創業地兵庫県明石市
創業年1880
上場年1949
創業者中部幾次郎

独立系・個人創業職人・家業・小売からの出発商法・モデル革新で差別化1880年、中部幾次郎氏が兵庫県明石で鮮魚仲買業(林兼商店)を興した。1905年に鮮魚運搬船へ発動機を据えつけて手こぎが主流だった鮮魚流通を一変させ、人より先に設備へ投資する経営で事業を広げた。この先行投資が遠洋漁業・捕鯨への多角化を生み、戦後は大洋漁業として南氷洋捕鯨と北洋漁業で水産日本の全盛を担う。2007年に日魯漁業を源流とするニチロと統合してマルハニチロが生まれ、水産物取扱量で世界最大級・国内冷凍食品最大手へと広がったのち、2026年には社名をUmios株式会社へと改めた。

歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く

1880年〜1945年 明石の鮮魚問屋から発動機船で興した水産業と戦時統制

発動機船が変えた鮮魚流通と林兼商店の勃興

現在のUmios、すなわち長くマルハニチロと呼ばれた企業の源流は、兵庫県明石で魚の運搬問屋を営んだ中部家にさかのぼる[3]。三代目社長となった中部謙吉氏の回想によれば、中部家の祖父の代から鮮魚の運搬問屋を始めて「林屋兼松」と称し、これがのちの林兼商店の起こりであった。丸に「は」を図案化した社標は、この林兼の屋号に由来する[2]。家業を近代的な水産事業へと押し上げたのが五代目にあたる中部幾次郎氏で、同氏はマルハニチロが創業の年と位置づける1880年ごろから鮮魚仲買の道を歩み始めた[1]。明石の魚市場を足場にした小さな商いが、やがて日本を代表する水産会社へと育っていく。

中部幾次郎氏の名を高めたのは、1905年に鮮魚運搬船へ発動機を据えつけた試みである[4]。手こぎの運搬船が主流だった時代に、明石の海岸で建造した十二トンの新生丸へ十二馬力の石油発動機を積み込み、運搬時間を一気に縮めて鮮魚流通に変革をもたらした[5]。着想のもとになったのは、大阪の博覧会で川筋を走った巡航船だったと中部謙吉氏は伝えている。以後は二十五トン、五十トンと船を大型化し、瀬戸内から朝鮮半島へと買い付けの範囲を広げていった。人より先に設備へ投資する経営は、のちに林兼商店が遠洋漁業や捕鯨へ乗り出す拡大の土台となった。

漁業・捕鯨への多角化と一九四三年の国策統合

鮮魚運搬から出発した林兼商店は、大正から昭和初期にかけて自ら漁労を手がける水産会社へと事業を広げ、遠洋漁業やトロール漁業、そして捕鯨へと踏み込んでいった[6]。鮮度と規模で他の沿岸漁業者を引き離す発動機船の優位を漁労にも持ち込み、漁場を朝鮮や南方へと拡張した。魚を運ぶ商いから魚を獲る事業へと主力を移したこの多角化が、戦後に「水産日本」を代表する遠洋漁業会社となる素地を築いた。運搬・漁労・加工を一体で抱える事業構造も、この時期に育ち始めた。国内有数の漁船団を擁する水産会社として、林兼商店は水産大手の一角を占める規模へと成長していった。

太平洋戦争下の1943年、政府の水産統制令によって水産業界の再編が進み、林兼商店の内地水産部門は大洋捕鯨・遠洋捕鯨とともに西大洋漁業統制株式会社へ統合された[7][9]。資本金六千万円で下関市に設立された同社は、捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的に掲げ、戦時下の食料と資源を担う国策会社として発足した[8]。個人商店の色彩を残していた林兼の水産事業は、この統制をもって株式会社の形に移し替えられ、戦後の大洋漁業へと連なる企業の骨格がここで定まった。戦時下の食料・資源統制が、水産業界の再編を促した。

1945年〜1976年 大洋漁業への改称と遠洋漁業・捕鯨で築いた水産日本の全盛

中部家三代の同族経営と南氷洋捕鯨・北洋漁業への活路

敗戦の1945年12月、西大洋漁業統制は西大洋漁業を経て大洋漁業株式会社へと商号を改め、統制会社から民間の水産会社へと再出発した[10]。1949年には本社を東京へ移し、全国規模の遠洋漁業会社としての体裁を整えていく[11]。経営は創業者・中部幾次郎氏の一族が担い、幾次郎氏が1946年に八十歳で世を去ったのち、二代目社長を兄の兼市氏が務め、その後を二男の中部謙吉氏が五十八歳で三代目社長として継いだ[12]。青少年期から父とともに事業を歩んだ謙吉氏のもとで、中部家の同族経営が戦後の拡大期を主導した。創業家の中部家が三代にわたり社長を継いだ時代であった。

戦後の食料難のなか、大洋漁業は動物性たんぱく源の供給を担う遠洋漁業に活路を求めた。連合国軍総司令部の許可のもとで南氷洋捕鯨を再開し、母船式の捕鯨船団を送り出すとともに、北洋のサケ・マス漁にも進出して水産物の量的な拡大を追った[13]。漁船と漁場という海上の資産に資本を集中し、漁獲量の拡大で規模を追う経営が、この時代に定着した。鯨油や鯨肉、缶詰は乏しい食卓を支える貴重な蛋白源となり、遠洋漁業は国家的な食料政策とも重なりながら伸びていった。早く大量に獲って全国へ届けることに、当時の大洋漁業の力は注がれた。

大洋ホエールズと水産最大手としての象徴性

大洋漁業の名は、水産事業の枠を越えて社会に広く知られた。1950年に発足したプロ野球球団の大洋ホエールズはその象徴で、水産日本を代表する企業として同社の名は広く知られていった[14]。全国の食卓に鯨肉や魚肉ソーセージ、缶詰を届ける水産最大手として、大洋漁業は高度経済成長期の日本人の蛋白源を支える存在となった。海の資源を大量に獲り、加工品として全国へ配る事業は、高度成長期の食生活に深く根を下ろした。プロ野球球団の経営もまた遠洋漁業と加工で得た資力に支えられ、大洋漁業の名は野球を通じても全国へ広まっていった。

捕鯨と遠洋漁業で得た水産物は、練り製品をはじめとする加工へも広がり、獲る事業に加工・販売を結びつける総合水産会社への歩みが高度成長とともに進んだ。1961年には肥料・飼料事業を事業目的に加えるなど、水産を軸にした事業の裾野を広げていく[15]。同族経営のもとで漁労を中心に規模を追う経営は、この時期に頂点を迎えた。だが公海の漁場に依存した事業構造は、資源と漁場が制約されれば強みが一転して弱みに変わる不安定さを抱えており、次の時代に到来する国際的な漁業規制が、この弱点を正面から突くことになる。

1977年〜2006年 二百カイリ規制が迫った脱漁業とマルハへの転換

遠洋漁業の斜陽と事業構造の組み替え

1977年に各国が相次いで設定した二百カイリ漁業水域は、公海の漁場を頼みにしてきた大洋漁業の遠洋漁業を直撃した。北洋や南氷洋の漁場が制限され、捕鯨も国際的な規制強化で縮小へ向かうなか、同社は漁労一本足の事業構造からの脱却を迫られた。冷凍食品や練り製品などの加工食品、水産物の買い付けと販売を担う商事、さらにはバイオ技術を用いた養殖研究へと主力を移し、獲る会社から作り売る会社への転換を模索していった[16]。高級マグロの量産をめざす養殖研究など、海の資源を自ら育てて確保する試みも、この時期に始まっている。

この時期の設備投資も加工と研究へ振り向けられた。1983年に宇都宮市で練り製品工場、1985年には調味料・薬品・健康食品の工場が相次いで完成し、1990年にはつくば市へ中央研究所を開設して養殖や食品開発の基盤を整えた[17][18]。かつて漁船に投じた資本を陸上の加工・研究へ振り向けるこの転換が、遠洋漁業会社から食品会社への体質転換を進めた。投資の対象は海上の漁船から陸上の生産・研究設備へと移り、養殖や食品開発の研究とあわせて、冷凍食品や調味料といった加工品が、遠洋漁業に代わる収益源として育っていった。

マルハへの改称と同族から非同族経営への移行

事業の主力が漁業から食品へ移るなか、1993年に大洋漁業は社名をマルハ株式会社へと改めた[19]。丸に「は」の社標を社名そのものに掲げるこの改称は、遠洋漁業のイメージを脱し食品企業として立ち直る意思を映していた。経営の担い手も変わり、中部家の同族経営から、生え抜きの専門経営者へと引き継がれていった。2002年に社長を務めた五十嵐勇二氏は、創業家に属さない非同族の社長として、水産という本業の強みを地道に磨く経営を掲げ、拡大より収益の立て直しに重きを置いた[20]。遠洋漁業の縮小で膨らんだ不採算事業の整理が、五十嵐氏の経営の課題となった。

もっともマルハの経営は安定を欠いた。水産物のトレーディングで利ざやを稼ぐ水産商事が業績の柱だったため利益の振れが大きく、不採算事業をめぐる巨額の特別損失を毎年のように計上して、証券アナリストの業績予想を狂わせる会社として知られた[21]。2004年には株式移転で完全親会社のマルハグループ本社を設立して持株会社体制へ移行し、分散した事業を束ねる持株会社を整えた[22]。本業回帰と収益の安定を模索するマルハだったが、毎年の特別損失に揺れる収益構造を単独で立て直すのは難しく、経営はのちのニチロとの統合へと向かっていった。

2007年〜2026年 ニチロとの統合による総合食品化と世界の水産大手への道

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

マルハとニチロの経営統合とマルハニチロの誕生

2007年10月、水産最大手のマルハグループ本社と業界三位のニチロが経営統合し、マルハグループ本社はマルハニチロホールディングスへ商号を改めてニチロを株式交換により完全子会社化した[23]。統合相手のニチロは、堤清六氏と平塚常次郎氏が北洋のサケ・マス漁と缶詰事業で興した日魯漁業を源流とする水産会社で、北洋漁業の担い手として大洋漁業と並び立ってきた[24]。二社の単純合算の売上高は約九千七百億円に達し、縮む国内市場と減る水産資源を前に「再編は不可避だった」とする経営陣の判断が、水産最大手同士の統合を実現させた[25]。実質はマルハによるニチロの取り込みであり、水産の二強が一つの企業に集約された再編であった。

統合後はグループ内の事業と会社を段階的に整理し、2014年4月にはマルハニチロホールディングスや事業会社のマルハニチロ食品・マルハニチロ畜産などを吸収合併して、事業会社と持株会社を一体化したマルハニチロ株式会社が発足した[26]。同時に東京証券取引所市場第一部へ上場し、水産・食品を束ねる総合食品会社としての姿が定まった[27]。丸に「は」の林兼商店と北洋のニチロという二つの水産史が、2007年の統合から2014年の一体化までの七年を経て一つの事業会社へ合流し、水産・食品を束ねる総合食品会社マルハニチロの体制がここで整った。

アクリフーズ農薬混入事件と信頼の回復

総合食品会社への再編と時を同じくして、マルハニチロは経営を揺るがす事件に見舞われた。2013年12月末、グループ会社アクリフーズの群馬工場で製造した冷凍食品から農薬マラチオンが検出されたと発表し、大規模な自主回収に追い込まれた[28]。翌2014年1月には同工場の契約社員が逮捕され、意図的な混入事件として社会を震撼させた[29]。冷凍コロッケをわずかに口にしただけで健康に影響しうる高濃度の農薬が検出されたことで、発足したばかりの総合食品会社は、品質管理と危機対応の立て直しを初年度から迫られた。

事件の背景には、雪印乳業の冷凍食品部門を出自とし雪印冷凍食品からアクリフーズへと名を変えて2003年にニチロの子会社となり、2007年の統合でマルハニチロのグループへ入ったという複雑な再編の歴史があった[30]。異なる企業風土のグループ会社が並存し、生産ラインの管理や非正規社員の処遇にばらつきが残っていたことが、事件の遠因として指摘された。マルハニチロは社長辞任と品質管理体制の立て直しで再発防止に取り組み、失った信頼の回復に数年を要した。度重なる合併で膨らんだグループを一つの品質基準と企業文化のもとに束ね直すことが、統合後のマルハニチロの課題となった。

冷凍食品と養殖で世界の水産大手へ、そしてUmiosへの改称

事件からの再生は、冷凍食品と養殖という成長領域への集中で進んだ。マルハニチロはニチレイと並ぶ国内冷凍食品の最大手として拡大する市場を取り込み、2018年には社名ロゴを刷新して「マルハ」「あけぼの」「アクリ」に分かれていた商品ブランドを順次統一した[31]。水産物取扱量では世界最大規模を誇り、クロマグロの完全養殖に象徴される「育てる漁業」でも先行して、獲る漁業への依存から資源をつくり管理する事業へと構造を移していった。かつてアナリスト泣かせと呼ばれた業績も特別損失が減って安定感を増し、証券会社のカバレッジも再び付き始めた。

業績は成長軌道に乗り、2023年3月期には売上高が経営統合以来初めて一兆円を超えた。2020年に就任した池見賢社長のもとで「世界一の水産会社」を掲げるパーパスを再定義し、中期経営計画は「Innovation toward 2021」から「海といのちの未来をつくるMNV2024」へと引き継がれた[32]。欧州企業の買収や北米での冷凍食品事業、サーモンの陸上養殖やペットフードへの参入で事業領域を広げ、2025年3月期には売上高一兆七百八十六億円、純利益二百三十二億円と過去最高を更新した。かつて業績の振れに苦しんだ水産商事中心の会社は、食品と養殖を軸に安定して稼ぐ総合食品企業へと姿を変えていった。

2026年3月、マルハニチロは社名をUmios株式会社へと改めた[33]。海を意味する言葉を冠した新社名は、水産を核としながら健康価値の創造と持続可能性を前面に押し出す長期ビジョンの表明であり、同時に始動した中期経営計画「For the ocean, for life 2027」のもとで、漁業の不採算事業からの撤退や北米生産拠点の統合といった構造改革を進めている[34]。明石の鮮魚問屋に発した林兼商店と、北洋の日魯漁業を源流とするニチロという二つの水産史を束ねてきた水産会社は、Umiosの名で新たな段階へ歩み出した。百四十年をこえる漁と食の歴史を土台に、海と人の健康をつなぐ企業への転換を描いている。