HOYAはクリスタルガラスに次ぐ新事業として、アイケア用品であるメガネに着目した。当時のメガネ業界は流通網が問屋に握られていたため、HOYAは直販化によってシェアを確保できると考えた。
しかし、直販化のためのコストが想定の6倍かかったことでHOYAの業績は悪化。日本経済の不況もあって、1966年3月期に売上高42億円・最終赤字7億円を計上して無配に転落した。そして社内でクーデターが発生し、鈴木哲夫は社長を解任された。
ただし、直販化によって、HOYAの業績は徐々に上向いていった。
1970年代のHOYAの主力事業は、祖業であるクリスタルガラスと、販売網を整備したメガネレンズの2本柱であったが、いずれも高成長が難しい成熟製品だった。そこで、鈴木哲夫(HOYA社長)はHOYAをさらに発展させるために「小さな池の大きな魚」という方針を掲げ、市場が小さい領域で、シェアトップ(50%以上)を確保することで利益率を高めることを目論んだ。なお、技術的には光学製品を扱う分野に限り、新事業の範囲を制限した。
1970年代から1980年代にかけて、HOYAが当てた最も重要な製品が半導体の設計に必須となる「マスクブランクス」である。半導体向けの光学製品という強みが加わり、HOYAは1980年の時点で44億円だった電子事業の売上高を、1984年には154億円へと大幅に引き上げた。1980年代の半導体業界の急成長に合わせて、HOYAは半導体向けの「マスクブランクス」という大型成長製品を当てたとこで、会社として発展するドライバーを確保した。
1987年の時点でHOYAの主力製品は、眼鏡レンズがシェア36%、クリスタル食器がシェア65%、光学レンズがシェア60%、マスクブランクスが世界シェア75%を確保しており、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成した。
この結果、1990年3月期のHOYAは売上高1,233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。
HOYAの鈴木哲夫は、アメリカの知人経営者から「ROEが低い」と指摘され、経営改革を決意した。まずは「事業の整理」、次に「資産の圧縮」、最後に「組織のスリム化(リストラ)」を実施し、経営効率を高める方針に舵を切った。
事業面では、HOYAは競争力を失いつつあったクリスタルガラス事業を中心に、子会社の再編を実施した。22の子会社・関連会社を、7つの子会社に集約した。
資産面では、事業縮小によって不要不急となった土地・建物を売却してバランスシートを圧縮した。
組織面では、余剰人員の整理を実行し、人員の1/3削減や、55歳以上の選択定年制を導入した。
これらの改革を1994年から2年にわたって実施し、一般的な日本企業と比較すると早いタイミングで「リストラ」を完了した。この結果、2000年代以降の事業のグローバル化を推進するための布石になった。
HOYAは持ち株会社への移行を見据えて、「事業ポートフォリオの経営」を本社の業務として定義し、大規模な組織改革を実施した。本社部門は全社戦略とファイナンスを担当し、人事権は5つの事業別の子会社に委譲することによって、権限分離を図った。この結果、HOYAの本社の人員は「2020名」から「50名」に削減された。
同時に取締役の減員を主軸とした、ボード改革を実施。1990年代前半の時点で16名の社内人材が取締役を占めていたが、1997年までに取締役の総数を8名に削減するとともに、社外取締役1名の登用を開始した。当時の日本企業では社外取締役という存在は珍しく、HOYAの取締役会の改革は大きな注目を浴びた。
経営難に陥っていたカメラメーカー「ペンタックス」を買収し、連結子会社化した。HOYAの狙いは、ペンタックスの主力事業であるカメラ機器ではなく、収益源であった内視鏡を中心とするメディカル機器にあった。
このため、ペンタックス事業のポートフォリオの入れ替えが必要となったため、浜田宏(元DELL日本法人・代表取締役社長)がHOYAのCOOに就任し、買収後の企業運営を担当した。
HOYAが買収したペンタックスは国内生産が主体で、製品はカメラが主力事業であったため、採算が悪く経営改革に苦戦した。ペンタックス事業の従業員数を5585名(FY2007)から3892名(FY2009)に削減したが、それでもカメラの需要減少に追い付かなかった。
2008年にHOYAは旧ペンタックスの益子工場(栃木県)、続いて2010年にはペンタックスの旧本社である板橋工場の閉鎖を発表した。
最終的に、HOYAは内視鏡などの高収益事業を残した上で、収益性の悪い旧ペンタックス事業をリコーに売却。同時に、浜田宏はHOYAのCOOを退任した。