マルハ大洋漁業からマルハへの改称と、中部家三代の同族経営からの離脱
株式も社長も一族で握ってきた水産最大手は、創業家の手で統治をどう手放したか
- 概要
- 明石の魚問屋から数えて三代、株式と社長職の双方を中部家が握ってきた大洋漁業が、1993年に社名をマルハへ改め、2002年には興銀出身の五十嵐勇二氏へ社長を譲った。創業家以外から本格的な社長が出たのはこのときが初めてで、負の遺産の処理を自らの手で終えた中部慶次郎氏が経営から退く形の交代であった。
- 背景
- 1955年の上場時、大株主の上位10名はすべて中部姓で、役員にも一族が並んだ。株式と経営を同時に握る構造は上場後も続いたが、二百カイリ規制で漁場を失った後の収益は相場に揺れ、1982年から無配が続いた。
- 内容
- 1993年に社名から漁業の文字を外し、2000年からは本社ビルの証券化と不採算事業の整理を進めた。この整理を担うために興銀から迎えた五十嵐勇二氏が2000年6月に専務、2002年3月に社長へ就いた。
- 含意
- 創業家は負の遺産の処理を終えてから経営を渡した。非同族の社長のもとでマルハは本業回帰を掲げ、2007年のニチロとの統合に至る。
畳んでから渡すという順序
創業家の退場を、業績不振に追われた末の敗退とだけ読むのは、この交代の順序を見落とすことになる。中部慶次郎氏は外部から社長を招く前に、本社ビルの証券化・原糖事業の整理・球団の売却という重い処理を自ら決め、2年間で550億円の特別損失を計上し終えていた。球団は二代社長が始めた事業であり、社標は初代の屋号に由来する。一族が広げたものを一族が畳み、そのうえで経営を渡す順序が選ばれた。損失を新社長の任期に持ち越さない配慮とみることもできる。
もっとも、渡した先が取引銀行の出身者であった点は、この統治の転換の性格を限定する。興銀は1935年の捕鯨船団への融資以来の関係で、本社ビル証券化の案もMBOの資金も同行から出ている。創業家に代わって経営を担ったのは、資本市場から選ばれた経営者ではなく、長年の主力行から来た人物であった。同族から非同族への移行が、ただちに外部規律の導入を意味したわけではない。統治の形が資本の側から問い直されるのは、2007年の統合とその後の再編を待つことになる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
株式と社長職を同時に握った創業家
大洋漁業が東京証券取引所へ上場した1955年、大株主の上位10名はすべて中部姓であった[1]。筆頭の中部謙吉氏が355万株、中部タミ氏が293万株、中部悦良氏が272万株を持ち、発行済み株式4000万株に対して金融機関の保有は13.4%にとどまる[2]。役員も社長の中部謙吉氏、副社長の中部悦良氏と中部利三郎氏という顔ぶれで、取締役にも中部兼次郎氏が名を連ねた。上場によって株式は市場へ出たものの、支配の実体は変わらなかった。
社長職も家系で継がれた。創業者の中部幾次郎氏が1946年5月に80歳で死去し、二代目を継いだ兄の中部兼市氏も1953年3月に62歳で世を去ると[3]、その年に中部謙吉氏が三代目の社長へ就いた。中部家は明石の漁村で代々漁師を営み、祖父の代から魚の運搬問屋を始めた家で、幾次郎氏はその五代目にあたる[4]。家業から会社へ姿を変えたあとも、経営の中枢は同じ家の中にとどまった。
相場に揺れる収益と、川下を知らない体質
同族の統治が続くあいだ、収益は相場に揺れ続けた。1977年の二百カイリ規制で公海の漁場を失った後、水産商事のさや取りを主体とする収益構造は読みにくさを増す。同社は1982年の決算で円安の為替差損などから経常赤字に転じ、以後は無配が続いた[5]。1991年3月期は魚介類の相場低迷のなかで抱えたイカ在庫の処分が響いて61億円の経常赤字に転落し、1992年3月期も36億円の経常赤字を計上した[6]。
体質の偏りは経営者自身が認めていた。中部慶次郎社長は、魚を大量に買い付ける川上の人材ほど、売りの現場である川下を知らないと述べた[7]。魚を獲る感覚で大量に買い付けるのは得意でも、売る段になると値付けが相場任せになる。1991年度は総売上高5259億円のうち魚介類が2846億円と半分を超え[8]、相場に左右される水産商事への依存が色濃く残っていた。買う力に比べて売る力が弱いという指摘は、統治の担い手を替える理由にもつながっていく。
決断
社名から漁業の文字を外す
1993年9月、同社は社名を大洋漁業からマルハへ改めた。社名から漁業の文字をなくし、創業以来の「まるは」の社標も新しいものへ変えている[9]。屋号の由来は明石の魚問屋「林屋兼松」にあり、丸の中に「は」を置いた社標はその記念であった[10]。獲る事業を看板から降ろしても、創業家の屋号そのものは残す改称である。統治の形はこの時点では変わらず、社長は中部慶次郎氏が務めていた。
改称から7年を経た2000年、マルハは中部慶次郎社長の陣頭指揮の下で大規模な構造改革の準備に入った。本社ビルの証券化、原糖事業と養殖事業の整理、ペットフード事業のMBO、横浜ベイスターズの売却が並ぶ内容である[11]。売却された球団は、1950年に二代社長の中部兼市氏がノンプロからプロへ踏み切った大洋ホエールズの後身[12]にあたる。創業家が広げた事業を、同じ創業家が畳む作業であった。
興銀から迎えた社長への交代
構造改革を担う人材は外部から来た。2000年6月、日本興業銀行で取締役債券業務部長・常務取締役管理部長・大阪支店長を歴任した五十嵐勇二氏がマルハへ移り[13]、専務として整理の実務に加わる。マルハと興銀の関係は1935年の第一次捕鯨船団への融資にさかのぼり、興銀にとってマルハは新日鉄や日産と並ぶ親密企業であった。本社ビルの証券化は興銀が持ち込んだ案で、ペットフード事業のMBOでもバックファイナンスを担っている[14]。
2002年3月、五十嵐勇二氏が社長へ就いた。過去に一度だけ本命へのつなぎとして非中部家の社長が立ったことはあるが、本格的な社長が創業家以外から出たのはこのときが初めてである[15]。中部慶次郎氏は当初、会長にも残らないつもりでいた。興銀の西村正雄前頭取から中部の名前は消えないほうがいいと言われて考え直した[16]と伝えられる。2年間で550億円の特別損失を計上し、負の遺産を自らの手で始末してからの交代であった[17]。
結果
非同族の社長が掲げた本業回帰
五十嵐氏が掲げた方針は本業回帰であった。「奇手妙手はない」(週刊東洋経済 2002/9/21)と語り、健康商品で一発当てるような発想は間違いのもとで、地道にやることがいちばんだと述べている[18]。会社の中心に置いたのは魚であった。銀行の管理部門で不良債権処理の矢面に立った経歴を持つ経営者[19]が、整理の続きと本業の立て直しを引き受けた形になる。
統治の形はその後も動いた。2004年4月、株式移転により完全親会社の株式会社マルハグループ本社が設立され[20]、マルハは上場を親会社へ譲って完全子会社となる。五十嵐氏は2004年から持株会社の社長を兼ね、2007年10月には統合後のマルハニチロホールディングス社長へ就いた[21]。不良資産と不採算事業の整理が完了したのは2005年3月期で、統合を発表した時点の時価総額は1300億円と、日本水産の1900億円には届いていない[22]。
- 証券 1955年10月号「新規上場会社紹介 大洋漁業株式会社」
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- 日経ビジネス 1987年6月8日号「大洋漁業、バイオに挑む 高級マグロ『つくる漁業』で量産」
- 日経ビジネス 1993年4月26日号「大洋漁業 ケチに徹したタイ料理店『脱漁業』の有力な武器に」
- 週刊東洋経済 2002年9月21日号「トップの履歴書 マルハ社長 五十嵐勇二」
- 週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】