はごろもフーズ輸出依存から内需へ——東京営業所開設と自社ブランド缶詰への転換
商社の下請けとして輸出を続けるか、自社の名前で国内へ売るか——2代目後藤磯吉氏が選んだ道
- 概要
- 1956年、後藤罐詰(現・はごろもフーズ)の2代目後藤磯吉社長が東京営業所を開設し、米英向け輸出に依存した缶詰製造から、自社ブランドによる国内販売主体の事業へ転換した経営判断。
- 背景
- 戦後の清水はマグロ油漬缶詰とみかん缶詰の輸出集積地で、業者の多くは輸出先メーカーへ相手先ブランドで供給する「詰め屋」であった。誰がどう食べているかは商社の先にあって作り手に届かなかった。
- 内容
- 東京営業所を開いて国内販売網を組み、有力食品卸売業を特約店として組織化した。マグロ油漬缶詰には「シーチキン」の名を与え、1958年11月に商標登録した。米国向け輸出は縮小させた。
- 含意
- 輸出が好調な時期にあえて内需へ資金と人を移した判断であり、同業者からは不可解に映った。1971年以降の円高で輸出型のパッカーが競争力を失ったとき、販売経路はすでに押さえられていた。
好調な事業を細らせて、名を得る
この判断の特徴は、うまくいっている事業から資金と人を引き剥がした点にある。1956年の輸出は好調で、内需へ移る必要は数字の上では見当たらなかった。それでも2代目後藤磯吉氏が動いたのは、収益の多寡ではなく、作ったものが誰にどう届くのかが自社に返ってこない仕組みへの不満からであった。商社経由の受託生産は、需要の波に乗るかぎり安定した仕事であり、その安定と引き換えに顧客の顔を失う——この取引を拒んだところに、後年のブランド企業としての性格が芽生えたとみることができる。
ただし、内需転換の成果が現れるまでには10年を要し、その間の販売は伸びなかった。1967年のテレビCMという次の賭けがなければ、この転換は資源を分散させただけで終わっていた可能性もある。そして、シーチキンに集中したことが円高期の優位を生む一方、他の商品の種を手放す選択でもあった。1990年代以降、はごろもフーズが繰り返し向き合うことになる「シーチキン依存からの脱皮」という課題は、1956年に選ばれた道の裏側にあたるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
清水港の缶詰業者として再起するまで
1931年、初代の後藤磯吉氏が静岡県清水市で後藤罐詰所を興した。清水はマグロの水揚げ港として知られ、不況のさなかに港へ揚がった魚を消費する手立てがなかった。初代磯吉氏が単身で渡米して缶詰の製造技術を持ち帰り、生産を始めたのが事業の出発点にあたる。創業当時の年商は200万円で、清水港のマグロと特産のみかんを利用する多くの缶詰業者の一つにすぎなかった[1][2]。
太平洋戦争で米英向けの輸出は止まり、戦時統制のもとで清水地区の缶詰業者は統合され、後藤罐詰所も消えた。戦後の再起は次代が担った。1947年7月に2代目後藤磯吉氏が清水市で株式会社清水屋を設立し、同年8月に後藤物産、1950年10月には後藤罐詰へと商号を改めた。1950年3月に清水プラント、1951年2月に焼津プラントを新設し、戦前と同じくアメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰の生産に戻った[3]。
商社の下請けという立場
戦後の缶詰は外貨を稼ぐ商品であり、輸出そのものは順調であった。ただし清水のパッカーの多くが引き受けていたのは、輸出先のメーカーへ相手先ブランドで供給する仕事である。今日でも大半のパッカーは、問屋や大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造している。缶詰の中身を作る技術を持っていても、自社の名は商品に残らず、誰がどのように食べているかは商社の先にあって見えなかった[4]。
2代目後藤磯吉氏は、この立場を「詰め屋」と呼んだ。発注されたとおりに詰めて納品するだけでは、消費者が本当に食べてくれるところまで責任を負えない。メーカーであるなら自社ブランドを持つべきである——後年の回想でも、そこが出発点として語られている。同じ内容を、磯吉氏は1956年の缶詰時報でも当事者の言葉で述べていた。輸出は商社を通じて海外で売られるため、直接食べる客の希望が作り手には届かない。輸出は商社の下請けにあたり、自社ブランドで売りたくとも外国相手ではその力が足りなかった[5][6]。
決断
1956年、東京営業所の開設
1956年5月、後藤罐詰は東京営業所を開いた。国内には静岡や愛知といった身近なところから少しずつ売っていけばよい、という見通しのもとでの内需転換であり、同年10月には後藤漁業を吸収合併して原料側も固めた。当時の清水缶詰業界は米英向けが好調で、内需に目を向ける業者はほとんどいなかった。輸出で得た利益を国内向け商品の育成へ振り向ける判断は、周囲には理解しにくい動きに映った[7][8]。
転換は、輸出で稼いだ利益を国内ブランドの育成へ付け替える資金配分でもあった。果物缶詰は原料の季節性が強く、生産できる期間が冬に限られる。年間を通して工場を動かせるマグロ油漬缶詰を軸に自社ブランドの開発が進み、1958年には売り上げのほとんどを占めていた米国向け輸出を縮小して、「はごろもシーチキン」で国内市場の開拓に入った。後年、磯吉氏は「何も苦労しなくても、と周りからさんざん言われた」と振り返っている[9][10]。
自前の流通経路と「シーチキン」という名
国内で売るには売り場までの経路が要る。後藤罐詰は1950年代後半から、有力な食品卸売業を特約店として組織する方法をとった。全国の問屋に呼びかけて「はごろも会」を作り、大手問屋が自社ブランドの缶詰を持つ市場のなかで、競合しにくい自前の流通を確保した。後年、後藤康雄社長は「昭和30年代から他社に先駆けて有力食品卸売業を特約店として組織化を進め、いち早く全国的なかつ強固な販売網を構築してきた」と述べている[11][12]。
商品の名前にも工夫がいった。マグロ油漬という表記は、食品業界の人間には食用油とわかっても、一般の買い手には機械油を思わせる。缶詰という言葉の印象も良くなかった。米国に「チキン・オブ・ザ・シー」というブランドがあったことを参考に、「海のニワトリ」を意味する「シーチキン」が選ばれた。名称は1955年に出願され、1958年11月に鮪油漬缶詰類の製品名として商標登録された[13][14][15]。
結果
10年の停滞と1967年のテレビCM
内需への転換はすぐには実らなかった。ツナ缶は国内でほとんど認知されていない商品で、発売から10年近く販売は伸びなかった。転機は1967年、東海テレビへ月額1000万円・6カ月契約でCMを出したときに訪れた。2代目後藤磯吉氏は「当時としては思い切った巨費を投じ、キヨミズの舞台から…という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た。そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれない」と回想している[16][17]。
数量の動きは速かった。CM開始直前の1967年3月期に年3万ケース(1ケース48缶)だったシーチキンの販売量は、5年後に100万ケースを超え、1974年度には250万ケースへ達した。売上高も1966年度の36億円から10年後には340億円へ伸びている。1973年以降、為替が変動相場制へ移り、1978年には1ドル200円を大きく割り込む円高となった。日本製の缶詰は価格競争力を失い、輸出に頼っていたパッカーは打撃を受けた[18][19]。
押さえられていた売り場と、集中の代償
円高で輸出の道が細ったとき、清水のパッカーが国内へ向き直る番が来た。しかし売り場へ通じる経路はすでに埋まっていた。静岡の中堅パッカーは「我々が国内市場に目を転じた時には、はごろもがチャネルを押さえてしまった後だった」と語っている。1956年に始めた販売網づくりが、20年近い時差をおいて参入障壁として働いた。1993年3月期の売上高は936億円に達し、うち魚類缶詰が60.7%を占め、そのほとんどがシーチキンであった[20][21]。
集中には代償も伴った。シーチキンの育成に専念するため、当初持っていた鉄工業や木工業などの経営資源は手放され、冷凍食品や、発売直前まで進んでいたインスタントコーヒーといった新商品の種も切り捨てられた。ツナ缶市場は年商約900億円と言われ、シーチキンはその5割以上を占め、2番手のいなば食品のシェアは13%前後にとどまった。単一ブランドへの資源集中が地位を築き、同時に、その一本に依存する収益構造を残した[22][23]。
- 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1956年)
- 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1958年)
- 戦略経営者 11(9)(119)(TKC, 1967年)
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「はごろもフーズ 『シーチキン』頼み脱皮へ 慎重な製品開発に転機」
- 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長「はごろもフーズ」)
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】