1946年9月、天田勇は東京都豊島区高田南町で天田製作所を創業した[1]。終戦直後の新円切替を機に踏み切った再出発で、郵便局からおろした事業資金は3,000円、借りたのは焼け残った親戚の長屋[2]――かつて父が住み、商売に失敗して引き払った因縁の地で、天田自身が『砂利場』と呼ぶふるさとだった。旋盤1台と本人だけの陣容で、当初は機械修理や水道局向けの部品製造を請け負う町工場として動き出す。小僧奉公10年、軍隊4年半、他工場で3年半と、昭和の20年を働きづめにきた職人が、独立の足場をようやく得た格好である。1948年に合資会社へ、1953年10月には資本金100万円の株式会社(株式会社天田製作所)へと改組[3]し[4]、工作機械の修理と機械工具の販売で足場を固めた。天田は他社が手がけていない新しい製品を探し続け、やがて知人から、進駐軍が金属の切断に帯鋸(バンドソー)を使っているという話を聞く。[5]
その帯鋸の話は、高田馬場の駅で日本木工機械時代の知人と偶然再会したことに始まる。相手は進駐軍の機械をスケッチして持参し共同事業を持ちかけてきたが、天田はかばんからスケッチが出される前に『見せないでください』[引用元]と断った。[6]見れば相手の話に乗ることになり、どんなに小さな事業でも一人でやりたいという信条に反する――その場の反射が口を突いた逸話である。調べてみると、金属用の帯鋸盤はドオール社(米)やケーレー社(独)が先行し、輸入機が大手にわずかに入るのみで、一台70〜80万から130万と高く[7]、普通の機械工場は弓鋸や丸鋸に頼っていた。国産化では関西のメーカーが通産省から100万円の助成を受けて試作しており[8]、市場規模の小ささから大手工作機械メーカーが参入を見送る領域に、町工場が独自の方法で食い込む構図がここから始まる。
1954年秋から設計に着手し[9]、現場で培った経験と工作機械の知識を総動員して図面を引き直した。開発資金は自己資金約2,000万円。旋盤など装置約20台を新設し[10]、海外製品のカタログと特許資料だけを頼りに独自設計を進める。『町工場で金がないんですから、研究用の輸入機械を買うわけにはいかない。カタログとか色々なものを集めて研究した』[引用元](商工経済 1963/3)と天田は語っている。世界最高とされたドオール社に見劣りしないものを目指した設計は約3か月を要し、1955年1月、竪型バンドソーの『コンターマシン』第1号機が完成した。一台の製造原価は約20万円、売価は50万円とした。[11]輸入も模倣も許されない空白市場から製品を立ち上げた経験が、資金制約のなかで既存技術を解釈し直して独自の形に落とすという、以後のアマダの開発文化の原型となった。
第1号機の完成は、メーカーとしての出発であると同時に、売る力を問われる始まりでもあった。『売れなければ、次の製品をつくれない』[引用元]という意識から、天田は技術と並んで販売を経営の軸に据える。営業の江守らは代理店任せにせず、市場調査・販路拡大・アフターサービスを自ら動かした。製品も素早く広げ、コンターマシンは主に金型業界で『新兵器』として迎えられ、切削加工で1時間かかる金型加工を20分前後へ縮めた。[12]輸入機を買える一流メーカーより数の多い中小向けに、16インチを12インチに縮めた世界初の小型機を30万円で投入し、日立製作所からは逆に大型の20インチ盤を受注する。[13]1956年3月には棒材切断用の横型バンドソー[14]『カットオフマシン』の生産にも乗り出した。同年10月には埼玉県鳩ヶ谷町に川口工場を建設し[15]、大阪・名古屋にも営業所を開いて、生産と販売の両面を一気に強化した。[16]
販売を軸に据える発想は、流通の作り替えにも及んだ。当初は安宅産業などの大手商社を代理店としていたが、1960年4月に営業部門をエーエム商事として分離し[17]、1965年からは自社直販網の構築に本格着手する。商社経由では中小顧客の実態がつかめず価格交渉も任せきりになる、という反省が切り替えを促した。開拓の鍵は『分割払い』で、資金力に乏しい町工場や板金加工業者に金融支援を組み合わせて売ることで、コンターマシンやプレス機の需要を引き出した。『経理内容と販売高では日本一になりたい』[引用元](あすを創る人 1963)という言葉どおり、技術自慢ではなく販売力を軸に置く経営が急成長を呼ぶ。1964年1月には商号を『アマダ』に改め[18]、同年2月にはエーエム商事と巧技術研究所を吸収合併して製販を本体へ束ね直した。[19]創業から10年余りでの販売体制の抜本的な見直しは、当時の日本企業として先進的な試みである。
成長を支える生産能力と資金は、1961年に同時に動く。天田は太平洋岸への産業集積を見越し、農村だった神奈川県伊勢原町の工場誘致に応じて約3万3,000平方メートルを取得し、同年2月に新工場の建設へ着手した。所要資金は約3億5,000万円。[20]これに対し資本金は1961年2月時点で800万円にすぎず、3月の倍額増資で1,600万円、5月には5,000万円へ一気に積み増した[21]うえで、6月15日に東京店頭市場へ株式を公開する。同月には額面変更のため寿々川礦業と合併し、上場の体裁を整えた[22]。公開時は1,370円の高値をつけ、証券市場第二部の発足にあわせて同年10月に東証2部へ、1962年7月には大阪2部へ上場した。1969年8月には東証一部に昇格する。[23]創業15年での上場は当時として異例の速さで、天田自身も『一躍花形株になった』[引用元]と振り返り、業界紙もアマダを『花形株』(オール大衆 1971/12)と呼んだ。[24]
直販網が固まると、アマダは製品多角化と海外展開に動く。1965年には米US社とプレス、仏PSL社とプレスブレーキの技術提携を結んで同年中に両機種の製造を開始し、帯鋸単機種から脱却した。販路を海外へ広げ、国内の不振メーカーも取り込み始める。1971年1月に米シアトルのユー・エス・アマダ社を設立し、1972年には英バーミンガム・独デュッセルドルフに現地法人を置いて[25](独は機械商社の買収)欧米販路を押さえた。国内では1973年7月、経営不振の淀川プレス製作所が実施した第三者割当増資をアマダが引き受け、株式30%を取得して中型(100トン超)プレスの製造を委託する。[26]当時のアマダは月商30億円規模ながら170〜180[27]億円の受注残を抱え、伊勢原工場の拡張を迫られていた矢先で、常務の渡辺久が持ち込んだ提携だった。三洋電機グループ向けに依存した淀川プレスは販売が弱く、それが不振の根にあると天田は見ていた。
取り込んだ企業の再建は平坦ではなかった。淀川プレスでは、アマダが1974年5月に持株を42.5%へ引き上げた直後に労務問題が深刻化し、納期遅延と品質低下が止まらず、同年7月にいったん提携打ち切りを通達する。[28]撤退の報で同社株は大阪証券取引所の監理ポスト入りとなり、園憲次郎社長が希望退職と組合交渉の荒療治に踏み切ったのを見て、天田は暮れから委託を再開した。淀川プレスは1979年度に売上35億円・経常利益2[29]億円へ戻り、1981年にワシノ機械へ吸収される。1973年11月に三井物産などから株式49.4%を譲り受けて経営権を得た園池製作所でも、送り込んだ鷲尾寛一社長が約600人中100人の整理と不良資産4億円[30]の償却を進め、半年で黒字に転じて売上を33億円から1979年に235億円へ伸ばした。
買収は単発ではなく連鎖になった。1974年には80トン以下のプレスを外注していた佐賀機械工業の株式80%を取得して小型プレスを内製化し[31]、1977年にはオイルショックで会社更生手続中だった研削盤の老舗・三正製作所を、減資後の新資本金1億円の全額出資で傘下に収める。[32]1978年4月にはワシノ機械の株式16.7%を取得[33]した。いずれも不振企業の救済型買収で、バンドソー・プレス・ベンディング・シャーリングへとラインナップを広げたこの動きが、後に『板金機械の王者』と呼ばれる地歩を築いた。1982年にはイタリア・ミラノにアマダ・イタリア社、1986年には仏プロメカム・シッソン・レーマン社を買収してアマダ・エス・エー社を設け[34]、欧州の板金機械メーカーも取り込んだ。1960年代に固めた直販網を武器に、国内・海外の両面で業界地図を塗り替えた時期である。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1978年空白市場と直販戦略 ── 町工場から東証一部へ | 天田勇が創業 | ★ | ||
| 天田製作所を設立 | ★ | |||
| 株式会社に改組、本社移転 | ★ | |||
| 独自バンドソー(金属帯鋸盤・コンターマシン)1号機を開発 | ★★ | |||
| 川口工場を新設 | ★ | |||
| 商事部門を分離しエーエム商事を設立 | ★ | |||
| 天田勇 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 天田勇 | 商号をアマダに変更 | ★ | ||
| 天田勇 | 代理店経由の販売からの離脱と直接販売網の構築 1965年1月、帯ノコ盤メーカーのアマダが、商社・代理店に委ねてきた販売を自社の直接販売網へ切り替え、以後これを展示場と技能者教育で支える体制へ組み上げた経営判断。創業者の天田勇氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 天田勇 | 本社を移転 | ★ | ||
| 天田勇 | シアトルにユー・エス・アマダ社を設立 | ★ | ||
| 天田勇 | バーミンガムにアマダ・ユー・ケー社を設立 | ★ | ||
| 天田勇 | デュッセルドルフの機械商社を買収しドイツ・アマダ社を発足 | ★ | ||
| 天田勇 | 淀川プレス製作所の株式30%を取得 | ★ | ||
| 天田勇 | 不振同業の連続買収と「再建屋企業」への道 1973年から1977年にかけて、帯ノコ盤・プレス機械のアマダが、経営不振に陥った同業の淀川プレス製作所・園池製作所・佐賀機械工業・三正製作所を相次いで系列下に収め、生産を任せて再建した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1979〜2014年グローバル展開と「エンジニアリングのアマダ」 | 天田勇 | ミラノにアマダ・イタリア社を設立 | ★ | |
| 天田満明 | プロメカム・シッソン・レーマン社を買収 | ★★ | ||
| 天田満明 | 園池製作所がアマダソノイケ、ワシノ機械がアマダワシノに商号変更 | ★ | ||
| 天田満明 | 加工機単体の販売からの離脱と、加工ソフトを組み込んだシステム販売への転換 1980年代後半から1990年代にかけて、アマダが板金加工機の単体販売から、加工ソフトと周辺装置を束ねたシステム販売へ商品の単位を組み替えた経営判断。天田満明社長が1990年に『ここで我々は加工ソフトを製造している』と語り、路線を対外的に言い切った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上田信之 | 北京天田機床模具有限公司を合弁設立 | ★ | ||
| 上田信之 | アマダ(タイランド)社を設立 | ★ | ||
| 上田信之 | アマダメトレックスを吸収合併 | ★ | ||
| 岡本満夫 | 岡本満夫が代表取締役社長に就任(第4代) | ★ | ||
| 岡本満夫 | アマダマシニックスを吸収合併 | ★ | ||
| 岡本満夫 | 富士宮事業所に開発センター・レーザ専用工場を竣工 | ★ | ||
| 岡本満夫 | FY08、リーマン・ショックで売上約21%減 | ★ | ||
| 岡本満夫 | FY09、売上1,360億円・営業損失96億円 | ★★ | ||
| 岡本満夫 | ミヤチテクノス(アマダウエルドテック)を株式公開買付けで子会社化 | ★★ | ||
| 2015〜2022年持株会社体制とグローバル領域拡大・事業会社回帰 | 磯部任 | 持株会社体制へ移行、アマダHDに商号変更 | ★★ | |
| 磯部任 | 磯部任が代表取締役社長に就任(第5代) | ★ | ||
| 磯部任 | Marvel Manufacturing Companyを買収 | ★ | ||
| 磯部任 | 子会社アマダを吸収合併しアマダに商号変更 | ★★ | ||
| 山梨貴昭 | 山梨貴昭が代表取締役社長に就任(第6代) | ★ | ||
| 山梨貴昭 | FY23、過去最高の売上4,035億円・営業利益565億円 | ★ | ||
| 山梨貴昭 | 超大型プレス機のエイチアンドエフと基板穴あけ加工機のビアメカニクスの連続取得 2025年、アマダがカナデビア傘下の総合プレス機械メーカー・エイチアンドエフを177億円で、投資ファンド傘下で基板穴あけ加工機を手がけるビアメカニクスを510億円で、相次いで完全子会社化した経営判断。山梨貴昭社長のもとで同社として過去最大級の買収となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(アマダ)