梶原熊雄が東京都豊島区西巣鴨にて旭光学工業を設立。眼鏡レンズの研磨を担当する町工場として創業した。販売先は眼鏡問屋であり、旭光学は下請としてレンズ研磨に従事した。
松本三郎氏は戦前の濱口内閣が「国産奨励」の政策を掲げたことを受けて、カメラの将来性に着目。小西六写真工業と共同でカメラの開発を決め、旭光学はカメラ向けレンズの研磨を担当した。この経緯から、旭光学は戦後にカメラメーカーとして発展する上で、技術的難易度の高いレンズの知見が溜まっていることが大きな強みに育った。
創業者の梶原熊雄氏や経営幹部が同時に病気がちになったことを受けて、旭光学に職工として勤務していた親戚の松本三郎氏(当時27歳)が経営を担うようになった。当時の社員数は10名程度の町工場であったが、それまで従事していたレンズ職工の仕事だけではなく、都内のメガネ問屋をめぐる営業活動にも従事し、工場の存続に奔走した。
戦時下の軍需品生産のための管理工場に指定されたことを受けて、個人事業から会社組織に変更。旭光学株式会社を設立した
TTL(焦点露出計測)を世界で初めて開発。一眼レフの国内シェア25%を確保
経営多角化のためにライフサイエンス領域(内視鏡)に新規参入。先発のオリンパスと競合しつつも、2000年代にはペンタックスのイメージング事業(カメラ製造販売)の不振をカバーする高収益事業に育った。
輸出カメラが中心だったペンタックスは、経営の多角化を図るために新規事業に参入。1983年に人工歯根「アパセラム」を開発し、医療分野への参入として注目を集めたが、同事業はペンタックスを成長させる原動力にはならなかった
主流の35mmフィルムではなく、120フィルムの規格(35mmよりも大きく解像度が高い)に対応した中判一眼レフを開発
円高ドル安の進行を受けて海外生産移管を開始。円高が進行に対して移管が遅れ、カメラ事業の採算が悪化
1993年にペンタックスは93億円の最終赤字に転落。赤字の内訳は、ハネウェルに対するオートフォーカスカメラの特許訴訟の敗訴や、財テクの失敗も含まれるが、主な要因はカメラ生産における生産調整による工場稼働率の低下であった。
デジタルカメラの台頭に乗り遅れたことを受けて中期経営計画を策定。内視鏡は業績好調なものの、カメラの不振をカバーできず
経営不振を打開するためにHOYAとの経営統合を計画。HOYAはペンタックスの内視鏡事業の取り込みが狙い。一方、ペンタックス社内で反対論が噴出し、最終的にはTOBで決着へ
カメラ主体のペンタックスはHOYAのTOB後も業績不振が続き、2011年にHOYAはペンタックスの売却を決定。売却先はリコーとなる
HOYAおよびリコーの傘下で、ペンタックスの不良資産を清算。人員は削減し、固定資産は旧本社工場を含めて閉鎖および売却へ