マキタ の歴史

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沿革 1915〜2022年

1915年〜名古屋の電灯器具修理店から国産電気カンナへ──電動工具メーカーの源流

  1. 牧田電機製作所を創業
  2. 株式会社に改組
  3. 本社所在地の工場を新設
  4. 重要国産第一号の携帯用電気カンナを発売
  5. 重要モーターの生産を中止し電動工具専門メーカーに転換
  6. マキタ電機製作所に商号変更
  7. 名古屋証券取引所二部に上場
  8. 東京証券取引所・大阪証券取引所二部に上場

1970年〜流通支配による高収益化

  1. 重要マキタUSAを設立
  2. 岡崎工場を新設
  3. マキタ・フランスを設立
  4. アムステルダム証券取引所に上場
  5. ナスダックでADR取引開始
  6. ルクセンブルグ証券取引所に上場
  7. マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立
  8. 城山開発を設立
  9. マキタ・タイワンを設立
  10. マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立

1991年〜独ザックス・ドルマーの買収とマキタへの改称、中国生産と城山開発の民事再生

  1. ザックス・ドルマーを買収
  2. マキタに商号変更
  3. 牧田を設立
  4. マキタ一宮を設立
  5. ルクセンブルグ証券取引所上場廃止
  6. 牧田(昆山)を設立
  7. 城山開発が民事再生手続開始
  8. 城山開発の経営権を譲渡
  9. 兼松日産農林の自動釘打機事業を譲受

2007年〜富士ロビンの子会社化とタイ生産拠点、ナスダック上場廃止と尼寺空圧工業

  1. 富士ロビンを子会社化
  2. マキタ・タイ生産拠点を設立
  3. マキタ沼津を吸収合併
  4. ナスダック上場廃止
  5. 尼寺空圧工業を子会社化
  6. 尼寺空圧工業を吸収合併
  7. プライム・プレミア市場へ移行
牧田電機からマキタへ
1915年 1962年 1991年 2006年2007年 2019年 2026年 牧田電機製作所 1915年創業 マキタ電機製作所 1962年商号変更 マキタ 1991年商号変更 ザックス・ドルマー 1991年買収 兼松日産農林 2006年釘打機事業を譲受 富士ロビン 2007年子会社化 尼寺空圧工業 2019年子会社化・後に合併
創業 1915年
創業者 牧田茂三郎
創業地 愛知県名古屋市
創業 1915年3月21日、23歳の牧田茂三郎氏が名古屋市中区横三ツ蔵町で牧田電機製作
1915年3月21日、23歳の牧田茂三郎氏が名古屋市中区横三ツ蔵町で牧田電機製作所を個人創業した。従業員15〜16人で電灯器具・変圧器・モーターの販売修理を手がけ、モーターやトランス、スイッチ類を電灯会社と電鉄会社へ納めている。創業の月には、三重県桑名市生まれで17歳の後藤十次郎氏が牧田茂三郎氏に誘われ職工として入社した。1938年12月に資本金18万円・従業員94名で株式会社牧田電機製作所へ改組し、1945年4月には納入先だったワシノ機械との関係から工場を愛知県安城市へ疎開させ、これが現在の本社所在地となる。1962年5月に商号をマキタ電機製作所へ改めて同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ上場し、1991年4月に現在のマキタとなった。
決断 自ら作っていた部品をやめ、その部品を使う道具だけを残した。1955年4月に2代目
自ら作っていた部品をやめ、その部品を使う道具だけを残した。1955年4月に2代目社長へ就任した後藤十次郎氏は、1956年度に復配した最中に、モーターは部品にすぎず大手が自社生産へ入ると読んだ。1957年6月に商売変え宣言を出し、翌1958年1月に国産第一号の携帯用電気カンナを発売した。輸入品の刃幅80ミリを日本の建築に合わせ4寸へ改め、8万5,000円に対し2万9,800円で出す。発売と同時に景気は後退してモーター部門の月商は2,000万円から800万円へ減少したが、電気カンナは売れた。1959年にモーターの生産をやめて電動工具の専業となり、2022年3月末には約100億円のエンジン製品も終えた。部品を捨てて完成品の側に立ったことが、動力をコードから電池へ替える判断を他社の都合を待たずに下せるようにした。
現況 営業利益率が3.7%まで低下した会社が、3年で13%台へ戻した。2026年3月期
営業利益率が3.7%まで低下した会社が、3年で13%台へ戻した。2026年3月期の連結売上高7,776億円は過去最高で、営業利益1,047億円、純利益794億円である。2023年3月期は原材料高と円安で営業利益282億円・利益率3.7%まで沈んだが、以後8.9%、14.2%、13.5%と戻した。売上は欧州が3,933億円と半分を占め、日本1,515億円、北米816億円が続く。同じバッテリーを多くの製品で使い回すコードレス工具は、本体と一緒に電池と充電器が売れる。株主還元は年間配当20円を下限・総還元性向35%以上とし、2025年3月期は37.3%となった。1963年に借入金を消して以来ためた現金は、後藤宗利社長のバランスシート経営のもとで配当と自己株式取得へ配り直された。
競合 国内へ乗り込んだ世界最大手は、プロの現場に入れなかった。1974年、米ブラック・
国内へ乗り込んだ世界最大手は、プロの現場に入れなかった。1974年、米ブラック・アンド・デッカーが日本へ上陸する。マキタは小売店へ直接売って修理まで引き受け、代金回収だけを特約店に任せていた。相手は日曜大工用へ販路を切り替えざるをえず、1973年の電気カンナと電気ドリルのシェアは55%と日立工機の35%を上回る。逆に相手の本拠地では苦戦する。1987年春の対米制裁で電動工具にも100%の関税がかかり、3月30日から対米輸出製品の生産を止めた。売上高957億円の35%を占めた米国向けが止まった。1970年7月に米国を最初に各国へ販売子会社を設立して以来の海外網は55カ国に及ぶ。故障を3日以内に直す網を売る前に置く手順が、資金力で上回る外資をプロ用の棚から締め出し、同じ手順で入った欧州が売上の半分を占める。
長期業績の推移 1950〜2026年
マキタ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1970年2月期〜2026年3月期

第1章 1915年〜 名古屋の電灯器具修理店から国産電気カンナへ──電動工具メーカーの源流

筆者考察y.sugiura, author

牧田電機製作所が創業から40年かけて身につけたのは、他社の完成品を動かす部品を作る技術だった。特殊モーターは大企業が手を出さない隙間ではあるが、多機種少量の生産は非能率で、朝鮮動乱の特需が切れた1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。1955年に社長へ戻った後藤十次郎氏が読んだのは、部品である限り完成品メーカーに値段を決められ続けるということだった。だから好況の最中に商売替えを命じている。モーターをやめて電気カンナを選んだのは、大工という買い手を名指しできたからであり、大企業が入ってこない小さな市場を自ら選び直した判断でもあった。

電気カンナの値付けには、部品メーカーの発想が残っていない。輸入品が8万5,000円だった市場で、日本の建築に使う4寸柱へ刃幅を合わせ、売値を2万9,800円と決めてから原価を作らせた。買い手の懐を先に見て、そこへ製品を合わせる順序である。1959年にモーターの生産を完全にやめたことで、会社は部品の供給者ではなく道具の作り手になった。1962年の不況期に営業所を全国へ広げた一県一店舗主義の網は、そのまま輸出と海外拠点の下地になる。1968年2月期に電動工具全体で30.2%、電気カンナで64.2%というシェアは、市場を選び直してから10年で得たものだった。

売上高の推移 1967年2月期〜1969年2月期(億円)

45 67/2期 62 68/2期 88 69/2期

1915年〜牧田茂三郎氏の創業──名古屋の電灯器具修理店として

1915年3月21日、名古屋市中区横三ツ蔵町で"牧田電機製作所"が個人創業した。創始者は当時23歳の若い電気技術者・牧田茂三郎氏で、従業員15〜16人からの出発だった。扱ったのは電灯器具・モーター・変圧器の販売修理で、モーター・トランス・スイッチ類を電灯会社・電鉄会社へ納めた。創業の月には、三重県桑名市生まれで17歳の後藤十次郎氏が茂三郎氏に誘われ"職工"として入社している。のちに2代目社長として会社の性格を作り替える人物が、創業の現場に居合わせていた。当時の電機業界は未成熟で、パナソニックの創業(1918年)より3年早い参入にあたる。配電インフラが大正初期に地方都市まで広がり、若者中心の小規模事業者にも電動機器の販売修理という市場参入の余地があった時代である。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1915年3月21日 牧田茂三郎が牧田電機製作所を個人創業
    • [2]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
    • [4]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1915年3月 牧田電機製作所(個人経営)創業(名古屋市)、電灯器具・モーター・変圧器の販売修理を開始
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [5]後藤十次郎は明治30年10月15日三重県桑名市生まれ。大正4年3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎に誘われ「職工」として入社

昭和初期の経済パニックを乗り越えたうえで、1938年12月、個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組した。改組時の資本金は18万円、従業員は94名で、初代社長には創業者の牧田茂三郎氏が就任した。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力した。1945年4月には、当時生産するモーターの6割までを納入していたワシノ機械(今村工場)との関係から、工場疎開を兼ねて愛知県安城市(現本社所在地)に工場を移し、戦後の本社所在地が確定した。終戦直後のモーター業界は、松下電器や日立など大手企業が財閥解体の対象に指定されて事業遂行が困難となり、マキタのような中小企業が辛うじて生き残る環境にあった。だが戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり、苦境期を迎えることになる。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]1938年12月 個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組。改組時の資本金18万円・従業員94名、初代社長は創業者の牧田茂三郎
    • [7]昭和初期の経済パニックを乗り越えた。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力
    • [8]1945年4月 ワシノ機械(今村工場)に生産モーターの6割を納入していた関係から工場疎開を兼ね愛知県安城市(現本社所在地)に工場移転
    • [9]戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり苦境期を迎えた

終戦直後は、戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し販売する商売がかなり有利で、会社はこれで食いつないだ。だが経済の混乱が収まると各地で大企業がモーターの生産を再開する。資本金1,000万円・従業員100名足らずの小企業だったマキタは正面から対抗できず、大企業が手がけない特殊モーターの受注生産で生き延びた。多機種少量生産の工場経営はきわめて非能率で、朝鮮動乱の特需が切れたあと、1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。借入金3,000万円を抱え、従業員の給与も満足に払えない町工場だった。創業から40年、何を作る会社なのかを決め直さなければならない地点に立たされていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [10]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
    • [11]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
    • [12]昭和25〜26年の朝鮮動乱当時まではよかったがその後不況に見舞われ、昭和28〜30年にかけて倒産寸前の状況に追い込まれた
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [13]昭和30年、資本金1000万円・借入金3000万円、従業員の給与も満足に払えない会社だった
参考文献[1]-[13]
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1915年3月21日 牧田茂三郎が牧田電機製作所を個人創業
    • [2]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
    • [4]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
    • [6]1938年12月 個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組。改組時の資本金18万円・従業員94名、初代社長は創業者の牧田茂三郎
    • [7]昭和初期の経済パニックを乗り越えた。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力
    • [8]1945年4月 ワシノ機械(今村工場)に生産モーターの6割を納入していた関係から工場疎開を兼ね愛知県安城市(現本社所在地)に工場移転
    • [9]戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり苦境期を迎えた
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1915年3月 牧田電機製作所(個人経営)創業(名古屋市)、電灯器具・モーター・変圧器の販売修理を開始
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [5]後藤十次郎は明治30年10月15日三重県桑名市生まれ。大正4年3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎に誘われ「職工」として入社
    • [13]昭和30年、資本金1000万円・借入金3000万円、従業員の給与も満足に払えない会社だった
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [10]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
    • [11]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
    • [12]昭和25〜26年の朝鮮動乱当時まではよかったがその後不況に見舞われ、昭和28〜30年にかけて倒産寸前の状況に追い込まれた

1955年〜後藤十次郎氏の「商売替え」と国産第一号の携帯用電気カンナ

後藤十次郎氏は創業以来の社員だったが、1941年から14年間は会社を離れ、自らモートルの販売と修理を商いとしながら、マキタ電機の代理店と下請けを務めていた。その後藤氏が創業者牧田茂三郎氏の頼みを受け、2代目社長に就いたのは1955年4月である。神武景気の到来とともに業績は立ち直り、それまで配当のなかった会社は1956年度に1割配当を復活させたが、後藤社長はその好調の中にあっても、特殊モーター頼みのままでは次の不況でまた無配に陥ると見ていた。モーターは所詮部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーがモーターの自社生産に乗り出すのは明白だ──そう見切って、1957年6月に従業員へ"商売変え宣言"を出し、新商売のアイデアを出せと命じた。役員も従業員も驚いたが、いやがる本人を懇請して社長に就任すれた経緯もあり、全社で新商売探しに動いた。

  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [14]後藤十次郎は昭和16年から昭和30年までいったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、昭和30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任
    • [17]モーターは部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーが今後モーターの自社生産に乗り出すことは明白と判断し、昭和32年6月に従業員へ「商売変え宣言」をして新商売のアイデアを出せと命令した
    • [18]従業員も役員も驚いたが、いやがる後藤を従業員・役員がそろって懇請して社長につかせた経緯もあり、全社あげて新商売さがしに奔走した
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]1955年4月 後藤十次郎がマキタ2代目社長に就任(創業者・牧田茂三郎に請われ、創業時からの社員)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [16]社長就任直後から神武景気が走り出し事業は順調に運び、それまで無配を続けてきた同社も31年度には1割配当に復配した

1958年1月、国産第一号の携帯用電気カンナを発売した。造船所ではすでに使われていたが国産品はなく全て輸入品で、現物を取り寄せて検討した。米国製は刃幅80ミリだったが、日本の建築では4寸柱が普通であるとして刃幅を4寸に改めている。価格では8万5,000円だった輸入品の半値以下を掲げ、技術陣に3万円を割る製品を作れと命じ、売出し価格を2万9,800円と決めた。発売と同時に景気は後退し、モーター部門の月商は1957年6月の2,000万円から1958年10月には800万円へ減少したが、電気カンナは順調に売れ、会社はこれがなければ遭遇したはずの危機を回避した。同年8月には電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種で電動工具界に新風を起こした。職人の現場という限られた顧客層に絞り込むことで、大手モーター企業との正面衝突を避ける選択でもあった。

  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1958年1月 国産第一号の携帯用電気カンナを発売
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [20]当時、大規模な造船所ではほとんど電気カンナが使用されていたが国産品は全くなく全部が海外からの輸入品だったため、まず現物を取り寄せて検討した
    • [21]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
    • [22]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
    • [23]電気カンナ発売の頃から景気は不況に落ち込み、モーター部門の月商は32年6月の2,000万円から33年10月には800万円に落ち込んだが、電気カンナは順調な売行きを示し、これを採用していなければ遭遇したであろう危機を回避した
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [24]1958年8月 電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種開発で電動工具界に新風を起こした

電動工具だけを手がける会社へのマキタの転換は、1959年に果たされた。その年のうちに豪州へ小型電気カンナ1300を送り出し、電動工具として最初の輸出を果たしたのも、モーター生産を打ち切り、得意先の求めで細々と残していた分まで止めたのと同じ時期である。上場は段階を踏んで進み、1962年5月に社名を株式会社マキタ電機製作所へ改めたうえで同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を出した。1968年8月には東京・大阪両証券取引所の市場第二部にも加わり、このときの公開価格は940円だった。1970年7月には東京・名古屋・大阪の各市場第一部へ指定替えとなった。1968年2月期の売上高は32億84百万円、電動工具全体のシェアは30.2%で、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%と主力製品のシェアが高く、営業所・出張所は全国73カ所、登録販売店は10,130店を数えた。

  • マキタレポート2025
    • [25]1959年 オーストラリアに小型電気カンナ1300を出荷(電動工具の初輸出)
  • 証券 1968年20巻9号(234号)
    • [26]昭和34年(1959年) モーターの生産を中止し、電動工具専門メーカーに転換
    • [31]上場年月日 昭和43年8月21日。公開株数1,200,000株(公募公開)・公開価格940円
    • [33]昭和43年2月期の売上高32億84百万円。電動工具のシェアは30.2%、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%。全国73か所の営業所・出張所、登録販売店10,130店
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [27]とくい先の要請でわずかに続けていたモーターの生産も34年に完全にやめ、電動工具ひと筋に進んだ
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1962年5月 商号を株式会社マキタ電機製作所に変更
    • [29]1962年8月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
    • [30]1968年8月 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
    • [32]1970年7月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
参考文献[14]-[33]
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [14]後藤十次郎は昭和16年から昭和30年までいったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、昭和30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任
    • [17]モーターは部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーが今後モーターの自社生産に乗り出すことは明白と判断し、昭和32年6月に従業員へ「商売変え宣言」をして新商売のアイデアを出せと命令した
    • [18]従業員も役員も驚いたが、いやがる後藤を従業員・役員がそろって懇請して社長につかせた経緯もあり、全社あげて新商売さがしに奔走した
    • [27]とくい先の要請でわずかに続けていたモーターの生産も34年に完全にやめ、電動工具ひと筋に進んだ
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]1955年4月 後藤十次郎がマキタ2代目社長に就任(創業者・牧田茂三郎に請われ、創業時からの社員)
    • [24]1958年8月 電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種開発で電動工具界に新風を起こした
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [16]社長就任直後から神武景気が走り出し事業は順調に運び、それまで無配を続けてきた同社も31年度には1割配当に復配した
    • [20]当時、大規模な造船所ではほとんど電気カンナが使用されていたが国産品は全くなく全部が海外からの輸入品だったため、まず現物を取り寄せて検討した
    • [21]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
    • [22]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
    • [23]電気カンナ発売の頃から景気は不況に落ち込み、モーター部門の月商は32年6月の2,000万円から33年10月には800万円に落ち込んだが、電気カンナは順調な売行きを示し、これを採用していなければ遭遇したであろう危機を回避した
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1958年1月 国産第一号の携帯用電気カンナを発売
    • [28]1962年5月 商号を株式会社マキタ電機製作所に変更
    • [29]1962年8月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
    • [30]1968年8月 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
    • [32]1970年7月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
    • [25]1959年 オーストラリアに小型電気カンナ1300を出荷(電動工具の初輸出)
  • 証券 1968年20巻9号(234号)
    • [26]昭和34年(1959年) モーターの生産を中止し、電動工具専門メーカーに転換
    • [31]上場年月日 昭和43年8月21日。公開株数1,200,000株(公募公開)・公開価格940円
    • [33]昭和43年2月期の売上高32億84百万円。電動工具のシェアは30.2%、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%。全国73か所の営業所・出張所、登録販売店10,130店

1964年〜海外進出の起点──マキタU.S.A.設立と欧州・オセアニア展開

輸出に本腰を入れたのは1964年頃からで、1967年度上期の輸出比率は6%、1968年2月期には7.1%となり、輸出先は約50〜55カ国へ広がった。1967年11月から12月にかけては後藤十次郎社長自身が米国と欧州を回って市場調査を行い、翌年のフランスか英国への駐在員派遣を検討している。国内では1962年の不況期に、全国22カ所だった営業所・出張所を30カ所増やして一県一店舗主義を実現する拡張策を打っており、この網が輸出拡大の前提になった。借入金は1963年に消え、1968年時点のマキタは無借金・高成長・高収益・高配当で株式市場の人気銘柄の筆頭とされている。1959年2月期を100とすれば1968年2月期は1830という伸びであった。1968年末の自己資本比率は日立工機61%、米ブラック・アンド・デッカー58%に対しマキタ80%である。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [34]39年頃から輸出に力を入れ、世界55〜56カ国に輸出。42年度上期決算の輸出比率は6%、今2月期には7〜7.5%に達する見込み(証券1968では約50か国・売上高比7.1%)
    • [35]昨年11月初旬から12月中旬まで社長自身が米国・ヨーロッパを回って市場調査を行い、今年中にフランスかイギリスにも駐在員を派遣することを考えている
    • [36]36年末に全国22の営業所・出張所を開設していたが、37年の不況到来を受け拡張計画を修正して30カ所増設し、一県一店舗主義を実現した
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [37]昭和38年に借入金が皆無となった。1968年時点で借入金皆無・高成長・高収益・高配当を背景に株式市場で人気銘柄の筆頭とされた
    • [38]1959年2月期を100%とすると1968年2月期の伸び率は1830%
  • 日経ビジネス 1970年6月号
    • [39]昭和38年にバランスシートから借入金の項目が消えた。43年末の自己資本比率は国内のライバル日立工機61%、米国のブラックディッカ社58%、マキタ80%

1970年7月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部への昇格と同時に、初の海外拠点としてニューヨークにマキタU.S.A., Inc.を設立した。本社から派遣されたのは若手社員2人だった。最初の半年間は売上がゼロで、給与だけが出ていく赤字が毎月続いた。視察に訪れた後藤修宏社長に対し、現地法人の社長が経費の足しにラーメンの屋台を引かせてほしいと訴えたという逸話も残っている。これに対する社長の答えは、副業は認めない、資金の面はいくらでも用意するので、ともかく売ってこい、というものだった。同じ月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し、国内の生産能力増強と海外初拠点の設立を並行して進めた。1971年9月にはマキタ・フランスS.A.を豊田通商と各40%出資の合弁で立ち上げ、1972年12月にマキタ・エレクトリック(U.K.)、1973年5月にマキタ・オーストラリアPty Ltdが続いている。

  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1970年7月 米国にマキタU.S.A., Inc.を設立(初の海外現地法人)。同月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
    • [42]1970年7月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
    • [44]1971年9月 マキタ・フランスSA、1972年12月 マキタ・エレクトリック(UK)、1973年5月 マキタ・オーストラリアPty Ltd を設立
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [41]45年7月にニューヨークに現地法人の販売会社を設立し本社から若い社員2人を派遣したが半年間の売上はゼロ。現地法人の社長がラーメンの屋台を引かせてほしいと直訴し、後藤社長は「副業はもちろんダメ。金はいくらでも出すからとにかく売れ」と答えた
  • 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
    • [43]昭和46年9月に合弁会社マキタフランス社を設立。資本金56万フラン(約3,600万円)で豊田通商とマキタ電機製作所が各40%、CCO社代表のJ・エパーが20%を出資した

1973年6月にはアムステルダム証券取引所へ大陸預託証券CDR形式で上場し、1977年2月には米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始した。販売子会社は1974年5月のマキタ・ベネルックス、同年6月のマキタSpA、1977年4月のマキタ・ヴェルクツォイクGmbH、1981年のブラジル・オーストリア、1983年のシンガポール、1984年のマキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)へと続き、1980年にはカナダで現地生産を開始して初の海外現地生産となった。1978年時点の海外販売拠点は現地法人・支店あわせて26カ所、1978年2月期の輸出売上は190億円で前期比53%増、売上全体に占める割合は4割を超えた。創業60年を挟む10年間で、国内メーカーから世界十数カ国に拠点を持つ国際企業への転身を果たした。

  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1973年6月 アムステルダム証券取引所に大陸預託証券CDR形式で上場
    • [46]1977年2月 米国預託証券ADR発行に伴いナスダックで取引開始
    • [47]1974年5月 マキタ・ベネルックス(オランダ)、1974年6月 マキタSpA(イタリア)を設立
    • [48]1977年4月 マキタ・ヴェルクツォイクGmbH(ドイツ)を設立
    • [49]1981年6月 マキタ・ド・ブラジル、1981年9月 オーストリア子会社、1983年4月 マキタ・パワー・ツールズ・シンガポール、1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)を設立
  • マキタレポート2025
    • [50]1980年 カナダにて現地生産を開始(初の海外現地生産)。2009年1月に生産終了
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [51]現在の海外販売拠点は現地法人・支店合わせ26カ所に達する。53年2月期の輸出全体の売り上げは190億円と前期に比べ53%増え、売り上げ全体に占める割合も4割を超えた
参考文献[34]-[51]
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
    • [34]39年頃から輸出に力を入れ、世界55〜56カ国に輸出。42年度上期決算の輸出比率は6%、今2月期には7〜7.5%に達する見込み(証券1968では約50か国・売上高比7.1%)
    • [35]昨年11月初旬から12月中旬まで社長自身が米国・ヨーロッパを回って市場調査を行い、今年中にフランスかイギリスにも駐在員を派遣することを考えている
    • [36]36年末に全国22の営業所・出張所を開設していたが、37年の不況到来を受け拡張計画を修正して30カ所増設し、一県一店舗主義を実現した
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [37]昭和38年に借入金が皆無となった。1968年時点で借入金皆無・高成長・高収益・高配当を背景に株式市場で人気銘柄の筆頭とされた
    • [38]1959年2月期を100%とすると1968年2月期の伸び率は1830%
  • 日経ビジネス 1970年6月号
    • [39]昭和38年にバランスシートから借入金の項目が消えた。43年末の自己資本比率は国内のライバル日立工機61%、米国のブラックディッカ社58%、マキタ80%
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1970年7月 米国にマキタU.S.A., Inc.を設立(初の海外現地法人)。同月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
    • [42]1970年7月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
    • [44]1971年9月 マキタ・フランスSA、1972年12月 マキタ・エレクトリック(UK)、1973年5月 マキタ・オーストラリアPty Ltd を設立
    • [45]1973年6月 アムステルダム証券取引所に大陸預託証券CDR形式で上場
    • [46]1977年2月 米国預託証券ADR発行に伴いナスダックで取引開始
    • [47]1974年5月 マキタ・ベネルックス(オランダ)、1974年6月 マキタSpA(イタリア)を設立
    • [48]1977年4月 マキタ・ヴェルクツォイクGmbH(ドイツ)を設立
    • [49]1981年6月 マキタ・ド・ブラジル、1981年9月 オーストリア子会社、1983年4月 マキタ・パワー・ツールズ・シンガポール、1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)を設立
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [41]45年7月にニューヨークに現地法人の販売会社を設立し本社から若い社員2人を派遣したが半年間の売上はゼロ。現地法人の社長がラーメンの屋台を引かせてほしいと直訴し、後藤社長は「副業はもちろんダメ。金はいくらでも出すからとにかく売れ」と答えた
    • [51]現在の海外販売拠点は現地法人・支店合わせ26カ所に達する。53年2月期の輸出全体の売り上げは190億円と前期に比べ53%増え、売り上げ全体に占める割合も4割を超えた
  • 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
    • [43]昭和46年9月に合弁会社マキタフランス社を設立。資本金56万フラン(約3,600万円)で豊田通商とマキタ電機製作所が各40%、CCO社代表のJ・エパーが20%を出資した
    • [50]1980年 カナダにて現地生産を開始(初の海外現地生産)。2009年1月に生産終了

第2章 1970年〜 流通支配による高収益化変形直販によるブラック・アンド・デッカーの締め出し

筆者考察y.sugiura, author

マキタ電機製作所が1970年代に得た高収益は、製品の性能よりも流通の形から来ている。電動工具は買ったあとに刃を替え、壊れれば直す道具で、売ったきりにできない。だから同社は商品を小売店へ直接届けて修理まで自社で持ち、経費のかかる代金回収だけを特約店へ預けた。使い手との距離を縮める部分は手放さず、手間のかかる部分を外へ出したことになる。1974年に世界最大のブラック・アンド・デッカーが資金力を携えて日本へ上陸しながら、職人向けを諦めて日曜大工用へ退いたのは、この網の目に入る場所がなかったためである。電動工具で5割弱というシェアは、価格でも技術でもなく、大工の仕事の段取りに食い込んだ距離が生んだ。

もう一つの特徴は、稼いだ金の置き場所だった。売上の5%を必ず預金しろという後藤十次郎氏の指示は、借金を返すための計算というより、預ける習慣を社内に残すための規律である。1963年に借入金が消えたあとも規律は残り、1977年度の75億円の設備投資は自己資金の内側に収まり、円高を海外借入の為替ヘッジで凌ぐ案は無借金という信用を理由に退けられた。その代償は株主が負う。配当性向7.8%は上場会社で最低の水準と書かれ、1株当たり純利益でソニーに迫る会社が株式市場では人気を欠いた。内部に貯めた資金は配当へ回らず、ルクセンブルグでの上場や台湾と欧州の生産拠点という形で1980年代の海外へ出ていった。

売上高の推移 1971年2月期〜1985年2月期(億円)

138 71/2期 261 74/2期 378 77/2期 542 80/2期 664 83/2期 879 85/2期

1970年〜代金回収を特約店へ預けた変形直販の販売網

電動工具には修理などのアフターケアが欠かせないため、マキタ電機製作所は販売と修理を自ら小売店相手に担い、代金の回収だけを特約店・代理店に任せた。卸売でも直販でもない、その中間に位置する経路であり、代理店・特約店を介せば低いコストで大量に流せる反面、使い手と向き合う小売店との関係は薄れ、直販なら関係は深まるものの回収の手間と費用を抱えることになる。手数料しか入らない特約店の利幅は小さいが、扱う品はマキタ製品に限られないため、商売としては成り立っていた。全国の営業所と出張所は、製品を小売店へ卸しアフターサービスを行う販売の最前線に置かれていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [52]電動工具はその性格上アフタケアが不可欠であるため、マキタは直販方式をとって商品の販売を直接小売店に行うとともに修理もし、代金の回収は特約店・代理店が行う
    • [53]メーカーの販売方法には代理店・特約店を通す方法と小売店へ直接売る直販方式があり、マキタが採用したのはその折衷案である
    • [54]代理店・特約店通しは安い経費で大量の商品を流せるがユーザーに最も近い小売店との結び付きが弱く、直販方式はユーザーとの結び付きが強くなるが代金回収など経費がかかる
    • [55]特約店・代理店は代金回収だけで手数料しか入らずうまみは少ないが、マキタの商品だけを売っているわけではないから十分採算に合う
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [56]マキタ電機の営業所や出張所は、製品を小売店に卸したりアフターサービスを行う販売の最前線である

1974年、電動工具業界のIBMという異名を持つ米ブラック・アンド・デッカーが日本へ上陸し、豊富な資金力にものを言わせて大攻勢をかけた。海外売上比率42%、海外部門利益47%というこの世界最大のメーカーの姿は、輸出を広げ始めていたマキタ自身が手本と見ていたものでもある。あのマキタも今度ばかりは、と業界では言われたが流通は切り崩せず、ブラック・アンド・デッカーは販売先を日曜大工用の個人向けへ振り向けざるを得なくなった。大手メーカーで電動工具分野へ入り込めたのは日立製作所系の日立工機だけで、1978年時点のマキタのシェアは5割弱と圧倒的だった。外資が持ち込めたのは資金と製品であって、大工の仕事の段取りに食い込んだ修理と供給の網ではなかった。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [57]1974年、電動工具業界のIBMの異名を持つブラック・アンド・デッカー社(米国)が日本に上陸し、豊富な資金力にモノをいわせて大攻勢をかけた
    • [59]「あのマキタも今度ばかりは」といわれたがB&D社はついにマキタを切り崩せず、「日曜大工用」へと販売先を個人向けに方向転換せざるをえなかった
    • [60]大手メーカーの電動工具分野への進出も日立製作所系の日立工機を除いてこのルートに入り込めず、この分野でのマキタのシェアは5割弱と圧倒的である
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [58]マキタ電機は、世界最大のメーカーであるブラック・アンド・デッカー社の海外売り上げ比率42%・海外部門利益47%を手本とし、将来は海外部門から相当の利益を期待している

電動工具は使う人が限られて売上の伸びが早く頭打ちになるため、それを破るには新製品を出し続けるほかなく、1958年の電気カンナ一つから始まった品目は1978年に250種類を超えた。景気の悪いときほど攻めに出る姿勢は開発にも貫かれ、落ち込みの深かった1962年には16種類をまとめて世に出しており、景気が冷えるほど開発に熱が入るのが同社の持ち味とされた。価格は先に決めた。大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売値を置き、その値で十分に採算が取れる原価をはじき出してから生産に入る。初めから赤字覚悟で値段を決め、あとは量産で原価を下げるという順序は採っていない。この繰り返しが、電気カンナ・電気ノコギリ・電気ノミなど電動工具で42〜43%というシェアを積み上げた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [61]電動工具はユーザーが限られているため売り上げの伸びが鈍化するのも早く、これを打開するには新製品の開発が不可欠である
    • [62]33年(1958年)に電気カンナ一つで始まった製品も現在では250種類を超える
    • [63]37年(1962年)の不況時には一気に16種類の製品を開発し、不況時であればあるほど開発意欲が高まるのが同社の特徴である
    • [64]日本の大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売価を決め、その価格で十分採算がとれるようなコストをはじき出して生産を開始した
    • [65]初めから赤字覚悟で値段を決め、後は大量生産方式によってコストを下げていくといった方式はとっていない
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [66]電気カンナ、電気ノコギリ、電気ノミなど電動工具の42〜43%のシェアを占めるトップ企業の地位を固めた
参考文献[52]-[66]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [52]電動工具はその性格上アフタケアが不可欠であるため、マキタは直販方式をとって商品の販売を直接小売店に行うとともに修理もし、代金の回収は特約店・代理店が行う
    • [53]メーカーの販売方法には代理店・特約店を通す方法と小売店へ直接売る直販方式があり、マキタが採用したのはその折衷案である
    • [54]代理店・特約店通しは安い経費で大量の商品を流せるがユーザーに最も近い小売店との結び付きが弱く、直販方式はユーザーとの結び付きが強くなるが代金回収など経費がかかる
    • [55]特約店・代理店は代金回収だけで手数料しか入らずうまみは少ないが、マキタの商品だけを売っているわけではないから十分採算に合う
    • [57]1974年、電動工具業界のIBMの異名を持つブラック・アンド・デッカー社(米国)が日本に上陸し、豊富な資金力にモノをいわせて大攻勢をかけた
    • [59]「あのマキタも今度ばかりは」といわれたがB&D社はついにマキタを切り崩せず、「日曜大工用」へと販売先を個人向けに方向転換せざるをえなかった
    • [60]大手メーカーの電動工具分野への進出も日立製作所系の日立工機を除いてこのルートに入り込めず、この分野でのマキタのシェアは5割弱と圧倒的である
    • [61]電動工具はユーザーが限られているため売り上げの伸びが鈍化するのも早く、これを打開するには新製品の開発が不可欠である
    • [62]33年(1958年)に電気カンナ一つで始まった製品も現在では250種類を超える
    • [63]37年(1962年)の不況時には一気に16種類の製品を開発し、不況時であればあるほど開発意欲が高まるのが同社の特徴である
    • [64]日本の大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売価を決め、その価格で十分採算がとれるようなコストをはじき出して生産を開始した
    • [65]初めから赤字覚悟で値段を決め、後は大量生産方式によってコストを下げていくといった方式はとっていない
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [56]マキタ電機の営業所や出張所は、製品を小売店に卸したりアフターサービスを行う販売の最前線である
    • [66]電気カンナ、電気ノコギリ、電気ノミなど電動工具の42〜43%のシェアを占めるトップ企業の地位を固めた
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [58]マキタ電機は、世界最大のメーカーであるブラック・アンド・デッカー社の海外売り上げ比率42%・海外部門利益47%を手本とし、将来は海外部門から相当の利益を期待している

1973年〜社内留保と預託証券で賄った無借金の投資

借金の返済が動き出したのは、1955年に後藤十次郎氏が社長に就いてからである。手段として定めたのは、売上高の5%を毎回欠かさず預け入れることだった。借りた金を預金に回す場面すらあって社内には無意味だとの不満が出たが、後藤氏は、狙いは借入の解消よりも貯める習慣を社内に根づかせる点にあるとして取り合わなかった。電気カンナの売れ行きが急拡大した追い風もあり、1963年以降の貸借対照表から借入金の欄は消えた。1973年2月期には借入金ゼロのまま預金が資本金の4倍超の50億円に積み上がり、自己資本比率は78.3%に達した。設備投資には借金してまでは行わないという大前提が置かれ、1977年度の75億円は前年度の2倍を超えたが、すべて自己資金の内側に収めている。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [67]30年(1955年)の後藤十次郎社長登場とともに借金返済が始まり、その方法は「売り上げの5%を必ず預金しろ」というものだった
    • [68]ときには借金して預金することもあり社内から「実質的に無意味」という声が上がったが、後藤社長は「借金をなくすことが目標ではなく、預金するというクセをつけることが大事」としてはねつけた
    • [69]電気カンナの爆発的な売り上げ増もあって、38年(1963年)以来同社のバランスシートからは「借入金」という項目が消えたままである
    • [71]「借金してまでも設備投資はしない」という大前提があり、52年度(1977年度)は75億円と前年度の2倍強の設備投資を実施したがいずれも自己資金内である
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [70]48年2月期(1973年2月期)の預金は資本金の4倍以上の50億円、借入金ゼロ、自己資本比率78.3%、使用総資本純利益率18.5%、社内留保率91.2%

海外進出が相次いで投資資金が急増した1975年から1977年にかけては、大陸預託証券CDRと米国預託証券ADRの発行によって資金を調達した。海外での資金調達の足場として、1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場し、続いて1977年2月からはナスダックでも株式の取引を始めた。1977年秋に円が急騰すると、海外で借り入れて為替の変動を相殺する案が重役会にかけられたが、採用には至らなかった。円高の打撃はコスト削減と新製品開発で吸収できるという見通しがあったうえ、後藤修宏社長は、ヘッジで損失を減らせる見込みがあっても、無借金で通ってきた信用に傷をつけることを嫌った。差損を抑える手立てよりも、借金のない会社という評判そのものが資産として重んじられていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [72]海外進出が相次ぎ投資資金が急増した50〜52年(1975〜1977年)には、CDR(大陸預託証券)、ADR(米国預託証券)の発行によって資金を調達している
    • [74]円高になったら海外で借金すれば為替ヘッジができると勧められ、重役会でも検討したがやめた
    • [75]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
    • [76]為替ヘッジで損害は少なくなるかもしれないが「無借金のマキタ」の信用は崩したくなかったから採らなかった、と後藤修宏社長が語った
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [73]1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場、1977年2月に米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始

収益の高さは、株式市場での評価とは別だった。1972年度の経営実績を日本経済新聞社の日経財務データで見ると、使用総資本純利益率は東証上場会社で1位、1株当たり純利益はソニーに次ぐ2位、自己資本比率と1株当たり純資産はともに3位に入っていた。ところが1973年2月期の配当は年10円の2割配当で配当性向は7.8%しかなく、内部に蓄えるだけで株主へ回す分が乏しいとして市場の評価は低く、配当性向は上場会社でも最も低い水準だろうと書かれた。大幅な増配に動きにくかったのは、2位以下を大きく引き離す株を握る筆頭株主が、再建を担った後藤十次郎会長その人だったことによる。なお1973年5月の第五次資本自由化を受け、マキタ電機はソニー、オリエント・リースと並んで外国人の取得枠を広げた。

  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [77]日本経済新聞社の「日経財務データ」によるランキングで、47年度(1972年度)の経営実績は使用総資本純利益率が東証上場会社中1位、1株当たり純利益がソニーに次いで2位、自己資本比率と1株当たり純資産がいずれも3位
    • [78]48年2月期(1973年2月期)の配当性向はわずかに7.8%(年10円=2割配当)で、配当余力は東証上場会社中1位
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [79]同社はため込むばかりで株主への利益配分が少ないと株式市場では評判がよくなく、配当性向は6%台と多分上場会社最低である
    • [80]再建者で実質的創業者の後藤十次郎会長が筆頭株主で2位以下を大きく引きはなしており、会長としては大幅増配に踏み切りにくい
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」
    • [81]48年(1973年)5月の第五次資本自由化の実施後、マキタ電機、ソニー、オリエント・リースなどが外人取得枠を拡大させた
参考文献[67]-[81]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [67]30年(1955年)の後藤十次郎社長登場とともに借金返済が始まり、その方法は「売り上げの5%を必ず預金しろ」というものだった
    • [68]ときには借金して預金することもあり社内から「実質的に無意味」という声が上がったが、後藤社長は「借金をなくすことが目標ではなく、預金するというクセをつけることが大事」としてはねつけた
    • [69]電気カンナの爆発的な売り上げ増もあって、38年(1963年)以来同社のバランスシートからは「借入金」という項目が消えたままである
    • [71]「借金してまでも設備投資はしない」という大前提があり、52年度(1977年度)は75億円と前年度の2倍強の設備投資を実施したがいずれも自己資金内である
    • [72]海外進出が相次ぎ投資資金が急増した50〜52年(1975〜1977年)には、CDR(大陸預託証券)、ADR(米国預託証券)の発行によって資金を調達している
    • [74]円高になったら海外で借金すれば為替ヘッジができると勧められ、重役会でも検討したがやめた
    • [75]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
    • [76]為替ヘッジで損害は少なくなるかもしれないが「無借金のマキタ」の信用は崩したくなかったから採らなかった、と後藤修宏社長が語った
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [70]48年2月期(1973年2月期)の預金は資本金の4倍以上の50億円、借入金ゼロ、自己資本比率78.3%、使用総資本純利益率18.5%、社内留保率91.2%
    • [77]日本経済新聞社の「日経財務データ」によるランキングで、47年度(1972年度)の経営実績は使用総資本純利益率が東証上場会社中1位、1株当たり純利益がソニーに次いで2位、自己資本比率と1株当たり純資産がいずれも3位
    • [78]48年2月期(1973年2月期)の配当性向はわずかに7.8%(年10円=2割配当)で、配当余力は東証上場会社中1位
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [73]1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場、1977年2月に米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [79]同社はため込むばかりで株主への利益配分が少ないと株式市場では評判がよくなく、配当性向は6%台と多分上場会社最低である
    • [80]再建者で実質的創業者の後藤十次郎会長が筆頭株主で2位以下を大きく引きはなしており、会長としては大幅増配に踏み切りにくい
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」
    • [81]48年(1973年)5月の第五次資本自由化の実施後、マキタ電機、ソニー、オリエント・リースなどが外人取得枠を拡大させた

1976年〜役員5人の組織から欧州・台湾の生産拠点へ

利益率の高さは、組織の薄さと表裏をなしていた。副社長・専務・常務を置かず、社長を含む役員5人のうち後藤社長以外の全員が平の取締役として1人で複数の部門を受け持ったのは、肩書は仕事に不要という考えによる。約2,500人の従業員のうち98%が製造と販売の現場に立ち、管理部門に就くのは37人だけだった。保養所も設けず、休みの使い方は各人に任せればよく、賃金を払っている以上そこまで会社が口を出す必要はないというのが後藤十次郎氏の説明だった。日本開発銀行による1976年度の企業評価システムでは、収益力と健全性がともに100点、自己資本比率は84.4%で、総合評点77点は上場827社のうち3位だった。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [82]同社には社長も含めて役員は5人で、後藤社長を除くといずれもただの取締役。副社長も専務も常務もなく、1人で数部門を担当している
    • [83]役員に肩書きを置かない理由は「仕事に肩書はいらない」という考えによる
    • [84]管理部門は約2,500人の従業員のうちわずか37人で、全体の98%は「ものを作って売る」部門に向けられている
    • [86]51年度(1976年度)の日本開発銀行の企業評価システムによる総合評点は77点で827社中第3位、収益力(使用総資本事業利益率20.8%)と健全性(自己資本比率84.4%)はいずれも100点
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [85]超優良会社ながらマキタ電機には保養施設がなく、「遊びたければ勝手に遊べばいい。会社は給与を払っているのだから遊ぶめんどうまでみきれない」というのが後藤十次郎氏の説明である

後藤十次郎氏は三重県桑名市の出身で1897年10月に生まれ、1915年3月に創業者の牧田茂三郎氏の誘いを受けて職工となった。1941年から14年間は独立してモーターの販売・修理を手がけ、1955年4月に呼び戻されて社長に就き、1973年4月には会長へ退いて後藤修宏社長に経営を委ねた。日本電機工業会理事などの役職を頼まれても、自分の仕事で手いっぱいだとして会合にはまず顔を出さず、財界での活動や経営者仲間との交際をひどく嫌った。後藤修宏社長の海外進出は3年かけて準備し見通しを得てから実行に移したもので、国内販売網の強化も、大工の仕事の実情を押さえ、どこを攻めるべきかを調べ尽くしたうえで進めた。

  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [87]後藤十次郎氏は明治30年(1897年)10月15日に三重県桑名市に生まれ、大正4年(1915年)3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎氏に誘われ「職工」として入社した
    • [88]昭和16年(1941年)から30年(1955年)まで、いったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任した
    • [89]後藤十次郎氏は昭和48年(1973年)4月に会長に就任した
    • [90]財界活動や経営者同士のつき合いを極度に嫌い、日本電機工業会理事など中央・地元の要職を押しつけられてもほとんど会合に出たことがなく、「わしは仕事を持っとるので出られん」が断るときの決まり文句である
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [91]海外進出について後藤修宏社長は「準備期間に3年かけた。そしてイケルと判断して踏み切った」と語り、国内販売網の強化も「大工さんという職業の性格をつかみ、どこに食い込んだらいいか、十分調査した上で」と述べた

1977年の円高に対して後藤修宏社長が示した答えは、コストダウンと新製品の開発だった。1980年代に入ると、同じ問いへの答えは資本と生産の置き場所そのものを動かすことに変わる。1982年2月にルクセンブルグ証券取引所へ上場して資金の調達先を広げ、1984年9月には米国の統括会社マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立した。1988年5月のマキタ・タイワン、1989年12月のマキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパは、売り先の側で作る体制の起点である。売上高は1975年2月期の264億円から1985年2月期には879億円へ、経常利益は62億円から157億円へ伸びた。輸出で稼いだ会社が、為替で目減りしない稼ぎ方へ移り始めていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [92]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [93]1982年2月 ルクセンブルグ証券取引所に上場
    • [94]1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立
    • [95]1988年5月 マキタ・タイワンを設立、1989年12月 マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [96]売上高は1975年2月期264億円・経常利益62億円、1985年2月期879億円・経常利益157億円
参考文献[82]-[96]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [82]同社には社長も含めて役員は5人で、後藤社長を除くといずれもただの取締役。副社長も専務も常務もなく、1人で数部門を担当している
    • [83]役員に肩書きを置かない理由は「仕事に肩書はいらない」という考えによる
    • [84]管理部門は約2,500人の従業員のうちわずか37人で、全体の98%は「ものを作って売る」部門に向けられている
    • [86]51年度(1976年度)の日本開発銀行の企業評価システムによる総合評点は77点で827社中第3位、収益力(使用総資本事業利益率20.8%)と健全性(自己資本比率84.4%)はいずれも100点
    • [91]海外進出について後藤修宏社長は「準備期間に3年かけた。そしてイケルと判断して踏み切った」と語り、国内販売網の強化も「大工さんという職業の性格をつかみ、どこに食い込んだらいいか、十分調査した上で」と述べた
    • [92]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [85]超優良会社ながらマキタ電機には保養施設がなく、「遊びたければ勝手に遊べばいい。会社は給与を払っているのだから遊ぶめんどうまでみきれない」というのが後藤十次郎氏の説明である
    • [87]後藤十次郎氏は明治30年(1897年)10月15日に三重県桑名市に生まれ、大正4年(1915年)3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎氏に誘われ「職工」として入社した
    • [88]昭和16年(1941年)から30年(1955年)まで、いったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任した
    • [89]後藤十次郎氏は昭和48年(1973年)4月に会長に就任した
    • [90]財界活動や経営者同士のつき合いを極度に嫌い、日本電機工業会理事など中央・地元の要職を押しつけられてもほとんど会合に出たことがなく、「わしは仕事を持っとるので出られん」が断るときの決まり文句である
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [93]1982年2月 ルクセンブルグ証券取引所に上場
    • [94]1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立
    • [95]1988年5月 マキタ・タイワンを設立、1989年12月 マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [96]売上高は1975年2月期264億円・経常利益62億円、1985年2月期879億円・経常利益157億円

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出典・参考 12件
出典・参考
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
  • 証券 1968年20巻9号(234号)
  • 日経ビジネス 1970年6月号
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」
  • マキタレポート2025

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