松島炭鉱が長崎県の離島に置かれたのは、そこで石炭が採れたからではなく、長崎という積出港を三井鉱山が手放せなかったからである。三池に築港を完成させて石炭船を集めてもなお、長崎向けの急場に間に合う炭鉱が要る。その必要から、古賀鉱業が掘っていた鉱区を買い、経営を担う器として1913年に会社が作られた。だから創立時の4万株のうち2万4千株は三井鉱山と三井物産が持ち、出炭の一手販売も三井物産へ委ねられている。掘る仕事だけが会社に残され、売る仕事は初めから外にあった。三井が長崎で必要としたのは会社ではなく炭であり、会社はその炭を届けるための器だったのだろう。
器であることは、中身を入れ替えられるということでもある。1929年と1934年の水没で第三坑と第四坑を続けて失い、松島鉱区は22年で操業を終えた。掘る場所を失えば炭鉱会社は消える。消えなかったのは、17年前から資金を注ぎ続けた大島炭砿の鉱区が、同社の解散を経て共有財産として手元に残っていたからである。1935年5月に三井鉱山の持分を取得すると、会社は長崎の島から別の島へ事業の一切を移した。社名は松島のままで、掘る場所だけが替わる。相次ぐ水没で資本は削られ、引き受け手のない新株を三井鉱山と三井物産が肩代わりした結果、両社の持株は総株数56,000株のうち47,725株に達した。会社を残したのは鉱区の買収であり、それを可能にしたのは三井の資本であった。
松島炭鉱株式会社は、三井鉱山が長崎という積出市場を手放さないために置いた傍系会社であった。三井は三池炭鉱に築港を完成させて石炭船を三池へ吸収していたが、一大市場である長崎を等閑にはできず、長崎に近く輸送その他で急場に間に合う炭鉱を必要としていた。目を付けたのが、当時開坑に着手していた崎戸鉱と松島鉱である。古賀鉱業合資会社が所有する長崎県採掘権登録第326号鉱区を買収して三井鉱山との共有とし、その経営を担当する新会社として、1913年1月に資本金200万円で松島炭鉱を設立した。発起人は古賀春一、頼尊淵之助、のちに三井鉱山の経営に携わる牧田環ら7名、発行株数は4万株で1株の額面は50円であった。同月25日、東京市日本橋区駿河町の三井鉱山本社で創立総会を開催し、代表取締役に古賀春一と頼尊淵之助を選んだ。本店は長崎市常盤町に置かれた。
発足した会社が手にしたのは、前の持ち主が掘り進めた坑道そのものであった。古賀鉱業は1905年に第一坑、1910年に第二坑、1912年に第三坑を開坑しており、松島炭鉱はこれをそのまま引き継いで採炭に着手した。買収前年にあたる1912年の出炭規模は年間約36万トンで、引き継いだ初年度にも27万トン余を出炭した。さらに増産を期して1914年4月に第四坑の開さくへ着手し、1916年8月に完成させた。これにより出炭量は1917年に46万トン余、1925年には51万トン余と当時の最高を記録し、年産50万トンを超える県下有数の炭鉱となった。1928年までは、1923年の37万トンを除いて毎年40数万トンを保った。松島鉱区の稼行はこの十数年が全盛期であった。
資本も販売も、実質は三井が握っていた。創立時の総株数4万株のうち、三井鉱山と三井物産が個人名義株を含めてそれぞれ12,000株、合わせて24,000株を持ち、残る16,000株が古賀系の持株であった。1917年8月には自社の拡張資金と大島炭砿株式会社への出資金を賄うため資本金を500万円へ増やし、持株1株に対して1.5株を割り当てて総株数を10万株とした。1920年には三井鉱山と三井物産が役員名義株以外の個人名義株をすべて両社名義へ書き換え、株主総数は16名に減った。販売の側はさらに徹底しており、創業と同時に三井物産と松島石炭委託販売契約を結んで出炭の一手販売をすべて委託し、売上代金の2分5厘を手数料として支払った。当初10カ年の契約は1923年、1933年、1938年と更改された。掘ることだけが松島炭鉱の仕事であった。
引き継いだ坑は、掘り進むほど水に近づいた。1921年に第二坑、1922年に第一坑が相次いで採炭を終え、以後は第三坑と第四坑の2坑だけで出炭した。その第三坑が1929年6月に水没し、頼れるのは第四坑だけとなった。1932年には第五坑の開さくへ着手したが、1934年11月に第四坑が水没すると第五坑もその余波で浸水し、ついに出炭不能となった。2度の水没事故が松島鉱区の休業を決定づけ、会社は創業以来で最も苦しい局面を迎えた。掘る場所そのものを失った以上、松島鉱区に留まる限り再起の道は無かった。
1934年10月、水没による損失を補填するため、株式の2分の1を償却する方法で資本金を400万円へ減らし、各株主の持株数は従来の8割、総株数は80,000株となった。1935年8月にはさらに旧株2株と新株4株をそれぞれ1株とする減資で140万円とし、直後の9月、債務整理資金を調達するため同じ株数を各株主へ割り当てて280万円へ増資した。ところがこの新株を、三井鉱山と三井物産以外の株主は役員名義株主も含めて引き受けなかった。引き受け手のない8,675株は両社が肩代わりし、総株数56,000株のうち両社が合計47,725株を持つこととなった。会社は1935年2月に松島本鉱の事業中止を決めて22年に及んだ操業を終え、1937年7月には松島鉱区全部の休業に至った。採掘の行き詰まりは、資本の面でも三井への従属を一段と深めた。
失ったのは坑道だけではなかった。松島炭は創業以来、原料用炭としての得意先を着実に積み上げており、1932年度の荷渡比率はガス用36%、コークス原料用13%、船舶焚料17%であった。販路は長崎の外航船向け船舶焚料炭を軸に、九州・中国・四国のガス会社と大阪のビーハイブコークス業者へ広がり、1914年に確保したシンガポール・香港の輸出市場は上海・マニラ・青島・漢口へ伸びていた。2度の水没による鉱区放棄は、この得意先地盤を自ら狭めることになった。石炭業界では1932年11月に昭和石炭が設立され、内地炭送炭高の約70%が統制下に入っていた。掘る場所を失った会社に残されたのは、かつて出資した大島鉱区の権利だけで、1935年5月、共有となっていたその三井鉱山持分一切を譲り受けた。
主力を移した先の大島鉱区は、松島炭鉱が20年近く資金を入れ続けた末に手元へ残った資産であった。大島炭砿株式会社は1917年5月、三井鉱山と古賀鉱業とともに松島炭鉱が株主となって設立され、大島鉱区の開発に着手した。資本金400万円・総株数8万株のうち松島炭鉱は筆頭大株主として出資し、経営陣にも人を送り、開発に要する資金や資材もほとんどを支援した。ところが開坑した坑は断層が多く作業が難航し、1919年12月の出水で坑内総水量が毎分1.27立方メートルに達すると排水設備が追いつかず、欧州大戦後の不況もあって1920年6月に開発を休止した。1922年8月には3者で同社を解散し、鉱区その他の財産一切を3者の共有とする協定が成立して、1932年11月に大島炭砿は解散した。
松島鉱区の稼行を断念した会社は、共有となっていた大島鉱区の三井鉱山持分を買収して再起を図った。1935年2月に開坑を決議し、同年5月から長崎県西彼杵郡黒瀬村間瀬先で第一坑の開さくを始め、1936年2月に着炭、同年5月から採炭を開始した。ただし当初は予期しない断層の出現で出炭計画に齟齬を来し、炭層条件は好転せず、暗中模索の状態が続いた。炭層がようやく安定したのは1938年で、翌1939年には133,000トンの出炭を見るに至り、深部へ移行するにつれて条件はさらに良くなった。1940年3月には第二坑の開さくへも着手した。本店も1936年7月に東京市日本橋区室町へ移っており、会社の重心は松島から大島へ、本店機能は三井の膝元へと移っていった。
1941年に太平洋戦争が始まると資材と労力の不足は次第に顕著となったが、出炭量は逐年増加した。1944年1月には第二坑からの出炭も始まり、同年4月25日に軍需会社の指定を受けて、1944年度は287,996トンを出炭した。販売の側は1940年10月に設立された日本石炭による全国石炭の一手買入・販売の統制下へ入り、松島炭鉱・日本石炭・三井鉱山の3者契約によって、産出した石炭は自家用などを除き、全部を日本石炭へ売り渡した。1942年1月からは売渡先が地区別配給会社の西九州石炭へ替わり、1943年10月に売戻制が廃止されると日本石炭の自売となった。戦時中の主な売先は八幡製鉄、三菱化成、住友化学や大阪瓦斯、西部瓦斯などであった。資本金は数次の増資を経ても、終戦時点で280万円にとどまっていた。
財閥解体で株主を失った松島炭鉱は、代わりに欠けていた機能を持つことになった。三井物産への一手委託、日本石炭、配炭公団と、創業から36年にわたって石炭は誰かが売ってくれるものだった。山元で積み込み、炭代と運賃を計算し、配船を連絡する。それが営業のすべてで、売り込む部署は存在しない。1949年9月に配炭公団が廃止されると、会社は同年7月に販売課を、8月に本店営業部と大阪出張所を置いた。合わせて16名の販売組織である。規格売炭に隠れて需要家に名を知られていなかった大島炭を、八幡や大阪瓦斯へ自分で運ぶところから、この会社の営業は始まった。
自前で売る会社になった松島炭鉱が次に選んだのは、価格ではなく品位で競うことだった。第2次・第3次の合理化で坑口を集約し、浮いた350名を池島へ送り、1934年に捨てた鉱区を17年越しで掘り直す。1959年に池島が出炭を始め、1961年には東京証券取引所市場第二部へ上場した。ところが同じ1961年、1963年度に想定していた重油価格8,500円は7,000円を割り込み、1,200円の炭価引下げという業界の目標は、達成する前に置き去られていた。原料炭の選出率を89.0%まで高め、全国平均の4倍で炭を選り分けたのは、安さで並ぶことが既にできなくなっていたからである。池島が主力になった年に大島は閉じ、次に切り離す対象は炭鉱そのものになった。
終戦は、松島炭鉱を三井から切り離した。1945年11月2日に三井、三菱、住友をはじめ財閥15社が指定され、系列会社を含めて株券・社債・証券の売買と移転が禁じられると、松島炭鉱も1946年3月16日に制限会社の指定を受け、1949年4月9日に解除されるまで財産の処分、資金の借入、役員の待遇を制限された。1946年11月の勅令で役職員の兼任が禁じられると、それまで役員の大部分と幹部職員の一部は三井鉱山や三井物産からの出向または兼務であったが、いずれも専任となるか会社を辞した。持株の側では1946年12月に三井本社の20,440株、1947年8月に三井鉱山の27,285株が持株会社整理委員会へ譲渡され、のちに役員と従業員へ分譲された。本店も1947年6月に福岡市雁林町、1948年5月に同市大名町へ移った。
独立と引き換えに残されたのは、荒廃した1つの坑であった。大島坑は戦時中の強行出炭と資材欠乏で荒れ、終戦直後の混乱のなかで1945年度の出炭は10万トンを割った。会社はまず役員以下の陣容を強化し、終戦前に立案されながら資材難で中断していた5カ年計画を1947年から1951年までの復興増産計画として再編して実施した。政府も石炭の緊急増産のため傾斜生産方式を決めて生産資材を重点的に割り当て、1947年1月には復興金融金庫を設けて融資の道を開いた。同年秋にはGHQの石炭増産特別調査団が大島坑を二度にわたって訪れた。計画は半年遅れて1952年9月期までかかり、約2億円を要した。第一坑の単線坑道を複線に広げ、捲揚機・炭車・選炭機・浮選機・積込機・変電所を一連で増強した結果、出炭能力は年48万トン、選炭能力は年54万トンとなり、1949年度には年産30万トンを突破した。
掘る力が戻っても、売る力は無かった。創業以来、販売はすべて三井物産への委託で、戦時中は日本石炭、戦後は配炭公団への統制販売に引き継がれ、営業関係の業務は山元での積込作業と炭代・運賃諸掛の計算、配船連絡といった事務に限られていた。売り込みのための販売機構を、会社は一度も持ったことがなかった。松島炭鉱は1949年9月15日の配炭公団廃止を見据え、同年7月4日にまず業務部へ販売課を設け、8月15日には本店営業部と大阪出張所、東京事務所を置いて、自ら売る組織を発足させた。人員は本店営業部が部長以下10名、大阪出張所が所長以下4名、東京は販売担当者2名であった。大島炭は戦時中の規格売炭のため需要家にほとんど名を知られておらず、直接販売の経験も無かった。それでも1949年9月以降、日本製鉄、三菱化成、大阪瓦斯、東邦瓦斯、西部瓦斯を皮切りに荷渡先を積み上げ、これらの需要家は後年まで主要な取引先であり続けた。
1934年の水没で放棄した松島鉱区へ、会社は17年後に戻った。大島坑の開発が順調に伸びたことで多年の懸案であった松島鉱区の再開発の機が熟したとして、1951年に池島を拠点とする開発へ着手した。まず同年5月から8月にかけて池島全島の土地を1筆ごとに土地台帳と照合して所有権を確認し、数次にわたって買収を終えた。1951年12月には松島・池島間に海底送電線を布設して翌1952年3月に受電を開始し、同年10月8日に鍬入式を挙行して11月から掘さく工事へ取りかかった。休業中の鉱区で池島坑の開鑿作業が始まったのはこの時である。池島は西彼杵郡外海町の沖合に浮かぶ海底炭鉱で、掘り進む先は海の底であった。約3年を費して1955年9月25日に着炭したが、上り断層によって炭層の深度が予定より浅く、出炭を急ぐより安全な稼行を選んで探炭斜坑をさらに深部へ掘り進めた。
池島の開業を支えたのは、大島の合理化で浮いた人と設備であった。第2次合理化は1952年から1956年にかけて第二坑の坑道を複線化し、採炭・捲揚・排水・選炭の設備を増強したが、その途中の1953年9月から1955年にかけて朝鮮動乱ブームの終息による不況で自主減産を迫られ、新規採用を止めて自然減耗と配置転換により在籍鉱員3,470名を3,170名へ、1955年1月には2,600名まで減らした。1954年には年産50万トン余の出炭能力を備えるに至った。第3次合理化では、深部移行で坑道延長が45キロに達し運搬経費が嵩んだため、第一坑連卸を拡大して国内で初めてのケーブルベルトコンベヤーを設け、一・二坑の出炭を第一坑坑口へ集約して1959年に完成させた。維持坑道の縮小で生じた余剰人員を池島へ移すため開発工事の進捗を合わせ、池島は新炭鉱でありながら新規採用をほとんど行わず、大島の余剰人員約350名を吸収した。
資本金は1950年4月の1千万円を皮切りに、資産再評価による再評価積立金の資本組入も含めてほぼ毎年増資を重ね、1953年1月に1億5千万円、1961年9月には13億円に達した。1959年10月には池島坑が営業出炭を開始し、業績の好転を受けて1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場、翌1962年2月に市場第一部へ指定替えし、同年4月に福岡証券取引所、1963年9月には大阪証券取引所第一部へも上場した。1962年3月末の大株主は三井銀行が1,665千株・6.4%、日本興業銀行が1,273千株・4.9%で、株主数は2,775名、一人当りの平均持株数は9,369株であった。借入は日本開発銀行920百万円、日本興業銀行340百万円などで、設備資金の出し手はかつての親会社ではなく政策金融と長期信用銀行に替わっていた。
掘り当てた頃には、石炭の値段を決めるのは石炭ではなくなっていた。1952年の石炭不足時に増え始めた重油の進出は低運賃と低コストによる価格安で伸び続け、1957年から1958年のなべ底不況期には重油の優位が決定的となった。1958年10月、石炭協会は1963年度の炭価を1958年度比で800円引き下げる新合理化計画を作ったが、需要家は強い不満を示した。翌1959年12月、石炭鉱業審議会基本問題部会は1963年度の販売価格を1958年度比で1,200円程度引き下げるべきとの答申を出した。1959年4月からは合理化法に基づき、原料炭・無煙炭・煽石を除く一般炭について約20%の出炭制限が行われた。ところが1,200円引下げを決めた当時に想定していた1963年度の重油価格8,500円は、貿易自由化を控えた石油精製能力の増大で下落し、1961年度には7,000円を下回るものが現れた。引き下げの目標そのものが、競合燃料の値下がりに追い越されていった。
松島炭鉱の原料炭選出率は1950年度の58.2%から1961年度には89.0%へ上がり、同じ期間に17.8%から22.0%で推移した全国平均を大きく引き離した。全出炭の平均カロリーも1961年度で7,460、全国平均は6,230であった。販売は1961年度で鉄鋼40.0%、ガス33.4%、セメント13.7%と、原料用炭の鉄鋼・ガス・コークス向けと一般用炭のセメント向けとで総量の約90%を占め、市場別では京浜・阪神・九州の3地区が約85%であった。高級原料炭と上級一般炭を産出していたため、公団貯炭の払下げによる市況の圧迫も、動乱の反動も、神武景気後の後退も、受ける影響は他社より小さかった。1962年3月期の売上高は32億7357万円、当期純利益は2億4584万円、従業員は3,371名であった。値下げ競争から距離を取る手立ては、炭を安くすることではなく炭を選り分けることであった。
それでも、掘る場所は先に尽きた。1960年代後半に石油への一次エネルギー転換が進むと、国内炭は価格と公害の両面で輸入炭や石油に対して競争劣位へ置かれた。大島鉱業所は採掘条件の悪化もあって1970年6月に閉山し、1935年の開坑から35年で終わった。池島の出炭は1969年に大島鉱を上回り、両事業所を合算した年間出炭量も同年に181万トンの過去最高へ達していた。掘る場所を池島1つに絞る一方、1968年3月には土木建築総合請負工事業の松島建設工業を設立し、炭鉱周辺の土木需要を取り込む枠組みを敷いた。第三次から第四次にかけての石炭政策は、石炭部門と兼業部門の区分経理と企業体制の整備を求めており、採掘部門を別会社へ切り出して本体は兼業で利益を確保する形が、業界に共通する課題となっていた。会社が次に選ぶ道は、この枠組みの内側にあった。
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|---|---|---|---|---|
| 1913〜1945年大島鉱区への主力移転 | 松島炭鉱を設立。古賀鉱業の所有する長崎県松島地区の良質石炭鉱区を買収 | ★ | ||
| 大島鉱区の開坑に着手 | ★ | |||
| 1946〜1972年財閥解体による経営自立 | 50百万円に増資 | ★ | ||
| 池島坑の開発に着手 | ★★ | |||
| 松島海運を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 1973〜2000年石炭生産を池島炭鉱へ分離し三井松島産業へ、豪州リデル炭鉱への参入 | 池島炭鉱を設立 | ★ | ||
| 石炭生産部門の分離と兼業会社への転換 ― 松島炭鉱から松島興産へ 1973年4月、石油への転換で劣勢に立った松島炭鉱が、石炭生産部門を新設の別会社(同年4月に松島炭鉱へ改称)へ営業譲渡し、本体は松島興産へ社名を変更して石炭・資材の販売と不動産・スーパー・観光などの兼業会社へ組み替えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 松島興産に商号変更 | ★ | |||
| 池島炭鉱が松島炭鉱に商号変更 | ★ | |||
| 三井鉱山建材販売を吸収合併 | ★ | |||
| 三井松島産業に商号変更 | ★ | |||
| MITSUI MATSUSHIMA AUSTRALIA PTY.LTD.を設立 | ★ | |||
| NSW州リデル炭鉱のジョイント・ベンチャーに参入 | ★★ | |||
| 三井松島リソーシスを設立 | ★ | |||
| 連結子会社松島海運を吸収合併 | ★ | |||
| 2001〜2017年池島炭鉱の閉山と松島炭鉱の解散、永田エンジニアリング買収に至る事業の模索 | 松島炭鉱が経営する池島炭鉱を閉山 | ★★ | ||
| 米澤祥一郎 | 第1回無担保転換社債型新株予約権付社債を発行 | ★ | ||
| 米澤祥一郎 | 光コンポーネント事業から撤退 | ★ | ||
| 米澤祥一郎 | 池島アーバンマインを設立 | ★ | ||
| 串間新一郎 | 公募・第三者割当により新株式を発行 | ★ | ||
| 串間新一郎 | 松島炭鉱を解散 | ★ | ||
| 串間新一郎 | 永田エンジニアリングを買収、子会社化 | ★ | ||
| 天野常雄 | 池島アーバンマインのリサイクル事業から撤退 | ★ | ||
| 2018〜2026年三井松島HDへの改称と明光商会など相次ぐ買収、石炭事業からの完全撤退 | 天野常雄 | 三井松島HDに商号変更 | ★ | |
| 天野常雄 | 明光商会を買収、子会社化 | ★★ | ||
| 吉岡泰士 | システックキョーワを買収、子会社化。併せてTHAI SYSTECH KYOWA CO.,LTD.を子会社化 | ★ | ||
| 吉岡泰士 | ジャパン・チェーン・HDを買収、子会社化 | ★ | ||
| 吉岡泰士 | Saunders & Associates, LLCを買収、子会社化 | ★ | ||
| 吉岡泰士 | 連続M&Aによる脱石炭転換と、111年続いた石炭事業からの撤退 2013年の創業100周年を機に始めた脱石炭のポートフォリオ構築を、2020年就任の吉岡泰士社長が継承し、日本ストロー・明光商会・MOSなどの連続M&Aで生活消費財・産業用製品へ事業を組み替え、2024年3月の豪州リデル炭鉱の終掘で創業以来111年続いた石炭事業から完全に撤退した経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三井松島ホールディングス)