1938年に松本望氏が東京・音羽で創業した福音商会電機製作所が起源。
1980年発表の家庭用レーザーディスクプレーヤーで世界シェア約5割を占め、1990年に世界初のGPSカーナビを開発した。AV機器を手放して車載機器に集中し、2019年に上場を廃止した。
創業者の松本望氏は1938年1月、東京・文京区で福音商会電機製作所を創業し、スピーカーづくりに着手した。松本望氏は1931年、米フィルコ社製の電蓄でダイナミックスピーカーの音を聴き、主流のマグネチック型との差に衝撃を受けた。後年の回想で、その日の決意を『ようし、いつかは、きっと、こんなすばらしいダイナミック・スピーカーを作ってやろう。スピーカーは、これに限る』と記した。大阪で看板を掲げた後、1937年に金属をコーン紙の中央に据えた試作品A-8を仕上げてから上京した。創業時の東京でダイナミックスピーカーを製造販売したのは福音商会だけだった。ビクターや東芝の高級ラジオ・電蓄に載る品も、ほぼ一手に納めた。部品のなかでも高価な品目に絞ったことが、個人工場でも大手の納入先を得る差別化要因になったとみられる。
松本望氏は1941年8月、資本金7万2,500円で有限会社福音電機製作所を設立し、個人の工場を法人に改めた。1938年の創業当時、ラジオはようやく普及の初期に入った段階だった。松本望氏の回想によると、当時のラジオ業界には本業の不振から転じた事業者が多く、銀行には『ラジオ屋には金を貸すな』という指示まで出ていた。有限会社への改組は、銀行融資を当てにできないなかで出資者の範囲を広げずに法人格を得る手段になった。この有限会社は1947年5月に株式会社へ吸収合併されるまで、事業の母体として存続した。金融機関の与信が見込めない業界で、資本の規模よりも法人格を先に得ることを優先したと推察される。
戦前の福音電機製作所は、セットメーカー向けのスピーカー納入を本業とした。第二次世界大戦に入ると資材の不足が深まり、福音電機製作所は乏しい材料でスピーカーの生産を続けた。戦局が悪化すると、スピーカー専業の存続が危うくなり、航空無線用のトランスの生産へ転じた。同じころ、『スピーカーのようなぜいたくなものは、やがて売れなくなるに違いないから仕事を中止してほしい』という仕事の中止の要請も受けた。それでも福音電機製作所は、トランスの受注と並行してダイナミックスピーカーの生産と研究を絶やさなかった。軍需のトランスで工場と技術者を保ちながら研究を残したことが、戦後の再開を早めたと考えられる。
福音電機株式会社は1947年5月8日、資本金19万5,000円で設立され、有限会社福音電機製作所を吸収した。戦後はスピーカーの需要が増え、生産が注文に追いつかなかった。一方でセットメーカーの多くは資金難にあり、納めた代金を6カ月過ぎても回収できない例があった。福音電機は売り先をセットメーカーから一般の市販へ移し、ハイファイスピーカーの販売を始めた。製品の「パイオニア」の名は、松本望氏が1937年にA-8と普及品C-8を売るため考案したブランドだった。音叉と電気抵抗の記号Ωを組み合わせたマークも、同じ時に生まれた。株式会社への改組は、市販への転換で増えた取引先と資金の需要に応じる会社組織を整えたものと思われる。
福音電機は1953年に国産初のパーマネント型スピーカーPE-8を発売し、同じ年に初めて「ハイファイ」を掲げた宣伝を始めた。当時の国産品は高音が伸びない欠点を抱え、松本望氏は戦前のA-8でコーン紙の中央にジュラルミンを用いてこの課題に取り組んでいた。PE-8はエッジまで1枚の紙で成形したシングルコーンに、アルミニウムのボイスコイルを組み合わせた。スピーカーの新規参入が相次ぐなか、福音電機はハイファイスピーカーで特色を出すと決め、周波数特性の自動記録装置や無響室を整えた。PE-8は放送局のモニター用にも採用され、売上高は1950年10月期の0.264億円から1953年10月期に2.470億円へ拡大した。測定設備への投資が、耳に依存した音づくりを再現できる品質へ置き換え、PE-8の評価を支えたのだろう。
1953年にテレビ放送が始まり、民放ラジオの開局と小型ラジオのトランジスタ化による輸出が重なって、部品のスピーカーの需要が増えた。福音電機はセットメーカー向けの量産に主力を切り替え、市販品なら月20,000〜25,000個で足りた生産を数十万個の単位へ引き上げた。生産が月100万個の水準に乗るまで4〜5年かかり、その間に音羽へ5階建ての工場を建てた。1956年に入社し後に技術担当副社長室参事となる山室勲氏も、当時の事業はラジオやテレビの部品向けスピーカーが大半だったと証言した。売上高は1955年10月期の3.400億円から1957年9月期の6.948億円へ拡大した。量の拡大は利益を伴ったものの、新規参入の増加で値下げ競争に巻き込まれる素地も同時に生んだとみられる。
福音電機は1950年代前半に文京区で研究所を設け、工場を第5工場まで増やした。1958年には東京・大森に工場を建設し、アンプの生産を本格化させた。NHKは1952年から第一放送と第二放送の2波で立体放送を始め、民放もこれに対抗して実験放送を重ねていた。1958年には福音電機の提供で、文化放送を左、ニッポン放送を右に割り当てる番組「パイオニア・イブニング・ステレオ」が始まった。売上高は1958年9月期の8.55億円から1959年9月期の12.5億円へ拡大した。部品の量産で得た資金を、立体放送で見え始めた音響機器の需要へ振り向けたと推測される。
福音電機は1960年、スピーカーを自動化ラインで量産する所沢工場を埼玉県所沢市に建設した。同じ1960年の春には、日本生産性本部で企業の経営診断に携わった経営コンサルタントの吉田貴一氏を、社外から招いた最初の人材として迎えた。当時の福音電機は同族会社から脱するため、株式の上場を準備していた。1960年9月期の売上高は19.4億円、当期純利益は2.35億円だった。翌1961年6月に福音電機はパイオニア株式会社へ商号を改め、同年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。工場の自動化と社外人材の登用は、上場企業として量産と経営組織の両面を整える準備だったのではないか。
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事実根拠:出所(パイオニア)