事業の軸が輸入品の販売から自社製造へ移ったのは1902年8月で、個人経営のまま[1]甘味葡萄酒『赤玉ポートワイン』をはじめとする洋酒類の製造に着手した[2]。
個人経営から合資会社の時代を経て、1921年12月1日、資本金200万円の株式会社寿屋が設立され、法人格に移行した[3]。本社は大阪市北区堂島浜通に設置された[4]。1934年には麦酒部を分離し[5]、ビール事業を担う東京麦酒株式会社[6]として独立させている。
1923年、寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し[7]、大阪府三島郡に日本初のウイスキー製造所である山崎蒸溜所を開設した。国内でウイスキーの本格醸造が手つかずだったのは、技術ではなく資本の性質に理由があった[8]。資本が長期間固定するため企業化が困難とみなされていた[9]うえ、永い伝統をもつイギリスの技術を取り入れるのも容易ではなかった[10]。
技術を担ったのは、スコットランドで醸造を学んで帰国した竹鶴政孝氏[11]である。竹鶴氏はのちに、留学を実らせる場を与えたのが鳥井信治郎氏だった[12]と振り返り、『寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長(故人)が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに』[引用元]踏み切らなければ、自分を見習い技師として採用する工場があったかどうかは疑わしいと述べている。竹鶴氏はのちに寿屋をやめ、スコットランドに似た気候の余市でニッカウヰスキーを興した[13]。1929年には国産第1号となる『サントリーウイスキー』が発売され[14]、同社の洋酒の看板になった[15]。
戦前のビール業界は整理と統合が進み、1939年時点の内地のビール会社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒の4社にまで絞られていた[16]。寿屋の系譜を引く東京麦酒は、その一角を占めている[17]。しかし1943年、戦時の企業整備によって東京麦酒は閉鎖された[18]。改組から9年での消滅であり[19]、寿屋が戦前に築いたビールの製造基盤はここで途切れる。戦後、大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法に基づき、1949年9月に日本麦酒と朝日麦酒の2社へ分割された[20]。麒麟を加えた3社による寡占構造[21]が、以後の業界を形づくった。
洋酒の側も平時ではなく、1934年から1950年までの16年、同社は台風などの災害と戦禍に続けて見舞われ[22]、それを克服して事業を保っている[23]。酒類は原料が主食と競合するため[24]、戦中戦後の食糧事情がそのまま減産に直結する業種でもある。国内の清酒生産高は戦前の年間400万石から450万石の水準にあったが、1948酒造年度には67万石まで落ち込んだ[25]。この環境を抜けて、寿屋は戦後の大衆酒市場に向き合った[26]。
戦後の寿屋は低価格帯の主力として『トリスウイスキー』を投入し、1955年時点で製品は二十数種を数えた[27]。1952年2月には資本金を4800万円へ積み増し、大阪本社のほかに支店1・営業所3・工場10・農場1[28]と、販売網と生産拠点をあわせて広げている。
もっとも、この業態を設計したのは同社ではなく[29]、佐治敬三氏は1977年の取材で「うちにとって非常に大きな推進力になったトリスバーは、われわれのアイデアではなく、たまたま東京と大阪で同時にこういう店を始めたいんだとズブの素人の方がいうてきはりました[30]。この話を聞いて『こりゃ、いけるで』と追い討ちをかけたんです[31]」と明かしている。佐治信忠氏はこの型を『追い討ちのマーケティング』と呼び、『消費者ニーズの先取りなど、できまへん』[引用元]と言い切った。『変化しつつある消費者のニーズを先取りなんてできない相談ですから、なるべく早くつかまえる。芽を出すか出さないかというときにキャッチして、それに追い討ちをかける』[引用元]というのがその中身である。同じ取材では『走ろうとする馬にムチをあてるのが追い討ちのマーケティング』[引用元]とも述べた。
1961年、創業者の次男である佐治敬三氏が社長に就任した[32]。鳥井信宏氏はのちに、この参入を『そんな巨大市場に小さな会社が突撃していった』[引用元]と表現した。
『ウイスキー事業は、オールド、トリスを基軸に順風に恵まれていた。しかし、このままでは会社の将来が不安だ。社内の空気をピンと緊張させるためにも、ひそかに暖めてきた最難関のビール事業に敢えて挑戦しようと決意した』[引用元]。目標は5年間に1割のシェア確保[33]であった。佐治信忠氏は1977年の取材でこの数字を振り返り、大阪や東京の雑踏で10人のうち1人がいつどんな場所でもサントリービールを飲まなければシェア1割にならない[34]と述べ、『1割という数字はゴッツイ数字やと思うたですなあ』[引用元]と語った。
その結果『サントリーは宣伝だけで肝心のビールがない』[引用元]というレッテルを張られた。製造担当者はのちにこの状態を『デビルズサイクルです。ビールは鮮度が命なのに、店頭に売れ残ると劣化して味が落ちる。そしてますます売れなくなるという悪循環でした』[引用元]と総括している。ウイスキーの側は好調が続き、1968年には飲食店でのサントリーオールドのキープが始まった[35]。ニッカの500円ウイスキー『ハイニッカ』に対抗する『レッド』も投入され[36]、両社の販売合戦を通じて、ウイスキーは家庭消費という市場を得た。
1976年、サントリーは未公開企業でありながら決算数字を公表した[37]。動機は情報公開の理念ではなく、その逆にある[38]。「もともと、全部秘密にしといたわけじゃないんで。どこからともなく漏れましてね。そういう状況が2〜3年続いたもんですから。おまけに漏れた場合というのは、必ずしも正しい数字で漏れてはくれない。それなら責任ある数字を責任ある場所で公表した方が誤解がなくていいだろう[39]」というのが佐治信忠氏の説明である。取材者から『こんなに儲かってたのか、という声もあったようですね』[引用元]と問われると、佐治信忠氏は『若干それもあったかも知れませんね』[引用元]と応じた。
一方で株式公開には踏み切らず、その理由の第一は市場への不信[40]であった。佐治信忠氏は『現在の株式市場と、それを受けた配当のあり方、これが少しゆがんでいるような気がする』[引用元]と述べている。『法人が持ってれば金利は費用で落ちる。配当は別途に入ってくるから個人で持つのとは全然利回りが違う』[引用元]とも語り、法人株主に偏った市場では個人株主の立場が成り立たないことを問題にした。第二の理由は、資金を自己金融でまかなえており、そもそも公開する必要がなかった[41]ことにある。『ウイスキーの商売は設備投資にそんなに金いりませんし、貯蔵分にしても年々増えるその分だけ資金調達すればいいんです。幸いにして今までのところは、早く言えば儲かってますし、それプラス借入金で十分まかなえるわけです』[引用元]。当時の社員持株は5〜6%あり[42]、佐治信忠氏は『日本の株式市場もそうした方向に向かっていく目安がつけば公開してもいいと思っておるんです』[引用元]と含みを残していた。
赤字のビールを抱え続けた理由を、佐治信忠氏は損得ではなく効用で説明し[43]、1977年の取材ではこう答えた。『結局ビールをやることでウイスキーの商売もバイタライズされたんですね。ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかんということで営業部門全体が原点に帰れたと思うんです』[引用元]。同じ取材で『苦労のタネがなくなると、生きてる甲斐がなくなると違いますか』[引用元]とも語り、ビールがまだ赤字であることを自ら認めていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1899〜1945年甘味葡萄酒が生んだ現金で、資本の寝る酒を仕込む | 鳥井信治郎が大阪で鳥井商店を創業 | ★★ | ||
| 鳥井信治郎氏の個人経営で「赤玉ポートワイン」など洋酒類の製造に着手 | ★★ | |||
| 個人経営・を経て寿屋を設立 | ★ | |||
| 資本が数年寝るのを承知で始めた本格ウイスキーの国産化 1923年、株式会社寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し、山崎に蒸溜所を建設した経営判断。着手から6年後の1929年に国産第1号となる『サントリーウイスキー』を発売した。当時の日本にウイスキーを一から仕込む企業はなく、同社は先例のない事業に自社の現金を投じた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 山崎に蒸溜所を建設 | ★ | |||
| 国産第1号となる「サントリーウイスキー」を発売 | ★ | |||
| 寿屋麦酒部を東京麦酒として分離 | ★ | |||
| 「サントリーウイスキー12年(角瓶)」を発売 | ★ | |||
| 1946〜1990年トリスバーへの追い討ちと、40年赤字のビール | 「トリスウイスキー」を発売 | ★ | ||
| 資本金を4800万円に増資 | ★ | |||
| 佐治敬三氏が社長に就任 | ★ | |||
| 社名を寿屋からサントリーへ変更 | ★ | |||
| 主力が順風のうちに、勝てない市場へ出る 1963年4月、サントリーはビール事業に参入して『サントリービール』を発売し、同じ年に社名を寿屋からサントリー株式会社へ改めた経営判断。当時の売上高は約300億円で、大手ビール3社の売上高合計はその10倍近くあった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 「サントリービール」を発売 | ★ | |||
| 未公開企業ながら決算数字を初めて公表 | ★ | |||
| 「サントリーウーロン茶」を発売した。これを機に清涼飲料事業を拡大 | ★★ | |||
| ウイスキー市場がピークを迎え以後縮小 | ★ | |||
| Cerebos Pacific Limitedを子会社化 | ★ | |||
| 1991〜2010年主力の交代と、統合破談が閉ざした国内再編の道 | 缶コーヒー「BOSS」を発売 | ★ | ||
| 国内初の発泡酒「ホップス」を発売 | ★ | |||
| 佐治敬三氏が死去 | ★ | |||
| 佐治信忠 | 佐治信忠氏が社長に就任 | ★ | ||
| 佐治信忠 | 「ザ・プレミアム・モルツ」を発売 | ★ | ||
| 佐治信忠 | ビール事業が参入46年目で初の黒字 | ★ | ||
| 佐治信忠 | ビールシェアが業界3位に浮上 | ★ | ||
| 佐治信忠 | 株式移転によりサントリーHDを設立 | ★★ | ||
| 佐治信忠 | 純粋持株会社制に移行 | ★ | ||
| 佐治信忠 | Orangina Schweppes Holdingsを買収した。買収額は約3500億円 | ★★ | ||
| 佐治信忠 | キリンHDとの経営統合交渉を断念 | ★★ | ||
| 2011〜2026年子会社上場と1兆6500億円の買収、そして創業家への回帰 | 佐治信忠 | サントリー食品インターナショナルが東京証券取引所市場第一部に上場 | ★★ | |
| 佐治信忠 | サントリー食品インターナショナルがグラクソ・スミスクラインの飲料事業を買収 | ★ | ||
| 新浪剛史 | 1兆6500億円で「30年分の時間」を買う 2014年1月、サントリーホールディングスは米蒸留酒大手Beam Inc.の買収を発表し、同年5月に完了した経営判断。買収額は160億ドル・約1兆6500億円で、2013年度の売上高2兆円に迫る規模となった。この買収により同社は蒸留酒メーカーとして世界3位に立った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 新浪剛史 | 新浪剛史氏が社長に就任 | ★ | ||
| 新浪剛史 | サントリー食品インターナショナルがジャパンビバレッジHDを買収 | ★ | ||
| 新浪剛史 | 自動販売機事業を統合 | ★ | ||
| 新浪剛史 | サントリースピリッツがサントリーBWSなど4社を吸収合併 | ★ | ||
| 新浪剛史 | サントリーに商号変更 | ★ | ||
| 鳥井信宏 | Beam Suntory Inc.をSuntory Global Spirits Inc.に商号変更 | ★ | ||
| 鳥井信宏 | サントリーシステムテクノロジーの事業を吸収合併により承継 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(サントリーホールディングス)