金属加工の職人であった早川徳次氏は独立を決め、1912年(大正元年)9月15日に個人創業(屋号なし)した。創業時は自らが考案したベルト向け部品「バックル」や水道自在器など、独自開発した金属製品を加工販売した。
1914年には自宅および事業所を東京市本所(墨田区立川:両国駅付近)に移転。作業を効率化するために1馬力のモーターを導入することで、生産効率を改善した。
1915年には文具メーカーから「繰出鉛筆(シャープペンシル)」の開発製造を依頼され、研究開発を開始。早川徳次氏は「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」を独自開発し、文具メーカーとして生産体制を拡充。第一次世界大戦時には海外輸出にも注力し、シャーペンの製造が主力事業として育った。
この結果、1923年の時点で従業員数200名を抱える規模に発展した。
1923年9月1日に関東大震災が発生。早川徳次氏は無事であったが、徳次氏の妻子は火災に巻き込まれて亡くなった。また、東京本所に集中していた工場について、文工場を含めて全壊して生産が困難な状況に陥った。
震災から1ヶ月が経過した1923年10月には、販売先であった「日本文具製造」から借入金の返済要請を受けた。早川徳次氏は震災により返済できなかったため、日本文具製造への事業譲渡を決断した。この時、シャープペンシルの特許を無償譲渡したため、早川徳次氏はロイヤリティ収入も失った。
1923年12月に早川徳次氏は大阪に転居し、日本文具製造においてシャーペン製造の技術指導に従事。1924年8月の契約満了をもって日本文具製造を退職した。
早川徳次氏は大阪で再起を決意。1924年9月に早川金属工業所(現シャープ)を阿倍野区に設立した。会社設立時点では文房具向けの金属部品の販売に従事した。
転機は早川徳次氏が日本国内におけるラジオ放送の開始を知ったことであった。1925年から国内でラジオ放送が始まることを受けて、米国から輸入された鉱石ラジオ2台を購入。分解して部品を調査し、1925年4月にラジオの開発に成功した。日本国内では初となる鉱石ラジオ受信機の開発であった。
早川徳次氏はラジオを「シャープ」のブランドで販売。輸入ラジオと比較して半額(3.5円)で売り出したところ、価格の安さから順調に販売を拡大した。
シャープは鉱石ラジオの販売によって業容を拡大したが、鉱石ラジオは受信エリアが限られる問題があった。このため、放送局から離れた地域ではラジオが受信できない問題が存在した。
そこで、シャープは海外で普及しつつあった真空管式のラジオに着眼して開発に着手。1929年に真空管ラジオを発売した。販売価格は輸入製品の1/10であり、鉱石ラジオに続いて、真空管ラジオでも販売量を拡大した。この結果、戦前には「ラジオはシャープ」という認知を獲得した。
ラジオの量産のために、1934年には平野工場(第1棟)を新設。ベルトコンベアを活用した量産によりラジオの価格を引き下げるなど、ラジオメーカーとしてコストダウンを志向した。
1953年2月から日本国内でテレビ放映が開始されることに備え、1952年にシャープは米RCAと技術援助規約を締結。テレビ放送の開始1ヶ月前にシャープは白黒テレビ(14型)を17.5万円で発売した。当時の公務員の高卒初任給が5400円であり、当時の白黒テレビは高額商品であった。
白黒テレビの量産によるコストダウンを志向するため、1954年にテレビ工場(田辺工場)を新設。ラジオと同様にベルトコンベアを活用した量産ラインを立ち上げることで、月産2万台の生産体制を確立した。
シャープは国内電機メーカーにおいて、最も早くテレビに参入したことで、先発企業としてシェアを確保。1953年から1956年までは4年鑑連続で国内シェア1位を確保した。ただし、1956年の時点ではシェアは16.9%であり、松下電器や日立といった有力企業がテレビ生産に参入したため、シャープは白黒テレビで厳しい競争にさらされた。
1950年代前半を通じて、シャープは白黒テレビの量産投資を行なっており、その他の白物家電(冷蔵庫・洗濯機)への投資が不十分な状況にあった。加えて、1956年以降のテレビ市場では松下電器による量産により、シャープのシェアトップが陥落するに至った。
そこで、1957年にシャープは「総合家電メーカーとして発展」する経営方針を策定。シャープの系列店に対してテレビだけではなく、3種の神器と言われた家電製品全般(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)を販売することで、総合家電メーカーへの転換を意図した。すでにシャープはテレビを通じて小売店の系列化を進めていたが、テレビ単体では販売店の経営が成り立たないため、販売店維持のためにも総合化は避けられない状況にあったという。
生産面では、1957年に平野第2工場を新設して洗濯機の量産を開始。1959年には八尾工場(白物家電の生産)、1959年には奈良工場(部品生産)を新設し、家電製品の量産体制を構築した。
戦前のシャープは真空管ラジオで業容を拡大したが、戦後のトランジスタラジオについてはソニーに対して後発参入となった。1957年にトランジスタラジオ「TR-115」の生産を開始し、米国への輸出を本格化した。
世界初のオールトランジスタによる電卓「CS-10A」を開発。重量は25kgであり販売価格は53万円。以後、シャープは半導体の開発を通じて電卓の小型化を志向した。
輸出用のトランジスタラジオ量産のために、広島工場を新設。シャープとしては関西地区以外で初となる工場
1970年に商号を早川電機工業から「シャープ」に変更。半導体などの新分野を本格展開することや、海外におけるブランド認知を高めることを目的とし、商号変更に踏み切った。
商号変更の直後、1970年9月に創業者である早川徳次氏は社長を退任し、会長に就任。後任社長として佐伯旭氏が就任した。
1970年に開催された大阪万博への出店を見送る代わりに、研究開発への投資を決定。奈良県天理市内に「シャープ総合開発センター」を新設した。総合開発センターでは研究開発のほかに、半導体(LSI)の量産施設を併せ持ち、半導体工場でもあった。
総合開発センターへの投資額は約75億円であり、当時のシャープの資本金105億円と比較して、相応のリスクを伴った設備投資であった。
半導体の内製化を志向した理由は、シャープの電卓の開発(1969年発売・QT-8D)を通じて、米国の半導体メーカーからのLSIの調達に苦労したためであった。このため、1969年3月にシャープは米国の半導体メーカーであるロックウェル社と技術提携を締結し、半導体の生産を計画。1970年に総合開発センター内に「第1工場」を竣工して半導体の生産を開始した。
シャープとしては半導体の製造技術に乏しかったことから、提携先のロックウェルから回路が焼き付けられたウエハーを輸入し、まずは後工程のみで生産を開始。生産を安定させ、1972年から前工程のラインを稼働させて半導体の一貫生産を開始した。
半導体の生産が軌道に乗ったことを受け、1976年12月には第2工場を竣工。月産100万個の生産体制を確保した。
半導体の量産により、1970年代前半にシャープは電卓における価格破壊に成功。国内市場ではカシオとシャープが「電卓戦争」を繰り広げた。
電卓で培った液晶技術を応用して小型液晶の量産を開始。1986年には液晶部門を液晶事業部に格上げし、シャープとして本格的な事業展開を決定した。さらに、1990年には液晶事業本部に格上げされた。
1990年代までの主な液晶の用途は電子機器における表示部品や、ゲーム機、カメラ向けのモニターなど。当時の技術水準ではテレビなどの大型パネル向けは実用化が難しく、液晶テレビの普及は2000年台まで待つ必要があった。
1998年に町田勝彦氏がシャープの社長に就任。社長就任と同時に経営方針として「2005年までにまでに国内で生産するテレビ全製品に液晶を採用する」を宣言し、従来のブラウン管式テレビの縮小と、液晶テレビへの注力を決定した。当時は、有機EL、プラズマ方式、液晶方式の3種類が次世代テレビの規格として注目されたが、シャープは液晶に注力する方針を打ち出した。経営方針の発表時点で、液晶テレビの実現性は未知数であり、シャープの社員も当惑したという。
2001年にシャープは本格的な液晶テレビとして「AQUOS」のブランド展開を開始。同年に20V型、15V型、13V型の3種類の液晶テレビの販売を開始した。シャープの社内では液晶テレビの販売拡大のために「液晶ビックバン戦略」を策定し、量販店などにおける販促に注力した。
テレビ向けの大型液晶パネルを量産するため、三重県亀山に工場を新設。大型パネルでは、パナソニックによるプラズマ方式への投資(尼崎工場の新設)と、シャープへの液晶方式への投資(亀山工場の新設)という、2方式が競争を繰り広げた。いずれも巨額投資を伴ったため、国内の電機メーカーによる大型投資の競争として注目を集めた。
台湾の鴻海精密工業から出資を受けて経営再建に着手