1959年〜 旋削機械からの脱出と電子部品自動装着機への転換
FUJIの業績推移:単体
- 1959年 富士機械製造を設立
- 1961年 工場を新設
- 1961年 本社機構を現在地に移転
- 1964年 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- 1967年 大型トランスファーラインを完成
- 1978年 電子部品自動挿入機を完成
- 1981年 工作機械専業から電子部品実装機への主力転換 景気に振られる自動旋盤の会社が、社内で亜流と呼ばれた組立機に主力を移すまで
創業者・坂上守の独立と単能機メーカーとしての出発
富士機械製造の創業者・坂上守は、独立前に勤めた菅鉄工所[1]で工作機械の一種である単能機を独自に開発し、その本格生産を経営側へ進言したものの容れられず、自ら新会社を起こす道を選んだ。1959年4月、名古屋市中川区昭和橋通において富士機械製造株式会社が設立され、旋削機械とその他の工作機械の製造を開始した[2]。創業の地は中部の機械工業集積地で、当時の名古屋・愛知県は豊田自動織機・トヨタ自動車を中心に自動車向けの工作機械需要が膨らんでいた時期にあたる。設立当初は旋盤などの汎用工作機械を中部の機械加工業者へ供給する小規模事業者だった。1960年9月に東京営業所[3]、1961年3月に愛知県碧海郡知立町(現知立市)の工場を新設[4]し、同年6月に現在地の知立市へ本社機構を移転した[5]。1962年10月には株式額面500円から50円への変更を目的として神奈川県足柄下郡の同名会社へ吸収合併される手続を経たが、事業の実体は被合併会社がそのまま継承し[6]、富士機械製造の屋号は変わらなかった。
- 富士機械製造五十年の歩み
- [1]創業者・坂上守は勤務先の菅鉄工所で単能機を独自開発、本格生産の進言が容れられず独立して1959年に富士機械製造を設立
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [2]1959年4月 名古屋市中川区昭和橋通で富士機械製造株式会社を設立、旋削機械・工作機械の製造を開始
- [3]1960年9月 東京営業所を開設
- [4]1961年3月 愛知県碧海郡知立町(現知立市)に工場を新設
- [5]1961年6月 本社機構を現在地(知立市)に移転
- [6]1962年10月 株式額面500円から50円への変更目的で神奈川県足柄下郡の同名会社へ吸収合併、事業実体は被合併会社が継承
設立後まもなく単能機の生産体制が整うと、高い生産性を聞き伝えたユーザーが各地から知立を訪れ、その場で発注する例が相次いだ。1959年4月に資本金30万円で出発した同社は[7]、同年5月にFS型単能機の一号機を市場へ送り出した[8]。ベアリングや電気部品、二輪車のメーカーに加え、トヨタ自動車・本田技研・三菱・いすゞといった自動車関連企業が自動旋盤の主要な納入先となり[9]、トヨタでは旋盤ラインの7割以上を富士機械製造の自動旋盤が占めた[10]。1964年5月、設立から5年で名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場し[11]、同年10月には資本金を2億円へ増資して[12]急拡大する工作機械需要に応える設備投資の原資を厚くした。本社工場の新設にあたっては、銀行との取引が浅く与信を得にくいなかで資金調達が課題となったが、当時は若手銀行員で、のちに第2代社長となる大津谷輝男が融資の助言を通じて資金の捻出を後押しした[13]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]1959年4月の創立時の資本金は30万円
- [8]1959年5月にFS型単能機の一号機を市場投入
- [12]1964年10月 資本金を2億円へ増資
- 富士機械製造五十年の歩み
- [9]単能機の大口受注先はベアリング・電気部品・二輪車メーカーやトヨタ・本田・三菱・いすゞなどの自動車関連企業
- [13]本社工場新設の資金調達を、当時若手銀行員でのちの第2代社長となる大津谷輝男が融資の助言で後押し
- MC journal(国際貿易・投資の総合情報誌、1999年4月号)
- [10]トヨタの旋盤ラインの7割以上を富士機械製造の自動旋盤が占めた(浅井亮宥社長の証言)
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [11]1964年5月 名古屋証券取引所市場第二部に上場(設立から5年後)
- 富士機械製造五十年の歩み
- [1]創業者・坂上守は勤務先の菅鉄工所で単能機を独自開発、本格生産の進言が容れられず独立して1959年に富士機械製造を設立
- [9]単能機の大口受注先はベアリング・電気部品・二輪車メーカーやトヨタ・本田・三菱・いすゞなどの自動車関連企業
- [13]本社工場新設の資金調達を、当時若手銀行員でのちの第2代社長となる大津谷輝男が融資の助言で後押し
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [2]1959年4月 名古屋市中川区昭和橋通で富士機械製造株式会社を設立、旋削機械・工作機械の製造を開始
- [3]1960年9月 東京営業所を開設
- [4]1961年3月 愛知県碧海郡知立町(現知立市)に工場を新設
- [5]1961年6月 本社機構を現在地(知立市)に移転
- [6]1962年10月 株式額面500円から50円への変更目的で神奈川県足柄下郡の同名会社へ吸収合併、事業実体は被合併会社が継承
- [11]1964年5月 名古屋証券取引所市場第二部に上場(設立から5年後)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]1959年4月の創立時の資本金は30万円
- [8]1959年5月にFS型単能機の一号機を市場投入
- [12]1964年10月 資本金を2億円へ増資
- MC journal(国際貿易・投資の総合情報誌、1999年4月号)
- [10]トヨタの旋盤ラインの7割以上を富士機械製造の自動旋盤が占めた(浅井亮宥社長の証言)
昭和40年不況の人員整理と経営管理体制の確立
上場の翌年にあたる1965年、いわゆる昭和40年不況が工作機械需要を直撃し、富士機械製造は約60名の人員削減に踏み切った[14]。坂上守社長も残る社員も身を切られる思いでこの整理に臨み、これは創業から現在に至るまで同社で唯一の人員削減となった[15]。その後も同社は幾度か経営の危機に直面したが、社員の整理を伴う合理化はこの一度に限られた。苦境はその日その日の操業に追われて先を見通せなかった経営を見直す契機となり、坂上守社長は明確な目的と計画性を経営に持ち込む決断を下した。経営基本方針・利益計画・設備投資計画・予算統制といった経営管理の仕組みがこの時期に始動し[16]、各部門はこれらを軸として活動を組み立てた。
- 富士機械製造五十年の歩み
- [14]1965年(昭和40年不況、上場翌年)に約60名の人員削減を実施
- [15]この人員整理は創業から現在まで富士機械製造で唯一の人員削減
- [16]1965年不況を機に経営基本方針・利益計画・設備投資計画・予算統制など経営管理の仕組みを整備
地場産業の育成に積極的なトヨタとの取引も、この時期に前進した。自動車産業への参入を期した富士機械製造は、トヨタの要望を聞き取りながら自動車部品の加工に適した機械の新規開発と単能機の性能向上に努め、1965年に取引成立へこぎ着けた[17]。1967年3月には量産加工向けの『専用機』トランスファーラインを完成し[18]、汎用機から専用機・NC化へ広がる工作機械業界の製品系統の転換に対応した。1968年3月には愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)に藤岡工場(現豊田事業所)を新設[19]して中部地区内に製造拠点を複数化し、1970年4月にはアメリカ・イリノイ州に現地法人フジアメリカコーポレイションを設立して海外販売拠点を初めて構えた[20]。
- 富士機械製造五十年の歩み
- [17]1965年 トヨタとの取引成立(自動車部品向け機械の新規開発で自動車産業へ参入)
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [18]1967年3月 「専用機」トランスファーラインを完成
- [19]1968年3月 愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)に藤岡工場(現豊田事業所)を新設
- [20]1970年4月 アメリカ・イリノイ州に現地法人フジアメリカコーポレイションを設立(海外初の販売拠点)
1971年6月に『自動組立機』、同年9月に『NC自動旋盤』を完成し[21]、加工から組立までを自動化する機械へ製品系統を広げた。富士機械製造が依拠した中部の自動車・機械加工需要は1970年代前半まで堅調に推移したが、1973年の石油危機を境に国内工作機械市場は低成長期へ移った。受注台数が落ち込むなかで同社は加工部品の内製能力を高め、1977年4月には愛知県岡崎市に株式会社マコト工業(現アドテック富士)を設立した[22]。創業から20年弱で工作機械事業の規模は広がったものの、市場の成熟と国際競争の激化が次の事業領域への転換を迫った。組立作業の自動化で培った技術は、のちの電子部品実装機事業を支える土台となった。
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [21]1971年6月 「自動組立機」、同年9月 「NC自動旋盤」を完成
- [22]1977年4月 愛知県岡崎市に株式会社マコト工業(現アドテック富士)を設立
- 富士機械製造五十年の歩み
- [14]1965年(昭和40年不況、上場翌年)に約60名の人員削減を実施
- [15]この人員整理は創業から現在まで富士機械製造で唯一の人員削減
- [16]1965年不況を機に経営基本方針・利益計画・設備投資計画・予算統制など経営管理の仕組みを整備
- [17]1965年 トヨタとの取引成立(自動車部品向け機械の新規開発で自動車産業へ参入)
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [18]1967年3月 「専用機」トランスファーラインを完成
- [19]1968年3月 愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)に藤岡工場(現豊田事業所)を新設
- [20]1970年4月 アメリカ・イリノイ州に現地法人フジアメリカコーポレイションを設立(海外初の販売拠点)
- [21]1971年6月 「自動組立機」、同年9月 「NC自動旋盤」を完成
- [22]1977年4月 愛知県岡崎市に株式会社マコト工業(現アドテック富士)を設立
1978年電子部品自動挿入機の完成と1981年自動装着機への進化
工作機械の専用機・自動組立機で蓄積した位置決め・搬送技術を基盤に、富士機械製造は1978年10月、『電子部品自動挿入機』を完成した。[23]エレクトロニクスの時代を見越して開発を指示し、成果が出るまで辛抱強く見守ったのが、当時は管理部門を率い、のちに第2代社長[24]となる大津谷輝男だった。挿入機はテレビ・ラジオ・電卓などの基板組立で人手に頼っていた作業を機械化する装置で、日本の家電・電子機器産業の量産化と歩調を合わせて需要が立ち上がった。開発は難航し、当初は200ミクロンの装着精度を確保することすら難しく挿入率は9割程度にとどまった[25]が、制御用マイクロコンピュータの変更やメカ機構の改良を二年がかりで重ねて壁を越えた。この挿入機は累計約850台を販売し[26]、富士機械製造の電子部品実装機事業の土台を築いた。並行して工作機械側でも1979年10月に『NC専用機』を完成させ[27]、両分野の技術蓄積を続けた。
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [23]1978年10月 「電子部品自動挿入機」を完成
- [27]1979年10月 「NC専用機」を完成
- 株式会社FUJI プレスリリース(2025年6月9日)
- [24]のちの第2代社長・大津谷輝男(当時は管理部門を統括)がエレクトロニクス時代を見越して挿入機開発を指示・見守った
- 富士機械製造五十年の歩み
- [25]電子部品自動挿入機の開発は難航(当初200ミクロン精度の確保が難しく挿入率9割程度)、制御の変更等を二年がかりで改善
- [26]電子部品自動挿入機は累計約850台を販売し、電子部品実装機事業の土台を築いた
1981年7月、富士機械製造は『電子部品自動装着機』を完成した[28]。挿入機がリード線付き部品を基板の穴に差し込むのに対し、装着機は表面実装部品を基板表面に貼り付ける装置で、基板の高密度化と表面実装化の進展とともに需要が広がった。もっとも初号機CP型の市場投入は平坦ではなく、納入先でのトラブルが挿入機を上回って多発し[29]、営業担当者は苦情への対応に追われた。社内でも電子部品事業は当初、工作機械を本流とみる空気のなかで採算性を疑問視され[30]、いつまで組立機を続けるのかという圧力すら受ける亜流の扱いだった。それでも装着機は工作機械由来の位置決め精度と搬送速度を武器に、松下電器(パナソニック)・ソニー・東芝などの家電・電子機器メーカーへ採用を広げ、半導体・電子機器産業の設備投資循環に連動して伸びる事業へ育った。
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [28]1981年7月 「電子部品自動装着機」を完成
- 富士機械製造五十年の歩み
- [29]初号機CP型の市場投入初期は納入先トラブルが挿入機を上回って多発した
- [30]社内で電子部品事業は当初「亜流」とみなされ採算性を疑問視された(村八分に近い扱い)
1986年4月に仙台出張所(現仙台営業所)を開設[31]、1989年6月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し[32]、電子部品実装機の生産拠点を拡大した。1990年9月、名古屋証券取引所市場第一部に指定替えとなり[33]、上場市場の格上げで資本市場からの評価も高まった。創業から30年で工作機械専業から『工作機械+電子部品実装機』の二本柱体制が確立し、後者の比重が増していく構造が定着した。1981年の自動装着機完成から数えて10年弱で、電子部品実装機は同社の主力事業へ移行する道筋に乗った。
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [31]1986年4月 仙台出張所(現仙台営業所)を開設
- [32]1989年6月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
- [33]1990年9月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
- FUJI 有価証券報告書【沿革】
- [23]1978年10月 「電子部品自動挿入機」を完成
- [27]1979年10月 「NC専用機」を完成
- [28]1981年7月 「電子部品自動装着機」を完成
- [31]1986年4月 仙台出張所(現仙台営業所)を開設
- [32]1989年6月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
- [33]1990年9月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
- 株式会社FUJI プレスリリース(2025年6月9日)
- [24]のちの第2代社長・大津谷輝男(当時は管理部門を統括)がエレクトロニクス時代を見越して挿入機開発を指示・見守った
- 富士機械製造五十年の歩み
- [25]電子部品自動挿入機の開発は難航(当初200ミクロン精度の確保が難しく挿入率9割程度)、制御の変更等を二年がかりで改善
- [26]電子部品自動挿入機は累計約850台を販売し、電子部品実装機事業の土台を築いた
- [29]初号機CP型の市場投入初期は納入先トラブルが挿入機を上回って多発した
- [30]社内で電子部品事業は当初「亜流」とみなされ採算性を疑問視された(村八分に近い扱い)