明治政府は1897年に遠洋漁業奨励法を公布し、漁船・漁具・乗組員への補助金で沖合遠洋漁業への転換を促した。汽船トロール漁業はその奨励に乗った新技術で、1908年に長崎の倉場富三郎氏が英国から購入した鋼製トロール汽船"深江丸"が好成績をあげると、久原庄三郎の子に生まれた田村市郎氏が、大阪鉄工所桜島工場で国産第一号の鋼製トロール汽船"第一丸"(199総トン)を建造した。ところが第一丸の瀬戸内海での試験操業は期待した成果に届かず、田村市郎氏は差を設計と漁法の未熟さと判断し、1910年7月、造船監督として国司浩助氏を英国へ派遣した。国司浩助氏がスミス造船所へ発注した188.84総トンの船は1911年3月に竣工し、湊丸と名付けて自ら乗り込み、2カ月余りで回航した。湊丸の到着とともに1911年5月、田村市郎氏は下関に田村汽船漁業部を興し、国司浩助氏を責任者としてトロール漁業の経営に着手した。
トロール漁業は1912年に船数139隻へ膨らみ、漁獲物の供給が需要を上回って各社の経営が悪化した。窮状に対処する企業合同で、1914年に資本金200万円・トロール漁船25隻の共同漁業が創立された。第一次大戦が始まると各社は持ち船を掃海用や潜水艦の見張り用として欧州諸国へ高く売り、1917年には国内のトロール汽船が7隻を残すだけとなった。共同漁業も船の売却で思いがけない利益をあげて1917年に14割の配当を実施したが、経営規模は縮み、1918年には資本金を30万円へ減資した。田村市郎氏はこの縮んだ共同漁業の株式の大半を手に入れ、1919年、自ら経営してきた日本トロールを吸収合併して資本金500万円の共同漁業とした。翌1920年2月には国司浩助氏の発案で、日本初の民間水産研究機関となる早鞆水産研究会を下関に設け、ディーゼルトロール船の導入と船内急速冷凍装置の開発にあたらせた。
共同漁業は大正から昭和初期にかけて、手繰漁業や冷凍・冷蔵・問屋・陸上運送・製函を営む諸社を吸収合併あるいは傘下に収めて組織を広げた。1929年11月には漁業根拠地を下関から戸畑へ移すと発表し、1930年に移転を完了して、わが国資本漁業の最大手となった。もっとも規模の拡大は収益の拡大に直結せず、利益金は1930年下期の111万円を頂点に1931年下期の82万円へ減り、昭和恐慌下で2割を超えて減少した。資本金は1926年の574万円から1933年6月に1500万円へ積み増され、株主数も1927年の447名から1354名へ増えたが、利益金は1932年から1934年上期まで86万〜95万円の水準で足踏みした。
久原鉱業では1926年、田村市郎氏の弟にあたる社長の久原房之助氏が政界へ移るため辞意を表し、鮎川義介氏が後任社長に迎えられた。鮎川義介氏は1928年に久原鉱業を持株会社へ改組して日本産業と改称し、日産コンツェルンへ育てた。共同漁業では1933年に松崎社長が退き、会長に鮎川義介氏、社長に田村啓三氏が就任した。翌1934年、本社を神戸から東京へ移したうえで、共同漁業は日本産業に合併された。日本産業は同年6月に系列水産会社を統べる水産部を設置し、トロール部門を傍系の豊洋漁業へ譲渡させ、豊洋漁業は資本金を1000万円へ増資して7月に社名を共同漁業へ改めた。田村市郎氏が個人で興した会社は、創業から23年で財閥の水産部門となった。
日本産業は1934年5月、南氷洋捕鯨のため資本金2000万円の日本捕鯨を設立し、捕鯨母船アンタークチック号を買い図南丸と改めた。南氷洋はノルウェーと英国が先行しており、国際協定の前に自国の勢力を広げる必要があった。日本産業は水産各社の合同も進め、1936年9月、北洋の母船式蟹漁業をほぼ独占していた日本合同工船と、この日本捕鯨を共同漁業へ合併させた。共同漁業は1937年1月に旧中央水産販売所の事業全部を引き継ぎ、同年3月には製氷・冷凍・冷蔵と缶詰を営む日本食料工業を合併して資本金を9150万円とし、社名を日本水産へ改めた。この結果、トロール漁業は許可70隻のうち61隻を占め、南氷洋捕鯨は図南丸以下3船団、母船式蟹漁業は蟹母船12隻、製氷・冷凍は約300工場を傘下に収め、全国の約6割の勢力となった。1938年9月には母船式フィッシュミール事業の新興水産を合併し、資本金は9300万円となった。
1937年の改称で日本水産は、トロール漁業・以西底曳網漁業・母船式蟹漁業・母船式捕鯨業・近海捕鯨業といった資本漁業に加え、製氷・冷凍・冷蔵と水産加工、水産物の販売、それらに関連する投資の4部門を持つ会社となった。1940年の規模は役員27名、陸上勤務者6100名と海上勤務者7100名を合わせた従業員13227名、所有船舶237隻・総トン数14万4千トンで、事業地は内地のほか朝鮮・台湾・中国全土に及んだ。投資会社は1927年の10社から157社へ増え、内訳は漁業関係13社、製氷冷蔵関係59社、販売関係45社、加工関係9社、その他31社だった。株主数は1937年1月の32893名から1938年1月に26064名へ減った。
日中戦争による影響は少なく好調を持続していたが、1943年3月、水産統制令にもとづき、日本水産の漁撈部門を中心に日本海洋漁業統制が設立された。製氷・冷凍・冷蔵と販売の部門は帝国水産統制へ移され、こちらは戦後の日本冷蔵、現在のニチレイとなった。日本海洋漁業統制は資本金9426万2000円の純然たる漁撈会社として再出発し、社長には植木憲吉氏が就任した。統制令は、漁って獲る部門と、獲ったものを冷やして売る部門とを別会社へ切り分け、日本水産は前者だけを担う会社として戦時経済に組み込まれた。
太平洋戦争の激化とともに、漁船の徴用と沈没、従業員の召集、資材の不足が重なって生産は減少し、遠洋漁業の操業海面が戦場となり内地の空襲が激しくなると生産は激減した。最盛時に257隻・約13万6000トンを保有していた船舶は、終戦時には75隻・約2万トンとなった。隻数で7割、船腹量で8割以上を失った勘定になる。捕鯨母船の第二図南丸は1944年8月に南シナ海で沈み、笠戸丸・遼海丸・駿河丸をはじめとする55隻のトロール船は1隻も還らなかった。判明しているだけで従業員681名が戦没している。漁業許可も漁場の知識も残ったが、それを使う手段である船が消えた状態で、日本水産は終戦を迎えた。
1945年12月、水産統制令の廃止とともに商法上の株式会社へ戻り、社名も日本水産へ復した。ただし同じ月に制限会社の指定を受け、翌1946年8月には特別経理会社、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定対象となった。マッカーサーラインが漁区を制限し、経営は困難を極めた。戦前に株式を集中保有していた日産系の持株構造は財閥解体で分解され、創業者の田村家も経営には戻らなかった。1949年6月に増井進氏の後を受けて代表取締役となった鈴木九平氏が1950年6月に社長へ就任し、創業家でも財閥でもない経営者が会社を率いた。
戦後の日本水産を動かしたのは、どこで獲るかではなく、限られた船をどこへ向けるかという問いだった。終戦時に残ったのは隻数で3割、トン数で14%の老朽船にすぎず、建造は制限会社の指定で止められていた。1946年の第1次建造許可で得た船は14隻、同じ許可で161隻を得た大洋漁業との差が、そのまま出発点の差になった。それでも連合軍最高司令部が認めた南氷洋捕鯨の1船団へ、日本興業銀行から借りた1億9千万円を注ぎ込み、捕鯨が総売上の6割を超える数年をつくった。獲る場所を選べない会社が、選べる一点へ資本を寄せて立ち直る形を、ここで覚えたのである。
この形は、獲る量を決めるのが自社でなくなるほど脆くなる。母船式サケ・マス漁業の許可は独航船を何隻集めたかで決まり、各社は船主へ出漁資金や建造資金を貸して船を囲い込んだ。ところがブルガーニン・ラインに続く日ソ漁業条約が漁獲量の上限を定めると、集めた船団は3年で12万トンから6万7,500トンへ切り縮められる。中井春雄氏が334億円を投じた体質改善5カ年計画が、晴海と八王子の工場へ94億円を割いたのは、獲る量が交渉で決まる事業だけでは会社が立たないと見たからだろう。1976年に捕鯨を日本共同捕鯨へ委ねたとき、船へ集めてきた資本は初めて陸へ渡された。
敗戦の翌1946年に6万5千隻・34万2千トンまで落ちた日本の動力漁船は、1950年には12万7千隻・90万9千トンとなり、戦前の水準を超えた。戦時中の操業船減少で資源が温存され、食糧難で魚価が高騰したことが業界の復興を早めた。ところが日本水産が1940年の237隻・14万4千トンという船腹へ戻るのは、おおむね1958年以降のことである。終戦時に残った船は隻数で3割、トン数では14%にすぎず、しかも老朽船ばかりだった。満州・北支・中支・南支・台湾にあった営業所と子会社を一挙に失い、在外資産の損害は当時の簿価で約3千万円にのぼった。1945年12月に制限会社、翌1946年8月に特別経理会社の指定を受け、資産の売却も資金の借り入れも大蔵大臣の許可なしにはできなくなった。この制約が戦後の出遅れの最大の原因となった。
1946年5月の第1次漁船建造許可で日本水産が得たのは14隻にとどまり、大洋漁業は許可総数416隻の約3分の1にあたる161隻を得た。差がついたのは経営方針の違いに加え、制限会社の指定によって連合軍最高司令部から船舶建造の制約を受けていたためである。建造で船腹を増やせない以上、残った船を回すほかなかった。トロール船の一部を北海道へ回してカレイやホッケを獲らせ、函館を根拠に定置網とイカ釣りまで営み、ニシンの漁期には積取船、漁期外には運搬業務にあてた。沿岸漁業にまで手を出したのは終戦直後の2〜3年だけだった。引き揚げてきた南日本漁業統制の竜田丸と天竜丸も、1950年ごろまで自社の名義で操業させた。漁業資材の補給は必要量の約半分にとどまった。1949年9月には企業再建整備計画の認可を受け、12月に新旧勘定の併合を終えた。
1946年8月、連合軍最高司令部は国民の食糧問題を解決するため、南氷洋捕鯨を日本水産と大洋漁業に1船団ずつ許可した。日本水産は同年、橋立丸を母船として付属船と捕鯨船あわせて9隻の船団を仕立て、出漁資金1億9千万円を主に日本興業銀行から借り入れた。第2次出漁からは復興金融金庫が融資し、設備資金は見返資金と日本開発銀行、運転資金は市中銀行の協調融資が支えた。1945年度にはトロール漁業と以西底びき網漁業が売上高の66%を占めていたが、1948年度から1950年度にかけては捕鯨業が6割を超え、利益は南氷洋捕鯨に支えられた。1949年3月に資本金を3億5千万円、同年11月に7億円へ積み増し、5月には東京証券取引所へ株式を上場した。船を失った会社が、政府と銀行の資金で1船団を仕立てるところから戦後を始めたのである。
1952年5月に日米加漁業条約が正式調印され、日本は西経175度以西の海域で母船式サケ・マス漁業を再開できることになった。同年4月にはマッカーサー・ラインが撤廃されたが、日本水産が経験を積んできたトロール漁場や母船式カニ漁場は、ついに拡張されないままの撤廃だった。漁場の価値が定かでないため、1952年の第1次出漁は試験操業として3船団にとどまり、日本水産は545トンの天竜丸を母船に12隻の独航船を従えて出漁した。独航船とは、北海道や東北のそれぞれ別の事業主が持つ漁船を指す。この年は母船と独航船の共同経営とし、利益を原価計算のうえで配分した。翌1953年の第2次では2,940トンの海幸丸に27隻を付け、母船が独航船から漁獲物を買い取る買魚協定へと方式を改めた。日米加漁業条約が発効したのもこの1953年である。
1954年の第3次出漁にあたり、水産庁は一定数の独航船を確保しない母船には新たな許可を与えない方針を立てた。このため各社は1隻でも多く集めようと、独航船主へ出漁資金や新船建造資金を貸し付け、出漁権利の斡旋まで行う獲得競争を繰り広げた。日本水産は8,964トンの宮島丸に33隻の独航船を従え、翌1955年には宮島丸と厳嶋丸の2母船へ64隻を配した。船団を大きくするほど許可が得られる仕組みは、1956年2月のブルガーニン・ライン設定で反転する。河野農相を首席代表とする交渉団に鈴木九平社長が顧問として加わり、5月に日ソ漁業条約が結ばれた。規制区域内の漁獲量は1957年の12万トンから1960年の6万7,500トンへ減った。この交渉を境に、北洋漁業の中心はサケ・マスとカニから、カレイやスケソウダラといった底魚の開発へ移っていった。
1952年、戸畑工場が魚肉ソーセージの試作に成功し、同年10月から本格的な生産に入った。原料のマグロの英語名から「ツナ・ソーセージ」と名付けたが、当初は日持ちが悪く、改良を重ねて売れ行きを広げた。売り方も作り替えた。それまでは東京の北洋商会・逸見山陽堂・国分商店、大阪の野田喜商事、名古屋の山田商事という5社の元卸へ販売を任せ、その先の販売店とは接触がなかった。1955年に日水ヒノマル会を結成して7支部に分け、第2次販売店およそ2千店を組織した。販売量は1955年の3,160トンから1959年の1万3,824トンへ4.4倍となり、1959年度には加工事業の売上高71億9,484万円が捕鯨事業の66億4,844万円を上回った。陸上の加工販売が総売上高に占める比率は、終戦直後の8%から1959年に43%へ上がった。
1956年のブルガーニン・ラインの制定に“なべ底不況”が重なり、水産業界には悲観的な観測が広がった。専務の中井春雄氏は、この苦しい時にこそ思い切った投資を行うべきだと判断し、漁業・食品加工・海運の3つを柱に育てる体質改善5カ年計画を立てた。国民の食生活の変化に応じて総合食品会社へ脱皮することが、計画の掲げた目標だった。原資は社外へ出す金を止めて作った。1958年度下期から2年間、配当を1割5分から1割2分へ下げ、再評価積立金の一部を資本へ組み入れて内部留保を15億円増やした。役員賞与を2割、役員報酬を1割削り、2年でさらに45億円を償却した。5年間の投資は334億円に達し、内訳は海上180億円、陸上94億円、関係会社への投融資60億円だった。長期借入金と社債は投資額の25%にとどまり、残りは自己資金でまかなった。
計画は陸上から始まった。初年度の陸上投資16億5,300万円の大半は晴海工場へ向かい、1960年5月に竣工した。晴海の埠頭は大洋漁業・日魯漁業との共同計画だったが、1万トン岸壁の併設を課されて2社が離脱し、日本水産が単独で建設を引き受けた。1962年6月には16億4,271万円で八王子工場が完成し、マヨネーズやチーズ、ラーメンまでを作る総合工場となった。1961年の増強で魚肉ソーセージの日産能力は152万本と倍以上になった。海上への投資は3年目の87億1,500万円で本格化した。1960年竣工の船尾式トロール船天城丸を皮切りに大型船が続き、船舶の総トン数は1958年度末の約14万トンから1964年度末の約30万トンへ倍増した。海運では1962年に第2松島丸とあんです丸を、東京タンカーと川崎製鉄への長期契約で就航させた。
売上高は計画着手前の289億円から最終年の537億円へ増え、1970年度には956億円に達した。うち漁労部門が568億円で59%を占めた。船の顔ぶれは入れ替わった。保有船舶は130隻から115隻へ減り、捕鯨母船が3隻から1隻になる一方、洋上冷凍すり身のトロール船は1隻から3隻へ増えた。捕鯨は1973年から鯨種別、1975年からは海区別の割当が加わり、枠は前年の半分以下となった。1975年の出漁を最後に南氷洋と北洋の捕鯨を終え、1976年には近海捕鯨も打ち切った。同年2月、6社で設立した日本共同捕鯨に32%を出資し、海上434名を送った。1973年11月に就任した鈴木正長氏のもと、1974年にNIPPON SUISAN (U.S.A.)とUNISEA, INC.を設立した。船に資本を集める経営は、獲る場所が条約で決まるかぎり、船を建てるたびに次の交渉を待つことになる。
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|---|---|---|---|---|
| 1911〜1945年英国式トロール船と久原の資本で始まり、日産傘下で国内最大の水産会社になるまで | 田村市郎氏が下関に田村汽船漁業部を創立 | ★ | ||
| 共同漁業として化 | ★ | |||
| 共同漁業が日本産業(日産コンツェルン)に合併 | ★★ | |||
| 社名を日本水産に変更 | ★ | |||
| 日本海洋漁業統制を設立 | ★ | |||
| 日本水産に商号変更 | ★ | |||
| 1946〜1976年戦後の食糧難と北洋・南氷洋の再開が固めた、漁船に資本を集める経営の型 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 戸畑工場にて魚肉ソーセージの本格的生産を開始 | ★★ | |||
| 報國水産を子会社化 | ★ | |||
| 日産水産研究所が日産研究所に商号変更 | ★ | |||
| 事業目的に農畜産物の生産・加工・売買を追加 | ★ | |||
| 八王子総合工場が竣工 | ★ | |||
| 日産研究所が日水製薬に商号変更 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 合弁会社NIPPON SUISAN(U.S.A.)を設立 | ★ | |||
| 合弁会社UNISEA, INC.を設立 | ★ | |||
| 1977〜2000年200カイリが漁場を半減させてもなお続けた漁労投資と、上場以来初の赤字 | チリ合弁会社EMPRESA DE DESARROLLO PESQUERO DE CHILE S.A.を設立 | ★ | ||
| アルゼンチン合弁会社EXPLOTACION PESQUERA DE LA PATAGONIA S.A.を設立 | ★ | |||
| 事業目的に医薬品の製造・売買を追加 | ★ | |||
| EPA(エイコサペンタエン酸)栄養補助食品の販売を開始 | ★★ | |||
| 漁場半減下でも止めなかった約120億円のトロール船集中投資 1977年の200カイリ規制で主力漁場を半減させながらも、日本水産が脱漁労へ転じず、1980年以降に新鋭トロール船4隻・投資総額約120億円を漁労部門へ集中投下した資本配分の判断。大口駿一社長体制のもと、業界の総合食品メーカー化の流れに背いて漁労重点主義を貫いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| チリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICA S.A.を買収 | ★★ | |||
| チリにNIPPON SUISAN AMERICA LATINA S.A.を設立 | ★ | |||
| 日水製薬が東京証券取引所二部に上場 | ★ | |||
| 大分海洋研究センターが竣工 | ★ | |||
| 姫路総合工場が竣工 | ★ | |||
| 日本クッカリーを設立 | ★ | |||
| 2001〜2026年北米ブランドの取得からのれんの重みを経て、社名から水産を外すまで | ニュージーランドSEALORD GROUP LTD.へ資本参加 | ★★ | ||
| 1億7500万ドルで米国首位ブランドを買った前例なき北米進出 2001年10月、日本水産が米国子会社NIPPON SUISAN(U.S.A.)(現NISSUI USA)を通じ、ユニリーバから北米の家庭用水産冷凍食品ブランド"ゴートンズ"(米国首位)と"ブルーウォーター"(カナダ2位)の事業を約1億7500万米ドルで一括取得したクロスボーダーM&A。垣添直也社長のもとで、輸出中心だった海外戦略を現地ブランド保有へ転換した判断である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 黒瀬水産を子会社化 | ★ | |||
| 北米業務用水産冷凍食品会社KING&PRINCE SEAFOOD CORP.を買収 | ★ | |||
| 連結純損失を計上 | ★★ | |||
| 垣添直也 | 東京イノベーションセンターが竣工 | ★ | ||
| 細見典男 | 連結純損失を計上 | ★ | ||
| 細見典男 | 弓ヶ浜水産を設立 | ★ | ||
| 細見典男 | 本社を移転 | ★ | ||
| 大木伸介 | 大木伸介が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 的埜明世 | 的埜明世が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 浜田晋吾 | 浜田晋吾が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 浜田晋吾 | 日水製薬の全株式を売却 | ★★ | ||
| 浜田晋吾 | 「日本水産」を捨てた業態転換 — 水産卒業・食品と養殖の双翼へ 2022年、日本水産(現ニッスイ)が長期ビジョン"Good Foods 2030"と中期経営計画"Good Foods Recipe1"を掲げ、同年12月に創業以来の商号"日本水産"を"ニッスイ"へ改めた業態転換。浜田晋吾社長の主導で、収益を漁労・水産に依存する体質から、食品と養殖を双翼とする食の企業へと事業構造を組み替えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田中輝 | 田中輝が代表取締役社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(ニッスイ)