重要な意思決定
1950

スピーカーPE-8を開発

背景

戦後復興期のスピーカー需要と工場建設の連続

1946年12月、松本望は「パイオニア」を商標登録した。戦前から個人経営で手がけてきたスピーカー製造を、戦後の新たな市場に向けて本格化させる意思表示だった。朝鮮戦争による特需ブームと民間放送局の開局ラッシュにより、スピーカーの需要は急速に拡大していた。1950年には音羽の第1工場隣接地に第2工場を建設し、1階を生産工場、2階に技術部と試聴室を設けた。1952年には第3工場、第4工場(メッキ工場)、続いて第5工場を建設し、第1工場の建設からわずか7年で5つの工場を擁するまでに成長した。

しかし急速な事業拡大は資金不足を招いた。増資による資金集めでも事業規模の拡大に追いつかず、受注残が多い一方で資金が不足し、物品税の滞納額は1000万円を超えるほどだった。富士銀行や三菱銀行などの取引先に加え、中小企業金融公庫からの融資も受けながら資金を繋いだ。1953年には資本金を480万円に増資したが、なお資金需要を満たせない状態が続いていた。

決断

PE-8の開発とパーマネント型スピーカーへの転換

この時期、福音電機の技術面での転機となったのがパーマネント型ダイナミックスピーカー「PE-8」の開発である。1950年、NHK技術研究所の協力を得て、MK-5というマグネットを使用したパーマネント型スピーカーの開発に着手した。当時のスピーカーは電磁石を利用するフィールド型が一般的だったが、永久磁石を用いるパーマネント型は電源不要で軽量という利点があった。PE-8は当初NHKのモニタースピーカーとして研究開発され、専門家向けに販売を経て、1952年11月に一般市販向けの宣伝を開始した。

PE-8は周波数特性の優秀さと過渡特性の良さで前評判を上回る人気を得た。業界紙「電波新聞」には海外の同種製品と同一水準に達しているとの評価が掲載され、雑誌「ラジオ技術」でも高音と低音のバランスが評価された。PE-8の完成時には、すでにアメリカやイギリスからハイファイ用スピーカーが輸入され始めており、フリーエッジスピーカーが人気を集めていた。福音電機はPE-8に続いて低音用のPW-12A、高音用のPW-15Aなどを開発し、さらに全帯域忠実再生を目指したメカニカルスピーカーシリーズ、コアキシャル型のPAX-12Aなどを市販して、Hi-Fiという言葉の定着と普及に貢献した。

結果

部品メーカーから音響総合メーカーへの基盤形成

所沢工場の新設はスピーカー事業のさらなる拡大を象徴していた。1960年に開設された所沢工場はスピーカーの量産工場として稼働し、やがて世界一の生産量を誇るスピーカー工場となった。国内市場のシェアは25%に達した。一方、アンプ部門でも大森工場を新設し、本格的な生産を開始した。昭和30年代前半には、福音電機はすでに単なる部品メーカーから脱却し、音響の総合メーカーとしての基盤を固めつつあった。

1962年11月の第16期営業報告書は、パイオニアの将来方向を「部品メーカーからさらに総合音響メーカーとして業界に独自な地位を確立すべく、新製品の開発、国内、国外に対する新市場の拡充等を社の基本方針」と明記した。戦後わずか15年で、音羽の小さな工場から所沢・大森を含む複数拠点を持つ音響メーカーへと成長したパイオニアは、1961年の東証2部上場を経て、セパレートステレオ時代への参入準備を整えていた。