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歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ

創業地新潟県長岡市
創業年1937
上場年1949
創業者津上退助
現代表渡部昇弘
従業員数3,433

独立系・個人創業発明・特許・学術シーズ起点財閥・グループ資本系1926年、職人の直感に頼っていた寸法計測をゲージブロックで均質化しようと、津上退助氏が東京武蔵小山で「津上製作所」を起こした。製造の精度を測る基準そのものを商品にする発想だった。資金支援を仰いだ三井物産とは1936年に対立し、退助氏は旧法人を三井系の東洋精機に残して身を引き、翌1937年に新潟県長岡で「2代目」を再起する。規模の取れる相手に寄せ、決裂すれば別の足場で立て直す。この身の処し方が創業10年のうちに退助氏に刻まれた。

専業集中・一点突破選択と集中・事業売却/撤退危機・外圧が引き金その身の処し方を事業の運び方に変えたのが、取り戻した資産を危機で手放す判断である。1961年、退助氏は三井に残した旧法人の後身・東洋精機を25年越しに吸収し、茨城工場として2代目側へ回収した。だが1973年のオイルショックで経営が傾くと、再建役の大山梅雄氏が取り戻したばかりのこの工場を売却し、その元手で1978年にCNC複合自動旋盤「マーキュリー」を世に出して自動旋盤専業へ転じた。寄せた相手も握った資産も、行き詰まれば手放して会社を組み替えた。

1961年:東洋精機吸収による初代・2代目津上の25年越し合流 1936年に三井対立で別れた旧法人を、創業者が再起した2代目が1961年に吸収し系譜が一本化
1926 1936/1937 1961 1970 1982 2026 初代 津上製作所 1926年設立 東洋精機 1936年三井系で残存 2代目 津上製作所 1937年長岡で再起 津上製作所 1961年東洋精機を吸収 津上 1970年改称 ツガミ 1982年改称 25年越しの初代・2代目合流
1961年:東洋精機吸収による初代・2代目津上の25年越し合流 1936年に三井対立で別れた旧法人を、創業者が再起した2代目が1961年に吸収し系譜が一本化
1926 1936/1937 1961 1970 1982 2026 初代 津上製作所 1926年設立 東洋精機 1936年三井系で残存 2代目 津上製作所 1937年長岡で再起 津上製作所 1961年東洋精機を吸収 津上 1970年改称 ツガミ 1982年改称 25年越しの初代・2代目合流
ツガミ:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
ツガミ:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
ベトナムにTSUGAMI VIETNAM COMPANY LIMITEDを設立2023
中国に浙江品川精密機械有限公司を設立2010
長岡工場及び信州工場の新工場棟完成2005

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ津上退助氏は1936年に旧法人を三井へ残して身を引いたのか
A 精密機械は兵器ではなく平和産業のために伸ばすべきだとする信念と、軍需の比重を高めたい三井の方針が両立しなくなったためである。1934年に三井物産の資本参加で蒲田区下丸子へ移ってからは海軍の酸素魚雷用ジャイロや深度計の試作にも応じ、軍需が膨らんでいた。1936年、津上退助氏は方針対立から経営を退いて下丸子を去り、旧津上製作所は三井系の東洋精機として残った。退助氏は争って奪い返すのではなく、旧法人を相手に明け渡したうえで、翌1937年に新潟県長岡で2代目の津上製作所を別に立ち上げる道を選んだ
Q なぜ1978年に自動旋盤専業へ転じたのか
A 1973年の石油危機で経営が傾いたとき、再建役の大山梅雄氏が25年越しに取り戻した旧法人由来の拠点さえ再起の元手と割り切り、それを手放した資金でCNC複合自動旋盤へ集中したためである。1961年に三井へ残した旧法人の後身・東洋精機を吸収し茨城工場として回収していたが、1975年に社長へ就いた大山梅雄氏は100円以上の経費を自ら確かめる倹約に加え、この茨城工場を閉鎖・売却して財務を立て直した。その元手で1978年にCNC複合自動旋盤マーキュリーシリーズを出し、自動旋盤メーカーとして立て直した
Q なぜ2020年代の中国減速下でも浙江の生産は落ちなかったのか
A 量産需要の担い手を米アップル向けスマートフォン部品から中国EVメーカー向け部品へ入れ替え、同じ浙江の生産態勢でその需要を受け直したためである。2010年代は米スマートフォン大手の精密部品量産が中国を主力市場に変え、FY12(2013年3月期)の連結売上高を528億円へ押し上げた。スマホ需要が一巡したあとは、自動車のEV化でBYDなどが上位の得意先となり、EV関連の精密部品需要が中国の減速下でも業績を支えた(日経ヴェリタス 2025年5月)。FY24(2025年3月期)の連結売上高は1,074億円、営業利益は233億円と過去最高に達した

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1926年〜1981年 初代津上製作所から2代目への再起と旧法人の25年越しの回収

売上高と利益率の推移
売上高(億円

ブロックゲージ国産化への着想、服部・三井の資本参加と三井との訣別

津上退助氏は福岡の渡辺鉄工所で水雷の発射管をつくっていたころ、ゲージのない現場で寸法の精度に悩んでいた。ヨーロッパから戻った伍堂卓雄氏から、ドイツがブロックゲージという長さの標準で部品の互換性を保ち兵器を量産したと聞き、長さの標準を国産化し、それを土台に精密機械を育てる事業を志した。1926年、東京・武蔵小山で個人経営の津上製作所を開き、ツァイスのねじ測定器など十数台と工員十数名で、国産ブロックゲージと各種ゲージの製作に取りかかった。中島飛行機や石川島飛行機の部品・ゲージ・治具を受注したものの、試作段階の取引で採算は厳しく、1927年の金融恐慌では解散寸前まで追い込まれた。従業員が貯金帳や恩給証書を差し出して引き留めたという挿話が残る[1][2][3][4]

東京電気の電球用ベースゲージ、日本石油のパイプねじゲージ、沖電気の自動電話機用ゲージといった注文が続いて苦境を脱すると、津上氏は事業の拡大に向けて出資者を探した。実業家の服部金太郎氏から当初3万円の出資を得て、1928年に資本金15万円の株式会社津上製作所を設立し、蒲田の雑色町に約500坪を取得して工場を建てた。地下に恒温恒湿の測定室を設け、ツァイスの光波干渉計とSIPの治具中ぐり盤を据えた。光波干渉計はツァイスが試作を終えたばかりで、津上氏の発注が世界で最初だった。この測定設備の上に国産ブロックゲージが仕上がり、万国共通の長さの基準を日本の工業へ持ち込んだ[5][6][7][8]

1934年、精密加工の将来性に着目した三井物産が資本に加わり、蒲田区下丸子に新工場を建てて生産を移した。翌1935年に資本金を500万円へ増やし、精機・兵器・鋳造・測定器・光学の各工場を整え、ダイヤモンド旋盤や各種の精密工作機械、日本で最初とされる徒弟学校までを揃えた。海軍の酸素魚雷に使うジャイロや深度計の試作にも応じ、軍需の比重が高まっていった。だが、精密機械は兵器ではなく平和産業のために伸ばすべきだとする津上退助氏と三井は経営方針で対立し、1936年、津上氏は経営を退いて下丸子を去った。創業者の手を離れた旧津上製作所は三井系の東洋精機として残り、1961年に2代目へ吸収されるまで三井の傘下で運営された[9][10][11][12]

津上退助 創業者・自叙伝『十万分の一』より
1962年ごろの当事者の証言
私は「日本でもまず長さのスタンダードになるブロックゲージを作ることが先決だ。そして、これをもとにして精密な機械を作るようにならなければならない。」と痛感した。 精密機械という言葉などまだない時代だったが、国土が狭く、人口が多く、資材の乏しい日本では、どうしても精密機械の工業、知能的な工業で進むほかに生きる道はない、という私の信念はいよいよ動かないものになった。

長岡での2代目再起と、1953年不渡りからの和議による再建

津上退助氏は工場を誘致していた新潟県長岡市で再起を図った。忍耐強い作業者を得るには子供のころからきびしい自然に鍛えられた風土が要ると、津上氏は考えていた。新潟県出身の石山賢吉氏の斡旋と、長岡出身の山田多計治氏が率いる大阪機械との共同で土地と資本の見通しを付け、1937年3月、資本金200万円で2代目の株式会社津上製作所を設立した。資材統制と軍部の圧力のなかでも工場は鉄筋コンクリートで建て、1941年9月に長岡工場が全棟そろった。第二次大戦下ではドイツやスイスから取り寄せた工作機械や測定器が海上輸送を絶たれ、潜水艦で運び込んだものもあった。1945年2月に津上精密工学工業を合併して信州工場とし、1949年5月、東京・大阪・新潟の3取引所へ同時に上場した[13][14][15][16][17]

上場後ほどなく、朝鮮動乱後の反動不況からの立ち直りが遅れ、業績は低迷した。大口取引の失敗で資金繰りに詰まり、高利の資金にも手を出した。1953年6月、外国会社向けに製造した輸出用工作機械が一方的に取引を拒まれたのをきっかけに、津上製作所は不渡りを出した。工作機械・精密工具・原器・測定機などをつくる技術と設備はむしろ高く評価されており、技術を重んじて採算を後回しにしたことが招いた不渡りだと評された。会社はできて間もない会社更生法の適用を申請したが、管財人をめぐって債権者の間に対立が起き、裁判所は1954年12月に更生法の申立てを棄却した。残された道として、会社は和議法による再建へ切り替えた[18][19][20]

和議の決定で、いったん経営を退いていた津上退助氏が社長に復帰し、再建の指揮を執った。債権者の同意を得て負債総額およそ14億円の半分以上を切り捨て、1956年6月に資本金を5億円から5分の1の1億円へ減らし、翌7月に5倍へ増資して再び5億円へ戻した。1955年からの神武景気で各工場が設備を増やすと津上製作所の受注も回復し、1956年3月期に1,800万円の赤字を計上したのを最後に、同年9月期には4,800万円の黒字へ転じた。1958年3月期に1割の復配を実現し、1960年5月には倍額増資の余力まで戻した。和議によって経営の実権が管財人から創業者へ戻ったことは、再建の支えになった[21][22][23][24]

金井澄雄 『倒産の原因・成長の条件』の評
1964年ごろの当事者の証言
和議ということで会社経営の実権が、管財人の手から会社創設者の津上退助氏にもどったということは再建において非常な力となった。 津上氏の経営に対する熱意もさることながら、技術面では絶対に高く評価されており、これが不渡り後といえども製品に対する信頼度を落とすことがなかった。

東洋精機の25年越し回収と、多角化・オイルショック下の構造改革

1961年10月、津上製作所は東洋精機を吸収合併し、茨城工場として取り込んだ。1936年に三井へ手放した初代津上製作所が、創業者の手で25年越しに2代目の傘下へ戻り、初代と2代目が一つの事業体へ合流した。長岡・信州に続く関東の生産拠点が加わり、生産は3か所に分かれた。1968年7月に蔵王製作所を設立し、1970年9月には津上総合研究所を長岡市に置いて研究開発の機能を長岡へ集めた。1970年11月、社名を漢字の株式会社津上に改めた。創業者が三井へ明け渡した旧法人を取り戻したこの合流は、のちの商号整理まで続く系譜を一本につないだ[25][26][27][28][29]

1961年:東洋精機吸収による初代・2代目津上の25年越し合流 1936年に三井対立で別れた旧法人を、創業者が再起した2代目が1961年に吸収し系譜が一本化
1926 1936/1937 1961 1970 1982 2026 初代 津上製作所 1926年設立 東洋精機 1936年三井系で残存 2代目 津上製作所 1937年長岡で再起 津上製作所 1961年東洋精機を吸収 津上 1970年改称 ツガミ 1982年改称 25年越しの初代・2代目合流
1961年:東洋精機吸収による初代・2代目津上の25年越し合流 1936年に三井対立で別れた旧法人を、創業者が再起した2代目が1961年に吸収し系譜が一本化
1926 1936/1937 1961 1970 1982 2026 初代 津上製作所 1926年設立 東洋精機 1936年三井系で残存 2代目 津上製作所 1937年長岡で再起 津上製作所 1961年東洋精機を吸収 津上 1970年改称 ツガミ 1982年改称 25年越しの初代・2代目合流

高度成長下の1962年ごろから、津上は工作機械の景気変動を補うために高精度の耐久消費財へ広げ、自動販売機やエアコン、米国3社と技術提携したジュークボックスや紙幣両替機の生産に乗り出した。1974年9月に販売を津上工販へ分け、同年に創業者の津上退助氏が世を去った。1973年の石油危機で経営が傾くと、1975年に再建で知られる大山梅雄氏が社長に就き、100円以上の経費を社長自ら確かめる倹約と、1961年に取り込んだ茨城工場の閉鎖・売却で財務を立て直した。25年越しに取り戻した旧法人由来の拠点を、危機のなかで再起の元手として手放した。1978年にCNC複合自動旋盤マーキュリーシリーズを出して自動旋盤メーカーとして立て直し、1982年10月、商号を株式会社ツガミへ改めた[30][31][32][33][34][35]

1982年〜2010年 中国生産シフトとCNC小型自動旋盤への事業集中

売上高と利益率の推移
売上高(億円

タイ・米国・中国への3段海外展開と「中国生産シフト」の実行

ツガミへ社名を改めたあと、海外へ拠点を広げた。1988年5月にアヅマシマモト株式会社(株式会社ツガミシマモトへ改称)の株式を取得し、1989年11月にはタイのTSUGAMI(THAI)CO., LTD.を設立した。日系自動車部品メーカーの東南アジア進出に追随し、タイの現地需要に応える狙いだった。1991年には4月に株式会社ツガミプレシジョンを設立して国内のグループを広げ、5月には米国の工作機械製造会社ウェルドン社を買収してWMTコーポレーションへ改めた。2代目創業から54年を経て、生産機能を含む北米拠点を初めて自社へ取り込んだ[36][37][38][39]

国内では1997年4月に株式会社ツガミハイテックを設立し、2001年11月にツガミテクノ株式会社の株式を取得して、グループを広げ続けた。一方、北米の現地生産はうまくいかず、2002年12月にWMTコーポレーションを清算した。1991年の買収から11年で、生産機能まで自社で抱える北米の現地化を断念した。北米事業はその後、2005年2月にREM SALES LLCへ出資し、米国の販売パートナーを通じた間接販売へ切り替えた。生産は日本と中国へ集め、北米には売る機能だけを残す形へ整理した[40][41][42][43]

2003年9月、ツガミは中国・浙江省に津上精密机床(浙江)有限公司を設立し、中国市場へ進出した。これがその後の事業構造を決めた一歩になった。1974年の創業者・津上退助氏の逝去から続いた経営の空白を経て、FY98に社長へ就いた西嶋尚生氏が主導した。西嶋氏は日刊工業新聞「経営改革の総仕上げ」で、中国生産シフト・CNC小型自動旋盤への事業集中・収益体質改革をFY00〜FY10の十年でまとめて進めたと総括した。本体の部品加工まで内製する垂直統合で中国に立脚する選び方は、当時の日本の工作機械業界では先行し、後の中国市場シェア7割超を作る決定打となった[44][45][46][47]

中国売上比率の10%台から70%超への押し上げと、国内グループ再編

中国進出と並行して、ツガミは国内のグループを整理した。2004年4月に津上工販株式会社を吸収合併し、1974年に分けた販社を30年ぶりに本体へ戻した。同年10月には株式会社シマモト精工とツガミテクノ株式会社を合併して株式会社ツガミシマモトへ、株式会社ツガミハイテックと株式会社ツガミマシナリーを合併して株式会社ツガミマシナリーへまとめた。2005年2月にはREM SALES LLCへ出資して北米の販売網を整え、同年11月には長岡工場と信州工場の新工場棟が完成した。2006年10月に株式会社ツガミ総合サービスと株式会社ツガミツールを合併し、機能別の子会社を本体へ集約する再編を仕上げた[48][49][50][51][52]

2010年代に入ると、米スマートフォン大手の精密部品向け量産受注が伸び、FY12(2013年3月期)の連結売上高を528億円へ押し上げた。CNC小型自動旋盤による精密部品の量産を中国生産で受け、中国売上比率は10%台から70%超へ広がった。西嶋尚生氏は東洋経済オンラインの取材で「中国の、中国人による、中国ユーザーのための経営」と語り、現地法人の責任者を本体の取締役顧問に組み入れて、現地へ経営権限を委ねる体制を組んだ。1936年に三井物産との依存を断って独立した創業者と、2003年以降に中国市場への依存を選んだ西嶋氏は、相手こそ違え、規模の取れる相手に寄せて自立を図る点で重なる[53][54]

2011年〜2026年 中国市場を収益源とするCNC小型自動旋盤事業と、一国依存への多極分散

売上高と利益率の推移
売上高(億円

スマートフォン量産で中国を収益源に変えたCNC小型自動旋盤

2010年代のツガミの利益は、中国でのスマートフォン部品の量産が生んだ。2010年2月に韓国へTSUGAMI KOREA CO., LTD.を、同年11月に中国へ浙江品川精密機械有限公司を設けて生産能力を積み増し、2003年の浙江省進出から7年で中国国内に第2の生産拠点を加えた。CNC小型自動旋盤による精密部品の量産を中国で受ける態勢を厚くし、後の中国市場シェア7割超を支えた。2011年4月にはインドへも現地法人を置いた。連結売上はFY10(2011年3月期)359億円、FY11(2012年3月期)357億円からFY12(2013年3月期)528億円へ跳ね、スマートフォン需要を取り込んでリーマンショック後の落ち込みから抜けた[55][56][57][58]

中国に依存する分、業績は需要の波をまともに受けた。スマートフォン需要がピークを越えた2010年代半ばは、FY13(2014年3月期)322億円、FY15(2016年3月期)401億円と振れ幅が大きかった。ツガミは自動車部品・電子部品・医療機器へとCNC小型自動旋盤の用途を広げ、FY17(2018年3月期)568億円、FY18(2019年3月期)685億円まで戻した。2017年9月には中国子会社の津上精密机床(香港)有限公司を香港市場へ上場させ、現地の資本市場ともつないだ。2018年9月のFY18決算では配当性向の引き上げと安定配当の両立を示し、株主還元の枠組みを改めた[59][60][61]

中国を軸にした高収益体質と、財務経理出身トップへの承継

2021年6月、ツガミは西嶋尚生氏から百谷淳一氏(FY21)へ代表を移し、2022年6月には北越銀行(現第四北越銀行)出身で財務経理畑の米山賢司氏がFY22の社長に就いた。中国事業が生む利益は厚い手元資金となって財務を支えた。米山氏は財務の規律を経営の軸に据え、2025年3月時点で自己資本比率49.4%とネットキャッシュの状態を保った。配当はFY22の40円からFY23 46円、FY24 48円、FY25 59円、FY26 64円(計画)へと段階的に引き上げ、株主資本配当率(DOE)4.7%を維持する方針を掲げた[62][63][64]

中国が収益源であることは、数字にはっきり表れた。2024年10月、津上精密机床(浙江)有限公司が中津精密机床(浙江)有限公司を吸収合併し、同月に浙江省第5工場(旧 中津精密)の組立工場が動き出して、中国の生産態勢を組み替えた。自動車のEV化でBYDなどが上位の得意先となり、EV関連の精密部品需要が中国の減速下でも業績を支えて、最高益を保った(日経ヴェリタス 2025年5月)。FY24(2025年3月期)の連結売上高は1,074億円と前期比28%増え、営業利益は233億円と過去最高の水準へ達した[65][66][67]

中国一国依存への備えとしてのインド・東南アジア・日本の多極分散

収益を中国に頼る一方で、ツガミは一国への偏りに備えを置いた。2023年7月にマレーシアのTSUGAMI UNIVERSAL SDN. BHD.、10月にベトナムのTSUGAMI VIETNAM COMPANY LIMITEDを設けて東南アジアへ拠点を広げた。インドではバラム・バダガルに新工場を建て、鋳造工場を2024年4月、加工組立工場を2025年9月に動かす計画を示した。鋳造から加工組立までインドで一貫してまかなう構えで、中国一国に寄った生産をインド・東南アジア・日本へ分け直す方向へ進めた[68][69][70]

米山社長は欧州と韓国の事業強化を掲げ、譲渡制限付株式報酬を続けつつ既存のストックオプションを廃して中長期の報酬を株式へ一本化した。FY26(2026年3月期)の1株配当は64円を計画し、DOE 4.7%の安定配当を据える。2024年11月の取締役会では築約50年の長岡工場8号棟の建て替えを決め、2027年4月の稼働へ向けて23億円を投じる。生産は長岡・信州・浙江・浙江第5・インド・マレーシア・ベトナム・韓国の8拠点へ分かれ、中国を収益源としながら、初代以来くり返してきた依存を断つ歩みで多極へ広げる段階へ入った[71][72][73][74]

出典

日経ヴェリタス 日本経済新聞社 2025年05月 https://www.nikkei.com/article/DGKKZB0C2A510C25A0000000/
東洋経済オンライン 東洋経済新報社 https://toyokeizai.net/articles/-/664345

API for AI Agents — 静的アセットのJSONで取得可能。API実行の認証不要

Method Path 概要 ツガミ(証券コード6101)のURL API仕様書
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