トヨタ自動車の歴史

豊田自動織機の社内ベンチャーとして企業。コストダウンを武器に乗用車の量産でグローバル市場を席巻

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Author: @yusugiura
1933〜1949 - 創業経緯
豊田自動織機の社内ベンチャーとしてトヨタ自動車を創業
1933 09月
創業
豊田自動織機が自動車部を設置
【豊田喜一郎氏が自動車の将来性に着目】 愛知県に拠点を置いた豊田自動織機では、創業家の豊田喜一郎氏が自動車の将来性に着目した。そこで、1929年に豊田自動織機が自動車自...
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1934 01月
意思決定
臨時株主総会で自動車製造への進出を承認
1935 05月
技術開発
A1型試作乗用車第1号車完成(市販せず)
1935 11月
新製品
G1型トラックを発表
1936 10月
販売政策
トヨタ金融を設立(現・豊田通商)
自動車の月賦販売のために新会社設立
1937 08月
会社設立
トヨタ自動車工業を設立
1936年に日本政府は軍需拡張のために自動車の国産化政策を決定し、豊田自動織機の自動車部を政府の助成対象に選定。これを受けて1937年にトヨタ自動車工業が設立された。
1938 11月
設備投資
挙母工場(現・本社工場)を竣工(愛知県豊田市)
1939 12月
業績好調
年産1万台・国内販売1万台
1943 03月
合弁設立
川崎航空機と合弁会社「東海飛行機(現アイシン精機)」を設立
1943 11月
企業買収
中央紡績を買収し刈谷工場の敷地を拡大
1946 05月
販売政策
自動車配給の代表者を本社工場に招待
1949
株式を上場
第二次世界大戦を通じてトヨタは国産の軍用トラックを製造することで業容を拡大し、量産のための設備を投入することで巨大工場へと発展した。この結果、終戦直後の1949年に株式市場が再開すると同時に株式上場を果たす。
1949 12月
事業縮小
電装部品事業を日本電装(現デンソー)として分離
1949 03月
経営危機
1600名の希望退職者を募集。豊田喜一郎社長が退任
【大規模リストラの実施】 終戦後の不況を受けて、1949年までにトヨタ自動車は工場の稼働率低下という問題に直面した。余剰となった人員を削減するために、1600名の希望退...
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1950 04月
組織再編
販売部門をトヨタ自動車販売として分離
神谷正太郎氏がトヨタ自動車販売の社長に就任
1950〜1965 - 経営再建
業績悪化を猛省。コストダウンを徹底しつつトヨタ生産方式を磨く
1950 07月
社長就任
石田退三氏が代表取締役社長に就任
1950 07月
販売
朝鮮特需として米軍向け軍用トラック1000台を受注
1951 05月
生産技術
創意工夫委員会を発足
1954 11月
生産技術
独自の生産技術を磨く(トヨタ生産方式)
【トヨタ生産方式の実践】 トヨタ生産方式と呼ばれる生産技術は、は1950年代から1960年代にかけて、自動車の生産工場において生産技術を磨く中てボトムアップで確立されて...
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1955 01月
新製品
高級乗用車「トヨペット クラウン」を発売
1957 07月
新製品
乗用車「トヨペット コロナ(ST10型)」を発売
1958 07月
海外進出
米国トヨタの営業開始
1959 01月
行政決定
本社所在地の挙母町が名称を「豊田市」に変更
愛知県豊田市は名実ともにトヨタ自動車の企業城下町として発展
1959 10月
設備投資
乗用車専門の元町工場を新設(愛知県豊田市)
1950年代を通じて日本人にとって乗用車は高嶺の花であり、富裕層や、タクシー会社、医者が乗用車の主な顧客であった。そこで、トヨタは日本人に自動車を普及させるために「コス...
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1961 06月
新製品
乗用車「パプリカ UP10型」を発売
1961 08月
社長就任
中川不器男氏が代表取締役社長に就任
1963 12月
生産技術
かんばん方式を導入
1965 11月
設備投資
エンジン専門の上郷工場を竣工(愛知県豊田市)
1965〜1985 - 急成長
大衆乗用車カローラで国内と北米市場を席巻。トップ自動車メーカーへ
1966 09月
設備投資
カローラ専門の高岡工場を竣工(愛知県豊田市)
1960年代を通じて乗用車市場では日産とトヨタがシェア争いで死闘を繰り広げたが、両社の競争に終止符を打つべく、1966年にトヨタは大衆乗用車「カローラ」を発売するととも...
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1966 11月
新製品
大衆乗用車「カローラ」を発売
1967 03月
海外販売
ニューヨークに駐在事務所を設置
1967 07月
海外販売
輸出拠点として名古屋トヨタ埠頭を新設
1967 10月
社長就任
豊田英二氏が代表取締役社長に就任
1968 07月
設備投資
三好工場を竣工(愛知県三好)
1968 11月
設備投資
輸出専用運搬船「第一とよた丸」就航(アメリカ輸出専用)
1970 10月
設備投資
北米サンフランシスコにトヨタ専用埠頭を新設
1970 12月
設備投資
堤工場を竣工
1975 08月
新事業
住宅事業部を発足(トヨタホーム)
1975 12月
業績好調
米国で輸入自動車の販売シェアトップを確保
1976 03月
コストダウン
1.5ヵ年で270億円のコストダウン
1975年10月のオイルショックを受けてコストダウンを撤退。現場主導のカイゼンを継続。1975年の創意工夫の提案制度の申請件数は38万件(賞金総額3.2億円)
1978 08月
設備投資
衣浦工場を竣工(愛知県碧南市)
1979 01月
設備投資
田原工場を竣工(愛知県田原市)
1982 07月
組織再編
トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併。トヨタ自動車を発足
1983 12月
業績好調
国内シェア40%を確保。経常利益日本一を達成
経常利益は約4000億円。当時の日本企業の経常利益としては屈指の水準で、日本一と言われた(1984/2/20日経ビジネス)
1983〜1998 - 現地生産
北米で乗用車の現地生産を開始。貿易摩擦を回避するために需要地生産を徹底
1983 02月
業務提携
GMと合弁生産に関する覚書を調印
1984 02月
海外生産
GMと合弁会社NUMMIを発足
1986 01月
海外生産
ケンタッキー州にToyota Motor Manufacturing, U.S.A., Inc.(TMM)を設立
北米への単独現地生産を決定し、工場誘致に熱心だったケンタッキー州に進出
1986 01月
海外生産
オンタリオ州にToyota Motor Manufacturing Canada, Inc.(TMMC)設立
アメリカへの現地生産に合わせ、カナダでも現地生産を決定
1986 10月
経営方針
円高緊急対策委員会を発足
1988 03月
設備投資
TMM第1工場を竣工(米ケンタッキー州)
年産20万台。北米におけるトヨタの基幹工場
1988 11月
設備投資
TMMCの工場を竣工(カナダ・オンタリオ州)
生産車種はカローラ
1989
新製品
高級車「レクサス」を北米で発売
北米におけるトヨタ=大衆車というイメージを払拭するために、北米市場で高級乗用車「レクサス」の展開を決定
1994 04月
設備投資
TMM第2工場を竣工(米ケンタッキー州)
1997 08月
設備投資
TMMCの北工場を竣工(カナダ・オンタリオ州)
1997 10月
新製品
ハイブリットカー「プリウス」を発売
1998〜2016 - グローバル化
国内はグループ再編。海外はグローバル展開
1998 09月
資本提携
ダイハツ工業の株式取得
2001 01月
海外進出
フランスで現地生産を開始
フランス政府の要請により工場新設を決定。生産車種はヤリス
2001 04月
事業譲渡
豊田自動織機に産業車両・物流システム事業を譲渡
2001 08月
資本提携
日野自動車の株式取得
2002 08月
海外進出
中国第一汽車集団有限公司と協力関係構築で合意
2003 02月
新製品
高級車「レクサス」の国内展開を発表
2004 09月
海外進出
広州汽車集団股份有限公司と合弁会社「広州トヨタ自動車」を設立
2005
事業再編
欧州全域を統括するTMEを発足
欧州の統括会社3社(TMME、TMEM、TME)を統合してTMEを発足。欧州における製造・販売の効率化を目論む
2006 03月
資本提携
富士重工業(SUBARU)と業務提携
2007
業績好調
欧州で124万台の販売を達成
2004年に策定した「2010年に欧州で販売台数120万台」の目標を、3年前倒しで達成
2007 12月
海外進出
ロシアでの現地生産を開始
サンクトペテルブルグ市に工場を新設。年産5万台体制。カムリの現地生産
2009 03月
業績低迷
最終赤字に転落
2008年のリーマンショックの影響を受けて、2009年3月期にトヨタは4369億円の最終赤字を計上し、終戦直後の経営危機に次ぐ約60年ぶりの最終赤字に転落した。優良企業と言われたトヨタが赤字に転落したことで、リーマンショックの影響の大きさが世間に改めて認知されるきっかけとなった。
2009 05月
新製品
3代目プリウスを発売
発売から1ヶ月で18万台の受注でヒット。3代目プリウスは、トヨタのHVにおける業容拡大の牽引役になった
2010 10月
事業再編
住宅事業をトヨタホームに継承
2014 12月
新製品
燃料電池車「トヨタ・ミライ」を発売
2016 03月
業績好調
売上高28兆円・当期純利益2.3兆円
2016年3月期にトヨタは売上高28兆円に対して、2.3兆円の当期純利益を計上し、リーマンショックの痛手から立ち直った。主に北米とアジア地域における販売が好調で、人口減少により成熟化しつつある国内ではなく、グローバル展開によって業容を立て直す。
2016〜2022 - 技術開発
ハイブリット・EV・自動運転など技術革新に対応
2016 02月
技術開発
専門部署「コネクティッドカンパニー」を発足
ソフトウェアを中心とした開発に従事する専門部署を発足。車の高度化に対応
2016 03月
組織再編
カンパニー制に移行
機能ごとの組織を壊し、製品を軸としたカンパニー制に組織体制を移行
2017 02月
業務提携
スズキと業務提携の覚書を締結
2017 08月
資本提携
マツダと業務資本提携を締結
2019 09月
資本提携
SUBARUと業務資本提携
2020 04月
業務提携
パナソニックと車載用角型電池事業の事業統合契約を締結
2021 03月
資本提携
いすゞ自動車と資本提携
2022 10月
事業撤退
ロシアでの生産販売からの撤退を表明
1933
Report

豊田自動織機が自動車部を設置

創業

豊田喜一郎氏が自動車の将来性に着目

愛知県に拠点を置いた豊田自動織機では、創業家の豊田喜一郎氏が自動車の将来性に着目した。そこで、1929年に豊田自動織機が自動車自動織機の特許をイギリス企業に売却した利益を、自動車の開発研究に充てることにした。1930年から約3年間にわたって自動車の市場性に関する研究を行い、1933年に豊田自動織機の社内新規事業として「自動車部」を立ち上げた。このタイミングがトヨタ自動車の創業にあたる。

1933年10月には乗用車シボレーを輸入し、分解した上で自動車の開発研究を開始した。自動車にはエンジンを中心として高度な技術を用いた部品が必要であったが、戦前の日本の工業力では未知の領域であった。このため、自動車製造に必要な素材から研究する必要があり、乗用車の国産化には時間を要した。

臨時株主総会で自動車への進出を事後承認

豊田自動織機は、既に本業の「繊維工場向けの織機製造」という本業が軌道に乗っていたため、自動車事業における赤字をカバーすることができた。ただし、織機製造の利益が自動車事業に食われてしまうため、豊田自動織機の社内では自動車事業に対する風当たりは良いものではなかったという。

実際に、豊田自動織機において自動車事業への参入が認められたのは、翌1934年1月の臨時株主総会においてであり、すなわち豊田喜一郎氏は、先に自動車事業部を発足して既成事実を作ってしまい、後から取締役会で承認を得る形をとっていた。

この点は、自動車事業に関して、豊田自動織機の創業家出身の豊田喜一郎氏が率先したこともあり、創業家の新事業として黙認されていた。

参入障壁が高かった自動車製造

自動車の量産に踏み切った企業は、戦前において、日産自動車やいすず自動車など、数えるほどしか存在していない。自動車の製造には高い工業力が必要であり、部品に高い品質水準が求められることから、巨額な資本が必要であった。資本力のない起業家が手を出せる産業ではなかった。

その意味で、自動車への新規参入はハードルが高いと言え、トヨタ自動車の創業期において「豊田自動織機」というバックアップがあったことは、研究開発費の捻出という面で大きな意味があった。

1949
Report

1600名の希望退職者を募集。豊田喜一郎社長が退任

経営危機

大規模リストラの実施

終戦後の不況を受けて、1949年までにトヨタ自動車は工場の稼働率低下という問題に直面した。余剰となった人員を削減するために、1600名の希望退職者の募集を発表したところ、社員からの反発として労働争議が発生した。

トヨタ自動車は金融支援が受けられなければ倒産する恐れがあっため、人員削減の実施を決断した。この時、住友銀行はトヨタ自動車への融資を拒んだ一方、日本銀行は融資を融資を実施した。これらの経緯から、トヨタ自動車にとって、住友銀行は信用できない銀行という位置づけとなり、全社を挙げて無借金経営を目指す原動力となった。住友銀行としては、トヨタ自動車という将来の大企業との取引チャンスを失った。

創業者の豊田喜一郎氏が社長退任

豊田喜一郎氏は人員削減の責任を取る形で、自らも社長を退任した。トヨタ自動車の後任社長には、豊田自動織機出身の石田退三氏が就任し、経営再建に奔走した。

石田氏による主な再建策は、製造と販売の分離(トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の発足)、製造におけるコストダウンの徹底、米軍からのトラック受注に全力をあげることであった。

朝鮮特需による急速な経営再建

トヨタ自動車の経営再建に対して追い風となったのが、朝鮮特需である。1950年に勃発した朝鮮戦争において、米軍は日本を物資の調達拠点として位置付けた。これに応じて、米軍はトヨタ自動車に軍用トラックの大量発注を開始した。

1950年7月には米軍向けトラック1,000台を受注し、翌月の8月には同トラック2329台を受注した。これらのトラックの大量受注によって工場の稼働率が工場し、トヨタ自動車は急速に業績を回復させていった。

1954
Report

独自の生産技術を磨く(トヨタ生産方式)

生産技術

トヨタ生産方式の実践

トヨタ生産方式と呼ばれる生産技術は、は1950年代から1960年代にかけて、自動車の生産工場において生産技術を磨く中てボトムアップで確立されていった。生産技術の重要性に気づいたのは、創業者の豊田喜一郎氏であったが、現場の社員がトヨタ生産方式として結実させていった。

トヨタ自動車としては、1950年に1600名のリストラという苦い経験を経たばかりであり、できるだけ人を増やさずに工場の稼働を円滑に行うことを意識するようになった。この意味で、大規模なリストラという失敗経験が、トヨタ生産方式の確立に向けたモチベーションになっていると言える。

大野耐一氏によるトヨタ生産方式の確立

トヨタ自動車において、大野耐一氏が「ジャストインタイム」「かんばん方式」といった生産方式の定着に大きな役割を果たした。大野耐一氏は豊田自動織機からトヨタ自動車に配属転換され、自動車工場に残っていた「ブラックボックスな職人芸」を追放。誰でも均質に自動車が生産できるように、生産技術を均質化して行くことに時間をさいた。

大野耐一氏は、トヨタ自動車における生産技術の実質的なトップとして振る舞い、トヨタにおける社風形成に大きな影響をもたらした。現場の社員からは「オヤジ」として恐れられた存在であったという。

1959
Report

乗用車専門の元町工場を新設(愛知県豊田市)

設備投資

1950年代を通じて日本人にとって乗用車は高嶺の花であり、富裕層や、タクシー会社、医者が乗用車の主な顧客であった。そこで、トヨタは日本人に自動車を普及させるために「コストダウン」を徹底する方針を打ち出し、その第一弾として乗用車専用の元町工場を新設した。

従来の工場はトラックとの混成ラインによる生産が主体であったが、元町工場では乗用車に生産ラインを特化することでコストダウンを目論む。

1966
Report

カローラ専門の高岡工場を竣工(愛知県豊田市)

設備投資

1960年代を通じて乗用車市場では日産とトヨタがシェア争いで死闘を繰り広げたが、両社の競争に終止符を打つべく、1966年にトヨタは大衆乗用車「カローラ」を発売するとともに、カローラの専用工場として高岡工場を稼働した。1工場1車種というリスクを伴う奇策によって大幅なコストダウンを実現し、乗用車のシェア争いでトヨタが優勢になる決定打となった。加えて、カローラは日本人に自動車を普及させたモータリゼーションの立役者として、社会変化の一翼を担う存在となる。

参考文献・出所

0 References.