歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1897年、電力と電話の幹線網が全国へ延び始めた時期に、住友本店が経営難の日本製銅を買収し、大阪に住友伸銅場を開いた。別子銅山で掘った銅を国内で電線や通信ケーブルへ加工し、付加価値を取り込むためである。地金を伸ばす伸銅と、それを巻く電線ケーブルが同じ工場から出発した。この素材と加工の近接が、後年の事業構成を決めていく。
決断銅電線の隣にイゲタロイ・光ファイバ・電子部品と自社で広げてきた住友電工が、外部から事業を抱え込む側に回ったのが2006年だった。独ハーネスメーカーを買収し、翌2007年に住友電装を完全子会社化、日新電機も連結に取り込む。これで自動車部品の世界シェア争いへ本格参入し、売上は2兆円台から4兆円台へ伸びた。ただし稼ぎの中心が完成車の生産台数に連動するハーネスへ移り、利益が世界の自動車市況で振れる構造もここで固まった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1897年〜1949年 銅から電線へ ── 住友財閥の素材部門
伸銅場を出発点にした非鉄素材の垂直分岐
1897年、住友本店は経営難に陥っていた日本製銅を買収し、大阪市北区安治川上通に住友伸銅場を開設して銅電線と伸銅製品の製造を始めた[1]。素材の伸銅と、加工品の電線ケーブルが同じ屋根の下から出発した点が、後の事業展開の性格を決定づけている。1899年には大阪製銅も買収して中之島分工場を開設し、1900年には被覆線、1909年には通信用ケーブルの試作と、電線の品目を1つずつ積み上げた[2][3]。住友家は明治初期に別子銅山の近代化で成功した財閥で、その銅を国内で付加価値の高い電線・通信ケーブルに加工する垂直統合モデルを住友伸銅場に託した形である[4]。明治末期に電力事業と電話網が全国に広がり始めると国産電線の需要は拡大し、伸銅場は住友財閥の非鉄素材部門の中核として重要性を高めた。
1911年、住友伸銅場から電線製造業を分離して住友電線製造所を設置し、電力用・通信用・特殊用途まで含めたあらゆる電線ケーブルを供給できる専業メーカーに組み替えた[5]。1920年には住友総本店から独立し、資本金1,000万円の株式会社住友電線製造所として発足する[6]。1931年に超硬工具ブランド「イゲタロイ」の製造を開始すると並行して東海電線(現・住友電装)に資本参加し、1937年には東海護謨工業(現・住友理工)にも出資した[7]。電線という主幹から、超硬材料・ゴム・特殊金属線という枝が生え揃っていった時代で、この戦前の関係会社群が戦後に連結グループを形づくる土台となる。イゲタロイは住友電線製造所が超硬工具事業へ進出した起点で、同社を電線専業から総合非鉄素材メーカーへ押し広げる契機となった[8]。
戦時体制期の総合電気工業化と上場
1939年、社名を住友電線製造所から住友電気工業株式会社に変更した[9]。1931年以降のイゲタロイ超硬工具、1932年の耐酸ニッケル線など特殊金属線、1943年の防振ゴム、1948年の焼結製品と、電線の外側へ品目を広げていた実態に、社名が追いついた形である[10]。1941年には伊丹市に伊丹製作所を開設し、戦時下の軍需増産に合わせて生産拠点を拡張した[11]。主力工場だった大阪製作所と新設の伊丹製作所は、戦後長く量産拠点の中核となった。戦時中は陸海軍向けの特殊電線や超硬工具の生産に動員され、住友財閥の中でも軍需色の強い事業会社となったが、1945年の敗戦後は民需転換を迫られ、財閥解体の直撃を免れる形で住友電工本体は会社組織を維持しながら戦後の再出発を図った。
1946年に東京・名古屋・福岡へ支店を開設して販売網を全国に張り直し、1949年には戦後の財閥解体と証券市場再開を受けて東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場した[12][13]。同じ1949年、架空送電線工事部門に進出し、後に主力事業となる自動車用ワイヤーハーネス事業にも参入している[14]。送電網の建設工事と、自動車の配線束(ハーネス)という2つの新事業が同じ年に立ち上がり、戦前からの電線メーカーが送電・自動車・通信という戦後の巨大インフラ産業に足場を築く構図がほぼ出揃った。戦後の復興期を経て1950年代以降は日本の電力9社の送電網整備や、トヨタ・日産をはじめとする国産自動車メーカーの量産立ち上がりに歩調を合わせ、送配電ケーブルとワイヤーハーネスの安定供給で存在感を強めた。
1950年〜2005年 光ファイバと半導体、海外ハーネス ── 非鉄素材メーカーの多角化
1970年代に集中した機能素材の技術の束
1962年の電子線照射イラックスチューブ、1964年の電子線照射電線、1968年の交通管制システム、1969年のFPC(フレキシブルプリント回路)、1970年の化合物半導体、1974年の光ファイバ・ケーブル、1985年の合成ダイヤモンド単結晶と、1960年代後半から1970年代前半にかけて新事業が集中して立ち上がっている[15][16]。いずれも銅・アルミといった汎用素材ではなく、電子・光学・超硬といった機能素材領域であり、いまの住友電工を構成する主力事業の原型は、この十数年のあいだにほぼすべて姿を現している。伊丹製作所の跡地に研究所機能が集積し、戦前から続く金属・粉末冶金の蓄積が電子線照射や単結晶合成といった新技術と出会った時期で、1968年の交通管制システムのような社会インフラ領域にも事業を広げた。
戦前からの伸銅・電線という「素材と加工の近接」というDNAが、高度成長期の終盤に入って電子材料・光材料の自社開発に振り向けられた形といえる。特に光ファイバは、同じ1970年代に本格化した国内電電公社(現NTT)の通信インフラ投資と歩調を合わせて立ち上がり、化合物半導体は後のGaAs・InP光デバイス事業の源流となった。1976年のナイジェリア通信網工事受注、1979年の初の時価発行増資など、海外受注と資本調達の手段も1970年代後半に広がっていった[17][18]。非鉄素材メーカーの事業ポートフォリオは電子部品寄りに重心を移し、売上構成のなかで電子・情報通信系が占める比率は1970年代を通じて高まり、従来の電線会社という位置づけから総合電気工業メーカーへの脱皮が進んだ。
海外ハーネス展開と電力ケーブル事業の業界再編
1986年に米国でスミトモ エレクトリック ワイヤリング システムズを設立し、自動車用ワイヤーハーネスの現地供給体制の第一歩を記した[19]。1994年には米国に光ファイバ子会社スミトモ エレクトリック ライトウェーブを設立している[20]。2001年には高圧電力用電線事業を日立電線との合弁ジェイ・パワーシステムズに移管し、国内電力ケーブル事業の業界再編に踏み込んだ[21]。1999年のブレーキ・ABS事業の住友電工ブレーキシステムズへの譲渡、同年の住友電工ファインポリマー分社、2002年のADSL・特殊金属線・巻線事業の会社分割、2003年の粉末合金・ダイヤ事業の住友電工ハードメタル分社と、1990年代末から2000年代初頭にかけて事業ごとの独立採算化と集約が矢継ぎ早に進んだ[22]。
その間に売上高は増加基調を維持し、2002年3月期の1兆4,850億円から2005年3月期には1兆7,401億円へ伸びた。2003年に執行役員制と事業本部制を導入し、電線メーカーから「事業本部の連邦」型の総合電気工業へと組織の建て付けを切り替えた時期でもある[23]。本社は早く1962年に大阪市此花区から中央区の現在地へ移っており、この時期は管理部門の集約が進んだ[24]。1986年にスミトモ エレクトリック ワイヤリング システムズを米国に設立してから十数年の間に、自動車ワイヤーハーネスを世界供給できる体制はすでに整っており、1994年には米国光ファイバ子会社スミトモ エレクトリック ライトウェーブを設立、2001年には高圧電力用電線事業を日立電線との合弁ジェイ・パワーシステムズに移管するなど、海外展開と国内再編が同時並行で進んだ時期でもあった。
2006年〜2023年 自動車ワイヤーハーネス事業の世界展開と利益の振れ幅
欧州ハーネス買収と住友電装の完全子会社化
2006年、住友電気工業はドイツの自動車用ワイヤーハーネスメーカーを買収し(現・スミトモ エレクトリック ボードネッツェ)、欧州完成車メーカーへのハーネス直接供給体制を獲得した[25]。翌2007年には住友電装を完全子会社化し、同時に日新電機も連結子会社化している[26]。電線メーカーの枠を超え、自動車部品の世界シェア争いに本格参入した判断で、売上高は2007年3月期に2兆3,843億円、2008年3月期に2兆5,408億円まで拡大し、営業利益は同期に過去最高の1,489億円に達した。1997年に100周年を迎えた住友電工は、それから10年弱で売上規模を1兆円台後半から2兆5,000億円台へと伸ばし、特にワイヤーハーネスと電装エレクトロニクスが北米・欧州で量的にも質的にも存在感を高めていき、グローバル自動車部品メーカーとしての位置を得た時期となった[27]。
2009年3月期、リーマンショックで売上は2兆1,219億円へ縮み、営業利益は前期の1,489億円から235億円へ約1/6に急落した。日本セグメント営業損益は▲10億円の赤字に転落し、ワイヤーハーネス依存の収益構造の振れ幅が露わになった。翌2010年3月期以降は回復したものの、以降も連結営業利益率は4〜6%台にとどまり、売上規模の割に薄い収益性が続く構造となった。2006年の欧州買収と2007年の住友電装・日新電機の連結子会社化で短期間に膨らませた事業群をどう稼がせるか、親子上場の整理をどう進めるか、情報通信事業の赤字をどう黒字化するかという3つの重い課題が、そのまま次の10年の経営課題として積み残され、続く松本・井上両政権の下で長期的な再構築の対象となった。
赤字を抱え続けた情報通信と、環境エネルギーの伸長
2011年3月期以降のセグメント開示では、情報通信関連事業が長く赤字と黒字のあいだを往来した。2012年3月期は営業損失▲58億円、2013年3月期は▲102億円、2014年3月期は▲11億円、2024年3月期も▲115億円と、構造的な収益改善がなかなか実現しない状態が続いた。国内光ファイバ価格競争の激化、海外勢との低価格競争、国内通信投資のピークアウトが重なった時期で、1974年に立ち上げた光ファイバ事業は、事業規模のわりにまったく採算が合わない状態で推移した[28]。コーニングやプリズミアンといった欧米の大手ケーブルメーカーとの国際価格競争のなかで、同業他社と共同歩調をとりにくい住友電工単独での光ファイバ事業は苦戦を強いられ、生産拠点の再編と縮小を続けながら次の需要局面を待ち続ける時期となった。
一方で環境エネルギー関連事業は電力ケーブル・電動車モーター用平角巻線を軸に伸び、2013年3月期の売上4,960億円から2022年3月期の8,096億円・営業利益440億円へと拡大した。2014年のジェイ・パワーシステムズ完全子会社化は、日立電線との合弁を解消して電力ケーブル事業を単独運営に戻す決断で、2024年のドイツ電力ケーブルメーカー、ズートカーベル買収と合わせ、欧州洋上風力・送電網投資を取り込む足場となった[29][30]。2023年には日新電機・テクノアソシエを完全子会社化し、親子上場の部分解消にも踏み切っている[31]。脱炭素投資と電動車シフトが世界的に重なり、電力ケーブルと電動車モーター用巻線は長年のコモディティ事業から一転して成長事業へ変貌し、住友電工の収益構造を支える新たな柱となった。
松本から井上へ、11年ぶりの社長交代
代表取締役社長は、2005年度以降11年にわたり松本正義が務め、2016年度に井上治へバトンタッチした[32]。松本時代は2006年の欧州ハーネス買収、2007年の住友電装・日新電機の子会社化、2014年のジェイ・パワーシステムズ完全子会社化まで、規模拡大と事業ポートフォリオの再編が重なった時期である。井上体制は、引き継いだ事業群の収益性改善と、親子上場解消・情報通信事業の立て直しという後片付けの課題を抱えて出発した。2019年に茨城製作所を開設して国内生産基盤を刷新し、2022年には東証プライム市場へ移行、2023年には日新電機・テクノアソシエの完全子会社化を実行するなど、井上政権下で長年の懸案だった親子上場解消と収益構造の立て直しが進んだ[33][34]。
この間、売上高は2006年3月期の2兆71億円から2024年3月期の4兆4,028億円へほぼ倍増したが、営業利益率は2%台から5%台の幅で推移し、規模拡大と収益性改善が常にトレードオフの関係にあったことがうかがえる。2022年の東証プライム市場移行、2019年の茨城製作所開設といった国内基盤の整備も井上在任中に進み、長期政権の交代というより、事業拡大サイクルから収益化サイクルへの移行点となった時期である[35]。松本時代の拡大路線で積み上がった海外買収案件と親子上場グループを、井上時代にかけて「稼ぐ事業」に組み替える作業が進み、その成果が2024年度以降の利益回復として目に見える形で現れ、住友電工の収益基盤は様変わりした。