1919年 |
創業
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1936年 | |
1952年 |
技術
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1952年 | |
1960年 | |
1970年 |
上場
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1971年 |
上場
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1971年 | |
1978年 | |
1983年 |
技術
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1990年 | |
1993年 | |
2002年 | |
2007年 | |
2007年 | |
2007年 | |
2011年 | |
2012年 | |
2019年 |
梶原熊雄が東京都豊島区西巣鴨にて旭光学工業を設立。眼鏡レンズの研磨を担当する町工場として創業した。
松本三郎が旭光学の経営に従事。以後、ペンタックスは松本家が大株主の同族企業となる
ペンタックスは輸出向けの高級カメラとして、一眼レフ「アサヒフレックス」を開発。ペンタックスが一眼レフにおいてパイオニアと呼ばれる原動力となる、記念碑的な製品となった
カメラの量産体制を構築するために、本社を板橋区前野に移転した。板橋区はカメラ部品メーカーが集積する光学機器の街で、ペンタックスも「光学の板橋」の1社として業容を拡大する
輸出が好調なカメラの量産体制を整えるため、埼玉県小川町に工場を新設
業績の拡大を受けて、株式上場を果たす
業績の拡大を受けて、株式上場を果たす
1971年3期にペンタックスは売上高経常利益率15.9%を記録。一眼レフの輸出が好調で、日本有数の高収益企業として注目を浴びた
1978年にペンタックスの創業者である松本三郎が心不全にて急逝。後任に、松本三郎の長男・松本徹が社長に就任した。
輸出カメラが中心だったペンタックスは、経営の多角化を図るために新規事業に参入。1983年に人工歯根「アパセラム」を開発し、医療分野への参入として注目を集めたが、同事業はペンタックスを成長させる原動力にはならなかった
円高ドル安の進行を受けて、ペンタックスは生産コストを低下するために人件費の安いフィリピンに工場を新設
1993年にペンタックスは93億円の最終赤字に転落。赤字の内訳は、ハネウェルに対するオートフォーカスカメラの特許訴訟の敗訴や、財テクの失敗も含まれるが、主な要因はカメラ生産における生産調整による工場稼働率の低下であった。
デジタルカメラの普及を受けて、ペンタックスの業績が悪化。合理化のために埼玉県の小川町事業所を閉鎖した
ペンタックスは苦境を打開するために、光学機器の高収益企業HOYAとの合併を画策。だが、ペンタックスの取締役の一部がHOYAとの合併に反対したため、最終的にHOYAがペンタックスをTOBする形となった。
ペンタックスはHOYAに合併されたことを受けて、株式上場を廃止
ペンタックスは、一部の愛好家から熱烈に支持されていた中判カメラ「ペンタックス645」シリーズの生産を終了
カメラ主体のペンタックスはHOYAのTOB後も業績不振が続き、2011年にHOYAはペンタックスの売却を決定。売却先はリコーとなる
高度経済成長期からペンタックスの成長を支えてきた東京都板橋区の旧本社工場について、2012年頃から解体作業が開始された。跡地には高層マンション「ブリリアときわ台ソライエレジデンス」が建設された
2019年より旧本社工場に隣接するペンタックス旧本社についても解体が開始された。跡地には、旧本社工場と同様に、マンションが建設される予定とされている