創業1956年、富士通常務の尾見半左右氏が掲げた「3C構想」の制御担当に、若手研究者の稲葉清右衛門氏が指名された。工作機械の動きをコンピュータで数値制御するNC装置の研究で、稲葉氏は1959年に電気圧パルスモーターを発明し特許を取得した。機械本体ではなく、その動きを操る頭脳をつくる位置から、ファナックは出発している。商品化までは十年の赤字が続き、社内で「神代の時代」と呼ばれたこの期間を、母体である富士通の体力が吸収した。
決断1972年、ファナックは富士通から分離して独立した。ここでの選択が事業構造を決めた。一つは工作機械そのものには参入せず、顧客となる工作機械メーカと競合しない部品供給者の位置に徹したこと。もう一つは個別仕様の特注品ではなく汎用NC装置へ経営資源を一点集中させ、量産効果による原価低減と開発費の抑制を同時に取りにいったことである。1980年には本社・工場を山梨県忍野村へ全面移転し、土地コストと技術者の定着を両立させた。1985年、国内シェア七割、売上高経常利益率36.6%で上場企業の収益力日本一に達した。
- 創業経緯
創業時の課題と初期の判断
- 歴史詳細 3章・3,879字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 80件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 経営の転換点 3件
重要な経営判断と経営統合を時系列で整理
- 長期業績 1976〜2026年(51カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- 歴代社長 2名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1975〜2024年(50カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜファナックは十年の赤字に耐えてNC開発を続けられたのか
- A 数値制御(NC)装置は参入から約十年間赤字が続き、富士通社内で「神代の時代」と呼ばれた。それでも開発を貫けたのは、母体である富士通の体力がその赤字を吸収できたからである。1956年、富士通常務の尾見半左右氏が掲げた「3C構想」の制御担当として、稲葉清右衛門氏がNC研究に着手した。事業は1965年にようやく初の黒字へ転換し、競合が耐えられない長期投資を大企業の懐が支えた構図が、1972年の独立後にファナックが保った優位の源泉となった。
- Q なぜオイルショックで自社発明の電気・油圧パルスモータを捨ててDCサーボへ全面転換したのか
- A 1973年秋の第一次オイルショックを境に、自社が発明した電気・油圧パルスモータが大型の油圧源を要する点を顧客に嫌気され、評価が一変したためである。稲葉清右衛門氏は油を使わない電気パルスモータの自社開発に賭けたが騒音で実用に届かず、1974年6月に米ゲティス社とDCサーボモータの製造販売権取得契約を結んで主力モータを入れ替えた。この転換がなければ国内シェアは競合と逆転していたと稲葉氏自身が述懐しており、存亡を賭けた決断が後の寡占を守った。
- Q なぜ2019年に独立以来初の非創業家トップへ移行したのか
- A 創業家による技術と経営の一体支配が、創業者の高齢と退場で続けられなくなったためである。稲葉清右衛門氏は1995年に会長へ退き、2003年に子息の稲葉善治氏が社長を継いだが、2013年のロボドリル失速を機に稲葉清右衛門氏が取締役を退任した。2019年には生え抜きの山口賢治氏が社長に就き、1972年の独立以来初めて非創業家の経営体制が始動した。翌2020年に稲葉清右衛門氏が95歳で逝去し、創業者がNCの基礎研究から牽引した時代が幕を閉じた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1956年〜1985年 富士通社内事業から忍野立地の寡占企業への飛躍
十年の赤字を甘受した辛抱が生む優位の逆説
1956年、富士通の技術担当常務であった尾見半左右氏は通信機・コンピュータ・制御の三本を事業の柱とする構想、いわゆる「3C構想」を掲げており、その制御分野の技術開発責任者として当時まだ若手研究者であった稲葉清右衛門氏を指名した[1][2]。稲葉氏は工作機械の動きをコンピュータによって数値制御するNC装置の基礎的な研究開発に着手し、1959年には独自の発明である「電気圧パルスモーター」を世に送り出して即座に特許を取得した。この独自の技術の発明こそがNC装置における精密な位置制御を初めて可能とする決定的な技術基盤となり、後のファナックが国内外の工作機械市場で寡占地位を築き上げていく長い旅の出発点としての技術的な足場を同社に与えることとなった。
しかし事業としてのNCは参入から約十年にわたって恒常的な赤字が続き、コンピュータ本体が1台数百万〜数千万円という単価で市場自体が未成熟であった当時の環境のもとで、富士通社内においてこの期間は半ば比喩的に「神代の時代」と呼ばれた。1965年にようやく初めての黒字転換を果たし、1972年に富士通本体からNC事業を分離する形で「富士通ファナック株式会社」が設立されて正式な独立企業としての第一歩を刻むこととなった[3][4]。富士通という大企業の懐の深さがあったからこそ十年の赤字を甘受して技術開発に没頭できたという逆説的な構造こそが、独立後のファナックが競合他社に対して維持し続けた競争優位の原点として働いた。
「稲葉君、これからは"3C"の時代が必ず来る。君にはコントロールの開発をやってもらうよ」 根が機械屋である私は、MITレポートの報告を聞いた瞬間から、そのサーボ機構に強い興味を覚え、早速、尾見常務の承諾を得て、コントロールチームの研究開発テーマをNC(Numerical Control)に絞ることを決めた。
汎用品集中と忍野立地が生んだ日本一の収益力
1972年の独立後、ファナックはNC装置・サーボモータ・ロボットを軸に事業構造を固め、1974年には自社開発の産業用ロボットを市場へ投入した[5]。独立直後の同社を揺さぶったのが1973年秋の第一次オイルショックで、自社が発明した「電気・油圧パルスモータ」が大出力に大型の油圧源を要する点を嫌気され、ユーザーの評価が一変した[6]。稲葉清右衛門氏は油を使わない電気パルスモータの自社開発に賭けたが騒音で実用に届かず、1974年6月に米ゲティス社とDCサーボモータの製造販売権取得契約を結び、主力モータを全面転換する決断を下した[7]。戦略の核は工作機械には参入せず、工作機械メーカを顧客とする部品供給者に徹した点にあり、競合回避が顧客の信頼に直結した。欧州展開の基盤となったシーメンスとの関係は、1965年に富士通がパルスモータの製造権と欧州販売権を供与する形で始まり、1975年に対等の相互援助契約へ改められた[8][9]。
ファナックの突出した高収益を支えた最大の経営判断は、個別顧客の仕様に合わせた特注品ではなく汎用NC装置へと経営資源を一点集中させるという選択であり、この戦略によって量産効果による徹底した原価低減と開発費の分散抑制を同時に実現する独特の事業構造が築かれた。1985年にはNC装置の国内市場における自社シェアが七割という寡占水準に到達し、売上高経常利益率36.6%という数値によって全上場企業の中で日本一の収益力を誇る異例の企業として名指しされるに至った[10][11]。1980年の本社と工場の山梨県忍野村への全面移転という常識外の立地戦略は、土地取得コストの圧縮と技術者の定着を同時に実現する独自の経営モデルとして働くこととなった[12]。
その一瞬、私は、自ら手がけた「電気・油圧パルスモータ」を「DCサーボモータ」に転換する決断をした。すでに提携先としてひそかに考えていた米国ゲティス社(ウィスコンシン州)のロジャー・ヒル社長にテレックスを入れ、三日後の六月三日にアポイントを取りつけた。六月一日にはアメリカへ飛び、六月三日、契約の調印を終えた。 これがなかったならば、ファナックの現在のシェア(七五%)は、おそらく競合メーカーのそれと逆転していたのではなかろうか。その意味で、オイルショックはファナックに対して本当によいチャンスを与えてくれたと思う。
ファナックは、基本的に技術で勝負する企業である。だから常に新しい技術を創造し、他社に先行していかなければならない。そのためには優秀な技術者を養成し、時間と資金をかけて狭い路を真っ直ぐに歩んでいくことが必要である。私は借金が大嫌いだから、必要とする資金は、それを自己資金でまかなえるだけの企業体質をまず確立しなければいけない。 今でも、私はPay Line Ratioを三〇%以下に押えるように厳しく指示している。
1986年〜2010年 グローバル拠点拡充と親会社富士通からの完全独立
富士通の持株段階売却が示した自立の完成
1982年に商号を正式に「ファナック株式会社」へと変更し、翌1983年には東京証券取引所第一部への上場を果たして富士通グループ内の子会社から公開独立企業へと脱皮する制度整備をひとまず完了させた[13][14]。親会社であった富士通は2000年の時点でもなおファナック株式の約四割を保有する筆頭株主であり続けていたが、同年からは段階的な売却プログラムを開始して保有比率を一割前後の水準にまで引き下げていくことを数年かけて実行した[15][16]。この一連の持株戻しによって、ファナックは名実ともに富士通グループの子会社としての性格を脱して独立した経営体制への歴史的な移行を自らの手で完成させるに至り、以後は独立企業として国内外の機関投資家と向き合う段階へと移行していくこととなった。
創業者の稲葉清右衛門氏は1995年に代表取締役会長へと退き、2003年には子息の稲葉善治氏が代表取締役社長に就任したことによって親子二代にわたる創業家経営の継承が制度としても実質としても確立された[17][18]。2006年には名誉会長も加わる形での「経営会議」という新たな枠組みを発足させて稲葉家による経営判断の一元的な仕組みを制度化し、同族経営の機動力という強みと、上場企業として整備されたガバナンスの要請を高い次元で併せ持つ独自の統治構造が形作られていった。2009年のリーマンショックでは世界的な需要蒸発によって減益となったが、汎用NC装置の寡占的な市場地位そのものは国内外を問わず揺らぐことなく維持され、高収益体質は一過性の景気変動を超えて強靱な姿のまま温存されていくこととなった。
自動化工場が支えた三拠点集中生産の独自構造
ファナックは山梨県忍野村の本社工場を中核とする一極集中型の生産体制を骨格として維持しつつも、1989年に茨城県に筑波工場を、1991年に鹿児島県に隼人工場をそれぞれ新設することによって国内における生産能力を拡大させていった[19][20]。1994年には中国に北京ファナック有限公司を設立して中国製造業向けNC装置の供給体制を競合他社に先駆けて早期に構築しており、グローバルな需要の広がりに対して現地生産と現地サービス拠点を一体で立ち上げた[21]。拠点の計画的な拡大においても忍野村を中心とする集約型の設計思想は一貫して堅持されており、地理的な分散と運営の集中を巧みに併せ持つ独自の生産哲学が、同社の長期にわたる高い利益率の基盤として働くこととなった。
国内の生産拠点は忍野・筑波・隼人の三拠点を基本的な構成としており、いずれも都市部から意図的に距離を置いた立地を選択している点が他の電機大手の拠点戦略と決定的に異なる独自の特徴として際立つものとなっていった[22]。この独自の立地戦略は広大な土地取得コストの低減に加えて、長期にわたって定着する技術者の確保と独自技術の秘密保持の両面からも経営上の合理性を強く持つものとして社内外で繰り返し説明されている。ファナックの工場はロボット自身が新たなロボットを製造する「自動化工場」として世界的に広く知られ、製造工程におけるロボット活用の徹底が同社の高い労働生産性とコスト競争力の重要な源泉となった。
2011年〜2023年 iPhoneロボドリル特需と創業者退場後の揺らぎ
汎用NC寡占の上に立つ特注連動型の二面構造
2010年頃、米アップルのiPhoneのアルミニウム筐体を高精度で切削加工するための小型の工作機械として、ファナック製の「ロボドリル」に対する需要が世界的な規模で爆発的に急増するという新たな現象が始まった[23]。ファナックは2011年頃にロボドリルの量産投資を経営会議で決定し、年間で457億円という当時としては異例の水準の設備投資を集中的に投じて茨城県の筑波工場の生産ラインを増強した。韓国サムスン電子のスマートフォン生産向けにも同様のロボドリル需要が並行して急激に発生しており、2014年度にはサムスン向けの販売高だけで単独で939億円という水準にまで達する異例の商況を経験した。この特需は本業の寡占的な収益構造を一段と押し上げる効果を発揮した。
しかし新興商材のロボドリルは特定顧客の特定製品に需要が極端に集中する性格を強く持っており、アップルやサムスンのスマートフォンの製品サイクルに同社の業績全体が左右されるという新たな構造上の脆弱性が次第に形成されていくこととなった。2013年にはロボドリルの需要が突然失速して創業者の稲葉清右衛門氏が取締役を退任し、同時に取締役十二名が一斉に降格するという当時としては異例の経営的な動揺が発生した[24]。2015年には再び好調によって増収を記録したが、FY19(2020年3月期)にはiPhone向け需要の減退によって当期純利益が前年の1,542億円から734億円へと半減する厳しい結果を記録するに至り、汎用NCの安定収益と特定製品連動型の変動収益という二面構造が対外的にも決算上にも表面化となった。
- FY2014にアジア3,915億円とサムスン特需で地域売上が跳ね上がり、FY2019にはアジア(中国)885億円まで落ち込んでiPhone向け需要減退が鮮明となった。
- 汎用NCの寡占収益と特定製品連動型の振幅が地域別売上に同時に表れる二面構造を数字の形で裏づけている。
創業者稲葉清右衛門の退場と新体制への静かな移行
2019年には稲葉家以外の経営者としてファナック生え抜きの山口賢治氏が代表取締役社長に新たに就任し、1972年の独立以来初めての非創業家経営者による経営体制が正式に始動した[25]。翌2020年には創業者の稲葉清右衛門氏が95歳という高齢で逝去し、1956年のNCの基礎研究開発開始から数えて六十四年の歳月にわたってファナックの技術開発と経営判断の両面を事実上牽引し続けた創業者の時代がここに幕を閉じることとなった[26]。創業家主導の経営の時代から普通の上場企業としての普通の経営陣主導の体制への移行は、ガバナンス上の透明性と取締役会の機能を同時に一段引き上げる契機として、内外の機関投資家を含む市場から一定の評価を受けている。
2016年には栃木県に新たに壬生工場を、2018年には筑波地区にロボット専用工場をそれぞれ新設するなど、生産能力の計画的で着実な拡充は山口体制のもとでも従来の路線として一貫して継続されていった[27][28]。ファナックの事業構造は汎用NC装置の寡占による安定収益と、ロボドリルおよび産業用ロボットの需要変動による業績のボラティリティという二面性を依然として抱え続けており、工作機械の頭脳として世界市場における地位それ自体は微動だにしないが、スマートフォン市場の成熟化と共に次なる成長のドライバーとなる新たな需要源をどこに求めるかが、2020年代前半を通じて経営陣に対して繰り返し突きつけられていく最大の中長期的な戦略課題として浮かび上がってきた。