この判断を"先見の明"だけで説明すると、肝心の条件が抜け落ちる。八十年史が書いているとおり、当時ウイスキーの国産化を塞いでいたのは技術ではなく資本の性質であった。数年間ずっと寝る資金に耐えられる企業だけが着手でき、寿屋にはその耐性を作る商品が先にあった。赤玉ポートワインが毎年現金を生んでいなければ、竹鶴政孝氏を迎えても蒸溜所は建たなかったとみられる。
同じ構図は、その後も同社に繰り返し現れる。1963年に始めたビール事業は40年以上赤字を計上し続けたが、その間の資金は洋酒と清涼飲料が支えた。長い回収期間に耐える事業を抱えるには、短い回収期間で現金を生む事業を別に持っていなければならない。1923年の蒸溜所は、その組み合わせを同社が初めて実行した例にあたる。