アマダ代理店経由の販売からの離脱と直接販売網の構築

工作機械は商社と代理店が売るもの――その業界の前提を、町工場から出たメーカーはなぜ捨てられたか

時期 1965年1月
意思決定者(推定) 天田勇 社長
論点 販売網の設計と流通の内部化
概要
1965年1月、帯ノコ盤メーカーのアマダが、商社・代理店に委ねてきた販売を自社の直接販売網へ切り替え、以後これを展示場と技能者教育で支える体制へ組み上げた経営判断。創業者の天田勇氏が主導した。
背景
工作機械は戦前の陸海軍需要の名残で「良い機械をつくれば売れる」という商習慣が残り、販売は代理店任せが主流であった。1965年の不況で工作機械工業会の会員13社が倒産し、業界は通産省の指導でグループ化へ向かった。
内容
1960年に商事部門をエーエム商事として分離し、1964年に本体へ吸収合併して製販を束ね直したうえで、1965年1月から代理店を通さない直接販売網の構築に本格着手した。伊勢原の本社に大規模展示場を置き、1974年にはユーザー向けのアマダスクールを設けた。
含意
代理店マージン15〜20%を払うより、顧客を自社に呼ぶ費用のほうが安く、しかも生の要望が直接入るという計算に立っていた。展示場での商談は全売上高の8割を占めるに至ったが、1980年代後半には来場社数が落ち、仕掛けの効きは鈍った。
筆者の見解

中抜きではなく、顧客の声を買う投資

ディーラーに払う15〜20%のマージンと、顧客を全国から呼び寄せる交通費・宿泊費を並べたとき、天田勇氏の計算では後者のほうが安かった。しかも代理店経由では売り切りで終わり、入ってくるのは客の要望ではなく代理店の要望にすぎない。1965年の切り替えは、流通を中抜きして粗利を取り戻す話ではなく、顧客の声を自社の設計台へ載せるための買い物であったとみることができる。本社と展示場に100億円、教育には無料の学校を置くという配分は、その理屈に沿っている。

ただ、自前で抱えた販売は、そのまま固定費として残る。来場社数が4万社から2万社台へ落ちた1980年代後半にも投資は緩まず、朝霧のログハウスと本社の新研修センターで、研修設備だけに80億円が積まれた。顧客の9割が中小企業という構成も、簡単には組み替えられない。町工場から出た天田勇氏が代理店を外せたのは、輸入機を買えない中小の要望なら自分が誰よりわかるという確信があったためだとみられる。強みの源が同時に身動きを狭めるところまで含めて、この選択は一体であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

売ることを軽く見る業界

工作機械は商社と代理店が売るもの、という前提が業界にあった。天田勇氏は後年、その理由を戦前の需要構造に求めている。陸海軍という安定した買い手を持っていた時代には、良い機械をつくれば半自動的に買い上げられ、民間相手でも客が金を持って買いに来た。そのため販売を軽く見る体質が残ったという見立てであった。アマダも創業から、売る実務のかなりを代理店に委ねる形で出発している[1]

創業者の天田勇氏自身は、早くから販売を経営の中心へ寄せようとしていた。「売れなければ、次の製品をつくれない」という意識から、江守氏という社員と営業の担当者に、代理店だけに任せない市場調査・販路拡大・アフターサービスを始めさせている。1963年の取材でも、独創的な製品をつくるだけで事業が成功するとは限らず、鍵はむしろ営業力にあると述べ、メーカーが販売を代理店に委ねれば伸び悩むと語っていた[2][3]

昭和40年不況と、業界が選んだ答え

切り替えの時期は、業界の底と重なっていた。工作機械の生産額は1962年に1,009億円と初めて1,000億円の大台を超えたが、1965年には703億円まで落ち、日本工作機械工業会の会員13社が倒産している。過当競争の是正と企業体質の改善のため、通商産業省の指導もあってグループ化が進み、1965年12月に日立精機・池貝鉄工・浜井産業・豊田工機などによる第一グループが生まれ、翌年5月までに主要各社を網羅する10のグループができた[4]

そのグループ化は、具体的な成果を見ないまま形だけで終わる。共同受注・共同研究を掲げた10グループは、1967年に生産額が1,260億円へ戻ると役目を失った。同じ不況を見ながら、アマダが手を入れたのは供給側の組み替えではなく売り方であった。不況になると代理店からのキャンセルが増え、それが経営の安定を損なう――後年の同時代誌は、天田勇氏が直販へ動いた理由をそう記している[5][6]

決断

商事部門の分離と、本体への回収

直販への切り替えは、組織を二度組み替えたうえで始まった。アマダは1960年4月に商事部門を分離してエーエム商事を設立し、まず販売の専任会社をつくる。1964年1月に商号を株式会社アマダへ改め、同年2月にはそのエーエム商事と巧技術研究所を吸収合併して、製造と販売を本体へ束ね直した。そして1965年1月、代理店を通さない直接販売網の構築に本格着手する。分離から本体への回収まで、5年をかけた手順であった[7][8]

代理店を外す計算は、費用よりも情報に置かれていた。天田勇氏は1979年の取材で、ディーラーに任せるなら5〜10%のマージンでは責任を持ってもらえず15〜20%が必要になると述べ、それでも売り切りで終わり、入ってくるのは顧客の要望ではなく「ディーラーニーズ」にすぎないと語っている。客を自社へ呼べば生の要望が直接入り、その費用はどう見積もっても売上高の15%も20%もかからない、という見立てであった[9]

展示場と学校を、販売の設備として抱える

直販の受け皿として据えたのが、本社に置いた大規模な展示場であった。新製品が次々に出る時代にカタログだけでは客は買わないという判断で、伊勢原の本社敷地に商談用の展示場を設けた。天田勇氏は本社と展示場の建物・土地を合わせて100億円ほどかかったと述べ、機械メーカーで展示場にこれだけ投じられる例は多くないと語っている。1980年時点の展示場は1フロア9,240平方メートル、約200種類の機械が並び、日曜には1,000人以上が訪れた[10][11]

集客と教育も自社で抱えた。展示会は週末中心に年間93日、特定の大企業グループ向けを含めれば150〜160日に及んだ。北海道から九州まで集まる顧客の交通費と宿泊費は原則としてアマダが負担し、箱根や熱海に宿を取って家族同伴の旅行として組んだ。得意先の大半が中小・零細企業であったためである。1974年11月には利益をユーザーへ還元する趣旨でアマダスクールを設け、5部門15コース・定員76人で、開校から半年余りで517人に修了証書を渡している[12][13]

結果

「販売のアマダ」と、その効きの鈍り

販売の内部化は数字に出た。1980年の同時代報道によれば、展示場で成立した商談による売り上げが全売上高の8割を占め、招待にかかる費用は問題にならない水準に収まっていた。1979年3月期にはそれまでで最高の利益を計上する。国内で組んだ直販の型はそのまま海外へ移され、1971年1月の米シアトル、1972年の英バーミンガムと独デュッセルドルフと、拠点ごとに販売とアフターサービスを同時に立ち上げた[14][15]

ただ、この仕掛けは1980年代の後半に効きが鈍る。1977年に開いた展示会場アマダ・マシンツールプラザへの来場社数は、ピークの1980年から1981年に年間4万社を数えたのが、1987年以降は2万社台で止まった。売上高の4割を占める板金加工機の市場が成熟し、日清紡が大分に新工場を建て、村田機械が販売子会社を吸収合併し、大型プレス中心であったコマツが本格参入する。従業員1人あたり売上高1億円超という販売力を支えた装置が、市場の成熟とともに摩耗した[16]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1975年5月26日号「アマダの『アマダスクール』ユーザーの悩みに応える技能者教育フルコース」
  • 日経ビジネス 1979年6月4日号「編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)人まねできない。“売るシステム”で高収益」
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号「アマダの展示場商法 全国から家族同伴で招待 見て、使って、楽しませ顧客確保」
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号「法人所得233位(←424位)アマダ。「ソフト売ります」弟社長」
  • 日経ビジネス 1991年9月23日号「アマダ 研修所開放し教育支援 販売先・下請けと共栄を」
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 機械・輸送機「産業機械-飛躍への離陸期間」
  • 天田勇『無借金経営の勝利:危機突破のアマダ企業戦略』(山手書房, 1982)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • あすを創る人(1963年)
  • アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • アマダ 会社年鑑(1971年版)

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