1994年にNetscape社がWebブラウザを開発し、インターネットが全世界に普及。ブラウザ戦争ではMicrosoftのIEが勝利を収め、2000年前後にインターネットに対する熱狂「ITバブル」が発生した。バブル崩壊後に熱狂は過ぎ去ったが、その間にもGoogleのロボット型検索による事業拡大、AppleによるiPhone(iOS)の発表など、ソフトウェア開発を中心に進歩を遂げた。
2010年代以降はスマホとクラウドの普及により第2の成長期に突入。ユーザーの面ではスマートフォンの普及によってUXを最適化したプロダクトが急成長を遂げ、インフラ面ではAWSなどのクラウドによってサービス運用のコストが低下。通信面でもモバイルインターネットの低価格化が進行し、大容量の動画を長時間視聴できるフェーズに突入した。
この結果、様々なサービスをネットを通じたソフトウェアで提供できるようになり、多くの起業家がチャンスを求めてネット業界に足を踏み入れている。
ネット業界の長期的な方向性は、ネットワークとソフトウェアの融合によって、あらゆるサービスがソフトウェアとして実装され、民主化されること(つまり、低価格で誰もがソフトを利用可能な状態)にある。ソフトウェアの浸透については、2011年にMarc Andressen(a16zの創業者)が「Software Is Eating the World」という論考を公表し、広く支持されている。
近年、日本国内でもソフトウェアの創造および内製が、企業の競争力を生み出すドライバーとして認識されつつある。いち早く(すなわち2010年前後に)この事実に気づいた企業はソフトウェアエンジニアの大量採用を実施し、ネットプロダクトに長けたデザイナーやPMを配置することでサービスをグロース。この施策によって一定の売上を確保できた企業は「メガベンチャー」という俗語で認知されている。
繊維産業は日本が経済大国に成長する過程で、雇用創出と外貨獲得の2点で貢献した産業であった。
明治時代には生糸(絹)、大正時代には天然繊維(綿・毛)や織物、戦前には化学繊維(レーヨン)、戦後には合成繊維(ナイロン・ポリエステル)といった繊維製品を製造し、全世界に輸出することで日本経済が発展するための外貨を獲得してきた。高度経済成長期までの日本の人件費は相対的に安く(1ドル360円の固相場)競争力を伴っており、汎用品でも利益を確保できた。また、労働集約産業であったことから、繊維工場がある地域の雇用増大(主に若い女性が従事)にも貢献し、所得増大の一翼を担っていた。
1950年代前半には、売上高日本No.1の会社として、東洋紡やカネボウが名前を連ねる時期もあった。すなわち、日立製作所やトヨタ自動車といった、今では日本を代表する企業でさえ、かつては繊維のトップ企業に及ばない時期があったことを意味する。繊維メーカーは繊維製品の輸出によって日本経済の戦後復興に貢献しており、この頃が繊維業の黄金時代であったといえる。
繊維業界が暗転する転機は1971年のニクソンショックであった。円高ドル安が進行したことで、人件費が高騰して国内生産の競争力を喪失した。繊維生産はアジア(韓国・中国など)に主戦場を移し、日本の繊維各社は厳しい状況に陥った。この過程で、東レのように炭素繊維の開発に成功した企業や、帝人のように医薬品への多角化を志向できた企業、日本毛織や片倉工業のように工場跡地でショッピングセンターを運営して収益を確保した企業など、各企業とも脱繊維によって生き残りを図った。
ただし、繊維からの業態転換を成し遂げた企業は全体の一部であり、ほとんどの繊維企業は集約再編ないし、業績低迷による倒産の憂き目にあっている。消滅した企業のうち、最も世の中にインパクトを与えたのは、繊維業の不調を隠すために粉飾決算を続けてきたカネボウ(2007年解散)であった。日本人なら誰もが知る大企業の消滅として注目を集めたが、今では「カネボウ」という名前も忘却されつつある。
中国や韓国など、人件費の安い新興国が繊維生産地として台頭することをいち早く見抜き、業態展開を成し遂げた企業が存続ないし発展を続けている。各社とも業態転換の先は様々であり一貫性はない。