創業1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市で「後藤罐詰所」を創業した。当時の清水はアメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰が並ぶ輸出缶詰の集積地で、後藤罐詰所も清水港から缶詰を集荷して米英へ納める輸出加工業者だった。需要も商標も海外の流通に握られ、原料魚の調達と缶詰の集荷を請け負う立場にとどまる。太平洋戦争と戦時統制で事業は一度消え、1947年に2代目後藤磯吉氏が後藤物産株式会社を設立して再起した。
決断輸出がまだ好調だった1956年、2代目後藤磯吉氏は同業者が誰も向かわなかった国内販売へ主力を移した。大手問屋に扱いを断られると見て、二次問屋を特約店「はごろも会」として束ね、自前の販路を引く。商標「シーチキン」を持つメーカーへ転じ、製品も売り先も自分の手に握った。年商の2〜3割にあたる広告費をテレビCMに投じてマグロ缶を肉の代用食として家庭に広げ、原料は大手水産会社に頼りつつ缶詰市場で首位を奪った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1956年、輸出が好調ななかで国内販売へ転換したのか
- A 輸出が好調なほど米英の流通と為替に需要を握られ、独自商標を持たぬ集荷請負では値も売り先も他者が決めた。2代目後藤磯吉氏は1956年、メーカーとして自分の商標と販路を持つことを優先し、同業者が誰も向かわなかった国内販売へ主力を移した。同年に東京営業所を開き、大手問屋に断られると見て二次問屋を特約店として束ねた。1958年に「シーチキン」を商標登録し、原料魚は大手水産会社に頼りつつ、売り先と商標を自分の手に収めた。
- Q なぜ1967年、年商の2〜3割にあたる広告費をシーチキンに集中投下したのか
- A 二次問屋ルートを引き終えてもシーチキンの家庭への浸透は進まず、料理用途も限られて販売は伸び悩んだ。打開のため後藤磯吉氏は1967年、東海テレビへ6000万円のCMを出した。当時の年商20〜30億円規模では売上の2〜3割にあたる賭けで、みかん缶ではなく独自商標のシーチキンを選んだのは広告効果が高いと見たためである。肉が割高な家庭向けに「肉の代用」を訴え、1968年度に売上は50億円を超えて2年で倍増し、賭けを回収した。
- Q なぜ2020年前後、シーチキンの名を残したまま48億円投資と大豆原料へ動いたのか
- A 1991年の牛肉輸入自由化で生肉が安くなり、肉の代用というシーチキンの値ごろ感が後退し、1993年前後をピークに売上は800億円台で長く停滞した。2022年以降は原料カツオ・ツナの相場高騰が単一事業の収益を直撃し、2023年3月期は最終損失13.2億円に転落した。後藤佐恵子社長は池田憲一前社長が決めた48億円の新清水プラントを2020年に動かして生産を更新する一方、相場と環境配慮の両にらみで「大豆でつくったシーチキン」を投入した。看板の名を残し、原料を魚から大豆へ替えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1931年〜1968年 戦前の輸出缶詰業から「シーチキン」内需転換と東海テレビCMによる賭けまで
清水のマグロ油漬缶詰輸出業として誕生
1931年、初代後藤磯吉氏が静岡県清水市で「後藤罐詰所」を創業した[1][2]。当時の清水は、アメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰という2つの輸出産業が並存する缶詰の集積地であり、後藤氏も同じく缶詰事業に身を投じた。マグロ油漬缶詰はアメリカで「ツナ」の名称で広く消費されていた商品であり、清水港から缶詰商品を集荷して輸出する業態が成り立っていた。
しかし1941年に始まった太平洋戦争で米英向け輸出は事実上停止し、戦時統制経済下で清水地区の缶詰メーカーは政府主導で統合された。後藤罐詰所もこの統合の渦中で消滅し、戦前期の事業は途絶した。1946年には創業者の初代後藤磯吉氏が急逝し、戦後復興期の事業再開を息子の2代目後藤磯吉氏が引き継いだ。1947年、2代目後藤磯吉氏は静岡県清水市で「後藤物産株式会社」(現・はごろもフーズ)を設立し、1950年には「後藤罐詰株式会社」へ商号を変更した[3]。同時に1950年には清水プラント、1951年には焼津プラントを相次いで新設し、戦前期の主力商品であったアメリカ向けマグロ油漬缶詰とイギリス向けみかん缶詰の輸出を再開させた[4]。
戦後復興期の缶詰需要は外貨獲得の主力商品としての性格を帯びており、後藤罐詰も大手水産会社による遠洋マグロ漁業の本格化と歩調を合わせて生産量を拡大した。1956年頃には売上高11億円・従業員数600名規模の中小企業に発展し、清水地区の缶詰メーカー群のなかで一定の地位を確立した。創業から戦後再起までの約25年は、米英の食品市場に依存した輸出加工業者として、原料魚・果実の調達と海外向け缶詰の集荷を主たる事業構造としてきた時期に相当する。
「内需転換」という同業者から見れば不可解な決断
1956年、2代目後藤磯吉氏は事業構造の根本的な転換に踏み切った[6]。同年に東京営業所を新設し、輸出依存から国内販売主体へ販売方針を変える決断である[5]。当時の清水缶詰業界は米英向け輸出が好調だったため、内需に着目した缶詰業者は存在しなかった。同業者からは「無理して苦労しなくても良いのに」と声をかけられたとされ、ライバル各社からは不可解な動きと見られた選択だった。それでも後藤磯吉氏は、メーカーとして独自ブランドを保有することにこだわり、消費者と生産者の距離を縮める意義を重視した。
国内販売を始めるにあたって、後藤罐詰は流通網の設計で独自の判断を下した。国分や明治屋といった大手食品問屋は独自ブランドの缶詰を企画販売しており、後藤罐詰の商品取り扱いを避ける可能性が高かった。そこで二次問屋を特約店として組織化し、各地域のスーパーへ直接アプローチする販売政策を採用した。大手水産メーカーがナショナルホールセラー経由の販路を重視するなかで、地域の二次問屋を束ねる方針は業界の常識を外す動きだった。1981年時点で180の特約店を「はごろも会」として組織化するに至り、東京支店の特約店には島喜・東食・三菱商事・菱食・マルゼン商事・紀伊國屋が並んだ一方、大手老舗の明治屋・国分との取引は持たない構造を維持した。
1955年に商標登録を申請したマグロ油漬缶詰「シーチキン」は、3年後の1958年に商標登録された[7]。「油」という言葉が機械油などを連想させて食品向けに不適だった事情から、「海のニワトリ」を意味する「シーチキン」という名称が選ばれた[8]。フルーツ缶詰についても従来の海外輸出依存から、贈答用セット販売による内需展開を本格化させた。輸出加工業者から独自ブランドを持つ食品メーカーへの転身を、1950年代後半に同時並行で進めた。
6000万円の東海テレビCMと社運を賭けた1967年の決断
1960年代を通じてシーチキンの販売は伸び悩み、二次問屋ルートの構築は完了したものの売上の急拡大には至らなかった。1961年に名古屋営業所、1962年に大阪営業所を相次いで新設し全国流通網を整えたものの、シーチキンというマグロ油漬缶詰自体の家庭への浸透度が低く、料理用途も限定的だった[9]。後藤罐詰は手詰まりの状態に陥った。
この打開策として後藤磯吉氏が1967年に決断したのが、東海テレビへの6000万円のCM出稿である[10]。当時の同社の年商は20〜30億円規模の中小企業であり、6000万円の広告投資は売上の2〜3割に相当する社運を賭けた水準だった。後藤磯吉氏は主力2製品であるシーチキン缶詰とみかん缶詰のどちらを宣伝するか迷い、懇意の取引先に相談した。返ってきた助言は「みかん缶詰は競合会社が多く広告効果が薄いが、シーチキンは独自商標を持つ製品で広告効果が高い」というものだった。後藤磯吉氏は「清水の舞台から飛び降りる」心境でシーチキンへの集中投下を決め、メインバンクの静岡銀行からの借入で広告費を捻出した。
CM制作にあたっても、シーチキンの認知度が低い当時の家庭事情を踏まえ、オムレツなどで肉の代わりにシーチキンを使えるという調理法を提案する構成を採用した。1960年代後半は日本の家庭で食の洋風化が進行する局面にあり、生肉の価格が高いことから代用品としてのシーチキンには追い風が吹いていた。1968年度に売上高は50億円を突破し、当期純利益0.3億円の黒字を確保した。1967年の社運を賭けた広告投資は2年で売上が倍増して回収され、シーチキンを家庭に浸透させる引き金となった。
1969年〜1999年 ニクソンショックで内需転換が奏功してから「シーチキン依存」のピークアウトまで
内需転換が奏功し他社を引き離した1970年代
1971年のニクソンショックによる円高ドル安進行は、清水地区のマグロ油漬缶詰輸出業者を直撃した。アメリカ向け輸出が壊滅的打撃を受けた結果、輸出依存の缶詰業者の多くが経営難に陥った。一方で1956年から内需転換を進めてきたはごろもフーズは、円高の影響をほぼ受けずに事業を継続できた。1956年の内需転換決断から15年を経て、その先見性が経営継続力として結果を出した時期である。
大手水産会社もマグロ油漬缶詰市場への参入を試みたが、すでに「シーチキン」の商標と認知度が国内市場で確立していたため、はごろもフーズの牙城を崩すことはできなかった。日本水産・極洋・マルハといった大手水産メーカーは遠洋漁業による原料供給では業界首位を占めていたが、加工缶詰の小売市場ではブランド先行のはごろもフーズに後塵を拝した。家庭向けマグロ油漬缶詰という限定された市場で、はごろもフーズは1970年代を通じて最大のシェアを握った。
1981年、はごろもフーズは売上高500億円を突破し、国内最大の缶詰メーカーに成長した。水産業界の階層構造から見れば、原料調達では大手水産会社に依存する立場でありながら、缶詰加工市場では業界首位を奪取する下剋上の構図が成立した。営業面でも全国10ヶ所の営業所・営業人員170名体制を構築し、180の特約店を「はごろも会」として組織化する販売網を完成させた。1981年から1986年にかけては、1956年に始まった内需転換と1967年のテレビCM決断、そして1958年のシーチキン商標確立という3つの戦略判断が複利で効き、売上高500億円・国内最大の缶詰メーカーという地位を築いた時期である。
「シーチキン依存」が露呈した1993年の限界点
1986年6月、創業家3代目の後藤康雄氏が社長に就任した。2代目後藤磯吉氏の次男であり、慶応大学経済学部卒業後に味の素を経て1978年に同社へ入社した経歴を持つ。翌1987年には商号を「はごろもフーズ」に変更し、戦前の屋号「後藤罐詰所」以来の社名を刷新した[11]。後藤康雄社長の在任中(1986〜2007年)に注力されたのが、EO缶(イージーオープン缶)の開発と普及である。缶切り不要の蓋構造を主力商品に投入し、家庭向け缶詰の利便性を一段引き上げた。
1993年度ははごろもフーズの売上高が936億円を達成し、大手食品メーカーの目安である1,000億円の大台に届くかに見えた局面である。しかし同年前後の牛肉輸入自由化(1991年)によって国内の生肉価格が下落し、肉の代用食としてのシーチキンの相対的な価格優位性が後退した。シーチキンというマグロ油漬缶詰は、1960年代後半から1980年代までは生肉より割安な家庭向けタンパク源として需要を伸ばしてきたが、1990年代以降は牛肉の家庭普及によって代用食としての位置付けを失った。1993年が事実上のピークとなり、その後の同社の売上高は2025年に至るまで800億円台前後で長期停滞した。
シーチキン依存のピークアウトは、創業以来の「単一ブランド集中」戦略の限界を示すものでもあった。1958年の「シーチキン」商標登録以来、はごろもフーズの売上の大半はマグロ油漬缶詰という1カテゴリーに集中していた[12]。1967年のテレビCMによる集中投下の成功体験が単一ブランドへの集中を支えてきたが、シーチキン以外のカテゴリーへの展開は限定的だった。1997年3月期には最終赤字1億円を計上して赤字転落し、1990年代後半の業績低迷が顕在化した。1956年以来の内需転換と「シーチキン」一本足経営の構造的限界が、牛肉輸入自由化という外部要因によって表面化した時期である。
2000年東証2部上場と非公開企業からの脱皮
1990年代を通じて売上の長期低迷と最終赤字計上に直面したはごろもフーズは、2000年2月に東京証券取引所第2部に株式上場を果たした[13]。創業から69年、戦後再起の後藤物産設立から53年を経ての上場であり、同業の食品メーカーと比較しても遅い時期の市場登場だった。日清食品(1963年上場)、味の素(1949年上場)、雪印(1950年上場)と比べても半世紀近い遅れがあり、創業家による非公開経営を長期にわたって維持してきた経緯が浮かび上がる。
上場後の株主構成は、はごろも教育研究奨励会(公益財団法人、創業家関連)が42.53%、はごろも高翔会(従業員持株会的組織)が7.07%、後藤康雄会長が6.3%(FY15時点)と、創業家とその関連団体で過半を握る構造で出発した。一般株主の比率は限定的で、公開企業でありながらガバナンス上は同族会社の性格を強く残した。資本市場からの規律と創業家経営の継続を両立させる構造であり、2025年時点でも教育研究奨励会46.67%・はごろも高翔会9.64%という構成は維持されている。
上場と並行して、はごろもフーズは2005年に乾物メーカー「マルアイ」とその関連会社の株式100%を44億円で取得した[14]。マルアイは「花かつお」で認知度の高い鰹節・海苔メーカーで、製造拠点として熱田工場(名古屋)と木曽岬工場(三重県桑名市)を持っていた。買収直後のマルアイの業績は売上高118億円・経常利益2.4億円と低収益で、当初から収益性に課題を抱えていた。シーチキン依存からの脱却と乾物ギフト市場への参入という構想だったが、買収後の業績改善は進まなかった。
2000年〜2025年 マルアイ買収の失敗と新清水プラント、後藤佐恵子社長による再建
2005年マルアイ買収という多角化の挫折
2005年のマルアイ買収は、シーチキン依存を脱却して乾物・ふりかけ事業へ多角化する戦略の柱だった。買収後、はごろもフーズはマルアイの生産設備に対する減損損失を繰り返し計上した。2013年3月期に6.3億円、2014年3月期に1.3億円、2017年3月期に2.2億円の減損を計上し、旧マルアイ関連で累計9.8億円の減損損失を積み上げた。買収対価44億円に対して累計減損が約2割に達した計算であり、買収判断の収益面での誤算が長期にわたって決算に現れた。
2017年4月にはマルアイをはごろもフーズに吸収合併し、独立子会社としての存続を断念した[15]。買収から12年、減損損失を断続的に計上したうえでの本体への取り込みであり、ギフト向け乾物事業の独立収益化が機能しなかった結果である。マルアイブランドそのものは存続したものの、独立法人としての事業運営は維持できなかった。2005年の44億円買収という多角化判断は、シーチキン依存を脱却するための時間軸の長い投資として位置付けられたものの、買収先の事業基盤が脆弱だったため、はごろもフーズの収益性向上には結びつかなかった。
並行してはごろもフーズは、2007年に老朽化した清水プラントの閉鎖を決定し、2期連続の最終赤字に転落した。創業以来の主力工場であった清水プラントは、1950年の新設から半世紀を超えて老朽化が進行しており、生産効率と品質管理の両面で限界を迎えていた。2007年6月には3代目の後藤康雄社長が代表取締役会長に退き、創業家以外として初めての社長となる溝口康博氏が専務取締役から昇格した。創業家による直接経営が一旦切れ、専門経営者による事業構造改革が始まった局面である。
池田憲一氏の収益改善と新清水プラント48億円投資
2015年4月、5代目社長として池田憲一氏が就任した。池田氏は後藤康雄会長の娘婿であり、三菱商事を経て2007年4月にはごろもフーズへ入社した経歴を持つ。専務取締役・副社長を経ての社長昇格で、創業家との縁戚関係を持つ専門経営者という位置付けだった。代表取締役は池田社長と後藤康雄会長の2名体制となり、創業家のガバナンス保持と専門経営者による事業運営の組み合わせが採用された。
池田社長は就任初年度の2016年に、主力製品シーチキンの2.2〜6.1%値上げ、役員報酬10〜15%削減、従業員給与5〜10%削減という収益改善策を実施した。長期低迷した売上構造のなか、価格改定と人件費削減を組み合わせて収益性を改善する判断である。並行して2017年には新清水プラントの新設を決定し、48億円の投資を決断した。創業以来の主力工場であった旧清水プラントを2020年に置き換える形で、生産効率と品質管理水準を一段引き上げる狙いだった。
2018年にはSKU(製品数)の「大胆な削減」方針を発表し、収益性の高い製品への絞り込みを進めた。シーチキンを軸にしつつ、ふりかけ・パスタ・調理品の主力品をブランド戦略強化の対象に据え、収益性の低い周辺カテゴリーを順次縮小する方針である。FY19(2020年3月期)には営業利益30.7億円を計上し、FY18の15.6億円から約2倍に改善した。1990年代以降の長期停滞のなかで、池田社長時代に収益性の構造的改善が一定程度進んだ局面である。しかし2019年10月、池田社長は体調不良を理由に退任し、特別顧問へ退いた。在任4年半での退任であり、新清水プラント稼働を見ずに経営から離れる結果となった。池田前社長が掲げた収益改善路線は次代に引き継がれた。
後藤佐恵子社長と「Challenge & Change for 100th!」
2019年10月、6代目社長として後藤佐恵子氏が就任した。後藤康雄会長の長女であり、慶応大学卒業後に味の素・スタンフォードMBA・マッキンゼーを経て2004年に同社へ入社した経歴を持つ、創業家直系の女性社長である。1931年創業以来初の女性トップであり、創業家による直接経営の復活でもあった。前任の池田前社長が後藤会長の娘婿だった構造から、創業家の血縁による直接後継への移行である。
後藤佐恵子社長は就任後、池田前社長時代に決定された新清水プラント(48億円投資)を2020年に稼働させ、SKU絞り込みによる収益改善路線を継承した[16]。コロナ禍の2020〜2021年には家庭内食需要の拡大でシーチキン・パスタの家庭用が伸長し、FY20(2021年3月期)の営業利益は34.1億円と過去最高水準を更新した。一方で2021年には会計上の販売奨励金の収益認識方法を変更し、約150億円分を売上から差し引く処理に移行した。それまで毎年170億円前後の販売奨励金を販管費として計上してきたが、IFRSの収益認識基準への対応で売上に含めない処理へ切り替えた。販売奨励金が小売店向け値下げの原資であるという事業構造を、決算書上で明示的に示す変更となった。2022年3月期からは原料カツオ・ツナの相場高騰、エネルギー・物流費の上昇という外部環境の悪化に直面した。複数回の価格改定で対応したものの、FY22(2023年3月期)には営業損失11.3億円・最終損失13.2億円に転落した。マルアイ関連の減損11.9億円が特別損失として計上された影響もあり、シーチキン主力の単一事業構造のもとで原材料相場の影響を直接受ける収益体質の脆弱性が表面化した。
2024年度から始まった新中期経営計画「Challenge & Change for 100th!」(2024〜2026年度)は、2031年の創業100周年に向けたブランド価値向上を中核に据えている。中計2年目の中間報告では、シーチキン新シリーズ「ぶし若丸」やのり弁慶ふりかけの拡張、減塩・低脂質訴求の新製品展開を柱に据えた。植物由来素材を使った「大豆でつくったシーチキン」の本格投入も、原料カツオ・ツナ相場のリスクヘッジと環境配慮の双方を意図したカテゴリー拡張である。FY24(2025年3月期)の連結売上高は746.5億円、営業利益28.5億円と、FY22の赤字から2年で営業黒字水準を回復させた。創業94年を経たはごろもフーズが直面している論点は、1958年の「シーチキン」商標確立以来、単一ブランドへの集中投下で築いた競争優位を、原料相場と消費トレンドの変化のなかでどう更新するかという問いに集約される。1956年の内需転換、1967年のテレビCM投下、1981年の業界首位、1993年のピークアウト、2005年のマルアイ買収の挫折、2020年の新清水プラント稼働を経て、2031年の創業100周年を控えた次の中期構想は、シーチキンというDNAを保ちながら、植物由来素材や減塩・低脂質という新カテゴリーへ展開を伸ばせるかが焦点である。