歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1917年、菓子の原料に使う輸入練乳が為替変動と輸送遅延に振り回されることを嫌い、森永太一郎が原料の内製化を狙って森永製菓の関連会社・日本煉乳を起こした。最初の顧客は親会社の菓子工場で、練乳を安定して自給できたからこそ事業が立ち上がった。この自給で得た製造技術をもとに、1919年の小缶練乳に続いて牛乳・チーズ・発酵乳へと品揃えを広げ、戦前のうちに乳製品をひと通り揃えるメーカーへ育っていった。
決断戦後の家庭用乳業は明治・雪印との3強競争で、規模を広げても森永が先頭に立てる土俵ではなかった。そこで1977年のビヒダス発売を境に、量の勝負を避け、ビフィズス菌という菌種で差別化する独自路線を選んだ。社内に菌研究を蓄え、1993年には低リンミルクがトクホ第1号の認可を受ける。規模競争の外側で稼ぐこの判断が、機能性の高付加価値品で利益率を保つ今の収益構造につながっている。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1917年〜1953年 練乳の国産自給から戦時統合と独立再出発
森永製菓の輸入練乳代替として発足した日本煉乳
森永乳業の歴史は、1917年9月の日本煉乳株式会社設立に始まる[1]。森永製菓の創業者である森永太一郎氏が、菓子原料として依存していた輸入練乳の自給を目的に、関連会社として設立したのが発端であった。当時の練乳市場は欧米メーカーから輸入される缶詰品が中核で、菓子メーカーにとっては為替変動と輸送遅延の影響を直接受ける構造的弱点になっていた。森永製菓本体が原料を内製化する道を選び、独立法人として工場経営を任せる形を取った。
1919年5月に小缶煉乳「森永ミルク」を発売したが、単独経営は長続きせず、翌1920年7月に森永製菓本体へ吸収合併され、同社の畜産部(のち煉乳部)として再編された[2][3]。それから1921年11月に森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売し、輸入品が主流だった粉ミルク市場に国産品の選択肢を投入する[4]。この時点で森永の乳業事業は、菓子原料の自給から育児用品の供給へと需要対象を広げ、戦前日本の乳製品消費が拡大する局面に重なって伸びた。
1927年9月、森永製菓の煉乳部は再び分離独立して森永煉乳株式会社となる[5]。事業規模が菓子事業の従属では収まらなくなり、独立採算の方が経営判断を機動的に下せると判断されたためである。設立当初は缶詰煉乳と粉乳が主力だったが、1929年12月に森永牛乳、1933年9月に森永チーズ、1937年7月に森永ヨーグルトと、戦前のうちに液体乳・チーズ・発酵乳まで品揃えを揃え、乳製品フルラインの原型を10年で組み上げた[6][7][8]。
戦時統合で消えた森永煉乳と1949年の独立再設立
1941年5月、森永煉乳株式会社は森永乳業株式会社へ社名を変更した[9]。煉乳に限定された社名から乳業全般を扱う名称への切替で、戦前の品揃え拡張を経営の前提として明示した格好になった。だが翌1942年10月、戦時下の企業統合政策の下で森永乳業は再び森永製菓と合併させられ、独立法人としての森永乳業は5年と経たずに消滅する[10]。1943年11月には、合併後の森永製菓自体も森永食糧工業株式会社へ改称された[11]。食糧統制経済の中で、菓子と乳業を別法人で運営する余地は失われていた。
戦中の食糧難で乳製品供給は配給制度に組み込まれ、設備の更新も新規投資も止まる。森永乳業の名前と独立体としての経営判断は、1945年の敗戦をまたいで4年間、空白のまま放置された。再出発は戦後復興期の食糧需要回復を待った。1947年6月に森永アイスクリームを発売し、戦前のフルライン構成を再構築する助走に入った[12]。
そして1949年4月、森永乳業株式会社が再び設立された[13]。戦前1927年に独立した森永煉乳の系譜を引き継ぎつつ、戦時統合の中断を経た再独立であった。初代社長には松崎半三郎氏が就いた。前年に再独立した森永製菓(菓子事業)と並ぶ姉妹会社の関係で、森永グループとしての二本柱体制を戦後復興期に再構築する形になった。1952年に2代社長森永太平氏、1953年には3代に向け体制を整えていく。
1954年〜1999年 戦後復興から全国工場網と機能性乳業への先行投資
東証上場と60〜70年代の全国工場展開で築いた量産体制
戦後復興期の乳製品需要拡大を捉え、森永乳業は1954年9月に東京証券取引所へ株式上場した[14]。再独立から5年での上場で、公開市場からの資金調達を伴う設備拡張の準備にあたった。3代大串松次氏(1956〜1960年)、4代大野勇氏(1960〜1974年)の体制で、戦後の家庭用乳製品市場の拡大に合わせて全国に主力工場を順次開設していく。
1961年4月にクリープ(粉末クリーム)を発売、コーヒー用クリーマーという新カテゴリを切り拓いた[15]。生産拠点では、1966年1月に名古屋市乳工場(現中京工場)、同年2月に東京多摩工場、1970年6月に大和工場および村山工場、1973年2月に利根工場、1975年10月に別海工場と、9年間に6箇所の主力工場を稼働させた[16]。明治乳業・雪印乳業と並ぶ乳業3強の一角として、家庭用牛乳・ヨーグルト・粉ミルク・アイスクリームの量産網を全国で整備した時期にあたる。
販売面では1967年10月に森永商事の乳製品販売部門を譲り受けて販社機能を内製化し、1970年2月に米国クラフト社(現クラフト・ハインツ)と業務提携を結んでチーズ事業を強化、1970年2月にはチーズ専業のエムケーチーズを連結子会社として設立した[17][18][19]。1971年12月にサンキストグローワーズ社と商標使用契約を結び、果汁飲料分野にも事業領域を広げる[20]。1981年4月のロングライフ乳飲料「ピクニック」、1984年9月のリプトン社との商標使用契約と、提携と新製品で品揃えを拡張する経営判断が続いた[21][22]。
1977年ビヒダス発売とビフィズス菌特化の独自路線
森永乳業の戦後経営を他の乳業大手と分けたのが、1977年6月の森永ビヒダス発売である[23]。ビフィズス菌入り乳製品という独自カテゴリを業界で先行して立ち上げ、これ以降ビフィズス菌研究と機能性乳製品への投資が主力事業の一つとなった。明治乳業がブルガリアヨーグルト(1973年)で先発した発酵乳市場に、菌種で差別化する形で後発参入した。5代稲生平八氏(1974〜1979年)から6代門前貢氏(1979〜1985年)への代替わり期、機能性カテゴリの育成が経営の主題に組み込まれた。
1985年に7代大野晃氏が社長に就任し、18年間(〜2003年)の長期体制で機能性研究と海外拠点設立を主導した。1985年5月、Morinaga Nutritional Foods, Inc.(米国)を連結子会社として設立、北米市場での豆腐・植物性食品ビジネスに着手する[24]。1989年10月には研究・情報センターを開設し、ビフィズス菌・乳酸菌・乳タンパクの基礎研究を社内に集約した[25]。
機能性研究への投資は1993年に成果として表れる。同年2月に「マウントレーニア・カフェラッテ」(カップ入り乳飲料)が発売され、コンビニ向け常温販売チャネルで定番化した[26]。同年6月には低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品(トクホ)の第1号として厚生省から許可を受けた[27]。トクホ制度開始と同時の第1号認可は、機能性表示分野での先行者の立場を行政的に裏付けるものとなり、後年の機能性表示食品制度(2015年導入)でも先行優位を取る基盤となる。
戦後3強の量産競争と機能性研究の二刀流戦略
戦後の量産網拡大と機能性研究投資は、表面上は別の経営テーマに見えるが、実は同じ意思決定の二面であった。量産網は乳業3強の規模競争に応える基盤で、機能性研究は規模競争の外側で差別化を確立する保険である。1985年からの大野晃体制が18年続いたのは、この二面戦略が短期で結果を出す性質ではなく、長期で評価される判断だったためである。
ただし量産競争の側では明治乳業との売上格差が縮まらない構造が残った。明治乳業(後の明治HD)は粉ミルク・チーズ・市販牛乳のいずれでも国内首位を維持し、森永乳業は2位・3位の間を行き来する位置に固定された。1990年代後半に国内乳業市場が成熟化に向かう中で、規模だけでは差別化が立たない状況がさらに強まり、機能性カテゴリへの傾斜が経営判断として正当化された格好になった。
2003年に大野晃氏が退任し、8代古川紘一氏(2003〜2012年)が社長に就いた。在任18年の長期体制から代替わりした古川社長は、機能性研究の資産を活用して新製品サイクルを加速させる方針を取り、2003年4月の「ラクトフェリンの工業的な製造法の開発」が文部科学大臣賞を受賞した[28]。乳タンパクの分離精製技術が表彰された形で、機能性素材ビジネスへの第一歩となる。
2000年〜2025年 国内縮小下の機能性表示と海外M&Aによる事業領域拡張
国内縮小と機能性表示食品制度を活用した成長軸の再定義
2000年代に入ると、国内乳業市場は少子化と牛乳消費減で縮小に転じた。乳業3強の規模競争という戦後の枠組みが意味を失い、機能性カテゴリでの差別化が森永乳業の事業継続の前提になった。2005年3月に冨士乳業(現冨士森永乳業)三島工場の新製造棟が稼働、同年4月に全国の販売子会社9社をデイリーフーズ(現森永乳業販売)に吸収合併する販売網再編、2006年1月の神戸工場開設と、国内生産・販売の効率化を並行して進めた[29][30][31]。
8代古川紘一氏から、2012年に9代宮原道夫氏(2012〜2021年)への代替わりがあった。宮原氏の在任9年は、機能性表示食品制度(2015年導入)を捉えてビヒダス・トリプルヨーグルトを成長軸に据える時期と重なる。1977年のビヒダス発売以来35年以上蓄積してきたビフィズス菌研究の資産が、機能性表示の登録制度と結びつき、消費者向け訴求の幅を広げた。2014年10月には森永北陸乳業福井工場で菌末の製造を開始し、機能性素材を社内BtoB供給する体制も整えた[32]。
海外展開も2010年代前半から拡張した。2012年5月にドイツのMILEI GmbHを完全子会社化し、欧州で乳清タンパク・粉乳の生産拠点を取得、2015年12月にシンガポールにMorinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.を設立して東南アジア統括拠点を立ち上げた[33][34]。2016年10月にはMILEIドイツ新棟が稼働、2017年3月にパキスタンのNutriCo Morinaga(合弁)設立で南アジア乳児粉ミルク市場に参入する[35][36]。2017年9月、森永乳業は創業100周年を迎えた[37]。
2020年代の海外M&A集中と国内事業の再編
10代大貫陽一氏が2021年6月に社長に就任した[38]。任期の柱はM&Aを通じた海外事業の拡張で、2021年1月にベトナムElovi Vietnam Joint Stock Company(現Morinaga Nutritional Foods Vietnam)を連結子会社化、2022年4月に東証プライム市場へ移行、2023年1月にはパキスタンNutriCo Morinagaの株式を追加取得して連結子会社化した[39][40][41]。同年2月にプラントベース食品大手の米Turtle Island Foods Holdings, Inc.(Tofurkyブランド)を子会社化、5月にはベトナムMorinaga Le May Vietnamを連結子会社化と、わずか3年で東南アジア・北米のM&Aを集中させた[42][43]。
大貫社長は経営方針について「乳で培った技術を活かし、私たちならではの商品をお届けすることで健康で幸せな生活に貢献し豊かな社会をつくる」と述べている。
戦前から戦後の量産期を経て蓄積したビフィズス菌・乳タンパクの研究資産を、地理的にも領域的にも応用範囲を広げる経営判断と整理できる。財務面では、FY24(2025年3月期)の連結売上高5,612億円・営業利益297億円となり、FY11の売上5,783億円から実額の売上規模はほぼ横ばいの推移にとどまる。営業利益率は2010年代前半の1〜2%台から2020年代の5%前後へ改善し、機能性高付加価値品への構成シフトが利益率には反映された。
機能性研究の蓄積に対する規模差の構造課題
森永乳業の2025年時点の経営課題は、機能性カテゴリでの先行優位と業界規模の格差の同居である。FY24の特別損失計上で純利益は54億円まで縮み、FY11の46億円とほぼ同水準に戻った。
業界規模では、明治HDが食品セグメントだけで森永乳業の連結売上を上回る規模を持ち、海外粉ミルク市場ではダノン・ネスレが規模で先行する。森永乳業は1977年のビヒダス発売以来、規模競争に距離を置いて機能性カテゴリの先行者として独自カテゴリを切り開く戦略を取ってきたが、国内市場縮小の局面では、機能性で取った先行優位を海外でも維持できるかが事業継続の前提になる。2023年のTurtle Island Foods買収によるプラントベース食品参入も、乳業の枠を超えた領域での先行優位の再構築という意味合いを持つ[44]。
10代大貫陽一氏の体制で集中させた海外M&Aと、戦前1917年の日本煉乳設立以来100年超にわたって蓄積した機能性研究の資産が、業界規模での明治HDとの2倍格差を縮める方向に作用するのか、それとも研究資産の独自性で規模の不利を相殺し続ける方向に作用するのか[45]。森永乳業の今後10年の経営判断は、この二択の選別を迫られる位置にある。