| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1959/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6億円 | 0億円 | 12.4% |
| 1960/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7億円 | 0億円 | 10.5% |
| 1961/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 13億円 | 1億円 | 8.1% |
| 1962/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 20億円 | 1億円 | 7.7% |
| 1963/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 30億円 | 2億円 | 9.0% |
| 1964/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 36億円 | 1億円 | 4.8% |
| 1965/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 37億円 | 0億円 | 1.7% |
| 1966/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 42億円 | -7億円 | -17.2% |
| 1967/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 46億円 | 0億円 | 1.1% |
| 1968/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 59億円 | 0億円 | 0.9% |
| 1969/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 83億円 | 4億円 | 5.4% |
| 1970/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 93億円 | 7億円 | 8.3% |
| 1971/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 147億円 | 9億円 | 6.1% |
| 1972/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 166億円 | 9億円 | 5.7% |
| 1973/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 305億円 | 5億円 | 1.9% |
| 1976/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 393億円 | 14億円 | 3.7% |
| 1977/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 466億円 | 15億円 | 3.2% |
| 1978/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 487億円 | 20億円 | 4.1% |
| 1979/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 517億円 | 25億円 | 5.0% |
| 1980/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 598億円 | 31億円 | 5.2% |
| 1981/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 629億円 | 32億円 | 5.1% |
| 1982/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 617億円 | 29億円 | 4.7% |
| 1983/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 723億円 | 43億円 | 5.9% |
| 1984/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 784億円 | 49億円 | 6.2% |
| 1985/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,417億円 | 78億円 | 5.5% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,397億円 | 52億円 | 3.7% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,344億円 | 61億円 | 4.5% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,514億円 | 88億円 | 5.8% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,671億円 | 110億円 | 6.5% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,934億円 | 153億円 | 7.9% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,934億円 | 123億円 | 6.3% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,012億円 | 178億円 | 8.8% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,011億円 | 207億円 | 10.2% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,368億円 | 218億円 | 9.2% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,352億円 | 237億円 | 10.0% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,462億円 | 200億円 | 8.1% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,714億円 | 395億円 | 14.5% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,081億円 | 641億円 | 20.8% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,442億円 | 756億円 | 21.9% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,900億円 | 833億円 | 21.3% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,816億円 | 817億円 | 16.9% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,541億円 | 251億円 | 5.5% |
| 2010/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,024億円 | 415億円 | 10.3% |
| 2011/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 3,735億円 | 595億円 | 15.9% |
| 2012/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 3,606億円 | 426億円 | 11.8% |
| 2013/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 3,724億円 | 724億円 | 19.4% |
| 2014/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,275億円 | 601億円 | 14.0% |
| 2015/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,899億円 | 929億円 | 18.9% |
| 2016/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,057億円 | 933億円 | 18.4% |
| 2017/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,789億円 | 868億円 | 18.1% |
| 2018/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,356億円 | 992億円 | 18.5% |
| 2019/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,658億円 | 1,220億円 | 21.5% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,765億円 | 1,145億円 | 19.8% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,479億円 | 1,252億円 | 22.8% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 6,114億円 | 1,653億円 | 27.0% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,235億円 | 1,687億円 | 23.3% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,626億円 | 1,825億円 | 23.9% |
光学ガラスと無縁の製紙業出身者が軍の支援のもとで坩堝を独自開発し、BK7の溶融に到達した。戦時の国産化要請が技術的蓄積の欠如を補い、平時には不可能な異業種参入を可能にした構造である。しかし軍需に依存した需要基盤は終戦で一夜にして消滅し、100名で事業を維持する状態となった。単一顧客への完全依存が創業からわずか4年で崩壊した経験は、以後のHOYAが事業の分散を志向する原点と推定される。
1941年11月に山中正一と山中茂の兄弟は、東京都北多摩郡保谷町に東洋光学硝子製造所(現HOYA)を創業した。山中正一は当時44歳であり、兄弟は創業以前、尾張製紙株式会社の経営に携わっていた。光学ガラスとは無縁の製紙業からの参入であったが、太平洋戦争下において軍需用光学ガラスの国産化が急務とされていたことが起業の契機となった。山中正一は陸軍の砲兵効果学校を卒業した経歴を持ち、当時の首相である東條英機からの支援を受けたとされる。
しかし製紙業からの転身であったため、光学ガラスの生産に不可欠な「ガラス溶解」の技術的蓄積を持たなかった。山中正一は溶解炉の前にむしろを敷いて寝泊まりし、昼夜を問わず光学ガラスの溶解実験を繰り返した。既存の粘土坩堝では品質の安定した光学ガラスを溶融することができず、社外から広く資料を収集するとともに、独自のガラス溶解法と坩堝の開発に着手した。技術的な出発点がほぼゼロであった点が、HOYAの創業期を特徴づけている。
製紙業における製造管理の経験は光学ガラスの品質管理にそのまま転用できるものではなかったが、原材料の配合と焼成温度の制御という製造工程上の類似性は、山中正一が溶解実験に取り組む際の基本的な素養となった可能性がある。戦時下では既存の光学ガラスメーカーからの技術移転は期待できず、独力での試行錯誤によって技術を確立する必要があった。この状況が、後のHOYAに通底する自前主義の原型を形成したと推定される。
約2年間の試行錯誤を経て、1943年3月に山中正一は新型坩堝を完成させ、光学ガラス「保谷BK7」の溶融に到達した。BK7は分散が小さく、湿気や汚れに強い特性を持つガラスであり、軍需用双眼鏡のレンズとして採用された。品質の良さが認められた結果、1943年5月にHOYAは海軍の管理工場に指定された。管理工場の指定は安定的な受注を意味し、創業からわずか1年半で軍の調達網に組み込まれた形であった。
溶融の実現にあたっては、既存メーカーの製法を模倣するのではなく、独自のガラス溶解法を考案する必要があった。製紙業出身であったがゆえに、光学ガラス業界の既成概念に縛られずに坩堝の改良に取り組むことができたとも考えられる。1944年8月には株式会社に組織変更を実施し、終戦時には100名の人員が事業に従事する規模にまで成長した。創業から3年余りで軍需向けの光学ガラスメーカーとしての基盤を構築した計算になる。
BK7は当時の光学ガラスの代表的な製品として位置づけられ、その後も長期にわたり生産が継続された。技術的には粘土坩堝の改良という地味な工程改善の積み重ねであったが、光学ガラスの品質は坩堝の性能に全面的に依存するため、この改良が製品品質の根幹を成した。軍需向けという限定された市場であったとはいえ、ゼロからの技術開発で品質基準を満たす製品を量産するに至った過程は、HOYAの技術志向の原点として位置づけられる。
BK7の品質が認められたことで、HOYAは軍需向け光学ガラスメーカーとしての事業基盤を確立した。海軍管理工場への指定は安定的な受注の保証であり、創業からわずか2年で軍の調達体制に不可欠な供給者となった。100名の従業員を擁する規模にまで成長した事実は、戦時経済下における国産化需要の大きさを示している。しかし1945年8月の終戦により、軍需向け双眼鏡レンズの需要は一夜にして消滅し、HOYAは創業からわずか4年で事業の前提そのものが崩壊する事態に直面した。
終戦による需要消滅は、軍需に全面依存した事業構造の脆弱性を露呈させた。売上がゼロになるという極端な事態は、単一顧客への完全依存が外部環境の一変に対して構造的に無防備であることを示すものであった。この経験が、HOYAの経営にとって最も根源的な教訓となった。以後のHOYAが事業の多角化と需要源の分散を一貫して志向し続けた背景には、創業期の軍需依存が終戦で崩壊したという原体験が存在している。
この危機がクリスタルガラスへの業態転換を生むことになるが、軍需に依存した創業期の構造が終戦とともに無価値になったという経験は、HOYAの初期経営を決定的に規定した。需要源の多様化なき成長がいかに脆弱であるかを、創業からわずか4年で体験したことの意味は大きい。後の鈴木哲夫による直販体制の構築やシェア戦略、さらにはROE経営への転換に至るまで、HOYAの経営判断の底流には単一依存の回避という一貫した志向が読み取れる。
光学ガラスと無縁の製紙業出身者が軍の支援のもとで坩堝を独自開発し、BK7の溶融に到達した。戦時の国産化要請が技術的蓄積の欠如を補い、平時には不可能な異業種参入を可能にした構造である。しかし軍需に依存した需要基盤は終戦で一夜にして消滅し、100名で事業を維持する状態となった。単一顧客への完全依存が創業からわずか4年で崩壊した経験は、以後のHOYAが事業の分散を志向する原点と推定される。
技術を担当して陣頭指揮に立った山中正一は、溶解炉の前にムシロを敷いて寝床とし、その上で撮る食事も、不規則で粗末なものでしたが、光学ガラスの溶解に、選塊に、この昼夜をわかたぬ創業の苦しみに耐えて、生涯の情熱を込めて行ったのでした。
創業以来続いた苦労の結果が実りはじめる時がきました。社外に広く資料を求めるとともに、独自のガラス製造法を考え、まず溶解容器である粘土坩堝の改良に取り組んでいた山中正一は、新型ガラス溶解坩堝を完成させ、昭和18年には、その新型坩堝を使って「保谷BK7」と呼ぶ光学ガラスの溶解に成功し、当社の商品第一号としました(このガラスは分散が小さく、湿気や汚れに強いという特性があり、双眼鏡洋レンズとしての条件を最も満たしており、その堅さ、耐久性などの優れた特色を活かし、今日現在でも、光学ガラスの代表的なものとして生産が続けられています)。
チェコの共産化で生じた北米シャンデリア市場の供給空白を突いて急成長したが、売上の90%を単一製品の輸出に集中させた構造は、1949年の単一為替レート制定により崩壊した。軍需消滅からわずか4年で依存先を変えただけの事業構造を再び組んだ事実は、リスク分散なき成長が外部環境の変動に対して構造的に脆弱であることを示している。従業員550名の大半を解雇する縮小の経験が、鈴木哲夫時代の直販体制構築と内需重視への転換を促した。
1945年8月の終戦により、HOYAは創業以来の主力であった軍需向け光学ガラスの需要を完全に失った。従業員を抱えたまま売上が消滅するという企業存続の危機に直面し、民需製品への転換を迫られた。選択されたのがクリスタルガラスによる食器製造であり、1945年10月に製造を開始して日本に駐留する米軍(GHQ)向けに販売を始めた。
製品の品質が認められ、1947年には「駐留軍用達品」の指定を受けた。この業態転換を反映して、同年に商号を「東洋光学硝子製造所」から「保谷クリスタル硝子製造所」に変更した。光学ガラスメーカーからクリスタルガラスメーカーへの転身であり、HOYAの事業の軸が変わった転換点であった。
クリスタルガラスへの参入は、光学ガラスの溶解・成形技術がガラス製品全般に応用可能であったからこそ実現した。しかし軍需消滅という外圧に追われた転換であり、民需市場における競争力を十分に検証した上での判断ではなかった。存続のために手近な市場に飛び込むという選択は、以後の為替変動による崩壊の伏線を含んでいた。
1947年にHOYAはシャンデリアの製造を開始し、北米向け輸出事業として本格展開した。戦前に欧州有数のシャンデリア産地であったチェコがソビエト傘下の共産圏に入ったことで、米国市場ではシャンデリアの供給不足が生じていた。HOYAはこの供給の空白を突く形で北米市場に参入し、急速に売上を拡大した。
北米輸出の拡大は急激であり、1949年頃にはHOYAの売上高の約90%がシャンデリアの北米輸出に依存する事業構造が形成された。軍需から民需への転換を果たしたものの、単一製品の輸出に集中するという依存構造は、軍需時代と本質的に同じであった。依存先が変わっただけで集中度の高さはむしろ深まっていた。
シャンデリアの量産体制を整えるために設備投資を実行しており、北米市場の需要が継続する前提で資本を投下していた。この設備投資が、為替変動時に固定費の負担として経営を圧迫する構造的な脆弱性を内包することになった。好調時の投資判断が不況時のリスクを拡大するという構図は、HOYAの初期経営に繰り返し現れるパターンであった。
1949年4月に政府は単一為替レート「1ドル360円」を制定した。HOYAの輸出取引は従来1ドル600円のレートで行われていたため、実質的な40%の円高となり輸出採算が急激に悪化した。シャンデリア量産のための設備投資で資本を投下していたこともあり、資金繰りは逼迫した。
1950年にHOYAは人員整理を決定し、労働争議に直面しながらも従業員550名の大半を解雇した。最終的に100名未満の従業員で再スタートを切ることとなった。創業からわずか9年の間に、軍需消滅・業態転換・輸出急成長・為替変動・経営危機という一連の激変を経験したことになる。
売上の9割を単一の輸出製品に依存する構造が、為替という外部環境の変化で一挙に崩壊した事例であった。軍需依存からクリスタル輸出依存へと依存先が変わっただけで、集中リスクの構造は解消されていなかったことが明らかになった。この経験は、1960年に鈴木哲夫が策定する5ヵ年計画において、内需重視と直販体制の構築が最優先課題として位置づけられる直接の背景となった。
チェコの共産化で生じた北米シャンデリア市場の供給空白を突いて急成長したが、売上の90%を単一製品の輸出に集中させた構造は、1949年の単一為替レート制定により崩壊した。軍需消滅からわずか4年で依存先を変えただけの事業構造を再び組んだ事実は、リスク分散なき成長が外部環境の変動に対して構造的に脆弱であることを示している。従業員550名の大半を解雇する縮小の経験が、鈴木哲夫時代の直販体制構築と内需重視への転換を促した。
創業者兄弟の病と急逝が、光学ガラスの溶解技術を熟知する32歳の技師長を経営者に押し上げた。計画的承継ではなく、後継者の選択肢が実質的に存在しなかった結果である。しかし技術者出身ゆえの製造現場への理解が、後年の5ヵ年計画策定・事業部制導入・直販体制構築を支える基盤となった。一度は社内クーデターで退任しながら株式買い増しで復帰し、30年以上にわたり経営を主導した事実が、この非計画的承継の帰結の全体像を構成する。
1955年の経済不況によりHOYAの業績が悪化し、1956年に創業家の社長であった山中茂は心労から脳溢血に倒れた。事業経営の遂行が困難な状態となり、HOYAは社長不在の経営危機に陥った。さらに1957年には共同創業者の山中正一が資金繰りの苦労を発端とする病気で急逝し、創業者兄弟が相次いで経営の第一線から離脱した。創業からわずか16年で経営を担う人材を失った。
後継者として選定されたのは、山中正一の娘婿である鈴木哲夫であった。東京工業大学出身の技術者であり、1944年にHOYAに入社して以来、技師長として光学ガラスの製造に携わってきた人物である。32歳という若さでの社長就任は計画的な承継ではなく、後継者の選択肢がほぼ存在しない中での消去法的な判断であった。
鈴木哲夫の社長就任は、創業家の山中兄弟による直接経営から娘婿への移行を意味した。創業家の血縁者ではあるものの、鈴木は技術畑の出身であり、光学ガラスの溶解技術を熟知した人物であった。経営者としての経験は乏しかったが、技術への深い理解が製造業の経営判断において独自の強みとなる素地を有していた。
鈴木はその後、クリスタルガラス輸出に依存する収益構造からの脱却を志向し、1960年の5ヵ年計画策定を主導した。系列会社の合併、事業部制の導入、眼鏡レンズの直販網構築など、HOYAを光学メーカーへと再定義する一連の改革を推進した。技術者としてのバックグラウンドが、製造現場を起点とした事業構想を可能にした。
1967年に鈴木哲夫は眼鏡事業の先行投資が招いた赤字の責任を問われ、銀行の圧力と社内クーデターにより相談役に降格された。しかし退任ではなく相談役にとどまった鈴木は、3年間で株式の買い増しを進め、1970年に社長に復帰した。株式保有という資本の論理によって経営権を奪還した形であった。
復帰後の鈴木は、対立した役員の入れ替えを断行したうえで、多角化とシェア重視の経営方針を推進した。1993年に会長に退くまで30年以上にわたりHOYAの経営を主導し、5ヵ年計画・直販体制・シェア戦略・ROE経営など、同社の経営思想の骨格を形成した。非計画的な承継から出発した鈴木の経営者としての軌跡は、制度的な事業承継の不在を個人の力量が補った事例と位置づけられる。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1924年 | 生まれ | 愛知県出身 |
| 1944年 | 東京工業大学・卒業 | |
| 1944年 | HOYA・入社 | 旧東洋光学硝子製造所 |
| 1957年 | HOYA・社長 | |
| 1967年 | HOYA・相談役 | 社内のクーデターで退任 |
| 1969年 | HOYA・社長 | 社内のクーデータで復帰 |
| 1993年 | HOYA・会長 | |
| 2000年 | HOYA・役職退任 | |
| 2015年 | 逝去 | 90歳で逝去 |
創業者兄弟の病と急逝が、光学ガラスの溶解技術を熟知する32歳の技師長を経営者に押し上げた。計画的承継ではなく、後継者の選択肢が実質的に存在しなかった結果である。しかし技術者出身ゆえの製造現場への理解が、後年の5ヵ年計画策定・事業部制導入・直販体制構築を支える基盤となった。一度は社内クーデターで退任しながら株式買い増しで復帰し、30年以上にわたり経営を主導した事実が、この非計画的承継の帰結の全体像を構成する。
5ヵ年計画の核心は、系列合併や事業部制導入ではなく、直販体制を通じた操業設計にあった。自社の販売力を100として生産能力を80に抑え、不足分を外部に委託する仕組みは、不況期でも自社工場のフル稼働を維持し、在庫増と安売りの悪循環を回避する設計であった。好況でも不況でも収益が安定するこの操業思想は、鈴木哲夫が1950年代の為替崩壊とクリスタル危機から得た教訓に根ざしており、以後のHOYA高収益体質の骨格を形成した。
1950年代後半のHOYAは、北米向けシャンデリアを中心とするクリスタルガラスの輸出が売上高の大半を占めていた。1949年の単一為替レート制定による経営危機をかろうじて乗り越えたものの、北米市場における競合の増加や為替リスクへの脆弱性は解消されていなかった。クリスタルガラス単独での成長には構造的な限界が生じていた。
加えて、1955年の証券不況を契機に業績が悪化し、創業家の山中茂社長が脳溢血で倒れるなど経営体制の立て直しが急務となった。1957年に社長に就任した鈴木哲夫は、クリスタルガラスの輸出に依存する収益構造からの脱却を最優先の経営課題と認識した。「国内市場で受け入れられない製品が海外で成功する可能性はきわめて稀である」という鈴木の考えが、計画の方向性を規定した。
鈴木が構想した転換は、輸出から内需への重心移動と、クリスタルガラスから光学製品への事業軸の転換の2つを同時に進めるものであった。単一製品・単一市場への依存が9年間で2度の崩壊を招いたHOYAにとって、事業構造の分散は生存のための必須条件であった。
1960年にHOYAは創業以来初となる5ヵ年経営計画を策定した。計画の柱は、系列会社3社(保谷光学・保谷光学硝子販売・山中光学)の合併による経営資源の集約、事業部制の導入、直販網の整備の3点であった。合併にあたり商号を「保谷クリスタル硝子」から「保谷硝子」に変更し、クリスタルの名称を外すことで光学メーカーへの転換を社名レベルで宣言した。
組織面では「光学事業部」と「クリスタル事業部」の2事業部制を導入し、1967年には「眼鏡事業部」を加えた3事業部体制に移行した。販売面では1962年から代理店・問屋経由の取引を縮小し、直接販売の体制を構築した。営業人員の中途採用を進め、全国8地区に小売店組織「保谷会」を発足させた。
この直販体制の設計には、鈴木哲夫の操業思想が反映されていた。自社の販売力を100とすると、生産能力は85ないし80にとどめ、不足分は同業他社や海外メーカーに委託する。この仕組みにより、不況期でも自社工場はフル稼働を維持でき、在庫増と安売りの悪循環を回避できる。好況期に過剰投資を避け、不況期に稼働率を維持するという操業設計は、HOYAの収益安定の骨格となった。
5ヵ年計画に基づく多角化と直販体制の構築は、1960年代を通じて着実に成果を上げた。クリスタル事業では照明から食器へと製品構成を転換し、光学事業ではカメラブームを背景にニコンやミノルタ向けのレンズ下請け生産が拡大した。とりわけ1958年に参入した眼鏡レンズは、直販網の整備とともに販売を伸ばし、1974年時点で国内シェア20%を確保するに至った。
HOYAの直販体制は、好況期だけでなく不況期における収益の安定性に寄与した。同業他社が不況時に過剰在庫と安売りに苦しむ中、HOYAは自社工場のフル稼働を維持し、安定した操業を続けた。直販という販売チャネルの選択が、生産管理と収益管理を一体化させる仕組みとして機能した。
この計画は、HOYAがクリスタルガラスの輸出企業から光学メーカーへと自己定義を書き換えた起点であった。合併・事業部制・直販という3つの施策は、個別には一般的な経営手法であるが、それらを操業設計という一つの思想のもとに統合した点に鈴木哲夫の経営の特徴がある。以後30年にわたりHOYAが維持した高収益体質の骨格は、この1960年の計画に遡ることができる。
| 事業所 | 所在地 | 従業員数 |
| 本社 | 東京都京橋 | 98名 |
| 京橋営業所 | 東京都京橋 | 102名 |
| 大山営業所 | 東京都板橋区 | 37名 |
| 新宿営業所 | 東京都新宿区 | 42名 |
| 大阪営業所 | 大阪市南区 | 41名 |
| 名古屋営業所 | 名古屋市中村区 | 23名 |
| 保谷工場 | 東京都北多摩郡 | 416名 |
| 昭和工場 | 東京都昭島市 | 276名 |
| 武蔵工場 | 埼玉県入間郡 | 276名 |
| 沼津工場 | 静岡県沼津市大岡21 | 名 |
| 技術研究所 | 東京都昭島市 | 34名 |
5ヵ年計画の核心は、系列合併や事業部制導入ではなく、直販体制を通じた操業設計にあった。自社の販売力を100として生産能力を80に抑え、不足分を外部に委託する仕組みは、不況期でも自社工場のフル稼働を維持し、在庫増と安売りの悪循環を回避する設計であった。好況でも不況でも収益が安定するこの操業思想は、鈴木哲夫が1950年代の為替崩壊とクリスタル危機から得た教訓に根ざしており、以後のHOYA高収益体質の骨格を形成した。
保谷硝子は昭和35年、同系の光学会社3社を併合し現社名に改め、事業の柱をクリスタル硝子と光学硝子の2本とした。同年決定した第一次長期5カ年計画の主眼は、この2本柱の展開による、経営規模の拡大、資本と経営の分離にあった。この計画は当社のあるべき将来を描き、将来のために今日何をなすべきかを決定するための基本構想であるが、この構想の中で、今後当社は、まず国内市場を固めることが結局は中小企業から脱皮成長するための道であり、海外市場進出への基礎固めであると定めた。国内を固めること、製品の多様化を図ること、これは過去におけるシャンデリア1本による輸出一辺倒の反省でもある。(略)
国内市場で受け入れられない製品が海外で成功する可能性はきわめて稀である。まず国内市場で鍛えられなければならないということが私の考えである。
力を入れてきたのは流通対策である。昭和37年以来、当社は直販体制をとってきた。自社で生産したものは自社の手で直接販売しており、代理店や問屋を通さない。百貨店、小売店、あるいは専門店と商売しているわけである。
この狙いは、一つは流通コストの低減を図ること、もう一つは安定した操業を維持して行くことにある。販売を人任せにしておくとなかなか思うように売ってはくれないので、計画的な生産ができないのである。全国にクリスタル部門で2000店。メガネ部門で7000店、合計9000店の取引先があるので、直販体制が非常に効果を上げている。好景気の時は、問屋を使おうが自社で売ろうが、どんどん製品が売れるからあまり差はないが、今度のような不況時になると大きな力を発揮する。
同業他社を見ると、まず不況になれば当然のことであるが需給のバランスが上手くとれなくなる。そこで安売り、押し込み販売をしてかなり利益を落としてしまう。それでもなかなか売れない。そこで在庫が貯まる。今度は生産調整を行い操短する。したがって、さらにコストが上がり、収益の悪化に拍車がかかる。
当社が一貫してとってきた方法は、例えば自分の販売力を100とすると、生産能力は85とか80といった規模にとどめておくことである。不足している部分を同様他社や海外のメーカーに任せる。こうすることによって、不況で需要が減退しても、自社の工場はほとんどフル稼働で操業できる。こういう体制をとっているために、好況、不況にかかわらず、収益が安定しているわけである。
眼鏡直販網の先行投資が7億円の赤字を招き、銀行と社内の圧力で退任に追い込まれた。しかし3年後に株式買い増しで社長に復帰し、直販体制は後に収益安定の基盤となった。この経緯は、長期的に正しい投資が短期業績の悪化として顕在化した場合、経営者の退任という形で投資判断が否定される構造を示している。復帰後に対立した役員を入れ替えた事実は、退任と復帰が人事権の奪還戦であり、最終的に資本保有が経営権を規定したことを意味する。
1966年3月期にHOYAは当期純損失7億円を計上し、上場以来初となる無配に転落した。原因は眼鏡事業における先行投資にあった。HOYAは眼鏡レンズの直販網を構築するために営業人員を大量採用していたが、1965年の証券不況により販売が低迷し、営業人員の固定費が収益を圧迫した。直販体制は長期的な収益安定に寄与する設計であったが、構築途上の段階で不況に遭遇したことが裏目に出た。
赤字転落を問題視したのは取引先の銀行であった。銀行はもともと眼鏡事業における直販網の形成に反対しており、推進者であった鈴木哲夫社長(当時42歳)に経営責任を追及した。社内でも社長に対する批判が噴出し、経営体制の刷新を求める声が高まった。鈴木が主導した直販体制は後年の収益安定に寄与することになるが、この時点では先行投資の負担だけが表面化していた。
直販体制の構築は、完成すれば不況期でも稼働率を維持できる仕組みを生むが、構築途上では固定費の増加として経営を圧迫する。投資の時間軸と業績評価の時間軸の不一致が、鈴木の退任劇の構造的な背景であった。長期的な設計思想が短期業績の悪化として現れた場合に、その設計思想ごと否定されるリスクが顕在化した局面であった。
1967年に鈴木哲夫は社長から相談役に降格された。代わりに監査役であった島田氏(商工中金出身)が社長に就任した。鈴木の降格は銀行の圧力と社内の批判が重なった結果であり、事実上の社内クーデターであった。鈴木は自身が降格する代わりに、眼鏡事業の直販網構築を継続することを条件として提示した。
降格後の鈴木は相談役の地位にとどまりつつ、工場などの製造現場を渡り歩いた。本社を訪れると「何をしにきた」という態度で迎えられ、自ら採用した社員に裏切られたと感じたという。鈴木自身は後年、この経験を「手のひらを返したような態度」と振り返っている。しかし退任ではなく復帰を選んだ鈴木は、水面下で株式の買い増しを開始した。
鈴木は3年間の相談役時代に自身の持株比率を2倍に引き上げた。銀行の圧力と社内の人事によって排除された経営者が、資本の論理で復帰の足場を築くという展開は、日本企業のガバナンスにおける株式保有の重みを示すものであった。人事権による排除は株式保有によって覆されうるという構造が、この3年間で露呈した。
1970年に鈴木哲夫はHOYAの社長に復帰した。3年間で株式保有比率を高めたことが復帰の最大の要因であった。復帰にあたって鈴木は、相談役時代に裏切った役職員のリストを作成しており、社長就任と同時に役員の入れ替えを断行した。退任から復帰までの一連の過程は、経営権をめぐる人事の奪還戦であった。
復帰後の鈴木は、直販体制の完成に加え、多角化とシェア重視の経営方針を本格化させた。退任の原因となった眼鏡事業の直販網は、その後HOYAの収益安定の基盤として機能し、1974年時点で国内シェア20%を確保するに至った。退任時に否定された投資判断が、結果的に正当化された形であった。
この退任と復帰の経緯は、日本企業における経営権の帰属が最終的に資本保有によって決定されることを実証した事例であった。銀行の圧力や社内の多数派工作という人事の論理は、株式の買い増しという資本の論理に覆された。以後、鈴木は1993年に会長に退くまでHOYAの経営を主導し、同社の事業構造と経営思想を不可逆的に変えた。
眼鏡直販網の先行投資が7億円の赤字を招き、銀行と社内の圧力で退任に追い込まれた。しかし3年後に株式買い増しで社長に復帰し、直販体制は後に収益安定の基盤となった。この経緯は、長期的に正しい投資が短期業績の悪化として顕在化した場合、経営者の退任という形で投資判断が否定される構造を示している。復帰後に対立した役員を入れ替えた事実は、退任と復帰が人事権の奪還戦であり、最終的に資本保有が経営権を規定したことを意味する。
私がスカウトして集めた人間が急に、手のひらを返したような態度をとるんです。それはあからさまでしたね。たまに本社に行くと、「何をしにきた」という態度なんですから、面白くないですよ。何だこのヤローって感じでしたね。
主力製品でシェア50%以上、または2位の2倍、または2位と3位の合計を超えるという目標は、販売数量の追求ではなく、製品1単位あたりのコスト差を通じて競合の投資余力を構造的に封じる設計であった。シェアが高い企業ほど固定費が分散され、コスト差がさらに投資余力の差を生むという正のフィードバック構造を、鈴木哲夫は「シェアは資産」と表現した。この思想がHOYAの各事業で貫かれた結果、ニッチ市場の寡占体制が定着した。
1970年に鈴木哲夫がHOYAの社長に復帰した。1967年の社内クーデターで相談役に退いてから3年が経過しており、その間に株式の買い増しを進めて経営権を取り戻した形であった。復帰当時のHOYAは、主力であったクリスタルガラスの食器事業やカメラ向け光学ガラス事業において、市場の飽和による成長の鈍化に直面していた。
鈴木はこの状況を受けて、既存事業の延長ではなく新規分野への多角化に経営資源を振り向ける方針を打ち出した。多角化の対象として選定されたのは、ソフトコンタクトレンズや半導体用マスクサブストレートといった、光学技術を応用できる周辺領域であった。いずれも技術的参入障壁が高く、市場規模は限定的だが高シェアを獲得すれば安定した収益が見込める領域であった。
多角化と並行して、HOYAは主力製品のシェアに関する経営目標を明文化した。主力製品でシェア50%以上を確保するか、2位企業の2倍のシェアを握るか、2位と3位の合計を上回るシェアを得るか、いずれかの条件を達成することを目標として掲げた。鈴木はシェアの高さが製品1単位あたりのコストを引き下げ、競合との間に投資余力の格差を生むと考えていた。
シェアの維持にあたっては、好況期にも工場の稼働率を意図的に抑制し、生産能力に余力を残す操業方針を採った。不況期に競合他社が過剰在庫と値下げに直面する中で、HOYAは安定した稼働を維持してシェアを拡大するという設計であった。シェアそのものを「かけがえのない資産」と定義した鈴木の考え方は、HOYAの経営思想の核心をなした。
1970年代以降、HOYAはソフトコンタクトレンズ(1972年)、半導体用マスクサブストレート(1974年)への参入を実行し、多角化を推進した。各事業で高シェアを追求した結果、1987年時点で眼鏡レンズ36%、クリスタル食器65%、光学レンズ60%、マスクブランクス世界75%という、複数のニッチ市場でトップシェアを握る事業構成が形成された。
この事業構成は、巨大市場で競争するのではなく、技術的参入障壁の高い小規模市場で支配的地位を握る集合体としてHOYAの高収益体質を規定した。1990年3月期には営業利益率12.5%を達成し、日本の製造業としては異例の水準に到達した。鈴木が1970年に掲げたシェア目標が約17年を経て結実した形であり、経営思想の一貫した適用が利益率の設計につながった事例であった。
主力製品でシェア50%以上、または2位の2倍、または2位と3位の合計を超えるという目標は、販売数量の追求ではなく、製品1単位あたりのコスト差を通じて競合の投資余力を構造的に封じる設計であった。シェアが高い企業ほど固定費が分散され、コスト差がさらに投資余力の差を生むという正のフィードバック構造を、鈴木哲夫は「シェアは資産」と表現した。この思想がHOYAの各事業で貫かれた結果、ニッチ市場の寡占体制が定着した。
4〜5年前、私どもは各部門でトップメーカーになろうという一つの方針を立てて進んできた。当時マーケットシェアというものが会社にとってかけがえのない資産であるという認識を持ち、トップメーカーとして次の3つのうちの一つを実現することを考えた。
一つは、50%以上の市場シェアを確保すること。2つは、第2位のメーカーの倍のシェアを確保すること。第三には、第2位のメーカーと第3位のメーカーを合わせたシェアを実現すること。
当社の全ての商品について50%以上のシェアを獲得することは非常に難しいので、50%のシェアを取れないものについては第2位のメーカーの2倍のシェアを取るか、あるいは2位と3位を合わせたものよりも大きいシェアを取ろうという、3つの目標で計画を遂行してきた。
なぜ、当社がシェアを資産と考えるかというと、いったん高いシェアを確保すれば、競合会社との間に非常に大きなコスト・ギャップを作ることができる。シェアが高いと売上高も大きく、生産高も高い。製品1単位あたりの生産コストにしても、販売コストや経営コスト、宣伝コストにしても、割安になってくる。(略)シェアが半分で収益力が半分だから、投資力の格差は4分の1となり、大きなギャップが出てくる。当社は自社製品をこういう状態に置くことを絶えず考えてきたわけである。
IBM向け受注を起点に、ガラス素材からクロムブランクス、さらにクロムマスクまでの垂直統合を構築したことで、HOYAは半導体メーカーにとって代替困難なサプライヤーとなった。光学ガラスの組成・溶解・研磨技術が半導体製造工程の品質要求に合致した点は、創業以来の技術蓄積と多角化探索の帰結である。1980年時点でクロムブランクス世界シェア60%を確保した速度は、技術転用の適合度が高い領域では支配的地位が短期間で確立されうることを示唆する。
1970年にHOYAの光学事業部においてフォトマスク用サブストレートが開発された。半導体の製造工程では回路パターンを転写するためのフォトマスクが使用されるが、そのマスクの基板には高い平面精度と低い熱膨張係数を持つガラス素材が求められた。HOYAは光学ガラスの製造で培った組成・溶解・加工技術をこの分野に応用した。
1972年にはIBMからIC用マスクプレートを受注し、事業の本格化を決定した。子会社として保谷電子を設立し、1973年には山梨県に長坂工場を新設して生産体制を整備した。光学ガラスメーカーが半導体の製造工程に不可欠な部材の供給者へと転じる転換点であり、HOYAの多角化戦略の中で最も長期的な収益基盤を生む事業への参入であった。
1974年にHOYAは半導体用マスクサブストレートの本格製造を開始した。さらに1980年にはクロムブランクスの製造に着手し、ガラス基板の上にクロム膜を成膜した製品の供給を開始した。1983年には東京都八王子市に生産技術研究所を設立し、クロムマスクの製造にまで事業を拡大した。ガラス素材からクロムマスクまでの一貫生産体制を構築した形であった。
半導体メーカーからはHOYAがガラス素材からクロムマスクまでを一貫生産するメーカーとなることが求められていた。HOYAはこの要請に応えることで、1980年の時点でクロムブランクスの世界シェア約60%を確保し、世界首位の地位を確立した。一貫生産が可能なサプライヤーは限られるため、参入時期の早さが参入障壁の形成に寄与した。
光学ガラスの組成・溶解・研磨という創業以来の技術基盤が、半導体産業のサプライチェーンにおける支配的な地位の構築に直結した。HOYAにとってのマスクサブストレート事業は、既存技術の応用先として参入障壁が高く、かつ需要が半導体産業の成長とともに拡大する事業であった。1980年時点で世界シェア60%を確保した事実は、技術の転用先が適切であれば支配的地位が比較的短期間で確立されうることを示している。
この事業は、後にEUVマスクブランクスへと発展し、最先端半導体の製造工程に不可欠な部材としてHOYAの収益の柱となった。創業期に軍需向けBK7を溶融するために開発された坩堝技術から、半導体マスク基板の製造に至るまでの技術的連続性は、HOYAの多角化が異分野への飛び地的な拡大ではなく、光学ガラス技術の応用という一本の軸に沿って展開されたことを物語っている。
IBM向け受注を起点に、ガラス素材からクロムブランクス、さらにクロムマスクまでの垂直統合を構築したことで、HOYAは半導体メーカーにとって代替困難なサプライヤーとなった。光学ガラスの組成・溶解・研磨技術が半導体製造工程の品質要求に合致した点は、創業以来の技術蓄積と多角化探索の帰結である。1980年時点でクロムブランクス世界シェア60%を確保した速度は、技術転用の適合度が高い領域では支配的地位が短期間で確立されうることを示唆する。
HOYAは、現在ではガラス素材からクロムマスクまで一貫生産をしているが、昭和47年当時はガラス素材からサブルトレートまでのメーカーであった。一方、半導体ICのLSIに対応したサブストレートは、まずガラス素材の熱膨張係数が従来品の1/2以下まで要求され、さらに平面度、キズの大きさの規格が従来品の10μから2μまで要求され、当初から光学ガラスの組成・溶解・加工の各技術はもとより、研磨・洗浄の各技術の限界への挑戦であった。(略)
HOYAが挑戦したものは最終製品となるクロムマスクであることはいう今でもない。このクロムマスク事業への進出決定は、昭和58年、東京都八王子市に生産技術研究所(現在、八王子事業所)を設立して、業界紙により広く報道されて話題になった。
当時、HOYAのフォトリソグラフィ技術は、規模は小さいながらも、長坂工場で育成されたワーキングマスクによる生産技術があり、これを評価した半導体ICメーカーは、HOYAがガラス素材からクロムマスクまで一貫生産のメーカーになるように求められていた。このような背景のもとで、HOYAは当時最新鋭のEB露光装置、CADなどを導入して、クロムマスク事業を開始し、現在に至っている。
眼鏡レンズ36%、クリスタル食器65%、光学レンズ60%、マスクブランクス世界75%という構成は、巨大市場を追わず技術的参入障壁の高い複数のニッチ市場で支配的地位を握る事業設計の帰結であった。個々の市場は小さいが、シェアの高さがコスト優位と価格決定力を生み、その集合体として営業利益率12.5%を実現した。1970年のシェア目標から17年を経て結実した事実は、この設計が経営思想の一貫した適用の産物であることを示している。
1987年の時点でHOYAの主力製品は、眼鏡レンズが国内シェア36%、クリスタル食器がシェア65%、光学レンズがシェア60%、マスクブランクスが世界シェア75%を確保していた。1970年に鈴木哲夫が打ち出した「主力製品でシェア50%以上」という経営目標は、約17年を経てほぼ達成された形であった。
HOYAの事業構成は、小さな市場で圧倒的なシェアを握る製品を複数保有するポートフォリオを形成していた。個々の市場規模は大きくないが、シェアの高さが製品1単位あたりのコスト優位と価格決定力をもたらし、各事業が安定的な収益を生む構造であった。巨大市場における中位のシェアではなく、小規模市場における圧倒的シェアを追求した点がHOYAの事業設計の特徴であった。
高シェア製品の集合体として、1990年3月期のHOYAは売上高1,233億円に対し営業利益154億円を計上し、営業利益率12.5%を達成した。日本の製造業としては異例の高い水準であり、シェア戦略と直販体制の組み合わせが利益率の向上に寄与した。HOYAは巨大市場を追わず、技術的な参入障壁の高いニッチ市場で支配的な地位を築くことで資本効率の高い経営を実現した。
好況期にも生産能力を意図的に抑え、不況期には安定稼働を維持するという操業方針は、景気変動に左右されにくい収益構造を生んだ。この操業思想は1960年の5ヵ年計画で導入された直販体制に起源を持ち、各事業部で一貫して適用された。シェアの追求、直販体制、操業設計の三位一体が、営業利益率12.5%という数字の背景にある構造であった。
高シェアに基づく安定収益は、1990年代以降のHOYAの経営転換の前提条件となった。1994年にROEを経営指標に据える改革が可能であったのは、各事業が生み出す安定的なキャッシュフローが改革原資を提供したからである。不採算事業の撤退やペンタックスの買収・売却といった事業ポートフォリオの入れ替えも、主力事業の高収益が財務的な余力を生んだことで実行可能となった。
ただし、この事業構成には限界も内在していた。各市場が小規模であるがゆえに個別事業の成長の天井が早期に訪れる。さらに、コンタクトレンズ事業の薬事問題やクリスタル食器市場の縮小のように、ニッチ市場ゆえの脆弱性も存在した。シェアの高さは参入障壁として機能する一方、市場そのものの縮小に対しては防御力を持たないという構造的な限界が、1990年代以降の事業再編の背景にあった。
眼鏡レンズ36%、クリスタル食器65%、光学レンズ60%、マスクブランクス世界75%という構成は、巨大市場を追わず技術的参入障壁の高い複数のニッチ市場で支配的地位を握る事業設計の帰結であった。個々の市場は小さいが、シェアの高さがコスト優位と価格決定力を生み、その集合体として営業利益率12.5%を実現した。1970年のシェア目標から17年を経て結実した事実は、この設計が経営思想の一貫した適用の産物であることを示している。
承認申請時の成分表示の誤りという手続き上の瑕疵が、製品安全性とは独立に事業を壊滅させた。経営陣が「副作用はない」と生産継続を期待した判断は、規制当局が審査するのは製品品質ではなく法的適合性であるという認識を欠いていた。シェア15%から1.3%への急落と39億円の損失は、規制産業において手続き違反が市場地位を不可逆的に毀損しうることを実証した。品質と適法性が別次元の問題であるという区別がHOYAに高い代償をもって刻まれた。
HOYAのコンタクトレンズ3製品「SOFT(1972年発売)」「58(1986年発売)」「EX(1989年発売)」について、厚生省への承認申請において実際とは異なる成分表示で承認を取得していたことが判明した。HOYA担当者のミスに起因するものであったが、問題は長年にわたり認識されないまま製品が流通し、約40万人が未承認の成分構成のコンタクトレンズを使用する事態に至っていた。
1990年にHOYAは問題を認識し、埼玉県薬務課に事態を報告した。厚生省は埼玉県薬務課からの報告を受けて問題を把握した。薬事法に抵触する重大な事案であったが、HOYAの経営陣は「副作用があったという例もないし、製品に問題はない」と判断し、厚生省が生産継続を認めるという楽観的な見通しを持っていた。
この楽観的判断の背景には、製品の安全性と薬事法上の適法性を同一視する認識の混同があった。HOYAにとっては製品に品質上の問題がないことが重要であったが、規制当局にとっては申請内容と実際の成分が一致しているかどうかが審査の対象であった。両者の論理の違いを認識できていなかったことが、対応の遅れと見通しの誤りを招いた。
1990年10月に厚生省はHOYAに対して処分を決定した。対象となる未承認レンズの全量回収と既存製品の販売中止を命じる内容であり、HOYAが想定していた「生産継続の容認」とは正反対の結論であった。実質的にHOYAのコンタクトレンズ事業は行き詰まることを意味する処分であった。
HOYAの経営陣が「製品に問題はない」と主張し続けたことが、厚生省の心証を悪化させた可能性がある。申請書の成分と実際の成分が異なるという事実は、製品の安全性とは別次元の薬事法上の問題であり、HOYAの対応は規制当局の判断基準を見誤ったものであった。処分の重さは、問題の本質を認識できなかった対応の帰結であった。
この処分は、製品品質と規制適合性が全く異なる基準で判断されることを示した。品質に自信があるから規制上も許容されるだろうという推論は、薬事法の枠組みでは通用しなかった。規制産業においては、製品そのものの優劣ではなく手続きの適法性が事業継続の前提条件となるという原理が、HOYAの処分を通じて明示された。
未承認レンズの回収と販売中止により、HOYAの国内コンタクトレンズの販売シェアは15%(国内3位)から1.3%(15位)に急落した。合計39億円の損失を計上し、コンタクトレンズ事業は壊滅的な打撃を受けた。1991年4月にソフトコンタクトレンズの生産を再開したものの、失ったシェアの回復は容易ではなかった。
シェアの急落は、コンタクトレンズ市場において一度失った販路と顧客の信頼を取り戻すことが構造的に困難であることを意味した。回収と販売中止の期間中に競合メーカーが販路を埋めたため、HOYAが再参入する余地は大幅に縮小した。39億円の損失は会計上の数字であるが、市場地位の喪失という非財務的な損失のほうが長期的な影響は大きかった。
この事案は、1990年代以降にHOYAが事業ポートフォリオの見直しを進める一因となった。コンタクトレンズ事業の停滞は、HOYAが保有する事業群のうち競争力を維持できない領域が存在することを可視化した。1994年のROE経営への転換において不採算事業の整理が課題として明示された背景には、この事案の教訓が含まれていたと考えられる。
| 順位 | 企業名 | シェア | 備考 |
| 1位 | メニコン | 35.1% | |
| 2位 | ボシュロム・ジャパン | 14.8% | |
| 3位 | シード | 13.9% | |
| 4位 | 日本コンタクトレンズ | 9.2% | |
| - | ...略... | ||
| 15位 | HOYA | 1.3% | 販売中止前のシェアは15% |
承認申請時の成分表示の誤りという手続き上の瑕疵が、製品安全性とは独立に事業を壊滅させた。経営陣が「副作用はない」と生産継続を期待した判断は、規制当局が審査するのは製品品質ではなく法的適合性であるという認識を欠いていた。シェア15%から1.3%への急落と39億円の損失は、規制産業において手続き違反が市場地位を不可逆的に毀損しうることを実証した。品質と適法性が別次元の問題であるという区別がHOYAに高い代償をもって刻まれた。
改革の契機が米国子会社の役員からのROEの低さの指摘であった点に、日本企業の内発的な変革の難しさが表れている。220名の退職、取締役17名から8名への半減、社外取締役の起用、定期採用の廃止は、1990年代の日本企業では異例の施策であった。「終身雇用は70%でよいが年功序列は不必要」という鈴木哲夫の言葉は、雇用の全否定ではなく人材の流動化に力点を置いた改革の性格を示している。以後のペンタックス買収・売却やクリスタル撤退の布石であった。
1990年代前半のHOYAは主力製品の高シェアと直販体制により安定した収益を上げていたが、資本効率の面では国際的な水準に達していなかった。鈴木哲夫会長はHOYAの米国子会社の役員からROE(株主資本利益率)が低すぎるとの指摘を受け、改革の必要性を認識した。従来の「日本的経営」が行き詰まると判断した鈴木は、投下資本と人員の最適化がHOYAの生き残る道であると考えた。
鈴木は「終身雇用と年功序列を柱とする日本的経営システムは、日本でしか通用しない」という認識を持っており、日本企業としては異例の資本効率重視の経営への転換を志向した。当時の日本企業でROEを経営指標として明示的に掲げる企業は稀であった。加えて、1990年のコンタクトレンズ回収事案による事業の後退や、主力事業の成熟化も改革を後押しする背景にあった。
改革の契機が社内の自発的な反省ではなく、米国子会社の役員からの外圧であった点は、日本企業の内発的な変革の難しさを示している。安定した収益を上げている企業が自らの経営構造を問い直す動機は、外部からの指摘なしには生まれにくい。鈴木は70歳の時点でこの指摘を受けて改革を決意しており、年齢にかかわらず認識を転換できる経営者であった。
1994年にHOYAは3カ年の中期経営計画を策定し、ROEを経営の基軸指標に据えた。事業面では「エレクトロオプティクス事業」への集中投資を決定し、ガラス磁気メモリディスクの生産設備に資源を振り向けた。従来の主力であった眼鏡事業は成熟化したと判断し、投資の優先順位を引き下げた。事業の選択と集中をROEという定量的な基準に基づいて実行する方針であった。
組織・人事改革では、余剰人員の削減、分社化による人員の移管、新卒定期採用の廃止、管理職数の半減、取締役の17名から8名への削減、社外取締役の起用、子会社の22社から7社への集約など、広範な施策が実行された。特に問題となったのはクリスタル部門に従事する人員の処遇であり、収益性の低い事業に固定された人材をどう再配置するかが改革の焦点であった。
鈴木は「終身雇用には全く意味がないという気はないが、社員の70%は終身雇用でもいい。しかし年功序列は不必要だ」と述べ、雇用の全面否定ではなく、年功序列の廃止と人材の流動化に改革の重点を置いた。「何十年か前に食器の技術者として入社した人が、今は仕事がなくなっているのに会社に残っている」という鈴木の問題提起は、事業構造の変化に人事制度が追随できていない実態を指し示していた。
改革の結果、220名が退職し、939名が分社化による移管でHOYA本体から切り離された。労務費および人件費を15億〜20億円削減し、本社の固定費構造が軽量化された。取締役会は社内16名体制から、社内7名・社外1名の8名体制に再編された。当時の日本企業では社外取締役を登用する企業はほとんど存在せず、HOYAの取締役会改革は先駆的な事例として注目された。
これらの改革により、HOYAはROEを意識した資本効率の高い経営に移行した。事業の選択と集中は、後にクリスタル事業からの撤退やペンタックスの買収・売却といった大胆なポートフォリオの入れ替えへとつながった。不採算事業に固定された人材と資本を解放し、成長事業に再配分する仕組みを制度化した点に、この改革の本質があった。
鈴木が主導した1994年の改革は、HOYAが「高シェア・高収益」の企業から「資本効率重視の企業」へと経営思想を転換した起点であった。シェア戦略がHOYAの事業基盤を築いたのに対し、ROE経営は事業基盤の入れ替えを可能にする仕組みを提供した。この2つの経営思想が時系列で重層化したことが、HOYAの経営体質を特徴づけている。
| 内容 | 数値 | 備考 |
| 人員削減 | 220名が退職 | 退職金・転職支援あり |
| 配置転換 | 939名が出向 | 分社化の効果 |
| 新卒定期採用の中止 | 0名 | - |
| 管理職数の削減 | 50%削減 | - |
| 取締役の削減 | 17名から8名に削減 | 社外取締役を起用 |
| 子会社の削減 | 22社から7社に集約 | - |
改革の契機が米国子会社の役員からのROEの低さの指摘であった点に、日本企業の内発的な変革の難しさが表れている。220名の退職、取締役17名から8名への半減、社外取締役の起用、定期採用の廃止は、1990年代の日本企業では異例の施策であった。「終身雇用は70%でよいが年功序列は不必要」という鈴木哲夫の言葉は、雇用の全否定ではなく人材の流動化に力点を置いた改革の性格を示している。以後のペンタックス買収・売却やクリスタル撤退の布石であった。
以前から、終身雇用と年功序列を柱とする日本的経営システムは、それこそ日本でしか通用しない、と感じ続けてきた。企業の価値は資本と労働をいかに効率よく利用するかで決まる。HOYAを含めた日本企業は、このままでは外国企業に太刀打ちできない。(略)
終身雇用には全く意味がない、という気はない。社員の70%は終身雇用でもいい。しかし、少なくとも年功序列は不必要だ。(略)何十年か前に食器の技術者として入社人が、今は仕事がなくなっているのに会社に残っている。本人のためにも会社のためにも果たしていいことなのだろうか
本社を全社戦略とファイナンスに限定し、人事権を5つの事業子会社に完全委譲した構造は、本社の役割を「事業ポートフォリオの管理」に再定義するものであった。人員を2020名から50名に削減した比率は約97.5%であり、日本企業の本社機能としては極端な軽量化である。取締役を8名に絞り社外取締役1名を起用した改革は、2000年代以降に広がるガバナンス改革に先行する形であり、ROE経営の組織的基盤として機能した。
1994年のROE経営への転換に続き、HOYAは1997年に本社機能の抜本的な再定義に着手した。持株会社への移行を見据えて、本社の業務を「事業ポートフォリオの経営」に限定し、全社戦略とファイナンスに特化させる設計を採用した。人事権は5つの事業別子会社に完全に委譲し、事業運営の権限を本社から切り離した。
この設計の背景には、事業の選択と集中を継続的に実行するためには、本社が個別事業の運営から離れ、投下資本に対する収益性を全社横断で評価する機能に特化する必要があるという判断があった。本社が事業運営に関与するほど、不採算事業からの撤退に組織的な抵抗が生じやすい。本社を軽量化することで、事業ポートフォリオの入れ替えを組織構造上も容易にする狙いがあった。
組織改革の結果、HOYAの本社人員は2,020名から50名に削減された。約97.5%の削減率は日本企業の本社機能の軽量化として極端な水準であった。同時に取締役会の再編を実施し、1990年代前半に16名の社内人材で構成されていた取締役を、社内7名・社外1名の計8名体制に縮小した。
当時の日本企業では社外取締役の登用は稀であり、HOYAのボード改革は先駆的な取り組みとして注目された。本社の軽量化と取締役会の改革は、1994年のROE経営宣言を組織形態として具現化するものであった。事業運営を子会社に委譲し、本社をポートフォリオ管理に特化させることで、2000年代以降の事業撤退や企業買収を迅速に実行できる組織基盤が整えられた。
本社を全社戦略とファイナンスに限定し、人事権を5つの事業子会社に完全委譲した構造は、本社の役割を「事業ポートフォリオの管理」に再定義するものであった。人員を2020名から50名に削減した比率は約97.5%であり、日本企業の本社機能としては極端な軽量化である。取締役を8名に絞り社外取締役1名を起用した改革は、2000年代以降に広がるガバナンス改革に先行する形であり、ROE経営の組織的基盤として機能した。
947億円でペンタックスを買収した目的は内視鏡事業の取り込みにあり、カメラ事業は当初から整理の対象であった。人員削減・工場閉鎖を経て内視鏡を手元に残し、旧ペンタックスをリコーに売却するまでの一連の過程は、買収と売却を組み合わせた事業ポートフォリオの入れ替えの実践例である。274億円の減損損失は不採算事業の切り離しに伴う摩擦コストであり、この損失を許容できたことが1994年以降のROE経営の組織体質を裏付けている。
2007年8月にHOYAは経営難に陥っていたカメラメーカーのペンタックスを買収し、連結子会社とした。取得原価は947億円であった。HOYAの狙いはペンタックスの主力であるカメラ事業ではなく、収益源となっていた内視鏡を中心とするメディカル機器事業にあった。ライフケア領域の強化というHOYAの戦略に沿った買収判断であった。
買収後の経営を担当するため、元DELL日本法人社長の浜田宏がHOYAのCOOに就任し、事業ポートフォリオの入れ替えに着手した。しかしペンタックスは国内生産が中心で、カメラが売上の大部分を占める構造であったため、採算の改善は難航した。従業員数を5,585名から3,892名に削減し、益子工場や旧本社の板橋工場を閉鎖したが、カメラ需要の減少には追いつかなかった。
最終的にHOYAは、内視鏡などの高収益事業を自社に残した上で、収益性の低い旧ペンタックス事業をリコーに売却する判断を下した。2009年3月期にはペンタックス関連で274億円の減損損失を計上しており、買収から売却までの過程でHOYAは財務上の負担を被った。買収と売却を一連の設計として実行した点に、1994年以降のROE経営の姿勢が表れている。
売却の完了とともに、買収後の経営再建を担った浜田宏もCOOを退任した。HOYAが必要とした内視鏡事業を切り出して取り込み、不要なカメラ事業を売却するという操作は、事業の買収と処分を組み合わせたポートフォリオ管理の実践例であった。
ペンタックスの買収と売却は、HOYAが不採算部門を切り離す経営姿勢を外部に対して明確にした事例であった。947億円の取得原価に対して274億円の減損損失を計上したことは、事業ポートフォリオの入れ替えには財務的な摩擦コストが伴うことを示している。しかしHOYAはこの損失を許容したうえで、ライフケア領域の強化という中長期の戦略を優先した。
内視鏡事業の取り込みは、以後のHOYAのメディカル事業の基盤となった。ペンタックスの買収がなければ、HOYAのライフケア事業は眼鏡レンズとコンタクトレンズに限定されていた。買収対象企業の全事業を引き受けるのではなく、自社の戦略に適合する部分だけを取り込み残りを売却する手法は、ROE経営のもとで事業ポートフォリオを管理する企業の典型的な行動様式であった。
947億円でペンタックスを買収した目的は内視鏡事業の取り込みにあり、カメラ事業は当初から整理の対象であった。人員削減・工場閉鎖を経て内視鏡を手元に残し、旧ペンタックスをリコーに売却するまでの一連の過程は、買収と売却を組み合わせた事業ポートフォリオの入れ替えの実践例である。274億円の減損損失は不採算事業の切り離しに伴う摩擦コストであり、この損失を許容できたことが1994年以降のROE経営の組織体質を裏付けている。
2008年のリーマンショックで半導体向け事業が大幅減収に陥る中、アイケア事業が連結業績を下支えした経験が投資配分転換の契機となった。以後、HOYAはメガネレンズを軸に総額500億円超の連続的企業買収を実施し、ライフケアを売上面の主力に押し上げた。景気変動の影響を受けにくい生活財領域への傾斜は、半導体依存のリスク認識に基づく分散であるが、買収に伴うのれん累積という新たな財務上の論点も内包している。
2000年代のHOYAは、情報・通信セグメント(半導体用マスクブランクスなど)が売上・利益の両面で成長を牽引しており、設備投資もこの領域に傾斜していた。半導体業界では2000年代を通じてシリコンウエハーの300mm化が進み、アジアの半導体メーカーからの需要拡大がHOYAの部材供給事業の高収益を支えていた。
一方、アイケア事業(メガネレンズ・コンタクトレンズ)は安定した収益を生んでいたが、設備投資の優先順位は情報・通信に劣後していた。情報・通信の成長率がアイケアを上回っていたため、投資配分が半導体寄りに傾斜すること自体は合理的な判断であった。しかしこの傾斜は、半導体市場の景気変動がHOYAの連結業績を大きく左右する構造を生んだ。
2008年のリーマンショックにより、半導体メーカー各社が設備投資を凍結したことで、HOYAの情報・通信セグメントは大幅な減収減益に陥った。これに対してアイケア事業は生活必需品という性質から影響が軽微にとどまり、連結業績を下支えする役割を果たした。この経験から、半導体向け事業に偏重した投資配分のリスクが明確に認識された。
2012年頃にHOYAは投資方針を転換し、ライフケア(ヘルスケア・メディカル)に対して設備投資と企業買収を優先的に実施する方針を決定した。2000年代までの情報・通信への傾斜投資からの転換であり、景気変動の影響を受けにくい生活財領域を強化する狙いがあった。情報・通信の収益をライフケアの買収資金に充当する形で、資金配分の転換が実行された。
2012年以降、HOYAはメガネレンズを軸に企業買収を相次いで実施した。2012年にOptical社を80億円で取得し、2013年にはセイコーエプソンのメガネレンズ事業を48億円で買収した。2017年には米国のPerformance Optics社を301億円で取得し、ポリカーボネートや調光・偏光レンズの製造能力を取り込んだ。内視鏡関連では2013年にWASSENBURG社を37億円で買収し、洗浄装置の領域にも展開した。
一連の買収の総額は500億円を超え、HOYAにとって最大規模の投資集中であった。とりわけ2017年のPerformance Optics社の買収は取得対価301億円のうちのれん計上額が238億円に達し、米州のメガネレンズ事業に集中した大型案件であった。各買収は既存のメガネレンズ事業を地域的・技術的に補完する位置づけであった。
2010年代を通じてライフケアの売上高は拡大を続け、情報・通信を上回る水準に達した。利益面では情報・通信の貢献が依然として大きいものの、ライフケアは景気変動の影響を受けにくい安定収益源として連結業績における役割を増していった。投資方針の転換が事業構成の転換として実を結んだ形であった。
一方、連続的な企業買収により「のれん」の計上額が増大した。IFRSの会計基準のもとで減損テストの対象となるこれらの無形資産は、事業環境の変化によって減損リスクが顕在化しうる。とりわけ米州のメガネレンズ事業に集中したのれんは、買収先の収益性が悪化した場合に大規模な減損損失につながる可能性を内包している。
ライフケアへの投資転換は、半導体偏重の景気変動リスクを分散する合理的な判断であったが、買収によるのれん累積という新たな財務リスクを生んだ。景気変動リスクから減損リスクへとリスクの性質が変わった形であり、事業ポートフォリオの管理がリスクの消去ではなくリスクの転換として機能する構造を示している。
| 取得日 | 取得企業(事業) | 取得内容 | 取得対価 | のれん計上額 |
| 2012/4/2 | OPTICAL | メガネレンズ | 80.7億円 | 56.4億円 |
| 2012/5/30 | 日本ユニテック | インプラント | 20.0億円 | 7.3億円 |
| 2013/2/1 | セイコーエプソン(事業) | メガネレンズ | 48.0億円 | 0億円 |
| 2013/4/2 | RICH EPOCH | メガネレンズ | 23億円 | 11億円 |
| 2013/4/2 | WASSENBURG | 内視鏡洗浄装置 | 37億円 | 8億円 |
| 2013/2/1 | セイコー(事業) | メガネ関連販売 | 23.9億円 | 7億円 |
| 2017/8/1 | Performance Optics | メガネレンズ | 301億円 | 238億円 |
2008年のリーマンショックで半導体向け事業が大幅減収に陥る中、アイケア事業が連結業績を下支えした経験が投資配分転換の契機となった。以後、HOYAはメガネレンズを軸に総額500億円超の連続的企業買収を実施し、ライフケアを売上面の主力に押し上げた。景気変動の影響を受けにくい生活財領域への傾斜は、半導体依存のリスク認識に基づく分散であるが、買収に伴うのれん累積という新たな財務上の論点も内包している。