歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1948年10月、森林平が奈良県大和郡山市で株式会社森精機製作所を設立し、戦後復興期に需要が伸びた紡績向けの繊維機械を地場で製造した。だが繊維工業は合成繊維への移行と海外生産で1950年代後半に国内需要が減退し、1958年、創業からわずか10年で繊維機械を捨て、高速精密旋盤の工作機械へ業態を全面的に切り替えた。本業を市場の先細りより先に入れ替える経営は、この業態転換から始まった。
決断工作機械への転換後、NC化への参入、マシニングセンタの追加、欧州・米州・中国への販社網整備と、同社は業界の節目ごとに先んじて投資して専業体制を広げた。その延長で打ったのが2009年の独GILDEMEISTER AGとの提携で、株式の段階取得から2013年の商号「DMG森精機」、2015年の連結化へと6年で独大手を取り込み、日独欧の工作機械を一つの経営にまとめた。事業を入れ替える従来の判断と同じ発想ながら、抱え込んだ規模は過去と桁が違った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1958年、創業からわずか10年で繊維機械を捨てて工作機械へ転じたのか
- A 戦後復興期に外貨を稼いだ繊維工業は、合成繊維への移行と海外への生産シフトで1950年代後半に国内需要が細り、繊維機械メーカーは行き先を失いつつあった。先細る本業を抱え込む前に入れ替える判断で、1958年5月に繊維機械の製造を中止し工作機械へ全面転換した。機種に普通旋盤を選んだのは、工作機械の中でも汎用性が高く需要が多いため見込み生産が可能で、製造工程の合理化も利く読みからであり、低コスト大量生産を経営の基本に据える型がここで定まった。
- Q なぜ独GILDEMEISTERとの統合を2009年から2015年まで6年かけて段階的に進めたのか
- A 業界の節目ごとに先んじて投資してきた延長で打ったのが独大手との提携で、規模は過去と桁が違うため一気の買収ではなく資本提携から積み上げる道を採った。2009年3月にGILDEMEISTER AGと業務・資本提携で合意し、2011年に株式を20.1%へ追加取得、2013年10月に商号をDMG森精機へ改め、2015年4月に議決権89.6%で連結化した。森雅彦社長は「世界中のお客さんやサプライヤーと20年スパンで長く栄えていく」と、長期での融合を統合の狙いに据えている。
- Q なぜ2024年以降、買収の矛先を国内の工作機械メーカーへ向けたのか
- A 日独欧を一つに束ねたグループには、横中ぐり盤や研削盤といった一部の機種と国内販売網がなお手薄で、これを国内同業の取り込みで補う判断に立った。2024年1月に横中ぐり盤の倉敷機械を100%取得してDMG MORI Precision Boringとし、2025年2月に研削盤の太陽工機を完全子会社化、同年3月には工作機械商社の宮脇機械プラントも100%取得した。製品の品目でも販売網でも国内同業を立て続けに取り込み、独統合で広げたグループへ横中ぐり盤・研削盤・商社機能を足した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1948年〜1981年 繊維機械から工作機械への業態転換と伊賀工場体制の確立
森林平氏の創業──大和郡山発・繊維機械メーカー設立と戦後復興期の事業基盤
1948年10月、奈良県大和郡山市で森林平氏が「株式会社森精機製作所」を設立[2][3]、繊維機械の製造販売を開始した[1]。戦後復興期の日本では繊維工業が外貨獲得の基幹産業として位置付けられ、繊維機械への国内需要が急回復する時期に当たる。森林平氏は紡績関連の繊維機械メーカーとして発足、奈良県大和郡山市という地方都市を本拠地に置く戦後の地場産業型の中小機械メーカーとして起ち上がった。創業から10年は繊維機械専業で歩み、戦後復興期から高度経済成長期前半までの繊維工業需要を取り込む形で事業基盤を作った。
1962年1月、本店および本社工場を大和郡山市北郡山町106番地に移転[4]、創業地・大和郡山市内での生産機能の整備を完了した。当時の繊維機械メーカーとしては中堅規模の体裁を整え、地方の機械メーカーとして地域内での雇用と取引網を作り上げた段階である。日本の繊維工業は1950年代後半から構造変化期に入り、合成繊維への移行と海外への生産シフトで国内需要は1960年代に減退へ向かい、繊維機械メーカー各社は業態転換を迫られた。森精機製作所は1958年5月の段階で繊維機械の製造中止という業態転換を断行した[5]。
工作機械への業態完全転換と、伊賀工場の建設・NC化対応
1958年5月、繊維機械の製造を中止し工作機械(高速精密旋盤)の製造販売を開始、業態の完全転換を実行した[6]。戦後復興期の繊維機械需要のピークアウトを見越し、産業機械の中で最も需要が広がる工作機械──特に高速精密旋盤──への参入を決めた決断である。創業からわずか10年での主力事業転換は、後の同社の事業判断パターン(先見的な業態転換と集中投資)の原型となる経営判断であった。1958年以降、同社は工作機械専業として歩み、繊維機械への回帰は行わず、後の60年超の事業の骨組みを完成させた。
1968年4月、数値制御装置付旋盤(NC旋盤)の製造販売を開始、NC化への対応を始めた[7]。1960年代後半から1970年代にかけて日本工作機械業界はNC化の波に直面し、NC旋盤・NCマシニングセンタへの移行が業界の生死を分ける時期であった。森精機製作所はNC化の早い段階で参入、後のCNC精密旋盤へつながる事業基盤を整えた。1970年12月、三重県伊賀町に伊賀工場を建設・操業開始、後の中核工場となる伊賀事業所の最初の拠点を設けた[8]。大和郡山市の本社工場に次ぐ第2の生産拠点として伊賀工場を整え、関西圏の工作機械生産能力を拡張する構造である。創業時の繊維機械メーカーから20年で、NC旋盤の専業生産能力を持つ工作機械メーカーへ転身を完了した。
中型旋盤の量産化による躍進と東京・大阪両証取への上場
工作機械への参入は業界では後発だったが、森精機製作所は中型汎用旋盤に機種を絞った量産で先行各社を追い抜いた。受注を受けてから熟練工が1台ずつ仕上げ、不況に備えて設備を控えめに保つのが当時の工作機械メーカーの通例であり、森精機製作所は中型汎用機SL-3を月産200台規模で見込み生産する逆の道を選んだ[9]。低コストと輸出競争力を背景に、単体売上高は1972年1月期の18億円から1979年3月期の185億円へ伸び[10]、無借金経営のまま一株あたり年15円の高率配当を続けた[11]。経営は創業者の森林平社長を中心に、弟の森茂副社長や森幸男専務ら創業家で固めた[12]。森林平社長は、NC工作機械の需要拡大を見越し、同業他社が縮小・撤退・減量に向かう時期に量産合理化設備と人材を逆に増やしたと、後発からの逆転の背景を説明している。
1979年11月、大阪証券取引所市場第二部に上場、創業から31年で資本市場へのデビューを果たした[13]。1981年5月、立形マシニングセンタの製造販売を開始[14]、CNC旋盤に続くMC事業への参入で製品ラインを拡張した。同年11月、東京証券取引所市場第二部に上場、東京市場への進出も果たした[15]。創業から33年で東京・大阪両証取への上場を完了し、奈良県大和郡山市発の地場機械メーカーから上場工作機械メーカーへ事業基盤を引き上げる転換を遂げ、後に独DMGとの段階統合に至る資本市場での地位を確立した時期にあたる。
1982年〜2014年 海外3極販売網の整備とDMGとの段階統合
欧州・米国・中国への3極販売網の整備と、伊賀事業所の主力工場化
1982年7月、MORI SEIKI G.M.B.H.(現DMG MORI EMEA Holding GmbH)を設立、欧州で直接販売に乗り出した[16]。同社の最初の海外拠点で、当時の独自動車・機械産業向け工作機械需要を直接取り込む構えである。1983年6月、横形マシニングセンタの製造販売を開始、MC製品ラインを拡張した[17]。同年8月、MORI SEIKI U.S.A., Inc.(現DMG MORI USA)を設立、米国でも直接販売に乗り出した[18]。同年9月、東京・大阪両証取の市場第一部銘柄に指定、一部指定昇格を果たした[19]。創業から35年で東証一部・大証一部指定企業の地位に到達した。
1980年代を通じ、森精機製作所はNC化の波に乗って大隈鉄工所・ヤマザキマザックと並ぶ業界御三家の一角に数えられた[20]。強みは工作機械の内製化率がほぼ100%に達する垂直統合にあり、同業他社が日本精工などから購入するボールねじやカービックカップリングといった心臓部品まで伊賀工場で自前で作った[21]。製品面では、ベッドや主軸・刃物台などをユニット化して組み合わせで多品種を構成するブロックビルド方式を採り、8種の基本ユニットから252種のCNC旋盤を作り分ける体制を1987年までに整えた[22]。立体自動倉庫と無人搬送車を備えた伊賀・奈良のFMS(フレキシブル生産システム)工場がこれを支え、受注から1か月で納める短納期を実現した[23]。
量産と内製化に支えられた収益力は同業の中で抜きん出ていた。1989年3月期の単体決算は売上高経常利益率25.9%・営業利益率24.1%で工作機械業界の首位に立ち、営業利益率では2位のアマダを10ポイント以上引き離した[24]。自己資本539億円・無借金の財務を背景に、従業員1人あたりの設備額を示す労働装備率は2,010万円と、大隈鉄工所の380万円・日立精機の260万円を上回る水準まで製造設備に投じた[25]。一方で当時の森社長は、量産で成功した自社を「宮大工の仕事をプレハブ工法でやった」と評し、FMSやCIM(コンピューターによる統合生産)へ需要が移るなかでは機械の基本性能を磨く原点回帰が要ると語っている。
生産拠点の拡張と森雅彦社長への承継、中国進出と国内再編
1986年3月、大和郡山市井戸野町に奈良工場を建設・操業開始[26]、創業地・大和郡山での生産能力を増強した。1992年3月、伊賀第2工場を建設・操業開始[27]、伊賀事業所内の主力工場拡張を実行した。1999年5月、名古屋市中村区に名古屋ビルを建設、名古屋拠点を整備した[28]。同年6月、森雅彦氏が森幸男氏から代表取締役社長を承継、創業家第三世代の社長として就任した[29]。森雅彦氏(1961年9月生まれ・京都大学工学部精密工学科卒)は父・森幸男氏から承継した[30]時点で、戦後復興期からの50年で築いた「工作機械専業+NC化対応+日米欧3極販売網」の基本構造を引き継いだ。
2001年1月、上海森精机机床有限公司を設立し、中国市場へ進出した[31]。1980年代の欧米3極販売網に続き、2000年代に中国市場を加える構造である。2001年5月、株式会社太陽工機の発行済株式の40%を取得、グループを拡張した[32]。2002年9月、日立精機・日立精機サービスより営業の一部を譲受、事業基盤強化を実行した[33]。日立精機の経営破綻に伴う事業譲受で、日本工作機械業界の再編にも踏み込んだ。2003年8月、千葉県船橋市に千葉事業所を建設・操業開始[34]、生産・研究拠点を整備した。2004年8月、伊賀事業所内に特機工場と人材開発センタ(現DMG森精機アカデミー)を建設[35]、人材育成基盤を整えた。同年10月、本社機能を奈良県大和郡山市から愛知県名古屋市に移転、本社所在地を名古屋へ変更した[36]。
DMG(GILDEMEISTER AG)との段階統合と、垂直統合の進展
2005年2月、株式会社渡部製鋼所(現DMG MORIキャステック)の株式33.5%を取得[37]、鋳物供給の取り込みで垂直統合を進めた。2006年3月、伊賀事業所内に鋳物工場を建設、鋳物内製化を完遂した[38]。工作機械の主要部品である鋳物の内製化で、サプライチェーン上流まで取り込む垂直統合型を成立させ、当時の同業他社が外部調達に依存していた鋳物部門を自前で運営できる構造を作り上げた。2006年12月、DIXI MACHINES S.A.の工作機械製造事業を譲受、欧州事業基盤を強化した[39]。スイスの精密工作機械メーカーの事業譲受で、欧州での製品ラインを拡張した。
2009年3月、GILDEMEISTER AG(現DMG MORI AG)との業務・資本提携に合意、DMG森精機統合への第一歩を投じた[40]。独大手工作機械メーカーとの提携は、世界の工作機械業界における日独統合という構造変化のはじまりとなった。森雅彦社長は週刊エコノミスト編集長インタビューで「精密機械製造業としての『ものづくり』と販売・サービス・アプリケーション業務としての『ことづくり』を融合させ、世界中のお客さんやサプライヤーと20年スパンで長く栄えていく」と表明、垂直統合と「ものづくり×ことづくり」の融合を経営観の中核に据えた。
2011年4月、森精機セールスアンドサービスを設立すると同時に、DMG MORI AGの株式を20.1%まで追加取得[41]、DMG MORI連携を深化させた。2011年8月、Mori Seiki Manufacturing USA, Inc.(現DMG MORI MANUFACTURING USA)を設立[42]、米国での現地生産に乗り出した。2012年7月、DMG MORI MANUFACTURING USAが操業開始、森精机(天津)机床有限公司も設立し[43]、米国生産稼働と中国生産化を同時に開始した。2013年9月、DMG森精機(天津)機床有限公司が操業開始、中国生産化を完成させた[44]。2013年10月、商号をDMG森精機株式会社へ変更[45]、DMGとの統合を反映した商号変更で日独統合のブランド一体化を完成させた。
2015年〜2026年 MX戦略・人材投資・2030年目標への移行
DMG MORI AG連結化と東京GHQ・伊賀デジタル工場の整備
2015年3月、株式会社アマダマシンツールの旋盤事業譲受契約を締結、旋盤事業を取り込んだ[46]。2015年4月、DMG MORI AGを連結対象会社化(議決権比率現89.6%)[47]、独大手の連結化でDMG MORI完全統合の決定打を打った。創業から67年、独DMGとの提携から6年で連結対象まで取り込み、日独統合の工作機械グローバル経営体制を整えた。2015年6月、英文商号をDMG MORI CO., LTD.に変更[48]、英文ブランドも統一した。同年7月、伊賀グローバルソリューションセンタを全面リニューアル、12月には奈良事業所にシステムソリューション工場を建設し[49]、生産能力を拡張した。
2016年8月、DMG MORI GmbHとDMG MORI AG間でドミネーション・アグリーメントが発効[50]、独子会社の支配契約発効で欧州統合を完成させた。2017年7月、東京GHQ内に先端技術研究センターを開所[51]、IT・先端技術研究拠点を整備した。2018年1月、野村総合研究所とテクニウム株式会社を共同設立(出資比率66.6%)[52]、デジタル戦略合弁を立ち上げた。同年6月、東京都江東区に東京デジタルイノベーションセンタを開所[53]、DX拠点を整備した。同年8月、創業70周年記念としてDMG MORI 5軸加工研究会を発足[54]、5軸加工コミュニティを立ち上げた。同年10月、FAMOT工場(ポーランド)内に最新デジタル工場棟をオープン[55]、欧州生産のデジタル化を加速した。
2019年7月、伊賀事業所にグローバルパーツセンタを開所、部品供給拠点を整備した[56]。同年10月、インドLakshmi Machine Worksにおいて立形マシニングセンタの委託生産を開始[57]、インド市場対応を固めた。2020年4月、東京GHQでCO2排出量ゼロの電力に切り替え[58]、サステナビリティ対応を具体化した。2020年7月、伊賀ソリューションセンタをデジタルツインで再現したデジタルツインショールームを公開[59]、DX施策を形にした。2021年6月、DMG森精機プレシジョンコンポーネンツ(現DMG森精機Additive)を設立[60]、アディティブ製造子会社を立ち上げた。
MX戦略・給与改定118億円増・2030年目標への移行
2022年1月、DMG森精機製造(現DMG森精機伊賀)を設立、生産子会社を立ち上げた[61]。同年4月、東証プライム市場に移行、市場区分の移行を完了した[62]。2022年7月、奈良市に奈良商品開発センタを設立し本社機能を愛知から移転、奈良PDC・東京GHQの二本社制を導入[63]、本社所在地の二本社化を完了した。同月、DMG森精機単体で従業員給与を年度換算ベース24%増へ改定、グローバルで人件費118億円増を公表[64]、「業界内最高水準」と明示した。森雅彦社長は人材投資を経営戦略の中核に据える方針を明言、エンジニア・サービス員の待遇強化を施策化した。
2023年4月、DMG MORI ACADEMY 浜松を開所、人材育成拠点を開設した[65]。2023年12月期を初年度とする中期経営計画(2023-2025年)でMX(マシニング・トランスフォーメーション)戦略・工程集約・自動化・DX・GXの進化を提示[66]、給与改定118億円増を実行した。2023年12月期通期は売上収益5,394億円・営業利益555億円、初年度から営業利益率10%を達成し「中期経営計画2025」を好発進させた。2024年2月公表の2023年12月期通期報告では、倉敷機械をグループ化し2024年4月にDMG MORI Precision Boring株式会社へ社名変更[67][68]、年間配当100円計画(連続増配)、中計の株主還元を1年前倒し実施した。
2024年1月、倉敷機械株式会社(現DMG MORI Precision Boring)の発行済株式を100%取得[69]、横中ぐり盤メーカー買収で製品ラインを拡充した。2025年2月、株式会社太陽工機の株式を100%まで追加取得、連結子会社化を完了[70]。同年3月、本店を奈良市三条本町2番1号へ移転、宮脇機械プラント株式会社の発行済株式を100%取得し工作機械商社を取り込んだ[71]。2025年12月期通期は売上5,150億円(前年比-4.6%)・営業利益190億円と、SAP S4/HANA導入・過剰部品在庫処分・ロシア工場接収(EUR91.8百万)など一過性費用[72]で営業利益が下振れ、配当105円計画とした。中期経営計画2025を見直し、2030年目標(売上8,000億円・営業利益率15%)へ移行する形で、MX戦略の浸透で機械単価上昇と利益率改善がどこまで持続するかが論点として残った。