森永乳業 の歴史

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1917年、森永太一郎氏が神奈川県逗子町に日本煉乳を設立。森永ドライミルク、森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制、クリープ、ビヒダス、マウントレーニアまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1917年

創業者

森永太一郎

創業地

神奈川県逗子町

直近売上高(2026/3)

5,715億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1917年に森永製菓は自前で日本煉乳を起こしたのか
A 菓子の原料に使う輸入練乳が為替変動と輸送遅延に振り回されるのを嫌い、原料の内製化を狙ったためである。森永製菓は1917年9月、千葉の愛国練乳合資会社を買収して傍系の日本煉乳を資本金30万円で設立し、最初の顧客を親会社の菓子工場に置いた。練乳を安定して自給できたからこそ事業が立ち上がり、この製造技術を土台に1919年の小缶煉乳、牛乳・チーズ・発酵乳へと品揃えを広げ、戦前のうちに乳製品をひと通り揃えるメーカーへ育った
Q なぜ1977年に森永はビフィズス菌の独自路線へ進んだのか
A 戦後の家庭用乳業は明治・雪印と並ぶ3強の規模競争で、量を広げても森永が先頭に立てる土俵ではなかった。そこで規模の外側で差別化する道を選び、1969年に発見したビフィズス菌BB536を1971年に日本で初めて乳製品へ応用し、1977年6月の森永ビヒダス発売で菌種という独自カテゴリを業界で先行して立ち上げた。研究投資は1993年の低リンミルクL.P.Kがトクホ第1号の認可を受ける形で実を結び、規模競争に距離を置いて高付加価値で稼ぐ今の収益構造の原型となった
Q なぜ2021年以降の大貫陽一体制で海外M&Aと植物性食品へ振り向けたのか
A 国内乳業市場が少子化と牛乳消費減で縮み、規模競争の枠組みが意味を失ったためである。2021年6月に社長へ就いた大貫陽一氏は3年で海外M&Aを集中させ、ベトナムのElovi VietnamとパキスタンのNutriCo Morinagaを連結子会社化して東南アジア・南アジアの乳児粉ミルクを取り込んだ。2023年には米Turtle Island Foods(Tofurkyブランド)を買収して乳業の外のプラントベース食品へ参入し、国内で蓄えた研究資産を海外と植物性という新しい売り場へ一度に振り向けた

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1917年〜 森永製菓との分離と合併を繰り返した乳業部門

  1. 1917年 日本煉乳設立
  2. 1919年 小缶煉乳森永ミルクを発売
  3. 1920年 森永製菓と合併
  4. 1921年 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
  5. 1927年 森永煉乳を設立
  6. 1929年 森永牛乳を発売
  7. 1941年 森永煉乳を森永乳業に商号変更

輸入練乳の代替として発足した日本煉乳

1917年9月、森永製菓は千葉県安房郡にあった愛国練乳合資会社を買収し[1]、その傍系会社として日本煉乳株式会社を東京市芝区田町に資本金30万円で設立した[2][3]。森永乳業の製酪事業は、この千葉県での酪農起業にさかのぼる[4]。初代社長には松崎半三郎氏が就き[5]、乳業部門の育成にあたった。翌1918年には静岡県田方郡に錦田工場を開設した[6]が、この頃は千葉県で原料乳の争奪が激しく、1919年3月に日本煉乳は吉尾・勝山の両工場を房総練乳へ統合した[7]。1919年5月には小缶煉乳の森永ミルクを発売した[8]。その後も併合と分離を繰り返しながら日本煉乳は規模を広げた[9]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1917年9月 森永製菓が愛国練乳合資会社を買収し傍系会社日本煉乳を設立
    • [2]日本煉乳の設立地 東京市芝区田町・資本金30万円
    • [5]日本煉乳の初代社長 松崎半三郎
    • [6]1918年 静岡県田方郡に錦田工場を開設
    • [7]1919年3月 千葉県の原料乳争奪を受け吉尾・勝山両工場を房総練乳へ統合
    • [9]併合と分離を繰り返しながら日本煉乳が規模を拡大
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年9月 日本煉乳株式会社設立
    • [8]1919年5月 小缶煉乳森永ミルクを発売
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [4]森永乳業の製酪事業は1917年に千葉県で酪農を興した日本煉乳に始まる

日本煉乳は1920年7月に森永製菓へ合併され、同社の畜産部となった[10]。同じ1920年末、錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造が始まり[11]、1921年11月から森永ドライミルクとして売り出した[12]。育児用粉乳の国産化はここから始まり、翌1922年末には傍系会社を含む一日平均受乳量が100石に達した[13]。1923年9月の関東大震災では本社と工場の被害は軽微で、日比谷公園と芝公園でのミルク接待[14]、芝田町・大崎両工場での近隣者と通行人へのミルク接待、三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックでの老幼輸送を実施した[15]。大正末期の半期売上高は130万円強[16]となった。

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1920年7月 森永製菓と合併し同社畜産部となる
    • [12]1921年11月 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]1920年末 錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造を開始
    • [13]1922年末 傍系会社を含む一日平均受乳量100石
    • [14]関東大震災での本社・工場の被害は軽微・日比谷公園と芝公園でのミルク接待
    • [15]関東大震災での救済 三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックによる老幼輸送
    • [16]大正末期の半期売上高 130万円強

1924年には平塚、北海道奈井江の空知、北海道常呂郡の野付牛の各工場が完成[17]し、粉乳と練乳の大規模な製造が始まった。九州でのドライミルク販売行脚を終えた社員は、ただちに北海道の市場開拓へ向かった[18]。関東大震災の直後はキャラメルに切符を渡すほどの好況だったが、消費インフレが去ると売れ行きは急落した[19]。行き詰まりを打開するためミルクの販売活動隊が組織され、活動写真を映しながらサンプルケースを持って各地を売り歩いた[20]。隊は運転手が映写技師を兼ね、一人が国産奨励輸入防遏の演説をし、もう一人が無声映画の活弁をつとめる三人一組[21]で、愛知を皮切りに熊本・鹿児島・宮崎を回った[22]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [17]1924年 平塚・空知(北海道奈井江)・野付牛(北海道常呂郡)の各工場が完成し粉乳・練乳の大規模製造を開始
    • [18]九州のドライミルク販売行脚を終えたのち北海道の市場開拓へ出発
    • [19]関東大震災直後の消費インフレとその反動での売れ行き急落
    • [20]打開策としてのミルク販売活動隊の組織と活動写真による行商
    • [21]販売活動隊の構成 運転手兼映写技師・国産奨励輸入防遏の演説・無声映画の活弁の三人一組
    • [22]販売活動隊の巡回先 愛知・熊本・鹿児島・宮崎
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1917年9月 森永製菓が愛国練乳合資会社を買収し傍系会社日本煉乳を設立
    • [2]日本煉乳の設立地 東京市芝区田町・資本金30万円
    • [5]日本煉乳の初代社長 松崎半三郎
    • [6]1918年 静岡県田方郡に錦田工場を開設
    • [7]1919年3月 千葉県の原料乳争奪を受け吉尾・勝山両工場を房総練乳へ統合
    • [9]併合と分離を繰り返しながら日本煉乳が規模を拡大
    • [11]1920年末 錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造を開始
    • [13]1922年末 傍系会社を含む一日平均受乳量100石
    • [14]関東大震災での本社・工場の被害は軽微・日比谷公園と芝公園でのミルク接待
    • [15]関東大震災での救済 三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックによる老幼輸送
    • [16]大正末期の半期売上高 130万円強
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年9月 日本煉乳株式会社設立
    • [8]1919年5月 小缶煉乳森永ミルクを発売
    • [10]1920年7月 森永製菓と合併し同社畜産部となる
    • [12]1921年11月 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [4]森永乳業の製酪事業は1917年に千葉県で酪農を興した日本煉乳に始まる
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [17]1924年 平塚・空知(北海道奈井江)・野付牛(北海道常呂郡)の各工場が完成し粉乳・練乳の大規模製造を開始
    • [18]九州のドライミルク販売行脚を終えたのち北海道の市場開拓へ出発
    • [19]関東大震災直後の消費インフレとその反動での売れ行き急落
    • [20]打開策としてのミルク販売活動隊の組織と活動写真による行商
    • [21]販売活動隊の構成 運転手兼映写技師・国産奨励輸入防遏の演説・無声映画の活弁の三人一組
    • [22]販売活動隊の巡回先 愛知・熊本・鹿児島・宮崎

森永煉乳の分離独立と北海道興農公社への統合

大正末から昭和初年の森永製菓は、増資と設備投資が経営を圧迫し、世界的な不況が重なって苦境にあった[23]。この二重苦のなかで菓子と乳業を切り離す判断が下され[24]、1927年4月には滋養飲料の森永コーラスを新発売して飲用牛乳普及の大キャンペーンを打ち[25]、同年9月15日に森永煉乳株式会社が資本金150万円で発足した[26][27]。社長には森永太一郎氏、専務には松崎半三郎氏、常務には畜産部長だった中村芳三氏と三菱銀行頭取瀬下清氏の推挙による伊藤律太郎氏[28]が就いた。野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里の六工場[29]を製菓から継承した。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [23]大正末〜昭和初年の森永製菓の苦境 増資・設備投資による圧迫と世界的不況の二重苦
    • [24]二重苦に悩む森永製菓による乳業の分離独立という判断
    • [26]1927年9月15日 森永煉乳株式会社の設立
    • [28]森永煉乳の役員 社長森永太一郎・専務松崎半三郎・常務中村芳三・常務伊藤律太郎(三菱銀行頭取瀬下清の推挙)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [25]1927年4月 滋養飲料 森永コーラスを新発売し飲用牛乳普及の大キャンペーンを実施
    • [27]1927年9月 森永製菓から森永煉乳を分離独立させ資本金150万円で発足
    • [29]森永煉乳が継承した六工場 野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里

独立後の森永煉乳は缶詰の煉乳と粉乳を主力としたが、1929年末に平塚工場で瓶詰め牛乳の製造を始めたのを機に牛乳部を開設[30]し、翌1930年3月以降は東京で初めての市乳を売り出した[31]。品目は1929年12月に森永牛乳[32]、1933年9月に森永チーズ[33]、1937年7月に森永ヨーグルト[34]と広がり、戦前のうちに液体乳・チーズ・発酵乳まで揃った。1933年半ばからはスイス・イギリス・オランダなど酪農先進国から新鋭機械[35]を輸入した。1936年に着工し翌1937年に完成した森永東北農産工業は、福島に地元資本を加えて設立した牛乳・肉・果物の缶詰工場[36]で、北海道酪連の統制で北海道に工場を建てられなくなったことと、東北農村の振興を助ける狙いから場所を選んだ[37]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [30]1929年末 平塚工場でのビン詰め牛乳製造開始と牛乳部の開設
    • [31]1930年3月以降 東京で初めての市乳を発売
    • [35]1933年半ば以降 スイス・イギリス・オランダなど酪農先進国からの新鋭機械導入
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1929年12月 森永牛乳を発売
    • [33]1933年9月 森永チーズを発売
    • [34]1937年7月 森永ヨーグルトを発売
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [36]1936年着工・1937年完成の森永東北農産工業(福島)と牛乳・肉・フルーツ缶詰の3設備
    • [37]東北を選んだ理由 北海道は酪連の統制で工場建設ができず、東北農村振興の一助とするため

1940年、森永は北海道のすべての工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ[38]、東京の市乳事業を東京乳業へ現物出資した[39]。当時の森永と明治の生産比率は北海道7・内地3[40]で、両社とも強く難色を示したが、戸塚北海道長官からの申し入れを受けた松崎半三郎社長の決断で合同が決まった[41]。公社は1941年4月1日に発足し、1950年に集中排除法を受けて組織が変わるまで続いた[42]。1941年5月には森永煉乳を森永乳業株式会社へ改称した[43]が、その翌1942年10月には森永製菓に合併されて生産第二部(乳業部)となり[44]、1943年11月には森永製菓自体が森永食糧工業株式会社へ改称した[45]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [38]1940年 北海道の全工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ現物出資
    • [40]当時の明治・森永の生産比率 北海道7・内地3
    • [41]戸塚北海道長官の申し入れと松崎半三郎社長の決断による合同の決定
    • [42]北海道興農公社の法律上の開始日 1941年4月1日・1950年の集中排除法による組織変更まで存続
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [39]戦時統制の強化に伴い東京の市乳事業を東京乳業に現物出資
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1941年5月 森永煉乳を森永乳業株式会社に改称
    • [44]1942年10月 森永製菓と合併
    • [45]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社に改称
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [23]大正末〜昭和初年の森永製菓の苦境 増資・設備投資による圧迫と世界的不況の二重苦
    • [24]二重苦に悩む森永製菓による乳業の分離独立という判断
    • [26]1927年9月15日 森永煉乳株式会社の設立
    • [28]森永煉乳の役員 社長森永太一郎・専務松崎半三郎・常務中村芳三・常務伊藤律太郎(三菱銀行頭取瀬下清の推挙)
    • [36]1936年着工・1937年完成の森永東北農産工業(福島)と牛乳・肉・フルーツ缶詰の3設備
    • [37]東北を選んだ理由 北海道は酪連の統制で工場建設ができず、東北農村振興の一助とするため
    • [38]1940年 北海道の全工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ現物出資
    • [40]当時の明治・森永の生産比率 北海道7・内地3
    • [41]戸塚北海道長官の申し入れと松崎半三郎社長の決断による合同の決定
    • [42]北海道興農公社の法律上の開始日 1941年4月1日・1950年の集中排除法による組織変更まで存続
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [25]1927年4月 滋養飲料 森永コーラスを新発売し飲用牛乳普及の大キャンペーンを実施
    • [27]1927年9月 森永製菓から森永煉乳を分離独立させ資本金150万円で発足
    • [29]森永煉乳が継承した六工場 野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里
    • [30]1929年末 平塚工場でのビン詰め牛乳製造開始と牛乳部の開設
    • [31]1930年3月以降 東京で初めての市乳を発売
    • [35]1933年半ば以降 スイス・イギリス・オランダなど酪農先進国からの新鋭機械導入
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1929年12月 森永牛乳を発売
    • [33]1933年9月 森永チーズを発売
    • [34]1937年7月 森永ヨーグルトを発売
    • [43]1941年5月 森永煉乳を森永乳業株式会社に改称
    • [44]1942年10月 森永製菓と合併
    • [45]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社に改称
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [39]戦時統制の強化に伴い東京の市乳事業を東京乳業に現物出資

1944年〜 三度目の独立、東証上場と粉乳中毒事件からの再建

森永乳業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1947年 森永アイスクリームを発売
  2. 1949年 森永乳業設立
  3. 1954年 東京証券取引所に株式上場
  4. 1955年 森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制の確立 自らの製品が生んだ被害に、会社はいつ、どこまで責任を引き受けたか

戦後の独立再設立と1954年の東証上場

森永製菓の乳業部は1947年6月に森永アイスクリームを発売[46]した。戦後の経済回復に伴い独立した形で製酪業を立て直す必要が生じ、森永はまず東京乳業から目黒工場の返還を受け[47]、1949年4月13日に資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立した[48][49]。社長には松崎半三郎氏が就いた[50]。当初は目黒工場での市乳生産で発足し[51]、同年9月に資本金を7000万円へ増額、同年10月には森永食糧工業から改称した森永製菓の乳業部を営業ごと継承した[52]。1950年10月には森永製菓から賃借していた工場設備資産を譲り受け[53]、この間に北海道をはじめ各地で工場を買収または新設して総合的な乳製品事業を始めた[54]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1947年6月 森永アイスクリームを発売
    • [49]1949年4月 森永乳業株式会社設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [47]経済の回復に伴い独立形態で製酪業の復興に当たる必要が生じ、東京乳業から目黒工場の返還を受けた
    • [48]1949年4月13日 資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立
    • [50]1949年設立時の社長 松崎半三郎
    • [51]当初は目黒工場における市乳の生産をもって発足
    • [52]1949年9月 資本金7000万円へ増資・同年10月 森永製菓乳業部の営業一切を継承
    • [53]1950年10月 森永製菓から賃借中の工場設備資産を譲受
    • [54]北海道はじめ各地での工場の買収・新設による総合的乳製品事業の開始

1954年4月1日に資本金は4億6500万円となり[55]、同年9月1日に東京証券取引所へ株式を上場した[56]。上場時点で工場は24を数え、六大都市を中心とする8工場が市乳とアイスクリームを、全国の酪農地帯にある地方16工場が乳製品を作っていた[57]。従業員は1442名で[58]、社長は森永太平氏、専務は大野勇氏であった[59]。生産原価金額でみた製品構成は乳製品が71%を占め、うち粉乳が42%強、煉乳が20%、バターが8%[60]で、粉乳の比重の高さから「ドライの森永」と呼ばれた[61]。育児用のドライミルクは全国生産の約半分[62]を占めていた。

  • 証券 1954年(10)(63)
    • [55]1954年4月1日 資本金4億6500万円
    • [57]1954年時点の工場24・六大都市中心の8工場が市乳とアイスクリーム・地方16工場が乳製品
    • [58]1954年時点の従業員1442名
    • [59]1954年時点の社長 森永太平・専務 大野勇
    • [60]生産原価金額比の製品構成 乳製品71%・粉乳42%強・煉乳20%・バター8%
    • [61]粉乳の比重の高さから業界大手4社中で「ドライの森永」と称された
    • [62]育児用ドライミルクは全国生産の約半分を占めた
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1954年9月 東京証券取引所に株式上場

森永は1940年11月にビタミン入りドライミルクを創製発売[63]し、ビタミン強化粉乳の先駆けとなった。戦後の1952年には市乳の新製品としてビタミン入りホモ牛乳を売り出した[64]。平塚・松本の両工場には超高速度粉乳製造装置のロケットミルクプラントを据えて育児用粉乳の量産に成功し[65]、1953年12月には母乳と均質のビタミン入りベータドライミルクを完成させた[66]。乳糖を加熱してβ乳糖に転化させたものを加え、従来の粉乳では3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える[67]製品であった。1955年3月期の売上高は45億円に達し、工場は全国27を数えた[68]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [63]1940年11月 ビタミン入ドライミルクを創製発売
    • [64]1952年 市乳の新製品としてビタミン入ホモ牛乳を発売
    • [65]平塚・松本両工場へのロケットミルクプラント(超高速度粉乳製造装置)設置と育児用粉乳の量産成功
    • [66]1953年12月 ビタミン入ベータドライミルク(母乳と均質)の製造完成
    • [68]1955年3月期 売上高45億円・全国27工場
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [67]βドライの原理 乳糖を加熱しβ乳糖へ転化させたものを加え、従来の粉乳で3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える仕組み
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1947年6月 森永アイスクリームを発売
    • [49]1949年4月 森永乳業株式会社設立
    • [56]1954年9月 東京証券取引所に株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [47]経済の回復に伴い独立形態で製酪業の復興に当たる必要が生じ、東京乳業から目黒工場の返還を受けた
    • [48]1949年4月13日 資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立
    • [50]1949年設立時の社長 松崎半三郎
    • [51]当初は目黒工場における市乳の生産をもって発足
    • [52]1949年9月 資本金7000万円へ増資・同年10月 森永製菓乳業部の営業一切を継承
    • [53]1950年10月 森永製菓から賃借中の工場設備資産を譲受
    • [54]北海道はじめ各地での工場の買収・新設による総合的乳製品事業の開始
    • [63]1940年11月 ビタミン入ドライミルクを創製発売
    • [64]1952年 市乳の新製品としてビタミン入ホモ牛乳を発売
    • [65]平塚・松本両工場へのロケットミルクプラント(超高速度粉乳製造装置)設置と育児用粉乳の量産成功
    • [66]1953年12月 ビタミン入ベータドライミルク(母乳と均質)の製造完成
    • [68]1955年3月期 売上高45億円・全国27工場
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [55]1954年4月1日 資本金4億6500万円
    • [57]1954年時点の工場24・六大都市中心の8工場が市乳とアイスクリーム・地方16工場が乳製品
    • [58]1954年時点の従業員1442名
    • [59]1954年時点の社長 森永太平・専務 大野勇
    • [60]生産原価金額比の製品構成 乳製品71%・粉乳42%強・煉乳20%・バター8%
    • [61]粉乳の比重の高さから業界大手4社中で「ドライの森永」と称された
    • [62]育児用ドライミルクは全国生産の約半分を占めた
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [67]βドライの原理 乳糖を加熱しβ乳糖へ転化させたものを加え、従来の粉乳で3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える仕組み

1955年の粉乳中毒事件と補償交渉

1955年夏、森永の育児用粉乳による中毒事件が起きた[69]。徳島工場では乳質安定剤の第二リン酸ソーダを1950年7月から試験的に、1953年4月からは本格的に使い始めていた[70]が、事前に品質検査をすることもなく目分量で使っていた[71]。1955年4月納入分は表示こそ第二リン酸ソーダだったものの、実際はヒ素を含む別物で[72]、日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物が何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれたものであった[73]。静岡県は事件の約10か月前の1954年10月に、この廃物が取締法上の毒物にあたるかを国へ照会していたが、回答を待たずに流通[74]していた。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [69]1955年夏 森永の育児粉乳による中毒事件の発生
    • [72]納入品は表示は第二リン酸ソーダだがヒ素を含む全く別の物であった
    • [73]原料は日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物で何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれた
    • [74]1954年10月 静岡県による国への毒物該当性照会と回答を待たない流通
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [70]森永は1950年7月から第二リン酸ソーダを試験的に、1953年4月以降は本格的に使用
    • [71]事前の品質検査をせず目分量で工業用薬剤を使用

1955年8月24日、岡山大学医学部の浜本英次教授が岡山県衛生部の要請で記者会見を開き[75]、岡山県衛生部は徳島工場製の育児粉乳が原因であると発表した[76]。同工場の供給地域は主に関西以西で、地域が広かったため被害は広がった[77]。厚生省の1956年2月集計で死者131人・中毒患者1万2159人にのぼり[78]、1955年4月納入分の第二リン酸ソーダには有害水準の0.3%を超える重量比4.2〜6.3%のヒ素が含まれていた[79]。従業員組合は昇給とボーナスを辞退し、仕入先は支払いを延ばし[80]、原料乳代の手形は2か月遅れとなった。

  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [75]1955年8月24日 岡山大学医学部小児科教授 浜本英次が岡山県衛生部の要請で記者会見
    • [78]厚生省1956年2月集計 死者131人・中毒患者1万2159人
    • [79]1955年4月納入分のヒ素含有量 重量比4.2〜6.3%(有害水準0.3%を大幅に超過)
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [76]1955年8月24日 岡山県衛生部が徳島工場製造の育児粉乳を原因と発表
    • [77]徳島工場の供給地域は主として関西以西で地域が広く被害が拡大
    • [80]従業員組合の昇給・ボーナス辞退、仕入先の支払い延期、原料乳代の2か月遅れ手形

補償の話し合いは難航し、森永は厚生省へ斡旋を依頼して白紙委任を誓約した[81]。法律家と医師ら5人からなる五人委員会が発足し[82]、日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各事件の補償例を参考に補償意見書を作成した[83]。この意見に沿って話し合いが続き、行政と医療機関による事後の検診を行うことも定められて、1956年に厚生省の指示で実施された[84]。刑事責任については徳島工場の責任者2人が起訴され、一審は無罪となった[85]。行政は事件の公表直後に乳等省令を改め、1957年には食品衛生法を大幅に改正して食品添加物規制を強化し、1960年以降は食品添加物公定書を刊行した[86]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [81]補償交渉の難航と厚生省への斡旋依頼・白紙委任の誓約
    • [82]法律家・医師ら5人による五人委員会の発足
    • [83]補償意見書 日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各補償例を参考
    • [84]1956年 厚生省の指示で行政・医療機関による事後検診を実施
    • [85]徳島工場の責任者2人が起訴され一審は無罪
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [86]事件後の行政対応 乳等省令の改正・1957年の食品衛生法大幅改正による食品添加物規制強化・1960年以降の食品添加物公定書刊行
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [69]1955年夏 森永の育児粉乳による中毒事件の発生
    • [72]納入品は表示は第二リン酸ソーダだがヒ素を含む全く別の物であった
    • [73]原料は日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物で何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれた
    • [74]1954年10月 静岡県による国への毒物該当性照会と回答を待たない流通
    • [76]1955年8月24日 岡山県衛生部が徳島工場製造の育児粉乳を原因と発表
    • [77]徳島工場の供給地域は主として関西以西で地域が広く被害が拡大
    • [80]従業員組合の昇給・ボーナス辞退、仕入先の支払い延期、原料乳代の2か月遅れ手形
    • [81]補償交渉の難航と厚生省への斡旋依頼・白紙委任の誓約
    • [82]法律家・医師ら5人による五人委員会の発足
    • [83]補償意見書 日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各補償例を参考
    • [84]1956年 厚生省の指示で行政・医療機関による事後検診を実施
    • [85]徳島工場の責任者2人が起訴され一審は無罪
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [70]森永は1950年7月から第二リン酸ソーダを試験的に、1953年4月以降は本格的に使用
    • [71]事前の品質検査をせず目分量で工業用薬剤を使用
    • [75]1955年8月24日 岡山大学医学部小児科教授 浜本英次が岡山県衛生部の要請で記者会見
    • [78]厚生省1956年2月集計 死者131人・中毒患者1万2159人
    • [79]1955年4月納入分のヒ素含有量 重量比4.2〜6.3%(有害水準0.3%を大幅に超過)
    • [86]事件後の行政対応 乳等省令の改正・1957年の食品衛生法大幅改正による食品添加物規制強化・1960年以降の食品添加物公定書刊行

事件後の再建と大量生産方式への転換

1955年の森永は売上・利益とも業界1位[87]にあった。中毒事件による打撃のあと、大野勇氏は中断していた工場建設を決意し、破産整理中だった日本建鉄の土地を取得して1956年に葛飾で東京工場を着工し、翌1957年に完成させた[88]。敷地は2万3500坪で、当時日本一とされた明治の烏山工場の4000坪を上回り[89]、市乳工場と乳製品工場を分けない総合工場とした[90]。社会的信用を取り戻すため北海道大学の前野正久博士を研究所長に招き[91]大野勇氏は1956年春に専務を辞任して責任を明らかにした[92]。招聘には紆余曲折があり、前野正久氏は再び教壇に戻れないことも承知で移った[93]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [87]1955年(昭和30年)に売上・利益とも業界1位
    • [88]1956年着工・1957年完成の葛飾の東京工場(破産整理中の日本建鉄の土地を取得)
    • [89]東京工場の敷地2万3500坪・当時日本一の明治烏山工場は4000坪
    • [90]市乳工場・乳製品工場に分けない総合工場としたこと
    • [91]北海道大学の前野正久博士を研究所長に招聘
    • [92]1956年春 大野勇の専務辞任による責任の明確化
    • [93]前野正久は再び教壇に戻れないことを承知で森永へ移った

1956年の欧米視察で得た議論を手がかりに、前野正久氏はガラクトース入りの森永Gドライを独自に開発した[94]。1957年から1958年ごろには東京工場で大量生産方式を採り、日本の乳業では最初の試み[95]となった。原料生乳の産地が各地に点在する日本で1か所に大規模な生産設備を持つことは業界も関係官庁も疑問視していたが、森永はこれを実行して軌道に乗せた[96]。北海道では十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張という名目で建て[97]、札幌の恵庭には市乳工場を正面から建てて雪印と競合した[98]。山形の日本製乳は東急傘下から譲り受け、四国では玉藻食品を買って[99]四国森永乳業とした。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [94]1956年の欧米視察での議論を手がかりに前野正久がガラクトース入りの森永Gドライを独自開発
    • [97]十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張の名目で建設
    • [98]札幌の恵庭に市乳工場を正面から建設し雪印と競合
    • [99]山形の日本製乳の東急傘下からの譲受と四国の玉藻食品買収
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [95]1957〜1958年ごろ 東京工場で大量生産方式を採用(日本の乳業で最初)
    • [96]1か所に大規模な生産設備を持つことを業界も関係官庁も疑問視するなか実行し軌道に乗せた
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [87]1955年(昭和30年)に売上・利益とも業界1位
    • [88]1956年着工・1957年完成の葛飾の東京工場(破産整理中の日本建鉄の土地を取得)
    • [89]東京工場の敷地2万3500坪・当時日本一の明治烏山工場は4000坪
    • [90]市乳工場・乳製品工場に分けない総合工場としたこと
    • [91]北海道大学の前野正久博士を研究所長に招聘
    • [92]1956年春 大野勇の専務辞任による責任の明確化
    • [93]前野正久は再び教壇に戻れないことを承知で森永へ移った
    • [94]1956年の欧米視察での議論を手がかりに前野正久がガラクトース入りの森永Gドライを独自開発
    • [97]十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張の名目で建設
    • [98]札幌の恵庭に市乳工場を正面から建設し雪印と競合
    • [99]山形の日本製乳の東急傘下からの譲受と四国の玉藻食品買収
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [95]1957〜1958年ごろ 東京工場で大量生産方式を採用(日本の乳業で最初)
    • [96]1か所に大規模な生産設備を持つことを業界も関係官庁も疑問視するなか実行し軌道に乗せた

1961年〜 量産設備の拡張、恒久救済の確立とビフィズス菌への集中

森永乳業の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1961年 クリープ(粉末クリーム)を発売
  2. 1966年 名古屋市乳工場を新設
  3. 1966年 東京多摩工場を新設
  4. 1967年 森永商事の乳製品販売部門を譲り受け
  5. 1970年 エムケーチーズを設立
  6. 1974年 森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制の確立 自らの製品が生んだ被害に、会社はいつ、どこまで責任を引き受けたか
  7. 1977年 ビヒダス発売とビフィズス菌による独自路線 規模で先頭に立てない土俵で、森永は何を武器に差別化したか

全国工場網とオートメーション化した市乳工場

1961年4月、森永乳業は粉末クリームのクリープを発売[100]した。米国の業界誌で読んだ生クリームの乾燥法をもとに技術者が帰国後に手探りで開発したもの[101]で、他社に模倣されないよう1951年に特許を出願していた[102]。1964年4月には中央研究所が落成し、同年9月に東京多摩工場を起工[103]した。1964年9月期の売上高は321億円へ伸び、資本金も40億円へ増資[104]された。1966年1月には建設中だった中京工場が完成して一部操業に入り[105]、同年2月には多摩工場で世界最新鋭のオートメーション市乳設備が稼働した[106]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1961年4月 クリープ(粉末クリーム)を発売
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [101]クリープの開発経緯 米国業界誌の生クリーム乾燥法の記事をもとに技術者が帰国後に開発
    • [102]1951年 クリープの特許出願(他社の模倣を防ぐため)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [103]1964年4月 中央研究所落成・同年9月 東京多摩工場起工
    • [104]1964年9月期 売上高321億円・資本金40億円へ増資
    • [105]1966年1月 中京工場完成・一部操業
    • [106]1966年2月 多摩工場で世界最新鋭のオートメーション市乳設備が稼働

多摩工場は180ccのビン換算で日量300万本の製造能力を持ち[107]、従業員1人当たりの牛乳処理量は業界平均の2000本、森永の当時の3000本に対して1万本から2万本に達した[108]。前年に福島県郡山市へ作ったテスト工場で試験を済ませた[109]うえでの建設であった。1965年度の売上高は660億円から670億円の見込み[110]で、利益率はせいぜい2%、税込みで4%程度にとどまった[111]。翌年度は750億円を予定していた[112]。1967年3月に創業50周年を迎えた森永乳業の年商は900億円近くに増え[113]、市乳工場と乳製品工場を全国に各12持つに至った[114]

  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [107]東京多摩工場の製造能力 180ccビン換算で日量300万本
    • [108]従業員1人当たり牛乳処理量 業界2000本・森永3000本に対し多摩・中京は1万〜2万本
    • [109]1965年 福島県郡山市のテスト工場での試験成功
    • [110]1965年度(昭和40年度)の売上高見込み 660億〜670億円
    • [111]利益率はせいぜい2%・税込みで4%程度
    • [112]翌1966年度の売上高予定 750億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [113]1967年3月 創業50周年・年商900億円近く
    • [114]全国に市乳工場・乳製品工場を各12

1967年10月、森永乳業は生産と販売を一体にするため森永商事の乳製品販売部門を[115]譲り受けた。1970年2月には米国のクラフト社と提携し、チーズ専業のエムケーチーズを設立[116]した。この提携では国内酪農との調整が問題となり、雪印乳業と生産者団体が強く反対した結果、ナチュラルチーズの関税割当制度という国産優遇措置が生まれた[117]。1971年12月にはサンキストグローワーズ社と商標の使用契約[118]を結んだ。工場は1970年6月に大和工場と村山工場、1973年2月に利根工場、1975年10月に別海工場と続けて開設した[119]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [115]1967年10月 生産販売一体のため森永商事の乳製品販売部門を譲受
    • [116]1970年2月 クラフト社と提携・エムケーチーズ設立
    • [118]1971年12月 サンキストグローワーズ社と商標の使用契約を締結
    • [119]1970年6月 大和工場・村山工場/1973年2月 利根工場/1975年10月 別海工場を開設
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [117]クラフト提携時に雪印乳業と生産者団体が反対しナチュラルチーズの関税割当制度が生まれた
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1961年4月 クリープ(粉末クリーム)を発売
    • [115]1967年10月 生産販売一体のため森永商事の乳製品販売部門を譲受
    • [116]1970年2月 クラフト社と提携・エムケーチーズ設立
    • [118]1971年12月 サンキストグローワーズ社と商標の使用契約を締結
    • [119]1970年6月 大和工場・村山工場/1973年2月 利根工場/1975年10月 別海工場を開設
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [101]クリープの開発経緯 米国業界誌の生クリーム乾燥法の記事をもとに技術者が帰国後に開発
    • [102]1951年 クリープの特許出願(他社の模倣を防ぐため)
    • [117]クラフト提携時に雪印乳業と生産者団体が反対しナチュラルチーズの関税割当制度が生まれた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [103]1964年4月 中央研究所落成・同年9月 東京多摩工場起工
    • [104]1964年9月期 売上高321億円・資本金40億円へ増資
    • [105]1966年1月 中京工場完成・一部操業
    • [106]1966年2月 多摩工場で世界最新鋭のオートメーション市乳設備が稼働
    • [113]1967年3月 創業50周年・年商900億円近く
    • [114]全国に市乳工場・乳製品工場を各12
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [107]東京多摩工場の製造能力 180ccビン換算で日量300万本
    • [108]従業員1人当たり牛乳処理量 業界2000本・森永3000本に対し多摩・中京は1万〜2万本
    • [109]1965年 福島県郡山市のテスト工場での試験成功
    • [110]1965年度(昭和40年度)の売上高見込み 660億〜670億円
    • [111]利益率はせいぜい2%・税込みで4%程度
    • [112]翌1966年度の売上高予定 750億円

後遺症の公表から三者合意とひかり協会へ

事件の公表後、全国規模の被災者連盟は全国一斉検診の実施と森永奉仕会の設立を条件に解散させられ、報道も事件から離れた[120]。1969年10月18日、丸山博教授らが日本公衆衛生学会で報告した調査報告『14年目の訪問』が公表され、多様な後遺症に苦しむ68名の被害者[121]が伝えられた。それまで後遺症との診断はなかったため、大野勇氏は翌日厚生省へ出向いて調査と検診を願い出た[122]。厚生省は岡山県へ調査委員会の設置を依頼し、その前後から各府県検診・医師会検診といった自主検診[123]が始まった。大野勇氏は事件発生から14年間、検診を望んだ人に受け身で応じるにとどまった対応[124]を悔やんだ。

  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [120]公表後 全国規模の被災者連盟が全国一斉検診と森永奉仕会設立を条件に解散し報道も事件から離れた
    • [121]1969年10月18日『14年目の訪問』公表・多様な後遺症に苦しむ68名の被害者を記載・丸山博教授が日本公衆衛生学会で報告
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [122]後遺症の報道を受けて大野勇が翌日厚生省へ出向き調査・検診を申し出た
    • [123]厚生省が岡山県へ調査委員会の設置を依頼し各府県検診・医師会検診などの自主検診が始まった
    • [124]事件発生から14年間、検診希望者に受け身で応じるにとどまった対応への反省

「森永ミルク中毒のこどもを守る会」から交渉の申し入れがあり、病名を問わず治療費と介護料を負担する当面の措置は実施した[125]が、恒久的措置と患者名簿にない被害者の扱いをめぐって交渉は行き詰まった[126]。守る会は交渉の進展を求めて裁判を起こした[127]。恒久的措置は相当額の負担が長期間続き、会社の存立にも影響しうる[128]ものであった。1973年5月26日、日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告が後遺症を認めて森永ヒ素ミルク中毒症候群と命名し[129]、同年11月28日には徳島地裁の差戻後一審で徳島工場の製造課長への逆転有罪判決が確定した[130]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [125]守る会からの交渉申し入れと当面の措置(病名を問わず治療費・介護料を負担)
    • [126]恒久的措置と患者名簿にない被害者の扱いをめぐる交渉の行き詰まり
    • [127]守る会が交渉の進展を求めて裁判を開始
    • [128]恒久的措置に伴う相当額の長期負担と会社の存立への影響
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [129]1973年5月26日 日本小児科学会の特別委員会最終報告が後遺症を認め森永ヒ素ミルク中毒症候群と命名
    • [130]1973年11月28日 徳島地裁差戻後一審で徳島工場製造課長への逆転有罪判決が確定

1973年9月、厚生省から斡旋の呼びかけがあり、森永乳業・厚生省・守る会の三者会談が発足[131]して年末に合意へ達した。森永乳業は責任を認め、被害者救済の一切の義務を負担すると合意[132]した。翌1974年4月28日、恒久救済のための財団法人ひかり協会が森永乳業の全面出資で発足し、係属していた3件の民事訴訟は協会の発足を条件に[133]取り下げられた。森永乳業は発足年の1974年に約3億5000万円、1980年には約8億円を協会へ支出した[134]。被害者は2010年11月末で約1万3000人にのぼり、うち約1100人が死亡[135]した。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [131]1973年9月 厚生省の斡旋呼びかけ・三者会談発足・年末に合意
    • [134]森永乳業の協会への支出 1974年 約3億5000万円・1980年 約8億円
  • 日本経済新聞(2025年4月22日)
    • [132]森永乳業は1973年に責任を認め「被害者救済の一切の義務を負担する」と合意
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [133]1974年4月28日 財団法人ひかり協会が森永の全面出資で発足・3件の民訴は協会発足を条件に取り下げ
  • 日本経済新聞(2011年1月20日)
    • [135]被害者数は2010年11月末で約1万3000人・うち約1100人が死亡
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [120]公表後 全国規模の被災者連盟が全国一斉検診と森永奉仕会設立を条件に解散し報道も事件から離れた
    • [121]1969年10月18日『14年目の訪問』公表・多様な後遺症に苦しむ68名の被害者を記載・丸山博教授が日本公衆衛生学会で報告
    • [129]1973年5月26日 日本小児科学会の特別委員会最終報告が後遺症を認め森永ヒ素ミルク中毒症候群と命名
    • [130]1973年11月28日 徳島地裁差戻後一審で徳島工場製造課長への逆転有罪判決が確定
    • [133]1974年4月28日 財団法人ひかり協会が森永の全面出資で発足・3件の民訴は協会発足を条件に取り下げ
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
    • [122]後遺症の報道を受けて大野勇が翌日厚生省へ出向き調査・検診を申し出た
    • [123]厚生省が岡山県へ調査委員会の設置を依頼し各府県検診・医師会検診などの自主検診が始まった
    • [124]事件発生から14年間、検診希望者に受け身で応じるにとどまった対応への反省
    • [125]守る会からの交渉申し入れと当面の措置(病名を問わず治療費・介護料を負担)
    • [126]恒久的措置と患者名簿にない被害者の扱いをめぐる交渉の行き詰まり
    • [127]守る会が交渉の進展を求めて裁判を開始
    • [128]恒久的措置に伴う相当額の長期負担と会社の存立への影響
    • [131]1973年9月 厚生省の斡旋呼びかけ・三者会談発足・年末に合意
    • [134]森永乳業の協会への支出 1974年 約3億5000万円・1980年 約8億円
  • 日本経済新聞(2025年4月22日)
    • [132]森永乳業は1973年に責任を認め「被害者救済の一切の義務を負担する」と合意
  • 日本経済新聞(2011年1月20日)
    • [135]被害者数は2010年11月末で約1万3000人・うち約1100人が死亡

ビフィズス菌による差別化とトクホ第1号

1970年代前半の森永乳業では、単体売上高が1971年3月期の1187億円から1976年3月期の1949億円へ伸びたのに対し、経常利益は9億円から25億円の間で増減し、1974年3月期には4億円まで落ちた[136]。この時期に森永乳業は1969年に赤ちゃんの腸内からヒト由来のビフィズス菌BB536を採取し[137]、1971年には日本で初めてビフィズス菌の乳製品への応用に成功した[138]。BB536は酸や酸素に強く生きたまま大腸に到達し、短鎖脂肪酸を作っておなかの中で良い働きをする[139]菌であった。1970年代後半には食品メーカーの外食参入が相次ぎ、森永乳業も自社の食材を生かした森永ラブの店舗[140]を出した。

  • 森永乳業 会社年鑑(1976年版・単体)
    • [136]単体売上高 1971年3月期1187億円→1976年3月期1949億円、経常利益9〜25億円、1974年3月期は4億円
  • 森永乳業 公式サイト「ビフィズス菌研究50年ヒストリー」
    • [137]1969年 赤ちゃんの腸内からヒト由来のビフィズス菌BB536を発見
    • [138]1971年 日本で初めてビフィズス菌を乳製品へ応用することに成功
    • [139]BB536は酸や酸素に強く生きたまま大腸に到達し短鎖脂肪酸を作る
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-量から質へ」
    • [140]1970年代後半 食品メーカーの外食参入が相次ぎ森永乳業は森永ラブを出店

1977年6月、森永乳業はビフィズス菌入り乳製品乳酸菌飲料の森永ビヒダスを発売[141]した。翌1978年にはビフィズス菌入り発酵乳の森永ビヒダスヨーグルト[142]を加えた。同じ1978年には全額出資で森乳ラボラトリーズを設立し、当時は手作りが当たり前とされていた医療用流動食[143]へ参入した。1981年4月にはロングライフのハンディパック乳飲料ピクニックを発売し、1984年9月にリプトン社と商標の使用契約を結び、1985年5月には米国にMorinaga Nutritional Foods, Inc.[144]を設立した。1989年10月には研究・情報センターを開設[145]した。

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [141]1977年6月 森永ビヒダス(ビフィズス菌入り乳製品)を発売
    • [144]1981年4月 ピクニック発売/1984年9月 リプトン社と商標使用契約/1985年5月 Morinaga Nutritional Foods, Inc.設立
    • [145]1989年10月 研究・情報センターを開設
  • 森永乳業 公式サイト「ビフィズス菌研究50年ヒストリー」
    • [142]1978年 ビフィズス菌入りはっ酵乳 森永ビヒダスヨーグルトを発売
  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
    • [143]1978年 森永乳業100%出資で森乳ラボラトリーズを設立・当時の医療用流動食は手作りが当たり前とされていた

1993年2月、森永乳業はカップ入り乳飲料のマウントレーニア・カフェラッテを発売[146]した。同年6月1日付で低リンミルクL.P.Kが日本で初めて特定保健用食品として厚生省の許可を受け[147]、9月下旬から発売された[148]。低リン食を指示されている慢性腎不全の患者向けに、リンを牛乳の5分の1に減らした調製粉乳[149]であった。1994年にはセブンイレブンが森永乳業や雪印乳業など乳業メーカー5社と提携し、売れ筋のアイスクリームを商品開発から販売まで共同で一貫して組む製販同盟[150]を発表した。店舗には専用の冷凍ショーケースが置かれ、独自の商品が並んだ[151]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [146]1993年2月 マウントレーニア・カフェラッテ(カップ入り乳飲料)発売
    • [147]1993年6月 低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品の第1号として厚生省から許可
  • 日本食糧新聞(1993年10月29日)
    • [148]低リンミルクL.P.Kは1993年9月下旬から発売
    • [149]低リンミルクL.P.Kは慢性腎不全向けにリンを牛乳の5分の1へ低減した調製粉乳
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
    • [150]1994年 セブンイレブンが乳業メーカー5社と提携しアイスクリームの製販同盟を発表
    • [151]店舗に専用の冷凍ショーケースが設置され独自の商品が並んだ
  • 森永乳業 会社年鑑(1976年版・単体)
    • [136]単体売上高 1971年3月期1187億円→1976年3月期1949億円、経常利益9〜25億円、1974年3月期は4億円
  • 森永乳業 公式サイト「ビフィズス菌研究50年ヒストリー」
    • [137]1969年 赤ちゃんの腸内からヒト由来のビフィズス菌BB536を発見
    • [138]1971年 日本で初めてビフィズス菌を乳製品へ応用することに成功
    • [139]BB536は酸や酸素に強く生きたまま大腸に到達し短鎖脂肪酸を作る
    • [142]1978年 ビフィズス菌入りはっ酵乳 森永ビヒダスヨーグルトを発売
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-量から質へ」
    • [140]1970年代後半 食品メーカーの外食参入が相次ぎ森永乳業は森永ラブを出店
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [141]1977年6月 森永ビヒダス(ビフィズス菌入り乳製品)を発売
    • [144]1981年4月 ピクニック発売/1984年9月 リプトン社と商標使用契約/1985年5月 Morinaga Nutritional Foods, Inc.設立
    • [145]1989年10月 研究・情報センターを開設
    • [146]1993年2月 マウントレーニア・カフェラッテ(カップ入り乳飲料)発売
    • [147]1993年6月 低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品の第1号として厚生省から許可
  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
    • [143]1978年 森永乳業100%出資で森乳ラボラトリーズを設立・当時の医療用流動食は手作りが当たり前とされていた
  • 日本食糧新聞(1993年10月29日)
    • [148]低リンミルクL.P.Kは1993年9月下旬から発売
    • [149]低リンミルクL.P.Kは慢性腎不全向けにリンを牛乳の5分の1へ低減した調製粉乳
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
    • [150]1994年 セブンイレブンが乳業メーカー5社と提携しアイスクリームの製販同盟を発表
    • [151]店舗に専用の冷凍ショーケースが設置され独自の商品が並んだ

1994年〜 国内市場の縮小と海外M&Aによる領域の拡張

森永乳業の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2005年 全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併
  2. 2006年 神戸工場を新設
  3. 2007年 東北森永乳業設立
  4. 2008年 別海工場チーズ新棟稼動
  5. 2008年 沖縄森永乳業新工場(中頭郡西原町)稼動
  6. 2012年 MILEI GmbHを完全子会社化
  7. 2023年 大貫体制での海外M&A集中と米国植物性食品への参入 縮む国内乳業を、育児用ミルクと植物性食品の海外買収でどう補おうとしたか

定番品の立て直しと国内の生産・販売再編

2003年9月、森永乳業は独自の殺菌法で搾りたての味を出した森永のおいしい牛乳を関西地区で[152]発売した。古川紘一社長は2003年度に関西だけで売上高20億円を見込む期待の商品と述べ[153]、2004年春には首都圏でも売り出す計画を示した[154]。同名の先行商品である明治乳業の明治おいしい牛乳は、スーパーで安売りにならない高付加価値品として2002年に全国発売され、2003年度は売上高350億円を狙う商品に育っていた[155]。採算の低い市乳事業の競争力をどう確保するかは、両社に共通の課題[156]であった。少子高齢化により牛乳の消費量は毎年3%ずつ減っていた[157]

  • 週刊東洋経済 2003年12月27日号
    • [152]2003年9月 森永乳業が関西地区で「森永のおいしい牛乳」を発売・独自の殺菌法で搾り立ての味
    • [153]古川紘一社長 2003年度に関西だけで売上高20億円を見込む期待の商品と説明
    • [154]2004年春 首都圏でも「おいしい牛乳」を発売する計画
    • [155]明治乳業「明治おいしい牛乳」は2002年に全国発売・2003年度は売上高350億円を狙う商品
    • [156]採算性の低い市乳事業の競争力確保という牛乳大手共通の課題
  • 週刊東洋経済 2008年5月24日号
    • [157]少子高齢化の影響で牛乳消費量は毎年3%ずつ減少

2003年4月にはラクトフェリンの工業的な製造法の開発が文部科学大臣賞[158]を受けた。生産と販売の再編も進み、2005年3月に冨士乳業の三島工場で新製造棟が稼働[159]、同年4月には全国の販売子会社9社をデイリーフーズへ吸収合併し[160]、2006年1月に神戸工場を開設した[161]。2007年12月には東北森永乳業を設立し、2008年6月に別海工場のチーズ新棟、同年8月に沖縄森永乳業の新工場が稼働[162]した。別海工場のチーズ新棟は、生産者団体のホクレンが北海道への国産チーズ工場の建設を呼びかけ、雪印乳業・明治乳業・森永乳業の大手3社が応じたものであった[163]。2006年3月末に北海道で900トンの生乳が廃棄されて社会問題となり、農林水産省が生乳の減産を主導した経緯[164]があり、余剰乳の解消はチーズ工場に託された[165]。2010年2月には北海道森永乳業販売を設立[166]した。

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [158]2003年4月 「ラクトフェリンの工業的な製造法の開発」文部科学大臣賞受賞
    • [159]2005年3月 冨士乳業三島工場(新製造棟)稼動
    • [160]2005年4月 全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併
    • [161]2006年1月 神戸工場を開設
    • [162]2007年12月 東北森永乳業設立/2008年6月 別海工場チーズ新棟稼動/2008年8月 沖縄森永乳業新工場稼動
    • [166]2010年2月 北海道森永乳業販売を設立
  • 週刊東洋経済 2008年5月24日号
    • [163]ホクレンの呼びかけに雪印乳業・明治乳業・森永乳業の大手3社が応じ北海道に国産チーズ工場を建設
    • [164]2006年3月末 北海道で900トンの生乳廃棄と社会問題化・農水省による生乳減産の主導
    • [165]余剰乳の解消をチーズ工場に託した経緯

看板商品のアロエヨーグルトはヨーグルトブームを追い風に2002年に272億円を売り上げたが、その後の2年間は厳しくなった[167]。消費者調査で味よりも使い勝手への不満が多かった[168]ことから、2005年3月にアルミパウチ入りのアロエヨーグルトハンディスタイルを首都圏のコンビニで発売し、5月に全国へ広げた[169]。冷菓では2007年3月期のアイスクリーム売上が前期比10%増となり[170]、pino・PARM・MOWの基幹3ブランドに資源を集中して17年ぶりに市場首位へ戻った[171]。2009年には雪印乳業と日本ミルクコミュニティの経営統合が決まり、2008年度業績の単純合算で売上高5250億円と、2位の森永乳業に迫った[172]

  • 週刊東洋経済 2005年6月4日号
    • [167]アロエヨーグルト 2002年に272億円・その後2年間の低迷
    • [168]消費者調査で味よりも使い勝手への不満が多かった
    • [169]2005年3月 アロエヨーグルト ハンディスタイルを首都圏コンビニで発売・5月に全国展開
  • 週刊東洋経済 2007年6月2日号
    • [170]2007年3月期 アイスクリーム売上が前期比10%増
    • [171]pino・PARM・MOWの基幹3ブランドへの経営資源集中で17年ぶりに首位奪還
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号
    • [172]2009年 雪印乳業と日本ミルクコミュニティの経営統合・2008年度単純合算で売上高5250億円と2位の森永乳業に肉迫
  • 週刊東洋経済 2003年12月27日号
    • [152]2003年9月 森永乳業が関西地区で「森永のおいしい牛乳」を発売・独自の殺菌法で搾り立ての味
    • [153]古川紘一社長 2003年度に関西だけで売上高20億円を見込む期待の商品と説明
    • [154]2004年春 首都圏でも「おいしい牛乳」を発売する計画
    • [155]明治乳業「明治おいしい牛乳」は2002年に全国発売・2003年度は売上高350億円を狙う商品
    • [156]採算性の低い市乳事業の競争力確保という牛乳大手共通の課題
  • 週刊東洋経済 2008年5月24日号
    • [157]少子高齢化の影響で牛乳消費量は毎年3%ずつ減少
    • [163]ホクレンの呼びかけに雪印乳業・明治乳業・森永乳業の大手3社が応じ北海道に国産チーズ工場を建設
    • [164]2006年3月末 北海道で900トンの生乳廃棄と社会問題化・農水省による生乳減産の主導
    • [165]余剰乳の解消をチーズ工場に託した経緯
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [158]2003年4月 「ラクトフェリンの工業的な製造法の開発」文部科学大臣賞受賞
    • [159]2005年3月 冨士乳業三島工場(新製造棟)稼動
    • [160]2005年4月 全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併
    • [161]2006年1月 神戸工場を開設
    • [162]2007年12月 東北森永乳業設立/2008年6月 別海工場チーズ新棟稼動/2008年8月 沖縄森永乳業新工場稼動
    • [166]2010年2月 北海道森永乳業販売を設立
  • 週刊東洋経済 2005年6月4日号
    • [167]アロエヨーグルト 2002年に272億円・その後2年間の低迷
    • [168]消費者調査で味よりも使い勝手への不満が多かった
    • [169]2005年3月 アロエヨーグルト ハンディスタイルを首都圏コンビニで発売・5月に全国展開
  • 週刊東洋経済 2007年6月2日号
    • [170]2007年3月期 アイスクリーム売上が前期比10%増
    • [171]pino・PARM・MOWの基幹3ブランドへの経営資源集中で17年ぶりに首位奪還
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号
    • [172]2009年 雪印乳業と日本ミルクコミュニティの経営統合・2008年度単純合算で売上高5250億円と2位の森永乳業に肉迫

介護食と機能性素材、欧州・南アジアへの拠点

1978年に設立した森乳ラボラトリーズは1997年にクリニコへ社名を変えた[173]。2001年には銅の供給源に優れた大豆に着目し、豆乳をベースに微量ミネラルを配合した流動食のCZ-Hiを開発して[174]、長期入院患者の微量ミネラル欠乏症という課題に応えた[175]。牛乳ベースの流動食を無菌充填し超高温で一気に滅菌する世界初の無菌充填バッグタイプ流動食[176]も開発した。全国43か所の営業拠点に約250名の社員を置き、その8割以上が女性[177]であった。クリニコの2010年度売上高は約280億円で、業績は毎年約10%の成長を保ち、2020年度に売上高1000億円の目標[178]を掲げていた。

  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
    • [173]1978年設立の森乳ラボラトリーズが1997年にクリニコへ社名変更
    • [174]2001年 豆乳ベースで微量ミネラルを配合した流動食CZ-Hiを開発(銅の供給源に優れた大豆に着目)
    • [175]長期入院患者の微量ミネラル欠乏症という医療現場の課題
    • [176]牛乳ベースを無菌充填し超高温で一気に滅菌する世界初の無菌充填バッグタイプ流動食を開発
    • [177]クリニコの営業体制 全国43か所の拠点・約250名の社員・8割以上が女性
    • [178]クリニコの2010年度売上高 約280億円・毎年約10%成長・2020年度に売上高1000億円の目標

2011年3月の東日本大震災では、クリニコに官公庁や医師から支援要請が相次いだ[179]。震災後の約1か月間で150の病院・施設へ流動食約6万食、市販価格にして約1000万円分[180]を届けた。2011年4月1日には、消費者庁が流動食分野で初めての特別用途食品・病者用食品・総合栄養食品としてCZ-Hiを認定[181]した。調査会社シード・プランニングの試算では、介護食の市場規模は2011年時点で1100億円以上、2014年度には1630億円に達する[182]とされた。海外では2012年5月にドイツのMILEI GmbHの株式を追加取得して完全子会社化し[183]、2014年10月には森永北陸乳業の福井工場で菌末の製造を始めた[184]

  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
    • [179]東日本大震災後 クリニコに官公庁・医師などから支援要請が相次いだ
    • [180]震災後の約1か月で150の病院・施設へ流動食約6万食(市販価格約1000万円)を支援
    • [181]2011年4月1日 消費者庁が流動食分野で初の特別用途食品 病者用食品 総合栄養食品として認定
    • [182]介護食市場規模 2011年時点1100億円以上・2014年度1630億円との試算(シード・プランニング)
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [183]2012年5月 MILEI GmbH(ドイツ)の株式を追加取得し完全子会社化
    • [184]2014年10月 森永北陸乳業福井工場で菌末の製造を開始

2015年12月にはシンガポールにMorinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.を設立し、2016年1月に森永乳業九州を設立[185]した。2016年10月にはMILEIの新棟が稼働し、2017年3月にはパキスタンで同国2社との合弁会社NutriCo Morinaga (Private) Limitedを設立[186]した。2017年9月、森永乳業は創業100周年[187]を迎えた。2020年2月には利根工場の新棟が稼働[188]した。社長は2012年から宮原道夫氏が務め[189]、2021年に大貫陽一氏が引き継いだ[190]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [185]2015年12月 Morinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.(シンガポール)設立/2016年1月 森永乳業九州設立
    • [186]2016年10月 MILEI GmbH新棟稼働/2017年3月 パキスタンに同国2社と合弁会社NutriCo Morinagaを設立
    • [187]2017年9月 森永乳業株式会社 創業100周年
    • [188]2020年2月 利根工場新棟稼働
  • 森永乳業 有価証券報告書 第89期(2012年3月期)表紙(取締役社長 宮原道夫)
    • [189]第89期(2012年3月期)の取締役社長 宮原道夫
  • 森永乳業 有価証券報告書 第98期(2021年3月期)表紙(取締役社長 大貫陽一)
    • [190]第98期(2021年3月期)の取締役社長 大貫陽一
  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
    • [173]1978年設立の森乳ラボラトリーズが1997年にクリニコへ社名変更
    • [174]2001年 豆乳ベースで微量ミネラルを配合した流動食CZ-Hiを開発(銅の供給源に優れた大豆に着目)
    • [175]長期入院患者の微量ミネラル欠乏症という医療現場の課題
    • [176]牛乳ベースを無菌充填し超高温で一気に滅菌する世界初の無菌充填バッグタイプ流動食を開発
    • [177]クリニコの営業体制 全国43か所の拠点・約250名の社員・8割以上が女性
    • [178]クリニコの2010年度売上高 約280億円・毎年約10%成長・2020年度に売上高1000億円の目標
    • [179]東日本大震災後 クリニコに官公庁・医師などから支援要請が相次いだ
    • [180]震災後の約1か月で150の病院・施設へ流動食約6万食(市販価格約1000万円)を支援
    • [181]2011年4月1日 消費者庁が流動食分野で初の特別用途食品 病者用食品 総合栄養食品として認定
    • [182]介護食市場規模 2011年時点1100億円以上・2014年度1630億円との試算(シード・プランニング)
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [183]2012年5月 MILEI GmbH(ドイツ)の株式を追加取得し完全子会社化
    • [184]2014年10月 森永北陸乳業福井工場で菌末の製造を開始
    • [185]2015年12月 Morinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.(シンガポール)設立/2016年1月 森永乳業九州設立
    • [186]2016年10月 MILEI GmbH新棟稼働/2017年3月 パキスタンに同国2社と合弁会社NutriCo Morinagaを設立
    • [187]2017年9月 森永乳業株式会社 創業100周年
    • [188]2020年2月 利根工場新棟稼働
  • 森永乳業 有価証券報告書 第89期(2012年3月期)表紙(取締役社長 宮原道夫)
    • [189]第89期(2012年3月期)の取締役社長 宮原道夫
  • 森永乳業 有価証券報告書 第98期(2021年3月期)表紙(取締役社長 大貫陽一)
    • [190]第98期(2021年3月期)の取締役社長 大貫陽一

海外M&Aの集中と米国の植物由来食品への参入

森永乳業は10年ビジョンで2029年3月期に海外売上高比率15%以上を掲げ[191]、2025年3月期までの中期経営計画では13%への引き上げを目標にした[192]。2021年1月にベトナムのElovi Vietnam Joint Stock Companyの株式を取得して連結子会社とし[193]、2022年4月に東京証券取引所の市場区分見直しで市場第一部からプライム市場へ移った[194]。2023年1月にはパキスタンのNutriCo Morinaga (Private) Limitedの株式を追加取得して連結子会社化[195]した。海外事業ではMILEI・育児用ミルク・菌体・米国・ベトナムの5つを「海外事業5つのチャレンジ」と位置づけ、資源を集めた[196]

  • 森永乳業 統合報告書2023
    • [191]10年ビジョンで2029年3月期に海外売上高比率15%以上を目標
    • [196]MILEI・育児用ミルク・菌体・米国・ベトナムの5事業を「海外事業5つのチャレンジ」と位置づけ資源を集中
  • 日本経済新聞(2023年2月10日)
    • [192]2025年3月期までの中期経営計画で海外売上高比率13%を目標
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [193]2021年1月 Elovi Vietnam Joint Stock Companyの株式取得と連結子会社化
    • [194]2022年4月 東証の市場区分見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行
    • [195]2023年1月 NutriCo Morinaga (Private) Limited(パキスタン)の株式追加取得と連結子会社化

2023年2月10日、森永乳業は米国子会社のMorinaga Nutritional Foodsを通じてTurtle Island Foods Holdings, Inc.の株式を取得[197]した。取得価額は約1240万ドル[198]、日本円で約16億2600万円[199]であった。米国で40年以上豆腐の輸出販売を手掛けてきた森永乳業にとって、全米で認知度の高いブランドと販売網を持つ相手を加える買収[200]であった。同年5月にはベトナムのMorinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを株式取得などにより連結子会社とし[201]、2023年の海外M&A3件でおよそ100億円を投じた[202]

  • 森永乳業「米国 Turtle Island Foods, Holdings, Inc.の買収(子会社化)に関するお知らせ」(適時開示・2023年2月10日)
    • [197]2023年2月 Turtle Island Foods Holdings, Inc.(米国)の株式取得
    • [199]取得価額 約1240万ドル(約16億2600万円)
  • 日本経済新聞(2023年2月10日)
    • [198]買収額は1240万ドル(約16億円)で米国のプラントベースフード市場の拡大が狙い
  • 森永乳業 統合報告書2023
    • [200]森永乳業グループは米国で40年以上豆腐の輸出販売事業を行い、TIF社は全米で認知度の高いブランド・販売網を有する
    • [202]2023年の海外M&A3件におよそ100億円を投じた
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [201]2023年5月 Morinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを株式取得等により連結子会社化

海外売上高比率は2022年3月期の8.7%から2023年3月期に11.3%へ上がり[203]、海外事業の営業利益はグループ計の4割超を占めた[204]。2025年3月期の連結売上高は5612億円、営業利益は297億円となり[205]、営業利益率は2015年3月期の約1%から約5%へ変わった[206]。同期は特別損失258億円を計上し、親会社株主に帰属する当期純利益は55億円[207]にとどまった。2025年11月、大貫陽一社長は米国の植物由来食品事業の苦戦を認め、工場集約が進行中であると述べた[208]。2011年の徳島工場閉鎖の際に森永乳業は「工場が閉鎖しても救済の取り組みは変わらない。しっかり続けていく[209]」と表明し、ひかり協会からは被害者へ月約7万円が支払われてきた[210]

  • 森永乳業 統合報告書2023
    • [203]海外売上高比率 2022年3月期8.7%→2023年3月期11.3%
    • [204]海外事業の営業利益がグループ計の4割超
  • 森永乳業 有価証券報告書(連結)
    • [205]2025年3月期 連結売上高5612億円・営業利益297億円
    • [206]連結営業利益率 2015年3月期 約1%(営業利益68億円・売上高5948億円)→2025年3月期 約5%
    • [207]2025年3月期 特別損失258億円・親会社株主に帰属する当期純利益55億円
  • 日本経済新聞(2025年11月6日)
    • [208]2025年11月 大貫陽一社長が米国の植物由来食品の苦戦と工場集約の進行を説明
  • 日本経済新聞(2011年1月20日)
    • [209]2011年の徳島工場閉鎖時の会社表明「工場が閉鎖しても救済の取り組みは変わらない。しっかり続けていく」
  • 日本経済新聞(2025年4月22日)
    • [210]被害者はひかり協会から月約7万円を受け取ってきた
  • 森永乳業 統合報告書2023
    • [191]10年ビジョンで2029年3月期に海外売上高比率15%以上を目標
    • [196]MILEI・育児用ミルク・菌体・米国・ベトナムの5事業を「海外事業5つのチャレンジ」と位置づけ資源を集中
    • [200]森永乳業グループは米国で40年以上豆腐の輸出販売事業を行い、TIF社は全米で認知度の高いブランド・販売網を有する
    • [202]2023年の海外M&A3件におよそ100億円を投じた
    • [203]海外売上高比率 2022年3月期8.7%→2023年3月期11.3%
    • [204]海外事業の営業利益がグループ計の4割超
  • 日本経済新聞(2023年2月10日)
    • [192]2025年3月期までの中期経営計画で海外売上高比率13%を目標
    • [198]買収額は1240万ドル(約16億円)で米国のプラントベースフード市場の拡大が狙い
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [193]2021年1月 Elovi Vietnam Joint Stock Companyの株式取得と連結子会社化
    • [194]2022年4月 東証の市場区分見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行
    • [195]2023年1月 NutriCo Morinaga (Private) Limited(パキスタン)の株式追加取得と連結子会社化
    • [201]2023年5月 Morinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを株式取得等により連結子会社化
  • 森永乳業「米国 Turtle Island Foods, Holdings, Inc.の買収(子会社化)に関するお知らせ」(適時開示・2023年2月10日)
    • [197]2023年2月 Turtle Island Foods Holdings, Inc.(米国)の株式取得
    • [199]取得価額 約1240万ドル(約16億2600万円)
  • 森永乳業 有価証券報告書(連結)
    • [205]2025年3月期 連結売上高5612億円・営業利益297億円
    • [206]連結営業利益率 2015年3月期 約1%(営業利益68億円・売上高5948億円)→2025年3月期 約5%
    • [207]2025年3月期 特別損失258億円・親会社株主に帰属する当期純利益55億円
  • 日本経済新聞(2025年11月6日)
    • [208]2025年11月 大貫陽一社長が米国の植物由来食品の苦戦と工場集約の進行を説明
  • 日本経済新聞(2011年1月20日)
    • [209]2011年の徳島工場閉鎖時の会社表明「工場が閉鎖しても救済の取り組みは変わらない。しっかり続けていく」
  • 日本経済新聞(2025年4月22日)
    • [210]被害者はひかり協会から月約7万円を受け取ってきた

森永乳業の沿革1917〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日本煉乳設立
小缶煉乳森永ミルクを発売
森永製菓と合併
森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
森永煉乳を設立
森永牛乳を発売
森永煉乳を森永乳業に商号変更
森永製菓と合併
森永アイスクリームを発売
松崎半三郎森永乳業設立★★
森永太平東京証券取引所に株式上場
大野勇クリープ(粉末クリーム)を発売
大野勇名古屋市乳工場を新設
大野勇東京多摩工場を新設
大野勇森永商事の乳製品販売部門を譲り受け
大野勇エムケーチーズを設立
大野勇大和工場・村山工場を新設
大野勇サンキストグローワーズ社と商標の使用契約を締結
稲生平八森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制の確立自らの製品が生んだ被害に、会社はいつ、どこまで責任を引き受けたか 詳細を読む★★★
稲生平八ビヒダス発売とビフィズス菌による独自路線規模で先頭に立てない土俵で、森永は何を武器に差別化したか 詳細を読む★★★
門前貢ロングライフのハンディパック乳飲料(ピクニック)を発売
門前貢リプトン社と商標の使用契約を締結
門前貢用契約を締結
大野晃Morinaga Nutritional Foods, Inc.を設立
大野晃研究・情報センターを開設
大野晃マウントレーニア・カフェラッテ(カップ入り乳飲料)発売
大野晃低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品の第1号として厚生省から許可を取得
古川紘一全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併
古川紘一神戸工場を新設
古川紘一東北森永乳業設立
古川紘一別海工場チーズ新棟稼動
古川紘一沖縄森永乳業新工場(中頭郡西原町)稼動
宮原道夫MILEI GmbHを完全子会社化
宮原道夫浦幌乳業新棟稼働
宮原道夫森永北陸乳業福井工場にて菌末の製造を開始
宮原道夫Morinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.を設立
宮原道夫パキスタンに同国2社と合弁会社NutriCo Morinaga(Private)Limitedを設立
大貫陽一Elovi Vietnam Joint Stock Companyを子会社化
大貫陽一NutriCo Morinaga(Private)Limited(パキスタン)を子会社化
大貫陽一大貫体制での海外M&A集中と米国植物性食品への参入縮む国内乳業を、育児用ミルクと植物性食品の海外買収でどう補おうとしたか 詳細を読む★★★
大貫陽一Morinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを子会社化
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
  • 証券 1954年(10)(63)
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981/08 大野勇
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
  • 日本経済新聞(2025年4月22日)
  • 日本経済新聞(2011年1月20日)
  • 森永乳業 会社年鑑(1976年版・単体)
  • 森永乳業 公式サイト「ビフィズス菌研究50年ヒストリー」
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-量から質へ」
  • 週刊東洋経済 2011年5月14日号
  • 日本食糧新聞(1993年10月29日)
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
  • 週刊東洋経済 2003年12月27日号
  • 週刊東洋経済 2008年5月24日号
  • 週刊東洋経済 2005年6月4日号
  • 週刊東洋経済 2007年6月2日号
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号
  • 森永乳業 有価証券報告書 第89期(2012年3月期)表紙(取締役社長 宮原道夫)
  • 森永乳業 有価証券報告書 第98期(2021年3月期)表紙(取締役社長 大貫陽一)
  • 森永乳業 統合報告書2023
  • 日本経済新聞(2023年2月10日)
  • 森永乳業「米国 Turtle Island Foods, Holdings, Inc.の買収(子会社化)に関するお知らせ」(適時開示・2023年2月10日)
  • 森永乳業 有価証券報告書(連結)
  • 日本経済新聞(2025年11月6日)

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