1931年に初代後藤磯吉が、静岡県清水市において缶詰メーカーを創業した。戦前の清水では、アメリカ向けのマグロの油漬け缶詰と、イギリス向けのみかんの缶詰の2つ産業が発展しており、初代後藤磯吉氏も缶詰事業に従事した。
ただし、第二次世界大戦の勃発によっって、主要顧客であったアメリカ・イギリスへの輸出が困難になり、同社は清水地区の缶詰メーカとともに統合されて消滅した。
1946年に初代後藤磯吉が急逝した。
そこで、息子であった2代目後藤磯吉は、1947年に後藤物産株式会社(現・はごろもフーズ)を設立した。1950年には後藤罐詰株式会社に商号を変更し、戦前に行っていた「アメリカ向けマグロ油漬け缶詰」と「イギリス向けのみかん缶詰」の海外輸出を再開した。
1956年にはごろもフーズは、東京営業所を新設して「輸出」から「国内販売(内需)」を重視する方向に舵を切った。当時はマグロの油漬け缶詰(アメリカ向け)や、みかんの缶詰(イギリス向け)の海外輸出が好調であり、内需に着目した缶詰業者は存在しなかった。このため、はごろもフーズの後藤磯吉氏は同業者から「無理して苦労しなくても良いのに」と声をかけられたという。
それでも、後藤磯吉氏は、メーカーとして自社ブランドを持つことにこだわり、消費者と生産者の距離を縮めることに意義があると感じ、内需転換を推し進めた。具体的な施策として、1955年に「シーチキン」の商標を登録申請。1956年に東京営業所を新設して、輸出から国内販売に舵を切った。
国内販売にあたって、はごろもフーズは大手問屋ではなく、二次問屋を特約店とする方針を打ち出した。その理由は、国分や明治屋といった大手食品問屋が自社ブランドの缶詰を企画販売しており、はごろもフーズの缶詰販売を避ける可能性があったためである。
はごろもフーズは、各地域の主要な問屋(2次問屋)と直接取引することによって、自社ブランドである「シーチキン」の販売に協力してくれる取引先を販路として開拓していった。大手水産メーカーが国分などのナショナルホールとの取引を重視する中で、はごろもフーズの2次問屋を重視する販売政策は、画期的なものであった。2次問屋とともにはごろもフーズは各地域のスーパーに営業することで、シーチキンの販売に努めた。
なお、1981年時点において、はごろもフーズは180の特約店を組織化して「はごろも会」として運営した。東京支店における特約店は「島喜」「東食」「三菱商事」「菱食」「マルゼン商事」「紀伊國屋」などであり、大手老舗である明治屋や国分とは取引をしていない。
確かに輸出は良かったし、マグロ缶詰のほとんどが輸出向けでした。私どものところも同様だったわけです。しかし、私はメーカーの使命というものを次のように考えているわけです。つまり、お客様の望まれるものを少しでも安く提供し、造った製品を自社ブランドで販売していき、そのブランドを育て上げていく...と。
ところが、輸出は商社を通じて海外に販売される関係上、直接食べてくださるお客様の希望がわれわれにはわからない部分が多くなります。その点がなんとなくもどかしい。それに輸出は商社のいわば下請けです。メーカーである以上、自社ブランドで販売したいわけですが、外国が相手の輸出では当社ほどの力ではとてもできません。
そこで、国内に目を向けたわけです。国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました。
1950年代を通じてアメリカ向けのマグロ油漬缶詰が好調に推移した。1957年頃に、はごろもフーズは売上高11億円・従業員数600名を抱える中小企業に発展した。
1958年にはごろもフーズは、主力製品であったマグロの油漬けについて「シーチキン」のブランドで販売するために商標を登録した。国内販売にあたって「油」という言葉は、機械油などを連想させたため、食品にふさわしい「海のニワトリ」を意味するシーチキンという語呂を採用した。
なお、当時のはごろもフーズでは「シーチキン(マグロの油漬け)」と「フルーツ缶詰(みかん・桃)」を展開していた。フルーツ缶詰に関しても従来はイギリスなどの海外向けが大半であったが、国内の贈答用にセット販売を開始し、内需転換を本格化させた。
なお、シーチキンの商標登録の申請は1955年に行い、3年後の1958年に商標を取得できたことから、それ以降は「シーチキン」のブランドを展開していった。
「海のニワトリ」の意味を持つシーチキンのネーミングは次のような考えからつけました。マグロ油漬缶詰とした場合、食品業界の人であればすぐに食用油を使用していると判断するでしょうが、一般の方は油といえば機械油を連想される向きもあると考えました。それに、缶詰というイメージが良くないんですね。こんな事情から思い切ってシーチキンとしたわけです。
1960年代を通じてシーチキンの販売に取り組むものの、業績が急拡大することはなく、手詰まりの状態にあった。
低迷を打開するために、1967年にごろもフーズ(後藤磯吉・社長)は、6000万円を投資して東海テレビでCMを出稿することを決断した。当時の主力製品は、シーチキンの缶詰と、みかんの缶詰の2つであり、後藤磯吉氏はどちらの製品を宣伝しようか迷っていたという。懇意にしていた取引先に相談した結果、みかんなどのフルーツ系の缶詰は競合会社が多いために広告宣伝の効果が薄いが、シーチキンは独自商標を持つ製品であり広告の効果が高いというアドバイスを受けた。
そこで、後藤磯吉氏は「シーチキン」に絞って広告宣伝を実施する方針を固めた。また、シーチキン(マグロの油漬け)は家庭になじみが薄い製品であったため、シーチキンの調理法(オムレツなどで肉の代わりにシーチキンを使える等)を提案するテレビCMとした。
なお、当時のはごろもフーズの年商は20〜30億円の中小企業であり、莫大な広告宣伝費が必要となるテレビCMに投資することは社運をかける形となった。はごろもフーズのメインバンクは静岡銀行であり、良好な関係であったことから、広告宣伝費を借入調達によって捻出したものと推察される。
それでも、広告の失敗ははごろもフーズの財務体質が悪化することを意味したため、後藤磯吉社長は「清水の舞台から飛び降りる」心境であったという。
月額1000万円、6ヶ月契約---。当時としては思い切った巨費を投じ、キヨミズの舞台から...という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た。そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれないのだが。
1960年代後半を通じて、日本の家庭における「食の洋風化」が進行しつつあった一方で、生肉の価格が高いこともあって、代用品としての「シーチキン」にとって追い風が吹いていた。この結果、はごろもフーズは国内の職の洋風化とともに、シーチキンの売上を伸ばした。
テレビCMの実施によって「シーチキン」の売り上げは順調に拡大し、1968年度には売上高50億円を突破した。当期純利益0.2億円という黒字を確保し、テレビCMへの投資効果を享受した。
1971年からのニクソンショックによって、円高ドル安が進行したため、マグロの油漬け缶詰のアメリカ輸出が壊滅的な打撃を受けた。このため、静岡県清水市に集中していた缶詰の輸出業者の多くが経営難に陥った。
一方で、一足早く内需に転換していた、はごろもフーズは円高ドル安の影響を受けずに事業を遂行。食の洋風化というトレンドに沿って順調に売上高を伸ばしていった。
また、大手水産会社もマグロの油漬け缶詰に参入したが、すでに「シーチキン」という商標が日本国内で認知されていたこともあり、はごろもフーズの牙城を崩すことはできなかった。
1981年にはごろもフーズは売上高500億円を突破し、国内最大の缶詰メーカーに成長した。水産業界では、大手である日本水産などを差し置いて缶詰市場を掌握しており、業界内での下剋上を成し遂げる形となった。
1981年時点の販売面において、はごろもフーズは「はごろも会」を組織化して運営し、全国180の特約店を組織化した。はごろもフーズの営業所は全国10箇所・営業人員170名の体制によって、スーパーなどの小売店に対する販促活動を実施するなど、シーチキンの販売をフォローする体制を作り上げていた。
1993年度に、はごろもフーズは売上高936億円を達成し、大手食品メーカーの目安である1000億円に到達するかに見えた。しかし、牛肉の輸入自由化によって生肉の国内販売価格が下がったことで、肉の代用食としてのシーチキンの需要が頭うちとなった。
この結果、1990年代から2022年の現在に至るまで、はごろもフーズの売上高は長期的な低迷に転じた。
2005年に、はごろもフーズは事業を拡大するために、ギフト向けの乾物(鰹節・海苔)の製造販売を行うマルアイとその関連会社の株式100%を、合計44億円で取得した。一方、マルアイ(名田守善・社長)は「後継者がいない」ことに悩んでおり、事業売却を決めた。
マルアイはギフト向けの「花かつお」で認知度の高い企業であった。また、この買収によって、製造拠点として熱田工場(名古屋)および木曽岬工場(三重県桑名市)が加わる形となった。
買収直後のFY2005におけるマルアイの業績は、売上高118億円・経常利益2.4億円であり、低収益な構造に課題があった。
はごろもフーズは、2012年3月期と2013年3月期の2期連続で最終赤字(累計26億円)に転落した。
パスタ事業においては、2014年3月期に収益性低下を理由に生産設備の減損損失を計上した。
乾物事業においては、2005年に株式取得したマルアイは、ギフト向けの事業を展開していたが経営不振のままであった。2010年3月期にはマルアイが最終赤字に転落するなど、はごろもフーズの収益を支えるに至らなかった。
このため、はごろもフーズは頻繁にマルアイの生産設備の減損を実施した。マルアイの設備の減損について、2013年3月期に6.3億円、2014年3月期には1.3億円、2017年3月期には2.2億円を計上した。
この結果、旧マルアイ関連で累計9.8億円の減損損失を計上した。また、2016年にはのマルアイをはごろもフーズに吸収合併しており、救済する形をとったと推察される。
2015年に池田憲一氏が代表取締役社長に就任した。池田氏は、後藤康雄(代表取締役会長)の娘婿であり、三井物産を経て2007年にはごろもフーズに入社した。また、後藤康雄氏は引き続き代表取締役会長を歴任し、代表取締役は池田社長と後藤会長の2名体制となった。
2016年に池田社長は、収益改善の施策として主力製品である「シーチキン」を2.2〜6.1%値上げを決定。さらに、役員報酬を10〜15%、従業員の給与を5〜10%削減する方針を決めた。
2018年にはごろもフーズは、SKU(製品数)について「大胆に削減する」という方針を発表した。
2019年に体調不良によって池田憲一(後藤康雄会長の娘婿)が社長を退任したこと受けで、後藤佐恵子氏(後藤康雄会長の長女・味の素→マッキンゼー→同社)がはごろもフーズの代表取締役社長に就任した。後藤佐恵子氏はスタンフォード大学のMBAに留学した女性社長として、注目を集めた。
なお、引き続き、後藤康雄氏が代表取締役会長を歴任しており、はごろもフーズは創業家である後藤家による経営体制の色が濃くなった。
SKUの絞り込みによって、はごろもフーズは収益性を改善。2020年3月期には営業利益30億円(前年度比+2倍)を計上した。
2021年に、はごろもフーズは会計における販売奨励金の収益認識を変更し、販売奨励金については売上高に含めない方針に変更した。それまでは毎年170億円前後の販売奨励金を販管費として計上してきたが、2021年以降は約150億円分を売上に計上しない方針に変更した。
この結果、2021年3月期にはごろもフーズは約150億円の売上高が減少し、売上高の計上金額が取引の実態に沿う形となった。販売奨励金は、小売店向けの値下げの原資であることから、はごろもフーズの商品に競争力がなく、値下げ圧力にさらされていることを意味する。