量産方式の限界と「工作機械の宮大工に戻る」転換

量産で業界首位に立った森精機は、なぜ絶頂期に自らの強みを問い直したか

更新:

時期 1990年7月
意思決定者 森幸男 社長
論点 量産から質への転換
概要
標準化したNC工作機械の量産で業界首位の高収益を築いた森精機製作所が、1990年前後に、量産で成功した自社を「宮大工の仕事をプレハブ工法でやった」と評し、機械の基本性能を磨く質への転換を宣言した経営判断。
背景
8種の基本ユニットから252種のCNC旋盤を作り分けるブロックビルド方式を1987年までに整え、内製化率ほぼ100%の垂直統合で1989年3月期は営業利益率24.1%と業界首位に立った。量産方式は極致に達していた。
内容
森幸男社長は「いいものを安く作る時代は終わった」として、量から質への転進を掲げた。ユーザーの要求がFMSやCIMへ移るなか、基本性能を磨く原点回帰が要るとみて、伊賀に総工費250億円の世界最大・最新鋭工場を建設した。
含意
絶頂期に自らの成功体験を問い直した先見は、バブル崩壊後の需要急減と新工場の設備ミスマッチという代償を伴った。質への転換は、皮肉にも国内でなく欧米の大手向け特注機として実を結んでいった。
筆者の見解

強みを否定する転換の重さ

この経営判断の核心は、業界首位の高収益をあげていた絶頂期に、その収益を生んだ量産方式そのものを自ら問い直した点にある。標準品の量産で御三家に上りつめた森精機が、需要がシステム化へ向かう先を読み、財務にゆとりのあるうちに質への転換へ動いたのは、成功体験に安住しない先見だったとみることができる。強みを否定する転換に、好調のうちに手を入れた点で、危機に追われて動く再建とは性格が異なっていた。

もっとも、強みを手放す転換は重い代償を伴った。量産向けに造った新工場が特注生産に合わず、設備の入れ替えと赤字を招いた。国内では量産メーカーのイメージが根強く、質への転換は皮肉にも国内でなく欧米の大手向け特注機として実を結んでいった。宮大工に戻るという理想と、量産で築いた現実の生産体制との間には、埋めるのに数年を要する落差があった。強みを次の強みへどう組み替えるか——森精機の1990年前後の選択は、成功した企業ほど転換の設計に時間と痛みがかかることを示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

量産で御三家に上りつめた逆張りの成功

森精機製作所は、工作機械では後発だった。受注を受けてから熟練工が1台ずつ仕上げ、不況に備えて設備を控えめに保つのが当時の工作機械メーカーの通例であったが、森精機製作所は中型汎用旋盤SL-3を月産200台規模で見込み生産する逆の道を選んだ。景気が落ち込むたびにあえて設備投資して標準品の量産体制を整え、回復期には生産を急ぐ中小企業へ納期と価格を武器に売りまくる。この逆張りで先行各社を追い抜き、1980年代にはNC化の波に乗って大隈鉄工所・ヤマザキマザックと並ぶ業界御三家の一角に数えられた[1]

量産方式は、1980年代の末に極致へ達した。強みは工作機械の内製化率がほぼ100%に達する垂直統合にあり、同業他社が購入するボールねじやカービックカップリングといった心臓部品まで自前で作った。製品面では、ベッドや主軸・刃物台などをユニット化し、8種の基本ユニットから252種のCNC旋盤を作り分けるブロックビルド方式を1987年までに整えた。この量産と内製化に支えられ、1989年3月期の単体決算は売上高経常利益率25.9%・営業利益率24.1%で業界首位に立ち、営業利益率では2位のアマダを10ポイント以上引き離した。自己資本539億円・無借金の財務であった[2]

決断

「宮大工に戻る」という自己否定

その絶頂期に、森幸男社長は自社の強みの否定にもつながりかねない転進を声高に宣言した。「いいものを安く作る時代はもう終わったと思いますね。これからはいいものを高く作らせてもらう時代です」。規格化・標準化した製品を量産する会社という従来のイメージから、質のメーカーへ転換するという方針であった。森社長はこれを工作機械の系譜になぞらえた。かつて宮大工の仕事だった工作機械を、森精機やヤマザキマザックがプレハブ工法で量産して成功し、名門メーカーもみなプレハブ屋になったという。そのうえで森社長は語る。「もう一度宮大工に戻って、工作機械の原点を追求することが重要。そうしないと本当にいいものはできないし、生き残っていけない」[3]

転換の背景には、需要の質的な変化があった。ユーザーの要求は工作機械単体から、FMS(フレキシブル生産システム)やCIM(コンピューターによる統合生産)へと移りつつあった。機能を絞り込んだ製品を量産するだけでは、ニーズに対応できなくなる恐れがあった。森社長は「装置がシステム化に向かえば向かうほど、ベースとなる機械の基本性能が重要になってくる。これをおろそかにすると、雑なシステムはできても本当に人間を省くシステムはできません」と述べた。財務的にゆとりがある今のうちに先を走る、というのが森精機の1990年代を見据えた考えであった[4]

伊賀新工場と国内集約

質への転換を担う拠点として、森精機は三重県伊賀町に新工場を建設した。1990年1月に着工した新工場は組み立て専門工場で、1992年秋の完成時には現伊賀工場を機械加工専門工場とし、新工場と合わせて伊賀を月産800台(当時は奈良と合わせ550台)の生産能力を持つ世界最大・最新鋭の生産拠点にする計画であった。総工費は250億円に上った。米国のVRA(対米輸出規制)の枠が縮小し、同業他社が現地生産を加速させるなかでも、森精機は「海外生産では品質が保証できない」として、国内に生産能力を集約しつつ量から質へ転じる道を選んだ[5]

投資の時期について、森社長は自ら選んだ道だと強調した。「あくまでも自らの必要に応じてやってきただけ。たまたま投資時期が不況と重なったに過ぎない」。需要の後退期に積極投資し、その後の需要拡大とともに回収期を迎えるというパターンを、森精機は繰り返してきた。奈良工場の機械加工部門を伊賀新工場へ移し、空いたスペースを新しい用途へ振り向ける構想もあった。当時売上の15%程度を占めていたシステム化製品を、奈良でユーザーと共同開発できる体制を作りたいというのが森社長の青写真であり、売上高1000億円の達成を目前にした次の一手であった[6]

結果

転換の苦闘と設備のミスマッチ

質への転換は、ただちに順風とはならなかった。バブル崩壊後の景気後退で、1990年に1兆4000億円に達した日本の工作機械メーカーの総受注額は、わずか3年後の1993年には5300億円へ激減した。森精機は1993年3月期に上場来初の赤字に転落した。標準品の量産で景気の波に乗る成長戦略が限界に達するなか、同社は大手メーカーが工場ラインに組み込む横型マシニングセンターなどの特注品へ軸を移そうとしたが、国内では「標準品の量産メーカー」というイメージが商談の妨げになった。仕様変更のノウハウが蓄積されておらず、大手に売り込んでも相手にされなかった[7]

皮肉なことに、痛手となったのは転換の象徴だった新工場そのものであった。従来の勝ちパターンを踏襲して需要低迷期の1992年に総額250億円を投じて完成させた新工場の設備は、NC旋盤などの量産を意図したもので、特注品の生産には合わなかった。生産設備を入れ替える必要が生じ、1994年3月期・1995年3月期と赤字が続いた。もっとも、その大半は株式評価損と新工場の減価償却によるものであった。設備の整備が追いつくのに1997年ごろまでかかったが、部品点数を従来機の約5000点から3000点以下に減らした横型マシニングセンターを1994年春に半値で発売すると、欧米での受注が徐々に伸び始めた。1998年9月中間期には単体で12.9%、連結で19.2%の営業利益率まで回復した[8]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号「[森精機製作所]『工作機械の宮大工になる』伊賀に世界最大・最新鋭の工場」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号「森精機製作所 日本がダメなら海外に売る」(日経BP社)
  • 日経ビジネス(1987年11月23日号)