創業1959年、名古屋市中川区昭和橋通で富士機械製造株式会社が設立され、旋削機械と工作機械の製造を始めた。トヨタ自動車・豊田自動織機を擁する中部の機械工業が顧客で、受注のたびに精密な位置決めと搬送を作り込む専用機の現場から出発した。1967年にトランスファーライン、1971年に自動組立機を完成させ、加工から組立まで機械を自動化する技術をこの工作機械事業で蓄えていった。
決断工作機械で磨いた精密位置決め・搬送技術を、電子機器の基板組立へ転用した一手が会社を作り替えた。1978年に電子部品自動挿入機、1981年に自動装着機を完成させ、家電・電子機器の量産需要を捉えて実装機が母体の工作機械を追い越し、世界市場で上位シェアを握る主力へ育った。2003年にはモジュール型のNXTで多品種少量化に対応し、2018年には海外で通る製品名へ社名を「FUJI」と改めた。
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- 歴史詳細 3章・6,895字 /tse/6134/#history
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- 沿革年表 36件 /tse/6134/timeline/
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1976〜2026年(51カ年) /tse/6134/financials/
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績 /tse/6134/current/
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2004〜2025年(22カ年) /tse/6134/segment/
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 /tse/6134/ceo/
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年) /tse/6134/executives/
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 2005〜2024年(20カ年) /tse/6134/shareholders/
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2001〜2025年(25カ年) /tse/6134/workforce/
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜFUJIは1959年の創業時から専用機にこだわったのか
- A 富士機械製造の創業者・坂上守氏は、前職の菅鉄工所で単能機を独自に開発し本格生産を進言したが容れられず、自ら会社を起こした。この原体験から、汎用機ではなく顧客の量産工程に合わせて精度を作り込む専用機を出発点に据えた。1959年4月に名古屋市中川区昭和橋通で富士機械製造を設立し、トヨタ自動車・本田技研・三菱・いすゞといった中部の自動車関連企業へ自動旋盤を納め、トヨタでは旋盤ラインの七割以上を同社の機械が占めた。受注のたびに位置決めと搬送を作り込むこの現場が、のちの技術の土台となった。
- Q なぜ工作機械メーカーのFUJIは1978年に電子部品実装機へ転じたのか
- A 1973年の石油危機を境に国内の工作機械市場は低成長へ移り、市場の成熟と国際競争の激化が次の事業領域への転換を迫った。そこで富士機械製造は、工作機械の専用機・自動組立機で磨いた精密な位置決めと搬送の技術を、電子機器の基板組立へ転用する道を選んだ。1978年10月に電子部品自動挿入機、1981年7月に自動装着機を完成させ、社内で工作機械を本流とみる空気のなか採算を疑われながらも、家電・電子機器の量産化に乗って採用を広げた。1990年代後半には電子部品実装機の世界販売台数で上位を占め、母体の工作機械を追い越す主力事業に育った。
- Q なぜ五十棲社長は2023年就任後の中期経営計画2026でROE10%・PBR1.1倍以上を掲げたのか
- A 電子部品実装機の世界需要は設備投資の循環で振れ、ほぼ無借金で手元資金を厚く積むFUJIの株価は純資産を下回りやすかった。溜め込んだ資産を循環の谷でも利益と株主配分へ変える財務の規律をどう作るかが、五十棲丈二社長の課題だった。2023年5月に五十棲氏が第7代社長へ就任し、2027年3月期にROE10%・PBR1.1倍以上を達成する目標を中期経営計画2026へ掲げ、配当下限80円・配当性向50%以上の株主還元を約束した。あわせてシリコンバレーのスタートアップと組み、装着機の需要循環に依存した業績変動を緩める新規事業の開発も進めた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1959年〜1990年 旋削機械からの脱出と電子部品自動装着機への転換
創業者・坂上守の独立と単能機メーカーとしての出発
富士機械製造の創業者・坂上守は、独立前に勤めた菅鉄工所で工作機械の一種である単能機を独自に開発し、その本格生産を経営側へ進言したものの容れられず、自ら新会社を起こす道を選んだ[1]。1959年4月、名古屋市中川区昭和橋通において富士機械製造株式会社が設立され、旋削機械とその他の工作機械の製造を開始した[2]。創業の地は中部の機械工業集積地で、当時の名古屋・愛知県は豊田自動織機・トヨタ自動車を中心に自動車向けの工作機械需要が膨らんでいた時期にあたる。設立当初は旋盤などの汎用工作機械を中部の機械加工業者へ供給する小規模事業者だった。1960年9月に東京営業所[3]、1961年3月に愛知県碧海郡知立町(現知立市)の工場を新設[4]し、同年6月に現在地の知立市へ本社機構を移転した[5]。1962年10月には株式額面500円から50円への変更を目的として神奈川県足柄下郡の同名会社へ吸収合併される手続を経たが、事業の実体は被合併会社がそのまま継承し[6]、富士機械製造の屋号は変わらなかった。
設立後まもなく単能機の生産体制が整うと、高い生産性を聞き伝えたユーザーが各地から知立を訪れ、その場で発注する例が相次いだ。1959年4月に資本金30万円で出発した同社は[8]、同年5月にFS型単能機の一号機を市場へ送り出した[9]。ベアリングや電気部品、二輪車のメーカーに加え、トヨタ自動車・本田技研・三菱・いすゞといった自動車関連企業が自動旋盤の主要な納入先となり[7]、トヨタでは旋盤ラインの七割以上を富士機械製造の自動旋盤が占めた[10]。1964年5月、設立から5年で名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場し[11]、同年10月には資本金を2億円へ増資して[12]急拡大する工作機械需要に応える設備投資の原資を厚くした。本社工場の新設にあたっては、銀行との取引が浅く与信を得にくいなかで資金調達が課題となったが、当時は若手銀行員で、のちに第2代社長となる大津谷輝男が融資の助言を通じて資金の捻出を後押しした[13]。
昭和40年不況の人員整理と経営管理体制の確立
上場の翌年にあたる1965年、いわゆる昭和40年不況が工作機械需要を直撃し、富士機械製造は約60名の人員削減に踏み切った[14]。坂上社長も残る社員も身を切られる思いでこの整理に臨み、これは創業から現在に至るまで同社で唯一の人員削減となった[15]。その後も同社は幾度か経営の危機に直面したが、社員の整理を伴う合理化はこの一度に限られた。苦境はその日その日の操業に追われて先を見通せなかった経営を見直す契機となり、坂上社長は明確な目的と計画性を経営に持ち込む決断を下した。経営基本方針・利益計画・設備投資計画・予算統制といった経営管理の仕組みがこの時期に始動し[16]、各部門はこれらを軸として活動を組み立てた。
地場産業の育成に積極的なトヨタとの取引も、この時期に前進した。自動車産業への参入を期した富士機械製造は、トヨタの要望を聞き取りながら自動車部品の加工に適した機械の新規開発と単能機の性能向上に努め、1965年に取引成立へこぎ着けた[17]。1967年3月には量産加工向けの「専用機」トランスファーラインを完成し[18]、汎用機から専用機・NC化へ広がる工作機械業界の製品系統の転換に対応した。1968年3月には愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)に藤岡工場(現豊田事業所)を新設[19]して中部地区内に製造拠点を複数化し、1970年4月にはアメリカ・イリノイ州に現地法人フジアメリカコーポレイションを設立して海外販売拠点を初めて構えた[20]。
1971年6月に「自動組立機」、同年9月に「NC自動旋盤」を完成し[21]、加工から組立までを自動化する機械へ製品系統を広げた。富士機械製造が依拠した中部の自動車・機械加工需要は1970年代前半まで堅調に推移したが、1973年の石油危機を境に国内工作機械市場は低成長期へ移った。受注台数が落ち込むなかで同社は加工部品の内製能力を高め、1977年4月には愛知県岡崎市に株式会社マコト工業(現アドテック富士)を設立した[22]。創業から20年弱で工作機械事業の規模は広がったものの、市場の成熟と国際競争の激化が次の事業領域への転換を迫った。組立作業の自動化で培った技術は、のちの電子部品実装機事業を支える土台となった。
1978年電子部品自動挿入機の完成と1981年自動装着機への進化
工作機械の専用機・自動組立機で蓄積した位置決め・搬送技術を基盤に、富士機械製造は1978年10月、「電子部品自動挿入機」を完成した[23]。エレクトロニクスの時代を見越して開発を指示し、成果が出るまで辛抱強く見守ったのが、当時は管理部門を率い、のちに第2代社長となる大津谷輝男だった[24]。挿入機はテレビ・ラジオ・電卓などの基板組立で人手に頼っていた作業を機械化する装置で、日本の家電・電子機器産業の量産化と歩調を合わせて需要が立ち上がった。開発は難航し、当初は200ミクロンの装着精度を確保することすら難しく挿入率は9割程度にとどまった[25]が、制御用マイクロコンピュータの変更やメカ機構の改良を二年がかりで重ねて壁を越えた。この挿入機は累計約850台を販売し[26]、富士機械製造の電子部品実装機事業の土台を築いた。並行して工作機械側でも1979年10月に「NC専用機」を完成させ[27]、両分野の技術蓄積を続けた。
1981年7月、富士機械製造は「電子部品自動装着機」を完成した[28]。挿入機がリード線付き部品を基板の穴に差し込むのに対し、装着機は表面実装部品を基板表面に貼り付ける装置で、基板の高密度化と表面実装化の進展とともに需要が広がった。もっとも初号機CP型の市場投入は平坦ではなく、納入先でのトラブルが挿入機を上回って多発し[29]、営業担当者は苦情への対応に追われた。社内でも電子部品事業は当初、工作機械を本流とみる空気のなかで採算性を疑問視され[30]、「いつまで組立機を続けるのか」という圧力すら受ける亜流の扱いだった。それでも装着機は工作機械由来の位置決め精度と搬送速度を武器に、松下電器(パナソニック)・ソニー・東芝などの家電・電子機器メーカーへ採用を広げ、半導体・電子機器産業の設備投資循環に連動して伸びる事業へ育った。
1986年4月に仙台出張所(現仙台営業所)を開設[31]、1989年6月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し[32]、電子部品実装機の生産拠点を拡大した。1990年9月、名古屋証券取引所市場第一部に指定替えとなり[33]、上場市場の格上げで資本市場からの評価も高まった。創業から30年で工作機械専業から「工作機械+電子部品実装機」の二本柱体制が確立し、後者の比重が増していく構造が定着した。1981年の自動装着機完成から数えて10年弱で、電子部品実装機は同社の主力事業へ移行する道筋に乗った。
1991年〜2017年 電子部品実装機での世界首位定着と工作機械事業の足踏み
1991年欧州拠点設置とNXTモジュール型の世界展開
1991年11月、富士機械製造はドイツ・フランクフルト(現ケルスターバッハ)に現地法人フジマシンマニュファクチュアリング(ヨーロッパ)ゲーエムベーハー(現フジヨーロッパコーポレイション)を設立した[34]。1970年の北米拠点に続く海外現地法人で、欧州の自動車・産業機器向け電子部品実装機需要を捉える前線基地と位置付けられた。1992年11月には愛知県豊橋市に株式会社リンセイシステムを設立、1994年10月に東京都品川区の株式会社エデックを買収し、両社は2003年4月に合併して株式会社エデックリンセイシステム(現連結子会社)となった[35]。1994年11月にはアメリカ・イリノイ州に現地法人フジマシンアメリカコーポレイションを、1995年11月にはブラジル・サンパウロに現地法人フジドブラジルマキナスインダストリアイスリミターダを設立し[36]、北米・南米・欧州の主要市場に営業・サービス拠点を整えた。
1990年代を通じて電子部品実装機の世界市場は、携帯電話・パソコン・カーエレクトロニクスといった量産電子機器の需要拡大で年率二桁ペースで伸びた。実装機メーカーは富士機械製造のほかパナソニック(旧松下電器)・ヤマハ発動機・ジューキ(現ジューキ・JUKI)といった国内大手と、欧州のシーメンス(後にASMアセンブリーシステムズへ事業譲渡)・アッセンブレオン(フィリップス系)などが参入する国際競争市場となった。同社はモジュール構造・実装速度・対応部品の小型化対応で世界市場でのシェアを高め、1990年代後半には電子部品実装機(チップマウンタ)の世界販売台数で上位の位置を占めるに至った[37]。
NXTの開発は、主力だったロータリー型装着機「CP」シリーズが1990年代後半に台頭したテーブル固定型の高速機へ押され始める[38]なか、従来機の常識を覆す賭けとして始まった。2003年6月、同社は「モジュール型高速多機能装着機 NXT」を完成した[39]。NXTは生産ラインの構成変更や生産品目の切り替えに対応できるモジュール構造を採用した装着機で、それまでの専用機型装着機とは異なる柔軟性を備えた。家電製品のライフサイクル短縮と多品種少量化が進む実装市場の構造変化に対応した機種で、富士機械製造は2000年代を通じてNXT系統で世界市場での販売台数を伸ばした。2007年11月に中国・上海に現地法人富社(上海)商貿有限公司、2012年1月には中国・昆山に昆山之富士機械製造有限公司を設立し[40]、中国を中心とするアジアの電子機器組立工場向け販売・サービス体制を強化した。2013年6月には東京証券取引所市場第一部に上場し[41]た。
当初は工作機械の専業メーカーとしてスタートしました。 ご承知だと思いますが、この表面実装の分野のサプライヤーとしては、当社が世界のトップになっています。
過去10年以上にわたって会社を支えてきたといっても過言ではない商品でありましたから、社内にはまだまだ復活するという意見、というより期待がありました。 開発案として浮上したひとつが、今でいう「NXT」です。従来機とはコンセプトの全く異なる、しかも技術の常識すら覆すような開発案には、多くの反対や厳しい意見がありました。しかし、若手を中心とした技術者の熱意は、それを押しやるのに十分なものでした。
リーマンショック・需要変動下での工作機械事業の構造劣位
電子部品実装機事業が世界市場で首位級の地位を固めた一方、工作機械事業は2000年代以降も国内市場の成熟と海外メーカーとの競合で苦戦が続いた。連結売上に占める工作機械(マシンツール)事業の比率は2010年代を通じて1割前後にとどまり、収益面でもセグメント営業利益が赤字となる期が頻発した。FY10のセグメント利益はマシンツール▲913百万円、FY14も▲203百万円、FY16は▲712百万円と、リーマンショック後の国内工作機械需要の振れに耐えられない構造が露わになった。同期間に電子部品組立機(後のロボットソリューション)事業のセグメント利益はFY10で24,798百万円、FY14で15,223百万円、FY16で14,545百万円と一貫して二桁億円を稼ぎ、グループ内の収益貢献度は事実上電子部品実装機事業に集中した。
2008年9月のリーマンショックは電子機器設備投資の急減を通じて同社の業績も直撃し、FY09の連結売上高は前期の69,485百万円から41,747百万円へほぼ半減、連結純損益は4,828百万円の赤字に転落した。1959年の創業以来、初の連結赤字計上で、電子部品実装機事業の世界需要連動性の高さが業績変動の主因として顕在化した。一方でFY10には連結売上高92,893百万円、純利益12,914百万円へ急回復し、電子機器設備投資の景気循環に応じてセグメント利益が振れる構造が定着した。経常利益はFY09の▲5,842百万円からFY10の20,289百万円へV字回復しており、装着機需要の振幅がそのまま全社業績を揺さぶる事業構造である。
2015年3月期からは事業セグメント名称を「電子部品組立機」からロボットソリューションへ変更し、装着機単機の販売から実装ライン全体のソリューション提供へと事業概念を拡張した。スマートフォン・タブレット・車載エレクトロニクスといった電子機器の新カテゴリ拡大に対応し、FY17には連結売上高120,032百万円・純利益17,523百万円と過去最高水準の業績を計上した。一方で工作機械事業の構造的な収益劣位は2010年代を通じて改善せず、グループ全体の収益構造はロボットソリューション一本足の色を強めた。
2018年〜2025年 株式会社FUJI への社名変更とロボティクス領域拡張
2018年「FUJI」社名変更とファスフォードテクノロジ買収
2018年8月、富士機械製造は商号を「株式会社FUJI」へ変更した[42]。同時に山梨県南アルプス市のファスフォードテクノロジ株式会社を買収し、現連結子会社として半導体後工程のダイボンダ(半導体チップを基板に接合する装置)事業へ本格参入した[43]。社名変更について第5代社長の曽我信之社長は、海外市場で浸透した製品ブランド名「FUJI」と社名を一致させる狙いを示し[44]、工作機械メーカー色の強い旧社名と海外で確立したブランドとの乖離を解消する意思を表明した。後任の第6代社長の須原信介社長も、機械メーカー色の強い旧来イメージから脱し、製造設備にとどまらない多様な製品展開を志向すると語り[45]、工作機械の旧屋号からの自己定義刷新を経営課題として位置付けた。
ファスフォードテクノロジ買収は、電子部品実装機事業(基板へのチップ実装)に隣接する半導体後工程市場(チップとリードフレーム・基板の接合)への展開で、装着機で培った精密位置決め技術と画像認識技術を半導体組立工程へ転用する判断であった。半導体製造装置市場は2010年代半ばから生成AI・データセンター需要・5G通信向けの設備投資拡大で急成長しており、電子部品実装機の単機販売市場とは異なる需要曲線を持つ事業領域への参入であった。2019年3月には豊田事業所に新工場棟を建設[46]、同年12月にはインド・ハリヤナ州に現地法人フジインディアコーポレイションプライベートリミテッドを設立し[47]、世界の電子機器組立拠点の南進と並行して販売・サービス拠点を新興国へ広げた。
2019年5月、社長に第6代の須原信介氏が就任した[48]。須原社長は無人化やデジタル変革(DX)を急ぎ、ロボットやIoTの技術を生かして新事業も育てる方針を示し[49]、電子部品実装機の単機販売を超えてロボット・IoT・全自動化を軸とする事業領域へ主力を広げる方針を示した。同社が掲げた「3つのゼロ」(実装不良ゼロ・オペレータゼロ・機械停止ゼロ)は、装着機の単体性能ではなく実装ラインの全工程を無人化する方向性を示すコンセプトで、装着機メーカーから実装ライン総合ベンダーへの自己定義変更を象徴した。2020年2月には愛知県知立市(本社内)にFUJIリニア株式会社を設立し[50]、リニアモーター駆動式の装着機新機種の開発・生産体制を整えた。2021年7月にはシンガポールのフジマシンアジアプライベートリミテッドの株式を全て取得し、東南アジア地域の販売・サービス会社を完全子会社化した[51]。
中期経営計画2026とROE10%目標 ── 五十棲社長による全方位戦略
2022年4月、東京証券取引所及び名古屋証券取引所の市場区分見直しにより、FUJIは東証一部からプライム市場、名古屋証券取引所一部からプレミア市場へそれぞれ移行した[52]。同年6月、須原社長から第5代の曽我信之氏が会長兼社長として復帰し[53]、工作機械事業の立て直しと電子部品実装機事業の収益確保を並行して進める体制となった。曽我会長兼社長は技術力に磨きをかけて工作機械の汎用性を高め拡販するとの方針を示し[54]、長年セグメント赤字を計上してきた工作機械事業の汎用化と立て直しを公約した。FY21の連結売上高は148,128百万円・純利益21,188百万円と過去最高水準を更新し、コロナ禍前後の電子部品実装機需要拡大に乗った業績となった。
2023年5月、第7代社長に五十棲丈二氏が就任した[55]。五十棲社長は、顧客が電子基板を作ろうと考えたときに最初に相談する相手となる会社像を掲げ[56]、電子基板の組立プロセス全体に対する総合提案力を経営目標として明示した。同年から2027年3月期までの3年間を対象とする「中期経営計画2026」では、ROE10%・PBR1.1倍以上を2027年3月期に達成する財務目標を明示し、配当下限80円・配当性向50%以上の株主還元方針を提示した[57]。FY23の連結売上高は127,059百万円・純利益10,438百万円と、FY21・FY22のピーク水準から急減速したが、世界の電子部品設備投資の循環底からの回復を見据えて中計目標を維持した。五十棲社長は同時に、シリコンバレーのスタートアップとの協業によるロボティクス領域の事業開発も強化した。協業ではタイム・アドバンテージを重視し、素早い購買判断と試作評価を経て実顧客環境でテストする進め方をとり[58]、移乗サポートロボット「Hug」やスマートロッカー製品など電子部品実装機・半導体製造装置とは異なる新規事業領域の開発を進めた。これらの新規事業はFY24時点で連結売上の中核に届く規模ではないが、装着機の世界需要循環に依存した業績変動を緩和する事業ポートフォリオ拡張の試みである。2024年9月には岡崎工場の一部を建替えて新工場棟を建設、2025年4月には福岡営業所を開設し[59]、生産・販売の拠点拡張も継続した。
1959年に名古屋の旋削機械メーカーとして出発した同社は、1978年の電子部品自動挿入機投入で電子部品実装機事業へ軸を移し、2018年に「富士機械製造」から「株式会社FUJI」への社名変更で工作機械メーカーとしての自己定義を更新した[60]。電子部品実装機の世界市場でパナソニック・ASMアセンブリーシステムズと並ぶ上位の地位を確立する一方、工作機械事業の構造的赤字とロボティクス新規事業の収益化という二つの課題を抱える状況にあり、五十棲社長の体制で進める中期経営計画2026がそれらを束ねる経営課題として残った。