山之内製薬筑波研究センターの開設と、バイオテクノロジーを用いた医薬品への投資
導入した特許で国産化を続けるか、自社創製に資金を積むか——研究以外に残るものが無い会社は、どこまで研究に賭けられたか
- 概要
- 1989年3月、山之内製薬は茨城県つくば市に筑波研究センターを完成させ、研究の拠点を新たに構えた。有価証券報告書の沿革に建設が記された施設として、工場以外では唯一のものにあたる。
- 背景
- 日本の製薬業は海外からの新薬輸入販売と技術特許を買っての国産化という経路をとってきた。山之内製薬も米ロシュ社・西独ベーリンガー社との提携で伸びた会社であり、1985年のガスターで初めて自社創製の薬を海外へ渡す側に回っていた。
- 内容
- 売上の99%を医療用医薬品が占め、新薬の承認時期で業績が振れる収益構造のもと、研究の拠点に資金を向けた。バイオテクノロジーを用いた医薬品の開発もこの時期の主題の一つで、1992年には野口照久副社長が誌面でその成果を語っている。
- 含意
- 1990年代の山之内製薬は一人当たり経常利益で大手8社の首位に立ったが、開発費の絶対額では海外勢との差が残った。1989年に開発部長だった竹中登一氏が2000年に社長へ就いたように、研究への投資は人の側にも返った。
研究をやめたときに残るものが無い会社
「"ジリ貧"の悪循環を断つには独創技術の開発しかない」という森岡茂夫氏の言葉は、複数の道を比べて選んだ結果ではなく、道が一つしか無いという認識を示している。売上の99%を医療用医薬品が占め、新薬の承認時期がそのまま業績の振れになる会社にとって、研究への支出を絞ることは事業そのものを細らせることを意味した。筑波研究センターは、ガスターという一度きりの成功を続けられる形に変えるための拠点だったとみられる。
その拠点が世界の競争に届いたかといえば、届かなかった。ノバルティスファーマ社が研究開発費2000億円を投じたとき、国内首位の武田薬品でさえ629億円である。一人当たり経常利益で大手8社の首位に立っても、開発の絶対額では追いつけない位置に山之内製薬はいた。ただ、1989年に開発部長だった竹中登一氏が2000年に社長へ就いたように、研究に積んだ資金は人の側にも残った。投資の成果を薬の数だけで数えると、その分が抜け落ちる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
特許を買って国産化する産業
「薬種問屋的形態から発達したわが国製薬業は、海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化という経路をとつている」。1955年の『会社銀行八十年史』は、日本の製薬業をこう説明している。山之内製薬もその経路を歩んだ一社であり、1950年に米ロシュ社と提携してスルファ剤サイアジンを、1954年には西独ベーリンガー社と提携して抗生物質パラキシンを発売した。パラキシンは、米パークデヴィス社と組んだ三共のクロロマイセチンとの間で特許係争を招いている[1]。
導入した薬で稼ぐかぎり、売る地域も利益の取り分も提携先との契約が決める。その構造から山之内製薬が初めて外れたのが、1985年に発売した消化性潰瘍薬ガスターであった。かつてのライバル万有製薬を買収した米メルク社へ、自社で創った化合物を渡す側に回り、日経ビジネスは「"世界150位"の中堅企業、山之内が技術輸出をおこなった」と書いている。研究に資金を積んだ先に何が出るかを、会社は一度見ていた[2]。
新薬の当たり外れが業績を決める会社
1989年の山之内製薬は、売上の99%を病院・開業医向けの医療用医薬品が占めていた。日経産業新聞はこの比重を他社に比べて高いと書き、厚生省の認可手続きや臨床試験の推移によって「新薬の発売が集中する年と、新薬が発売できない年ができ、売り上げの変動が大きくなってしまう」構造を指摘している。研究の成否が、そのまま業績の振れとして表に出る会社であった[3]。
研究に資金を積める会社は、そもそも数えるほどしかなかった。1997年に業界の再編を分析した証券アナリストは、国内でしか臨床試験を実施できない会社は再編の対象になるとして「研究開発費がミニマムでも一〇〇億円は必要」と述べている。その水準を注ぎ込めるのは、大手8社を含む15社にとどまった。医療用医薬品に収益を集中させた山之内製薬はその中にいたが、裏を返せば、研究をやめたときに残るものが何も無い会社でもあった[4]。
決断
1989年3月、筑波研究センター
1989年3月、山之内製薬は茨城県つくば市に筑波研究センターを完成させた。有価証券報告書の沿革が建設として挙げるのは、1968年の焼津工場、1974年の高萩工場、1987年の西根工場と、この筑波研究センターだけである。製剤と合成の工場が並ぶその列に研究の施設が加わったのは、82年の社歴で筑波が初めてであった。会社の記録の側でも、工場と同じ重さの建設として扱われている[5]。
なぜこの時期に研究の拠点へ資金を回したのか。森岡茂夫氏は、会長となった1993年にこう語っている。「"ジリ貧"の悪循環を断つには独創技術の開発しかない。本当の独自技術の勝負を問われる時代はすぐそこに迫っている。わが国の企業にとって残された時間は刻々と減っていく。リスクは大きい。しかし、1990年代に来る医薬品の黄金時代に企業繁栄を約束するには、今、どうしても独創的な研究開発へ翔ばざる得ないのだ」。導入か創製かを比べたうえでの選択ではなく、創製のほかに道が無いという認識であった[6]。
バイオテクノロジーと、業績の振れを抑える手
バイオテクノロジーを用いた医薬品の開発は、この時期の山之内製薬が抱えた主題の一つであった。1992年8月、副社長の野口照久氏が「バイオ型医薬開発結実へ」と題して日経ビジネスの誌面に登場している。研究の担当役員が、成果を語る立場で経済誌に出るところまで来ていた。もっとも、物質の発見から新薬の発売までには10年以上かかる。1989年に構えた拠点が答えを出すのは、早くても1990年代の終わりであった[7][8]。
答えが出るまでの十年をどう持ちこたえるかという課題も、同時に残っていた。筑波研究センターの完成から一カ月後の1989年4月、山之内製薬は米シャクリーを傘下に収めて栄養補助食品事業へ入る。「栄養補助食品のように一年を通じて平均して売れる商品を持つことで業績を安定させるのが永年の課題だった[9]」と日経産業新聞は伝えている。十年先を見た投資と、来期の変動を抑える手が、同じ春に並んで打たれた。
結果
1990年代の収益と、残った規模の差
1992年3月期の連結売上高は3575億円、経常利益は676億円であった。1996年3月期には従業員一人当たり売上高7462万円、一人当たり経常利益1530万円をあげ、いずれも大手8社の首位に立っている。最下位の田辺製薬の一人当たり経常利益210万円は、山之内製薬の7分の1に届かない。ガスターを中心とする主要5品目で年商1600億円を計上し、開発新薬のストックも厚いと評された[10][11]。
それでも、世界の競合との規模の差は縮まらなかった。チバガイギー社とサンド社の合併で生まれたノバルティスファーマ社の研究開発費2000億円に対し、国内首位の武田薬品は629億円、三共は495億円にとどまる。一人当たりの効率で国内の頂点に立ったところで、開発に投じる絶対額では、武田薬品ですら3倍を超える差をつけられていた。研究に資金を積むという1989年の選択は、この差を埋めるには足りなかった[12]。
研究から出た社長
筑波研究センターが完成した1989年に開発部長の職にあったのが、竹中登一氏であった。1964年に岐阜大学農学部を出て入社し、中央研究所の研究員から主任研究員、開発部第一室長を経て開発部長に就き、1990年に中央研究所副所長、1993年に取締役創薬研究本部長、1997年に研究開発担当の常務を務めた。共同論文を含めて論文は100本を超え、医学博士の学位と筑波大学基礎医学系客員教授の肩書きを持つ研究者であった[13]。
2000年4月に社長へ就いたとき、業績は好調であった。前期の単独は最高益、連結も最高益に近づき、同年5月には高コレステロール治療薬を発売している。武田薬品と三共に業績で差をつけられている現状から、五年以内に先頭グループへ入ることを目標に掲げた。竹中氏は「研究者でも常に複数のアプローチや課題を持つこと。一つがダメになっても他の攻め方、やり方があるはず」と語っている。研究に積んだ資金が返したのは、薬だけではなかった[14]。
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1985年12月19日号「特集・医薬品市場」
- 日経ビジネス 1992年8月31日号「野口照久[山之内製薬副社長]バイオ型医薬開発結実へ」
- 日経ビジネス 1993年8月2日号「編集長インタビュー 森岡茂夫[山之内製薬会長]倫理性を人事評価の対象に」
- 日経産業新聞 1989年4月14日
- 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
- 週刊東洋経済 2000年6月10日号「トップの履歴書 山之内製薬社長 竹中登一「はやい」がキーワード、行動的な研究者」
- 山之内製薬 会社年鑑(連結業績)