歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1913年、石炭が一次エネルギーの主役だった時代に、三井鉱山が古賀鉱業から長崎県松島の海底炭田を買収し、松島炭鉱株式会社を設立した。三池に加えて長崎港経由の石炭船を確保する狙いで、採れた炭は三井物産が引き取り、その販売網に乗せて電力会社などに販売された。戦後は池島炭鉱を開発し、九州を代表する炭鉱会社として、日本のエネルギー源の自給体制を支えた。
決断1973年、石炭政策が縮小均衡へ向かうなか、三井松島は石炭生産を別会社へ切り出し、本体は商社・建材・不動産で稼ぐ体制を取り、「掘る会社」と「売る会社」の分離を選択した。国内の池島炭鉱は2001年に閉山して国内炭鉱から完全撤退する一方、豪州の炭鉱開発に出資し、非石炭への多角化を進めることで、会社として存続した。
現況祖業の石炭事業を終えた三井松島には、炭鉱が遺した潤沢な手元現金と含み資産が残った。これに旧村上ファンド系の南青山不動産など4社が約37%を集め、資本効率の改善を迫っている。そこで三井松島は累進配当を導入し、自己株を取得して株主還元を厚くしつつ、現金の使い道として企業買収や金融事業への参入を表明。資本効率の改善は進んでいるものの、外圧対応が経営判断の根幹をなしており、企業としてどこを目指しているのかが見えづらい状況が続く。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1913年〜1972年 松島炭鉱の創業と海底炭田開発 ─ 長崎沖海底炭から株式上場まで
古賀鉱業からの鉱区買収と松島炭鉱発足
長崎県西彼杵半島の沖合に浮かぶ松島の石炭は、文書記録上では1781年(天明元年)に時津村の住人萬右衛門が採掘を始めたのが最初で、1856年(安政3年)の時点でかなりの規模の採掘事業が営まれていた(『松島炭鉱五十年史』1962年刊)。明治維新前後にいったん事業が途絶えた後、佐賀県北方村で炭鉱を経営していた古賀善兵衛一族が鉱区を譲り受け、1912年(大正元年)には年間約36万トンの出炭規模に達していた[4]。三井としては三池炭鉱に加えて長崎港経由の石炭船を確保する必要があったため、1913年1月、古賀鉱業合資会社が所有する長崎県採掘権登録第326号鉱区を三井鉱山が買収して共有とし、古賀一族・三井物産・三井鉱山・関係者の出資によって松島炭鉱株式会社(資本金200万円)を設立した[1][2]。本店は長崎市常盤町に置かれ、三井鉱山の傍系会社として発足した[3]。
創立当初の総株数40,000株のうち三井系(三井鉱山と三井物産)が24,000株、古賀系が16,000株を保有する形でのスタートで、1917年(大正6年)の増資では持株1株に対し1.5株を割り当て総株数は10万株に倍増した[5]。1920年(大正9年)には三井鉱山と三井物産が個人名義株を法人名義に書き換えたため株主総数は16名に減少し、三井系の支配が固まった。本社は1923年12月に事業所所在地の松島村へ移された[6]。古賀鉱業から引き継いだ松島第1〜第3坑の採炭設備の機械化(電化・コンプレッサー導入)を実施した結果、出炭量は1917年(大正6年)から1928年(昭和3年)の12年間にわたり年間50万トン前後を維持できた[7]。
大島・池島開発と戦後の傾斜生産方式
松島本鉱は採掘の進行に伴う坑内条件の悪化と数度の事故に見舞われ、1935年2月に事業中止を決定し、22年の操業に幕を引いた[8]。代わって着手されたのが同じ西彼杵諸島の大島鉱区開発で、1917年6月にすでに大島炭礦株式会社が設立されていた経緯があり、三井鉱山持分を買収のうえ1935年5月から本格開発に着手し、翌1936年5月に採炭を開始した[9][10]。生産が安定化し始めたのは1940年頃で、ちょうど戦時期の石炭増産要請が強まる時期と重なった。本社所在地は1936年7月に東京市日本橋室町、戦後の1947年6月に福岡市雁林町、翌1948年5月に同市大名町へと変遷した。
第2次大戦後、財閥解体策により三井グループから分離され、独立会社として再出発した。資材・労働力調達では一時的に困難な状態も生じたが、政府が石炭と鉄鋼の増産を最優先する傾斜生産方式の対象となったため、新鋭設備の投入効果と相まって1956年の出炭量は約53万トンに達して戦前のピークを超えた[11]。1952年3月には池島鉱区の開発に着手し、1959年2月に営業を開始、出炭量は1969年に大島鉱を上回った[12]。両事業所合算の年間出炭量は1969年に181万トンの過去最高水準に達した[13]。池島は西彼杵郡外海町(現・長崎市)の沖合に位置する海底炭鉱で、海底地下を掘り進む長期戦の鉱区であった[14]。
株式上場と大島閉山、エネルギー革命
業績好転を受けて1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場、翌1962年2月には市場第一部へ指定替え、4月に福岡証券取引所、翌1963年9月には大阪証券取引所第一部にも上場された[17]。当時の松島炭鉱は石炭部門を抱える炭鉱会社として三大証券取引所に上場した数少ない事例で、信用力向上と設備投資資金の調達基盤を獲得した[18]。設備投資の重心は当初の大島地区近代化・増強投資から、1960年代以降は池島鉱区の開発へ移っていった。1968年3月には土木建築総合請負工事業の松島建設工業株式会社(現・連結子会社)を設立し、炭鉱周辺の土木需要を取り込む関連事業の枠組みを敷いた[15][16][19]。
しかし1960年代後半から石油への一次エネルギー転換(エネルギー革命)が始まり、国内炭は価格・公害の両面で輸入炭・石油との競争で劣勢に立った。1969年9月に石炭鉱業再建整備会社の指定を受け、業界全体が縮小均衡を模索する局面へ入った。同社の大島鉱業所は採掘条件の悪化もあって1970年5月をもって閉山され、戦中・戦後を通じて出炭の中核を担った大島事業の歴史も35年で幕を閉じた[20]。政府の第三次〜第四次石炭政策のもとで石炭部門と兼業部門の区分経理・企業体制整備が要請され、「掘る部門」を別会社にして本体は商業・建材・不動産の兼業部門で利益を確保するという生き残りモデルの輪郭が示された。
1973年〜2017年 三井松島産業の時代 ─ 政策転換から海外シフト、池島閉山と多角化試行
第五次石炭政策と松島興産化、武富・本吉時代
1973年4月、政府の第五次石炭政策(経営安定責任体制の要請)を受けて事業構造を再編した。1969年6月設立の松島第一商事を吸収合併すると同時に商号を「松島興産株式会社」に変更し、石炭生産部門を1973年2月に新設した池島炭鉱株式会社(資本金3億円)に営業譲渡した[21][22]。新設池島炭鉱は同年4月に商号を「松島炭鉱株式会社」に変更し、石炭生産専業会社として再出発した[23]。「掘る会社」と「売る会社」を分離し、本体は商社的・建材的事業を主柱とする兼業会社へ位置付け直す構造改革で、1960年12月設立の松島海運をはじめとする多数の関連会社群を通じて多角化を加速させていく方針となった[24]。
1977年の社長・武富氏は京都大学経済学部出身、三井鉱山の労務畑(山野・芦別鉱業所、三池争議期に対応)を経て1958年に三井鉱山先輩の川上亀郎元松島炭鉱社長に招かれて三井松島ホールディングス入社した三井系の労務専門である[25]。武富社長在任中に同社は10年ぶりの黒字転換を果たし、「武富の松島にならえ」(『日本の経営者 昭和52年版』1977/2)と評された。日本アルプス麓の土地取得・福岡市郊外の観光施設取得など多角経営にも触手を伸ばし、本体が石炭以外で利益を稼ぎ、池島炭鉱を別会社として温存する事業ポートフォリオの軌道が定まった時期である。
1979年に本吉節治氏が社長に就任した[26]。東大経済1944年卒・1946年松島炭鉱入社の現場叩き上げである。1979年8月、本吉社長の下で「松島海外石炭開発株式会社」を立ち上げ、豪州NSWの鉱区認可を起点に海外炭の輸入開発に着手した。1983年4月には三井鉱山建材販売株式会社を吸収合併し、商号を「三井松島産業株式会社」に変更(資本金33億24百万円)してセメント・生コンなどの建材販売事業を本体に取り込み、「総合商社的な性格を強めつつある」(『日本会社史総覧』1995年刊)方向性を確定した[27]。本吉社長は次のように語っている。
「石炭がよくなるまでは、他の部門で利益を得るように努力する」「具体的にいいますと、賃貸収入がねらいです。もちろん、建売住宅やマンション分譲もやります。しかし、これは一部ですね。すでに東京に貸ビルを三つつくり、また西宮にも賃貸アパートをつくりました。まだまだ増やしていこうと思いますよ」
海外資源シフトと豪州リデル参入、池島閉山
1990年11月にMITSUI MATSUSHIMA AUSTRALIA PTY.LTD.(現・連結子会社)を豪州に設立し、翌1991年4月に豪州NSW州リデル炭鉱のジョイント・ベンチャーへ参入した[28][29]。後年33年続く海外石炭事業の主軸となる案件である[30]。1992年時点の社長・渡辺公弘氏は炭鉱19年・東京営業18年の現場叩き上げで、「わが社には営業に強い人が少ないので、交渉手腕が評価されたのでは」(『日本の経営者 平成5年版』1992/10)と語った[31]。当時の売上に占める石炭比率は約40%で、池島炭鉱の生産コストを抑えて年産120万トン体制を維持しつつ、不足分80〜100万トンを海外から輸入する構造が描かれていた[32]。
1985年(昭和60年)の池島鉱の出炭量は158万トンに達し、当時の日本の炭鉱の中でもトップクラスの効率を示していた[33]。しかし1987年以降の第8次石炭政策・新石炭政策のもとで生産規模は1987年の158万トンから1992年の年産120万トン体制へ縮小した。1997年4月には三井松島リソーシス株式会社(現・連結子会社)を設立し、海外炭鉱経営を含む石炭資源の調査・技術協力・コンサルティング機能を社内資産にした[34]。1999年4月には連結子会社の松島海運を吸収合併して流通経費削減のための一貫体制効率化を実施し、2001年4月には松島ハイプレシジョンも本体に吸収合併して財務体質強化期の連結再編を完了した[35]。
2001年11月、子会社・松島炭鉱株式会社が経営する池島炭鉱を閉山した[36]。1952年の開発開始から49年の歴史で、日本国内最後の本格炭鉱の一つが終焉を迎えた[37]。閉山に伴い1,200名規模の人員整理が発生し、長崎県西彼杵郡外海町(現・長崎市)の地域経済にも影響を及ぼした[38]。2002年6月にはMITSUI MATSUSHIMA INTERNATIONAL PTY.LTD.(現・連結子会社)を豪州に設立して石炭関連海外子会社の統括・管理機能を集約した[39]。海外石炭事業(豪州リデル中心)を残しつつ、国内の「掘る」機能は手放した。2003年3月には大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止し、3取引所体制を東証・福証の2取引所に整理した[40]。
多角化試行とマスクブランクス事業(2005〜2017)
池島閉山後の財務再建期を担ったのは、2008年10月に代表取締役社長へ就任した串間新一郎氏である[41]。三井銀行出身で2005年6月に三井松島ホールディングス入社後3年余りで社長へ登用された金融プロフェッショナルで、生え抜き不在のなかで本体の財務再建と多角化加速を担う体制が整った[42]。串間社長在任中の特徴は、池島炭鉱跡地をリサイクル・合金鉄製造の場として再活用する池島アーバンマイン株式会社の設立(2007年2月)、海外石炭技術機能を分離したMMIコールテック株式会社の設立(2009年1月)、リーマン・ショック後の財務基盤強化を目的とした公募・第三者割当による新株式発行(2009年12月、資本金85億71百万円)に表れている[43][44][45]。
2014年6月には天野常雄氏が代表取締役社長に就任した。川鉄商事(現JFE商事)出身の商社・燃料エネルギー営業系で、2008年8月に三井松島ホールディングス入社した中途登用者である。天野社長在任中の前半(2012〜2015年)は選別エンジニアリング・インドネシア石炭権益・宿泊運営・再生可能エネルギー・高齢者向け住宅介護・プラスチック包装・アパレルと多分野同時並行で計7件の多角化試行が連続した(下表)。建機材事業の譲渡(2014年2月)と池島アーバンマインのリサイクル事業撤退(2014年12月)も同時に行われ、ポートフォリオの新陳代謝が急ピッチで進められた[46]。
| 年月 | 社名 | 事業領域 | 形態 |
|---|---|---|---|
| 2012年5月 | 永田エンジニアリング | 選別エンジニアリング | 買収子会社化 |
| 2012年7月 | PT Gerbang Daya Mandiri | インドネシア石炭権益 | 30%取得 |
| 2012年7月 | M&Mサービス | 宿泊運営受託 | 買収子会社化 |
| 2012年8月 | MMエナジー | 再生可能エネルギー発電 | 新設 |
| 2014年1月 | MMライフサポート | 高齢者向け住宅・介護 | 新設 |
| 2014年2月 | 日本ストロー | プラスチック包装・ストロー | 買収子会社化 |
| 2015年10月 | 花菱縫製 | 紳士服・婦人服アパレル | 買収子会社化 |
2017年2月にはマスクブランクス(液晶パネル・有機EL・電子部品向けフォトマスク基板)製造のクリーンサアフェイス技術株式会社(現CST株式会社、現・連結子会社)を買収・子会社化した[47]。後の生活関連/産業用製品セグメントの利益柱に成長する重要案件である。同年4月にはMM Nagata Coal Tech(永田エンジニアリングがMMIコールテックを吸収して改称)が誕生し、グループ内技術機能を集約した[48]。2017年6月には福岡県大牟田市の歴史遺産「三井港倶楽部」の所有権を取得し、旧三井財閥関連施設の管理運営を開始した[49]。「掘る会社」のアイデンティティを脱ぎ捨て「投資して運営する会社」へ事業構造を書き換える転換期の最終局面である。
2018年〜2025年 三井松島ホールディングスへ ─ 連続M&Aと110年祖業終焉
持株会社移行と「投資する会社」への転換
2018年10月、純粋持株会社体制への移行を実施した[50]。同社の商号は「三井松島ホールディングス株式会社」に変更され、新設分割により石炭販売事業は新設の三井松島産業株式会社(現・連結子会社)に承継された[51]。持株会社の傘下に石炭事業会社・生活関連事業会社・産業用製品事業会社を並列配置する構造で、本体は事業ポートフォリオの組み替え意思決定機能に特化する形に変わった。1973年の「掘る/売る」分離が「炭鉱経営の生き残り戦略」だったのに対し、2018年の持株会社化は「事業ポートフォリオ運営会社化」を制度面で確定する転換であり、創業から1世紀越しの組織アイデンティティ書き換えに当たる。
2019年4月にはシュレッダーを中心とする事務用設備の製造・販売・保守を行う株式会社明光商会(現・連結子会社)を買収・子会社化した[52]。生活関連事業の中核ブランドとなる重要案件である。2020年4月にはMM Nagata Coal Tech株式会社が新設分割により永田エンジニアリングを設立し資源処理事業を承継させた上で同社全株式を譲渡し、本体はMM Coal Tech株式会社に商号変更して海外石炭技術専業に純化した[53]。同月にはペットフード・ペット用品輸入販売の株式会社ケイエムテイ、水晶デバイス計測機器・生産設備製造販売の三生電子株式会社(共に現・連結子会社)を同時取得し、生活関連と電子部品計測の両セグメントを並行拡張した[54]。
2020年6月には吉岡泰士氏が代表取締役社長に就任した[55]。J.P.モルガン証券・GCA株式会社(現フーリハン・ローキー)等の外資系投資銀行・FAアドバイザリーを渡り歩いた後、2013年7月に三井松島ホールディングス入社(海外業務部・経営企画部)して経営企画部長を経て社長へ昇格した、生え抜き不在のなかでも特に投資銀行寄りのキャリアを持つ人物である[56]。串間氏(金融)→天野氏(商社)→吉岡氏(投資銀行)と、社長の出身重心が「商業銀行・商社」から「投資銀行・M&A遂行能力」へ移ってきた経緯と整合する人選であった。吉岡社長は事業構想オンライン(2021年9月号)で次のように振り返っている。
連続M&A攻勢と石炭価格高騰特需(2021〜2023)
2021年2月以降、生活関連と産業用製品の両セグメントを補強する連続M&Aを実行した(下表)。タイ拠点を持つシステックキョーワで海外生産網を拡張、2022年5月の日本カタンで電力インフラ関連の産業用製品セグメントを補強し、2022年4月には東京証券取引所プライム市場へ移行した[57]。2023年は丸紅オフィス・サプライ(MOSへ商号変更)・プラスワンテクノ・カツマタ感熱紙事業・ジャパン・チェーン・HDと立て続けに4件の買収を重ね、産業用製品セグメントの売上規模をFY23の150億円台からFY24の296億円へ拡大した[58][59]。
| 年月 | 社名 | 事業領域 | 形態 |
|---|---|---|---|
| 2021年2月 | システックキョーワ・THAI SYSTECH KYOWA | 住宅・家具向け金物・プラスチック(タイ拠点含む) | 買収子会社化 |
| 2022年5月 | 日本カタン | 送変電用架線金具 | 買収子会社化 |
| 2023年2月 | 丸紅オフィス・サプライ→MOS | レジロール記録紙等加工販売 | 買収・商号変更 |
| 2023年9月 | プラスワンテクノ | 食料品計測装置 | 買収子会社化 |
| 2023年10月 | カツマタ感熱紙加工事業 | 感熱紙加工販売 | 事業譲受(MOS) |
| 2023年12月 | ジャパン・チェーン・HD | 産業用ローラー・コンベヤチェーン製造 | 買収子会社化 |
| 取得年 | 社名 | 事業内容 | 市場ポジション |
|---|---|---|---|
| 2014年2月 | 日本ストロー | 1983年伸縮ストロー開発以来、業界の先駆者として独自の技術・ノウハウを蓄積。プラスチック包装・ストロー製造販売 | 伸縮ストロー国内シェアNo.1 |
| 2019年4月 | 明光商会 | 1960年に日本初のシュレッダー製造販売を開始。事務用設備の製造・販売・保守 | 国内オフィス用シュレッダーシェアNo.1 |
| 2020年4月 | ケイエムテイ | 予防医学に基づく高品質プレミアムペットフードの企画・販売(プリスミックス、アガリクスI/S 等) | ペットブリーダー・動物病院から高い支持 |
| 2021年2月 | システックキョーワ | 住宅関連部材(ドアストッパー・耐震ラッチ・キャスター等)の企画・製造・販売。タイに自社工場を保有し金型〜組立まで一貫生産 | 業界内で高いシェア |
| 2023年2月 | MOS | 1962年創業。レシート等の原紙である感熱レジロールの加工販売 | 業界No.1 |
財務面では、2022年度に営業利益35,789百万円・経常利益35,933百万円という同社最高水準の利益を記録した[60]。ロシア・ウクライナ戦争に伴う一般炭価格の急騰で、豪州リデル炭鉱の売却益と石炭事業の特需利益が同時に発生したためである。前期FY21の営業利益8,417百万円、後期FY23の営業利益25,170百万円と、石炭事業からの利益貢献が一時的に巨大化した期間である。2024年1月には米国に新設したSansei America, Inc.を通じて水晶デバイス計測装置のSaunders & Associates, LLCを取得し、計測機器事業の北米展開も加速した[61]。吉岡社長は次のように述べている。
リデル炭鉱終掘と110年祖業終焉、アクティビスト介入
2024年3月、豪州NSW州リデル炭鉱の終掘により石炭生産・販売事業が終了した[62]。1991年の参入から33年、創業1913年から数えれば111年(実質110年)にわたって続いた石炭事業からの撤退である[63]。「炭鉱会社」としてのアイデンティティを手放し、事業ポートフォリオ運営会社として再定義される最終的な転換点となった。翌2024年4月には株式会社花菱(現・持分法適用関連会社)の株式持分66%を株式会社吉村へ譲渡し、生活関連ポートフォリオの整理も実施された[64]。2024年7月には事業者向け不動産担保融資等の株式会社エム・アール・エフを買収・子会社化し、金融サービス領域への新規参入を果たした[65]。2024年8月にはMM Investments株式会社が株式投資事業を開始し、グループ余剰資金の運用による投資収益の取り込みを試行している[66]。
しかし2024年度の大株主構造は1期で激変した。FY24の上位株主には、株式会社南青山不動産(10.30%)・株式会社フォルティス(9.42%)・株式会社シティインデックスイレブンス(8.96%)・株式会社エスグラントコーポレーション(8.88%)の4社、いわゆる旧村上ファンド系(村上世彰氏関連)の関連法人が一斉に並び、合計37.56%を保有した[67]。これに野村絢氏(4.32%)を加えれば5名で約42%を占める寡占構造で、信託銀行・地銀・メガバンクが分散保有する伝統的な構造は事実上消失した[68]。背景には、FY22-FY23に300億円規模まで膨張したネットキャッシュ・上場株式・含み資産(旧池島炭鉱跡地等)が時価総額対比で過剰水準と見られ、資本効率改善の要求を呼び込みやすい構造があった。
吉岡社長はM&Aによる新規事業投資でグループ全体収益の拡大を目指す方針を明らかにし、2027年3月期をめどに利益50億円以上への到達をM&Aで実現する目標を掲げた[69]。FY24の連結売上高は60,574百万円(前期比 -22%)、営業利益7,615百万円(前期比 -70%)と、石炭依存からの脱却過程で利益水準は一段下に正常化した[70]。新3セグメント体制(生活消費財/産業用製品/金融その他)のもとで2027年3月期の利益目標50億円以上をどう達成するかが、創業1913年から数えて第3世代の経営課題として残された。1781年の松島で採掘が始まった黒い石から続く111年の歴史は、ここで明示的に閉じられ、次代の三井松島ホールディングスは「事業ポートフォリオを運営する持株会社」として新たな問いに直面している。