1941年11月に東洋光学硝子製造所(現HOYA)を創業。創業者は山中正一氏(当時44歳)と山中茂氏であり、兄弟2名によって創業に至った。創業地は東京都北多摩郡保谷町下保谷801番地(現在の下保谷2-8)であった創業地は保谷工場として運営され、1966年3月に閉鎖および売却されるまで生産に従事した。
HOTYAの創業前は、兄弟ともに尾張製紙株式会社の経営に携わっていた。だが、戦時下において光学ガラス製品の国産化が急務となったことから、兄弟で改めて起業を決断。新会社として東洋光学硝子製造所(HOYA)の創業に至った。山中正一氏は陸軍の砲兵効果学校を卒業しており、HOYAの創業時にあたっては、東條氏(当時の首相)から支援を受けたと言われている。
ただし、もともと製紙会社の出身であり、創業時点で光学ガラスの生産に必要な「ガラス溶解」の技術は確立されておらず、生産技術の確立に苦戦した。このため、技術を担当した山中正一氏は、溶解炉の前で寝泊まりして光学ガラスの生産を試行錯誤するなど、製品製造までに苦心したという。
約2年間の開発期間を経て、1943年3月に新型坩堝によって光学ガラス「保谷BK7」の溶融に成功。湿気および汚れに強い特性があるガラスとして開発され、品質が良いことから軍需用の双眼鏡のレンズとして採用された。
ガラス溶融の成功を受けて、1943年5月にHOYAは海軍の管理工場に指定。1944年8月には株式会社に組織変更を実施し、終戦時においては100名の人員が事業に従事した。
技術を担当して陣頭指揮に立った山中正一は、溶解炉の前にムシロを敷いて寝床とし、その上で撮る食事も、不規則で粗末なものでしたが、光学ガラスの溶解に、選塊に、この昼夜をわかたぬ創業の苦しみに耐えて、生涯の情熱を込めて行ったのでした。
創業以来続いた苦労の結果が実りはじめる時がきました。社外に広く資料を求めるとともに、独自のガラス製造法を考え、まず溶解容器である粘土坩堝の改良に取り組んでいた山中正一は、新型ガラス溶解坩堝を完成させ、昭和18年には、その新型坩堝を使って「保谷BK7」と呼ぶ光学ガラスの溶解に成功し、当社の商品第一号としました(このガラスは分散が小さく、湿気や汚れに強いという特性があり、双眼鏡洋レンズとしての条件を最も満たしており、その堅さ、耐久性などの優れた特色を活かし、今日現在でも、光学ガラスの代表的なものとして生産が続けられています)。
1945年の終戦によりHOYAは軍需向の双眼鏡レンスの需要を失った。そこで、企業存続のためにクリスタルガラスへの参入を決定した。1945年にクリスタルガラスによる食器製造を開始し、日本に駐留する米軍(GHQ)向けに販売を開始した。製品の品質が評価され、1947年には「駐留軍用達品」としての指定を受けた。
業態転換を受けて、1947年に商号を「東洋光学硝子製造所」から「保谷クリスタル硝子製造所」に変更した。
1947年にはシャンデリア(照明)の製造を開始し、主に北米向けの輸出事業として展開した。
参入の背景は、北米におけるシャンデリアの輸入国の変化があった。戦前において、シャンデリアの特産地であったチェコはソビエト傘下の共産圏となったことで、米国ではシャンデリアの供給不足を回避するために日本からの輸入を本格化。HOYAなどの日本企業が、米国のシャンデリア市場でシェアを確保できる余地が存在した。
この結果、HOYAはシャンデリアの北米輸出によって業容を拡大。1949年頃の時点で、売上高の約90%がシャンデリアの北米輸出に依存した。
1949年4月に政府により単一為替レート「1ドル360円」が制定。HOYAの輸出のレートは「1ドル600円」であったことから、実質的に「円高ドル安」となり、業績が悪化する要因となった。
HOYAとしてはシャンデリア量産のための設備投資などで資本を投下していたこともあり財務状況が悪化。資金繰りが厳しい状況に陥り、1950年に人員整理を決定した。この間、HOYAは労働争議(ストライキ)などに直面した。最終的に従業員550名の大半が解雇され、100名未満の従業員数で再スタートを切った。
1955年の経済不況により業績が悪化。1956年に創業家の社長だった山中茂氏は心労により脳溢血に倒れ、事業経営の遂行が難しい状況に陥った。後任社長には娘婿の鈴木哲夫氏が就任し、山中家はHOYAの経営から一歩遠ざかる形となった。
創業期のHOYAの経営状態は苦しく、1957年に創業者の山中正一が資金繰りの苦労を発端とする病気で急逝。このため、山中氏の娘婿であった鈴木哲夫(当時32歳・技師長)が、HOYAの社長に就任した。
日時 | 経歴 | 備考 |
1924年 | 生まれ | 愛知県出身 |
1944年 | 東京工業大学・卒業 | |
1944年 | HOYA・入社 | 旧東洋光学硝子製造所 |
1957年 | HOYA・社長 | |
1967年 | HOYA・相談役 | 社内のクーデターで退任 |
1969年 | HOYA・社長 | 社内のクーデータで復帰 |
1993年 | HOYA・会長 | |
2000年 | HOYA・役職退任 | |
2015年 | 逝去 | 90歳で逝去 |
クリスタルをもっと大量に作る方法、生産のオートメーションを考えています。アメリカではオートメーションの装置が発達していますが、そのメカニズムを持ってきて、材質にはクリスタルを使ってそれを作ろう。これがセミクリスタルです。これはコストが安いので相当に伸びる。しかし、今の日本の市場から見ますと、クリスタルは年間20〜30億円まで行けばだいたい飽和状態になると思っています。
1966年3月期にHOYAは当期純損失7億円を計上し、上場以来初となる無配に転落した。
原因は新事業である「眼鏡事業」における先行投資が理由で、HOYAによる直販網の形成にあたって営業人員を大量採用した点にあった。1965年に日本経済の一時的な不況(証券不況)に直面して販売が低迷。この結果、営業人員の固定費が嵩んだことで、HOYAは最終赤字に転落した。
HOYAの赤字転落を問題視したのは、取引先の銀行であった。銀行としてはメガネ事業における直販網の形成に反対し、推進役であった鈴木哲夫氏(当時42歳)に責任を迫った。この結果、HOYAの社内でも社長である鈴木哲夫氏に対する批判が噴出した。
経営上の混乱を収束させるため、1967年に鈴木哲夫氏は社長から相談役に降格。代わりに、当時の監査役であった島田氏(商工中金出身)が社長に就任した。鈴木哲夫氏は自身が降格する代わりに、メガネ事業における直販網の形成を継続することを提示した。
その後、鈴木哲夫氏は再起を図るため、HOYAの相談役を辞めずに業務に従事。工場などの製造現場を渡り歩きつつ、水面下では株式の買い増しを実施し、HOYAの社長に返り咲くチャンスを伺った。
1970年に鈴木哲夫氏がHOYAの社長に就任し、経営トップに復帰した。復帰の過程は明らかにされないが、株式保有比率を2倍に高めたことが、社長に復帰できた最大の要因であったという。
なお、鈴木哲夫氏は社長復帰前の相談役の時代に、裏切った役職員に対抗するため、首切りのリストを作成。鈴木哲夫氏の社長就任とともに、役員の入れ替えを実施した。
私がスカウトして集めた人間が急に、手のひらを返したような態度をとるんです。それはあからさまでしたね。たまに本社に行くと、「何をしにきた」という態度なんですから、面白くないですよ。何だこのヤローって感じでしたね。
次に、メガネ部門でいま開発しているのは、親水性樹脂のソフト・コンタクト・レンズである。普通のプラスチックレンズは非常に硬いけれども、これはよく水を吸って、人間の角膜のように柔らかくなる樹脂である。(略)1年ほど前から試販を進めてきたが、あと1年半位は臨床試験を行う必要がある。今のところは大学病院や眼科医だけが取り扱っている段階であるが、臨床試験が完了次第、本格的な販売に踏み切る考えである。
1970年にHOYAの光学事業部において「フォトマスク用サブストレート」を開発し、半導体製造装置向けの部材に参入。1972年にはIBMからサブストレートを受注し、事業の本格的な展開を決定。子会社として保谷電子株式会社を設立し、1973年には山梨県に長坂工場を新設。半導体製造装置向けの事業を展開した。
HOYAは、現在ではガラス素材からクロムマスクまで一貫生産をしているが、昭和47年当時はガラス素材からサブルトレートまでのメーカーであった。一方、半導体ICのLSIに対応したサブストレートは、まずガラス素材の熱膨張係数が従来品の1/2以下まで要求され、さらに平面度、キズの大きさの規格が従来品の10μから2μまで要求され、当初から光学ガラスの組成・溶解・加工の各技術はもとより、研磨・洗浄の各技術の限界への挑戦であった。(略)
HOYAが挑戦したものは最終製品となるクロムマスクであることはいう今でもない。このクロムマスク事業への進出決定は、昭和58年、東京都八王子市に生産技術研究所(現在、八王子事業所)を設立して、業界紙により広く報道されて話題になった。
当時、HOYAのフォトリソグラフィ技術は、規模は小さいながらも、長坂工場で育成されたワーキングマスクによる生産技術があり、これを評価した半導体ICメーカーは、HOYAがガラス素材からクロムマスクまで一貫生産のメーカーになるように求められていた。このような背景のもとで、HOYAは当時最新鋭のEB露光装置、CADなどを導入して、クロムマスク事業を開始し、現在に至っている。
1984年10月に保谷硝子は製造子会社2社(保谷クリスタル・保谷レンズ)を吸収合併し、商号をHOYA株式会社に変更。新事業の展開によって業態が変化したことから、東京証券取引所の会社コードを変更し、業種区分を「ガラス・土石」から「精密」に変更した。
1987年の時点でHOYAの主力製品は、眼鏡レンズがシェア36%、クリスタル食器がシェア65%、光学レンズがシェア60%、マスクブランクスが世界シェア75%を確保しており、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成した。
この結果、1990年3月期のHOYAは売上高1,233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。
HOYAはコンタクトレンズの3製品「58(1986年発売発売)」「EX(1989年発売)」「SOFT(1972年発売)」について、厚生省に提出した申請書において、HOYA担当者のミスにより、実際とは異なる成分表示で承認を得ていた。このため、薬事法に抵触する事案となった。
1990年にHOYAは問題を認識し、埼玉県薬務課に事態を報告した。厚生省は埼玉県薬務課からの報告を受けて、HOYAの問題を認識した。すでに、長年にわたり実際とは異なる成分のコンタクトレンズが流通(約40万人が利用)しており、影響範囲は広かった。
しかし、HOYAの経営陣は「副作用があったという例もないし、製品に問題はない」(1992/6/8日経ビジネス)と判断し、厚生省がHOYAに対して生産継続を認めると考えていた。
1990年10月に厚生省はHOYAに対する処分を決定。対象の未承認レンズの全量を回収することと、既存製品の販売中止を命じた。HOYAが想定していたよりも重い処分となり、実質的にHOYAはコンタクトレンズ事業が行き詰まることを意味した。
この結果、HOYAは国内におけるコンタクトレンズの販売シェアが低下。販売中止前の段階で、HOYAは国内のコンタクトレンズの販売シェア15%(国内3位)を確保していたが、販売中止後の1990年度には国内シェア1.3%(15位)に低迷した。
なお、コンタクトレンズの回収を受けて、HOYAは合計39億円の損失を計上した。
順位 | 企業名 | シェア | 備考 |
1位 | メニコン | 35.1% | |
2位 | ボシュロム・ジャパン | 14.8% | |
3位 | シード | 13.9% | |
4位 | 日本コンタクトレンズ | 9.2% | |
- | ...略... | ||
15位 | HOYA | 1.3% | 販売中止前のシェアは15% |
1994年にHOYAは3カ年の中期経営計画を策定。投資家向けにROEの経営指標を重視し、リストラクチャリング(事業再構築)を推進することを決定した。ROEを指標として選定した理由は、投資家にとっての利益である税引後利益を効率良く創出できたかどうかの点で、適した指標と判断したためであった。
経営計画の骨子は「事業の選択と集中」と「組織・人事改革」であった。事業に関しては、注力事業への投資に絞り込むことで投資効率を改善することを意図した。組織・人事改革では、余剰人員の削減によって固定費を削減し、利益効率を改善する意図があった。
改革の推進者は、HOYAの鈴木哲夫会長であった。鈴木氏はHOYAの米国子会社の役員から、ROEが低すぎる点を指摘され、改革を決意。従来の「日本的経営」が行き詰まると判断し、投下資本と人員の最適化がHOYAが生き残る道と判断して、ROEを軸とした経営改革に踏み切った。
成長を牽引する「エレクトロオプティクス事業」への集中投資を決定。ガラス磁器メモリディスクの生産設備への投資を実施した。
HOYAとしては従来の主力事業であったメガネ事業については成熟化としたと判断し、成長が期待できる電子・半導体の領域に注力する方針を決定した。
組織体制をスリム化するために、人事を含めた組織改革を実施した。主な改革内容は、余剰人員の削減、分社化による人員減、新卒定期採用の廃止、管理職数の削減(1/2)、取締役の削減(17名→8名)、社外取締役の起用、子会社の集約(22社→7社)などであった。特に問題になったのが、クリスタル(食器)など、収益性の低い部門に従事する人員の処遇であり、人員削減を推進した。
この改革の結果、220名が退職。939名が分社化により削減され、労務費および人件費を15億円〜20億円削減するに至った。
内容 | 数値 | 備考 |
人員削減 | 220名が退職 | 退職金・転職支援あり |
配置転換 | 939名が出向 | 分社化の効果 |
新卒定期採用の中止 | 0名 | - |
管理職数の削減 | 50%削減 | - |
取締役の削減 | 17名から8名に削減 | 社外取締役を起用 |
子会社の削減 | 22社から7社に集約 | - |
以前から、終身雇用と年功序列を柱とする日本的経営システムは、それこそ日本でしか通用しない、と感じ続けてきた。企業の価値は資本と労働をいかに効率よく利用するかで決まる。HOYAを含めた日本企業は、このままでは外国企業に太刀打ちできない。(略)
終身雇用には全く意味がない、という気はない。社員の70%は終身雇用でもいい。しかし、少なくとも年功序列は不必要だ。(略)何十年か前に食器の技術者として入社人が、今は仕事がなくなっているのに会社に残っている。本人のためにも会社のためにも果たしていいことなのだろうか
HOYAは持ち株会社への移行を見据えて、「事業ポートフォリオの経営」を本社の業務として定義し、大規模な組織改革を実施した。本社部門は全社戦略とファイナンスを担当し、人事権は5つの事業別の子会社に委譲することによって、権限分離を図った。この結果、HOYAの本社の人員は「2020名」から「50名」に削減された。
同時に取締役の減員を主軸とした、ボード改革を実施。1990年代前半の時点で16名の社内人材が取締役を占めていたが、1997年までに取締役の総数を8名に削減するとともに、社外取締役1名の登用を開始した。当時の日本企業では社外取締役という存在は珍しく、HOYAの取締役会の改革は大きな注目を浴びた。
2000年代を通じてHOYAは、生産拠点の国内から海外への移転を推し進め、タイを中心とした東南アジアでの生産を増強した。
この結果、HOYAはグローバル競争において、メガネレンズなどのアイケア用品を中心に、コスト競争力を持続するメーカーとして業容を拡大した。
TFT液晶ガラス基板からの事業撤退を決定。2008年6月に合弁会社のNHテクノグラス(出資比率はHOYA50%・日本板硝子50%)の株式について、21.5%を投資ファンドのカーライルに売却を実施した。売却により、HOYAは株式売却益として104億円を計上。