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  "title": "直近の動向と展望",
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      "title": "なぜアマダは空白市場発想を80年繰り返せたのか（筆者所感）",
      "text": "アマダの出発点は、大手が市場規模の小ささで見送ったハンドソーである。1946年9月、天田勇が東京都豊島区で天田製作所を創業した。修理業の町工場が、知人経由でGHQの使う金属切断ハンドソーを知り、月刊誌『アメリカン・マシナリ』を頼りに1954年頃に参入を決めた。通産省が大阪製作所に100万円の補助金を出して国産化を促していた領域で、自己資金約2,000万円と海外特許資料だけで独自設計を進め、1955年に国産1号機を完成させた。輸入機を買えない制約のなかで既存技術を解釈し直す癖が、組織に残った。\n\nこの空白市場発想は、1965年の直販切り替えと組み合わさって増幅した。天田勇は「メーカーが販売を代理店に委ねると、とにかく伸び悩むものです」(あすを創る人 1963)と語り、安宅産業ら商社経由の販売を1960年に分社し、1965年から自社直販網へ切り替えた。資金力の乏しい中小板金業者を分割払いで開拓する手法は、商社が握れない顧客層に直接届く回路を作り、1961年東証2部、1969年東証1部上場へ繋がった。1971年のシアトル進出以降は同じ直販を欧米・アジアへ輸出し、1973年の園池製作所、1978年のワシノ機械、1986年の仏プロメカムと、業界内で取り残された不振メーカーを取り込んでいった。\n\nしかしリーマン・ショックで、空白市場と直販を重ねる拡張は止まった。FY07の売上2,842億円・営業利益449億円からFY09は売上1,360億円・営業損失96億円へ転落し、創業以来初の営業赤字を計上した。1年で売上はピークの約48%まで落ちた計算である。2003年に第4代社長へ就いた岡本満夫氏が掲げた「エンジニアリングのアマダ」路線は、加工機単体の販売から顧客工場全体を提案する営業への切り替えで、2007年の富士宮レーザー専用工場が次の主軸を据えた。2013年のミヤチテクノス、2018年のMarvelとオリイメックの二重買収は、不振企業の救済ではなく工程領域を組み替える戦略的買収であった。\n\n2025年5月のエイチアンドエフ買収について、山梨貴昭社長は「レーザーを主軸に新素材に対する加工技術を確立し、新たなビジネスチャンスをつかみたい」(カナロコ 2025/3/30)と語っている。ただし買収対象の規模と顧客層は、1973年の淀川プレスや1986年の仏プロメカムが抱えていた中小町工場の風景とは違う。半導体製造装置メーカーは数が限られ、顧客の購買サイクルは設備投資の波に左右される。1955年の国産1号機が依拠した「分割払いで開拓できる無数の中小顧客」という前提は、新素材領域には無い。",
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