牧田電機製作所が創業から40年かけて身につけたのは、他社の完成品を動かす部品を作る技術だった。特殊モーターは大企業が手を出さない隙間ではあるが、多機種少量の生産は非能率で、朝鮮動乱の特需が切れた1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。1955年に社長へ戻った後藤十次郎氏が読んだのは、部品である限り完成品メーカーに値段を決められ続けるということだった。だから好況の最中に商売替えを命じている。モーターをやめて電気カンナを選んだのは、大工という買い手を名指しできたからであり、大企業が入ってこない小さな市場を自ら選び直した判断でもあった。
電気カンナの値付けには、部品メーカーの発想が残っていない。輸入品が8万5,000円だった市場で、日本の建築に使う4寸柱へ刃幅を合わせ、売値を2万9,800円と決めてから原価を作らせた。買い手の懐を先に見て、そこへ製品を合わせる順序である。1959年にモーターの生産を完全にやめたことで、会社は部品の供給者ではなく道具の作り手になった。1962年の不況期に営業所を全国へ広げた一県一店舗主義の網は、そのまま輸出と海外拠点の下地になる。1968年2月期に電動工具全体で30.2%、電気カンナで64.2%というシェアは、市場を選び直してから10年で得たものだった。
1915年3月21日、名古屋市中区横三ツ蔵町で"牧田電機製作所"が個人創業した。創始者は当時23歳の若い電気技術者・牧田茂三郎氏で、従業員15〜16人からの出発だった。扱ったのは電灯器具・モーター・変圧器の販売修理で、モーター・トランス・スイッチ類を電灯会社・電鉄会社へ納めた。創業の月には、三重県桑名市生まれで17歳の後藤十次郎氏が茂三郎氏に誘われ"職工"として入社している。のちに2代目社長として会社の性格を作り替える人物が、創業の現場に居合わせていた。当時の電機業界は未成熟で、パナソニックの創業(1918年)より3年早い参入にあたる。配電インフラが大正初期に地方都市まで広がり、若者中心の小規模事業者にも電動機器の販売修理という市場参入の余地があった時代である。
昭和初期の経済パニックを乗り越えたうえで、1938年12月、個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組した。改組時の資本金は18万円、従業員は94名で、初代社長には創業者の牧田茂三郎氏が就任した。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力した。1945年4月には、当時生産するモーターの6割までを納入していたワシノ機械(今村工場)との関係から、工場疎開を兼ねて愛知県安城市(現本社所在地)に工場を移し、戦後の本社所在地が確定した。終戦直後のモーター業界は、松下電器や日立など大手企業が財閥解体の対象に指定されて事業遂行が困難となり、マキタのような中小企業が辛うじて生き残る環境にあった。だが戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり、苦境期を迎えることになる。
終戦直後は、戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し販売する商売がかなり有利で、会社はこれで食いつないだ。だが経済の混乱が収まると各地で大企業がモーターの生産を再開する。資本金1,000万円・従業員100名足らずの小企業だったマキタは正面から対抗できず、大企業が手がけない特殊モーターの受注生産で生き延びた。多機種少量生産の工場経営はきわめて非能率で、朝鮮動乱の特需が切れたあと、1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。借入金3,000万円を抱え、従業員の給与も満足に払えない町工場だった。創業から40年、何を作る会社なのかを決め直さなければならない地点に立たされていた。
後藤十次郎氏は創業以来の社員だったが、1941年から14年間は会社を離れ、自らモートルの販売と修理を商いとしながら、マキタ電機の代理店と下請けを務めていた。その後藤氏が創業者牧田茂三郎氏の頼みを受け、2代目社長に就いたのは1955年4月である。神武景気の到来とともに業績は立ち直り、それまで配当のなかった会社は1956年度に1割配当を復活させたが、後藤社長はその好調の中にあっても、特殊モーター頼みのままでは次の不況でまた無配に陥ると見ていた。モーターは所詮部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーがモーターの自社生産に乗り出すのは明白だ──そう見切って、1957年6月に従業員へ"商売変え宣言"を出し、新商売のアイデアを出せと命じた。役員も従業員も驚いたが、いやがる本人を懇請して社長に就任すれた経緯もあり、全社で新商売探しに動いた。
1958年1月、国産第一号の携帯用電気カンナを発売した。造船所ではすでに使われていたが国産品はなく全て輸入品で、現物を取り寄せて検討した。米国製は刃幅80ミリだったが、日本の建築では4寸柱が普通であるとして刃幅を4寸に改めている。価格では8万5,000円だった輸入品の半値以下を掲げ、技術陣に3万円を割る製品を作れと命じ、売出し価格を2万9,800円と決めた。発売と同時に景気は後退し、モーター部門の月商は1957年6月の2,000万円から1958年10月には800万円へ減少したが、電気カンナは順調に売れ、会社はこれがなければ遭遇したはずの危機を回避した。同年8月には電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種で電動工具界に新風を起こした。職人の現場という限られた顧客層に絞り込むことで、大手モーター企業との正面衝突を避ける選択でもあった。
電動工具だけを手がける会社へのマキタの転換は、1959年に果たされた。その年のうちに豪州へ小型電気カンナ1300を送り出し、電動工具として最初の輸出を果たしたのも、モーター生産を打ち切り、得意先の求めで細々と残していた分まで止めたのと同じ時期である。上場は段階を踏んで進み、1962年5月に社名を株式会社マキタ電機製作所へ改めたうえで同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を出した。1968年8月には東京・大阪両証券取引所の市場第二部にも加わり、このときの公開価格は940円だった。1970年7月には東京・名古屋・大阪の各市場第一部へ指定替えとなった。1968年2月期の売上高は32億84百万円、電動工具全体のシェアは30.2%で、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%と主力製品のシェアが高く、営業所・出張所は全国73カ所、登録販売店は10,130店を数えた。
輸出に本腰を入れたのは1964年頃からで、1967年度上期の輸出比率は6%、1968年2月期には7.1%となり、輸出先は約50〜55カ国へ広がった。1967年11月から12月にかけては後藤十次郎社長自身が米国と欧州を回って市場調査を行い、翌年のフランスか英国への駐在員派遣を検討している。国内では1962年の不況期に、全国22カ所だった営業所・出張所を30カ所増やして一県一店舗主義を実現する拡張策を打っており、この網が輸出拡大の前提になった。借入金は1963年に消え、1968年時点のマキタは無借金・高成長・高収益・高配当で株式市場の人気銘柄の筆頭とされている。1959年2月期を100とすれば1968年2月期は1830という伸びであった。1968年末の自己資本比率は日立工機61%、米ブラック・アンド・デッカー58%に対しマキタ80%である。
1970年7月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部への昇格と同時に、初の海外拠点としてニューヨークにマキタU.S.A., Inc.を設立した。本社から派遣されたのは若手社員2人だった。最初の半年間は売上がゼロで、給与だけが出ていく赤字が毎月続いた。視察に訪れた後藤修宏社長に対し、現地法人の社長が経費の足しにラーメンの屋台を引かせてほしいと訴えたという逸話も残っている。これに対する社長の答えは、副業は認めない、資金の面はいくらでも用意するので、ともかく売ってこい、というものだった。同じ月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し、国内の生産能力増強と海外初拠点の設立を並行して進めた。1971年9月にはマキタ・フランスS.A.を豊田通商と各40%出資の合弁で立ち上げ、1972年12月にマキタ・エレクトリック(U.K.)、1973年5月にマキタ・オーストラリアPty Ltdが続いている。
1973年6月にはアムステルダム証券取引所へ大陸預託証券CDR形式で上場し、1977年2月には米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始した。販売子会社は1974年5月のマキタ・ベネルックス、同年6月のマキタSpA、1977年4月のマキタ・ヴェルクツォイクGmbH、1981年のブラジル・オーストリア、1983年のシンガポール、1984年のマキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)へと続き、1980年にはカナダで現地生産を開始して初の海外現地生産となった。1978年時点の海外販売拠点は現地法人・支店あわせて26カ所、1978年2月期の輸出売上は190億円で前期比53%増、売上全体に占める割合は4割を超えた。創業60年を挟む10年間で、国内メーカーから世界十数カ国に拠点を持つ国際企業への転身を果たした。
マキタ電機製作所が1970年代に得た高収益は、製品の性能よりも流通の形から来ている。電動工具は買ったあとに刃を替え、壊れれば直す道具で、売ったきりにできない。だから同社は商品を小売店へ直接届けて修理まで自社で持ち、経費のかかる代金回収だけを特約店へ預けた。使い手との距離を縮める部分は手放さず、手間のかかる部分を外へ出したことになる。1974年に世界最大のブラック・アンド・デッカーが資金力を携えて日本へ上陸しながら、職人向けを諦めて日曜大工用へ退いたのは、この網の目に入る場所がなかったためである。電動工具で5割弱というシェアは、価格でも技術でもなく、大工の仕事の段取りに食い込んだ距離が生んだ。
もう一つの特徴は、稼いだ金の置き場所だった。売上の5%を必ず預金しろという後藤十次郎氏の指示は、借金を返すための計算というより、預ける習慣を社内に残すための規律である。1963年に借入金が消えたあとも規律は残り、1977年度の75億円の設備投資は自己資金の内側に収まり、円高を海外借入の為替ヘッジで凌ぐ案は無借金という信用を理由に退けられた。その代償は株主が負う。配当性向7.8%は上場会社で最低の水準と書かれ、1株当たり純利益でソニーに迫る会社が株式市場では人気を欠いた。内部に貯めた資金は配当へ回らず、ルクセンブルグでの上場や台湾と欧州の生産拠点という形で1980年代の海外へ出ていった。
電動工具には修理などのアフターケアが欠かせないため、マキタ電機製作所は販売と修理を自ら小売店相手に担い、代金の回収だけを特約店・代理店に任せた。卸売でも直販でもない、その中間に位置する経路であり、代理店・特約店を介せば低いコストで大量に流せる反面、使い手と向き合う小売店との関係は薄れ、直販なら関係は深まるものの回収の手間と費用を抱えることになる。手数料しか入らない特約店の利幅は小さいが、扱う品はマキタ製品に限られないため、商売としては成り立っていた。全国の営業所と出張所は、製品を小売店へ卸しアフターサービスを行う販売の最前線に置かれていた。
1974年、電動工具業界のIBMという異名を持つ米ブラック・アンド・デッカーが日本へ上陸し、豊富な資金力にものを言わせて大攻勢をかけた。海外売上比率42%、海外部門利益47%というこの世界最大のメーカーの姿は、輸出を広げ始めていたマキタ自身が手本と見ていたものでもある。あのマキタも今度ばかりは、と業界では言われたが流通は切り崩せず、ブラック・アンド・デッカーは販売先を日曜大工用の個人向けへ振り向けざるを得なくなった。大手メーカーで電動工具分野へ入り込めたのは日立製作所系の日立工機だけで、1978年時点のマキタのシェアは5割弱と圧倒的だった。外資が持ち込めたのは資金と製品であって、大工の仕事の段取りに食い込んだ修理と供給の網ではなかった。
電動工具は使う人が限られて売上の伸びが早く頭打ちになるため、それを破るには新製品を出し続けるほかなく、1958年の電気カンナ一つから始まった品目は1978年に250種類を超えた。景気の悪いときほど攻めに出る姿勢は開発にも貫かれ、落ち込みの深かった1962年には16種類をまとめて世に出しており、景気が冷えるほど開発に熱が入るのが同社の持ち味とされた。価格は先に決めた。大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売値を置き、その値で十分に採算が取れる原価をはじき出してから生産に入る。初めから赤字覚悟で値段を決め、あとは量産で原価を下げるという順序は採っていない。この繰り返しが、電気カンナ・電気ノコギリ・電気ノミなど電動工具で42〜43%というシェアを積み上げた。
借金の返済が動き出したのは、1955年に後藤十次郎氏が社長に就いてからである。手段として定めたのは、売上高の5%を毎回欠かさず預け入れることだった。借りた金を預金に回す場面すらあって社内には無意味だとの不満が出たが、後藤氏は、狙いは借入の解消よりも貯める習慣を社内に根づかせる点にあるとして取り合わなかった。電気カンナの売れ行きが急拡大した追い風もあり、1963年以降の貸借対照表から借入金の欄は消えた。1973年2月期には借入金ゼロのまま預金が資本金の4倍超の50億円に積み上がり、自己資本比率は78.3%に達した。設備投資には借金してまでは行わないという大前提が置かれ、1977年度の75億円は前年度の2倍を超えたが、すべて自己資金の内側に収めている。
海外進出が相次いで投資資金が急増した1975年から1977年にかけては、大陸預託証券CDRと米国預託証券ADRの発行によって資金を調達した。海外での資金調達の足場として、1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場し、続いて1977年2月からはナスダックでも株式の取引を始めた。1977年秋に円が急騰すると、海外で借り入れて為替の変動を相殺する案が重役会にかけられたが、採用には至らなかった。円高の打撃はコスト削減と新製品開発で吸収できるという見通しがあったうえ、後藤修宏社長は、ヘッジで損失を減らせる見込みがあっても、無借金で通ってきた信用に傷をつけることを嫌った。差損を抑える手立てよりも、借金のない会社という評判そのものが資産として重んじられていた。
収益の高さは、株式市場での評価とは別だった。1972年度の経営実績を日本経済新聞社の日経財務データで見ると、使用総資本純利益率は東証上場会社で1位、1株当たり純利益はソニーに次ぐ2位、自己資本比率と1株当たり純資産はともに3位に入っていた。ところが1973年2月期の配当は年10円の2割配当で配当性向は7.8%しかなく、内部に蓄えるだけで株主へ回す分が乏しいとして市場の評価は低く、配当性向は上場会社でも最も低い水準だろうと書かれた。大幅な増配に動きにくかったのは、2位以下を大きく引き離す株を握る筆頭株主が、再建を担った後藤十次郎会長その人だったことによる。なお1973年5月の第五次資本自由化を受け、マキタ電機はソニー、オリエント・リースと並んで外国人の取得枠を広げた。
利益率の高さは、組織の薄さと表裏をなしていた。副社長・専務・常務を置かず、社長を含む役員5人のうち後藤社長以外の全員が平の取締役として1人で複数の部門を受け持ったのは、肩書は仕事に不要という考えによる。約2,500人の従業員のうち98%が製造と販売の現場に立ち、管理部門に就くのは37人だけだった。保養所も設けず、休みの使い方は各人に任せればよく、賃金を払っている以上そこまで会社が口を出す必要はないというのが後藤十次郎氏の説明だった。日本開発銀行による1976年度の企業評価システムでは、収益力と健全性がともに100点、自己資本比率は84.4%で、総合評点77点は上場827社のうち3位だった。
後藤十次郎氏は三重県桑名市の出身で1897年10月に生まれ、1915年3月に創業者の牧田茂三郎氏の誘いを受けて職工となった。1941年から14年間は独立してモーターの販売・修理を手がけ、1955年4月に呼び戻されて社長に就き、1973年4月には会長へ退いて後藤修宏社長に経営を委ねた。日本電機工業会理事などの役職を頼まれても、自分の仕事で手いっぱいだとして会合にはまず顔を出さず、財界での活動や経営者仲間との交際をひどく嫌った。後藤修宏社長の海外進出は3年かけて準備し見通しを得てから実行に移したもので、国内販売網の強化も、大工の仕事の実情を押さえ、どこを攻めるべきかを調べ尽くしたうえで進めた。
1977年の円高に対して後藤修宏社長が示した答えは、コストダウンと新製品の開発だった。1980年代に入ると、同じ問いへの答えは資本と生産の置き場所そのものを動かすことに変わる。1982年2月にルクセンブルグ証券取引所へ上場して資金の調達先を広げ、1984年9月には米国の統括会社マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立した。1988年5月のマキタ・タイワン、1989年12月のマキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパは、売り先の側で作る体制の起点である。売上高は1975年2月期の264億円から1985年2月期には879億円へ、経常利益は62億円から157億円へ伸びた。輸出で稼いだ会社が、為替で目減りしない稼ぎ方へ移り始めていた。
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事実根拠:出所(マキタ)