磨く」の3つだけに限定する経営憲法であり、同時に社内通貨Willで経常利益を社員の経費権限に連動させる仕組みを組み込んだ。この自律経営体制のもとで、FY24(2025年3月期)は売上3,933億円・営業利益1,668億円・営業利益率42.4%という生成AI時代の象徴的な数字に到達している。
- 日本郵政 — 1871年に前島密が始めた郵便事業から数えて134年後、郵政事業は国営のまま日本最大の金融機関・保険会社・物流網を抱える巨大組織になっていた。小泉構造改革はこれを株式会社4社に分割し、2015年には3社同時上場という戦後最大級のIPOで仕上げた。 ところが上場直前に買収した豪Toll Holdingsは翌年に減損を余儀なくされ、その後もかんぽ不適切販売、日本郵便の点呼不備による認可取消と、民営化後の歴史は不祥事と減損の連続になった。公共性と株式会社性の両立は、20年経っても答えが出ていない。
- 豊田自動織機 — 豊田自動織機は1926年に豊田佐吉がG型自動織機の量産を目的として愛知県刈谷町に設立した企業であり、英プラット社に特許実施権を供与するほどの高い技術水準を誇った。1933年に社内に自動車部が設置され、1937年にはその自動車部がトヨタ自動車工業として独立し、戦後は朝鮮特需の終焉で繊維機械需要が長期低迷に陥るなか、石田退三社長が人員削減を避けるためにトヨタ向けのエンジンや車両の受託生産へと本業を大きく転換していった。1956年からのフォークリフト参入はトヨタ自販の販路を活用して国内シェア首位を確保し、同時にカーエアコン用コンプレッサー事業も拡充して、織機メーカーからトヨタグループの中核部品・車両受託会社へと企業の実態を大きく変えていった。 2017年にはVanderlande社を約1400億円で買収して物流ソリューション事業で世界4位へと浮上し、フォークリフト単品からシステム提案への業界構造転換に先手を打ったものの、自動車受託事業のROIC低迷は一貫した課題として残り続けた。2025年6月にはトヨタ自動車が1株16300円で豊田自動織機へのTOBを予告し、米エリオット・マネジメントが保有比率を7%超まで積み増して価格の過小さを公に指摘する事態に至り、1950年代以降固定化してきた親子構造に資本市場から正面から異議が突きつけられる歴史的局面を迎えた。エンジン認証問題をめぐる米国集団訴訟の和解金や米国関税の影響という一過性費用が重なるなかで、親子構造の抜本的な見直しという課題と直近の収益回復という課題を同時並行で解く経営が求められている。
- SMC — SMCは1959年に焼結金属工業として東京都千代田区に設立され、空気圧機器向けフィルター部品の製造を祖業とした。創業からわずか12年で空気圧制御の主要機構を内製化し、全国に営業所・出張所を緻密に配置して代理店の在庫保有を禁止する独自の流通設計で即納体制を構築した。1987年の上場後も髙田芳行社長のもとで利益率を追求する経営を貫き、中国・米国での現地生産を拡大しながら空圧機器のグローバルリーダーとしての地位を確立している。
- コマツ — コマツの源流は1921年に竹内鉱業の機械部門が独立する形で石川県小松に設立された小松製作所であり、鉱山機械・採掘機械・電気鋳鋼を初期の事業として出発した。1931年に農林省の要請を受けてトラクター製造を開始し、1938年には粟津工場を新設して満州向けに本格販売したが、終戦後にトラクター発注が白紙撤回されて深刻な経営危機に直面することになった。100日ストライキを経て就任した河合良成社長は1949年から米軍向け砲弾生産で経営を安定させたものの、売上の72%を砲弾に依存する構造はアナリストから危険視され、朝鮮戦争終結による砲弾需要縮小の確定とともに1956年にブルドーザーへの全面転換を断行、1947年のD50試作以来蓄積してきた技術が即座に量産体制へと移行する基盤として機能した。 1960年の資本自由化大綱を受けてキャタピラー三菱が設立されると、河合社長は対抗策を品質改善の一点に集中させ全社的品質管理の導入と米カミンズ社製エンジン搭載という国内業界初の決断によって品質防衛に成功した。1968年に油圧ショベルに後発参入し、広大な国内直販網を活かして1976年に国内シェア首位を獲得、1998年に開発された機械稼働管理システムKomtraxはIoT概念が普及する以前から建機のデジタル化を実用化した先駆的事例として評価されるに至った。2017年のジョイグローバル買収で鉱山機械のフルライン化を実現し、2022年3月期には連結売上高2兆8023億円・当期純利益2249億円に到達、近年はバッテリービジネスへの参入や2ラインモデル戦略の展開など電動化・自動化・カーボンニュートラルへの本格対応が経営の最前線を形成している。
- 住友重機械工業 — 別子銅山の機械工場として1888年に始まった住友機械は、1969年に浦賀重工業と合併して造船に踏み込んだ。大型タンカーの時代に追浜ドックを築き、50万トン級の船を造る重工業メーカーになったものの、船価低迷とプラザ合意後の円高で造船事業は1987年から繰り返しリストラの対象になり続けた。 合併から55年後の2024年、ついに新造船から撤退する。ところが置き土産は1983年に米Eatonと組んで始めた半導体イオン注入装置だった。祖業を捨てた会社が、傍流だった装置事業を骨太事業の筆頭に据え直す。造船会社から半導体装置メーカーへという重工業では珍しい転身が、今まさに進行している。
- 日立建機 — 日立建機の源流は1948年に建設省が日立製作所に対してパワーショベル2台を発注したことにあり、戦時中に車両・起重機・戦車の設計製造で蓄積された日立製作所の重機械技術を民需として建設機械分野に転用する形で事業が開始された。1970年10月に日立建設機械製造と旧日立建機を合併して製販統合の新生日立建機を発足させたが、発足時の自己資本比率はわずか6.4%ときわめて脆弱であり、1971年から1972年にかけて2期連続の経常赤字に転落するという厳しい船出を強いられた。足立工場の閉鎖と跡地売却という大胆な構造改革と並行して土浦工場への一貫生産体制の構築に約135億円を投下し、油圧ショベルという主力機種で事業基盤を一歩一歩着実に固めて上場企業への道を切り開いていった。 1983年から米ジョン・ディア社とのOEM提携で北米を、1986年からイタリアのフィアット社との提携で欧州を段階的に開拓し、経営体力が整った時点で自社ブランドへと切り替える二段階の海外戦略を一貫して採用し続けた。2009年のカナダ・ウェンコ社買収でマイニング分野に進出して超大型機械の品揃えを拡充し、2021年にはディアとの北米提携を解消して自社ブランドでの本格展開へと舵を切った。2022年1月には日立製作所が保有株式約26%を伊藤忠商事らに売却して筆頭株主が日立からHCJIへと交代するという歴史的な資本構造の変化を経験し、2026年にはブランドを「LANDCROS」に一新するという社名変更計画を発表するに至り、独立した総合建設機械メーカーとしての次の100年に向けた「第2の創業」を正式に宣言する新しい段階を迎えている。
- クボタ — 1890年に19歳の久保田権四郎が大阪で鋳物屋「大手鋳物」を個人創業したのがクボタの源流であり、外国技術書も海外指導者も存在しない状況から7年の試行錯誤を経て鋳鉄管の独自製造技術を独力で確立した企業である。1897年に「合わせ型斜吹鋳造法」を開発し、1900年代には国内シェア60%規模の鋳鉄管メーカーとしての地位を確立し、戦前の水道インフラ整備を牽引した。1919年には実用自動車製造を設立して自動車参入を試みたが三輪車・四輪車ともに成功に至らず撤退を余儀なくされた。戦後の1947年には発動機生産設備を活用して耕うん機の製造を開始することで農機分野に本格参入し、1961年の農業基本法公布による農業機械化の進展を追い風に国内農機市場での確固たる地位を築き上げていった。 1972年以降は廣慶太郎社長の判断で北米と欧州への小型農機輸出を本格化させ、M5クラスのコンパクトトラクタで米国市場に独自の地歩を築き、2006年にインドに現地法人を設立してから段階的に拡大していた農機市場でも2022年のEscorts買収により本格的な拡大局面を迎えた。1999年の水道鉄管ヤミカルテル事件と2005年のアスベスト問題という二度の重大な経営危機を経験して事業再編と経営トップ交代を繰り返しつつ、基幹システムの抜本的な刷新を含む経営基盤の再構築に2026年までの期間をかけて取り組むなかで、2025年には北米トラクタ市場の縮小と米国相互関税の本格的な影響という新しい試練に直面することとなり、量の拡大ではなくROICと資本効率を重視する経営モデルへの大胆な転換を決断する局面を迎えている。
- 荏原製作所 — 東京帝大の井口在屋が渦巻ポンプ理論を発表した1905年、その弟子だった畠山一清は国友鉄工所の事業化失敗を見届けた上で1912年にゐのくち式機械事務所を起こす。輸入品が主流だった日本のポンプ市場で、東京市の入札から突破口を開き、昭和初期には国内シェア60%まで育てた。祖業のポンプは100年後も本業であり続けている。 ところが2003年のゴミ処理プラント工期遅延で285億円の赤字、2007年の副社長横領、同じ年に売却した羽田工場跡地は2019年にアスベスト訴訟で敗訴──と、2000年代は不祥事と特別損失の連続だった。この負債を抱えながら、1987年に藤沢工場で始めた半導体向け真空機器が2020年代に主力化し、2024年には売上収益8,667億円・営業利益980億円の過去最高を記録する。老舗ポンプ会社が半導体装置会社に姿を変える途上にある。
- ダイキン — ダイキン工業の源流は1924年に大阪砲兵工廠出身の山田晃が大阪・難波新川に合資会社大阪金属工業所を設立したことにあり、創業当初は飛行機用ラジエーターチューブの製造から出発したが、工廠時代の元上司の推挙で陸軍指定工場となり砲弾製造で急成長した戦前期の軍需ベンチャーであった。1933年には技術顧問の退役海軍少将・太田十男の進言を受けて新冷媒フレオンガスの研究に踏み切り、1935年に国内初のフロン生産に成功するという形で化学プラント分野と空調分野という新事業への進出を実現した。戦後は朝鮮戦争の米軍向け81ミリ迫撃砲弾特需で経営危機を乗り切り、そこで得た資金を冷凍機とフロン事業へ積極的に再投資することで、砲弾メーカーから空調メーカーへと企業性格を根本的に転換していった。 1975年のオイルショック後の経営危機からの再建期を経て、1995年の中国進出では業務用空調の官公庁・オフィス市場に特化する差別化戦略で高収益モデルを構築し、1998年からの欧州本格展開ではローカル販売会社の連続買収で販路網を構築した。2006年にマレーシアのOYL社を約2460億円で買収して北米に本格参入し、2012年11月には米住宅用空調トップシェアのGoodman社を約2950億円で買収してグローバル空調メーカーの地位を確立した。2014年から十河政則が社長兼COOに就任して井上礼之会長との二人三脚体制で経営を運営してきた体制は、2025年時点で米国関税影響290億円、北米住宅用空調の需要低迷、データセンター向け需要の急拡大という局面に突入し、次期中計では北米首位と資本効率改善の同時追求が求められている。
- 日本精工 — 日本で初めてベアリングを工業生産した会社が、100年かけてSKF、シェフラーに次ぐ世界3位の軸受メーカーに育った。だが売上の6割を占める自動車部品事業は、電動化とインフレの直撃で長く利益率を押し下げ、2023年には主力のステアリング事業を投資ファンドに預けるところまで追い込まれた。 一方で2021年に英BKV(ブリュエル・ケアー・バイブロ)を手に入れて始めたCMS事業は、産業機械事業を「売り切り型」から「状態監視まで含めた継続収益型」へと組み替える仕掛けになった。業界3位が軸受専業に戻りつつ、何で稼ぐ会社になるのかを問い直している。
- NTN — 三重県桑名の町工場が「NTN」の3文字ブランドを名乗ったのは1923年。それから100年かけて世界4位級の軸受メーカーに育ったが、2013年と2014年は欧米カルテル制裁金で2期連続の巨額損失、2020年3月期はコロナ前夜の需要減で純損失440億円という創業以来最大級の赤字を計上した。 主力だったはずの自動車軸受は、モデルライフが長いゆえに値上げが通らず赤字の温床になった。2024年、鵜飼社長は中期経営計画に「Final」の名を付け、過去の過大投資を3年間で一掃するとまで言い切る。NTNの歴史は、軸受とCVJで世界に打って出た挑戦と、その反動の繰り返しとして読める。
- ジェイテクト — 1921年に大阪で生まれた光洋精工と、1941年にトヨタ自動車から分離独立した豊田工機。軸受メーカーと工作機械メーカーという異なる出自の2社が、2006年にトヨタグループ部品再編の号令のもとで合併し、ジェイテクトが生まれた。ステアリング世界シェアNo.1とベアリング国内有力メーカーという2つの看板を同時に抱える珍しい企業として出発した。 合併から約20年を経た2024年、生産技術出身のプロパー社長・近藤禎人は「会社の価値や意義を表す一言が見つからなかった」と述べた。多様な技術を抱えすぎているがゆえに、一つの顔を作れない会社。ジェイテクトの歴史は、軸受・工作機械・ステアリングの3事業をどう一つの企業にまとめ上げるかという、20年越しの問いへの答えを探す過程として読める。
- ミネベアミツミ — 設立1年で経営危機に陥ったミニチュアベアリング専業メーカーが、1971年のニクソン・ショック後にシンガポールへ、1980年にタイへと生産を移し、1988年までにベアリング生産の99%を海外に置いた。国内銀行が尻込みした投資を外債で賄い、円高のたびに競合の価格競争力が削られる一方で同社の利益が厚みを増していった。 しかし1984年のDRAM参入や1985年の三協精機TOBなど多角化は迷走し、2008年までベアリング偏重の構造のまま20年が過ぎる。2017年のミツミ電機統合を起点とした貝沼由久の「部品のユニクロ」戦略で、売上は約6000億円から1.5兆円へと倍増した。
- 日立製作所 — 1910年に小平浪平が日立鉱山の修理工場で5馬力モーターを国産化したことに始まる。外国技術に依存しない自前主義を40年間貫いたのち、1953年のGE技術提携で方針を転換し、テレビ・発電機・半導体へ事業を拡大した。非電機事業を子会社化して上場させる「親子上場」構造を60年以上維持したが、2009年の7880億円赤字を機に川村隆社長が構造改革を断行し、テレビ撤退や上場子会社の売却を推進。ABBパワーグリッド買収やGlobalLogic買収を経て社会インフラ・デジタル企業へ転換した。
- 三菱電機 — 1921年に三菱造船神戸造船所の電機部門を継承して発足した会社は、変圧器と扇風機から始まり、戦前戦中に10以上の国内製作所を並べ、1959年には半導体量産専門工場を北伊丹に設けて重電とエレクトロニクスの両輪を持つ総合電機になった。2024年度の売上収益5兆5,217億円・営業利益3,918億円はいずれも過去最高である。 しかし2021年、長崎製作所での鉄道車両向け空調機器の架空検査が発覚して社長が辞任し、専務の漆間啓が緊急登板した。4年後、同社は1兆9,000億円を「価値再獲得事業」と括り、2,378人が応募した早期退職と1兆円のM&A枠を同時に動かしている。
- 富士電機 — 1923年、古河電気工業とドイツ・シーメンスが合弁で設立した富士電機は、資本金1,000万円のうちシーメンス分300万円が機械現物と技術供与の振替であったため、設立時点から現金不足を抱え、1923年度から1931年度までの9期中7期で最終赤字となる。名取和作社長は1931年に205名の人員削減と自らの引責辞任で責任を取った。 それから78年後の2009年3月期、同社はリーマン・ショックで純損失733億円・営業赤字188億円を計上する。北澤通宏が就任して始めたパワー半導体への集中が2024年3月期の営業利益1,060億円・EV向け牽引の過去最高益につながり、2024年11月にはデンソーと2,116億円の共同投資を決定した。
- 安川電機 — 創業から17年間赤字を垂れ流した九州の電機メーカーが、重電からの撤退と「安川のモートル」への特化で息を吹き返し、1964年には家電を避けて産業用モータという地味な領域に活路を見出した。この選択が、1977年のMOTOMAN開発とその後のサーボ・インバータ・ロボットという三本柱につながる。 2016年策定の「2025年ビジョン」で営業利益1,000億円を掲げたが、2025年に中国ローカル勢の台頭と半導体市況の読み違いで達成断念を迫られた。小川昌寛社長は量依存からROIC重視への転換を宣言し、NVIDIA・富士通との三社協業とヒューマノイド参入で次の跳躍先を探している。
- ソシオネクスト — 富士通とパナソニックが別々に抱えていたSoC事業を2015年3月に統合して誕生した会社は、当初は両社の汎用半導体の受け皿に過ぎなかった。しかし2018年、事業モデルをカスタムSoC設計専業へと絞り込んだ決断が、2024年3月期の営業利益355億円という統合後最高益を生んだ。 2022年10月の東証プライム上場から2年で、会社は別の局面に直面する。大型のデータセンター・車載カスタム商談は獲得できたものの、その量産立上げで原価率が悪化し、2025年10月に通期営業利益を下方修正した。成長ドライバーがそのまま利益圧迫要因になる構造への対処が、現経営陣の正念場となっている。
- ニデック — 1973年に永守重信が京都で資本金200万円の日本電産を創業し、国内で門前払いを受けた精密小型モータを米国市場経由で販売に漕ぎつけた。HDD用スピンドルモータで世界シェア80%超を確保したのち、1995年の赤字転落を契機にM&Aを主軸としたHDD依存からの脱却に着手した。累計60社超の買収で車載・家電・産業用モータへ事業を多角化し、2024年に創立50周年を機に商号をニデックに変更した。
- オムロン — 1933年にレントゲン用タイマから始まった立石電機は、1960年代に無接点近接スイッチ・電子式信号機・無人駅システムと「世界初」を連発し、京都発の制御機器メーカーとして独自の地位を築いた。1955年に創業者の立石一真が考案した「プロデューサ・システム」と呼ぶ分権的な生産子会社方式は、後のカンパニー制や選択と分散の思想にまで一本の線でつながっている。 2009年3月期にリーマンショックで純損失291億円を出したオムロンは、以降ヘルスケア・車載・社会システムの切離しと、制御機器事業への集中投資を同時に進めた。2024年3月期にはFA市況低迷と中国減速で当期利益が81億円まで急減し、2022年に就任した辻永順太社長は創業以来最大規模の構造改革の舵取りを担っている。
- GSユアサ — 1999年3月期、日本電池は上場後初の35億円の最終赤字に沈んだ。シェア1位を取っていた国内自動車用鉛蓄電池の補修市場が、カー用品店とディーラー網の台頭で価格が10年で40%下落したためである。救済ではなく「減産統合」として2004年に湯浅と経営統合し、初年度に147億円の最終赤字を出して高槻工場閉鎖・496名の希望退職に踏み切った。 鉛蓄電池で削り取った体力を、リチウムイオン電池の合弁投資に振り向けた。2007年に三菱商事・三菱自動車とLEJ、2009年にホンダとBECを作り、車載LiB事業の種を撒く。投資は長く赤字と減損を生んだが、2024年にLEJを清算し2025年に連結営業利益500億円を記録した直後、次の中計では産業用LiBへの「攻め」を宣言した。
- 日本電気 — 2009年3月期、NECは2,966億円の最終赤字を計上した。リーマンショックで電機業界全体が沈んだ年だが、上場後最大のこの赤字は単なる一過性の落ち込みではなく、半導体・携帯電話・PCなど祖業の周辺で抱え続けた赤字事業の清算コストの集積だった。森田隆之は後に「倒産するかもしれないほどの経営危機」と振り返っている。 そこから10年以上、NECは「何を捨てるか」の繰り返しで身軽になってきた。2010年にNECエレクトロニクスをルネサスに統合、2013年にスマホから撤退、2014年にBIGLOBEを売却、2025年に従来型5G基地局事業を終息した。代わりに残した国内IT・セキュリティ・防衛に、2023年からBluStellar戦略で上積みを仕掛け、2025年3月期に連結営業利益2,565億円と過去最高水準を記録。同年10月には米CSGを約4,417億円で買収する攻めに転じた。
- 富士通 — 1954年、富士通は日本初の商用リレー式自動計算機FACOM100を開発した。通信機メーカーとして出発した会社が、半世紀以上にわたり大型汎用機・サーバ・ミドルウェアというメインフレーム系の事業を祖業の一つとして抱え続けることになる起点である。池田敏雄が率いた1970年代のIBM互換戦略は富士通を世界有数のコンピュータメーカーに押し上げた。 そして2026年1月、富士通はそのメインフレーム販売を2030年度末で終了すると発表した。理由は「社会のインフラはオンクラウドであるべき」。2002年3月期の3,825億円の最終赤字を起点に、半導体・携帯・PC・HDDと捨て続けた20年の構造改革は、ついに祖業のハードウェア事業そのものに辿り着き、時田隆仁社長の「普通の会社=成長を目指す会社」という自己評価に変わろうとしている。
- ルネサスエレクトロニクス — 2010年の3社統合で日本最大の半導体会社が生まれたが、誕生と同時に東日本大震災で主力の那珂工場が被災し、3期で累計3,400億円超の純損失を計上した。2013年に産業革新機構・トヨタ・日産等が第三者割当を引き受けて実質的な公的救済に入り、車載マイコンという狭い一角に縮小均衡することで黒字を取り戻した。 2018年に就任した柴田英利CEOは「縮みっぱなしからの脱却」を掲げ、Intersil・IDT・Dialog・Altiumと立て続けに海外買収を重ねて車載一本足からアナログ・パワー・EDAへとポートフォリオを広げた。2022年には営業利益4,242億円という統合後最高益を記録するが、2025年にはSiC調達先Wolfspeedの破綻で2,376億円の減損を計上し、再び雇用構造改革に踏み切っている。
- セイコーエプソン — 1942年に信州諏訪でウオッチ部品加工会社として生まれた会社が、1964年の東京オリンピック公式計時用プリンターをきっかけにコンピュータ周辺機器に進出し、1985年には『EPSON』の名を冠した子会社を吸収合併してセイコーエプソンとなった。ドットマトリクスプリンター、インクジェット、液晶プロジェクターと、時計技術の応用で主力製品を次々に拡張した多角化の物語である。 しかし2000年代に入ると液晶・水晶デバイス事業が構造不況に陥り、2009年3月期には純損失1,113億円を計上した。電子デバイス事業の縮小とプリンティング事業への回帰を10年かけて実行した結果、現在は売上1.3兆円のうちプリンター・プロジェクター・産業印刷が中心の事業ポートフォリオに組み替わっている。
- パナソニック — 1918年に松下幸之助が資金約200円と自宅の土間で創業した電気器具製作所は、統一ブランド「ナショナル」と製品別独立採算の事業部制という2つの仕組みを武器に、日本最大の総合家電メーカーへと成長した。水道哲学に基づく廉価大量供給の思想は戦後の三種の神器からビデオ、デジタル家電に至るまで製品世代を超えて一貫し、全国各地の系列販売店であるナショナルショップとの強固な結合が家庭に製品を届ける配送網として機能した。フィリップスとの技術提携で電子部品を内製化し、日本ビクターとの資本関係で映像音響領域を押さえた垂直統合モデルは、アナログ技術の時代において圧倒的な規模の経済を生み出す構造的優位性の源泉であった。 しかし2000年代以降、デジタル化と水平分業化の進行はこの垂直統合モデルの強みを急速に陳腐化させた。累計5000億円以上を投じたプラズマテレビ事業は液晶との規格競争に敗れ、2012年度までの2期連続で合計1兆5000億円超の純損失を計上する事態に至った。津賀一宏社長のもとで不採算事業を撤退し約4000億円で買収した三洋電機の統合を完遂したのち、テスラ向け車載電池や8633億円を投じたサプライチェーン管理ソフト企業ブルーヨンダーの買収でBtoB領域への転換を図った。2022年に持株会社体制に移行し、楠見雄規社長が収益構造改革を推進しているが、売上高8兆円規模に対して営業利益率は5%前後にとどまり、事業ポートフォリオの最適化は依然として道半ばにある。
- シャープ — 1912年に早川徳次が東京で金属加工業を個人創業し、シャープペンシルの開発で製造業に転じた。関東大震災で全てを失い大阪で再起し、ラジオの国産化で電機メーカーへ転身した。半導体の内製化と液晶技術の蓄積で独自の地位を築き、液晶テレビAQUOSで一世を風靡したが、亀山・堺工場への巨額投資が裏目に出て経営危機に陥り、2016年に鴻海精密工業の出資を受け入れて台湾企業の傘下で再建を図ることとなった。
- ソニー — 1946年に東京・日本橋で資本金19万円の零細企業として創業した東京通信工業は、テープレコーダーの特許を25万円で取得して大手の参入を10年間阻止し、トランジスタラジオではOEM供給を拒否して自社ブランドSONYで米国市場を攻めた。トリニトロンとウォークマンで世界の家電市場をリードしたこの会社は、1988年からの2年間でCBSレコードとコロンビア映画を合計約60億ドルで買収してエンタテインメント企業への転身を宣言した。だが事業部ごとの独立採算がハードとソフトの融合を阻み、2003年のソニーショックから2012年の純損失4,567億円まで、デジタル時代への構造転換の遅れは10年以上にわたって噴出した。 この長い危機を収束させたのは、自らの祖業を含む不採算事業を次々と売却する自己解体だった。平井一夫がVAIOとリチウムイオン電池事業を手放してPlayStationとイメージセンサーに経営資源を集中させ、後任の吉田憲一郎がゲーム・音楽・映画・半導体の4事業を軸にした純粋持株会社体制を完成させた。2021年3月期に連結純利益は1兆円を突破し、CMOSイメージセンサーの世界シェアは約50%に達した。かつてウォークマンで携帯音楽という文化を創造したソニーは、テクノロジーとコンテンツの結節点に立つ売上高13兆円規模のコングロマリットとして80年間で3度目の姿に生まれ変わった。
- TDK — 1935年、東京工業大学で発明されたフェライトの工業化を目的に齋藤憲三が東京電気化学工業を設立。世界初のフェライトコア製品化に成功し、磁気テープで世界シェア首位を獲得してからは、VHSビデオテープの大増産で黄金期を築いた。デジタル化の波で2002年に上場来初の営業赤字に転落したが、2005年のATL買収でリチウムイオン電池事業に参入し、記録メディアから完全撤退する一方で電池と電子部品を柱に据え、売上高2兆円超の電子部品メーカーに変貌した。
- 三洋電機 — 1947年に松下電器の重役だった井植歳男が公職追放を機に大阪で創業し、自転車ランプで国内シェア70%を確保した。噴流式洗濯機で日本の洗濯機の標準仕様を確立し、カラーテレビの北米輸出と現地生産で急成長を遂げた。1990年以降は二次電池への傾斜投資でリチウムイオン電池の競争力を獲得したが、有機ELへの巨額投資失敗と財務悪化が重なり、2011年にパナソニックに完全子会社化される結末を迎えた。
- アルプスアルパイン — 1948年、片岡勝太郎が東京都大田区にラジオ用バリコンの製造会社・片岡電気を設立。テレビ用チューナーやタクトスイッチなど製品を拡大して「部品の総合デパート」と称される電子部品メーカーに成長した。1967年にモトローラとの合弁でカーオーディオ事業に参入しアルパインブランドを確立したが、バブル崩壊後の5期連続減収と大規模リストラ、リーマンショック後の265億円赤字を経験。2019年にアルパインと経営統合しアルプスアルパインに改称し、車載・スマホ向け電子部品メーカーとして再出発した。
- パイオニア — 1938年に松本望が東京でスピーカー専業の福音商会電気製作所を創業した。ダイナミック・スピーカーで東京市場を独占し、戦後はセパレートステレオやレーザーディスクプレーヤーで音響分野に独自の地位を築いた。1990年代にプラズマディスプレイに巨額投資したが液晶の台頭で裏目に出て1万名削減に追い込まれ、カーオーディオに集中投資するも財務回復に至らず、2019年に上場廃止。投資ファンドを経て台湾企業の傘下に入った。
- 日本ビクター — 1927年に米ビクターの日本法人として蓄音機製造で出発し、日産財閥・東芝・松下電器と親会社が変遷した。1976年に松下電器がVHS規格を採用したことでビデオ戦争に勝利し、VHSテープの大増産で売上高7000億円超に急成長した。しかしVHS需要の消失とデジタル化への対応遅れで1993年に最終赤字430億円を計上し、業績回復を果たせないまま2008年にJVCケンウッドとの経営統合で独立企業としての歴史を閉じた。
- 赤井電機 — 1924年に赤井舛吉が東京港区でソケットラジオ部品の製造を開始し、戦後に赤井三郎が再興してテープレコーダーの輸出特化型メーカーに転換した。輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の高収益で1968年に東証二部に上場したが、1973年の創業者急逝とビデオ参入の出遅れ、プラザ合意後の円高が重なり採算が崩壊。三菱銀行やセミテックの経営支援も奏効せず、2000年に民事再生法の適用を申請して倒産した。
- 横河電機 — 横河電機の創業者は帝国劇場や三越本店といった大規模建築の設計に携わった建築家・横河民輔であり、技術を軸とした事業展開を志向し、1915年に電気計器の国産化を目的として東京渋谷に電気計器研究所を個人創業した。1917年には精密電気計器の国産化を実現して通信省や海軍省から輸入品に劣らない評価を得るに至り、1920年12月には株式会社横河電機製作所として法人化され、甥の横河一郎が筆頭株主として約30%を保有しつつ横河家の同族経営のもとで計測器専業メーカーの基盤が築かれた。戦時中は陸軍指定工場として高射砲算定器や航空計器の生産に従事したが終戦で軍需を喪失する試練を経て、1955年の米フォックスボロ社との技術提携や1963年の米HPとの合弁(YHP)でプラント制御と電子計測器の二領域の技術基盤を築いた。 1975年に総合制御システムCENTUMを発表してプラント向け制御システム事業への本格参入を宣言し、1983年には業界3位の北辰電機との合併で国内体制を強化したのち、1999年のHP合弁解消と2003年の人員削減方針撤回、2015年の1105名希望退職という厳しい構造改革を経て制御システム専業メーカーへ集約していった。2016年の英KBC社買収と2024年以降のBaxEnergy・Intellisync・WiSNAMといった欧州SaaS企業の連続買収を通じて、石油ガスプラント向けの制御ハードから再生可能エネルギーとサイバーセキュリティを含むデジタルソリューションへの事業転換を加速させてきた。2024年度から始まった中期経営計画GS2028では重野社長のもとで成長性と収益性の両立が目標として掲げられ、米国関税の影響を織り込みつつ長期視点の顧客投資を追い風として新しい成長軌道への回帰が模索されている。
- アドバンテスト — アドバンテストの源流は1954年に通信省電気試験所出身の武田郁夫が30歳で独立して愛知県豊橋市に設立したタケダ理研工業にあり、電機大手が手がけない電子計測器のニッチ市場に特化して代替品のない独自製品を高価格で販売するモデルで出発した技術特化型ベンチャーである。1972年には通産省補助金を得て国産初のICテストシステムT320を発売して半導体検査装置メーカーへの転換の足がかりを得たが、1975年のオイルショックで経営危機に陥り、メインバンクの融資拒否と社内クーデターで武田郁夫は社長の座を追われた。通信省時代の元上司で当時富士通社長の清宮博が病床で決断した救済出資により存続を確保し、海輪利正が送り込まれて原価計算の不在という致命的な経営基盤の欠如を発見して再建に着手した。 1983年の東証2部上場、1985年のアドバンテストへの商号変更、1996年の半導体検査装置世界シェア40%達成という一連の成長を経て、2009年の729億円赤字と2023年の最高益1712億円という極端な業績振幅を経験しながら、2017年には富士通が残る全株式を530億円で売却して約40年にわたる富士通との資本関係が完全に解消された。2024年以降のHPC/AIとHBMをめぐる半導体需要の構造変化を追い風として第3次中期経営計画MTP3では過去最高水準の成長を見込む状況となり、SoCテスタは年間5000台の生産体制を視野に入れる一方でDRAM供給制約や関税の不透明要因が並行するなかで、代替不可能な技術を持ちつつも顧客の投資サイクルに業績が従属する構造的宿命のなかで次の成長段階を探る新しい局面に入り、創業70周年を超えた節目の時期を迎えている。
- キーエンス — 1972年に滝崎武光が兵庫県伊丹市でリード電機を個人創業し、2度の倒産を経た3度目の起業で自動線材切断機の製造を開始した。トヨタ自動車向け磁気センサの開発を契機にセンサー事業に転換し、営業利益率20%の祖業を売却して利益率40%のセンサーに経営資源を集中した。直販体制・標準品特化・付加価値ベースの価格設定という原則を創業期に確立し、営業利益率50%超と平均年収2000万円を両立する企業に成長した。
- デンソー — デンソーは1949年12月にトヨタ自動車が経営危機に伴う事業再編の一環として電装品部門を分離する形で設立された日本電装を起点とする企業である。設立時の資本金は1500万円であったがラジエータ部門の累積赤字1.4億円を借入金として引き継ぎ、自己資本比率はわずか5%という極めて脆弱な財務状態で船出した。初代社長の林虎雄に対して豊田社長は「この借金は電装にやったんじゃない、貸したんだから忘れるな」と釘を刺し、社名に「トヨタ」を冠することすら禁じた。設立3か月後には約1400名中473名を解雇する大規模再建案を発表する前途多難な滑り出しとなったが、1950年6月の朝鮮戦争勃発による軍用車両需要の急増を契機に業績が劇的に好転し、独立企業として最初の危機を乗り越える幸運に恵まれた歴史を持っている。 1953年のロバート・ボシュ社との業務資本提携で技術基盤を獲得し、カーヒーター・噴射ポンプ・スパークプラグ・カーエアコンへと製品領域を矢継ぎ早に拡充した。1982年には売上高1兆円計画でトヨタ依存の脱却・海外進出・エレクトロニクス分野の三本柱を掲げ、グローバル展開を加速させる経営の転換点を迎えた。しかしトヨタ向け売上が約50%を占める構造は40年を経ても本質的に変わっておらず、親会社との一体性は強みと制約の両面を内包したままである。2017年の長期経営ビジョン2030で電動化投資に舵を切り、2019年の燃料ポンプリコール問題で製品保証引当金2148億円を計上する品質の試練を経て、2024年以降は先進安全運転支援システム製品の外販拡大と4500億円の大規模自社株買いという事業と資本の両面から抜本的な変革を進めている。
- レーザーテック — 1960年、内山康が29歳でX線テレビカメラの開発会社として東京ITV研究所を設立。工場を持たないファブライト経営を創業時から貫き、1976年に世界初のフォトマスク欠陥検査装置を開発して半導体検査装置メーカーとしての地位を築いた。創業者の急逝後も5代にわたり技術者経営を継承し、2009年にFPD事業を縮小して半導体に集中。2017年にEUV検査装置を世界で初めて実用化し、EUVマスク検査の世界シェア100%を獲得した。2025年6月期の売上高は2,514億円、営業利益率48.8%に達している。
- カシオ計算機 — 1946年に樫尾4兄弟が東京三鷹で始めた製作所が、1957年に世界初の小型純電気式計算機14-Aを世に出してカシオ計算機となった。1972年の『カシオミニ』12,800円による電卓の大衆化、1983年のG-SHOCK登場、1980年の電子楽器カシオトーンと、「需要創造型のオンリーワン商品」を連発することで売上6,000億円超の総合電子機器メーカーに成長した。 ただし2000年代以降、デジタルカメラ・携帯電話・電子辞書といった多角化の各事業がスマートフォンの登場で軒並み縮小し、売上は半減した。残ったG-SHOCKと教育関数電卓の2本柱に経営資源を集中させる構造改革は、2022年就任の非創業家社長・増田裕一から2025年の高野晋体制へと受け継がれている。
- ファナック — ファナックの源流は1956年に富士通の技術担当常務であった尾見半左右が通信機・コンピュータ・制御の「3C構想」のもとで制御分野の担当者として稲葉清右衛門を指名したところにあり、稲葉は工作機械をコンピュータで数値制御するNC装置の研究開発に着手して1959年には電気圧パルスモーターを発明して特許を取得した。参入から約10年にわたる長い赤字期は社内で「神代の時代」と呼ばれ、大企業の懐で赤字を甘受できた辛抱こそが独立後の競争優位の源泉となっていく。1972年に富士通から分離独立すると汎用品集中戦略と山梨県忍野村への本社移転による独自の立地戦略を武器にNC装置の国内シェア七割を確保し、1985年には売上高経常利益率36.6%で全上場企業中日本一の収益力を達成する異例の高収益企業へと育っていった。 1980年代後半から2000年代にかけては生産拠点の拡充とグローバル展開を進める一方で、親会社富士通が保有するファナック株式を段階的に売却して経営の自立を完成させた時代であった。2011年頃からはiPhone筐体の切削加工に用いるロボドリルが爆発的に普及し、汎用NCの寡占収益と特定製品連動型のロボドリルという二面性を同時に抱える独特の構造が形成された。2019年には創業者稲葉清右衛門以外の山口賢治社長体制が始まり、翌2020年には清右衛門が95歳で逝去して六十四年にわたる創業者時代の幕が下りた。2024年以降は米国関税対応と生成AI・フィジカルAI活用の本格展開を経営の中核に据え、新型協働ロボットCRXシリーズと新CNCシリーズ500i-Aを軸として自動化の敷居を下げる次世代戦略への転換を具体化している途上にある。
- ローム — ロームは1954年に京都で創業した電子部品企業である。抵抗器メーカーとして出発し、1969年のIC参入で半導体メーカーへ転換。大手が避けるニッチ市場を狙うカスタムIC戦略と無借金経営で独自の地位を築いた。2009年以降はSiCパワー半導体に経営資源を集中し、ドイツのSiCウェハメーカー買収でサプライチェーンを垂直統合。2023年には東芝非公開化に3000億円を出資しパワー半導体の国内連携体制を構築したが、大型投資が重なり2025年3月期に大幅赤字へ転落した。2026年にはデンソーからの買収提案を受け、独立系半導体メーカーとしての存続が問われている。
- 京セラ — 京セラの源流は1959年に松風工業でアルミナ磁器などの研究開発に従事していた稲盛和夫が、二十七歳で独立して京都の財界人たちの支援を受けながら京都セラミック株式会社を新たに設立したところにあり、設立時の筆頭株主は宮木電機の創業家であり創業者稲盛は株主順位で第四位にとどまるという技術者起業として独特の資本構成で出発した。創業期の主力製品はブラウン管テレビ向けの絶縁部品である「U字ケルシマ」であり、国内大手から十分な信用を得られなかった京セラは創業三年目から米国市場の開拓に踏み出し、1966年には米IBMからIC用アルミナ基板の大口受注を獲得して半導体パッケージ市場への歴史的な本格参入を果たし、1983年にはICパッケージの世界シェア約七割を確保する寡占企業へと飛躍的に成長していった。 1971年の株式上場後は買収による多角化を本格化して光学精密機器と電子機器へ領域を広げ、1984年には第二電電企画に発起人出資して通信にも参画したが、1990年代にはパッケージ素材がセラミックから樹脂へ転換する波に対してイビデンに後れをとって祖業のシェアを侵食された。2008年には三洋電機から携帯電話事業を取得したがスマートフォン普及で従来型端末市場が消滅し、アメーバ経営も技術パラダイム転換には無力であった。2024年度決算でROEが0.7%まで沈んだことを契機として、2025年からは資本政策と事業ポートフォリオを同時に抜本改革する経営改革プロジェクトが始動し、谷本から作島への社長交代と監査等委員会設置会社への移行、大規模なKDDI株式売却と自社株買いによる同社初の本格的な資本効率改善が進行中である。
- 太陽誘電 — 太陽誘電は1950年3月23日に誘電体セラミックスの研究者・佐藤彦八が東京都杉並区で創業した電子部品メーカーであり、創業時から「素材の開発から出発して製品化を行う」という独自の信条を掲げて受動部品専業の道を歩み続けてきた企業である。社名は研究対象の「誘電体」に「太陽」を冠したもので、明るく温かみのある会社にしたいという願いが込められている。佐藤は半導体には一切参入しないという原則を最初から明確に打ち出し、全社員約1150人のうち研究部門に約125人を配置する開発重視の組織を構築した。創業同年9月にはチタン酸バリウムセラミックコンデンサを商品化し、1970年の東証二部上場時点では固定磁器コンデンサの国内シェア約20%で業界首位の地位を確立し、独自の材料研究を軸とした垂直統合型の開発体制が定着した。 1984年に世界初のニッケル電極大容量MLCCを商品化して業界標準技術を生み出し、1988年にはCD-Rを世界初商品化して光記録メディア事業に進出して消費財市場への挑戦を試みた。しかし2000年代後半からのHDD大容量化とクラウドストレージの普及によって記録メディアの需要は急速に縮小し、2015年6月にCD-R・DVD-Rを含む全製品で完全撤退を決断することとなった。2018年にはエルナーを子会社化して車載向けアルミ電解コンデンサを加え、MLCC・インダクタを中核とする高付加価値戦略を鮮明にしてきた。直近では通信用デバイス事業の構造改革を2025年2月から進めつつ追加の人員削減を実行し、2026年度スタートの次期中期経営計画ではAIサーバー向けMLCCの旺盛な需要を捉えた本来の開発主導型への回帰を目指している。
- 村田製作所 — 電気の知識を持たない碍子屋の息子が始めた町工場は、セラミックスという焼き物技術を電子部品に転用することで、80年後に売上収益1兆7,000億円を超える企業へと育った。技術的参入障壁を武器に、村田は1979年に輸出の96%を円建てに統一するという、輸出企業としては逆張りの通貨戦略をやってのけた。 その強さはMLCCとセラミックフィルターの世界シェアが支えていたが、2010年代に入ると高周波モジュール、リチウムイオン二次電池、MEMSセンサという「第2の柱」への投資が相次ぎ挫折する。2022年買収のResonant社のれんは2026年2月に全額438億円の減損となり、コンポーネント主軸の強さと新事業育成の難しさが同時に表面化している。
- 日東電工 — 第一次世界大戦で電気絶縁材料の輸入が途絶した1918年、東京大崎で従業員14名で始まった日東電気工業は、1930年代に主要顧客の日立製作所自身による絶縁ワニス内製化で経営難に陥り、日立の100%子会社となって再建された。戦後に独立を回復したあとは、1961年に乾電池・磁気テープ事業をマクセルとして手放してBtoB特化へ舵を切り、1975年に始めた「三新活動」で過去3年以内の新製品が売上の30%を占める開発体制を定着させた。 液晶偏光板で世界シェア首位級に達した後、韓国・中国勢の台頭を受けて技術供与(2017年杭州錦江集団)と事業分散を進め、メディカル(2011年Avecia買収)・パーソナルケア(2022年Mondi事業買収)へ軸足を広げた。創業107年目の2025年3月期、連結売上収益は初めて1兆円を超え、営業利益1,857億円で過去最高を更新している。
- カナデビア — 1881年、英国人E.H.ハンターが大阪安治川岸に開いた大阪鉄工所は、明治初期の日本民間造船業の源流の一つとして出発した。1934年に日本産業、1936年に日立製作所の系列下へ移り、1943年に「日立造船」の社名を得る。そしてその社名は、2002年に造船事業をユニバーサル造船(現ジャパンマリンユナイテッド)へ営業譲渡した後も22年間使われ続け、「造船事業を持たない造船会社」という名実の乖離が長く残った。 2024年10月、同社はこの81年間の社名を「カナデビア」へ改めた。社名と事業実態の一致によって、環境プラント・エネルギー・水処理・産業機械を主軸とする新しい事業ポートフォリオが前面に出た形である。2025年3月期には連結売上収益6,105億円・営業利益269億円で過去最高を記録し、社名変更後の初年度を最高益で締めくくった。
- 三菱重工業 — 三菱重工業の源流は1887年に三菱財閥が旧徳川幕府の長崎の造船所「長崎熔鉄所」の払い下げを明治政府から受けたところにあり、海運事業の船舶修繕をイギリスまで持ち出す不便を解消するために、国内に自前の造船所を確保する垂直統合の発想こそが岩崎弥太郎以来の三菱の戦略的な出発点であった。1917年に三菱造船が独立会社として設立され、1934年に三菱航空機との合併で三菱重工業が発足すると、戦艦武蔵と零戦を生み出す日本有数の巨大軍需企業となったが、終戦後の連合国軍による財閥解体で新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の三社へと強制分割された。十五年の別会社運営を経て1964年に再合併を実現し、戦前からの造船と軍需の両分野における技術的蓄積が再び一つの組織の内部に集約されることとなった。 1953年の戦闘機ライセンス生産への参入を皮切りに防衛産業での寡占的地位を築き、ガスタービンや原子力などのエネルギー分野でも顧客囲い込み型のビジネスモデルを確立したが、MU-300ビジネスジェット、大型客船、SpaceJet(旧MRJ)といった民間大型プロジェクトでは技術的完成主義が撤退判断を遅らせる組織課題が繰り返し露呈した。SpaceJetは累計一兆円規模の損失を計上して2023年に開発中止となり、民間事業の整理を終えた三菱重工は防衛・エネルギー・宇宙という政府・電力会社向けの寡占事業への経営資源集中を本格化させた。2024年3月期に過去最高益を達成した同社は、2025年以降もAI時代の電力需要に牽引されたガスタービン複合サイクル発電(GTCC)と防衛予算の拡大という二つの追い風を背景に受注残を五兆円規模まで積み上げている。
- 川崎重工業 — 川崎重工業の源流は1878年に貿易商であった川崎正蔵が東京築地に川崎築地造船所を創業したところにあり、明治維新後の富国強兵と殖産興業政策のもとで海運の近代化が急速に推進される時代の流れに船舶需要の将来性という商機を見出した参入であった。築地では敷地拡張に限界があったため1887年に明治政府から官営兵庫造船所の払い下げを五十年分割払いで取得して神戸に拠点を移し、三菱に次ぐ国内第二位の造船所へと急成長を遂げた。1920年代後半の昭和恐慌と軍縮によって経営危機に陥り1931年には和議を申請して三千名の人員整理を敢行したが、海軍艦艇の建造能力を失うことは国益に反するとの判断から政府特別融資を得て辛うじて存続を果たし、戦時期には艦艇・航空機・鉄道車両を量産する巨大な軍需企業へと発展した。 戦後の財閥解体によって造船・航空機・鉄道車両・製鉄・海運の各事業は完全に分離されたが、1969年に川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の三社が歴史的な再合併を果たして総合重工メーカーとして復活した。二輪車とロボットの事業化を通じて造船一本足の脆弱性からの脱却を一世紀以上にわたって段階的に進めてきたものの、2013年には三井造船との造船統合をめぐる異例の社長解任劇を経験するなど、重工業特有の事業ポートフォリオ管理の難しさを繰り返し露呈してきた。2024年以降は防衛予算拡大とAI時代の電力需要増を追い風に航空宇宙・エネルギー・船舶海洋の三分野で過去最高の受注と売上を記録し、液化水素サプライチェーンとフィジカルAIロボットという次世代事業への投資を加速している。
- IHI — IHIの源流は1853年にペリー来航を受けて江戸幕府が隅田川河口の石川島に設けた洋式造船所にあり、明治政府の官営工場払い下げによって平野富二が取得し、1889年に渋沢栄一の経営参画を得て有限責任石川島造船所として法人化したところから近代企業としての歩みを開始した。翌1890年には株式会社東京石川島造船所に改組して渋沢が初代会長に就任し、第一銀行からの融資体制を整えて造船業における近代化の典型的な成功事例となった。1920年代以降は航空機と自動車の製造にも参入して、1929年には航空機部門を立川飛行機として、自動車部門をいすゞ自動車の前身として分離独立させ、1945年には石川島重工業に商号変更して戦後の復興期には造船以外の陸上部門が売上の約八割を占める実質的な機械メーカーへと変貌を遂げていた。 1960年の播磨造船所との大型合併で石川島播磨重工業として発足し、土光敏夫社長の先見的な判断のもとで大型タンカーの建造と陸上機械の両輪体制を築いた。1970年代以降の造船市況の構造的な低迷を経て、2001年の川崎重工との統合撤回と2002年の住友重機械との統合でIHIマリンユナイテッドへと造船事業を分社化し、航空エンジン・ターボチャージャー・防衛・社会インフラの四領域への資源集中を段階的に進めた。2007年には石川島播磨重工業からIHIへの商号変更によって「造船」の名を公式に離脱し、2021年には航空エンジン検査問題で682億円の最終赤字を計上するという厳しい経験を経て業績を回復させ、2025年以降は井手新社長体制のもとで航空エンジンと原子力を中核とした新中期経営計画の策定に本格的に着手しつつある。
- 横浜フィナンシャルグループ — 中核子会社の横浜銀行は1920年に横浜興信銀行として設立された。七十四銀行と横浜貯蓄銀行の経営破綻を受け、政府・日本銀行の特別融資1,600万円を原資に、役員無報酬・株式無配当という公共的使命を負って発足した銀行である。昭和期に左右田銀行・第二銀行・関東興信銀行など県内銀行を相次いで合併し、1945年には神奈川県唯一の地方銀行となった。1957年に横浜銀行へ改称し、1969年に地方銀行の預金量で全国首位に立って以降、その地位を維持している。2016年に東日本銀行と経営統合してコンコルディア・フィナンシャルグループを設立、2023年に神奈川銀行を子会社化し、2025年10月に横浜フィナンシャルグループへ商号変更した。FY24の連結純利益は828億円、連結総資産は約24.8兆円である。
- 日産自動車 — 日産自動車の源流は1933年十二月に日産財閥の創業者であった鮎川義介が自動車製造株式会社を新たに設立したところにあり、当時の日本国内の自動車市場が米フォードとGMの輸入車によって完全に席巻されていた状況のなかで「年に一万台や一万五千台を造らなければ自動車事業として成り立たない」という量産前提の明確な経営判断から出発した。傘下の戸畑鋳物が保有していた小型車ダットサンの事業を重要な足がかりとして翌1934年に日産自動車へと商号変更し、新設の横浜工場でダットサンの本格的な量産を開始した。1936年には自動車製造事業法の指定会社となり、トヨタやいすゞと並ぶ国策メーカーとしての地位を確立して戦後の国内自動車産業の礎を築いていった。 1952年の英オースチン社との技術提携とその後の1959年のダットサンブルーバード自社開発を通じて戦後の技術的な空白を埋め、1966年のプリンス自動車合併を経て国内第二位の自動車メーカーとしての地位を確立した。1970年代以降は北米と欧州での現地生産を段階的に開始してグローバル展開を進めたが、1993年三月期に経常赤字に転落し、1999年のルノーとの提携とカルロス・ゴーン社長による日産リバイバルプランで一時は劇的な再建を果たした。2018年十一月のゴーン逮捕以降は求心力が急速に低下し、2024年十一月にはグローバル九千名の人員削減を決定し、同年十二月にはホンダおよび三菱自動車との三社経営統合協議の開始が公表されるという歴史的な局面を迎え、2025年以降はエスピノーサ新社長のもとで「Re:Nissan」構造改革による再建の道筋が模索されている。
- いすゞ自動車 — いすゞ自動車の源流は1916年に東京石川島造船所が自動車製造を開始した時期にあり、1937年に商工省の主導で東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同して東京自動車工業が発足し、国策による国産ディーゼル商用車メーカーの本格的な基盤が整えられた。1941年にヂーゼル自動車工業と改称して大型トラックの量産体制を築き上げ、戦時下には陸軍の要請で日野工場を新設したが、管轄の違いから1942年には日野重工業として分離され、戦後の財閥解体期の株式売却を経て同業の競争相手を生む結果となったことが後のいすゞの商用車戦略に長い影を落とし続けた。1949年にいすゞ自動車へと改称して東証に上場し、小型トラック「エルフ」の投入と乗用車部門の立ち上げによって戦後復興期の商用車市場で高い地位を築いた。 1971年の米ゼネラル・モーターズとの全面提携を契機として乗用車ジェミニや117クーペを展開したが、国内の小型乗用車市場で業績は安定せず1993年に乗用車事業から撤退し、以後は商用車専業メーカーとして独自のポジションを追求する経営方針が明確にされた。2006年にはGMとの資本関係を解消してトヨタ自動車を新たな資本パートナーに迎え、タイを軸とする輸出ピックアップトラック事業の拡大と北米中型商用車市場への参入によってグローバル商用車連合の一角を占める存在へと成長を遂げた。2019年のUDトラックス取得を経てボルボとの戦略提携を深め、2026年には大型トラックの生産機能を上尾工場に集約し、自動運転と電動化を見据えた次世代商用車メーカーへの転換に踏み出している。
- トヨタ自動車 — 自動車産業は巨額の設備投資と長い開発期間を特徴とし、需要の読み違いは過剰設備による収益悪化に直結する一方、投資判断の遅れは市場を競合に明け渡す結果を招く。トヨタ自動車は1933年に豊田自動織機製作所の一部門として発足し、戦後の経営危機では1600名の人員整理と製販分離による再建を経験した。この痛みが増員に頼らず生産能力を高める思想を生み、大野耐一によるかんばん方式として結実した。1959年の元町工場では需要の確証がない段階で月産1万台の設備を用意し、1966年のカローラ専用工場では月産2万台規模に拡大して日産との競争を設備投資の規模と速度の勝負に転換した。供給側から市場を規定するという姿勢がトヨタの歴史を一貫して貫いている。 1984年のGMとの合弁NUMMIで北米における現地生産の成否を実地に検証し、1986年にケンタッキー州で単独工場を立ち上げた段階的な海外進出は、日米貿易摩擦の渦中にあって供給基盤を不可逆的に現地へ移す重い決断だった。1997年には世界初の量産ハイブリッド乗用車プリウスを発売して電動化の技術で自動車業界全体に先行し、2009年のリーマン・ショックでは創業以来初の営業赤字4610億円を計上したが、環境技術や安全技術の研究開発費を温存しつつ原価と固定費を横断的に圧縮して収益構造を立て直した。2024年3月期には営業利益5兆3529億円と過去最高を記録し、2023年に就任した佐藤恒治社長のもとで全固体電池の実用化と次世代電気自動車の量産体制の構築を推し進めている。
- 日野自動車 — 1942年にいすゞ自動車の日野製造所を分離して日野重工業として設立。戦車製造の軍需工場として発足したが、終戦で全社員を解雇し300名体制で商用車メーカーに転換した。1966年にトヨタとの業務提携で大型トラックに特化し、国内シェアトップを確保。2001年にトヨタの子会社となったが、2022年にエンジン認証の不正が発覚し経営危機に陥り、三菱ふそうとの経営統合を模索している。
- 三菱自動車 — 1970年に三菱重工業の自動車部門を分離して設立。クライスラーとの資本提携で海外展開の足がかりを得たが、北米販売の制約を受け、パジェロやランサーで独自の海外市場を開拓した。2000年代に二度のリコール隠しが発覚して経営危機に陥り、三菱グループの支援で存続。2016年に日産自動車と戦略提携を締結しルノー・日産アライアンスに参画したが、東南アジア偏重の収益構造と度重なる不祥事が経営の安定を阻んでいる。
- マツダ — マツダの源流は1920年に広島で設立された東洋コルク工業にあり、創業者の松田重次郎は第一次世界大戦後のコルク需要の急減を受けて工作機械と自動車という全く異なる事業への転換を決断し、1931年に三輪トラック「マツダ号」を市場投入して商用車産業への参入を果たした。1945年8月の原爆投下により広島の本社工場は甚大な被害を受けたが、終戦直後に驚異的な早さで生産を再開して戦後復興期の物資輸送を支え、1960年代には軽乗用車R360クーペと小型乗用車ファミリアを投入して乗用車メーカーの地位を確立した。1967年にはドイツNSU社から技術導入したロータリーエンジンをコスモスポーツに搭載して世界で初めて実用量産化することに成功し、国産独自技術の代名詞として国内外から高い注目を集めることとなった。 しかし1973年のオイルショックを契機としてロータリーエンジンの燃費の悪さが致命的な弱点として表面化し、1975年には営業赤字に転落して経営危機を迎え、1979年に米フォード・モーター社との資本提携を受け入れて北米現地生産や5チャンネル販売体制など規模拡大戦略を展開した。2008年のリーマンショック以後フォードは保有株式を段階的に売却し2015年に資本関係を完全に解消し、マツダは4期連続赤字の中で独自技術SKYACTIVと魂動デザインを軸とするブランド再構築戦略に舵を切った。2015年にはトヨタとの業務提携を開始し、2017年には米国アラバマ州に両社折半の合弁工場を設立する決定を下して北米市場への再参入を果たし、2026年現在は電動化と構造的原価低減の二大課題に本格的に取り組んでいる。
- ホンダ — 本田技研工業の源流は1946年に本田宗一郎が静岡県浜松市に設立した本田技術研究所にあり、戦後の物資不足と移動需要の高まりを背景に自転車用補助エンジンの製造から事業をスタートし、1948年に本田技研工業へと改組されて二輪車メーカーとしての本格的な出発を果たした。1949年に藤沢武夫が経営参謀として参画すると技術の本田と経営の藤沢という二人体制が確立され、1952年には資本金の実に7.5倍にも及ぶ大胆な工作機械への積極投資によって量産体制の基盤を一気に築き上げ、1958年発売のスーパーカブは世界累計1億台を突破する国民的商品へと成長した。1959年に米国現地法人を設立して二輪車の北米輸出を本格化し、1961年にはマン島TTレースで日本メーカーとして初の完全制覇を達成して国際的な技術力を広く世界に示した。 1972年にはCVCC搭載のシビックを投入して米国の排ガス規制への対応を自力で達成し、1978年には日本の自動車メーカーとして初めて北米における四輪車の現地生産を開始して業界史に大きな転換点を刻んだ。アコードは1989年に米国で最も売れた乗用車となり、欧州や東南アジアへの展開も加速して「Hondaの黄金期」と評される時代が築かれたが、2010年代に入ると北米市場の変化や欧州事業の赤字や中国市場での競争環境の変化が同時並行で噴出した。2020年には狭山工場と英国スウィンドン工場の閉鎖を含む再編計画を発表し、2024年には日産と三菱との経営統合協議に踏み出したが、翌2025年には協議が決裂してHondaは単独での構造改革を本格化させ、2026年現在は北米でのICE・HEV集中とEV戦略の見直しという舵取りを迫られている。
- スズキ — スズキの源流は1909年に鈴木道雄が静岡県浜松市に開業した鈴木式織機製作所にあり、当初は綿花工場向けの国産織機メーカーとして出発したが、戦後の綿紡績業の衰退という環境変化を背景として工作機械技術を活用した新事業への転換が経営の最重要課題として浮上した。1952年には原動機付自転車「パワーフリー号」の製造販売を開始して二輪車事業への参入を果たし、1955年には軽自動車「スズライト」を投入して四輪車メーカーとしての第一歩を踏み出し、1961年には鈴木自動車工業と改称して本格的な自動車メーカーの道を歩み始めた。浜松という独立系メーカーの集積地を本拠として、後発ながら独自路線による生存戦略を模索し続ける経営スタイルが長期にわたって確立されていった時期である。 1978年に社長に就任した鈴木修は、以後40年以上にわたって経営の第一線を指揮し続ける稀有な長期政権の下でスズキの独自性を世界的に確立した。1979年に47万円という破格の価格で発売された軽自動車「アルト」は「引き算の設計」という独自哲学の象徴として日本の大衆車市場に新しい需要を開拓し、1982年にインド国営企業マルチ・ウドヨグ社との合弁会社設立によって現在のマルチ・スズキへとつながる長期のインド戦略が動き出した。1981年から1986年の米GMとの資本提携と2000年代の破綻に伴う解消、2009年から2015年の独フォルクスワーゲンとの提携紛争における4,602億円規模の仲裁判決を経て、2019年にはトヨタとの業務提携を締結し、2026年現在はインド市場での生産能力増強と北米向け拡大の両立を軸に独自の道を模索している。
- SUBARU — SUBARUの源流は1917年に中島知久平が群馬県太田に創設した飛行機研究所、のちの中島飛行機株式会社にあり、戦前期には陸軍と海軍の主力戦闘機の設計と量産を担当する日本を代表する航空機メーカーとして急成長を遂げた。1945年の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令によって中島飛行機は富士産業株式会社へと改組され、1950年の財閥解体政策によって実に12社に分割された後、うち5社が1953年7月に再結集する形で富士重工業株式会社が正式に発足した。航空機技術者集団という戦前からの独自の技術的な蓄積を基盤として軽自動車スバル360を1958年に市場投入し、以後「スバル」というブランド名で大衆車市場に本格的に参入することとなった時期である。 1966年に発売された初代スバル1000で水平対向エンジンと前輪駆動の独自の組み合わせを採用し、1972年には世界に先駆けて乗用車に四輪駆動方式を市販化して「水平対向+AWD」という独自の技術パッケージが確立された。1990年代前半の業績低迷期には日産自動車からの社長派遣を受けて構造改革を進め、日産→GM→トヨタという資本の大株主が3度も入れ替わる異例の資本変遷を経た後、2008年のGM保有株式売却を契機としてトヨタが大株主となり現在に至っている。2017年にはSUBARUへと社名を変更し、北米SUV市場への経営資源の集中とアイサイトを軸とする運転支援技術による差別化という二本柱の戦略が徹底的に進められ、2026年現在は米国トランプ政権による自動車関税という未曽有の逆風下で営業利益1,000億円水準の確保に向けた構造改革を本格的に進めている。
- ヤマハ発動機 — ヤマハ発動機の源流は1955年7月に日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)から二輪車製造部門を分離独立して設立された新会社にあり、戦時中に楽器事業の拠点であった日本楽器の工場に蓄積されていた約1,000台規模の工作機械を新しい二輪車製造事業へと大胆に転用するという経営判断のもとで後発の二輪車メーカーとしての出発を果たした。初代社長に就任した川上源一は音楽家としての背景と経営者としての感性を併せ持つ特異な人物であり、「感動創造企業」という独自のコーポレート哲学と徹底した量産体制の構築を両立させる独自の経営スタイルのもとで、1960年代を通じて国内の二輪車市場で急速にシェアを拡大してホンダに次ぐ業界第2位の地位を確立することに成功した時期である。 1970年代後半から1980年代初頭の「HY戦争」ではホンダとの激しいシェア争いに敗れて深刻な業績悪化を経験し、1982年には戦後初の営業赤字を計上して経営危機を迎えたが、その後は二輪事業の東南アジアへの段階的な展開と、1960年に始まったマリン事業の北米市場での成長という二本柱の戦略によって事業構造の多角化を進めていった。1984年には産業用ロボット事業に参入し、2001年にはゴルフカー事業、2016年には産業用ドローン事業へと段階的に事業領域を拡大し、2020年代には二輪と マリンとロボティクスとRVとSPVという多角的な事業ポートフォリオを形成するに至った。2026年現在は東南アジア二輪のプレミアム戦略の成果と、北米マリンの大型船外機需要の停滞、そして米国関税と鉄鋼関税の二重の逆風という複合的な課題に同時並行で取り組んでいる段階である。
- 良品計画 — 1980年に西友のPBとして始まった「無印良品」は、1989年に独立法人・良品計画に切り出されて以来、国内直営と海外展開の2軸で4961億円規模(2022年8月期)まで拡大した。その過程には、2020年8月期の純損失169億円という上場以来初の大幅赤字と、直後に訪れた社長交代という断層がある。 拡大期の良品計画はユニクロと並ぶ日本発のグローバル小売として語られた。だが2021年に就任した元ファーストリテイリングの堂前宣夫は「規模でトップは目指さない」と明言し、都心大型店から地方食品スーパー隣接の600坪店舗へと舵を切った。同じ思想系譜から来た経営者が、正反対の戦略を選んだことが2024年の売上高6616億円、2025年の7846億円という回復を生んでいる。
- サイゼリヤ — 1967年に理系出身の正垣泰彦が千葉県本八幡で飲食店を個人開業し、翌年イタリア料理店サイゼリヤに転換した。全メニュー半額化で繁盛店に転じ、悪立地と低価格と素材重視を経営の原則に据えた。投資リターン20%を基準に全国展開を推進し、広告宣伝費を売上高比0.3%に抑えて食材原価に集中投資するモデルを確立。1998年に株式上場を果たし、2003年から中国市場にも進出した。
- ニコン — ニコンの源流は第一次世界大戦下で日本海軍がドイツ製光学機器の輸入途絶に直面したことにあり、岩崎小弥太率いる三菱財閥が海軍の要請に応えて1917年に日本光学工業を設立したところから始まる。藤井レンズ製造所を買収し大井工場を新設して光学ガラスの国産化に取り組んだが、安定量産に十年を要し、その間も軍需依存の体質は一貫して変わらなかった。1945年の終戦で従業員約二万五千名を抱える巨大軍需企業はほぼ全需要を一夜で喪失し、約二万名を整理解雇したうえで進駐軍将兵に評価されたレンズ品質を突破口に民需カメラへの転換を図り、輸出を通じて戦後の高級光学メーカーとして再出発を果たした。戦前の軍需集中と戦後の民需転換という非連続な経営転換は、この会社の出発点に刻まれた原体験である。 1980年のステッパー開発成功によって半導体露光装置という新たな柱を確立したニコンは、国内半導体産業の急成長に乗って世界シェア首位を長く維持し、カメラと露光装置の二本柱によって九十年代初頭まで高収益を享受した。しかし半導体産業の重心が台湾・韓国へ移る過程でオランダASMLに顧客対応で後れを取り、2000年代半ば以降シェアを急速に喪失した。カメラ事業もミラーレスへの移行で追撃される側に回り、主力二事業の同時不振という深刻な局面を迎える。直近では業務用動画機や次世代露光装置など重点領域への投資再配置を進めつつ、デジタルマニュファクチャリング事業で減損を計上するなど過去の買収の再検討も並行しており、2027年3月期からの次期中計でどこまで再成長の道筋を示せるかが経営の焦点となっている。
- オリンパス — オリンパスの起源は第一次世界大戦によるドイツ製光学機器の輸入途絶を受けて山下長が1919年に設立した高千穂製作所であり、翌年に国産顕微鏡「旭号」を完成させて国内顕微鏡メーカーとしての原型を確立した。しかし体温計と顕微鏡の二事業同時運営は資金的に両立せず、1923年にテルモへ体温計事業を売却して顕微鏡へ経営資源を集中する決断が下された。その後も資産譲渡を巡る係争や軍需生産への傾斜、信州への疎開といった波乱を経て戦後を迎える。戦後は1950年代に東大医師の要請で胃カメラの実用化に成功し、医師ネットワークを組織的に確保して内視鏡事業の長期的な基盤を築き、1961年のペンEEヒットでカメラメーカーとしての認知度も拡大した。顕微鏡から胃カメラ、ファイバースコープへと連なる光学系列が現在の骨格を成す。 二十一世紀に入るとオリンパスは映像と医療の双方に同時投資する路線を掲げたが、映像事業はソニーやパナソニックの参入で価格競争が激化しセグメント赤字に陥った。さらに2011年には長年にわたる損失先送りが英Gyrus買収の財務アドバイザー報酬問題を契機として露呈し、会社は消化器内視鏡の独占的シェアに依存して事業の再建を進めていく。2020年にはカメラ事業を日本産業パートナーズへ売却し、創業以来101年のカメラ事業に幕を下ろして医療機器専業企業への転換を完了した。直近ではFDA警告書を背景にElevate変革プログラムを推進する一方、2025年のSIS製品出荷停止と2026年初のFDA査察指摘への対応という品質課題に直面し、品質ガバナンスの成熟度を引き上げられるかが焦点となっている。
- SCREEN HD — SCREENホールディングスは1868年に石田才次郎が京都で銅版印刷を営む石田旭山印刷所を創業した歴史を源流とし、2代目の石田敬三が1920年代に写真印刷の普及を見据えて写真製版用ガラススクリーンの国産化に着手したことを事業転換の起点とする。ガラス面の精密エッチングという既存技術を大きく上回る要求水準を克服するため、1934年に「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を開発して商工省から工業研究奨励金を交付された。量産工程の確立には参入決定から約20年という長い歳月を要し、1943年10月に株式会社大日本スクリーン製造所として法人化する形で事業基盤が整えられた。精密エッチングという一本の技術軸は戦後の写真製版機器からシャドーマスク、さらに半導体製造装置へと展開される技術系譜の出発点となった。 1975年に半導体製造装置への参入を果たし、製版機器で蓄積された「位置決め・塗布・表面処理」の基本技術を半導体領域へと転用することで参入障壁を引き下げ、1994年には電子工業向け機器の売上が印刷関連を上回って業態転換の決定的な転換点を迎えた。1990年代後半の不況期に石田明社長の判断で300mmウエハ対応への先行投資を貫き、競合中堅が次々と脱落して2001年以降は洗浄装置の世界シェア首位という地位を獲得する戦略的勝利を収めた。2014年に持株会社体制へ移行してSCREENホールディングスに商号変更し、2022年にはバッチ式48%・枚葉式33%の寡占的な世界シェアを確保している。直近ではAI関連投資の急拡大に対応しつつ売上ペンディング案件を繰延べ、ニコンから事業譲受で後工程・直描露光機を強化するなど次の布石を打ちつつある。
- HOYA — HOYAの源流は1941年11月に山中正一・山中茂の兄弟が東京北多摩郡保谷町で創業した東洋光学硝子製造所であり、製紙業を営んでいた兄弟は太平洋戦争下での軍需用光学ガラス国産化という国家要請に応える形で全く異業種からの参入を果たした。山中正一は溶解炉の前に筵を敷いて寝泊まりするほどの執念で独自のガラス溶解法と坩堝開発に取り組み、約二年の試行錯誤を経て1943年に光学ガラス「保谷BK7」の溶融に到達した。品質を認められて海軍管理工場に指定されたものの、1945年の終戦で軍需は一夜にして消滅し、続くクリスタル食器の北米輸出も1949年の単一為替レート制定で採算が崩壊し、創業から九年間で二度の経営危機を連続して経験することとなった。この体験が集中リスクへの警戒と分散志向の原点を底層に刻み込んでいる。 1957年に32歳で社長に就任した鈴木哲夫はシェアを「かけがえのない資産」と定義して主力製品でのシェア五十パーセント以上を目標に掲げ、眼鏡レンズ・光学レンズ・マスクブランクスといったニッチ市場における支配的地位を長期にわたって築き上げた。1990年のコンタクトレンズ問題を教訓としてROE経営への転換を進め、不採算事業の整理とポートフォリオの入替を継続し、半導体分野ではEUVマスクブランクスという最先端領域での独占的地位を確立していった。直近ではメガネレンズの緩やかな成長とHDD基板および半導体ブランクスの急伸が事業全体を牽引し、中国眼内レンズ合弁の100%子会社化や映像事業でのCUPO需要の急拡大、そして1000億円の自己株取得など、既存事業の深掘りと資本効率の追求が並行する局面にある。
- キヤノン — キヤノンの源流は1933年11月に映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎が東京六本木のアパートで創業した精機光学研究所であり、出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅であった。開発から二年でカメラの国産化に成功し、ブランド名を「kwanon」から「Canon」へと改め、1937年に精機光学工業として資本金100万円で正式設立された。終戦を契機に産婦人科医を断念した御手洗毅は「外国品防衛を目的とする優秀国産カメラの大成は私しか担当するものがない」と述べて経営に専念し、1947年にキヤノンカメラ株式会社への改称を行って海外展開を見据えたカタカナ社名を採用した。1951年には下丸子に資本金の十倍となる2億円を投じて本社工場を新設し、品質に自信を持てる快心の作が出るまでは量産を自重する経営哲学を貫いた。 1967年に「右手にカメラ、左手に事務機」という多角化方針を打ち出した後、電卓の価格競争からの撤退と1975年の無配転落を経て、1977年に就任した賀来龍三郎のもとで事業部制導入と研究開発の事務機集中という経営改革が本格化した。1985年締結のHP社とのLBP OEM供給契約をテコに事務機メーカーとしての世界的な地位を確立し、1990年にはBJ-10vでインクジェット市場でも二大ブランドとなり、連結売上高は1兆円を突破する。2000年代以降はデジタル化とM&Aによる拡張を並行して進め、2015年のアクシス買収と2016年の東芝メディカル買収によって新たな柱を獲得した。直近では関税とメモリ価格上昇の逆風下でPhase VII計画の規律を両立させる局面にあり、新社長人事とフォトンカウンティングCT、ナノインプリント、プリンティング市場の巻き返しが焦点となっている。
- リコー — リコーの源流は富国生命の保険セールスマンから理研コンツェルンの感光紙部門長に抜擢された市村清が、古参社員との衝突の末に大河内正敏博士から感光紙部門の分離独立を任された1936年2月の出来事にある。資本金35万円・従業員33名で発足した理研感光紙は、1938年に理研光学工業へ改称してカメラ製造に進出し、1950年発売のリコーフレックスが朝鮮戦争特需で月産1万台を記録する「花形三羽烏」の一角として急成長を遂げた。しかしカメラブームは短命に終わり、1955年には感光紙技術を応用した卓上型複写機「リコピー101」を発売して事務機市場に参入する。1960年代前半の泰平ムードのなかで五輪後不況により経営は悪化し、1965年3月期に8億4千万円の不良資産を一括処理して無配転落する最初の危機を迎え、市村自身が自殺を考えるほどの窮地に立たされた。 1977年のOAコンセプト提唱を起点に「販売のリコー」として事務機メーカーの地位を築いたリコーは、三層販売網と保守・消耗品のアフター収益モデルを組み合わせて1989年3月期に経常利益219億円の絶頂期を迎えた。しかし1992年3月期の営業赤字17億円を契機に浜田広が二度目の膿の一括処理であるCRPを断行し、1995年3月期の営業利益185億円まで回復させる。その後の桜井時代の海外M&A拡大と近藤時代の1705億円IKON買収はリーマンショックと文化的摩擦の二重の壁に阻まれ、2017年に山下良則社長のもとで1759億円の減損を一括計上して三度目の膿処理を実施した。直近では2026年3月の新中期経営戦略発表を控え、構造改革費用と半導体メモリ逼迫の影響に対応しつつ、「デジタルサービスの会社」への再定義を成長軌道につなげる段階にある。
- シチズン時計 — クオーツ時計でセイコーに技術で先行されたシチズン時計は、1976年に「時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断」でムーブメント(駆動部)の外販を始めた。心臓部を他社に売る禁じ手だったが、結果としてシチズンの駆動部が世界の低価格腕時計の事実上の標準となり、1986年度にはセイコーを抜いて腕時計生産量の世界シェア1位を確保した。 2000年代に多角化した電子デバイス事業は、2009年3月期の純損失258億円、2013年3月期の89億円と二度の大型減損で清算された。コロナ禍の2021年3月期にも純損失252億円を計上したが、2022年3月期以降は時計事業とスイス高級時計子会社、工作機械事業が揃って回復し、2025年には佐藤敏彦から大治良高へ社長交代して「時計事業の成長戦略を強力に推し進める」体制に入った。
- バンダイナムコHD — 玩具最大手のバンダイと業務用ゲーム大手のナムコが2005年に経営統合して発足した会社である。統合の直接のきっかけはプレイステーション2向け「機動戦士ガンダム」の共同開発で、物販に強いバンダイと施設・開発に強いナムコを組み合わせることで少子化が進む国内市場を越えた展開を狙った。 しかし統合の効果は一直線には出ず、発足5年目の2010年3月期には初の当期純損失299億円を計上した。そこから構造改革と、ガンダム・ドラゴンボール・ELDEN RINGといった強いIPを軸とする経営の徹底によって、統合20年目の2025年3月期には売上高1兆2,415億円、営業利益1,802億円まで到達した。
- TOPPAN(凸版印刷) — 1900年にヨーロッパの最新製版技術「エルヘート凸版法」を導入して創業した技術型ベンチャーが、有価証券や教科書の印刷で国内最大手の一角となり、やがて印刷技術の延長としてエレクトロニクスと軟包装を獲得した。しかし2008年3月期の売上高1兆6,704億円をピークに、紙媒体縮小の逆風が10年以上続いた。 この停滞を突破したのが麿秀晴体制だった。2023年10月、創業123年目にして「凸版印刷」の社名を捨てTOPPANホールディングスに移行。保有株式売却による特別利益で得た資金を北米軟包装と半導体フォトマスクに振り向け、2025年3月期に売上高1兆7,179億円で17年ぶりに過去最高を更新した。
- 大日本印刷 — 1876年に秀英舎として創業し、1935年に日清印刷との合併で当時日本最大の印刷会社となった。高度成長期以降は印刷の枠を越えてエレクトロニクスと包装に進出し、液晶カラーフィルタ・フォトマスク・メタルマスク・リチウムイオン電池パウチといった「印刷技術の延長線上にある製品」で半導体・ディスプレイ・EV市場に存在感を持つ企業に変貌していった。 2009年3月期に初の純損失209億円を計上し、2019年3月期にも構造改革に伴う356億円の純損失を経たが、2023年2月公表の経営基本方針でROE10%と5年3,000億円の自己株式取得を掲げ、特別利益と事業変革の両輪で2025年3月期の営業利益936億円まで回復した。印刷会社の財務・事業ポートフォリオの形を大きく書き換えた10年となった。
- ヤマハ — 1897年に山葉寅楠が日本楽器製造を設立し、オルガンとピアノの国産化から出発した。1950年に川上源一が社長に就任してヤマハ音楽教室を組織化し、教育による需要創出でピアノの国内シェア60〜70%を確立した。海外は商社を排して自社ブランドで直接販売し、1970年に世界シェア約30%を獲得。多角化でリゾートや半導体にも進出したが、2000年に最終赤字407億円を計上し、以降は楽器と音響への回帰を進めた。
- 任天堂 — 1889年に山内房治郎が京都で花札の製造販売を開始したことに始まる任天堂は、当初セメント販売業の副業として立ち上がった花札事業を、村井兄弟商会のタバコ販路を活用する形で全国規模に拡大し、1906年には洋式カルタ製造にも参入して明治後期の国内玩具業界における独自の地位を築いていった。1949年に取締役社長の急逝を受けて早稲田大学在学中の孫・山内溥がわずか22歳で社長に就任すると、任天堂もこれで終わりだという周囲の冷めた声を覆すように家内工業的な生産体制からの徹底した脱却を経営方針として掲げ、1953年に国産初のプラスチック製トランプの量産を実現し、さらに1959年のディズニーとのキャラクター提携と1960年代初頭のテレビCMを軸とした全国展開によって国内トランプ市場のシェア約80%を掌握するまで駆け上がった。 1983年のファミリーコンピュータ発売によって家庭用ゲーム市場そのものを自らの手で形成した任天堂は、以後ゲームボーイ・ニンテンドーDS・Wiiといった主力ハードを約10年周期で刷新しながら、自社IPを経営の軸に据えた独自の事業構造を長期にわたって維持してきた。2011年発売の3DSと2012年発売のWii Uはいずれも前世代の成功を再現することができず、2009年3月期をピークに連結売上高は8期連続で減少する苦境に陥ったが、2017年3月発売のNintendo Switchが携帯機と据置機という二系統を統合する単一プラットフォーム戦略で業績回復を力強く牽引した。2025年6月にはSwitchの後継機となるNintendo Switch 2を8年ぶりの新ハードとして世界同時発売し、2026年2月時点で累計セルスルーが1,500万台を突破するなど、単一プラットフォーム戦略の次段階への移行が本格的な軌道に乗り始めている。
- 伊藤忠商事 — 伊藤忠商事の源流は1858年に15歳の初代伊藤忠兵衛が近江国豊郷村の地から始めた麻布の行商にあり、1872年には大阪本町に「紅忠」を開業して呉服太物の取扱へと業態を転換、1885年には対米貿易業への参入を果たして神戸とサンフランシスコに拠点を構えるなど、行商から店舗経営・貿易・綿輸入へと明治期を通じて約40年で4度の業態転換を遂げた。1895年には日清戦争後の中国市場に進出して中国産綿糸の輸入を開始し、大阪周辺の紡績会社への販売を通じて「繊維商社」としての独自のビジネスモデルを確立した。第一次世界大戦期の急拡大の後に1920年の戦後不況で赤字転落し、丸紅商店分離や大同貿易切り離しという痛みを伴う組織再編を経て生き延び、1949年12月に現在の伊藤忠商事株式会社として戦後の再出発を果たした歴史を持つ。 1960年代以降は繊維偏重からの脱却を図って東亜石油買収と「和製メジャー」構想に踏み込んだが、オイルショック後の為替と原油価格の変動に耐えられず累計約1,300億円の巨額損失を計上する痛ましい経験を経て1985年に石油事業から完全撤退した。1977年の安宅産業救済合併で非繊維商権を戦略的に取得して総合商社化を加速し、2000年3月期には丹羽宇一郎社長のもとで特別損失3,950億円を一括計上してバブルの負の遺産を完全に清算、CTC上場益でこれを相殺する独自の再生劇を演出した。2010年代以降はファミリーマートの段階的買収完了とCITIC・C.P.グループとの戦略的資本提携を軸に非資源ポートフォリオの厚みを拡充し、2025年3月期には連結純利益8,803億円という過去最高益を更新して2026年3月期は「3冠」復帰を掲げた9,000億円計画を掲げている。
- 丸紅 — 近江商人の麻布行商から出発した店は、一度は伊藤忠と一体となり、戦時統合で三興・大建産業という巨大商社に姿を変え、財閥解体に似た分割で再び丸紅として独立した。同じ源流から生まれた伊藤忠との百年を超える併走は、総合商社という業態の来歴そのものを映している。 資源ブームで過去最高益を更新するたびに、次の価格下落局面で大型減損が襲う。2013年のガビロン買収、2020年のチリ銅減損、そして2025年の「時価総額10兆円」宣言と1.7兆円投資計画。丸紅の歴史は、資源への傾斜と非資源への揺り戻しを繰り返してきた総合商社の振り子の記録でもある。
- 豊田通商 — 豊田通商は、トヨタ自動車工業の自動車販売金融を目的に1936年に設立されたトヨタ金融を起点に、戦後商社として再編されてきた。トヨタグループの一角に連なりながら、2000年代以降は加商・トーメンとの連続合併で総合商社化し、2012年のCFAO買収でアフリカへ踏み込んだ。この一連の動きは、「トヨタの商社」という枠から「独自の個性を持つ総合商社」への移行の記録である。 資源価格下落で純損失437億円を計上した2016年3月期の直後、2017年3月期にIFRS適用で当期利益1079億円へとV字回復し、以降は売上10兆円・利益3600億円台の商社へ拡大した。2025年4月の新中期経営計画では2028年3月期の利益4500億円・ROE15%・総還元性向40%以上を掲げ、グループ内商社の枠を越えた資本政策転換を打ち出した。
- 三井物産 — 1876年に益田孝らが設立した旧三井物産は、日本の総合商社という業態の原型そのものだった。戦後の過度経済力集中排除法で解散させられ、数百社に分割された旧三井物産系商社が1959年に再統合して現在の三井物産となる。戦前商社の終焉と戦後商社の誕生を同じ看板の下で経験したことは、他の総合商社にはない来歴である。 2016年3月期に資源価格急落で当期純損失834億円を計上した直後の7年間で、三井物産は2023年3月期に24年ぶりの商社利益首位へ復帰した。鉄鉱石・LNG・ヘルスケア・モビリティを束ねる「3つの攻め筋」と、20年交渉を続けたRhodes Ridge鉄鉱石事業への8000億円投資、モザンビークLNGの4年越しの再開。三井物産の歴史は、長期資源プロジェクトで勝負し、価格変動で損失を吸収し、再び仕掛け直すというサイクルの連続である。
- 東京エレクトロン — 東京エレクトロンは1963年、日商出身の久保徳雄と小高敏夫がTBSの出資を得て設立したエレクトロニクス商社を起源とする。創業翌年に米国フェアチャイルド社のICテスター輸入を開始し、日本のIC産業勃興の仕掛人となった。1970年代に売上の6割を占めた消費財輸出から撤退してIC製造装置に経営資源を集中、米国メーカーとの合弁を通じた国産化を経て商社からメーカーへと業態を転換した。 1994年に海外販売を代理店から直販に全面転換し、6年で海外売上比率を34%から70%へ引き上げてグローバル企業へ脱皮した。2013年に世界最大手Applied Materialsとの経営統合に合意したが独禁法の壁で頓挫し、以後は独自路線で成長を加速させた。2025年3月期には売上高2兆4316億円・営業利益率28.7%を達成。生成AI需要を追い風に売上高3兆円・営業利益率35%を目標に掲げる。
- 住友商事 — 住友商事の源流は住友財閥が1920年に総理事・鈴木馬左也の名で発令した「商社設立禁止宣言」を1945年8月の終戦を機に古田俊之助総理事が撤回し、同年11月に日本建設産業として大阪で発足したことにある。三井物産や三菱商事と比べて25年遅れの商社参入という極めて後発の条件下で、住友金属工業や住友金属鉱山などグループ各社の販売機能を担うことで事業基盤を固め、取扱品目は必然的に鉄鋼と非鉄金属に傾斜して「金ヘン商社」と俗称されるようになった。1962年に商品本部制を導入して総合商社化への道筋をつけたが、植村光雄社長が1981年に「10年以上の長期プロジェクトには手を出さない」と明言したリスク回避路線を約20年にわたり維持し、他商社がLNGやIJPCで巨額損失を被る間も堅実な業績を維持することに成功した。 1996年に発覚した銅地金不正取引事件で2,852億円もの特別損失を計上するという歴史的な経営危機を経験したが、蓄積された財務バッファーのおかげで債務超過には至らず、1988年に発表した「総合事業会社構想」のもとで事業投資軸への転換を段階的に進めていった。2000年代に入ると長年維持してきたリスク回避路線から一転してアンバトビーニッケルプロジェクトやブラジル鉄鉱石、米国タイトオイルといった大型資源投資に踏み込んだが、2015年3月期に合計3,103億円の巨額減損を一括計上して最終赤字731億円に転落し、路線転換の代償を痛烈な形で支払う結果となった。2025年にはSCSK完全子会社化への約8,800億円投資や米国航空機リース会社への約3,000億円投資を発表し、資源依存からデジタル・リース主導への事業構造の第二の路線転換を進めている局面である。
- 三菱商事 — 三菱商事の源流は三菱合資会社の営業部門を分離して設立された旧三菱商事にあり、戦後の財閥解体によって一度は解散を命じられて商権とのれんが事実上消滅したのち、和光実業・不二商事・東京貿易・東西交易の四社合同という形でゼロから再発足を遂げた。他の大手商社が戦前から続く繊維取引に強く偏重するなかで鉄鋼・非鉄・機械を主軸とする非繊維型の商品構成を初期条件として持ち得たことは、三菱グループの重工業と化学の事業ポートフォリオを背景とする構造的優位性として機能し、資源・エネルギー分野への展開基盤となった。藤野忠次郎社長はブルネイLNG開発への参画を決定し、商社のモデルを事業投資型へ切り替える転換の第一歩を踏み出したのである。 ブルネイLNGの安定配当を原資とする循環構造を確立した三菱商事は、豪州原料炭やチリ銅山への大型資源投資を積み上げたが、チリ銅山関連の減損を機に最終赤字に転落し、過去の成功モデルが抱える構造的脆弱性を残酷な形で可視化されることとなった。バークシャー・ハサウェイの大量保有公表を契機に経営は株主意識重視へと大きく転換し、中西勝也社長が循環型成長モデルを掲げて事業ポートフォリオの継続的な入れ替えを中核戦略に据え直した。日本KFC売却とローソン連結除外を具体的な入替の象徴として示したのち、経営戦略二〇二七では三軸で巨額の投資枠を提示し、LNGカナダ運開と米国シェールガス参画を二本柱に連結純利益一兆二千億円の達成を目指している。
- 安宅産業 — 1909年に安宅弥吉が大阪で創業した安宅商会は、地金輸入を足がかりに国内メーカーとの取引網を構築し、八幡製鐵所の指定商として鉄鋼商権を獲得した。1956年に株式上場を果たして十大商社の一角に数えられたが、創業家の安宅英一が持株比率2.29%で経営を実質支配する統治構造のもとで、NRCプロジェクトへの傾斜投資と国内不動産投資の焦げ付きが重なり、1977年に不良債権2000億円超を抱えて経営破綻。伊藤忠商事に吸収合併され、68年の歴史に幕を閉じた。
- サンリオ — 1960年に山梨県庁出身の辻信太郎が山梨シルクセンターを設立し、絹製品の販売から出発した。創業直後の不渡りを百貨店前の路上販売で乗り越え、ギフト商品の企画へ転換。1974年にハローキティを企画し、キャラクターのライセンス供与を主軸とするビジネスモデルを確立した。1990年にピューロランドを開園したが、バブル期の財テク失敗で8期連続の最終赤字に陥り、自己資本比率は3%まで悪化した。
- ヤオハン — 1930年に和田良平が八百半熱海支店として創業し、旅館向けの野菜卸から出発した。1956年に現金正札廉価販売を導入して近代的な小売業に転換し、1962年に和田一夫が社長に就任して伊豆半島から全国への店舗展開を進めた。1971年にブラジル、1974年にシンガポールに出店して海外展開に着手し、1990年に香港へグループ本社を移転。しかし国内店舗の過剰投資と有利子負債の膨張、粉飾決算の発覚が重なり、1997年に会社更生法の適用を申請して倒産した。
- 高島屋 — 1831年に京都の古着商として生まれた髙島屋は、2021年2月期に連結純損失340億円というグループ史上最悪級の赤字を出した。百貨店単体ではコロナ禍前の2019年2月期にすでに営業利益が前年比34%落ち込んでおり、店舗網の縮小と収益構造の歪みは感染症以前から進んでいた。 それでも2025年2月期には連結営業利益575億円・純利益395億円という過去最高水準に跳ね返っている。回復を押し上げたのは都心店のインバウンドだけではない。1963年に設立した東神開発がベトナムで不動産を運営し、商業開発業の営業利益127億円がグループ全体を下支えするようになっていたからである。
- そごう — 1830年に大坂で古着商「大和屋」として開業し、1877年に十合呉服店へ改称、1919年に株式会社化して百貨店へ転換した。1962年に社長に就任した水島廣雄のもと、銀行借入と別会社方式を組み合わせた出店モデルで千葉・横浜・広島など全国に大型店を展開し、1992年にグループ売上高1.4兆円・国内外35店舗で百貨店業界の売上高首位に到達した。しかしバブル崩壊後の地価下落と消費低迷により負債が重荷となり、2000年7月に負債総額約1兆8700億円で民事再生法を申請、国内小売業最大の経営破綻に至った。
- 丸井 — 丸井の源流は1931年2月に青井忠治が東京・中野で月賦販売商として独立したことに遡り、中央線沿線の小規模店舗網を戦前期に築いて1937年に株式会社丸井を設立した。戦後の復興期を経て1960年に店舗専用クレジットカードを発行したのをきっかけに月賦からカード決済への業態転換を本格的に進め、1962年の新宿店開業を皮切りに都心部の主要駅前大型店への集約を加速させ、1970年には競合の緑屋を抜いて月賦百貨店の売上高首位の座を奪取した。1974年のオンライン信用照会システム稼働と翌年のカード店舗即時発行という二段階の技術革新は、若者の高額DCブランド購買を分割払いで支える独自の事業モデルを成立させ、1987年に26期連続増収増益、1988年にはカード会員数1000万人突破という黄金期をもたらした。 しかし1981年に参入したキャッシング事業がグレーゾーン金利を前提とする高収益構造を築いたことで、小売低迷を金融の利息収入で補う依存的な経営構造が形成され、2006年の改正貸金業法施行によって15年累計1247億円という巨額の利息返還損失処理を強いられる経営危機に陥った。VISAとのスペシャルライセンシー契約を前提とするエポスカードへの戦略的転換と、トップダウン型組織改革の挫折を踏まえて2005年に青井浩社長が主導した対話型経営への転換によって、丸井は2010年代を通じて実に11年連続増益という鮮やかな再建を達成するに至った。その後は「好き」を応援するビジネスと新自主運営ユニットという新たな業態モデルへの本格的な転換を目指して、フィンテック中心の事業構造に現在も本格的に踏み込んでいる。
- クレディセゾン — 1951年に月賦百貨店「緑屋」として生まれた会社は、2009年3月期に連結純損失555億円という業界史に残る赤字を出した。貸金業法改正に伴う過払金返還とリーマンショックが重なり、カード事業の成熟と消費者信用ビジネスの構造問題が同時に噴き出した局面である。 そこから15年後の2025年3月期、クレディセゾンは連結事業利益936億円・過去最高益を計上した。押し上げたのは国内カードの量的拡大ではない。2018年に設立したCredit Saison Indiaの債権残高が3,000億円を超え、ポイント競争を避けたプレミアム戦略と法人カードが単価の高い顧客を取り込んだ結果である。
- イオン — 1758年に三重県四日市の呉服商「篠原屋」の暖簾分けとして生まれた家業は、2025年2月期に連結売上高10兆1,349億円という日本の小売業として初の大台を超えた。だがその直前の2021年2月期には連結純損失710億円という過去最大の赤字を出している。コロナ禍で客足が急減したとき、それまで23年の岡田元也体制が積み上げたM&Aの果実が、そのまま重い固定費負担として跳ね返った。 2020年6月に吉田昭夫が岡田から社長を引き継いだのは、この赤字と正面から向き合う役回りだった。吉田体制の4年間はダイエー・ウエルシア・マルエツ・カスミ・フジ・いなげやと積み上げた規模を統合し直す時期で、2025年までにトップバリュを1兆円ブランドに育て、イオンモール非上場化とプラットフォーム改革に踏み込んだ。
- あおぞら銀行 — 戦後復興期に不動産金融専業の政府系長信銀として生まれた同行は、40年後に破綻して国有化され、米系ファンド主導で再建され、2008年の金融危機で再び赤字に沈み、2015年にようやく公的資金を完済した。3度の崖を経てたどり着いたのは、メガでも地銀でもない独自のポジション ── LBOファイナンス・ベンチャーデット・環境ファイナンスといった国内ニッチ市場を草創期から深掘りするモデルだった。 その独自性は2023年度の純損失499億円で再び試されることになる。米国オフィス向けノンリコースローンと欧米金利上昇による有価証券評価損という2つの投資判断が同時に裏目に出た結果、同行は15年ぶりの経営陣刷新と大和証券グループ本社を引受先とする第三者割当増資519億円に踏み切る。投資銀行専業化への賭けの帰結は、2027年度純利益330億円という目標の実現可否でいま問われている。
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ — 1656年の鴻池両替店、1870年の岩崎弥太郎の海運業、1919年の三菱銀行設立 ── いまの三菱UFJフィナンシャル・グループには、江戸初期から20世紀初頭まで異なる時代に起こった金融の流れが合流している。関東大震災で罹災銀行の金庫を開放し、金融恐慌で中小企業を救済し、戦後は千代田銀行と改名を強いられ、高度成長期には業界初のオンラインCDを設置した。 1996年に東京銀行と合併して資金量世界一となり、2005年にUFJと統合して国内最大の金融グループが誕生する。2008年のリーマン・ショックではモルガン・スタンレーに90億ドルを投じて米投資銀行を救済し、2022年には14年間保有した米ユニオンバンクの個人向け事業を手放してホールセールに資源を集中した。2024年度に過去最高益1兆8,629億円を計上した亀澤宏規CEOの体制下で、中長期ROE目標は7.5%から12%程度へと引き上げられた。
- りそなホールディングス — 1995年、大和銀行ニューヨーク支店で11億ドルの巨額損失事件が発覚し、同行は米国市場からの撤退を余儀なくされた。それから8年後の2003年5月、繰延税金資産の一部取り崩しで自己資本が不足したりそなホールディングスに、日本政府は預金保険法102条に基づく約1兆9,600億円の公的資金を注入する。戦後日本最大級の銀行救済劇だった。 外部から招かれた細谷英二(元JR東日本副社長)が、他のメガバンクと袂を分かって「ダントツのリテール銀行」路線を選んだ。2015年6月、12年かけて公的資金を完済し、2025年3月期には親会社株主純利益2,133億円の過去最高益を計上する。長らくマイナス金利下でROAが低下していたリテール特化モデルが、金利のある世界への回帰を追い風に結実した局面である。次期中期経営計画では中長期ROE目標10%超、OHR40%台への構造改革が進行中となる。
- 三井住友トラストグループ — わが国最初の信託会社として1924年に生まれた三井信託と、翌25年発足の住友信託は、戦後のGHQ方針で銀行業務兼営を認められ、1952年の貸付信託法施行を追い風に長期金融機関として電力・鉄鋼・不動産に資金を流し込んだ。高度成長期には証券代行、年金、土地信託と業務領域を広げ、戦前の信託会社7社が戦後信託銀行業界の骨格を形成した。 ところがバブル崩壊で両行とも不動産融資が巨額不良債権として跳ね返り、1994年度の三井信託は2000億円の償却を余儀なくされた。2011年、中央三井トラストHDと住友信託銀行が経営統合して三井住友トラストHDが発足、国内最大の専業信託グループが誕生した。以降、マイナス金利下で停滞した収益は、2020年就任の高倉透が掲げた政策保有株式ゼロ方針とプロダクト与信シフトで2024年度に経常利益3676億円まで回復した。
- 三井住友フィナンシャルグループ — 住友家が1670年に両替商を始めてから225年後の1895年、住友吉左衛門は資本金100万円の住友銀行を中之島で開業した。1916年には市中銀行のトップを切ってサンフランシスコに支店を出し、19年末には第一・三井に次ぐ全国3位の規模に躍り出た。効率経営と国際業務を2本柱としたこの位置取りは戦後も踏襲され、1980年代には平和相互銀行合併、ゴッタルド銀行買収、ゴールドマン・サックス出資で国内外に布石を打った。 ところがバブル崩壊後、イトマンなどへの融資が不良債権化し、1995年3月期に他都銀に先駆けて8000億円超を償却した。2001年のさくら銀行との合併、2002年の三井住友FG設立を経て国内2位メガバンクとして再出発。太田純が掲げた「脱金融」路線の下で政策保有株式削減と事業ポートフォリオ入替を加速し、2025年3月期には経常利益1兆7195億円・純利益1兆1780億円と過去最高水準に到達。2023年に急逝した太田の後を継いだ中島達は「国内ビジネスで本気でトップを目指す」と宣言するに至った。
- 千葉銀行 — 1878年設立の千葉第九十八国立銀行をルーツとし、1901年のピーク時に県内74行あった銀行群は金融恐慌と小銀行抑制策を経て1931年に6行にまで集約された。1943年3月、一県一行主義の国策により千葉合同銀行・第九十八銀行・小見川農商銀行の3行が合併し、資本金1000万円・70店舗の千葉銀行が発足。創立直後の敗戦・インフレ・預金封鎖、1950年代後半の融資問題と不正事件、銀行史上稀にみる労働争議を経て、1964年にバンクフラワー「ひまわり」でイメージを刷新、1970年に東証二部に上場した。 成長の原動力は千葉県の3つの発展期だった。京葉工業地帯の形成、県北西部のベッドタウン化、そして幕張・かずさ・成田の「千葉新産業三角構想」である。2009年就任の佐久間英利は12年の長期体制で業績を地銀上位級に引き上げ、2021年就任の米本努はDXを成長の柱に据えた。就任直後の2023年には仕組債販売をめぐる業務改善命令を受け、信頼回復が最優先課題となったが、2025年3月期には経常利益1075億円・純利益742億円と金利上昇下での収益拡大を実現した。
- ふくおかフィナンシャルグループ — 1945年、戦時の1県1行主義で4行が合併して生まれた福岡銀行は、発足時点で全国地銀預金高1位の巨艦だった。だが10年足らずで労使紛争と石炭産業の衰退に直面し、日銀から迎えた頭取のもとで立て直しを図ることになる。 半世紀後、今度は福岡銀行自身が広域再編の中心となり、2007年に熊本・長崎の地銀を束ねる持株会社を設立、2021年には国内初のデジタルネイティブバンク「みんなの銀行」を開業させる。石炭から半導体へ、紙通帳からアプリへ、地銀のかたちを問い続けてきた企業である。
- みずほフィナンシャルグループ — 安田善次郎が1880年に興した合本安田銀行、1902年に特殊銀行として誕生した日本興業銀行、そして戦後の都市銀行を代表する第一勧業銀行。性格も顧客基盤も異なる三つの銀行が2000年に統合しみずほが生まれたが、発足直後の2002年にはATMが停止する大規模システム障害が発生し、金融庁から業務改善命令を受けた。 3行統合の積み残しは19年越しのシステム刷新プロジェクトMINORIとして清算されたが、稼働直後の2021年に再び8回の障害が連発し経営責任問題に発展した。木原正裕体制下でカルチャー改革と米州CIB拡大が進み、2025年3月期には純利益8854億円の過去最高益に達した。
- オリックス — 1964年に三和銀行系の商社3社と銀行5行が共同でつくった資本金1億円のオリエント・リースは、アメリカで生まれたリースという新業態を日本に持ち込む実験会社だった。だが石油危機以降の競争激化を受けて物件多様化と海外進出を始め、1989年には社名を「オリックス」に変えてリース会社を名乗ることをやめた。 以後、生命保険、信託銀行、不動産、資産運用、空港運営、再生可能エネルギーへと業容を広げ、2025年3月期には総資産16.9兆円・純利益3,516億円の事業投資型グループへと姿を変えた。井上亮グループCEOが「目指すはブラックストーン」と公言する一方、2025年1月の社長交代では新社長の髙橋英丈が「投資しかしない会社は目指さない」と事業創造への揺り戻しを語っている。
- 大和証券グループ本社 — 大和証券の源流は、1902年に大阪の米穀商の若旦那が片手間に始めたコール市場の仲介業である。証券業の祖というより、商品流通の延長線上で生まれた金融業者だった。その「商品開発で食う」性格は120年後も変わらず、日本初の投資信託、転換社債、累積投資、ユーロ円債を次々と発明し、業界2位の座を支えた。 そのパイオニア気質は、1990年代の不況期と2010年代のリーマン後にそれぞれ営業赤字へと跳ね返った。三井住友フィナンシャルグループとの合弁を結び、解消し、自前で銀行を立ち上げ、再びあおぞら銀行と組む ── 振り子のように形を変える銀行戦略の根底には、業界1位の野村と異なる経路で生き残ろうとする独立系総合証券としての宿命がある。
- 野村ホールディングス — 1872年に大阪・農人橋詰町で両替商を始めた野村家は、1925年に証券業を分離独立させて野村證券を設立し、戦後の配電株公募で業界トップに躍り出た。1981年にニューヨーク証券取引所会員権、1986年にロンドン証券取引所会員資格を取得し、邦証券初のグローバル投資銀行候補となった。 しかし1991年の損失補塡問題と2008年のリーマン承継後に計上した▲7,082億円の純損失が示すように、海外で稼ぎたい野村と国内リテールでしか安定的に稼げない野村の二律背反は、100年経っても解けていない。2024年4月に営業部門を「ウェルス・マネジメント部門」に改称、2025年4月にはマッコーリー・グループのアセットマネジメント事業買収とバンキング部門新設を発表し、グローバル投資銀行への野心と国内基盤の折り合いを模索している。
- SOMPOホールディングス — 業界2位と4位の合併で2010年に発足したNKSJホールディングスは、初年度から129億円、翌年度には923億円の純損失を出した。事業会社の合併と社名統一には4年と2回の改名を要し、国内損保事業の統合効果は遅れた。 転機は2017年、約6,300億円を投じた米Endurance買収で海外保険事業の柱を立てたことにある。一方で本丸の損保ジャパンは2023年にビッグモーター不正請求問題で金融庁から業務改善命令を受け、政策株式の保有慣行まで指弾された。海外で稼ぎ、国内で謝る ── その落差が現在のSOMPOを形づくっている。
- 日本取引所グループ — 1878年に免許を受けた東京・大阪の2つの株式取引所は、135年後の2013年、同じ持株会社のもとで経営統合した。この統合は、旧1部・2部・マザーズ・ジャスダックに分裂していた日本株市場の設計そのものを書き直す長い工事の出発点だった。 2022年4月、東証は60年続いた1部・2部制度を廃してプライム・スタンダード・グロースの3区分に再編し、2025年に発表された中計2027ではROE18%以上という単一指標だけを掲げる異例の形で、量ではなく質の取引所を目指す方針が制度化されている。
- MS&ADインシュアランスグループホールディングス — 1893年の大阪保険から数えて130年以上、この企業群は合併しても最後まで一つにならない選択を繰り返してきた。住友海上は1944年の戦時統合で生まれ、三井海上は財閥解体を経て1991年に本来の社名を取り戻した。両社が2001年に統合して三井住友海上が成立し、2010年にあいおいとニッセイ同和を取り込んでMS&ADが発足。それでも2013年の機能別再編では合併ではなく1グループ2社体制を選び、効率化だけを進めた。 2025年11月、その12年越しの中途半端さに終止符が打たれた。2027年4月にMSとADは合併し、グループ名も三井住友海上グループに改める。機能別再編で削り切れなかった本社部門の重複コストが1,500億円規模で削減される見通しだ。創業期から繰り返された「屋号は分けたまま機能だけ統合する」という慎重さが、政策株式売却益という二度目の追い風を受けて、ようやく解かれる。
- 第一生命ホールディングス — 1902年、日本で最初の相互組織による生命保険会社として出発した第一生命は、2010年4月、108年間続いた相互会社形態を解いて株式会社化し東証1部に上場した。保険業法制定に関わった官僚・矢野恒太が立ち上げた合理主義の会社が、戦後の世界生保ランキング10位圏入りを経て、同業で最大規模の上場相互会社転換を選んだ道のりである。 2015年には米プロテクティブ生命を完全子会社化、2016年に持株会社へ移行、2024年にはベネフィット・ワンを買収して非保険サービスにも本格参入した。国内生保の成長天井を、米・豪・NZのM&Aと福利厚生・運用の横展開で超えていくのが、現在の第一生命HDが描く事業構造である。
- 東京海上ホールディングス — 1879年、渋沢栄一の主唱により日本初の海上保険専業会社として創業した東京海上保険会社が、129年後の2008年12月に米フィラデルフィア・コンソリデーテッドを約47億ドルで買収し、2015年10月にはHCCインシュアランスを約75億ドルで取得した。海運国家の貨物リスクを引き受けるために生まれた会社は、十数年間に積み重ねた海外M&Aで世界スペシャルティ保険のグループへと姿を変えた。 2025年3月期、東京海上ホールディングスの親会社株主帰属当期純利益は1兆552億円に達し、邦損保として初めての1兆円超えとなった。利益構造の組み替えが進む一方、2018年には西日本豪雨と台風21号で業界全体の自然災害保険金が1兆5000億円を超え、海上保険の祖である会社が今度は気候災害という大型リスクを引き受ける現実に直面している。
- T&Dホールディングス — T&Dホールディングスは、明治期に別々の文脈で生まれた大同生命(1902)と太陽生命(1893)という2つの中堅生保が、2004年に共同持株会社として束ねられた企業である。乱立する生保の整理統合の象徴として誕生した大同と、短満期月掛け保険で戦後の庶民市場を開拓した太陽は、対照的な成り立ちを持ちながらも「企業市場特化」と「個人市場密着」という相補的な顧客基盤を育ててきた。 持株会社発足から20年、統合体は2021年3月期に過去最高水準の純利益1,623億円を計上した直後、2023年3月期には純損失1,321億円へ転落した。金融市場の急変が責任準備金と有価証券評価を直撃した形で、中堅生保3社連合が抱える金融リスクの大きさが一度に露呈した。黒字復帰と森山体制発足まで、わずか1年の出来事だった。
- 三井不動産 — 三井不動産は1941年、三井物産に吸収された三井合名会社の不動産を分離継承するかたちで三井11家全額出資の不動産管理会社として発足した。戦後のGHQ財閥解体で株式は一般公開され、1955年に江戸英雄が社長に就任した瞬間から、会社の性格は「三井家ゆかりの不動産を管理する会社」から「自ら土地を生み出し、街をつくる会社」へと切り替わっていく。千葉県市原の埋立と住宅造成という2つの賭けが、その転換の入口だった。 1968年のわが国初の超高層「霞が関ビル」から2024年の「& INNOVATION 2030」まで、同社の歴史は超高層・ミクストユース・海外旗艦物件という「大型・長期回収・規模優位」の連続として一貫している。2025年3月期の売上高2兆6,254億円・純利益2,488億円は過去最高を更新したが、同時に総資産9兆円台・有利子負債4兆円台というBS規模をどう運用するかが、植田俊体制の最大の問いとなっている。
- 三菱地所 — 三菱地所の源流は1890年に三菱財閥の岩崎弥之助が明治政府から丸ノ内一帯の陸軍用地を128万円で一括買収した歴史的な決断に遡り、「竹を植えて虎でも飼う」と応じた逸話と共に、30年以上の歳月をかけて荒地をオフィス街へと転換していった歴史を持つ。1894年に三菱1号館を竣工し1904年以降の本格的な開発期を経て1914年の東京駅開業で立地条件が一変すると、1918年までに赤レンガ・RC建築が並ぶ「一丁倫敦」と呼ばれる近代的オフィス街が成立し、1923年にはアメリカ型の大規模オフィスである丸ノ内ビルヂングが竣工した。1937年には三菱合資会社から不動産事業を分離する形で三菱地所株式会社が設立され、戦後の財閥解体で一度は3社に分割されたのち1953年に再統合を果たすという数奇な経緯を辿った。 1952年に社長に就任した渡辺武次郎が丸の内総合改造計画を策定して赤レンガ街を31メートルの近代ビル群に一新し、美観論から超高層化には強く抵抗したが、1971年の美観論争や1995年のロックフェラーセンター撤退という挫折を経て、2002年の丸ビル建て替えを契機に丸の内を休日も楽しめる複合都市へと再定義する方向に転換した。長期経営計画2030のもとで丸ノ内事業の収益基盤を強化しつつ、米国データセンター事業を新たな成長ドライバーとして育成し、賃料増額妥結率の上昇と物価連動賃料への切替でオフィス事業の質的向上を図っている。政策保有株式の半減と総還元強化を柱とする資本政策を進め、130年以上にわたり丸の内の開発者であり続けてきた三菱地所は、2030年度の事業利益4000億円とROE10%の目標達成に向けた次の段階へ歩みを進めている。
- 東京建物 — 東京建物は1896年10月、初代安田善次郎の発起で設立された日本最古級の総合不動産会社である。明治期の住宅資金が個人金融業者頼みだった時代に、月賦建築請負と土地建物担保貸付を組み合わせた仕組みを法人事業として立ち上げたのが出発点で、今日の住宅ローンの原型はこの会社の定款から生まれている。資本金100万円の不動産金融会社が、関東大震災・財閥解体・バブル崩壊を経て総合デベロッパーへと姿を変えた歴史は、ほぼそのまま日本の不動産業の歴史と重なる。 2011年12月期、東京建物は経常損失▲108億円・純損失▲717億円という創業以来最大級の赤字を計上した。そこから10年あまりでマンションブランド「Brillia」・大手町タワー・八重洲再開発・池袋Harezaを積み上げ、2024年12月期には営業収益4,637億円・純利益658億円の過去最高に到達している。1896年の不動産担保金融から2024年の大阪・堂島複合開発まで、東京建物の130年はいつも「資金と土地をつなぐ仕組みを誰が設計するか」という問いで貫かれている。
- 住友不動産 — 財閥解体で東京に目ぼしい土地を持たなかった住友不動産は、三菱地所の丸の内、三井不動産の日本橋に対して後発だった。1974年に住友銀行出身の安藤太郎が社長に就任すると、大阪の大型開発から撤退し、東京都心のオフィスビルへ集中投資する方針に転換した。 1998年にバブル崩壊の後始末で特別損失681億円を計上した後も、同業他社がREITへの物件売却で資金を回収する中、住友不動産は賃貸ビルの自社保有・長期運用にこだわった。2025年3月期には経常利益2,683億円に達し、東京都心で230棟超のオフィスを運営する。借入金に依存した成長モデルから、営業キャッシュフローで投資と還元を賄えるステージへの移行が、現在の経営課題である。
- 東武鉄道 — 1897年に北関東への鉄道敷設を目的に設立された東武鉄道は、1905年に経営に参画した根津嘉一郎が利根川に549メートルの大鉄橋を架けるという決断で群馬・栃木へ路線を延ばし、関東最大の私鉄路線網(総営業キロ463キロメートル)を築いた。根津家は3世代・約120年にわたり経営を支配した。 2012年の東京スカイツリー開業は総額1,430億円の投資だったが、レジャー事業の利益率を大幅に改善し、鉄道以外の収益基盤を変えた。2021年3月期にはコロナ禍で純損失249億円に転落したが、2024年3月期に経常利益720億円で過去最高を更新。2023年には「根津家出身の社長は私が最後」と根津嘉澄が語り、創業家以外から初の社長が就任した。
- 東急 — 1922年に五島慶太が設立した目黒蒲田電鉄は、関東初の郊外電鉄として出発した。関東大震災で郊外への移住が急増したことで創業初期から好業績を収め、1942年には京浜・小田急・京王を合併して「大東急」を形成した。戦後に3社が再独立した後、五島が1953年に多摩丘陵の大規模宅地開発を構想し、55地区・総面積3,204ヘクタールの田園都市開発を約半世紀かけて実行した。 渋谷は東急の鉄道ターミナルであると同時に、再開発用地の供給源でもある。2013年に東横線渋谷駅を地下化して生まれた跡地に渋谷スクランブルスクエアを建設し、旧線路跡に渋谷ストリームを竣工させた。鉄道の線路付け替えがオフィスビルの用地を生む構造で、現在は渋谷3大プロジェクトに総額6,000億円を投じる計画が進行中である。2025年3月期の経常利益は1,077億円と過去最高を更新した。
- 小田急電鉄 — 1927年に新宿から小田原まで82.5kmを一挙に開業した小田急は、当時の日本最長の電気鉄道として箱根・湘南への交通を一変させた。しかし戦時統合で東急に吸収され、6年間にわたり「小田急」の名は消えた。1948年の再独立後は、箱根観光・百貨店・不動産と多角化を進めながら、半世紀をかけた複々線化工事に経営資源を投じ続けた。 1964年の都市計画決定から54年、2018年にようやく代々木上原〜登戸間の複々線が全面完成した。朝ラッシュ時の混雑率は一時250%を超えていたが、完成後は列車本数が27本から36本に増え、町田〜新宿間の所要時間は49分から37分に短縮された。この巨額インフラ投資の完了は、小田急を「鉄道投資の会社」から「沿線価値を活かす会社」へと転換させる転機となった。
- 京王電鉄 — 京王の名は「東京」と「八王子」の頭文字に由来する。1910年に路面電車として出発した京王電気軌道は、建設資金難で森村財閥の融資系列に入り、井上篤太郎のもとで新宿〜八王子間の全線直通を実現した。戦時統合で東急に吸収された4年間を経て、1948年に京王帝都電鉄として再独立し、京王線・井の頭線という2路線を基盤に沿線開発を進めた。 2021年3月期にCOVID-19で創業以来初の経常赤字▲180億円を計上した京王は、鉄道旅客収入がコロナ前比▲14%にとどまる現実を受け、不動産販売業・ファンドビジネスへの事業転換を加速している。2030年代には新宿駅西南口の再開発と笹塚〜仙川間7.2kmの連続立体交差事業という二大投資が控えており、この投資のピーク期にROE 7〜8%を維持できるかが、京王の次の10年を左右する。
- 京成電鉄 — 社名の「京成」は東京と成田の頭文字を取ったものである。1909年に設立された京成電気軌道は、成田山新勝寺への参詣客輸送を主目的に、押上から成田までを20年かけて結んだ。1960年にオリエンタルランドの設立に参画し、1978年に成田空港アクセス鉄道としてスカイライナーの運行を開始した。この2つの出来事が、京成の企業価値の構造を根本から変えた。 2025年3月期の連結純利益700億円のうち、オリエンタルランドからの持分法投資利益が大きな比重を占めており、鉄道事業の営業利益209億円を上回る。京成の時価総額よりも保有するOLC株の時価が大きいという「含み益のねじれ」は、アクティビストの関心を集めている。2024年11月にはOLCの自社株買いに応じて保有比率を約21%から約20%に引き下げたが、売却の本格化には至っていない。空港アクセスとOLC株という2つの資産をどう活かすかが、京成の経営の核心にある。
- 東日本旅客鉄道 — 年間2兆円の赤字と37兆円の累積債務を抱えた国鉄は、1987年の分割民営化で6つの旅客鉄道会社に解体された。最大の営業エリアを引き継いだJR東日本は、設立から6年で東証一部上場、15年で完全民営化を達成し、新幹線ネットワーク拡張と駅を起点とした不動産・流通事業で売上高3兆円の企業に成長した。 しかし2021年3月期、コロナ禍で運輸収入が4割減少し、発足以来初の純損失5779億円を計上した。この危機は鉄道一本足の収益構造の脆さを数字で突きつけた。「鉄道事業だけを主軸にすると脆弱」と語る現社長のもと、Suicaを軸にした生活サービスプラットフォームへの転換が進む。国鉄の遺産を乗り越える次の15年が始まっている。
- 西日本旅客鉄道 — JR西日本は首都圏の通勤需要を持たない。1987年の分割民営化で引き継いだ収益の柱は山陽新幹線と近畿圏在来線であり、1996年の上場、2004年の完全民営化と順調に歩を進めたが、2005年の福知山線脱線事故で107名が犠牲となり、安全管理体制が根底から問い直された。 2021年3月期にはコロナ禍で初の純損失2332億円を計上し、鉄道依存の構造が再び試された。この2つの危機を経て、現在はWESTER経済圏と大阪駅周辺のまちづくりを軸に、鉄道と「ライフデザイン」の2領域で収益を支える構造への転換を進めている。FY24は4期連続増収増益で営業利益1801億円に到達し、2025年の大阪・関西万博がその転換を加速させる。
- 東海旅客鉄道 — JR東海は東海道新幹線の会社である。1987年の分割民営化で世界初の高速鉄道を引き継ぎ、「のぞみ」の投入、品川駅の開業、N700系・N700Sへの車両更新を通じて、東京〜大阪間の1時間あたり最大12本、最高速度285km/hという輸送力を実現した。2019年3月期の営業収益は1兆8781億円、運輸業のセグメント利益は6648億円に達し、JR3社の中で最も運輸事業への依存度が高い構造を築いた。 その一極集中はコロナ禍で裏目に出た。2021年3月期に純損失2015億円を計上し、発足以来初の赤字を記録した。一方、JR東海は東海道新幹線の稼ぎをリニア中央新幹線の建設に注ぎ込む構造を自ら選んだ企業でもある。品川〜名古屋間の総工費は当初の7兆円から11兆円に膨張し、2027年の開業は不可能となった。東海道新幹線の収益力とリニアの巨額投資 ── その両立が今後数十年の経営を規定する。
- ヤマトホールディングス — 1976年1月20日、宅急便の初日に届いた荷物は11個だった。路線トラック事業で三番手に甘んじていた大和運輸は、この個人向け小口宅配に社運を賭け、10年で取扱個数を年間3億個超に伸ばして日本の物流を変えた。 40年後、EC市場の拡大で宅急便の取扱個数は18億個を超えたが、現場のドライバー不足と単価下落が同時に進み、2017年3月期に経常利益が半減する「宅配クライシス」を招いた。ヤマトは値上げと総量規制で収益を回復させたが、その先に選んだのはかつて最大の競合だった日本郵便との協業という構造転換だった。
- 日本郵船 — 1885年、明治政府の仲裁で三菱系の郵便汽船三菱会社と政府系の共同運輸会社が合併し、汽船58隻を擁する日本郵船が誕生した。以来140年、定期船・不定期専用船・物流という3つの事業軸で日本の貿易を支え、世界最大級の外航海運会社に成長した。 2017年3月期に純損失2657億円という上場来最大の赤字を出し、邦船3社のコンテナ船事業統合(ONE設立)に踏み切った日本郵船は、5年後のコロナ禍で経常利益1兆円を2期連続で記録する。赤字の底で切り離した定期船事業が、持分法適用会社として空前の利益をもたらすという逆説が、この会社の140年を象徴している。
- 商船三井 — 1964年、海運再建整備法のもとで大阪商船と三井船舶が合併し、大阪商船三井船舶が誕生した。沿岸・近海に強い大阪商船と外航に強い三井船舶の統合は、不定期専用船を軸に据えた事業構造を生み出し、以後60年にわたって商船三井の収益の基盤となった。 2008年3月期に経常利益3022億円を記録した不定期専用船はリーマンショックで暗転し、コンテナ船事業は2018年にONEとして切り離された。コロナ禍でONEが7000億円超の利益を生んだとき、出資比率31%の商船三井が選んだのは配当ではなく、LNG船・洋上風力・FSRUへの投資だった。「海運会社から社会インフラ企業へ」という経営計画BLUE ACTION 2035の方向性は、市況依存からの脱却という海運業の永続的な課題への回答である。
- 川崎汽船 — 1970年、川崎汽船は「自動車だけを積む船」���いう当時存在しなかった船種を世界で初めて実用化した。Pure Car Carrier(PCC)と名付けたその船型は、日本の自動車輸出の爆発的成長とともに業界標準となり、半世紀にわたり同社の収益を支え続ける。 一方、もう一つの柱だったコンテナ船事業は2010年代に累計3,000億円超の損失を生み、2017年に日本郵船・商船三井との3社統合でONEへ切り出された。邦船3社で最も小さく最も傷が深かった川崎汽船は、コンテナを手放したことで逆に「海運専業」という独自の立ち位置を得た。
- NIPPON EXPRESSホールディングス — 1937年、日中戦争下の日本で「日本通運株式会社法」に基づく国策会社が設立された。政府出資の半官半民企業は、戦後に民間会社として再出発し、鉄道貨物の発着端輸送から航空貨物、宅配便、国際フォワーディングへと事業を広げ、日本最大の総合物流企業に成長した。 しかし2010年に宅配便「ペリカン便」を日本郵便に統合して撤退した経験は、B2C市場で規模の競争に敗れた教訓を残した。2022年に持株会社体制へ移行し、2024年にはオーストリアのcargo-partnerを約1,267億円で買収。欧米メガフォワーダーとの差を縮めるため、M&Aによる海外拡大に舵を切った。
- 日本航空 — 2010年1月、負債総額2兆3,200億円を抱えた日本航空は会社更生法の適用を申請した。戦後最大の事業会社の経営破綻だった。だが破綻から2年8ヶ月後の2012年9月に再上場を果たし、再建初年度の経常利益は1,976億円と世界の航空会社の中で最高水準を記録した。 この落差の背景には、1953年の半官半民体制に始まる「国策会社」の体質がある。国際線独占、不採算路線の政治的維持、硬直的な労使関係を抱えたまま民営化され、日本エアシステムとの統合コストも重なった。稲盛和夫による再建は、その体質を根本から壊す改革だった。
- ANAホールディングス — 1952年にヘリコプター2機で始まった日本ヘリコプター輸送は、規制に阻まれて33年間国際定期便を飛ばせなかった。1986年の国際線参入後、スターアライアンス加盟と機材拡充で売上高は2兆円を超え、JALに並ぶ二大航空会社の一角を占めた。 2021年3月期、コロナ禍で売上高が前年比63%減の7,286億円に急落し、営業赤字4,647億円を計上。公募増資と劣後ローンで約1兆円を調達して存続を図った。そこから3年で営業利益2,079億円の過去最高益を記録し、有利子負債の圧縮と復配を同時に達成した。国内専業から国際線参入、コロナ危機から過去最高益への転換という2つの構造変化が、この企業の歴史を特徴づけている。
- 三菱倉庫 — 1887年に三菱為換店の倉庫業務を継承して設立された東京倉庫会社は、倉庫に預かった荷物を守るだけの事業から出発した。しかし1962年に自社の倉庫用地でビル賃貸を始めたことで、物流と不動産という二本柱の収益構造が生まれた。不動産事業の営業利益は物流事業を上回る年度も多く、「倉庫会社」の社名とは裏腹に利益の約半分を不動産が稼ぐ構造が半世紀以上続いてきた。 2025年に発表した経営計画では、M&A投資1,000億円以上、資産回転型ビジネスによる事業利益630億円という目標を掲げ、従来の安定経営路線からの転換を明示した。営業収益2,840億円の企業が6年間で1,000億円のM&Aを計画する規模感は、三菱倉庫の137年の歴史で類を見ない。倉庫用地の転用から始まった不動産事業を物流不動産へと再定義し、物流と不動産のシナジーを成長の源泉に据えようとしている。
- NTT — 1985年に電電公社の民営化で誕生したNTTは、日本の通信インフラの独占的な担い手から出発した。1999年の持株会社化で東西分割とドコモの分離が進み、分権型のグループ経営が30年近く続いた。その間、営業収益は10兆円台で安定推移したが、固定通信の縮小をモバイルとデータ通信が補う構造が定着し、グループ内の各社が個別に上場する体制は経営の一体性を制約した。 2020年にNTTドコモを約4兆2,500億円で完全子会社化し、グループ再統合に舵を切った。2025年にはNTTデータグループの完全子会社化(約2兆3,700億円)を発表し、分権から集権への転換は最終段階に入った。営業収益13兆7,000億円、従業員約19万人のグループが、IOWN構想の光電融合技術とNTT法改正による規制緩和を武器に、通信会社からグローバルIT企業への変態を目指している。
- KDDI — KDDIの源流は1984年に京セラ創業者の稲盛和夫が主導して設立した第二電電企画にあり、電電公社民営化と通信自由化を背景として国内の有力企業25社による共同出資の形で誕生した。長距離電話事業への参入から始まり、1987年にはセルラー子会社を通じて携帯電話事業にも新たに進出し、2000年にはDDI・KDD・IDOの三社合併でKDDIが発足してauというモバイルブランドを立ち上げた。CDMA方式への一本化と着うたなどの独自サービスによってドコモを追撃し、2004年には携帯電話の年間契約純増数で首位の座を奪取して競争軸を決定的に引き寄せる歴史的成果を挙げた。財界連合型の出資構造から始まった「寄合い型」の組織風土は、強いカリスマよりも合議を重視する官僚的な意思決定構造をKDDIに引き継いだ点でも経営史の観点から興味深い存在である。 2010年代以降はスマートフォン普及と通信料金の値下げ圧力を背景にau経済圏構想を掲げ、金融・JCOM・ローソンといった通信以外の事業領域へと本格的に拡大して生活基盤企業への転換を加速した。2024年4月には三菱商事との共同経営でローソンをTOBし、通信キャリアがコンビニエンスストアチェーンを傘下に収めるという日本経営史上画期的な転換を実行したが、翌年には子会社ビッグローブで架空循環取引の不祥事が発覚し、累計売上取消2461億円と営業利益影響1508億円という深刻な事態に直面することとなった。黒子に徹して高収益を確保してきた40年の歴史は、いまキャッシュの再投資先と次期中期経営戦略における事業ポートフォリオの規律という根源的な問いの前に立っている。
- ソフトバンク — 1986年に国鉄の通信網を引き継いだ固定電話会社は、英ボーダフォン傘下で携帯電話会社に転じたが、契約者数で3位に沈んだ。2006年、孫正義が1兆7500億円で買収し、価格破壊とiPhoneの独占販売で契約者数を急拡大させた。 2018年の再上場後、通信事業の利益を元手にヤフー・LINE・PayPayを次々と傘下に収め、売上高は6兆5443億円に達した。通信回線を売る会社から、検索・決済・コミュニケーションを束ねるプラットフォーム企業へ。3度のオーナー交代を経て法人格は同じまま、事業の中身は完全に入れ替わった。
- 光通信 — 光通信は1988年2月、日本大学を中退して4年間のアルバイト生活を経た重田康光が23歳で設立した販売会社として出発した。創業の背景にあったのは1985年のNTT民営化に始まる通信市場の自由化であり、第二電電(現KDDI)をはじめとする新規参入事業者が自前の販売網を持たずに外部代理店に依存していた時期特有の販売代理業という事業機会であった。ホームテレホンの訪問販売から始まり、1990年にはOA機器や複写機の取り扱いへと事業を拡大して、NTTのタウンページ掲載の約530万社という公開情報を組織的に攻めるという独特の営業基盤を築いた。1994年からは携帯電話販売店HITSHOPを展開しFC方式で1998年末には全国1816店へと急拡大して、インターネットバブルの熱気のなかで1999年に東証一部へ株式上場を果たした。 2000年に架空契約問題が発覚して時価総額3兆円から株価が約100分の1にまで暴落する壮絶な経営危機を経たが、2600店の閉鎖と有利子負債の徹底した圧縮を経て、創業期の原点である法人向けOA機器の訪問販売へと回帰する決断を下した。2004年に黒字転換を達成して以降はウォーターサーバー・電力・保険など販売品目を着実に拡大しつつ、大量採用と接触回数を武器とするストック型収益の積み上げを継続し、2018年には時価総額1兆円を突破する実力を示した。2024年3月期に過去最高益1222億円を達成したのちも、2026年3月期にはストック利益920億円超という重要指標を着実に伸ばし、自己資本1兆円突破と15期連続増配を続けて「泥臭い営業の積み上げで得た二度目の兆円企業」という独特の軌跡を現在も描き続けている。
- 東京電力ホールディングス — 1951年に9電力体制の一角として発足した東京電力は、首都圏3000万人超の電力供給を独占し、原子力17基を擁する世界有数の電力会社に成長した。しかし2011年3月、福島第一原発事故で純損失1兆2473億円を計上し、翌年に実質国有化された。 自己資本は7923億円まで毀損し、3期連続の赤字に沈んだ。火力発電を中部電力との合弁会社JERAに移管し、送配電・小売・原子力に分割する事業再編で経営を再構築した。2026年1月に柏崎刈羽原発6号機が15年ぶりに再稼働し、廃炉・賠償の負担を抱えながら、電力会社としての自律的な経営への復帰を目指している。
- 中部電力 — 1951年に9電力体制の一角として発足した中部電力は、東海地震の想定震源域に浜岡原子力発電所を建設した唯一の電力会社である。2011年5月、福島原発事故の直後に菅首相の要請で浜岡全号機が停止し、年間約2500億円の燃料費増が3期連続の赤字をもたらした。 原発停止後、東京電力との合弁会社JERAに火力発電事業を全面移管し、自社の発電所を持たない持株会社へと姿を変えた。林欣吾社長は「電力は数ある事業の1つでしかない」(日経ビジネス 2020/08/06)と語り、不動産デベロッパーの日本エスコンを子会社化するなど、電力会社の枠を超えた事業ポートフォリオへの転換を進めている。
- 関西電力 — 関西電力は9電力体制の一角として1951年に発足し、日本の電力会社で初めて原子力の商用運転を実現した。原発は関西電力の収益構造の核であり、7基が稼働すれば過去最高益、全基が停止すれば4期連続赤字という振れ幅を同社にもたらした。 2011年の福島第一原発事故後に全原発が停止し、累計で8000億円超の経常損失を計上した。2019年には旧経営幹部の金品受領問題が発覚し、ガバナンス体制の全面刷新を迫られた。原発7基のフル稼働を果たした2024年3月期には経常利益7660億円を記録し、原発依存型の収益構造が再び鮮明になっている。
- 東京ガス — 1885年に東京府の官営瓦斯局を払い下げて創業した東京ガスは、石炭ガスから石油系ガス、そしてLNGへと「何を燃やすか」を転換するたびに事業構造を作り替えてきた。1969年、アラスカからの日本初のLNG導入は、約400万世帯のガス機器を16年かけて交換するインフラ転換の出発点だった。 2016年の電力小売自由化では攻める側に回り、2023年3月期には経常利益4088億円の過去最高益を記録した。しかしこの利益の多くはLNG市場高騰という一過性要因に支えられていた。2023年末に約27億ドルで米国シェールガス企業を買収し、「量に依存しないビジネスモデル」への転換と北米上流統合という新たな賭けに踏み出している。
- 大阪ガス — 1897年に資本金35万円で設立された大阪ガスは、戦時中に神戸・京都など14社を合併して近畿2府4県をカバーする都市ガス会社となった。1972年のブルネイLNG導入から15年をかけた天然ガス転換、そして2009年の泉北天然ガス発電所稼働と、エネルギー源の転換を繰り返しながら事業領域を広げてきた。 海外事業では300億円超の損失を出したシェールガスの初期投資の失敗を経て、既存開発済み鉱区の買収に方針を転換したことで米国事業が収益化した。2025年3月期の海外エネルギーセグメントの営業利益は540億円に達し、国内ガス販売量の減少を補う成長エンジンに育っている。関西電力との激しい顧客争奪戦を戦いながら、米国シェールガス・IPP・フリーポートLNGの3本柱で海外収益を拡大する構図が大阪ガスの現在地である。
- 東宝 — 阪急電鉄の創業者・小林一三が1932年に東京の日比谷に設立した東京宝塚劇場は、劇場経営と映画製作を垂直統合し、不動産と興行の両輪で収益を上げるモデルを築いた。2000年代に入ると年間営業収入は2000億円前後で横ばいが続いたが、映画事業の利益率は低く、安定収益は不動産が担っていた。 その構造を変えたのが2010年代後半からのアニメIP事業である。2020年に「鬼滅の刃 無限列車編」が興行収入404億円で歴代1位を記録し、2023年には「ゴジラ-1.0」が北米興行収入5641万ドルと日本映画初のアカデミー賞視覚効果賞を獲得した。FY24の映画事業営業利益508億円は10年前の3.4倍に達し、東宝は配給手数料を受け取る会社から、自らリスクを取って製作しIPを育てる会社へと変わった。
- セコム — 1962年、飯田亮と戸田壽一は日本に「民間警備」という産業そのものを創出した。創業3年目で人手が足りないことに危機感を覚えた飯田は、1966年にオンライン安全システム「SPアラーム」を開発し、人が巡回する警備から機械が異常を検知するモデルへ転換した。この判断がセコムの収益構造の根幹となり、FY24には売上高1兆1999億円のうちセキュリティサービス事業が6333億円を占める。 1983年に「セコム」へ社名を変えた際、飯田は「警備業」ではなく「社会システム産業」を目指すと宣言した。以後、保険・医療・防災・データセンター・BPOと事業領域を拡大し、営業利益は1443億円に達した。セキュリティで培ったセンサー・通信・駆けつけのインフラを基盤に、安全と安心を多面的に提供する事業構造は、創業者の構想を60年かけて具現化した結果である。
- コナミグループ — 1969年に上月景正が大阪でジュークボックスの修理業として始めたコナミは、アーケードゲームから家庭用ゲーム、そしてモバイルゲームへと収益の軸を移すたびに、前のプラットフォームで築いたIPとノウハウを次の市場に転用してきた。「グラディウス」「悪魔城ドラキュラ」「メタルギアソリッド」で世界的ブランドを築き、2001年にはフィットネスクラブのピープルを買収して健康サービス事業にまで踏み込んだ。 2010年代にモバイルゲームへ舵を切ると、「実況パワフルプロ野球」「遊戯王」などの既存IPが基本無料・課金モデルで高い利益率を生んだ。FY24のデジタルエンタテインメント事業の事業利益882億円は連結利益の大半を占め、モバイル・家庭用・カジノ向けゲーミングの3本柱に加え、eスポーツという新たな領域を模索している。売上高4216億円、当期純利益746億円 ── アミューズメント機器の町工場は、IPの収益化を軸とする総合エンタテインメント企業となった。
- ニトリ — 1967年に似鳥昭雄が札幌市内で似鳥家具店を創業し、1972年の渡米視察で米国との価格差に衝撃を受けて「日本の住まいを豊かにする」を経営理念に据えた。1978年にチェーン化構想を発表してドミナント展開で北海道の基盤を固め、1987年にはプラザ合意後の円高を追い風にインドネシア・ベトナムでの海外生産と独自物流網を構築し、製造から小売までを一貫して手がけるSPA型モデルを確立した。2002年に東証一部上場、2020年に時価総額2兆円を突破し36期連続増収増益を達成したが、円安の進行が「円高前提のSPA」を直撃し、2024年3月期に記録が途絶えた。
- 靴のマルトミ — 1950年に冨永光行が名古屋市内に丸富靴店を開業し、既製靴の低価格販売という当時としては革新的な手法で靴を日常消費財に転換した。1975年に郊外型店舗へシフトし、1980年から「靴流通センター」を全国展開、1983年の全店オンライン化や1986年の国内シェア首位獲得を経て急成長を遂げた。1985年には玩具店BANBANの展開も開始し、1993年に1700店舗を突破して売上高は約1717億円に達した。しかし1994年に17期ぶりの減益に転じて180店舗を閉鎖、大店法の規制緩和と郊外型ショッピングセンターの台頭により小型ロードサイド店モデルは競争劣位に転落し、2000年12月に負債総額761億円で民事再生法の適用を申請した。
- ファーストリテイリング(ユニクロ/GU) — ファーストリテイリングの源流は1949年に山口県宇部市の駅前商店街で開業された零細な紳士服店メンズショップ小郡商事にあり、宇部興産の石炭産業に支えられた企業城下町の商圏に依存する典型的な地方商店であった。1984年に二代目の柳井正が社長に就任し、同年に広島の繁華街でユニクロ一号店を開業したが、繁華街の高い賃料に見合う利益は出せず、翌年には下関郊外のロードサイドへと店舗を移し、自動車を持つ家族層に安くて品質の良い普段着を届けるという独自の事業モデルを確立した。1991年に社名をファーストリテイリングに変更し、日本長期信用銀行広島支店の融資を突破口として年間三十店舗規模の出店と中国沿海部四社との委託生産契約を組み合わせることで、国内で本格的な製造小売業モデルを確立したのである。 2000年のフリース旋風による全国的知名度の獲得を経て、2005年に二百坪ルールの店舗フォーマットを撤廃し、翌2006年にはニューヨーク・ソーホーに千坪のグローバル旗艦店を開業して都市型グローバルブランドへの大転換を決断した。同年設立された低価格ブランドのジーユーと合わせた価格帯別マルチブランド戦略はスペインのインディテックスと対照をなし、2023年八月期には連結売上収益二兆七千六百億円に到達した。直近では中国大陸の減速を機に個店経営とスクラップ・アンド・ビルドを軸に構造改革をグレーターチャイナで進める一方、北米では旗艦店戦略とエコマース連動でライフウェアの認知が市場に一気に広がり、柳井正自身が「原宿店のフリースブームと同じことが世界で起きている」と発言する局面に入っている。
- ソフトバンクグループ — ソフトバンクグループの源流は1981年九月に孫正義が福岡市内で設立した日本ソフトバンクにあり、創業当初はパソコンの普及に伴って急増しつつあったソフトウェアの卸売流通網を全国規模で構築することが事業の中核であった。1994年の株式公開で得た資金調達力を梃子に、米国の展示会事業コムデックスやジフ・デービス社の買収へと踏み出し、シリコンバレー発のベンチャー企業群への独自の情報アクセス経路を獲得した。1996年には米ヤフーとの合弁でヤフー株式会社を設立してインターネット検索市場の最先発ポジションを確保し、同時期に大量の社債発行を通じて売上高を超える規模の買収資金を自力で調達する独特の財務手法を確立することとなり、IT投資持株会社へと段階的に脱皮していく事業転換の土台が形づくられた。 2001年のADSLサービス「Yahoo!BB」参入と2006年の英Vodafone日本法人買収によって、ソフトバンクはソフトウェア流通業から携帯キャリア事業へと事業基盤の重心を一気に移した。2013年の米スプリント買収と2016年の英ARM買収を経て通信キャリアから投資持株会社への転換をさらに加速させ、2017年のソフトバンク・ビジョン・ファンド組成によってグループの業績は投資先企業の株価変動と直結する独特の財務体質に変化した。直近では2024年以降の生成AI革命を追い風に、2025年にはオープンAIへ最大三百億米ドル規模の出資を決定し、Stargate Projectと呼ばれる米国の大型AIインフラ投資にも参画を表明した。Arm・Ampere・Graphcoreの三社で半導体エンジニア八千四百人を結集し、AI半導体とロボティクスへの本格的な事業転換を進めている。
The社史
ビジネスパーソンに長期視点を普及するため、1人で創っています
AIエージェント向けアクセス情報1911年
創業
ニッスイ
NEW売上高
8,861億円
2025/03
営業利益
317億円
2025/03
ニッスイは1911年、田村市郎が下関で田村汽船漁業部を創業し遠洋トロール漁業に乗り出したことに始まる。戦後の1952年に魚肉ソーセージの本格生産を開始して食品メーカーへの転換を図り、1974年の米国・チリ進出を起点にグローバル水産食品企業へと成長した。2001年に北米家庭用水産冷凍食品の最大手ブランド「ゴートンズ」を買収して海外食品事業の柱を確立している。
2022年12月に「日本水産」から「ニッスイ」に社名を変更し、長期ビジョン「Good Foods 2030」のもとで水産・食品・ファインケミカルの三本柱による成長を目指す。2025年3月期には売上高8861億円・営業利益318億円を達成し、2026年1月にはチリのサーモン養殖会社PY社を完全子会社化して南米養殖事業の2030年8万トン体制を見据える。中期経営計画「Good Foods Recipe2」では2028年3月期に売上高9700億円・営業利益410億円を掲げ、売上高1兆円の射程圏に入った。
売上高(2011〜2025)
1966年
創業
INPEX
NEW売上高
20,113億円
2025/12
営業利益
11,354億円
2025/12
INPEXは国際石油開発と帝国石油の経営統合によって誕生した日本最大の石油・天然ガス開発会社である。前身の国際石油開発が豪州沖で発見したイクシスガス田を軸に、日本企業として初めて大型LNGプロジェクトのオペレーターを務め、資源開発における日本の存在感を一変させた。
イクシスLNGプロジェクトは発見から操業開始まで約16年、総事業費約340億米ドルを投じた巨大事業であり、その成否がINPEXの企業価値そのものを左右してきた。2018年の操業開始以降は安定収益源として連結利益を支え、足元では脱炭素時代を見据えた水素・CCSへの投資と新規LNG開発を両輪で進めている。
売上高(2012〜2025)
1947年
創業
コムシスホールディングス
NEW売上高
6,146億円
2025/03
営業利益
459億円
2025/03
1951年、電気通信工事業界の有力者21名が出資して「日本通信建設」を設立した。電電公社の指定工事会社として受注の100%を1社に依存する構造は、1985年のNTT民営化を経ても根本的には変わらず、2003年に同業3社が統合してコムシスホールディングスを設立した後も、売上高の過半はNTTグループ向けだった。
この制約を解こうとする試みが、20年間のM&Aを貫く一本の線である。2010年のつうけん、2018年のNDS・SYSKEN・北陸電話工事の3社一括統合で通信工事の全国体制を完成させ、並行して再エネ・ガス・舗装と非通信領域にも進出した。2025/3期の計画でNTT関連売上比率は44%まで低下し、売上高6,146億円・営業利益460億円で過去最高を更新した。
売上高(2011〜2025)
化学・素材20社調査済
- 日産化学粗利率46.4%(FY24)
- 日本ペイント粗利率42.3%(FY25)
- 富士フイルム粗利率40.7%(FY24)
- 日東電工粗利率39.0%(FY24)
- 信越化学工業粗利率38.4%(FY24)
- トクヤマ粗利率31.5%(FY24)
- クラレ粗利率30.5%(FY25)
- 三菱ケミカルグループ粗利率29.0%(FY24)
- 住友化学粗利率27.8%(FY24)
- 東ソー粗利率24.4%(FY24)
- レゾナックHD粗利率24.0%(FY25)
- 北越コーポレーション粗利率22.5%(FY24)
- 三井化学粗利率21.5%(FY24)
- デンカ粗利率21.1%(FY24)
- 王子ホールディングス粗利率18.9%(FY24)
- UBE粗利率18.7%(FY24)
- レンゴー粗利率18.3%(FY24)
- 日本触媒粗利率17.2%(FY24)
- ENEOS HD粗利率9.0%(FY24)
- 出光興産粗利率7.5%(FY24)
医薬品・医療機器12社調査済
食品・飲料10社調査済
外食2社調査済
繊維6社調査済
アパレル・日用品8社調査済
鉄鋼・非鉄15社調査済
機械・重工21社調査済
- 横河電機粗利率47.6%(FY24)
- SMC粗利率45.8%(FY24)
- アマダ粗利率43.5%(FY24)
- ヤマハ粗利率38.1%(FY24)
- ファナック粗利率37.0%(FY24)
- 横浜ゴム粗利率36.2%(FY25)
- 安川電機粗利率35.6%(FY24)
- ダイキン粗利率34.2%(FY24)
- コマツ粗利率32.2%(FY24)
- オークマ粗利率31.7%(FY24)
- 日立建機粗利率31.3%(FY24)
- クボタ粗利率29.3%(FY25)
- 日本製鋼所粗利率24.5%(FY24)
- 住友重機械工業粗利率24.5%(FY25)
- IHI粗利率23.0%(FY24)
- 三菱重工業粗利率20.5%(FY24)
- 川崎重工業粗利率20.3%(FY24)
- カナデビア粗利率18.7%(FY24)
- アルプスアルパイン粗利率17.7%(FY24)
- 日揮ホールディングス粗利率2.2%(FY24)
- オムロン純利益率2.0%(FY24)
総合電機・OA18社調査済
- レーザーテック粗利率59.0%(FY24)
- キヤノン粗利率46.7%(FY25)
- カシオ計算機粗利率43.3%(FY24)
- ソニー粗利率34.4%(FY24)
- リコー粗利率34.4%(FY24)
- 日本ビクター粗利率33.2%(FY08)
- パナソニック粗利率31.1%(FY24)
- 日本電気粗利率31.0%(FY24)
- 日立製作所粗利率28.8%(FY24)
- 富士電機粗利率28.3%(FY24)
- GSユアサ粗利率24.0%(FY24)
- TOPPAN(凸版印刷)粗利率24.0%(FY24)
- 大日本印刷粗利率23.2%(FY24)
- シャープ粗利率18.8%(FY24)
- パイオニア粗利率17.9%(FY17)
- 三菱電機営業利益率7.1%(FY24)
- 三洋電機純利益率-2.4%(FY10)
- 赤井電機
半導体12社調査済
精密機器9社調査済
自動車・部品18社調査済
- 日本特殊陶業粗利率39.5%(FY24)
- ブリヂストン粗利率38.5%(FY25)
- ヤマハ発動機粗利率31.0%(FY25)
- スズキ粗利率26.9%(FY24)
- 豊田自動織機粗利率23.3%(FY24)
- 日本精工粗利率21.7%(FY24)
- マツダ粗利率21.5%(FY24)
- ホンダ粗利率21.5%(FY24)
- SUBARU粗利率20.9%(FY24)
- いすゞ自動車粗利率20.5%(FY24)
- トヨタ自動車粗利率19.9%(FY24)
- 三菱自動車粗利率19.2%(FY24)
- 住友電工粗利率18.8%(FY24)
- 日野自動車粗利率17.4%(FY24)
- NTN粗利率17.1%(FY24)
- デンソー粗利率15.4%(FY24)
- ジェイテクト粗利率14.9%(FY24)
- 日産自動車粗利率13.4%(FY24)
建設5社調査済
鉄道・不動産16社調査済
- 東海旅客鉄道粗利率49.3%(FY24)
- 東日本旅客鉄道粗利率35.7%(FY24)
- 東急粗利率31.7%(FY24)
- 東武鉄道粗利率31.3%(FY24)
- 小田急電鉄粗利率29.8%(FY24)
- 京成電鉄粗利率27.8%(FY24)
- 三菱地所粗利率26.5%(FY24)
- 住友不動産経常利益率26.5%(FY24)
- 京王電鉄粗利率25.0%(FY24)
- 西日本旅客鉄道粗利率24.5%(FY24)
- 東急不動産ホールディングス粗利率21.3%(FY24)
- 大和ハウス工業粗利率20.3%(FY24)
- 積水ハウス粗利率19.4%(FY24)
- 東京建物経常利益率16.5%(FY25)
- 三井不動産経常利益率11.1%(FY24)
- 三菱倉庫経常利益率6.6%(FY24)
海運・物流8社調査済
電力・インフラ5社調査済
総合商社8社調査済
小売9社調査済
娯楽6社調査済
IT・通信17社調査済
- クックパッド粗利率98.6%(FY25)
- ZOZO粗利率93.0%(FY24)
- トレンドマイクロ粗利率76.9%(FY25)
- ヤフー粗利率72.4%(FY24)
- メルカリ粗利率71.8%(FY24)
- ネクソン粗利率59.4%(FY25)
- DeNA粗利率56.5%(FY24)
- エムスリー粗利率54.2%(FY24)
- ソフトバンクグループ粗利率51.8%(FY24)
- ソフトバンク粗利率48.3%(FY24)
- KDDI粗利率42.4%(FY24)
- 野村総合研究所粗利率36.0%(FY24)
- 富士通粗利率32.9%(FY24)
- サイバーエージェント粗利率30.2%(FY25)
- クレディセゾン営業利益率22.1%(FY24)
- NTT純利益率7.3%(FY24)
- 楽天グループ営業利益率0.6%(FY25)
金融19社調査済
- 日本取引所グループ営業利益率55.6%(FY24)
- 横浜フィナンシャルグループ経常利益率30.8%(FY24)
- しずおかフィナンシャルグループ経常利益率29.9%(FY24)
- 千葉銀行経常利益率29.7%(FY24)
- りそなホールディングス経常利益率26.1%(FY24)
- 野村ホールディングス経常利益率24.9%(FY24)
- ふくおかフィナンシャルグループ経常利益率22.7%(FY24)
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ経常利益率19.6%(FY24)
- 東京海上ホールディングス経常利益率17.3%(FY24)
- 三井住友フィナンシャルグループ経常利益率16.9%(FY24)
- オリックス経常利益率16.7%(FY24)
- 大和証券グループ本社経常利益率16.4%(FY24)
- MS&ADインシュアランスグループホールディングス経常利益率13.9%(FY24)
- みずほフィナンシャルグループ経常利益率12.9%(FY24)
- 三井住友トラストグループ経常利益率12.6%(FY24)
- あおぞら銀行経常利益率7.6%(FY24)
- 第一生命ホールディングス経常利益率7.3%(FY24)
- SOMPOホールディングス経常利益率6.5%(FY24)
- T&Dホールディングス経常利益率5.3%(FY24)