オークマ自社製NC装置「OSP」の開発と、機械・制御を一体で設計する体制の構築
制御は専門メーカーに委ねるか、自社で抱えるか——大隈孝一社長が「機電一体」を選んだ十五年の助走
- 概要
- 1963年、大隈鐵工所(現オークマ)が自社製NC装置「OSP」の開発に成功し、工作機械の本体と数値制御装置の双方を自社で設計・製造する体制を敷いた経営判断。東京大学で機械工業論を講じた技術畑の大隈孝一社長が主導した。
- 背景
- 1960年代前半の日本の工作機械業界では、数値制御装置を電機・制御の専門メーカーから調達し、機械メーカーは本体に専念する分業が広がりつつあった。同社は1961年に技術研究所を完成させ、研究開発部門の強化を進めていた。
- 内容
- 制御装置本体にとどまらず、モータ、サーボドライブユニット、位置検出器といったNCの構成部品までを自社で開発する道を選んだ。1963年に絶対位置検出方式のOSPⅢを開発し、1966年の日本国際工作機械見本市には自社技術による数値制御工作機械を多数出品している。
- 含意
- NC装置は長く採算に乗らず、大隈武雄社長は後年これを「道楽息子で赤字の種」と呼んだ。1978年以降の市場性重視への転換で企業化に成功し、機械と制御を一社で作る「機電一体」が同社唯一の差別化軸として今日まで続いている。
制御を買わなかった十五年
1963年の判断で選ばれたのは、制御装置の調達先ではなく、赤字を出し続ける部門を社内に抱えるという状態であった。制御を外から買えば開発費も人員も要らず、当時の分業の流れにも沿っている。大隈孝一社長が採ったのは逆の道で、その帰結として同社は採算に乗らない部門を1970年代半ばの赤字期まで抱え続けた。技術者の熱意が市場から離れていく危うさは、後に大隈武雄社長が「道楽息子」と呼んだ言葉に率直に出ている。
ただし、内製そのものが正解だったわけではない。武雄社長が1978年に開発の仕組みを技術者主導から売れる製品へ作り直したこと、同じ年から製造業がNC工作機の導入を本格化させたこと、赤字の十五年を切らずに済むだけの体力が工作機械ビッグ5としてあったこと。この三つが揃って1979年3月期の純利益15億円という数字になり、どれか一つが欠けていればOSPは道楽息子のまま終わっていたであろう。「機電一体」から「機電情知」一体へ言い換えられた自己規定は、いずれも1963年に抱え込んだものの上に立っている。何を外から買わずにおくかという判断の値打ちは、十五年やそこらでは測れないといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
数値制御が工作機械の性能を決め始めた時代
1960年代前半、工作機械の競争軸は機械そのものの剛性や精度から、それを動かす数値制御へと移りつつあった。国内では制御装置を電機・計測の専門メーカーから調達し、機械メーカーは本体の設計と製造に専念する分業が広がっていく。制御を買ってくれば開発の負担は軽くなるが、機械の癖に合わせた制御の作り込みは相手の都合に左右される。大隈鐵工所はこの分岐で、機械も制御も自社で持つ側に立った[1]。
判断を下したのは、1948年から社長を務めていた大隈孝一であった。母校の東京大学で機械工業論を講義したこともある理論家で、性格も静かな学者肌と評された。技術を経営の中心に置く考えは、制御装置を自社の手に残すという選択に表れている。同社は1961年に技術研究所を完成させて研究開発部門を強化し、あわせて資本金を16億円へ増資しており、開発への傾斜はこの時期にすでに始まっていた[2][3]。
工作機械ビッグ5としての足場
この時期の同社は、旋盤・研削盤・ボール盤を主力とする工作機械メーカーとして、業界のビッグ5の一角に数えられていた。1966年には生産高・輸出高ともに首位となり、年商は約100億円。売上の8割余りを工作機械が占め、残りを毛紡績機械や毛織機などの繊維機械が支える構成であった。制御装置という未知の領域へ資源を割ける程度の規模と収益が、当時の同社にはあった[4]。
決断
1963年、絶対位置検出方式のOSP
1963年、同社は自社製NC装置「OSP」の開発に成功した。採用したのは絶対位置検出方式で、電源を切っても機械の位置を見失わない設計思想を初代から貫いている。開発の範囲は制御装置の箱にとどまらなかった。モータ、サーボドライブユニット、位置検出器といったNCを構成する部品まで自社で開発し、機械の設計者と制御の設計者が同じ会社のなかで仕様を詰められる体制を組んだ[5][6]。
成果は数年のうちに見本市の場へ出た。1966年の第3回日本国際工作機械見本市に、同社は独自の技術で開発した数値制御工作機械を多数出品して評価を得ている。この年は生産高・輸出高とも業界首位に立った年でもあった。1969年には愛知県大口町に大口工場を新設し、汎用旋盤やマシニングセンタの生産を集約して量産の中核に育てている。制御の内製と量産体制の整備が、同じ時期に並行して進んだ[7][8]。
採算に乗らない開発を抱え続ける
内製の判断は、すぐには果実を生まなかった。NC装置の開発は長く採算に乗らず、機械と制御を一体で設計できる体制を抱えながら、それを収益へ結びつける筋道は見えにくいままであった。1960年代の同社には、売れるかどうかより技術的な完成度を優先する気風が強く、作り手の関心が市場の要求に先立ちやすかった。後にもてはやされるFMS(フレキシブル生産システム)の原型を米国の見本市へ出しても、感心する人はいても買う人はいなかった[9]。
技術偏重の代償は、1970年代半ばに数字となって現れる。オイルショック後の受注減で1974年9月期に経常損失を計上し、赤字は積み上がった。1976年1月には従業員の約2割にあたる380人の希望退職を募り、1978年3月期は売上高170億円で当期純損失3億円を計上している。制御を自前で抱えた判断が吉と出るのか凶と出るのかは、この危機を越えるまで判じられなかった[10][11]。
結果
「道楽息子」を売れる製品に変える
転機は経営の交代とともに訪れた。1978年に社長へ就いた大隈武雄は、技術者の関心を満たす機械づくりから市場性を見据えた開発へ舵を切り、赤字の種であった自社NCを売れる製品へ作り直す。同じ時期に製造業がNC工作機の導入を本格化させ、OSPを積んだ機械が需要の回復をとらえた。1978年3月期に3億円の当期純損失であった業績は、1979年3月期に売上高233億円・当期純利益15億円へ転じ、1980年3月期には売上高378億円・当期純利益36億円まで伸びている[12][13]。
制御を自前で持つ意味は、製品の性能だけにとどまらなかった。NC装置を外部から購入する同業に比べ、機械と制御を一体にしてユーザーの求める仕様へ寄せやすい。1980年の日経ビジネスは、この競争力について前社長の大隈孝一の功績が大きいと書いている。赤字を出し続けた十数年の開発が、再建期に入って初めて差別化として値打ちを持ったことになる[14]。
「機電一体」という自己規定へ
1980年代を通じて、内製NCは同社の看板になっていく。1990年、東海銀行副頭取から社長に転じた松谷昭は、機械だけでなくNC制御装置も他社に任せず一社で作る点を同社の特長として挙げ、それを「機電一体」と呼んだ。サービス要員が機械と制御の両面を見られる体制も、この構造から生まれている。翌1991年4月、同社は創業以来の「大隈鐵工所」を「オークマ株式会社」へ改め、鉄工所という名を外した[15][16]。
内製の枠は、その後も広がった。制御に情報と知能を加えた「機電情知」一体という言い方が2010年代に使われ、2013年から本社工場・可児工場に建てられたドリームサイト群では、自社の機械と自社の制御で自社製品を組む生産方式が採られている。2014年の週刊東洋経済は、海外売上高比率65%に対して生産比率は国内が9割というオークマの姿を伝えた。1963年に始めた制御の内製は、半世紀を経て工場そのものの設計思想にまで及んでいる[17][18]。
- オークマ 有価証券報告書【事業の内容】【沿革】
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)「大隈鉄工所」
- 日経ビジネス 1980年4月21日号「大隈鉄工所 再建へ社長の砕身が『全員一丸』を喚起」
- 日経ビジネス 1985年4月29日号 編集長インタビュー「素っ裸になれば“奇跡”も起こせる」大隈武雄氏(大隈鐵工所社長)
- 中部財界 1990年9月号「新社名“オークマ”も決まった ハイテク時代を先取りするNC工作機械、FMS・メカトロニクスの実現へ」
- 週刊東洋経済 2014年3月7日号「【特集 工場異変】Part3 工場の未来 それでも生き残る工場はどこだ コマツ超効率化へ燃やす執念/オークマ1ミクロンへのこだわり」
- オークマ「機・電一体のオークマ」(技術・ソリューション) https://www.okuma.co.jp/onlyone/osp/
- 金型新聞(2019年11月)「この人に聞く オークマ 家城淳社長に聞く」
- 大隈鐵工所 会社年鑑(単体業績)