牧野常造氏は1937年5月、数え年35歳のときに、東京・目黒区の現本社所在地で『牧野商店製作部』を個人創業した[1]。工作機械の専門メーカーとして発足し、最初に一番立フライス盤を選んだ[2]。フライス盤は刃物が回転して被切削物を加工する機械で、刃物を固定して被切削物のほうを回転させる旋盤とは刃物と材料の関係が逆になり、刃物の回転軸が地面に垂直なものを立、地面に平行なものを横と呼ぶ[3]。1937年ごろの日本には一番型のフライス盤を作るところがなく、必要な分はすべて輸入に頼った[4]。番手が上がるほど機械の寸法は増すが、使う側はより大きい二番型以上で代用する方法をとっていた[5]。
牧野常造氏は後年、一番立フライス盤に絞った理由を、外国人と競争せずにすむ独自の機械を作るためであり、大きな機械は金がかかるので元手のない者は小さい機械から始めるほかなかったためだと述べた[6]。フライス盤の需要は当時ずいぶん増えていたのに、これを作るメーカーは少なく、既存の機種は今でいう中型、当時としては大型に属するタイプに限られ、小型の機械には満たされない需要が残っていた[7]。牧野常造氏は、そう多くは作れないため機種を1つに絞ったと語り、みずからこの選択を先見ではなくやむを得ずのことだと説明した[8]。
創業から5年たった1942年3月、牧野商店製作部は商号を牧野竪フライス製作所と改め、同時に清水正利氏が経営に参加した[9]。竪の字は、創業時から専門にしてきた立フライス盤にちなむ[10]。戦時中、同社は軍からも技術を高く評価され、フライス盤の製作と修理にあたった[11]。工作機械メーカーにとってこの時期は軍需産業向けが需要の中心であり、新しく作った機械を納めていればそれで足りた[12]。1945年8月の終戦とともに、牧野竪フライス製作所は超高速一番立フライス盤ならびに倣いフライス盤の設計および製作に着手した[13]。
戦後、需要は新品から中古機へ移り、戦災で焼け残った工作機械や不用になった工作機械がかなりあって、その修理と復原に強い需要があったため[14]、牧野竪フライス製作所は新品もわずかに作りながら主力を古い機械の修理・復元に置き、みずからリビルト・メーカーと称した[15]。1955年ごろに入社した依田竹史氏は、修理・復元は簡単なようでなかなか難しく、同社はその精度が非常に高いことで名声を博したと述べた[16]。工作機械の修理および復原は、その後も同社が目的とする事業の第2に据えられ、1985年3月の時点でも製造販売に次ぐ位置を占めた[17]。
個人創業から14年を経た1951年5月、牧野竪フライス製作所は資本金300万円をもって株式会社組織に改組した[18]。設立の日付は1951年5月1日にあたる[19]。英文名にはMAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.を用いて1961年3月まで使い[20]、法人になっても専門とする機種は変えず、立フライス盤の一番型を長く作り続けた[21]。1953年4月には超精密万能工具研削盤を開発[22]。万能工具研削盤を手がける国内メーカーは、1985年の時点でもツガミと同社の2社にとどまった[23]。1955年12月には自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功した[24]。
1956年7月、牧野フライス製作所は精密小型万能工具研削盤の試作ならびに企業化に成功した[25]。前年12月には自動サイクル高速立フライス盤の試作を終えていた[26]。小型機に絞ったのは、元手のない会社が小さい機械から始めるほかなく、外国メーカーと競わずにすむ独自の製品を選んだためだと牧野常造社長は語った[27]。当時はフライス盤の需要が増えていたのに供給するメーカーが少なく、先行各社の製品は当時として大型に属する機種にとどまっていた[28]。小型機の需要はそこに残り、牧野フライス製作所はそう多くはつくれないため一機種に絞った[29]。
牧野常造社長は工作機械工業会の会長としてインドを訪れ、現地の役人からこうしたNC機械を自国でつくれるかと問われると[30]、2年先の大阪の国際見本市までにつくってみせる、注文がなくても自社でつくるから見にきてほしいと答えて帰国した[31]。帰国後に富士通の川崎工場を訪ねると、稲葉清右衛門氏がNCを専門に手がけていた[32]。牧野常造社長が2年先の見本市に間に合うようにやらないかと持ちかけると、稲葉清右衛門氏は引き受け、2年でやりとげた[33]。牧野フライス製作所の機械は立フライス盤で、縦フライスであるだけに難しかったと牧野常造社長は振り返る[34]。
1958年3月、牧野フライス製作所はわが国最初の磁気テープによる数値制御立フライス盤を開発した[35]。一番タレット形立フライス盤Kシリーズを開発したのも同じ月にあたる[36]。Kシリーズはその後の主要製品となり、主軸端面を図案化した意匠を創業時代から社章に用いてきた[37]。資本金は1958年6月に再評価積立金の組み入れで900万円となり、株式配当を重ねて1959年5月に1,800万円、1960年5月に3,000万円、1961年5月に5,100万円へ増えた[38]。1961年4月、商号を株式会社牧野フライス製作所に改めた[39]。
牧野常造社長は1950年代後半に米国の金型業界の伸びに着目し、日本の金型業界にも同じ伸びが期待できるとみて、中小零細企業で構成された金型業界へのアプローチを始めた[40]。金型製造業は単品受注生産で、切削加工技術を中心とする労働集約的な工程を持ち、小規模企業が数のうえで大半を占めていた[41]。金型が悪ければそこから出てくる何千、何万の部品がすべて同じように悪くなるため、たった一つ良い型があればよく、その点で金型と工作機械の性質はよく似ていると牧野常造社長は語った[42]。牧野フライス製作所は治具中ぐり盤とならい・形彫盤を主力機種に据えた[43]。
1964年7月22日、牧野フライス製作所は銘柄コード6135で東京証券取引所第二部に上場した[44]。資本金は200,000千円、上場株式数は4,000千株で、公開価格は340円と決まった[45]。従業員数は同年3月31日現在で302名[46]。1964年3月期の売上高1,198百万円の内訳は、治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%、万能工具研削盤17.7%、三次元自動フライス盤1.1%、その他2.1%であった[47]。製品の大半は見込生産で、三菱商事、ワシノ機械、日立製作所、東洋棉花、不二サッシ工業などに販売していた[48]。
1963年の全国工作機械生産高でみた牧野フライス製作所の市場占有率は2.3%で、順位は第8位にとどまった[49]。ところが機種別には立フライス13%、治具中ぐり46%、ならい・形彫70%を占め、いずれも第1位から第4位に食い込んでいる[50]。株主は275名を数え、うち5,000株未満が252名を占めるなかで[51]、大株主は牧野常造社長が1,934,900株、清水正利専務が516,150株、牧野二郎氏が126,750株を持ち、取引金融機関は三菱銀行、三菱信託銀行、日本開発銀行であった[52]。上場の時点で牧野フライス製作所は本社工場の増強と厚木新工場の建設を計画していた[53]。
1963年9月、牧野フライス製作所は合理化計画に基づいて神奈川県厚木市に75,000平方メートルの工場建設用地を買収した[54]。東証二部上場の10か月前にあたる[55]。工場が立つ前の1966年10月、同社はマシニングセンタの国産第一号機を開発した[56]。神奈川県愛甲郡に厚木工場を建設したのは1967年6月である[57]。マシニングセンタは数値制御多能工作機械で、国内で初めて名乗りをあげたこの機種は世界でも注目を集めた[58]。1968年時点の資本金は5億円、従業員は400名で、牧野常造社長が引き続き社長を務めていた[59]。
当時の決算期は3月31日と9月30日の年2回で[60]、売上高は1966年3月期の10億円から1968年3月期に18億円余りとなり、同年9月期には20億円強に達し[61]、半期ごとに2億円の伸長で2年半で2倍になった[62]。輸出が売上高に占める比率は約20%で、そのうち対米関係が40%強を占め[63]、得意先にはフォードが名を連ね、輸出先は欧州や南アフリカ連邦など約40カ国に及んだ[64]。牧野フライス製作所は、マシニングセンタに続いて各種工作機と電子頭脳を組み合わせたNCマシンにも力を入れた[65]。1968年の時点では、資本金を10億円へ増やしたうえでの一部上場昇格が見込まれていた[66]。
牧野常造社長は、工作機械の生産規模には限界があり、個々の企業も工作機械工業会も国もその限界を考えなければならないと述べた[67]。マシニングセンタについても、同じものを月に何百台、何千台と出すのではなく、本体は同じでも周辺の装備を個々のメーカーに有利なように取り付けるため、むやみに大量生産はできないと語った[68]。この売り方のまま、牧野フライス製作所は1971年8月に東京証券取引所第一部および大阪証券取引所第一部へ上場し[69]、翌1972年8月には適応制御マシニングセンタによるトランスファラインを開発した[70]。
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1955年輸入頼みだった一番立フライス盤に絞った個人創業 | 牧野常造が立フライス盤の専門メーカー牧野商店製作部を創業 | ★★★ | ||
| 牧野竪フライス製作所に商号変更 | ★★ | |||
| 清水正利が経営に参加 | ★ | |||
| 株式会社組織に改組(資本金300万円) | ★★ | |||
| 超精密万能工具研削盤を開発 | ★ | |||
| 1956〜1974年稲葉清右衛門氏と組んだ数値制御と、金型業界という需要先の発見 | 一番タレット形立フライス盤Kシリーズを開発 | ★ | ||
| わが国最初の磁気テープによる数値制御立フライス盤を開発 | ★★★ | |||
| 牧野フライス製作所に商号変更 | ★★ | |||
| 東京証券取引所第二部に上場(資本金2億円) | ★ | |||
| マシニングセンタの国産第一号機を開発 | ★★★ | |||
| 神奈川県愛甲郡に厚木工場を建設 | ★ | |||
| 東京証券取引所第一部および大阪証券取引所第一部に上場 | ★ | |||
| 適応制御マシニングセンタによるトランスファラインを開発 | ★ | |||
| 1975〜2000年輸出30%を超えたら現地で生産するという方針とレブロンド社買収 | 米国に子会社MAKINO U.S.A. INC.を設立 | ★ | ||
| 放電加工機の開発・生産・販売を開始 | ★★★ | |||
| 西独のハイデンライヒアンドハーベック社に資本参加 | ★★ | |||
| 池貝機械工業に資本参加 | ★ | |||
| 放電加工機のNC化を完了 | ★ | |||
| 米国レブロンド社を買収 | ★★★ | |||
| 厚木事業所のFMS工場が稼動を開始 | ★ | |||
| 牧野二郎 | モジュールMMCを開発 | ★ | ||
| 牧野二郎 | 山梨県南都留郡に富士勝山工場を建設 | ★ | ||
| 牧野二郎 | レブロンド・マキノ・アジア社を子会社化 | ★★ | ||
| 牧野二郎 | GI制御・スーパーGI制御を開発 | ★ | ||
| 牧野二郎 | 高速大型5軸マシニングセンタMAGシリーズを開発 | ★ | ||
| 2001〜2026年PBR1倍割れが呼んだ買収提案と、外為法が残した上場 | 牧野二郎 | インドにMAKINO INDIA PRIVATE LIMITEDを設立 | ★ | |
| 牧野二郎 | 中国に牧野机床(中国)有限公司を設立 | ★ | ||
| 牧野二郎 | シンガポールにR&Dセンタを開設 | ★ | ||
| 牧野二郎 | 山梨県富士吉田市に富士吉田工場を建設 | ★ | ||
| 井上真一 | レーザ加工機LB300およびLB500を開発 | ★★ | ||
| 井上真一 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 宮崎正太郎 | インドのコインバトールに治具工場を建設 | ★ | ||
| 宮崎正太郎 | 外部から買収提案を受ける | ★★ | ||
| 宮崎正太郎 | 買収提案を検討する特別委員会を設置 | ★ | ||
| 宮崎正太郎 | MMホールディングスによる公開買付けに賛同を表明し公開買付契約を締結 | ★★ | ||
| 宮崎正太郎 | 外為法に基づく中止勧告を受け公開買付契約を合意解約、公開買付けは不実施 | ★★ | ||
| 宮崎正太郎 | 日本産業推進機構による買収提案の検討を終了 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(牧野フライス製作所)