はごろもフーズ の歴史

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創業 1931年
創業者 後藤磯吉
創業地 静岡県静岡市
創業
1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市に後藤缶詰所を創業した。清水港へ揚がるマグロを詰める業者の一つで、創業当時の年商は200万円にすぎない。不況で港のマグロを消費する手立てがなく、後藤磯吉氏は単身で渡米して缶詰の技術を移入した。ただし作った缶詰は国内の食卓ではなく海外へ送られ、清水の業者は輸出先メーカーへ相手先ブランドで供給する『白巻き』を事業の中心に置いていた。戦後は1947年7月に清水屋を設立して同年8月に後藤物産、1948年に後藤物産罐詰、1950年に後藤罐詰と商号を改め、1951年には焼津食品と焼津水産缶詰を吸収合併して焼津プラントを設けている。はごろも罐詰への改称は1969年、はごろもフーズへの改称は1987年12月にあたる。
決断
原料を持たないまま、商標と販路だけを自らの手へ集めてきた。1956年5月、2代目後藤磯吉氏は輸出が好調なさなかに東京営業所を開設して国内販売へ主力を移した。商社を通す輸出では食べる客の希望が届かず、相手先ブランドの供給は商社の下請けにあたるという判断からである。大手問屋には断られると見て二次問屋を特約店として組織し、1958年11月には鮪油漬缶詰の製品名『シーチキン』を商標登録した。1967年には年商20〜30億円の時期に東海テレビへ6000万円を投じ、肉が割高な家庭へ『肉の代用』を訴えている。2000年2月には創業から69年を経て東証2部へ上場し、公開で得た資金を無菌包装米飯の工場へ充てたが、缶詰の外に新しい収益源は立たなかった。
現況
連結売上高751億円に対して、報告セグメントは現在も一つしかない。2026年3月期の営業利益は31億円、当期純利益は26億円で、海外売上は本邦が9割を超えるため区分の記載を省いている。1993年3月期の年商936億円を頂点に売上は700億円台で三十年あまり動かず、損益は原料相場が振れるたびに入れ替わった。2023年3月期はカツオ・マグロと包材の高騰で営業損失11億円・当期純損失13億円を計上し、同期には2005年にマルアイを買収して引き継いだ乾物の設備へ8億78百万円の減損損失を計上している。2020年10月には48億円を投じた新清水プラントを稼働させ、植物由来の『大豆でつくったシーチキン』も投入した。もっとも設備の更新と代替素材の投入は、ツナ缶一本という収益の構成そのものを変えていない。
競合
同じ原料から作る缶詰の差は、棚に置かれる名前だけでついた。上場した2000年の時点でシェアはまぐろ・かつお缶詰類で53.8%、水産缶詰類でも34.0%と首位にあり、2番手のいなば食品は13%前後にとどまっていた。原料のマグロは大手水産会社から仕入れるため、缶の中身そのものに差はつかない。1958年に登録した商標と1967年から続けた広告費だけが、二番手との40ポイントの開きを作った。もっとも同じ原料を握るニッスイは逆へ動き、2001年に原料の供給者から店頭の商品を持つ側へ回った。名前だけで棚を取ったはごろもフーズには、1991年の牛肉輸入自由化で『肉の代用』の値ごろ感が薄れ、2022年以降のカツオ・ツナ相場の高騰でも損益を守る手立てがなかった。
はごろもフーズ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 相手先ブランドの輸出加工から自社商標の内需へ (1931年〜)

清水港の輸出缶詰業として出発した創業期

はごろもフーズは1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市に『後藤缶詰所』を開いた[1]ことに始まる。創業当時の年商はわずか200万円[2]で、清水港で水揚げされるマグロを原料に缶詰を詰める業者の一つ[3]にすぎなかった。折からの不況で港に揚がったマグロを消費する手立てがなく、後藤磯吉氏は単身で渡米して缶詰の技術を移入し、生産を始めた[4]。作った缶詰は国内の食卓ではなく海外の市場へ送られ、清水の業者は輸出先メーカーへの相手先ブランドによる供給を事業の中心に据えていた[5]。太平洋戦争をはさんだのち、1947年7月に清水屋を設立し、同年8月に商号を後藤物産へ変更した[6]

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [1]1931年 初代後藤磯吉が静岡県清水市に「後藤缶詰所」を創業
    • [2]創業当時の年商 200万円
    • [3]清水港で水揚げされるマグロを原料とする缶詰業者の一つ
    • [5]戦前の清水は輸出先メーカーへのOEM(相手先ブランド)供給が中心
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [4]初代後藤磯吉が単身渡米して缶詰技術を移入し生産を開始
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1947年7月 清水屋を設立・同年8月 商号を後藤物産へ変更

戦後の再建は商号と工場の入れ替えとして進み、1948年5月に後藤物産罐詰、1950年10月に後藤罐詰へと商号を改め[7]、1950年3月には静岡県清水市に清水プラントを新設した[8]。1951年2月には焼津食品と焼津水産缶詰を吸収合併して焼津プラントを設け[9]、1956年10月には後藤漁業も吸収合併した[10]。もっとも事業の形は戦前と変わらず、清水のパッカーは1990年代に至っても大半が問屋や大手メーカーのブランドで売られる『白巻き』を製造していた[11]。2代目後藤磯吉氏は、発注のままにただ詰めて納品するだけでは文字どおりの『詰め屋』にすぎず[12]、メーカーならば消費者が本当に食べているものを知るべきだと考えていた。

  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1948年5月 後藤物産罐詰・1950年10月 後藤罐詰へ商号変更
    • [8]1950年3月 静岡県清水市に清水プラントを新設
    • [9]1951年2月 焼津食品・焼津水産缶詰を吸収合併し焼津プラントを新設
    • [10]1956年10月 後藤漁業を吸収合併
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [11]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
    • [12]2代目後藤磯吉「発注のままに、ただ詰めて納品するだけでは、文字通りただの“詰め屋(パッカー)”だ。メーカーならば、消費者が本当に食べているものを知るべきだ」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [1]1931年 初代後藤磯吉が静岡県清水市に「後藤缶詰所」を創業
    • [2]創業当時の年商 200万円
    • [3]清水港で水揚げされるマグロを原料とする缶詰業者の一つ
    • [5]戦前の清水は輸出先メーカーへのOEM(相手先ブランド)供給が中心
    • [11]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
    • [12]2代目後藤磯吉「発注のままに、ただ詰めて納品するだけでは、文字通りただの“詰め屋(パッカー)”だ。メーカーならば、消費者が本当に食べているものを知るべきだ」
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [4]初代後藤磯吉が単身渡米して缶詰技術を移入し生産を開始
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1947年7月 清水屋を設立・同年8月 商号を後藤物産へ変更
    • [7]1948年5月 後藤物産罐詰・1950年10月 後藤罐詰へ商号変更
    • [8]1950年3月 静岡県清水市に清水プラントを新設
    • [9]1951年2月 焼津食品・焼津水産缶詰を吸収合併し焼津プラントを新設
    • [10]1956年10月 後藤漁業を吸収合併

輸出が好調なさなかの内需への転換

1956年5月、後藤罐詰は東京営業所を開設し[13]、国内販売へ乗り出した。2代目後藤磯吉氏は当時、輸出は商社を通じて海外へ売られるため直接食べる客の希望が分からず、しかも商社の下請けにあたる[14]と語った。客の望むものを少しでも安く提供し、作った製品を自社ブランドで販売してそのブランドを育て上げる[15]ことが、後藤磯吉氏の考えるメーカーの使命だった。輸出では相手が外国であり、当時の後藤罐詰の力では自社ブランドでの販売に手が届かなかった[16]。国内なら静岡や愛知といった身近なところから少しずつ売っていけば形になると見込み、内需転換に踏み切った[17]

  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1956年5月 東京営業所を開設(国内販売への転換)
    • [14]2代目後藤磯吉「輸出は商社を通じて海外に販売される関係上、直接食べてくださるお客様の希望がわれわれにはわからない部分が多くなります……それに輸出は商社のいわば下請けです」
    • [15]2代目後藤磯吉「お客様の望まれるものを少しでも安く提供し、造った製品を自社ブランドで販売していき、そのブランドを育て上げていく」というメーカーの使命観
    • [16]2代目後藤磯吉「外国が相手の輸出では当社ほどの力ではとてもできません」
    • [17]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」

果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られたため、自社ブランドはツナ缶を中心に開発された[18]。1958年、後藤罐詰は売上の大半を占めていた米国向け輸出を縮小し、『はごろもシーチキン』[引用元]で国内市場の開拓に乗り出した[19]。製品名は『海のニワトリ』を意味する言葉から取った[20]。マグロ油漬缶詰と表示すると、食品業界の人間は食用油と分かるものの、一般の買い手は油から機械油を連想しかねないと考えたためである[21]。米国には海でとれる鶏肉を意味する『チキン・オブ・ザ・シー』というブランドがあり、これも参考にした[22]。1958年11月、鮪油漬缶詰類の製品名として『シーチキン』を商標登録した[23]

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [18]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られるため、ツナ缶を中心に自社ブランドを開発
    • [19]1958年 米国向け輸出を縮小し「はごろもシーチキン」で国内市場の開拓に着手
    • [22]米国のブランド「チキン・オブ・ザ・シー」を参考にした命名
    • [20]「海のニワトリ」の意味を持つシーチキンの命名
    • [21]「油」から機械油を連想させることを避けた命名の理由
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1956年5月 東京営業所を開設(国内販売への転換)
    • [23]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
    • [14]2代目後藤磯吉「輸出は商社を通じて海外に販売される関係上、直接食べてくださるお客様の希望がわれわれにはわからない部分が多くなります……それに輸出は商社のいわば下請けです」
    • [15]2代目後藤磯吉「お客様の望まれるものを少しでも安く提供し、造った製品を自社ブランドで販売していき、そのブランドを育て上げていく」というメーカーの使命観
    • [16]2代目後藤磯吉「外国が相手の輸出では当社ほどの力ではとてもできません」
    • [17]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [18]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られるため、ツナ缶を中心に自社ブランドを開発
    • [19]1958年 米国向け輸出を縮小し「はごろもシーチキン」で国内市場の開拓に着手
    • [22]米国のブランド「チキン・オブ・ザ・シー」を参考にした命名
    • [20]「海のニワトリ」の意味を持つシーチキンの命名
    • [21]「油」から機械油を連想させることを避けた命名の理由

特約店網の組織化と伸びなかった販売

国内で缶詰を売るには店へ届ける経路が要り、後藤罐詰は昭和30年代から他社に先駆けて有力食品卸売業を特約店として組織化し、全国的で強固な販売網を作った[24]。全国の問屋に呼びかけて『はごろも会』を組織し、流通ルートを確立した[25]。1956年に開いた東京営業所はのちに東京支店へ改組され[26]、営業の拠点は西へも伸びた。1961年7月に名古屋営業所、1962年3月に大阪営業所を開設し[27]、1962年10月には静岡県清水市にマカロニ類の製造工場を新設して[28]、缶詰以外にマカロニやスパゲッティの製造も抱えた。

  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [24]昭和30年代から他社に先駆けて有力食品卸売業を特約店として組織化し全国的な販売網を構築
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [25]全国の問屋に呼びかけて「はごろも会」を組織し流通ルートを確立
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1956年開設の東京営業所はのちに東京支店へ改組
    • [27]1961年7月 名古屋営業所・1962年3月 大阪営業所を開設
    • [28]1962年10月 マカロニ類製造工場(パスタプラント)を新設

販売網が整ってもシーチキンそのものは売れず、ツナ缶は国内でほとんど認知されていない商品として、発売から10年近くは鳴かず飛ばず[29]のままだった。単体の売上高は1957年3月期の11億円から1962年3月期に18億円、1963年3月期に19億円、1964年3月期に23億円、1965年3月期に24億円と伸びたが、この伸びは輸出を含む缶詰全体のもので、看板に据えた自社ブランドは家庭の台所に入っていなかった[30]。1965年3月期の従業員は600名で、事業の規模はなお中小企業の域にとどまっていた。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [29]ツナ缶は国内でほとんど認知されず発売から10年近く鳴かず飛ばず
    • [30]自社ブランドのシーチキンは発売後10年近く家庭に浸透しなかった
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [24]昭和30年代から他社に先駆けて有力食品卸売業を特約店として組織化し全国的な販売網を構築
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [25]全国の問屋に呼びかけて「はごろも会」を組織し流通ルートを確立
    • [29]ツナ缶は国内でほとんど認知されず発売から10年近く鳴かず飛ばず
    • [30]自社ブランドのシーチキンは発売後10年近く家庭に浸透しなかった
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1956年開設の東京営業所はのちに東京支店へ改組
    • [27]1961年7月 名古屋営業所・1962年3月 大阪営業所を開設
    • [28]1962年10月 マカロニ類製造工場(パスタプラント)を新設

東海テレビへ投じた6000万円と円高

販売の行き詰まりを破るため、1967年、2代目後藤磯吉氏は東海テレビへ月額1000万円・6カ月契約の広告を出した[31]。当時の売上高は20億円台で、6000万円の広告費は年商の2割から3割にあたる。後藤磯吉氏はこれを当時としては思い切った巨費と呼び、キヨミズの舞台から飛び降りる気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た[32]と述べている。利益がさほど出ていない時期であり、うまく行かなければ命取りになったかもしれない[33]とも振り返った。宣伝の対象には、競合の多い果物缶詰ではなく、自社の商標を持つシーチキンを選んだ[34]

    • [31]1967年 東海テレビへ月額1000万円・6カ月契約の広告を出稿
    • [32]2代目後藤磯吉「当時としては思い切った巨費を投じ、キヨミズの舞台から...という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た」
    • [33]2代目後藤磯吉「そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれないのだが」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [34]自社商標を持つツナ缶を中心に自社ブランドを開発(果物缶詰は原料の季節性が強い)

広告は市場を動かし、テレビCM開始直前の1967年3月期に48缶入り1ケース換算[35]で年3万ケースだったシーチキンの販売量は、5年後に100万ケース、1974年度には250万ケースへ増えた[36]。売上高は1966年度の36億円から10年後に340億円となった[37]。1969年3月期には51億円へ伸び、当期純利益3000万円を計上した。1977年3月期の売上高は340億円、経常利益は5億8000万円だった。1969年7月には商号をはごろも罐詰へ変更し[38]、商標として育てた『はごろも』を社名に据えた。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [35]1ケースは48缶
    • [36]テレビCM開始直前の1967年3月期に年3万ケース→5年後100万ケース→1974年度250万ケース
    • [37]売上高 1966年度36億円→10年後340億円
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1969年7月 商号をはごろも罐詰へ変更

1973年以後、為替相場は変動制へ移り、円は対ドルで上昇を始めた[39]。1978年には1ドル200円を大きく割り込む円高となり、日本製の缶詰は価格の競争力を失って[40]輸出向けのパッカーが打撃を受けた。輸出を失った同業者が国内へ向き直ったとき、静岡の中堅パッカーが『我々が国内市場に目を転じた時には、はごろもがチャネルを押さえてしまった後だった』[引用元]と語る状態になっていた。売上高は1977年3月期の340億円から1979年3月期に423億円、1981年3月期に544億円へ伸び、同期の経常利益は22億2000万円だった。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [39]1973年以後の変動相場制移行と円の対ドル上昇
    • [40]1978年 1ドル200円を大きく割り込む円高で日本製缶詰が価格競争力を喪失
    • [31]1967年 東海テレビへ月額1000万円・6カ月契約の広告を出稿
    • [32]2代目後藤磯吉「当時としては思い切った巨費を投じ、キヨミズの舞台から...という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た」
    • [33]2代目後藤磯吉「そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれないのだが」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [34]自社商標を持つツナ缶を中心に自社ブランドを開発(果物缶詰は原料の季節性が強い)
    • [35]1ケースは48缶
    • [36]テレビCM開始直前の1967年3月期に年3万ケース→5年後100万ケース→1974年度250万ケース
    • [37]売上高 1966年度36億円→10年後340億円
    • [39]1973年以後の変動相場制移行と円の対ドル上昇
    • [40]1978年 1ドル200円を大きく割り込む円高で日本製缶詰が価格競争力を喪失
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1969年7月 商号をはごろも罐詰へ変更

三代目の就任と缶の形を変える依頼

シーチキンの育成に専念するため、はごろも罐詰は鉄工業や木工業など当初持っていた経営資源を手放した[41]。冷凍食品やインスタントコーヒーといった新商品も切り捨て[42]、単一の商標へ資源を寄せた。1976年11月には東北はごろもを設立し、1978年10月にはフィッシュエキス・フィッシュミールの製造工場を新設して[43]、缶詰の製造で出る原料を製品に変える工程を持った。1986年6月、初代後藤磯吉氏の孫にあたる後藤康雄[44]が代表取締役社長に就いた[45]。1971年に味の素へ入り1978年4月にはごろも罐詰へ移り、総務部長・取締役・常務取締役を経ての昇格[46]だった。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [41]シーチキン育成に専念するため鉄工業・木工業など当初持っていた経営資源を手放した
    • [42]冷凍食品・インスタントコーヒーなどの新商品を切り捨てた
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1976年11月 東北はごろもを設立・1978年10月 フィッシュエキス・フィッシュミール製造工場を新設
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [44]後藤康雄は初代後藤磯吉の孫(証券アナリストジャーナル寄稿で「私の祖父が単身渡米して」と記述)
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [45]1986年6月 後藤康雄が代表取締役社長に就任
    • [46]後藤康雄の経歴 1971年味の素入社・1978年4月入社・1980年総務部長・1983年取締役・1985年常務取締役

1987年7月にはペットフード販売の子会社シーエイディを設立し、同年9月に東北はごろもを吸収合併、同年12月には商号をはごろもフーズへ変更した[47]。1988年3月に焼津プラントを移転・新設し、同年6月にはタイのバンコックへ駐在員事務所を開いた[48]

  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1987年7月 子会社シーエイディ設立・同年9月 東北はごろも吸収合併・同年12月 商号をはごろもフーズへ変更
    • [48]1988年3月 焼津プラントを移転・新設/1988年6月 タイ国バンコックに駐在員事務所を開設
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [41]シーチキン育成に専念するため鉄工業・木工業など当初持っていた経営資源を手放した
    • [42]冷凍食品・インスタントコーヒーなどの新商品を切り捨てた
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1976年11月 東北はごろもを設立・1978年10月 フィッシュエキス・フィッシュミール製造工場を新設
    • [47]1987年7月 子会社シーエイディ設立・同年9月 東北はごろも吸収合併・同年12月 商号をはごろもフーズへ変更
    • [48]1988年3月 焼津プラントを移転・新設/1988年6月 タイ国バンコックに駐在員事務所を開設
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [44]後藤康雄は初代後藤磯吉の孫(証券アナリストジャーナル寄稿で「私の祖父が単身渡米して」と記述)
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [45]1986年6月 後藤康雄が代表取締役社長に就任
    • [46]後藤康雄の経歴 1971年味の素入社・1978年4月入社・1980年総務部長・1983年取締役・1985年常務取締役

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はごろもフーズの沿革1947〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1931〜1958年相手先ブランドの輸出加工から自社商標の内需へ清水屋を設立
商号を後藤物産に変更
商号を後藤物産罐詰に変更
商号を後藤罐詰に変更
焼津食品・焼津水産缶詰を吸収合併、焼津プラントを新設★★
輸出依存から内需へ——東京営業所開設と自社ブランド缶詰への転換

1956年、後藤罐詰(現・はごろもフーズ)の2代目後藤磯吉社長が東京営業所を開設し、米英向け輸出に依存した缶詰製造から、自社ブランドによる国内販売主体の事業へ転換した経営判断。

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★★★
後藤漁業を吸収合併
鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録★★
1959〜1988年広告への集中投下による国内流通経路の確保名古屋営業所を開設
大阪営業所を開設
マカロニ類製造工場(パスタプラント)を新設
商号をはごろも罐詰に変更
東北はごろもを設立
フィッシュエキス・フィッシュミール製造工場を新設
後藤康雄ペットフード販売のため子会社シーエイディを設立
後藤康雄東北はごろもを吸収合併
後藤康雄商号をはごろもフーズに変更
後藤康雄焼津プラントを移転・新設
後藤康雄タイ国バンコックに駐在員事務所を開設
1989〜2004年単一ブランドへの依存が限界に達し株式を公開後藤康雄物流体制強化のため子会社セントラル物流を設立
後藤康雄インドネシア国に鮪・鰹缶詰製造の合弁会社(P.T.アネカ・ツナ・インドネシア)を設立
後藤康雄焼津プラント内にチルドプラントを新設
後藤康雄創業から69年を経ての東証2部上場

2000年2月、はごろもフーズが東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1931年の創業から69年、戦後再起の法人設立から53年を経ての株式公開であり、創業家による非公開経営を長く続けた同社にとって資本政策の転換にあたる。

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★★★
後藤康雄包装米飯製造工場(サンライズプラント)を新設
後藤康雄シーエイディを吸収合併
2005〜2025年買収による多角化の挫折と原料相場の直撃後藤康雄乾物メーカー・マルアイ他2社の全株式を44億5000万円で取得

2005年1月24日の取締役会で、はごろもフーズが『花かつお』で知られる削り節メーカーのマルアイと関係会社マルアイ商事・愛食興産の全株式を44億5000万円で取得することを決議し、同年4月1日付で議決権100%を取得した。

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★★★
溝口康博マルアイの販売部門をはごろもフーズとマルアイ商事に事業譲渡し販売体制を再編★★
溝口康博清水プラント跡地にパスタプラントを移転・新設
池田憲一マルアイを吸収合併★★
池田憲一本社を移転
池田憲一品質管理・製品開発体制強化のためHIC(はごろもイノベーションセンター)を開設
後藤佐恵子鮪・鰹缶詰製造工場(新清水プラント)を新設
後藤佐恵子はごろも商事を吸収合併
後藤佐恵子東京証券取引所スタンダード市場に移行
出典・参考

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