DMG森精機 の歴史

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創業 1948年
創業者 森林平
創業地 奈良県大和郡山市
創業
1948年10月、森林平氏が奈良県大和郡山市で株式会社森精機製作所を設立し、繊維機械の製造販売を始めた。戦後復興期の日本では繊維工業が外貨獲得の基幹産業に位置づけられ、繊維機械の国内需要が急回復する時期にあたる。ただし合成繊維への移行と生産の海外移転で需要は1950年代後半に細り、創業から10年目の1958年5月、森精機製作所は繊維機械の製造を中止して高速精密旋盤へ移った。1962年1月に本店と本社工場を大和郡山市北郡山町へ移し、1968年4月にNC旋盤の製造販売を、1970年12月に三重県伊賀町の伊賀工場の操業を始めている。1979年11月に大阪証券取引所市場第二部、1981年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、2013年10月に商号をDMG森精機へ改めた。
決断
同じ機械を数多く作る会社から、機械の種類を数多く持つ会社へ変わった。1958年に繊維機械をやめて高速精密旋盤へ移ると、受注生産が通例だった業界で中型汎用機を月産200台規模の見込み生産に切り替え、1989年3月期には単体の営業利益率24.1%と工作機械業界の首位に立った。その絶頂で森幸男社長は量産方式そのものを問い直し、量から質への転換を宣言した。1999年6月には社長交代を3年前倒しし、海外開拓を担った森雅彦氏が37歳で登板した。2009年3月に独GILDEMEISTER AGと業務・資本提携で合意し、2015年4月に議決権89.6%で連結化する。2024年1月には横中ぐり盤の倉敷機械、2025年2月に研削盤の太陽工機、同年3月に工作機械商社の宮脇機械プラントの全株式を相次いで取得した。量産で得た資金力が、後年に機種と販路を会社ごと取得する原資を作った。
現況
売上の半分以上を欧州が占め、日本は15%にとどまる。2025年12月期の売上収益5,150億円は、その他欧州1,659億円、ドイツ1,214億円、米州1,032億円、日本783億円、中国・アジア462億円である。営業利益は190億円と前期の437億円から減少したが、基幹システムの入れ替え、過剰部品在庫の処分、ロシア工場の接収による一時の費用が重なったもので、中期経営計画2025は2030年に売上8,000億円・営業利益率15%を置く目標へ改めた。製品別ではマシンツールが3,433億円、インダストリアル・サービスが1,717億円で、後者の構成比は2018年12月期の26%から33%へ上がった。機械を売り切る収益から、据えた機械を保守し部品を供給する収益へ、比重が移っている。
競合
総合化の進め方が、自前の開発と他社の取得とで分かれた。1980年代の森精機製作所は大隈鉄工所・ヤマザキマザックと並ぶ業界御三家の一角で、ボールねじやカービックカップリングまで伊賀工場で作る内製化率ほぼ100%の垂直統合を差別化要因とした。大隈鉄工所は1963年に自社製NC装置OSPを開発し、機械と制御を一体で設計する体制を築いた。森精機製作所は逆に、2002年9月に経営破綻した日立精機から営業の一部を譲り受け、2006年12月にスイスDIXI MACHINESの製造事業、2015年3月にアマダマシンツールの旋盤事業を取得している。2024年以降の国内3社の取得も、横中ぐり盤・研削盤・販売網という手薄な品目を会社ごと埋める同じ手にあたる。部品は内で作り、機種は外から取得するという組み合わせが、1社で扱える加工の幅を同業のどこよりも広げた。
DMG森精機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年12月期

創業ストーリー 繊維機械から工作機械への業態転換と伊賀工場体制の確立 (1948年〜)

森林平氏の創業──大和郡山発・繊維機械メーカー設立と戦後復興期の事業基盤

1948年10月、奈良県大和郡山市で森林平氏が『株式会社森精機製作所』を設立[1][2]、繊維機械の製造販売を開始した[3]。戦後復興期の日本では繊維工業が外貨獲得の基幹産業として位置付けられ、繊維機械への国内需要が急回復する時期に当たる。森林平氏は紡績関連の繊維機械メーカーとして発足、奈良県大和郡山市という地方都市を本拠地に置く戦後の地場産業型の中小機械メーカーとして起ち上がった。創業から10年は繊維機械専業で歩み、戦後復興期から高度経済成長期前半までの繊維工業需要を取り込む形で事業基盤を作った。

  • 経済展望 1981年4月号
    • [1]創業者は森林平
  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [2]創業地は奈良県大和郡山市
    • [3]1948年10月 奈良県大和郡山市で株式会社森精機製作所を設立し繊維機械の製造販売を開始

1962年1月、本店および本社工場を大和郡山市北郡山町106番地に移転[4]、創業地・大和郡山市内での生産機能の整備を完了した。当時の繊維機械メーカーとしては中堅規模の体裁を整え、地方の機械メーカーとして地域内での雇用と取引網を作り上げた段階である。日本の繊維工業は1950年代後半から構造変化期に入り、合成繊維への移行と海外への生産シフトで国内需要は1960年代に減退へ向かい、繊維機械メーカー各社は業態転換を迫られた。森精機製作所は1958年5月の段階で繊維機械の製造中止という業態転換[5]を断行した。

  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1962年1月 本店および本社工場を大和郡山市北郡山町106番地に移転
    • [5]1958年5月 繊維機械の製造を中止(工作機械への業態転換)
  • 経済展望 1981年4月号
    • [1]創業者は森林平
  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [2]創業地は奈良県大和郡山市
    • [3]1948年10月 奈良県大和郡山市で株式会社森精機製作所を設立し繊維機械の製造販売を開始
    • [4]1962年1月 本店および本社工場を大和郡山市北郡山町106番地に移転
    • [5]1958年5月 繊維機械の製造を中止(工作機械への業態転換)

工作機械への業態完全転換と、伊賀工場の建設・NC化対応

1958年5月、繊維機械の製造を中止し工作機械(高速精密旋盤)の製造販売を開始[6]、業態の完全転換を実行した。戦後復興期の繊維機械需要のピークアウトを見越し、産業機械の中で最も需要が広がる工作機械──特に高速精密旋盤──への参入を決めた決断である。創業からわずか10年での主力事業転換は、後の同社の事業判断パターン(先見的な業態転換と集中投資)の原型となる経営判断であった。1958年以降、同社は工作機械専業として歩み、繊維機械への回帰は行わず、後の60年超の事業の骨組みを完成させた。

  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1958年5月 繊維機械の製造を中止し工作機械(高速精密旋盤)の製造販売を開始

1968年4月、数値制御装置付旋盤(NC旋盤)の製造販売を開始[7]、NC化への対応を始めた。1960年代後半から1970年代にかけて日本工作機械業界はNC化の波に直面し、NC旋盤・NCマシニングセンタへの移行が業界の生死を分ける時期であった。森精機製作所はNC化の早い段階で参入、後のCNC精密旋盤へつながる事業基盤を整えた。1970年12月、三重県伊賀町に伊賀工場を建設・操業開始[8]、後の中核工場となる伊賀事業所の最初の拠点を設けた。大和郡山市の本社工場に次ぐ第2の生産拠点として伊賀工場を整え、関西圏の工作機械生産能力を拡張する構造である。創業時の繊維機械メーカーから20年で、NC旋盤の専業生産能力を持つ工作機械メーカーへ転身を完了した。

  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1968年4月 数値制御装置付旋盤(NC旋盤)の製造販売を開始
    • [8]1970年12月 三重県伊賀町に伊賀工場を建設・操業開始
  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1958年5月 繊維機械の製造を中止し工作機械(高速精密旋盤)の製造販売を開始
    • [7]1968年4月 数値制御装置付旋盤(NC旋盤)の製造販売を開始
    • [8]1970年12月 三重県伊賀町に伊賀工場を建設・操業開始

中型旋盤の量産化による躍進と東京・大阪両証取への上場

工作機械への参入は業界では後発だったが、森精機製作所は中型汎用旋盤に機種を絞った量産で先行各社を追い抜いた。受注を受けてから熟練工が1台ずつ仕上げ、不況に備えて設備を控えめに保つのが当時の工作機械メーカーの通例であり、森精機製作所は中型汎用機SL-3を月産200台規模で見込み生産する逆の道を選んだ。[9]低コストと輸出競争力を背景に、単体売上高は1972年1月期の18億円から1979年3月期の185億円へ伸び[10]、無借金経営のまま一株あたり年15円の高率配当を続けた。[11]経営は創業者の森林平社長を中心に、弟の森茂副社長や森幸男専務ら創業家[12]で固めた。森林平社長は、NC工作機械の需要拡大を見越し、同業他社が縮小・撤退・減量に向かう時期に量産合理化設備と人材を逆に増やしたと、後発からの逆転の背景を説明している。

  • 経済展望(53巻7号・1981年4月)
    • [9]中型汎用旋盤SL-3を月産200台規模で見込み生産する量産戦略を採った
    • [11]無借金経営で一株あたり年15円の高率配当を実施
    • [12]経営陣は森林平社長・弟の森茂副社長・森幸男専務ら創業家で構成
  • 証券投資(309)
    • [10]単体売上高は1972年1月期18億円から1979年3月期185億円へ拡大

1979年11月、大阪証券取引所市場第二部に上場[13]、創業から31年で資本市場へのデビューを果たした。1981年5月、立形マシニングセンタの製造販売を開始[14]、CNC旋盤に続くMC事業への参入で製品ラインを拡張した。同年11月、東京証券取引所市場第二部に上場[15]、東京市場への進出も果たした。創業から33年で東京・大阪両証取への上場を完了し、奈良県大和郡山市発の地場機械メーカーから上場工作機械メーカーへ事業基盤を引き上げる転換を遂げ、後に独DMGとの段階統合に至る資本市場での地位を確立した時期にあたる。

  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1979年11月 大阪証券取引所市場第二部に上場
    • [14]1981年5月 立形マシニングセンタの製造販売を開始
    • [15]1981年11月 東京証券取引所市場第二部に上場
  • 経済展望(53巻7号・1981年4月)
    • [9]中型汎用旋盤SL-3を月産200台規模で見込み生産する量産戦略を採った
    • [11]無借金経営で一株あたり年15円の高率配当を実施
    • [12]経営陣は森林平社長・弟の森茂副社長・森幸男専務ら創業家で構成
  • 証券投資(309)
    • [10]単体売上高は1972年1月期18億円から1979年3月期185億円へ拡大
  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1979年11月 大阪証券取引所市場第二部に上場
    • [14]1981年5月 立形マシニングセンタの製造販売を開始
    • [15]1981年11月 東京証券取引所市場第二部に上場

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DMG森精機の沿革1948〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1981年繊維機械から工作機械への業態転換と伊賀工場体制の確立森精機製作所を設立し繊維機械の製造販売を開始
繊維機械の製造を中止し工作機械(高速精密旋盤)の製造販売を開始★★
本店・本社工場を移転
数値制御装置付旋盤の製造販売を開始★★
伊賀工場を新設・操業開始
大阪証券取引所市場第二部に上場
立形マシニングセンタの製造販売を開始
東京証券取引所市場第二部に上場
1982〜2014年海外3極販売網の整備とDMGとの段階統合MORI SEIKI G.M.B.H.を設立
MORI SEIKI U.S.A., Inc.を設立
奈良工場を新設・操業開始
量産方式の限界と「工作機械の宮大工に戻る」転換

量産で業界首位の高収益を得た森精機が、需要のシステム化を見据えて量から質への転換を宣言し、伊賀新工場で機械の基本性能を磨く原点回帰へ方針を変えた経営判断

詳細を読む
★★★
伊賀第2工場を新設・操業開始
森雅彦氏の3年前倒しでの社長登板

1999年6月、森精機製作所の創業家第3代・森幸男社長が、当初2002年に予定していた長男・森雅彦氏への社長交代を3年前倒しし、37歳の雅彦氏が東証1部上場企業の社長で最年少記録に並ぶ若さで登板した経営判断。

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★★★
名古屋ビルを建設
森雅彦上海森精机机床有限公司を設立
森雅彦太陽工機の株式の40%を取得
森雅彦日立精機・日立精機サービスより営業の一部を譲受★★
森雅彦DIXI MACHINES S.A.の工作機械製造事業を譲受
森雅彦GILDEMEISTER AGとの業務・資本提携に合意★★
森雅彦マグネスケールの発行済株式を100%取得
森雅彦森精機セールスアンドサービスを設立 / DMG MORI AGの株式を20.1%まで追加取得
森雅彦商号をDMG森精機へ変更
2015〜2026年MX戦略・人材投資・2030年目標への移行森雅彦アマダマシンツールの旋盤事業譲受契約を締結
森雅彦DMG MORI AGを連結対象会社化(議決権比率現89.6%)★★
森雅彦奈良PDC・東京GHQの二本社制を導入
森雅彦倉敷機械の発行済株式を100%取得
森雅彦太陽工機の株式を100%まで追加取得
森雅彦宮脇機械プラントの発行済株式を100%取得
出典・参考
  • DMG森精機 有価証券報告書【沿革】
  • 経済展望 1981年4月号
  • 経済展望(53巻7号・1981年4月)
  • 証券投資(309)

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