シャープ の歴史

更新:

1912年、早川徳次氏が東京で金属繰出鉛筆(シャープペンシル)を考案。関東大震災後の大阪移転、液晶電卓、亀山モデル、2016年の鴻海傘下入りまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1912年

創業者

早川徳次

創業地

東京市本所区

直近売上高(2026/3)

18,928億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1925年に阿倍野で鉱石ラジオを輸入品の半額で売り出したのか
A 輸入品の半額や大手の半値で先に売り出すほど、まだ参入者の少ない新技術の市場をいち早く押さえられ、価格に敏感な大衆層を取り込める。設備も販路も乏しい中堅にとって、規模ではなく先行と低価格でしか大手と戦えなかった。早川徳次氏は1923年9月の関東大震災で東京の文具下請け11年分の事業基盤を一瞬で失い、特許を譲って大阪へ移った。再起の地・阿倍野で1925年に国内初の鉱石ラジオ受信機を開発し、輸入品の半額となる3.5円で売り出した。新技術を国産化して大手より先に安く投じる進め方は、この再起のなかで固まった。
Q なぜ1970年に大阪万博出展を見送り、資本金の約7割を半導体内製化に投じたのか
A 部品の心臓であるLSIを米国勢から買う限り、調達条件と価格主導権を握られ、テレビで大手に規模で抜かれた構造を電卓でも繰り返す恐れがあった。自前で素子を持てば、外販価格に縛られず量産で攻められる。シャープは電卓向けLSIの調達に苦労した経験を踏まえ、1970年に大阪万博への出展を見送り、約75億円を奈良県天理市の半導体総合開発センターへ投じた。これは当時の資本金のおよそ7割にあたる。完成品を組む家電から部品と素子を自前で持つデバイスの会社へ、佐々木正氏の判断が会社の性格を書き換えた
Q なぜ2024年に沖津雅浩氏(CEO)はデバイスのアセットライト化を掲げ、自前主義の象徴だった堺の液晶生産を止めたのか
A 自前のパネルで完成品まで一貫して組む垂直統合は、需要が伸びる時期には利益を最大化したが、韓国・台湾勢の設備投資で市況が崩れると巨大な設備が重荷に変わった。1兆円を投じた亀山と堺の液晶は、2013年3月期の創業以来最大の赤字を招き、2016年には鴻海傘下に入った。それでも黒字は定着せず、2023年度まで2期連続で純損益が赤字に沈んだ。そこで沖津雅浩CEOは2024年にデバイス事業のアセットライト化を掲げ、堺の液晶生産を停止して、設備を持たないブランド企業へと型を変えた

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1912年〜 金属文具から大阪のラジオメーカーへの転身

繰出鉛筆で下請けから抜けた11年

1912年9月、早川徳次氏は東京市本所松井町で金属加工の個人企業を興し[1]、バックルや万年筆の金具といった雑貨の下請けから出発した。1915年8月には芯を繰り出す金属鉛筆を発明し[2]、日本とアメリカで特許を取得している[3]。『エバーレディーシャープペンシル』と名づけられた[4]この製品によって、早川氏は下請け加工業者から自社製品を持つ文具メーカーへ移った。1919年には金具の耐久性に独自の工夫を加え、工場へ流れ作業を導入して[5]量産に踏み切っている。分解を要した舶来の片繰出式に対し、片手で扱えるこの繰出鉛筆は文具問屋や小売店から継続の発注を得た[6]。第一次世界大戦下の欧米向け輸出も伸び、1923年の関東大震災の直前には工場300坪・従業員およそ200名・月商5万円の規模に達している[7]

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1912年9月 東京本所松井町で個人企業として創業
    • [2]1915年8月 金属繰出鉛筆を発明発売
    • [4]「エバーレディーシャープペンシル」と命名
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [3]日本・アメリカ両国での特許取得
    • [5]1919年 金具に独自の研究を施し工場へ流れ作業を導入
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [6]分解を要した舶来の片繰出式に対し片手操作で扱え、文具問屋・小売店から継続受注
    • [7]1923年の震災直前 工場300坪・従業員200名・月商5万円

1923年9月の関東大震災で東京の工場は焼失し[8]、早川氏は妻と二人の子を失った[9]。販売特約先である日本文具製造からは2万円の即時返済を求められ[10]、早川氏は焼け残った機械類の譲渡と、自身名義の繰出鉛筆の特許48種を無償で使わせる[11]ことで応じている。条件として売掛金の支払いと技術者の雇用、自身が半年間その技術長を務めることを付けたが、契約書は取り交わさない紳士協定であった[12]。この清算で手元に繰出鉛筆の製造権は残らず、被災した工員70名ほどを抱えた[13]まま復興の見通しは立たなかった。書面を残さなかったことは後年の差し押さえと2年10カ月の訴訟を招き、分割払いは1934年4月まで続いている[14]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [8]1923年9月 関東大震災により東京工場を焼失
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [9]震災で妻と長男・二男を失う
    • [10]日本文具製造への債務2万円の即時返済要求
    • [11]引き渡した繰出鉛筆の特許 48種
    • [12]売掛金の支払い・技術者の雇用・本人の半年間の技術長就任を条件とし、契約書のない紳士協定
    • [13]製造権が手元に残らず、被災した工員約70名を抱えた
    • [14]差し押さえと2年10カ月の訴訟を経て分割払いが1934年4月まで継続
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1912年9月 東京本所松井町で個人企業として創業
    • [2]1915年8月 金属繰出鉛筆を発明発売
    • [4]「エバーレディーシャープペンシル」と命名
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [3]日本・アメリカ両国での特許取得
    • [5]1919年 金具に独自の研究を施し工場へ流れ作業を導入
    • [8]1923年9月 関東大震災により東京工場を焼失
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [6]分解を要した舶来の片繰出式に対し片手操作で扱え、文具問屋・小売店から継続受注
    • [7]1923年の震災直前 工場300坪・従業員200名・月商5万円
    • [9]震災で妻と長男・二男を失う
    • [10]日本文具製造への債務2万円の即時返済要求
    • [11]引き渡した繰出鉛筆の特許 48種
    • [12]売掛金の支払い・技術者の雇用・本人の半年間の技術長就任を条件とし、契約書のない紳士協定
    • [13]製造権が手元に残らず、被災した工員約70名を抱えた
    • [14]差し押さえと2年10カ月の訴訟を経て分割払いが1934年4月まで継続

ラジオの国産化という二度目の創業

1924年9月、早川氏は現在の大阪市阿倍野区に早川金属工業研究所を設け、ラジオ受信機とその部品の製作を始めた[15]。前年末に大阪・心斎橋の石原時計店で7円50銭の輸入鉱石ラジオセットを買い求めて分解しており[16]、そこで得た理解が転身の下敷きになっている。ペンシルを作れないまま万年筆金具の外交販売から出直した[17]事業は、1925年に国内で初めて小型の鉱石ラジオセットの組み立てに成功して[18]向きを変えた。手放した文具の名から採った『シャープ』の銘を受信機に打ち[19]、同じ年の7月には月産1万組を超えてラジオ専門の工場へ移っている[20]

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1924年9月 現大阪市阿倍野区に早川金属工業研究所を設立、ラジオ受信機及び同部品の製作を開始
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [16]前年末に心斎橋の石原時計店で7円50銭の輸入鉱石ラジオセットを購入し分解研究
    • [17]製造権のない繰出鉛筆に戻れず万年筆金具の外交販売から再出発
    • [19]手放した文具の名にちなむ「シャープ」の銘を受信機に付した
    • [20]1925年7月に月産1万組を超えラジオ専門の工場へ移転
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [18]1925年 わが国で初めての小型鉱石ラジオセット組立に成功

1926年にはラジオの製造にも流れ作業を採り入れ、中国・東南アジア・南米へ部品の輸出[21]を始めた。1929年には交流式の真空管ラジオの製造に入り[22]、1931年には民間で初めてテレビジョンの研究に着手している[23]。1925年3月に始まった日本のラジオ放送から数年のうちに受信機を国産で量産し[24]、続いて次の表示技術であるテレビジョンへ手を伸ばす運びであった。1934年6月には大阪市東住吉区加美福井戸町に平野工場を建て[25]、田辺の借地235坪に工場住宅37坪を建てて始めた生産の場[26]を、本格的な工場へ広げている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [21]1926年 ラジオ製造に流れ作業システムを採用し、中国・東南アジア・南米へラジオ部品の輸出を開始
    • [22]1929年 交流式真空管ラジオの製造を開始
    • [23]1931年 民間で初めてテレビジョンの研究に着手
    • [25]1934年6月 大阪市東住吉区加美福井戸町に平野工場を建設
  • シャープ創業の経緯(自社解説・社内資料)
    • [24]1925年3月の日本初のラジオ放送開始を捉えて受信機を国産量産
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [26]創業時は田辺の借地235坪に工場住宅37坪を建てて出発
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1924年9月 現大阪市阿倍野区に早川金属工業研究所を設立、ラジオ受信機及び同部品の製作を開始
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [16]前年末に心斎橋の石原時計店で7円50銭の輸入鉱石ラジオセットを購入し分解研究
    • [17]製造権のない繰出鉛筆に戻れず万年筆金具の外交販売から再出発
    • [19]手放した文具の名にちなむ「シャープ」の銘を受信機に付した
    • [20]1925年7月に月産1万組を超えラジオ専門の工場へ移転
    • [26]創業時は田辺の借地235坪に工場住宅37坪を建てて出発
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [18]1925年 わが国で初めての小型鉱石ラジオセット組立に成功
    • [21]1926年 ラジオ製造に流れ作業システムを採用し、中国・東南アジア・南米へラジオ部品の輸出を開始
    • [22]1929年 交流式真空管ラジオの製造を開始
    • [23]1931年 民間で初めてテレビジョンの研究に着手
    • [25]1934年6月 大阪市東住吉区加美福井戸町に平野工場を建設
  • シャープ創業の経緯(自社解説・社内資料)
    • [24]1925年3月の日本初のラジオ放送開始を捉えて受信機を国産量産

株式会社への改組と、戦後の再出発

1935年5月、早川氏は資本金30万円をもって事業を株式会社組織に改め、株式会社早川金属工業研究所を設立[27]した。翌1936年6月には早川金属工業株式会社へ改称し[28]、研究所という当初の名乗りを外している。1942年5月にはさらに早川電機工業株式会社へ改め[29]、社名を事業の内容に合わせた[30]。戦時下では光学兵器や双眼鏡、磁気録音機といった軍需向けの生産への転換を強いられており、民生用のラジオを作り続けることはできなかった。金属加工から出発した会社が社名の上で電機メーカーを名乗るまでに、創業から30年が経っている[31]

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1935年5月 資本金30万円で株式会社組織に改組し㈱早川金属工業研究所を設立
    • [28]1936年6月 早川金属工業㈱に改称
    • [29]1942年5月 早川電機工業㈱に改称
    • [31]創業1912年から社名変更1942年まで30年
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [30]社名を事業内容に合うよう改称

1949年5月、同社は大阪証券取引所へ株式を上場[32]した。1951年には国産テレビ受像機の第一号機の試作を終えている[33]。当時の大阪では松下電器産業と三洋電機が同じ時期に力を伸ばしており[34]、繊維の街とされてきた大阪が弱電の街へ変わろうとしていると評された[35]。ただし松下と三洋がいずれも弱電の総合メーカーであったのに対し、早川電機はテレビ専門メーカーに近い方向を採っている[36]。品種を絞る構えは戦後のテレビ需要期に働きを示すことになるが、同時に製品の幅と販売網の規模では二社に後れを取る出発[37]でもあった。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [32]1949年5月 大阪証券取引所に株式を上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [33]1951年 国産テレビ受像機第一号の試作を完成
  • 実業の世界 1959年6月号
    • [34]早川・三洋・松下という関西の弱電3社が並立
    • [35]大阪が繊維の都市から弱電機の都市へ変わろうとしているとの同時代評
    • [36]松下・三洋は弱電の総合メーカー、早川はテレビ専門メーカー的な方向を採った
    • [37]多角経営の松下・三洋と専門経営の早川という対比
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1935年5月 資本金30万円で株式会社組織に改組し㈱早川金属工業研究所を設立
    • [28]1936年6月 早川金属工業㈱に改称
    • [29]1942年5月 早川電機工業㈱に改称
    • [31]創業1912年から社名変更1942年まで30年
    • [32]1949年5月 大阪証券取引所に株式を上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [30]社名を事業内容に合うよう改称
    • [33]1951年 国産テレビ受像機第一号の試作を完成
  • 実業の世界 1959年6月号
    • [34]早川・三洋・松下という関西の弱電3社が並立
    • [35]大阪が繊維の都市から弱電機の都市へ変わろうとしているとの同時代評
    • [36]松下・三洋は弱電の総合メーカー、早川はテレビ専門メーカー的な方向を採った
    • [37]多角経営の松下・三洋と専門経営の早川という対比

1950年〜 テレビへの先行参入と、世界初の電子式卓上計算機

シャープの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1953年 RCAと業務提携・白黒テレビの生産開始
  2. 1954年 総合家電メーカーを志向
  3. 1954年 太陽電池の試作に成功
  4. 1956年 東京証券取引所に株式上場
  5. 1957年 トランジスタラジオの生産開始
  6. 1962年 Sharp Electronics Corporationを設立
  7. 1964年 電子機卓上計算機CS-10Aを開発

RCAとの提携と、専門メーカーとしてのテレビ

1952年6月、早川電機工業は米RCA社と技術提携を結び[38]、翌1953年1月にテレビ受信機の量産に入った[39]。1954年7月には大阪市阿倍野区に田辺工場を建て[40]、エンドレスコンベアの設備を入れて[41]受像機の量産を強めている。1956年3月には東京証券取引所へも株式を上場[42]した。同年4月に東京支店、8月に広島支店、翌1957年9月に名古屋支店、1958年に福岡支店[43]と販売の拠点を継いで置き、1957年12月には田辺工場の増築と第二の平野工場の建設[44]を併せて進めた。生産と販売の両輪を五年ほどで組み上げた[45]ことになる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [38]1952年6月 RCA社と技術提携
    • [39]1953年1月 テレビ受信機の量産開始
    • [41]田辺工場にエンドレスコンベア設備を導入
    • [43]1956年4月 東京支店、8月 広島支店、1957年9月 名古屋支店、1958年 福岡支店を設置
    • [44]1957年12月 田辺工場を増築し平野工場(第二)を建設
    • [45]1953年の量産開始から1958年までに生産・販売体制を確立
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1954年7月 大阪市阿倍野区に田辺工場を建設
    • [42]1956年3月 東京証券取引所に株式を上場

早川電機が業界随一の業績を上げた理由の第一は、『テレビブームを見越して早くからテレビの増産体制をとっていた』[46]ことにあった。松下と三洋がいずれも弱電の総合メーカーであるのに対し、同社はテレビ専門メーカー的な方向を採っている[47]。第二の理由は管球類を内製しなかった点[48]にある。松下・日立・東芝は管球類を全て自家生産しており、コストを下げるには自家消費を超える量を作って外へ売らねばならなかった[49]。買い手を必要とするその構造ゆえに、『管球類を自家生産しなかった早川電機に、一種の先見の明があった』[50]と評されている。金属プレスなどの機械加工と早川式の流れ作業[51]も、業界で早くから認められていた。

  • 実業の世界 1959年6月号
    • [46]テレビブームを見越した早期の増産体制が業界随一の業績の第一の理由
    • [47]松下・三洋は弱電の総合メーカー、早川はテレビ専門メーカー的な方向
    • [48]早川は管球類の工場を持たず全部現金で安く仕入れられる点が強み
    • [49]松下・日立・東芝は管球類を全部自家生産し、自家消費以上を作って外販しないとコストが下がらない構造
    • [50]管球類を自家生産しなかったことに先見の明があったとの評
    • [51]金属プレス等の機械加工部門と早川式の流れ作業が業界で早くから認められていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [38]1952年6月 RCA社と技術提携
    • [39]1953年1月 テレビ受信機の量産開始
    • [41]田辺工場にエンドレスコンベア設備を導入
    • [43]1956年4月 東京支店、8月 広島支店、1957年9月 名古屋支店、1958年 福岡支店を設置
    • [44]1957年12月 田辺工場を増築し平野工場(第二)を建設
    • [45]1953年の量産開始から1958年までに生産・販売体制を確立
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1954年7月 大阪市阿倍野区に田辺工場を建設
    • [42]1956年3月 東京証券取引所に株式を上場
  • 実業の世界 1959年6月号
    • [46]テレビブームを見越した早期の増産体制が業界随一の業績の第一の理由
    • [47]松下・三洋は弱電の総合メーカー、早川はテレビ専門メーカー的な方向
    • [48]早川は管球類の工場を持たず全部現金で安く仕入れられる点が強み
    • [49]松下・日立・東芝は管球類を全部自家生産し、自家消費以上を作って外販しないとコストが下がらない構造
    • [50]管球類を自家生産しなかったことに先見の明があったとの評
    • [51]金属プレス等の機械加工部門と早川式の流れ作業が業界で早くから認められていた

総合家電への転換と、ブランドの弱さ

1959年7月、同社は大阪府八尾市に家庭電化製品の総合工場として八尾工場を新設し[52]、1960年1月には奈良県大和郡山市にテレビ・ラジオの部品工場である奈良工場を置いた[53]。1960年はカラーテレビの量産を始め、電子レンジと半導体製品の開発に着手し、本社事務にIBMの機械を入れた[54]年でもある。1961年3月には八尾工場内に冷蔵庫工場を新築し、11月には中央研究所を建てて[55]エレクトロニクス技術の開発に備えた。心電計や電気メスといった医用電子機器を発売し[56]、電子レンジの試作にも成功している。電子計算機と卓上式計算機の開発に着手したのも、この年[57]であった。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [52]1959年7月 大阪府八尾市に八尾工場を建設(家庭電化製品の総合工場)
    • [53]1960年1月 奈良県大和郡山市に奈良工場を建設(テレビ・ラジオの部品工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [54]1960年 カラーテレビ量産開始・電子レンジ及び半導体製品の開発着手・本社事務へIBM組織を導入
    • [55]1961年3月 八尾工場内に冷蔵庫工場を新築、11月 中央研究所を建設
    • [56]心電計・電気メス等の医用電子機器を発売し電子レンジの試作に成功
    • [57]1961年 電子計算機及び卓上式計算機の開発に着手

1962年5月にはアメリカにSharp Electronics Corporationを設立し[58]、対米輸出の拡大に備えた。同年3月には冷蔵庫工場と冷暖房機工場を増新築して電子レンジの量産に入り、奈良工場には電子計算機製造部を置いている[59]。1963年には太陽電池とシリコン光電変換素子の量産化に成功し、業界初の12型ポータブルテレビも発売した[60]。製品の幅は広がったものの、店頭で指名を得るには至っていない[61]。1964年の家電不況期にはメーカーを指名して買う客が増え[62]、『ご指定の少ないメーカー』を少ない順に挙げると早川電機・八欧電機・三洋電機の順になる[63]と書かれた。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [58]1962年5月 アメリカにSharp Electronics Corporationを設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [59]1962年3月 冷蔵庫工場・冷暖房機工場を増新築し電子レンジの量産を開始、奈良工場に電子計算機製造部を設置
    • [60]1963年 太陽電池及びシリコン光電変換素子の量産化に成功、業界初の12型ポータブルテレビを発売
  • 月刊経済 1964年10月号
    • [61]指名の少ないメーカーとして名が挙がる状態にあった
    • [62]1963年頃から家電の実需要がメーカー目標と乖離し指名買いが増えた
    • [63]「ご指定の少ないメーカー」に早川電機・八欧電機・三洋電機が挙げられた
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [52]1959年7月 大阪府八尾市に八尾工場を建設(家庭電化製品の総合工場)
    • [53]1960年1月 奈良県大和郡山市に奈良工場を建設(テレビ・ラジオの部品工場)
    • [58]1962年5月 アメリカにSharp Electronics Corporationを設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [54]1960年 カラーテレビ量産開始・電子レンジ及び半導体製品の開発着手・本社事務へIBM組織を導入
    • [55]1961年3月 八尾工場内に冷蔵庫工場を新築、11月 中央研究所を建設
    • [56]心電計・電気メス等の医用電子機器を発売し電子レンジの試作に成功
    • [57]1961年 電子計算機及び卓上式計算機の開発に着手
    • [59]1962年3月 冷蔵庫工場・冷暖房機工場を増新築し電子レンジの量産を開始、奈良工場に電子計算機製造部を設置
    • [60]1963年 太陽電池及びシリコン光電変換素子の量産化に成功、業界初の12型ポータブルテレビを発売
  • 月刊経済 1964年10月号
    • [61]指名の少ないメーカーとして名が挙がる状態にあった
    • [62]1963年頃から家電の実需要がメーカー目標と乖離し指名買いが増えた
    • [63]「ご指定の少ないメーカー」に早川電機・八欧電機・三洋電機が挙げられた

コンピュータを諦めて選んだ電子式卓上計算機

1960年、電機メーカーの間ではコンピュータの開発が最大の話題となり、大手各社が米国企業との提携交渉を進めていた[64]。ラジオとテレビでは最大手にも引けを取らずに来た早川電機は、この新しい時代への遅れを恐れていた[65]という。入社五年の浅田篤氏が若手と将来を論じ合っていたところ、その議論が上層部に伝わって計算機の研究グループが組まれ[66]、浅田氏がその中心となる。全員が計算機をほとんど知らなかったため、大阪大学の尾崎弘助教授のもとへ通って基礎から学び直した[67]。翌年には新卒を大量に投入し、大型コンピュータの開発へ本腰を入れよう[68]としている。

  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [64]1960年 コンピュータ開発が電機メーカー間の最大の話題となり各社が米国企業と提携交渉
    • [65]ラジオ・テレビでは最大手にも一歩も引かなかったが新時代への遅れを不安視
    • [66]入社5年の浅田篤氏の議論が上層部へ伝わり計算機研究グループが組織され同氏がリーダー格に
    • [67]大阪大学の尾崎弘助教授のもとへ通い計算機の基礎から学んだ
    • [68]翌年に計算機グループへ新卒を大量投入し大型コンピュータ開発に注力

その見通しは甘く、日立・東芝・日本電気・富士通はすでに五年以上コンピュータの開発を続けており[69]、通産省はこれらをどう支援するかに取り組んでいた。経験のない新参者に対しては『早川が大型コンピュータをやるなど、それは無理でしょう』と担当官が取り合わなかった[70]。自力で担うには技術が大き過ぎるため、同社は1962年に目標を変え、機械式計算機の電子化へ進む[71]。手回し計算機に代わるものとして卓上に載る大きさと50万円という価格の限度を決め[72]、そこから設計に入った。演算回路もメモリもトランジスタを一個ずつ組み上げねばならず、箱に詰め込めば発熱してファンが要り、そのファンがまた箱を大きくした[73]

  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [69]日立・東芝・日本電気・富士通は既に5年以上コンピュータ開発を継続し通産省が支援に取り組んでいた
    • [70]通産省担当官に「早川が大型コンピュータをやるなど、それは無理でしょう」と袖にされた
    • [71]1962年 目標を機械式計算機の電子化へ変更
    • [72]開発目標は卓上に載る大きさと価格50万円
    • [73]トランジスタを一個ずつ組み上げる必要があり、発熱対策のファンが箱を大きくした

1964年、同社は世界で最初の電子式卓上計算機コンペットを開発し、本格的な量産に入った[74]。トランジスタなどの部品を4000個使い、重さは25キロ、価格は53万5000円[75]と目標を少し超えている。それでも手回し式に比べて音もなく速く計算できる機械は、国内でも海外でも評判となった[76]。1966年にはICを用いた電卓を開発し[77]、1967年の第一号機では部品数が6分の1に減って重量4キロ・価格23万円[78]まで下がっている。産業機器事業部長の佐々木正氏は消費電力の小さいMOS型の集積回路に目を付け、軍用中心だった米アメリカンロックウェル社に掛け合って電卓用の開発と供給の契約を取り付けた[79]。1969年のMOS・LSI電卓で部品数は100分の1以下となり、価格は10万円を切っている[80]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [74]1964年 世界最初の電子式卓上計算機コンペットを開発し本格的量産を開始
    • [77]1966年 ICによる電子式卓上計算機を開発
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [75]一号機は部品4000個・重量25キロ・価格53万5000円
    • [76]手回し式に比べ音もなく速く計算でき国内外で大評判となった
    • [78]1967年のIC電卓第一号機は部品が6分の1・重量4キロ・価格23万円
    • [79]産業機器事業部長の佐々木正氏が消費電力の小さいMOS・LSIに着目し米アメリカンロックウェル社と電卓用の開発供給契約を締結
    • [80]1969年のMOS・LSI電卓で部品数は100分の1以下、価格は10万円を切った
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [64]1960年 コンピュータ開発が電機メーカー間の最大の話題となり各社が米国企業と提携交渉
    • [65]ラジオ・テレビでは最大手にも一歩も引かなかったが新時代への遅れを不安視
    • [66]入社5年の浅田篤氏の議論が上層部へ伝わり計算機研究グループが組織され同氏がリーダー格に
    • [67]大阪大学の尾崎弘助教授のもとへ通い計算機の基礎から学んだ
    • [68]翌年に計算機グループへ新卒を大量投入し大型コンピュータ開発に注力
    • [69]日立・東芝・日本電気・富士通は既に5年以上コンピュータ開発を継続し通産省が支援に取り組んでいた
    • [70]通産省担当官に「早川が大型コンピュータをやるなど、それは無理でしょう」と袖にされた
    • [71]1962年 目標を機械式計算機の電子化へ変更
    • [72]開発目標は卓上に載る大きさと価格50万円
    • [73]トランジスタを一個ずつ組み上げる必要があり、発熱対策のファンが箱を大きくした
    • [75]一号機は部品4000個・重量25キロ・価格53万5000円
    • [76]手回し式に比べ音もなく速く計算でき国内外で大評判となった
    • [78]1967年のIC電卓第一号機は部品が6分の1・重量4キロ・価格23万円
    • [79]産業機器事業部長の佐々木正氏が消費電力の小さいMOS・LSIに着目し米アメリカンロックウェル社と電卓用の開発供給契約を締結
    • [80]1969年のMOS・LSI電卓で部品数は100分の1以下、価格は10万円を切った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [74]1964年 世界最初の電子式卓上計算機コンペットを開発し本格的量産を開始
    • [77]1966年 ICによる電子式卓上計算機を開発

1970年〜 万博を捨てた半導体投資と、液晶への転進

シャープの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1970年 商号をシャープに変更
  2. 1970年 シャープ総合開発センターを新設(半導体の内製化)
  3. 1973年 電卓の価格競争から降り、半導体と液晶という独自デバイスに賭けた転進 安売り競争を続けるか、半導体と液晶という自前の技術に活路を求めるか——電卓戦争のさなかの選択
  4. 1979年 大型冷蔵庫工場を新設
  5. 1980年 創業者の早川徳次氏が逝去
  6. 1981年 葛城事業所を開設
  7. 1984年 福山工場を新設

千里から天理へ——万博を見送った75億円

1970年1月、早川電機工業は商号をシャープ株式会社へ改めた[81]。同じ年、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会が開かれたが、地元の有力企業でありながら同社はパビリオンを出していない[82]。かわりに1970年8月、奈良県天理市へ半導体の生産と研究の拠点となるシャープ総合開発センターを建てた[83]。投資額は約75億円[84]にのぼる。『千里から天理へ』と呼ばれたこの投資[85]に踏み切った当時、ラジオ・テレビ・電子レンジ・電卓と草分けの実績を重ねながら、同社の経営は『もう一つパッとしたものがない』と評されており、早川社長の温情主義・堅実主義がその理由に挙げられていた[86]。電卓の開発で米国から集積回路を調達する苦労[87]を重ねたことが、内製へ踏み切る動機にあった。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [81]1970年1月 シャープ㈱に改称
    • [83]1970年8月 奈良県天理市にシャープ総合開発センターを建設
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [82]1970年の日本万国博覧会に地元有力企業でありながらパビリオンを出展しなかった
    • [85]「千里から天理へ」と呼ばれた半導体分野への進出
  • シャープ 有価証券報告書(number_basis:半導体総合開発センター投資額)
    • [84]総合開発センターへの投資額 約75億円
  • 経済展望 1970年2月1日号
    • [86]ラジオ・テレビ・電子レンジ・電卓で草分け的存在でありながら経営は「もう一つパッとしたものがない」と評され、早川社長の温情主義・堅実主義が理由に挙げられた
    • [87]電卓開発における米国からのLSI調達難が内製化の動機

同社が使ったLSIはノースアメリカン・ロックウェル社から技術を導入したもので、輸入していた分を天理工場での自社生産へ逐次切り替えた[88]。全ての回路をLSIで組んだ電子ソロバン『マイクロコンペット』は1969年12月から国内で売り出され[89]、先に発売した欧米からは1970年度分として32万台にのぼる引き合いが寄せられている[90]。技術を率いた佐々木正氏は『学界の大勢はバイポーラでしたし、モスは製品の歩留まりが悪い。そこでどの社もモスICの生産には乗り気でなかった。しかし、私はモスICの将来性に確信を持っていました』[91]と後に語った。

  • 経済展望 1970年2月1日号
    • [88]LSIをノースアメリカン・ロックウェル社から技術導入し、輸入分を天理工場の自社生産へ逐次切替
    • [89]全LSIの電子ソロバン「マイクロコンペット」を12月から国内販売
    • [90]欧米で先行発売し1970年度分として32万台の引き合い
  • 日経ビジネス 1981年1月12日号
    • [91]佐々木正氏のモスIC将来性に関する談話

半導体への傾斜には懐疑もつきまとい、業界では『シャープは半導体投資でつぶれる』との観測が流れた[92]。これに対し経営側は『半導体需要がこれほど大きくなるとは思っていなかったが、エレクトロニクスの流れ自体は間違いないと信じていたので、不安はなかった。3年から5年は苦労するのは仕方がない』[93]と受け止めている。1970年9月には創業者の早川徳次氏が社長を退き、佐伯旭氏が後任に就いた[94]。1973年1月には経営理念・経営信条・経営基本方針を制定し[95]、事業の拠りどころを言葉として定めている。同社は従来の家電分野からエレクトロニクス分野への転進を図っていた[96]

  • 日経ビジネス 1975年4月14日号
    • [92]「シャープは半導体投資でつぶれる」という業界の観測
    • [93]半導体投資への経営側の受け止め
  • シャープ公式サイト 会社沿革(年表)
    • [94]創業者早川徳次氏の社長退任と佐伯旭氏の後任就任
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [95]1973年1月 経営理念、経営信条、経営基本方針を制定
  • 経済展望 1970年2月1日号
    • [96]家電分野からエレクトロニクスへの転進を図る途上にあった
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [81]1970年1月 シャープ㈱に改称
    • [83]1970年8月 奈良県天理市にシャープ総合開発センターを建設
    • [95]1973年1月 経営理念、経営信条、経営基本方針を制定
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [82]1970年の日本万国博覧会に地元有力企業でありながらパビリオンを出展しなかった
    • [85]「千里から天理へ」と呼ばれた半導体分野への進出
  • シャープ 有価証券報告書(number_basis:半導体総合開発センター投資額)
    • [84]総合開発センターへの投資額 約75億円
  • 経済展望 1970年2月1日号
    • [86]ラジオ・テレビ・電子レンジ・電卓で草分け的存在でありながら経営は「もう一つパッとしたものがない」と評され、早川社長の温情主義・堅実主義が理由に挙げられた
    • [87]電卓開発における米国からのLSI調達難が内製化の動機
    • [88]LSIをノースアメリカン・ロックウェル社から技術導入し、輸入分を天理工場の自社生産へ逐次切替
    • [89]全LSIの電子ソロバン「マイクロコンペット」を12月から国内販売
    • [90]欧米で先行発売し1970年度分として32万台の引き合い
    • [96]家電分野からエレクトロニクスへの転進を図る途上にあった
  • 日経ビジネス 1981年1月12日号
    • [91]佐々木正氏のモスIC将来性に関する談話
  • 日経ビジネス 1975年4月14日号
    • [92]「シャープは半導体投資でつぶれる」という業界の観測
    • [93]半導体投資への経営側の受け止め
  • シャープ公式サイト 会社沿革(年表)
    • [94]創業者早川徳次氏の社長退任と佐伯旭氏の後任就任

18社による消耗戦と、液晶への転進

電卓の市場には参入が相次ぎ、1969年5月の時点では早川電機・東芝といった電機メーカーからキヤノン・カシオ計算機といったカメラ・事務機メーカーまでが入り乱れ[97]、その数は18社に達している[98]。三カ月に一台の割合で新型が出るなか、計算能力一桁あたり1万円を割るかどうかが競争の焦点[99]となった。安売り競争の激化で採算が悪化し、生産の中止に追い込まれるメーカーも現れている[100]。厳しい競争を切り抜けるため無理な安値輸出に走ったり、新製品を発表しながら販売の見通しが立たず発売を見合わせたりする例もあった[101]

  • 読売新聞(1969年5月7日)
    • [97]早川・東芝などの電機メーカーからキヤノン・カシオ計算機などカメラ・事務機メーカーまでが参入
    • [98]1969年5月時点で電卓メーカーは18社に達した
    • [99]3カ月に1台の割合で新型電卓が出て、計算能力1桁あたり1万円割れが焦点
    • [100]安売り競争の激化で採算が悪化し生産中止に追い込まれるメーカーが出た
    • [101]無理な安値輸出や、発売見合わせの例が出た

小型化と低価格化の速度は目を見張るもので、1972年8月にはカシオ計算機が掌に載る六桁のミニ電卓を1万2,800円で売り出した[102]。十年経たないうちに価格は40分の1ほど[103]になっている。この消耗戦のなかでシャープは価格による競り合いから降り、自前の基幹デバイスへ技術を寄せる道を選んだ[104]。佐々木正氏らは消費電力の小さい集積回路と液晶を一枚のガラス基板にまとめるCOS方式を確立し[105]、1973年、単三電池一本で百時間動く世界初の液晶電卓EL-805を世に出している[106]。表示装置にも消費電力の小さい液晶を選んだこと[107]が、電池一本での長時間の駆動を可能にしている。

  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [102]1972年8月 カシオ計算機が6桁の掌サイズミニ電卓を1万2800円で市販
    • [103]10年経たないうちに電卓価格は40分の1ほどになった
  • 読売新聞(1969年5月7日)
    • [104]価格の消耗戦から降り自前のデバイスへ技術を寄せた
  • シャープ公式サイト「液晶電卓開発物語とその進化」
    • [105]低消費電力の集積回路と液晶を1枚のガラス基板にまとめるCOS方式を確立
    • [106]1973年 単3電池1本で100時間動く世界初の液晶電卓EL-805を発売
    • [107]表示装置に消費電力の少ない液晶を採用

価格競争そのものは、安値を武器としたカシオ計算機が制した[108]。同社の1974年度の販売台数は約480万台に達し、個人用電卓のシェアは5割を超えて[109]シャープの2割強を大きく引き離している[110]。もっとも電卓の生産量は巨大で、立ち遅れていた日本のIC・LSI産業を急速に立ち上がらせる働きを果たした[111]。超LSIメモリにつながるMOS・LSIで日本が強くなった最大の理由は電卓にあった[112]。一方で佐々木氏は、LSIが一個になった先の技術的な壁を破って基本特許を取ったのが米インテル社であった[113]ことを挙げ、『IC、LSIではトップの決断で成功した。マイコンでは失敗した、と思いますよ』[114]と述べている。

  • 日経ビジネス 1975年4月14日号
    • [108]安値電卓でカシオ計算機が王座をつかんだ
    • [109]カシオ計算機の1974年度販売台数 約480万台、個人用電卓シェア50%超
    • [110]販売台数シェアでカシオがシャープの20%強を大きく引き離した
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [111]電卓の巨大な生産量が立ち遅れていた日本のIC・LSI産業を急速に立ち上がらせた
    • [112]超LSIメモリにつながるMOS・LSIで日本が強くなった最大の理由が電卓にある
  • 日経ビジネス 1981年1月12日号
    • [113]LSIが1個になった先の技術的な壁を破り基本特許を取ったのは米インテル社
    • [114]佐々木正氏によるIC・LSIとマイコンの対比
  • 読売新聞(1969年5月7日)
    • [97]早川・東芝などの電機メーカーからキヤノン・カシオ計算機などカメラ・事務機メーカーまでが参入
    • [98]1969年5月時点で電卓メーカーは18社に達した
    • [99]3カ月に1台の割合で新型電卓が出て、計算能力1桁あたり1万円割れが焦点
    • [100]安売り競争の激化で採算が悪化し生産中止に追い込まれるメーカーが出た
    • [101]無理な安値輸出や、発売見合わせの例が出た
    • [104]価格の消耗戦から降り自前のデバイスへ技術を寄せた
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
    • [102]1972年8月 カシオ計算機が6桁の掌サイズミニ電卓を1万2800円で市販
    • [103]10年経たないうちに電卓価格は40分の1ほどになった
    • [111]電卓の巨大な生産量が立ち遅れていた日本のIC・LSI産業を急速に立ち上がらせた
    • [112]超LSIメモリにつながるMOS・LSIで日本が強くなった最大の理由が電卓にある
  • シャープ公式サイト「液晶電卓開発物語とその進化」
    • [105]低消費電力の集積回路と液晶を1枚のガラス基板にまとめるCOS方式を確立
    • [106]1973年 単3電池1本で100時間動く世界初の液晶電卓EL-805を発売
    • [107]表示装置に消費電力の少ない液晶を採用
  • 日経ビジネス 1975年4月14日号
    • [108]安値電卓でカシオ計算機が王座をつかんだ
    • [109]カシオ計算機の1974年度販売台数 約480万台、個人用電卓シェア50%超
    • [110]販売台数シェアでカシオがシャープの20%強を大きく引き離した
  • 日経ビジネス 1981年1月12日号
    • [113]LSIが1個になった先の技術的な壁を破り基本特許を取ったのは米インテル社
    • [114]佐々木正氏によるIC・LSIとマイコンの対比

「黄金の五十年代」と、円高が迫った組み替え

1979年1月に大阪府八尾市へ大型冷蔵庫工場を建てたのを皮切りに[115]、同社は白物家電の工場を相次いで設けた。1981年3月には奈良県新庄町に新庄工場を[116]、1984年10月には広島県福山市に電子部品の生産拠点として福山工場を[117]、1985年9月には天理市にIC技術センターを置いている[118]。第二次石油危機と世界同時不況で低成長に入った時期でありながら、1965年前後から積み上げてきたエレクトロニクス戦略が開花し、社内では『黄金の五十年代』と呼ばれた[119]。1984年の時点では『企業の寿命は30年ともいう。あと10年経つと、オールトランジスタ電卓の開発からちょうど30年』[120]との警戒も語られている。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [115]1979年1月 大阪府八尾市に大型冷蔵庫工場を建設(以後各種白物工場を建設)
    • [116]1981年3月 奈良県新庄町に新庄工場を建設
    • [117]1984年10月 広島県福山市に電子部品の生産拠点として福山工場を建設
    • [118]1985年9月 奈良県天理市にIC技術センターを建設
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [119]第二次オイルショックと世界同時不況の低成長期にエレクトロニクス戦略が開花し「黄金の50年代」と呼ばれた
    • [120]1984年時点で語られた企業の寿命30年への警戒

1985年以降の急激な円高は量産の前提を崩し、辻晴雄社長は『1985年以降の急激な円高で、日本の賃金水準は世界最高になっています。もう日本では労働集約型のモノ作りは難しい』[121]と述べ、カラーテレビの生産台数で韓国が日本を上回り、ラジカセでは韓国・中国の年産3,000万台以上に対し日本が800万台にとどまる[122]現実を挙げた。そのうえで『本当にコアになると思うモノは絶対自分でやらないといかん。それがうちの場合、TFT(薄膜トランジスタ)方式液晶であり、半導体レーザー、発光ダイオードなどだったわけです』[123]と、単純な組み立て型から先端技術型へ移る方針[124]を語っている。

  • 日経ビジネス 1993年4月19日号
    • [121]辻晴雄社長による円高と労働集約型生産に関する談話
    • [122]カラーテレビ生産台数で韓国が日本を上回り、ラジカセは韓国・中国が年産3000万台以上に対し日本は800万台
    • [123]辻晴雄氏によるコア技術の内製方針の談話
    • [124]単純なアセンブル型から先端技術型への脱皮を志向

方針は設備の形をとって現れ、1990年2月に奈良県大和郡山市へ複写機の生産拠点として奈良第8工場を建て[125]、1991年2月には天理市に液晶パネルの生産拠点として天理工場を[126]、1995年7月には三重県多気町に同じく液晶パネルの拠点として三重工場を設けている[127]。この路線転換は外からも評価され、1991年には『かつては安売りブランドの代名詞で、企業イメージはせいぜい1.5流だったシャープが大変身している』[128]『経常利益率ではソニーや松下電器さえ上回るなど、一流企業に迫るところまできた』[129]と書かれた。乏しい経営資源で戦うために知恵を注ぎ込んだ独特の経営システムが、その背景にある[130]とされている。

  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [125]1990年2月 奈良県大和郡山市に複写機の生産拠点として奈良第8工場を建設
    • [126]1991年2月 奈良県天理市に液晶パネルの生産拠点として天理工場を建設
    • [127]1995年7月 三重県多気町に液晶パネルの生産拠点として三重工場を建設
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号
    • [128]1991年の第三者評価(1.5流からの大変身)
    • [129]経常利益率でソニー・松下電器を上回り一流企業に迫ったとの評価
    • [130]乏しい経営資源で戦うための独特の経営システムがその背景にあるとの分析
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [115]1979年1月 大阪府八尾市に大型冷蔵庫工場を建設(以後各種白物工場を建設)
    • [116]1981年3月 奈良県新庄町に新庄工場を建設
    • [117]1984年10月 広島県福山市に電子部品の生産拠点として福山工場を建設
    • [118]1985年9月 奈良県天理市にIC技術センターを建設
    • [125]1990年2月 奈良県大和郡山市に複写機の生産拠点として奈良第8工場を建設
    • [126]1991年2月 奈良県天理市に液晶パネルの生産拠点として天理工場を建設
    • [127]1995年7月 三重県多気町に液晶パネルの生産拠点として三重工場を建設
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [119]第二次オイルショックと世界同時不況の低成長期にエレクトロニクス戦略が開花し「黄金の50年代」と呼ばれた
    • [120]1984年時点で語られた企業の寿命30年への警戒
  • 日経ビジネス 1993年4月19日号
    • [121]辻晴雄社長による円高と労働集約型生産に関する談話
    • [122]カラーテレビ生産台数で韓国が日本を上回り、ラジカセは韓国・中国が年産3000万台以上に対し日本は800万台
    • [123]辻晴雄氏によるコア技術の内製方針の談話
    • [124]単純なアセンブル型から先端技術型への脱皮を志向
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号
    • [128]1991年の第三者評価(1.5流からの大変身)
    • [129]経常利益率でソニー・松下電器を上回り一流企業に迫ったとの評価
    • [130]乏しい経営資源で戦うための独特の経営システムがその背景にあるとの分析

1998年〜 液晶テレビへの一点集中と、大型パネルからの撤退

シャープの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1998年 町田勝彦氏が社長就任・液晶テレビ宣言
  2. 2004年 液晶一貫生産「亀山モデル」への集中投資 独自デバイスに一点集中で巨額を投じるか——液晶パネルからテレビまでを一つの工場に束ねた賭け
  3. 2009年 堺・世界初の第10世代液晶パネル工場への集中投資 勝ちパターンにさらに賭け増すか——亀山の成功に続き、外販前提の世界最大工場へ約4,300億円を投じるという選択
  4. 2016年 シャープ再建をめぐる産業革新機構の提案と鴻海による買収(2016年・官民ファンド案は破談) なぜ官民ファンドの再建案は白紙となり、シャープは大手電機で初めて外資の傘下に入ったのか?
  5. 2016年 鴻海傘下での再建——戴正呉氏によるコスト構造と意思決定の作り直し 日本的大企業の意思決定を、外資流にどう作り替えるか——鴻海傘下シャープの高速黒字化をめぐる判断
  6. 2020年 NECディスプレイソリューションズを子会社化
  7. 2024年 大型液晶パネルからの撤退——堺SDPの生産停止と亀山工場の清算 社運を賭けた祖業級の事業を、どの時点で手放すか——亀山から堺へ積み上げた液晶一点集中の最終的な清算

液晶テレビ宣言と「世界の亀山」の登場

1998年に社長へ就いた町田勝彦氏は、『ブラウン管テレビをすべて液晶テレビに置き換える』と宣言した[131]。2000年の初めには『20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。』という広告を打ち[132]、革新的な企業という印象を作った。液晶テレビ『アクオス』で国内首位を取り、家電メーカーの中位に置かれていた同社は2000年以降トップメーカーへ躍り出ている[133]。関係者の多くが2000年代を『シャープにとって夢だった』と振り返る[134]時期であった。2000年代にトップメーカーへ躍り出た原動力は、液晶にあった[135]

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [131]1998年 町田勝彦社長が液晶テレビへの全面置き換えを宣言
    • [132]2000年初 「20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。」の広告で企業イメージを確立
    • [133]液晶テレビ「アクオス」で国内首位を獲得し、家電メーカー中位から2000年以降トップメーカーへ
    • [134]関係者が2000年代を「シャープにとって夢だった」と振り返る
    • [135]2000年以降の躍進の原動力となったのが液晶

経営陣は積極果敢な投資を矢継ぎ早に行った[136]。2000年代の半ばまでに三重県多気郡の三重第2・第3工場と三重県亀山市の亀山第1・第2工場へ、テレビ用液晶パネルの生産ラインだけで8000億円超を投じている[137]。象徴となったのが2004年1月に稼働した亀山第1工場[138]で、産地名がそのままブランドとなった『世界の亀山』は日本のものづくりのモデルとして扱われた[139]。2006年5月には亀山第2工場も建てている[140]。2005年3月期の連結売上高は2兆5397億円[141]に達している。液晶パネルから液晶テレビまでを一つの敷地で一貫生産する戦略[142]が当たり、2008年3月期には過去最高となる売上高3兆4177億円・純利益1019億円を計上した[143]

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [136]経営陣は積極果敢な投資を矢継ぎ早に行った
    • [137]2000年代半ばまでに三重第2・第3、亀山第1・第2へテレビ用液晶パネルの生産ラインに8000億円超を投資
    • [139]産地名がブランド化した「世界の亀山」が日本のものづくりのモデルとされた
    • [142]パネルからテレビまで一つの敷地で一貫生産する垂直統合戦略
    • [143]2008年3月期 過去最高の売上高3兆4177億円・純利益1019億円
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [138]2004年1月 三重県亀山市に液晶パネルの生産拠点として亀山工場を建設
    • [140]2006年5月 三重県亀山市に亀山第2工場を建設
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [141]2005年3月期 連結売上高 2兆5397億円

好調の裏で財務は痩せており、フリーキャッシュフローは営業利益が過去最高を更新した2007年3月期もマイナス[144]で、純利益が拡大していた2000年代前半を通じて純資産比率は一貫して低下している[145]。町田氏自身も社内では警戒を促しており、『ひょっとしたら液晶テレビというのはそんなに儲からない事業になるのではないか』[146]『最悪の場合、液晶テレビの収益率が悪い時代が来るかもしれない、それは覚悟しとけと言ってます』[147]と述べている。『だからどこにでもパネルは売ります、と言ってるんです』[148]と外販の構えにも触れていた。デジタル家電が有望商品なのかについても『僕は少し疑問に思っています』[149]と語っていた。

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [144]営業利益が過去最高を更新した2007年3月期もフリーキャッシュフローはマイナス
    • [145]純利益が拡大していた2000年代前半も一貫して純資産比率が低下
  • 週刊東洋経済 2004年3月27日号
    • [146]町田勝彦氏による液晶テレビの収益性への警戒
    • [147]町田勝彦氏が社内に収益率悪化への覚悟を促した
    • [148]パネルの外販方針についての町田勝彦氏の発言
    • [149]デジタル家電の有望性への疑問
  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [131]1998年 町田勝彦社長が液晶テレビへの全面置き換えを宣言
    • [132]2000年初 「20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。」の広告で企業イメージを確立
    • [133]液晶テレビ「アクオス」で国内首位を獲得し、家電メーカー中位から2000年以降トップメーカーへ
    • [134]関係者が2000年代を「シャープにとって夢だった」と振り返る
    • [135]2000年以降の躍進の原動力となったのが液晶
    • [136]経営陣は積極果敢な投資を矢継ぎ早に行った
    • [137]2000年代半ばまでに三重第2・第3、亀山第1・第2へテレビ用液晶パネルの生産ラインに8000億円超を投資
    • [139]産地名がブランド化した「世界の亀山」が日本のものづくりのモデルとされた
    • [142]パネルからテレビまで一つの敷地で一貫生産する垂直統合戦略
    • [143]2008年3月期 過去最高の売上高3兆4177億円・純利益1019億円
    • [144]営業利益が過去最高を更新した2007年3月期もフリーキャッシュフローはマイナス
    • [145]純利益が拡大していた2000年代前半も一貫して純資産比率が低下
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [138]2004年1月 三重県亀山市に液晶パネルの生産拠点として亀山工場を建設
    • [140]2006年5月 三重県亀山市に亀山第2工場を建設
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [141]2005年3月期 連結売上高 2兆5397億円
  • 週刊東洋経済 2004年3月27日号
    • [146]町田勝彦氏による液晶テレビの収益性への警戒
    • [147]町田勝彦氏が社内に収益率悪化への覚悟を促した
    • [148]パネルの外販方針についての町田勝彦氏の発言
    • [149]デジタル家電の有望性への疑問

堺への4,300億円と、外販の不発

2007年4月に社長へ就いた片山幹雄氏は、同年7月に大阪府堺市のコンビナート計画を発表した[150]。液晶パネル工場に約3800億円、最終的に約4300億円を投じ、亀山の四倍規模で世界初の第10世代のガラス基板を用いる[151]計画である。工場は2009年10月に稼働し[152]、2010年3月には同じ堺に太陽電池工場も建った[153]。堺は42インチ換算で年間1300万台のパネル生産能力[154]を持つ。片山氏は2008年に『(亀山第2など)既存のパネル工場だけで年間2000万台(32インチ換算)以上の生産能力がある。うちの液晶テレビ(アクオス)の販売台数を考えたら、それで今は足りる』[155]と明言しており、堺はテレビ販売でなくパネル外販で生きるという決断[156]でもあった。

  • AV Watch(2007年7月31日)
    • [150]2007年4月就任の片山幹雄社長が同年7月に堺のコンビナート計画を発表
  • 赤羽淳 シャープの設備投資戦略の検証(産業学会研究年報 第30号, 2015年)
    • [151]液晶パネル工場だけで約3800億円、最終的に約4300億円を投資し、亀山の約4倍規模で世界初の第10世代を採用
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [152]2009年10月 堺市堺区に液晶パネル工場を建設
    • [153]2010年3月 堺市堺区に太陽電池工場を建設
  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [154]堺工場は42インチ換算で年間1300万台の生産能力
    • [155]片山幹雄氏による既存パネル工場の生産能力に関する発言
    • [156]堺工場はテレビ販売ではなくパネル外販で生きる決断であった

安定した引き取り手を確保するため、2008年2月、シャープは液晶テレビで世界2位だったソニーと手を組み、堺工場にシャープが66%、ソニーが34%を出資して比率に応じたパネルの引き取り義務を設けることで合意[157]した。片山氏は『強いパートナーがいなければ、巨大な堺の新工場はリスクが大きすぎる』[158]と述べている。ところがソニーは2009年末に100億円を投じて堺工場の株7.04%を取得したにとどまり、その後は出資比率を上げなかった[159]。2012年にはソニーが堺工場の株をシャープへ売却し[160]、提携は解けている。

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [157]2008年2月 液晶テレビ世界2位のソニーと提携し堺工場にシャープ66%・ソニー34%を出資、比率に応じた引き取り義務を設定
    • [158]片山幹雄氏によるパートナー戦略の必要性に関する発言
    • [159]ソニーは2009年末に100億円を投じ堺工場株7.04%を取得したがその後は出資比率を上げなかった
    • [160]2012年 ソニーが堺工場の株をシャープへ売却

提携後の運用も外販を細らせており、堺が稼働した直後の2009年秋、国内ではエコポイント制度の導入で液晶テレビが売れに売れたなか、シャープはアクオス用のパネル生産を優先して納入遅延をたびたび起こしている[161]。ソニーの購入量は増えないまま取引はほとんど絶えた[162]。東芝など他の有力顧客に対しても需給が逼迫した時期に納入遅延を起こし、需給が緩和すると顧客の多くは離れた[163]。2012年3月期の堺工場の外販比率は約1割[164]にとどまる。パネル価格の下落も想像を超え、32インチのテレビ用パネルは2004年の約865ドルから2011年には約149ドルまで落ちた[165]

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [161]2009年秋のエコポイント制度導入時にアクオス用パネル生産を優先し納入遅延を繰り返した
    • [162]ソニーのパネル購入量は増えず現在はほとんど取引がない
    • [163]東芝など他の有力顧客にも納入遅延を起こし、需給緩和後に顧客の多くが離れた
    • [164]2012年3月期の堺工場の外販比率は約1割
    • [165]32インチのテレビ用パネル価格は2004年の約865ドルから2011年に約149ドルへ下落
  • AV Watch(2007年7月31日)
    • [150]2007年4月就任の片山幹雄社長が同年7月に堺のコンビナート計画を発表
  • 赤羽淳 シャープの設備投資戦略の検証(産業学会研究年報 第30号, 2015年)
    • [151]液晶パネル工場だけで約3800億円、最終的に約4300億円を投資し、亀山の約4倍規模で世界初の第10世代を採用
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [152]2009年10月 堺市堺区に液晶パネル工場を建設
    • [153]2010年3月 堺市堺区に太陽電池工場を建設
  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [154]堺工場は42インチ換算で年間1300万台の生産能力
    • [155]片山幹雄氏による既存パネル工場の生産能力に関する発言
    • [156]堺工場はテレビ販売ではなくパネル外販で生きる決断であった
    • [157]2008年2月 液晶テレビ世界2位のソニーと提携し堺工場にシャープ66%・ソニー34%を出資、比率に応じた引き取り義務を設定
    • [158]片山幹雄氏によるパートナー戦略の必要性に関する発言
    • [159]ソニーは2009年末に100億円を投じ堺工場株7.04%を取得したがその後は出資比率を上げなかった
    • [160]2012年 ソニーが堺工場の株をシャープへ売却
    • [161]2009年秋のエコポイント制度導入時にアクオス用パネル生産を優先し納入遅延を繰り返した
    • [162]ソニーのパネル購入量は増えず現在はほとんど取引がない
    • [163]東芝など他の有力顧客にも納入遅延を起こし、需給緩和後に顧客の多くが離れた
    • [164]2012年3月期の堺工場の外販比率は約1割
    • [165]32インチのテレビ用パネル価格は2004年の約865ドルから2011年に約149ドルへ下落

二度の巨額赤字と、鴻海傘下での再建

リーマンショック後のテレビ市場の縮小に円高という重荷が重なり[166]、液晶事業は減価償却の負担を売上で支えきれなくなった。2012年3月期の連結最終損益は3760億円の赤字となり[167]、2013年3月期にはさらに5453億円の赤字を計上している[168]。創業百周年にあたる2012年、現場は家電メーカー間の競争激化で苦境に陥り、社内の照明を消すといった細かな経費削減で乗り切ろうとしていた[169]。創業期から技術指導に関わった佐々木正氏はこれを『それは間違い。新たな産業を興すことを目指すべきだ』[170]と評している。主力取引銀行の緊急支援と増資で急場をしのいだが、直接金融で調達してきたコマーシャルペーパーへの依存が重荷となった[171]

  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [166]過酷な市場で戦う日本勢には円高という重荷もあった
    • [171]直接金融の手段であるコマーシャルペーパーへの依存が重荷となった
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [167]2012年3月期 連結最終損益 ▲3760億円
    • [168]2013年3月期 連結最終損益 ▲5453億円
  • 読売新聞(大阪・2012年9月15日)
    • [169]創業100周年の2012年、家電メーカー間の競争激化で苦境に陥り社内の照明を消すなど細かな経費削減で乗り切ろうとしていた
    • [170]佐々木正氏による節電型の延命策への苦言

鴻海精密工業との交渉は一度つまずいており、郭台銘董事長が2013年に奥田隆司社長と香港で会談した際は、市価での出資は認められず本体の経営にも参画できないという条件で破談[172]となった。その後シャープはサムスン電子と米クアルコムから出資を受けている[173]。赤字は止まらず、2015年3月期に2223億円、2016年3月期には2559億円の最終赤字を重ねた[174]。2016年1月に産業革新機構と大筋合意しながら、2月25日の取締役会でシャープは鴻海案を選ぶ[175]。同年8月、鴻海他3社への第三者割当増資[176]3888億円で議決権の約66%が移り[177]、株式は東京証券取引所市場第二部へ指定替えとなった[178]

  • 週刊東洋経済 2015年3月20日号
    • [172]郭台銘董事長が2013年に奥田隆司前社長と香港で会談したが、市価での出資と経営不参画という条件で破談
    • [173]破談後に韓国サムスン電子と米クアルコムが出資した
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [174]2015年3月期 ▲2223億円、2016年3月期 ▲2559億円の連結最終損益
  • 日本経済新聞 2016年2月25日
    • [175]2016年1月22日に産業革新機構と大筋合意、2月25日の取締役会で鴻海案を選択
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [176]2016年8月 鴻海精密工業他3社へ第三者割当増資
    • [178]2016年8月 東京証券取引所市場第二部銘柄へ指定替え
  • 日本経済新聞 2016年3月30日
    • [177]第三者割当増資3888億円で議決権の約66%を取得

鴻海から送り込まれた戴正呉氏は、社長決裁の基準額を1億円から300万円へ引き下げ、十を超えていた稟議の押印を三つに絞り、賞与に年一〜八カ月の格差をつけた[179]。2018年3月期には702億円の純利益を計上して四年ぶりに最終黒字へ戻り[180]、2017年12月には東京証券取引所市場第一部へ復帰している[181]。もっともディスプレイの赤字体質は解けず、2023年3月期に2608億円、2024年3月期に1499億円の純損失を重ねた[182]。2022年6月に液晶パネルを製造する堺ディスプレイプロダクトを子会社化していた[183]が、2024年5月、同社はその生産停止を発表し、8月に量産を終えている[184]。堺の用地は約1000億円でソフトバンクへ売却され、AIデータセンターへ転用[185]された。2025年3月期は361億円の純利益で3期ぶりの黒字へ戻り、2026年3月期も474億円の黒字[186]を確保している。

  • 日経BOOKプラス(2023年3月30日)(戴正呉『シャープ 再生への道』日本経済新聞出版)
    • [179]戴正呉氏が社長決裁の基準額を1億円から300万円へ引き下げ、稟議の押印を3つに絞り、賞与に年1〜8カ月の格差をつけた
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [180]2018年3月期 親会社株主に帰属する当期純利益 702億円(4年ぶりの最終黒字)
    • [182]2023年3月期 ▲2608億円、2024年3月期 ▲1499億円の連結最終損益
    • [186]2025年3月期 純利益361億円で3期ぶりの黒字、2026年3月期 純利益474億円
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [181]2017年12月 東京証券取引所市場第一部銘柄へ指定
    • [183]2022年6月 液晶パネルを製造する堺ディスプレイプロダクト㈱を子会社化
  • 日刊工業新聞(2024年5月14日)
    • [184]2024年5月14日 堺ディスプレイプロダクトの生産停止を発表し8月21日に量産終了
  • ソフトバンク「AIデータセンターの構築に向けた、シャープ堺工場の土地や建物の取得に関する決議について」(2024年12月20日・適時開示)
    • [185]堺の用地を約1000億円でソフトバンクへ売却しAIデータセンターへ転用
  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
    • [166]過酷な市場で戦う日本勢には円高という重荷もあった
    • [171]直接金融の手段であるコマーシャルペーパーへの依存が重荷となった
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
    • [167]2012年3月期 連結最終損益 ▲3760億円
    • [168]2013年3月期 連結最終損益 ▲5453億円
    • [174]2015年3月期 ▲2223億円、2016年3月期 ▲2559億円の連結最終損益
    • [180]2018年3月期 親会社株主に帰属する当期純利益 702億円(4年ぶりの最終黒字)
    • [182]2023年3月期 ▲2608億円、2024年3月期 ▲1499億円の連結最終損益
    • [186]2025年3月期 純利益361億円で3期ぶりの黒字、2026年3月期 純利益474億円
  • 読売新聞(大阪・2012年9月15日)
    • [169]創業100周年の2012年、家電メーカー間の競争激化で苦境に陥り社内の照明を消すなど細かな経費削減で乗り切ろうとしていた
    • [170]佐々木正氏による節電型の延命策への苦言
  • 週刊東洋経済 2015年3月20日号
    • [172]郭台銘董事長が2013年に奥田隆司前社長と香港で会談したが、市価での出資と経営不参画という条件で破談
    • [173]破談後に韓国サムスン電子と米クアルコムが出資した
  • 日本経済新聞 2016年2月25日
    • [175]2016年1月22日に産業革新機構と大筋合意、2月25日の取締役会で鴻海案を選択
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
    • [176]2016年8月 鴻海精密工業他3社へ第三者割当増資
    • [178]2016年8月 東京証券取引所市場第二部銘柄へ指定替え
    • [181]2017年12月 東京証券取引所市場第一部銘柄へ指定
    • [183]2022年6月 液晶パネルを製造する堺ディスプレイプロダクト㈱を子会社化
  • 日本経済新聞 2016年3月30日
    • [177]第三者割当増資3888億円で議決権の約66%を取得
  • 日経BOOKプラス(2023年3月30日)(戴正呉『シャープ 再生への道』日本経済新聞出版)
    • [179]戴正呉氏が社長決裁の基準額を1億円から300万円へ引き下げ、稟議の押印を3つに絞り、賞与に年1〜8カ月の格差をつけた
  • 日刊工業新聞(2024年5月14日)
    • [184]2024年5月14日 堺ディスプレイプロダクトの生産停止を発表し8月21日に量産終了
  • ソフトバンク「AIデータセンターの構築に向けた、シャープ堺工場の土地や建物の取得に関する決議について」(2024年12月20日・適時開示)
    • [185]堺の用地を約1000億円でソフトバンクへ売却しAIデータセンターへ転用

シャープの沿革1912〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
シャープ創業——金属繰出鉛筆から関東大震災を経て大阪のラジオメーカーへ金属加工の徒弟修業を積んだ19歳・早川徳次氏は、シャープペンシルの発明と震災後の大阪再起をどうラジオの国産化へ結びつけたか 詳細を読む★★★
機械とシャープペンシルの特許を手放しての債務清算と、大阪でのラジオ転身関東大震災で事業も家族も失った早川徳次氏は、なぜ自ら発明した特許を渡してまで大阪へ下ったか 詳細を読む★★★
機械とシャープペンシルの特許を手放しての債務清算と、大阪でのラジオ転身関東大震災で事業も家族も失った早川徳次氏は、なぜ自ら発明した特許を渡してまで大阪へ下ったか 詳細を読む★★★
早川徳次化(早川金属工業研究所を設立)
早川徳次早川電機工業に商号変更
早川徳次大阪証券取引所に株式上場
早川徳次RCAと業務提携・白黒テレビの生産開始★★
早川徳次総合家電メーカーを志向★★
早川徳次太陽電池の試作に成功
早川徳次東京証券取引所に株式上場
早川徳次トランジスタラジオの生産開始
早川徳次Sharp Electronics Corporationを設立
早川徳次地区販売会社の設立
早川徳次電子機卓上計算機CS-10Aを開発★★
早川徳次広島工場を新設
早川徳次テレビ工場を新設
佐伯旭商号をシャープに変更
佐伯旭シャープ総合開発センターを新設(半導体の内製化)
佐伯旭電卓の価格競争から降り、半導体と液晶という独自デバイスに賭けた転進安売り競争を続けるか、半導体と液晶という自前の技術に活路を求めるか——電卓戦争のさなかの選択 詳細を読む★★★
佐伯旭大型冷蔵庫工場を新設
佐伯旭創業者の早川徳次氏が逝去
佐伯旭葛城事業所を開設
佐伯旭福山工場を新設
辻晴雄液晶事業本部を発足
辻晴雄奈良第8工場を新設(複写機生産)
辻晴雄天理工場を新設(液晶パネル)
辻晴雄三重工場を新設(液晶パネル)
町田勝彦町田勝彦氏が社長就任・液晶テレビ宣言★★
町田勝彦液晶一貫生産「亀山モデル」への集中投資独自デバイスに一点集中で巨額を投じるか——液晶パネルからテレビまでを一つの工場に束ねた賭け 詳細を読む★★★
町田勝彦亀山第2工場を新設(大型液晶パネル)
片山幹雄堺・世界初の第10世代液晶パネル工場への集中投資勝ちパターンにさらに賭け増すか——亀山の成功に続き、外販前提の世界最大工場へ約4,300億円を投じるという選択 詳細を読む★★★
片山幹雄太陽電池工場を新設
髙橋興三過去最大の最終赤字転落
髙橋興三希望退職者の募集
戴正呉シャープ再建をめぐる産業革新機構の提案と鴻海による買収(2016年・官民ファンド案は破談)なぜ官民ファンドの再建案は白紙となり、シャープは大手電機で初めて外資の傘下に入ったのか? 詳細を読む★★★
戴正呉鴻海傘下での再建——戴正呉氏によるコスト構造と意思決定の作り直し日本的大企業の意思決定を、外資流にどう作り替えるか——鴻海傘下シャープの高速黒字化をめぐる判断 詳細を読む★★★
戴正呉東芝クライアントソリューションを子会社化(PC・Dynabook)
野村勝明ジャパンディスプレイ白山工場を取得
野村勝明NECディスプレイソリューションズを子会社化★★
沖津雅浩大型液晶パネルからの撤退——堺SDPの生産停止と亀山工場の清算社運を賭けた祖業級の事業を、どの時点で手放すか——亀山から堺へ積み上げた液晶一点集中の最終的な清算 詳細を読む★★★
沖津雅浩希望退職者の募集★★
出典・参考
  • シャープ 有価証券報告書 第131期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
  • 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • シャープ創業の経緯(自社解説・社内資料)
  • 実業の世界 1959年6月号
  • 月刊経済 1964年10月号
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本放送出版協会, 1986年)4章「3電子式卓上計算機」
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
  • シャープ 有価証券報告書(number_basis:半導体総合開発センター投資額)
  • 経済展望 1970年2月1日号
  • 日経ビジネス 1981年1月12日号
  • 日経ビジネス 1975年4月14日号
  • シャープ公式サイト 会社沿革(年表)
  • 読売新聞(1969年5月7日)
  • シャープ公式サイト「液晶電卓開発物語とその進化」
  • 日経ビジネス 1993年4月19日号
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号
  • 週刊東洋経済 2012年8月24日号
  • シャープ 有価証券報告書(連結損益計算書・各年度)
  • 週刊東洋経済 2004年3月27日号
  • AV Watch(2007年7月31日)
  • 赤羽淳 シャープの設備投資戦略の検証(産業学会研究年報 第30号, 2015年)
  • 読売新聞(大阪・2012年9月15日)
  • 週刊東洋経済 2015年3月20日号
  • 日本経済新聞 2016年2月25日
  • 日本経済新聞 2016年3月30日
  • 日経BOOKプラス(2023年3月30日)(戴正呉『シャープ 再生への道』日本経済新聞出版)
  • 日刊工業新聞(2024年5月14日)
  • ソフトバンク「AIデータセンターの構築に向けた、シャープ堺工場の土地や建物の取得に関する決議について」(2024年12月20日・適時開示)

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