サントリーホールディングス資本が数年寝るのを承知で始めた本格ウイスキーの国産化
甘味葡萄酒で稼いだ現金を、出荷まで6年かかる酒に注ぎ込んだ鳥井信治郎の判断
- 概要
- 1923年、株式会社寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し、山崎に蒸溜所を建設した経営判断。着手から6年後の1929年に国産第1号となる「サントリーウイスキー」を発売した。当時の日本にウイスキーを一から仕込む企業はなく、同社は先例のない事業に自社の現金を投じた。
- 背景
- 『会社銀行八十年史』は、当時この事業が国内で手つかずだった理由を技術ではなく資金の問題として記している。「資本が長期間固定するため、従来国内ではその醸造が不可能視されていた」。寿屋には1902年から手がけた「赤玉ポートワイン」が毎年生む現金があり、1921年12月には資本金200万円の株式会社となっていた。
- 内容
- スコットランドで醸造を学んで帰国した竹鶴政孝を迎え、山崎に蒸溜所を建設した。ウイスキーは仕込みから出荷まで数年を要するため、売れるかどうかも分からない酒に、数年ぶんの運転資金を先に沈める形になった。第1号の発売は着手から6年後の1929年である。
- 含意
- 発売した「サントリーウイスキー」は、1937年の「角瓶」、戦後の大衆酒「トリスウイスキー」へと連なった。甘味葡萄酒で稼いだ会社は洋酒メーカーへ姿を変え、ウイスキーがその後半世紀にわたる主力となった。
現金を生む商品があって初めて選べた投資
この判断を「先見の明」だけで説明すると、肝心の条件が抜け落ちる。八十年史が書いているとおり、当時ウイスキーの国産化を塞いでいたのは技術ではなく資本の性質であった。数年間ずっと寝る資金に耐えられる企業だけが着手でき、寿屋にはその耐性を作る商品が先にあった。赤玉ポートワインが毎年現金を生んでいなければ、竹鶴政孝を迎えても蒸溜所は建たなかったとみられる。
同じ構図は、その後も同社に繰り返し現れる。1963年に始めたビール事業は40年以上赤字を出し続けたが、その間の資金は洋酒と清涼飲料が支えた。長い回収期間に耐える事業を抱えるには、短い回収期間で現金を生む事業を別に持っていなければならない。1923年の蒸溜所は、その組み合わせを同社が初めて実行した例にあたる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
赤玉ポートワインが毎年生んでいた現金
鳥井信治郎が1899年2月に大阪で開いた鳥井商店は、輸入した洋酒をそのまま売る商いではなく、日本人の味覚に合わせて甘味を加えた葡萄酒を自分で調合する道を選んだ。1902年8月には個人経営のまま、甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」をはじめとする洋酒類の製造に着手している。この一品が販路を広げ、合資会社の時代を経て、1921年12月に資本金200万円の株式会社寿屋が生まれた。『会社銀行八十年史』は、この時点で同社が「業界に確固たる地歩を占めるに至つた」と記している[1]。
洋酒はこの時期の日本ではまだ新奇な商品であり、市場も薄かった。それでも赤玉ポートワインは20年にわたって同社の資金を生み続け、次の投資を支える原資となった。手元で現金が回っていたことが、以後の判断の前提にある[2]。
技術ではなく資金が塞いでいた国産化
当時、本格ウイスキーの国産化は国内で手つかずだった。『会社銀行八十年史』はその理由を、技術の不足ではなく資金の性質に求めている。「資本が長期間固定するため、従来国内ではその醸造が不可能視されていた」。ウイスキーは仕込みから出荷まで数年を要し、その間ずっと資金が寝る。年内に仕入れて年内に売る商いとは、必要な資本の性格がまるで違っていた[3]。
決断
竹鶴政孝を迎え、山崎に蒸溜所を建てる
1923年、寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し、山崎に蒸溜所を建設した。技術を担ったのは、スコットランドで醸造を学んで帰国した竹鶴政孝である。竹鶴はのちに寿屋を離れてニッカウヰスキーを興すが、自身の回想では、留学を実らせる場を与えたのが鳥井信治郎だったと書いている。洋酒の将来性を確信した鳥井がウイスキーづくりに踏み切らなければ、自分を見習い技師として採用する工場があったかどうかは疑わしい、という述懐である[4][5]。
売れるかどうかも分からない酒に、数年ぶんの運転資金を先に沈める判断であった。赤玉ポートワインが毎年生む現金がなければ、着手そのものが成り立たない。技術的な難所より先に資金繰りの壁が立っていた事業で、その壁を越えられる位置に、当時の寿屋はすでに来ていた[6]。
着手から6年後の第1号
1929年、国産第1号となる「サントリーウイスキー」が世に出た。着手から6年が経っている。八十年史はこれを「昭和四年ついにサントリーウィスキーの誕生をみ世界の銘酒として、寿屋の洋酒陣に光彩を添えた」と記した。仕込みに要する年数がそのまま投資回収の遅れになる事業で、6年は最短に近い[7]。
結果
角瓶からトリスへ、主力が入れ替わる
ウイスキーはその後、同社の主力へ育った。1937年には「サントリーウイスキー12年(角瓶)」が続き、戦後は大衆向けの「トリスウイスキー」が高価だった洋酒を大衆酒に置き換えた。1955年時点の八十年史は、寿屋の製品が「大衆酒としてのトリスウィスキーをはじめ製品は二十数種を数え、業界に不動の地盤を築くに至つた」と書いている。甘味葡萄酒で稼いだ会社が、ウイスキーの会社として認識されるまでになった[8]。
半世紀後、この主力は逆向きに動いた。ウイスキー市場は1983年をピークに縮小へ転じ、「オールド」の販売本数は最盛期の1240万ケースから4分の1程度まで落ち込む。1923年の判断が作った柱は、60年で役割を終える形になった。もっとも、2014年に同社が1兆6500億円を投じて米蒸留酒大手ビームを買ったとき、買い直したのはこの事業である[9]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「壽屋」
- 経済人11(日本経済新聞社、1980年)竹鶴政孝「私の履歴書」
- 東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」