1880年〜 明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道
- 1880年 中部幾次郎が明石で鮮魚仲買業の林兼商店を創業
- 1905年 日本初の発動機付き鮮魚運搬船「新生丸」を建造
- 1907年 朝鮮の漁場に参入し仲買運搬業から漁業の直営へ
- 1915年 朝鮮東海岸の方魚津へ本拠を移し機船巾着網を導入
- 1924年 個人経営を改組し株式会社林兼商店を設立
- 1925年 林兼漁業・林兼冷蔵を合併し資本金1000万円へ
押送船の14時間を縮めた国産第一号の発動機船
マルハの前身は、兵庫県明石市で鮮魚の仲買を営んだ中部幾次郎氏の個人商店・林兼商店[1]である。中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した[2]。屋号の林兼はここから出ており、幾次郎氏はその五代目にあたる[3]。丸の中に「は」を置いた社標[4]も、この屋号を記念したものである。創業は明治10年代のこととされ[5]、のちにマルハは1880年を創業の年として数えた[6]。幾次郎氏は12歳ころから家業の魚問屋で働き[7]、押送船に乗って五島のマグロや阿波方面の鮮魚を買い出しては、大阪へ運んで売りさばいた。当時の鮮魚流通は人力の押送船に頼っており、明石から大阪までは14〜15時間を要した[8]。時間がかかるほど魚の鮮度は落ち、損失も大きかった[9]。
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [1]マルハの前身は兵庫県明石市で鮮魚仲買業を営んだ中部幾次郎の個人商店・林兼商店である
- [5]林兼商店の創業は明治10年代である
- [7]中部幾次郎は12歳ころから家業の魚問屋で働き、五島のマグロや阿波方面の鮮魚を大阪へ運んで売りさばいた
- [9]長時間の運搬で鮮度が落ち損失が多かった
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [2]中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した
- [3]中部幾次郎は林屋兼松の五代目にあたる
- [4]丸の中に「は」を置く社標は屋号 林屋兼松を記念したものである
- 週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」
- [6]2007年時点でマルハは創業127年とされ、逆算すると創業年は1880年にあたる
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [8]当時は押送船で魚を運び、明石から大阪まで14〜15時間を要した
幾次郎氏が最初に手を打ったのは、運搬の速度で、1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて押送船の曳船に使い[10]、生魚を大阪市場へ送ることに成功する。曳船で運んだ林兼の魚は5割も高く取り引きされ[11]、家業は伸びた。次に着目したのが動力で、1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会で、人波をさばくために川筋を走る巡航船を見たこと[12]が発想のもとになった。日露戦争で計画は中断した[13]が、1905年の暮れ、明石海岸の高い山の上で建造した12トンの木造船に石油発動機を据えつけ[14]、試運転に成功する。国産第一号の発動機付き運搬船・新生丸[15]であり、幾次郎氏は39歳になっていた。この船は手こぎの運搬船に代わって航海の時間を縮め、鮮魚の流通に一つの変革をもたらした[16]。
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [10]1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて曳船とし、生魚の大阪市場への供給に成功した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [11]曳船を用いた林兼の魚は5割高く取り引きされた
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [12]1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会の巡航船が発動機船の発想のもとになった
- [14]1905年暮れに明石海岸の山の上で建造した12トンの船へ石油発動機を据えつけた
- [16]新生丸は手こぎ運搬船に代わって時間を短縮し鮮魚の流通に変革をもたらした
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [13]日露戦争により発動機船の計画は一時中断した
- [15]新生丸は国産第一号の発動機付き運搬船で、当時 中部幾次郎は39歳であった
発動機船が生まれた時期は、日本の漁業が沿岸から沖合へ出ていく転換期[17]にあたる。明治中期以降の漁業政策は技術政策を中心に据え[18]、1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付して[19]沖合遠洋漁業を後押しした。この法律は1905年の全面改正をはじめ何度も改められ、沖合遠洋漁業推進の牽引車となった[20]。漁船の動力化によって沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ[21]、綿網の普及で漁網の性能も高まる。明治43年の海面漁獲量を100とすると、大正3年は157、大正12年は233[22]に伸びた。沖合漁業の担い手には、旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていった例が多い[23]。
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [17]明治末までの漁業はほとんど沿岸漁業で、漁獲量の増加は沖合遠洋漁業の急速な発展によるものだった
- [18]明治中期以降の漁業政策の中心には技術政策が据えられた
- [19]1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付するものだった
- [20]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ何度も改正され沖合遠洋漁業推進の牽引車となった
- [21]漁船の動力化で沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ、綿網の普及で漁網の性能が高まった
- [22]明治43年の海面漁獲量を100とすると大正3年は157、大正12年は233である
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [23]沖合漁業は旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていったものが多かった
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [1]マルハの前身は兵庫県明石市で鮮魚仲買業を営んだ中部幾次郎の個人商店・林兼商店である
- [5]林兼商店の創業は明治10年代である
- [7]中部幾次郎は12歳ころから家業の魚問屋で働き、五島のマグロや阿波方面の鮮魚を大阪へ運んで売りさばいた
- [9]長時間の運搬で鮮度が落ち損失が多かった
- [10]1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて曳船とし、生魚の大阪市場への供給に成功した
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [2]中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した
- [3]中部幾次郎は林屋兼松の五代目にあたる
- [4]丸の中に「は」を置く社標は屋号 林屋兼松を記念したものである
- [12]1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会の巡航船が発動機船の発想のもとになった
- [14]1905年暮れに明石海岸の山の上で建造した12トンの船へ石油発動機を据えつけた
- [16]新生丸は手こぎ運搬船に代わって時間を短縮し鮮魚の流通に変革をもたらした
- 週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」
- [6]2007年時点でマルハは創業127年とされ、逆算すると創業年は1880年にあたる
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [8]当時は押送船で魚を運び、明石から大阪まで14〜15時間を要した
- [11]曳船を用いた林兼の魚は5割高く取り引きされた
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [13]日露戦争により発動機船の計画は一時中断した
- [15]新生丸は国産第一号の発動機付き運搬船で、当時 中部幾次郎は39歳であった
- [17]明治末までの漁業はほとんど沿岸漁業で、漁獲量の増加は沖合遠洋漁業の急速な発展によるものだった
- [18]明治中期以降の漁業政策の中心には技術政策が据えられた
- [19]1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付するものだった
- [20]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ何度も改正され沖合遠洋漁業推進の牽引車となった
- [21]漁船の動力化で沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ、綿網の普及で漁網の性能が高まった
- [22]明治43年の海面漁獲量を100とすると大正3年は157、大正12年は233である
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [23]沖合漁業は旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていったものが多かった
仲買から漁業の直営へ、朝鮮の漁場で築いた地歩
発動機船は航海の距離を伸ばし、幾次郎氏は1904年、内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に便利な下関市を事業の根拠地とし[24]、1907年には釜山へ航行して羅老島を拠点に朝鮮各地へ広がった[25]。同じ年、林兼は仲買運搬業を廃止して漁業の直営に踏み切った[26]。1910年ころの林兼はまだ発動機船を3隻持つにすぎず、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地を置いていた[27]。幾次郎氏の二男である中部謙吉氏は、満14歳で高等小学校を出るとすぐ下関へ向かい、20トンあまりの第二新生丸で巨済島へ渡った[28]。玄界灘のシケで三日三晩吐き続けたこの初航海[29]が、のちに三代目社長となる謙吉氏[30]の最初の仕事であった。
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [24]1904年に内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に至便な下関市を事業の根拠地とした
- [25]1907年に釜山へ航行し羅老島を根拠地として朝鮮各地へ発展した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [26]1907年に仲買運搬業を廃止して漁業の直営を実現した
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [27]1910年ころの林兼には発動機船が3隻あり、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地があった
- [28]中部謙吉は中部幾次郎の二男で、満14歳で高等小学校を出て家業に入り第二新生丸で巨済島へ渡った
- [29]初航海は玄界灘のシケに遭い三日三晩飲まず食わずで吐き続けた
- [30]中部謙吉はのちに大洋漁業の三代目社長となった
1915年秋、林兼は朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した[31]。それまでの漁は仕込み契約に頼っていたが、事業場や運搬船が増えるにつれて他人任せでは心もとなくなり、アジ・サバの巾着網と定置漁場の直営を始める[32]。中部謙吉氏は米国で行われていたターンテーブル式巾着網を手本に、朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を試した[33]。網が引っかかるなどして2年を費やし、試験だけで身上をつぶすと言われながら改良を重ねて、3年目に完成させた[34]。機船巾着網の発明について、林兼は朝鮮総督府から表彰を受けた[35]。25トン・60〜80馬力の機船は8ノットを出し[36]、シケになっても最後まで漁場に残れたため、櫓櫂の船より多く漁獲を得た。
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [31]1915年秋に朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した
- [32]事業場や運搬船が増えて仕込み契約だけでは足りなくなり、巾着網と定置漁場の直営を始めた
- [33]米国のターンテーブル式巾着網を手本に朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を採用した
- [34]巾着網の改良に2年を費やし3年目に完成させた
- [35]機船巾着網の発明について朝鮮総督府から表彰を受けた
- [36]機船は25トン・60〜80馬力で8ノットを出し、耐波性から最後まで漁場に残ることができた
定置網では出遅れが響き、最優秀の漁場はすでに既存業者が押さえており[37]、林兼は朝鮮沿岸一帯の何十カ所へ試験的に網を入れたが、収支が償ったのは3分の1にも満たない[38]。それでも見込みのある場所には3年でも5年でも改良を続け、良漁場が移動していくうちに、朝鮮の定置網漁場で最も良い場所はほとんど林兼の支配下に入った[39]。事業の広がりに合わせて設備も増え、1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年には彦島冷蔵庫を建設した[40]。1924年9月、幾次郎氏は個人経営の林兼商店を分離して株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立し[41]、翌1925年に3社を合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店とした[42]。1921年以降は以西底曳網漁業にも参入しており[43]、共同漁業・日魯漁業と並ぶ三大漁業会社の一角[44]を占めるに至る。
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [37]定置網への参入が遅れ最優秀の漁場は既存業者が占有していた
- [38]朝鮮沿岸一帯の何十カ所に試験的に網を入れたが収支が償ったのは3分の1に満たなかった
- [39]改良を続けた結果、朝鮮の定置網漁場で最良の場所はほとんど林兼の支配下に入った
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [40]1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年に彦島冷蔵庫を建設した
- [41]1924年9月に個人経営の林兼商店を分離し株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立した
- [42]1925年に3社が合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店となった
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [43]林兼商店は1921年以降に以西底曳網漁業へ参入して本格的な漁業資本となった
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [44]林兼商店は共同漁業・日魯漁業とともに三大漁業会社と呼ばれた
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [24]1904年に内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に至便な下関市を事業の根拠地とした
- [25]1907年に釜山へ航行し羅老島を根拠地として朝鮮各地へ発展した
- [40]1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年に彦島冷蔵庫を建設した
- [41]1924年9月に個人経営の林兼商店を分離し株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立した
- [42]1925年に3社が合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店となった
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [26]1907年に仲買運搬業を廃止して漁業の直営を実現した
- [44]林兼商店は共同漁業・日魯漁業とともに三大漁業会社と呼ばれた
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [27]1910年ころの林兼には発動機船が3隻あり、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地があった
- [28]中部謙吉は中部幾次郎の二男で、満14歳で高等小学校を出て家業に入り第二新生丸で巨済島へ渡った
- [29]初航海は玄界灘のシケに遭い三日三晩飲まず食わずで吐き続けた
- [30]中部謙吉はのちに大洋漁業の三代目社長となった
- [31]1915年秋に朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した
- [32]事業場や運搬船が増えて仕込み契約だけでは足りなくなり、巾着網と定置漁場の直営を始めた
- [33]米国のターンテーブル式巾着網を手本に朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を採用した
- [34]巾着網の改良に2年を費やし3年目に完成させた
- [35]機船巾着網の発明について朝鮮総督府から表彰を受けた
- [36]機船は25トン・60〜80馬力で8ノットを出し、耐波性から最後まで漁場に残ることができた
- [37]定置網への参入が遅れ最優秀の漁場は既存業者が占有していた
- [38]朝鮮沿岸一帯の何十カ所に試験的に網を入れたが収支が償ったのは3分の1に満たなかった
- [39]改良を続けた結果、朝鮮の定置網漁場で最良の場所はほとんど林兼の支配下に入った
- 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [43]林兼商店は1921年以降に以西底曳網漁業へ参入して本格的な漁業資本となった