歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ

創業地静岡県静岡市
創業年1931
上場年2000
創業者後藤磯吉
現代表-
従業員数677

1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市で「後藤罐詰所」を創業した。当時の清水はアメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰の二大輸出産業が並存する缶詰集積地で、後藤罐詰所も米英向け輸出加工業者として出発した。太平洋戦争による輸出停止と戦時統制経済下の集約で同社は一旦消滅し、1947年に2代目後藤磯吉氏が「後藤物産」を設立して事業を再起させた。

1956年、輸出が好調だった同業の常識に背いて2代目後藤磯吉氏は内需転換を決断し、東京営業所を新設のうえ二次問屋を組織化した独自の販売網「はごろも会」を構築した。1958年に商標登録した「シーチキン」を主力に据え、1967年には年商20〜30億円規模だった当時の社運を賭けて東海テレビへ6,000万円のCMを出稿、肉の代用食としての訴求でシーチキンを家庭に浸透させた。1971年のニクソンショックで清水の輸出缶詰業者が経営難に陥るなかでも内需転換の先見性が奏功し、1981年に売上500億円を突破して国内最大の缶詰メーカーに到達した。

1993年の売上936億円をピークに牛肉輸入自由化で代用食需要が縮小、2000年に東証2部上場したはごろもフーズは2005年にマルアイを44億円で買収して乾物展開を試みたが減損を繰り返し計上し、シーチキン依存からの脱却に至らなかった。2019年に創業家直系の後藤佐恵子社長が就任、新清水プラント投資とSKU絞り込みで一旦は収益を回復させたが、2023年3月期には原料カツオ・ツナ高騰で営業赤字に転落、原材料相場と単一ブランド集中の脆弱性が再露呈した。2031年の創業100周年を控えた新中計「Challenge & Change for 100th!」は、シーチキンの単一ブランド集中というDNAを保ちながら植物由来素材や減塩・低脂質という新カテゴリーへ広げられるかが、はごろもフーズに問われている課題である。

はごろもフーズ:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
はごろもフーズ:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)

API for AI Agents — 静的アセットのJSONで取得可能。API実行の認証不要

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1931年〜1968年 戦前の輸出缶詰業から「シーチキン」内需転換と東海テレビCMによる賭けまで

清水のマグロ油漬缶詰輸出業として誕生

1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市で「後藤罐詰所」を創業した。当時の清水は、アメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰という2つの輸出産業が並存する缶詰の集積地であり、後藤氏も同じく缶詰事業に身を投じた。マグロ油漬缶詰はアメリカで「ツナ」の名称で広く消費されていた商品であり、清水港から缶詰商品を集荷して輸出する業態が成り立っていた。

しかし1941年に始まった太平洋戦争で米英向け輸出は事実上停止し、戦時統制経済下で清水地区の缶詰メーカーは政府主導で統合された。後藤罐詰所もこの統合の渦中で消滅し、戦前期の事業は途絶した。1946年には創業者の初代後藤磯吉氏が急逝し、戦後復興期の事業再開を息子の2代目後藤磯吉氏が引き継ぐことになった。1947年、2代目後藤磯吉氏は静岡県清水市で「後藤物産株式会社」(現・はごろもフーズ)を設立し、1950年には「後藤罐詰株式会社」へ商号を変更した。同時に1950年には清水プラント、1951年には焼津プラントを相次いで新設し、戦前期の主力商品であったアメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰の輸出を再開させた。

戦後復興期の缶詰需要は外貨獲得の主力商品としての性格を帯びており、後藤罐詰も大手水産会社による遠洋マグロ漁業の本格化と歩調を合わせて生産量を拡大した。1956年頃には売上高11億円・従業員数600名規模の中小企業に発展し、清水地区の缶詰メーカー群のなかで一定の地位を確立した。創業から戦後再起までの約25年は、米英の食品市場に依存した輸出加工業者として、原料魚・果実の調達と海外向け缶詰の集荷を主たる事業構造としてきた時期に相当する。

「内需転換」という同業者から見れば不可解な決断

1956年、2代目後藤磯吉氏は事業構造の根本的な転換に踏み切った。同年に東京営業所を新設し、輸出依存から国内販売主体への舵を切る決断である。当時の清水缶詰業界は米英向け輸出が好調だったため、内需に着目した缶詰業者は存在しなかった。同業者からは「無理して苦労しなくても良いのに」と声をかけられたとされ、ライバル各社からは不可解な動きと見られた選択だった。それでも後藤磯吉氏は、メーカーとして独自ブランドを保有することにこだわり、消費者と生産者の距離を縮める意義を重視した。

国内販売を始めるにあたって、後藤罐詰は流通網の設計で独自の判断を下した。国分や明治屋といった大手食品問屋は独自ブランドの缶詰を企画販売しており、後藤罐詰の商品取り扱いを避ける可能性が高かった。そこで二次問屋を特約店として組織化し、各地域のスーパーへ直接アプローチする販売政策を採用した。大手水産メーカーがナショナルホールセラー経由の販路を重視するなかで、地域の二次問屋を束ねる方針は業界の常識を外す動きだった。1981年時点で180の特約店を「はごろも会」として組織化するに至り、東京支店の特約店には島喜・東食・三菱商事・菱食・マルゼン商事・紀伊國屋が並んだ一方、大手老舗の明治屋・国分との取引は持たない構造を維持した。

1955年に商標登録を申請したマグロ油漬缶詰「シーチキン」は、3年後の1958年に商標登録された。「油」という言葉が機械油などを連想させて食品向けに不適だった事情から、「海のニワトリ」を意味する「シーチキン」という名称が選ばれた。フルーツ缶詰についても従来の海外輸出依存から、贈答用セット販売による内需展開を本格化させた。輸出加工業者から独自ブランドを持つ食品メーカーへの転身を、1950年代後半に同時並行で進めた。

6000万円の東海テレビCMと社運を賭けた1967年の決断

1960年代を通じてシーチキンの販売は伸び悩み、二次問屋ルートの構築は完了したものの売上の急拡大には至らなかった。1961年に名古屋営業所、1962年に大阪営業所を相次いで新設し全国流通網を整えたものの、シーチキンというマグロ油漬缶詰自体の家庭への浸透度が低く、料理用途も限定的だった。後藤罐詰は手詰まりの状態に陥った。

この打開策として後藤磯吉氏が1967年に決断したのが、東海テレビへの6000万円のCM出稿である。当時の同社の年商は20〜30億円規模の中小企業であり、6000万円の広告投資は売上の2〜3割に相当する社運を賭けた水準だった。後藤磯吉氏は主力2製品であるシーチキン缶詰とみかん缶詰のどちらを宣伝するか迷い、懇意の取引先に相談した。返ってきた助言は「みかん缶詰は競合会社が多く広告効果が薄いが、シーチキンは独自商標を持つ製品で広告効果が高い」というものだった。後藤磯吉氏は「清水の舞台から飛び降りる」心境でシーチキンへの集中投下を決め、メインバンクの静岡銀行からの借入で広告費を捻出した。

CM制作にあたっても、シーチキンの認知度が低い当時の家庭事情を踏まえ、オムレツなどで肉の代わりにシーチキンを使えるという調理法を提案する構成を採用した。1960年代後半は日本の家庭で食の洋風化が進行する局面にあり、生肉の価格が高いことから代用品としてのシーチキンには追い風が吹いていた。1968年度に売上高は50億円を突破し、当期純利益0.2億円の黒字を確保した。1967年の社運を賭けた広告投資は2年で売上倍増という形で回収され、シーチキンを家庭に浸透させる引き金となった。

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参考文献・出所