終戦後に左傾化した労働組合員(共産党員)による運動が激化。1950年には大日本印刷でも20日のストライキが勃発し、経営層と労働者の対立が深刻化した
実は戦後、うちには共産党員がたくさんいて、色々問題がありました。私は団交を4年間、朝から晩までやりました。世間では大日本印刷は潰れるんじゃないかと言われたし、私自身ももうダメだと思ったことが何度もあった。おそらく、従業員もそういう気持ちを持っていたと思います。印刷業は当時の共産党が狙う1つの拠点だった。おそのため有力なお得意は取られてしまったのです。
そこで、共産党から企業を守らなければならないということから、企業防衛隊を作りました。そしてレッド・パージで50何名かを解雇したけれども、新宿地区の党員が何百人か押しかけ、流血の惨事まで引き起こしたのです。あの時、従業員の中には頭を割られたりした人もいましたけれども、会社へ入れないよう防衛してくれたのです。
レッドパージにより過激化した組合員を解雇したことで労働争議を集結。1951年6月から経営再建のために「5ヵ年計画」を策定し、印刷業における設備投資を再開した。
大日本印刷の社長に北島織衛氏が就任。エレクトロニクス領域(TV用シャドーマスクへの参入)の強化によって、印刷メーカーから総合メーカーへと転身し、北島氏は「中興の祖」と位置付けられた。
このため、大日本印刷では北島家が経営の支配権を握り、歴代の社長については、北島家の出身者が選ばれる体制が現在まで続いている。
印刷事業から多角化するために、エレクトロニクスの領域に参入。TV向けのシャドーマスクの生産を開始
われわれは、どうも出版という1本の柱だけに頼っておったのでは何と言っても基盤が脆弱で、われわれの努力以外の原因で会社の運命を左右されるとか苦しくなった利するような状態では困るので、毛利元就ではないけれども、なんとか3本くらいの柱を持って支えたいというので、同じ印刷技術を使って他の仕事を始めたわけです。
紙器印刷の事業を拡大することを目的として、コカコーラの日本展開における北海道地区のボトリングに参入。北海道コカ・コーラボトリングを設立して、北海道地区のコカコーラ製品におけるボトリング事業に参入した。
コカコーラから北海道をやってくれないか、という話があった。私としては、これを断るべきか、慎重に考えたのですが、断ればカドがたって、あとの仕事にも支障をきたすだろう。それなら思い切ってやって、ファミリー・メンバーになっておこう。そして、紙コップその他いろいろある印刷を一手にやろう、というふうに考えたわけです。根本は大日本印刷の受注量の拡大なのです。
独自の技術を開発していかなければならない。その技術も一つの分野だけでできるようなことは少なくなってきていますので、いろんな方面の技術が組み合わさった上で、新しい技術に発展していくということになると思うんです。ですから、やはりそういう研究開発部門、特に先ほど言いましたエレクトロニクスの部門と、あるいは建材の部門を伸ばしていきたい。
当社でも、いち早く自主開発を目標に、技術開発推進プロジェクトを結成して対応しております。