1946年9月、天田勇は東京都豊島区高田南町で天田製作所を創業した。終戦直後の新円切替を機に踏み切った再出発で、郵便局からおろした事業資金は3,000円、借りたのは焼け残った親戚の長屋――かつて父が住み、商売に失敗して引き払った因縁の地で、天田自身が"砂利場"と呼ぶふるさとだった。旋盤1台と本人だけの陣容で、当初は機械修理や水道局向けの部品製造を請け負う町工場として動き出す。小僧奉公10年、軍隊4年半、他工場で3年半と、昭和の20年を働きづめにきた職人が、独立の足場をようやく得た格好である。1948年に合資会社へ、1953年10月には資本金100万円の株式会社(株式会社天田製作所)へと改組し、工作機械の修理と機械工具の販売で足場を確立した。天田は他社が手がけていない新しい製品を探し続け、やがて知人から、進駐軍が金属の切断に帯鋸(バンドソー)を使っているという話を聞く。
その帯鋸の話は、高田馬場の駅で日本木工機械時代の知人と偶然再会したことに始まる。相手は進駐軍の機械をスケッチして持参し共同事業を持ちかけてきたが、天田はかばんからスケッチが出される前に『見せないでください』と断った。見れば相手の話に乗ることになり、どんなに小さな事業でも一人でやりたいという信条に反する――その場の反射が口を突いた逸話である。調べてみると、金属用の帯鋸盤はドオール社(米)やケーレー社(独)が先行し、輸入機が大手にわずかに入るのみで、一台70〜80万から130万と高く、普通の機械工場は弓鋸や丸鋸に頼っていた。国産化では関西のメーカーが通産省から100万円の助成を受けて試作しており、市場規模の小ささから大手工作機械メーカーが参入を見送る領域に、町工場が独自の方法で食い込む構図がここから始まる。
1954年秋から設計に着手し、現場で培った経験と工作機械の知識を総動員して図面を引き直した。開発資金は自己資金約2,000万円。旋盤など装置約20台を新設し、海外製品のカタログと特許資料だけを頼りに独自設計を進める。『町工場で金がないんですから、研究用の輸入機械を買うわけにはいかない。カタログとか色々なものを集めて研究した』(商工経済 1963/3)と天田は語っている。世界最高とされたドオール社に見劣りしないものを目指した設計は約3か月を要し、1955年1月、竪型バンドソーの"コンターマシン"第1号機が完成した。一台の製造原価は約20万円、売価は50万円とした。輸入も模倣も許されない空白市場から製品を立ち上げた経験が、資金制約のなかで既存技術を解釈し直して独自の形に落とすという、以後のアマダの開発文化の原型となった。
第1号機の完成は、メーカーとしての出発であると同時に、売る力を問われる始まりでもあった。『売れなければ、次の製品をつくれない』という意識から、天田は技術と並んで販売を経営の軸に据える。営業の江守らは代理店任せにせず、市場調査・販路拡大・アフターサービスを自ら動かした。製品も素早く広げ、コンターマシンは主に金型業界で"新兵器"として迎えられ、切削加工で1時間かかる金型加工を20分前後へ縮めた。輸入機を買える一流メーカーより数の多い中小向けに、16インチを12インチに縮めた世界初の小型機を30万円で投入し、日立製作所からは逆に大型の20インチ盤を受注する。1956年3月には棒材切断用の横型バンドソー"カットオフマシン"の生産にも乗り出した。同年10月には埼玉県鳩ヶ谷町に川口工場を建設し、大阪・名古屋にも営業所を開設して、生産と販売の両面を一気に強化した。
販売を軸に据える発想は、流通の作り替えにも及んだ。当初は安宅産業などの大手商社を代理店としていたが、1960年4月に営業部門をエーエム商事として分離し、1965年からは自社直販網の構築に本格着手する。商社経由では中小顧客の実態がつかめず価格交渉も任せきりになる、という反省が切り替えを促した。開拓の鍵は"分割払い"で、資金力に乏しい町工場や板金加工業者に金融支援を組み合わせて売ることで、コンターマシンやプレス機の需要を引き出した。『経理内容と販売高では日本一になりたい』(あすを創る人 1963)という言葉どおり、技術自慢ではなく販売力を軸に置く経営が急成長を呼ぶ。1964年1月には商号を"アマダ"に改め、同年2月にはエーエム商事と巧技術研究所を吸収合併して製販を本体へ統合し直した。創業から10年余りでの販売体制の抜本的な見直しは、当時の日本企業として先進的な試みである。
成長を支える生産能力と資金は、1961年に同時に動く。天田は太平洋岸への産業集積を見越し、農村だった神奈川県伊勢原町の工場誘致に応じて約3万3,000平方メートルを取得し、同年2月に新工場の建設へ着手した。所要資金は約3億5,000万円。これに対し資本金は1961年2月時点で800万円にすぎず、3月の倍額増資で1,600万円、5月には5,000万円へ一気に積み増したうえで、6月15日に東京店頭市場へ株式を公開する。同月には額面変更のため寿々川礦業と合併し、上場の体裁を整えた。公開時は1,370円の高値をつけ、証券市場第二部の発足にあわせて同年10月に東証2部へ、1962年7月には大阪2部へ上場した。1969年8月には東証一部に昇格する。創業15年での上場は当時として異例の速さで、天田自身も『一躍花形株になった』と振り返り、業界紙もアマダを"花形株"(オール大衆 1971/12)と呼んだ。
直販網が固まると、アマダは製品多角化と海外展開に動く。1965年には米US社とプレス、仏PSL社とプレスブレーキの技術提携を締結して同年中に両機種の製造を開始し、帯鋸単機種から脱却した。販路を海外へ広げ、国内の不振メーカーも取り込み始める。1971年1月に米シアトルのユー・エス・アマダ社を設立し、1972年には英バーミンガム・独デュッセルドルフに現地法人を設立して(独は機械商社の買収)欧米販路を押さえた。国内では1973年7月、経営不振の淀川プレス製作所が実施した第三者割当増資をアマダが引き受け、株式30%を取得して中型(100トン超)プレスの製造を委託する。当時のアマダは月商30億円規模ながら170〜180億円の受注残を抱え、伊勢原工場の拡張を迫られていた矢先で、常務の渡辺久が持ち込んだ提携だった。三洋電機グループ向けに依存した淀川プレスは販売が弱く、それが不振の根にあると天田は見ていた。
取り込んだ企業の再建は平坦ではなかった。淀川プレスでは、アマダが1974年5月に持株を42.5%へ引き上げた直後に労務問題が深刻化し、納期遅延と品質低下が止まらず、同年7月にいったん提携打ち切りを通達する。撤退の報で同社株は大阪証券取引所の監理ポスト入りとなり、園憲次郎社長が希望退職と組合交渉の荒療治に踏み切ったのを見て、天田は暮れから委託を再開した。淀川プレスは1979年度に売上35億円・経常利益2億円へ戻り、1981年にワシノ機械へ吸収される。1973年11月に三井物産などから株式49.4%を譲り受けて経営権を得た園池製作所でも、送り込んだ鷲尾寛一社長が約600人中100人の整理と不良資産4億円の償却を進め、半年で黒字に転じて売上を33億円から1979年に235億円へ伸ばした。
買収は単発ではなく連鎖になった。1974年には80トン以下のプレスを外注していた佐賀機械工業の株式80%を取得して小型プレスを内製化し、1977年にはオイルショックで会社更生手続中だった研削盤の老舗・三正製作所を、減資後の新資本金1億円の全額出資で傘下に収める。1978年4月にはワシノ機械の株式16.7%を取得した。いずれも不振企業の救済型買収で、バンドソー・プレス・ベンディング・シャーリングへとラインナップを広げたこの動きが、後に"板金機械の王者"と呼ばれる地歩を築いた。1982年にはイタリア・ミラノにアマダ・イタリア社、1986年には仏プロメカム・シッソン・レーマン社を買収してアマダ・エス・エー社を設け、欧州の板金機械メーカーも取り込んだ。1960年代に固めた直販網を武器に、国内・海外の両面で業界地図を塗り替えた時期である。
アマダが1980年代に太らせたのは機械そのものではなく、機械が売れる場所だった。代理店に委ねれば売上の一割五分から二割を手数料に取られ、しかも返ってくるのは買い手ではなく代理店の要望である。天田勇はその金を伊勢原の展示フロアと無料の技能学校へ振り向け、9,240平方メートルの床と約200種類の機械を、年に93日開く商談の装置に仕立てた。全売上高の8割がこの場で決まるようになったとき、流通に払う経費は、他社が真似できない自前の設備へ姿を変えていた。
売る場所を握った会社は、作る者を選べる。不振に陥った機械メーカー5社を6年で傘下に収めながら、送り込んだのは園池製作所へ社長1人、ワシノ機械へ2人にすぎない。本体は商品開発と販売だけを持ち、製造は再建した関連会社へ、納入後の保守と金型はアマダメトレックスへ預ける分業が1981年までに定まった。1986年からの円高で、輸出に4割を頼る同業が国内へ戻ってきたとき、アマダが持ち出したのも展示会場で集めた加工ソフトだった。売り場に集まる情報が、そのまま次の商品になる構造である。
1979年3月期、アマダは過去最高の利益を計上した。単体の売上高は前期の497億円から607億円へ二割強伸びている。天田勇は、好調を支えているのは設備の更新需要だとしながらも、業界の体質には厳しい目を向けていた。戦前の工作機械業界には陸海軍という安定した買い手がおり、民間向けであっても客のほうが代金を携えてやって来た。良い品さえ作れば売れるという当時の前提が今も抜けきっていない、というのが天田の見立てである。自社の最大の弱みを販売力とみたのは、技術一筋で歩んできた天田自身であり、販売の仕組みづくりは義弟の江守龍治副社長に託されていた。代理店に任せれば、手数料が五分から一割では責任ある売り方をせず、一割五分から二割を払っても売った後は放っておかれ、上がってくる声も買い手ではなく代理店の都合に偏る。天田はそう見ており、流通に回していた費用を自前の販売設備へ振り替える判断はここから出てきた。
振り替えた先が、神奈川県伊勢原市の本社に設けた展示場である。1フロア9,240平方メートルに約200種類の機械を並べ、展示会は週末を中心に年間93日、東京芝浦電気グループなど特定の大企業グループ向けの催しを含めれば150〜160日開いた。日曜には1,000人以上が訪れ、各地区の担当者が本社の技術者と組んで性能と使い方を説明し、導入後の合理化効果まで計算して見せた。北海道から九州まで集まる顧客の交通費と宿泊費は原則としてアマダが負担し、箱根や熱海に宿を取って家族同伴の観光も組み込んだ。自社の宿泊施設も持っており、近隣のホテルと併せて使った。約3,000平方メートルのロビーには高級品の店と子供の遊び場を置いた。得意先の大半は中小・零細企業で、この場で成立した商談による売上高が全売上高の8割を占めた。
天田が{q1}と述べたとおり、アマダのシステムは機器を据え付けて終わりではなく、使い手が最も効率よく扱える方法を伝えるところまでを含んでいた。具体的には、機械を買った顧客を本社に招き、財団法人となったアマダスクールで無償の講習を受けさせ、所定の資格を取らせた。セットではなくシステムとして売る以上、使い手本人の学びが欠かせないという発想である。本社と展示場には建物・土地込みで約100億円が投じられたが、この金額は他社が追随できないところまでやり切るという方針から導かれたものだった。販売の面では超長期の割賦販売も武器にしており、資金力の乏しい買い手の手が届くところまで条件を寄せていた。機械の性能ではなく、買い手が機械を使えるようになるまでの距離のほうを競争の焦点に置き換えた設備だったのだろう。
1979年までの6年間にアマダが傘下へ入れた国内機械メーカーは、いずれも業績不振の5社で、取得に至る道筋は社ごとに違った。淀川プレス製作所の場合は、アマダが技術提携を申し入れた相手が三洋電機の子会社だったため、井植薫社長を介して話をつけ、経営を引き受ける形で決着した。これに対し園池製作所は、三井物産の若杉社長の頼みで始まった案件で、個人の立場でしばらく支えても立て直せず、最後は経営権ごと引き取るよう求められて取得した。ワシノ機械の株式取得(1978年)もまた、第三者から持ち込まれた話だった。頼まれたか申し込んだかを問わず、天田が譲らなかったのは経営の主導権である。{q1}――銀行や商社などさまざまな出資者が入り、方針の違う者の集まりになった会社では、合議制では何も決まらないというのが理由だった。
園池製作所へは鷲尾寛一社長が1人で入り、生え抜きの社員となじませたうえで、大挙して乗り込むときには天田自身が会長となって、お前たちの骨はおれが拾うと言い、組合を納得させた。1978年に買収したワシノ機械には、翌年半ばの時点で販売担当と技術担当の2人しか行っていない。天田は再建の仕事を、言葉は悪いが洗脳教育だと呼んだ。致命傷は従業員の規律ではなくトップの方針が末端まで浸透していないことにあり、これまでのやり方が甘かったと全員に認めさせるまでに半年から1年かかる。まったく売れずに駄目になる会社は無く、売上がもう少し足りない、原価が高すぎるという程度の理由で赤字が積み上がるのだから、やり方を変えれば利益は出る。1981年には、アマダ本体が商品開発と販売に特化し、関連会社が生産に専念するグループの分業として形が定まった。
買収を重ねながら、天田は借入に頼らない財務を守った。原点は1965年の不況にある。帯鋸盤の単品経営のまま新製品の開発が遅れ、受注が1963年末から減り始めたのを見て、1964年の正月に増資と技術導入を同時に走らせた。増資で集めた7億4,300万円はそっくり銀行に預け、裏づけのない借金はしない方針を通した。1981年になってもユーザーからの手形700億円を、期日の来たものを取り立てるだけで割引にも他の取引にも回さずに抱えていられた。技術は導入で時間を買い、仏プロメカム・シッソン・レーマン社からプレスブレーキ、米ユー・エス・インダストリー社からトルクパックプレスの製造技術を入れて周辺技術を膨らませた。自前の開発だけでは時間も費用もかかりすぎるという割り切りが、販売力の会社という評価の裏側にあったのだろう。
アマダが市場として定義し直したのは、機械を納めた後の時間である。アマダ製の機械は1984年末までに全国で約13万台が納入され、1985年に入っても毎月1,000〜1,200台が市場へ出ていた。この既納入機を相手にする会社が、1975年9月に園池東部販売として設立された子会社で、1979年2月にアマダの技術サービス部門と園池製作所の金型製造部門を譲り受け、修理・保守と金型の製販一貫体制を整えた。以後、自動化ライン装置、既設機へNC装置を後付けするレトロフィット、電子機器・装置の製造へと業務を広げ、1983年1月にアマダメトレックスへ改称している。社長の新藤満三郎は{q1}と述べ、単なるアフターサービスの会社ではないと位置づけた。顧客との取引は97%を自社が直接行い、他の流通経路は3%にすぎない。
1985年7月10日、アマダメトレックスは東京証券取引所第二部へ上場した。公募300万株を加えて発行済株式総数は1,343万株となり、大株主はアマダが43.53%、園池製作所が17.53%を持った。1984年9月期の売上高313億3,600万円の内訳は、金型102億8,900万円、NC装置などの電子機器・装置92億9,900万円、修理・保守等77億5,900万円、自動化ライン22億1,900万円、工具17億7,000万円で、従業員は1,015人を数えた。営業所41とサービスセンター75で拠点は116に達し、3〜4年で200〜250へ増やす目標を掲げていた。一方で売上総利益率は1982年9月期の42.7%から1984年9月期の39.8%へ下がり、NC装置など電子機器の販売競争の激化が要因に挙げられている。
1986年からの急速な円高が、この構図を揺さぶった。1981年に設けた米国現地法人で海外生産を進めており、輸出比率は15%にとどまっていた。それでも苦しんだのは、輸出に4割以上を頼る大隈鉄工所や森精機製作所が国内販売へ力を移したためで、1987年3月期と1988年3月期は2期連続の減収・営業減益に沈んだ。1983年に社長へ就いていた天田満明が選んだのは、展示会場での対話を加工ソフトの蓄積へ変える道で、ソフト開発にあたる技術者を増やし、2社の開発子会社を強化した。1989年3月期の売上高は前年度比34%増の1,296億円へ戻り、1985年3月期の1,176億円を上回って、パンチプレスで70%、シャーリングマシンで60%の国内シェアを占めた。売り場が集めた要望が、次の商品になった局面である。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1978年空白市場と直販戦略 ── 町工場から東証一部へ | 天田勇が創業 | ★ | ||
| 天田製作所を設立 | ★ | |||
| 株式会社に改組、本社移転 | ★ | |||
| 独自バンドソー(金属帯鋸盤・コンターマシン)1号機を開発 | ★★ | |||
| 川口工場を新設 | ★ | |||
| 商事部門を分離しエーエム商事を設立 | ★ | |||
| 天田勇 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 天田勇 | 商号をアマダに変更 | ★ | ||
| 天田勇 | 代理店経由の販売からの離脱と直接販売網の構築 1965年1月、帯ノコ盤メーカーのアマダが、商社・代理店に委ねてきた販売を自社の直接販売網へ切り替え、以後これを展示場と技能者教育で支える体制へ組み上げた経営判断。創業者の天田勇氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 天田勇 | 本社を移転 | ★ | ||
| 天田勇 | シアトルにユー・エス・アマダ社を設立 | ★ | ||
| 天田勇 | バーミンガムにアマダ・ユー・ケー社を設立 | ★ | ||
| 天田勇 | デュッセルドルフの機械商社を買収しドイツ・アマダ社を発足 | ★ | ||
| 天田勇 | 淀川プレス製作所の株式30%を取得 | ★ | ||
| 天田勇 | 不振に陥った同業の連続買収と、企業再建を事業に組み込む路線への転換 1973年から1977年にかけて、帯ノコ盤・プレス機械のアマダが、経営不振に陥った同業の淀川プレス製作所・園池製作所・佐賀機械工業・三正製作所を相次いで系列下に収め、生産を任せて再建した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1979〜1989年売る場所を自前で持つ ── 100億円の展示場と再建5社の分業 | 天田勇 | ミラノにアマダ・イタリア社を設立 | ★ | |
| 天田満明 | プロメカム・シッソン・レーマン社を買収 | ★★ | ||
| 天田満明 | 園池製作所がアマダソノイケ、ワシノ機械がアマダワシノに商号変更 | ★ | ||
| 1990〜2008年「ソフト売ります」のシステム販売への転換と中国・タイ進出、子会社の吸収 | 天田満明 | 加工機単体の販売からの離脱と、システム販売への移行 1980年代後半から1990年代にかけて、アマダが板金加工機の単体販売から、加工ソフトと周辺装置を統合したシステム販売へ商品の単位を組み替えた経営判断。天田満明社長が1990年に『ここで我々は加工ソフトを製造している』と語り、路線を対外的に言い切った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 上田信之 | 北京天田機床模具有限公司を合弁設立 | ★ | ||
| 上田信之 | アマダ(タイランド)社を設立 | ★ | ||
| 上田信之 | アマダメトレックスを吸収合併 | ★ | ||
| 岡本満夫 | 岡本満夫が代表取締役社長に就任(第4代) | ★ | ||
| 岡本満夫 | アマダマシニックスを吸収合併 | ★ | ||
| 岡本満夫 | 富士宮事業所に開発センター・レーザ専用工場を竣工 | ★ | ||
| 2009〜2026年リーマン・ショックの赤字からミヤチテクノス買収、持株会社化と過去最高業績 | 岡本満夫 | FY08、リーマン・ショックで売上約21%減 | ★ | |
| 岡本満夫 | FY09、売上1,360億円・営業損失96億円 | ★★ | ||
| 岡本満夫 | ミヤチテクノス(アマダウエルドテック)を株式公開買付けで子会社化 | ★★ | ||
| 磯部任 | 持株会社体制へ移行、アマダHDに商号変更 | ★★ | ||
| 磯部任 | 磯部任が代表取締役社長に就任(第5代) | ★ | ||
| 磯部任 | Marvel Manufacturing Companyを買収 | ★ | ||
| 磯部任 | 子会社アマダを吸収合併しアマダに商号変更 | ★★ | ||
| 山梨貴昭 | 山梨貴昭が代表取締役社長に就任(第6代) | ★ | ||
| 山梨貴昭 | FY23、過去最高の売上4,035億円・営業利益565億円 | ★ | ||
| 山梨貴昭 | 自前開発ではなく687億円の買収による超大型プレスと基板の微細穴明の獲得 2025年、アマダがカナデビアからプレス機械のエイチアンドエフを177億円で、アドバンテッジパートナーズが提供するファンド等から半導体パッケージ基板向けドリル穴明機のビアメカニクスを510億円で、相次いで100%取得した経営判断。決議はそれぞれ2025年1月24日と4月17日の取締役会で、企業結合日は5月1日と7月1日。いずれも現金を対価とする株式取得で、取得対価の合計は687億円にのぼる。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(アマダ)