塩野義製薬 の歴史

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創業 1878年
創業者 塩野義三郎
創業地 大阪府大阪市道修町
創業
1878年3月、初代塩野義三郎が大阪・道修町で薬種問屋を創業した。当初の取扱いは和漢薬だったが、1886年から1897年にかけて品目を洋薬へ移し、欧米の商社と直接取引を始めている。江戸期以来の漢方流通の中心地にあって、卸の本流から外れる選択だった。洋薬を扱うには成分分析の知識が要り、その蓄積が1910年2月の塩野製薬所建設につながる。1919年6月には資本金150万円の株式会社塩野義商店へ改組し、1943年7月、戦時下で塩野義製薬へ改称した。1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ上場している。
決断
自社で創った薬を、海外では自ら売らないと決めた。戦後の製品は米ロッシュや米リリーからの技術導入に多くを負っていたが、1962年3月に社長の塩野孝太郎氏は『人真似の歴史』からの転換を社内へ宣言し、売上の拡大より新研究所の建設を優先した。1958年には自社創製の持続性サルファ剤シノミンが生まれ、1960年にはロシュ社へ技術を輸出する立場に変わる。米サイエル・ファーマを約14億ドルのTOBで完全子会社化したのは2008年で、初めて米国の営業組織を得た。ところが4年後の2012年、HIV合弁の持分50%を英ViiV Healthcareへ移してその株式10%を取得し、HIV治療薬ドルテグラビルを自ら売る道を閉じている。買った販売網は生活習慣病の医師を回るもので、HIVの専門医には届かない。この不一致が、創薬と販売を切り離す現在の形を決めた。
現況
売上の6割は、英ViiV Healthcareから受け取るロイヤリティである。2026年3月期の売上収益4,996億円のうち欧州が2,988億円を占めるが、そこに自社の営業組織はない。日本は1,521億円、北米は331億円にとどまる。営業利益1,667億円・当期利益2,052億円はいずれも過去最高で、営業利益率は33%にあたる。2022年11月には緊急承認制度で新型コロナ経口薬ゾコーバの承認を取得し、政府による200万人分の買上が1,000億円の売上として計上された。この年の売上収益4,267億円は、2002年に記録した4,202億円を20年ぶりに上回っている。
競合
大手が統合で規模を作った2005年に、塩野義製薬は単独で残った。同じ年に三共と第一製薬が株式移転で第一三共を設けたのも、単独では世界と競う開発費に達しないという判断だった。塩野義の2026年3月期の売上収益4,996億円は、約6兆8000億円のシャイアー買収で規模を作った武田薬品工業の9分の1にとどまる。それでも営業利益率33%は国内の製薬大手で最も高い。自前の海外販売網を持たない代わりに、販売費を増やさずに利益を積める構造だからである。その利益は、ドルテグラビル1品の特許期間に縛られている。
塩野義製薬:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 道修町の薬種問屋から洋薬へ賭けた業態転換 (1878年〜)

和漢薬を捨てて洋薬に賭けた道修町の問屋

1878年3月、初代塩野義三郎が大阪・道修町で薬種問屋を創業した[1][2][3]。独立したのは塩野義三郎が満24歳の誕生日にあたる3月17[4]日のことで、後年シオノギはこの日を創業日に数えている。当初の取扱いは和漢薬だったが、1886年から1897年にかけて取扱品目を洋薬に転換し、明治30年ごろから欧米の商社と直接取引を始めた。[5]江戸期以来の漢方流通の中心地で、卸の本流から外れる選択だった。当時の道修町は和漢薬の集散地として確立しており、洋薬への切り替えは既存の取引網を一度捨てることを意味した。明治期の日本では西洋医学の制度化が進み、医薬の需要構造が漢方から洋薬へ移る過渡期にあった。塩野義三郎はその潮目に、道修町の古い流通網ではなく欧米商社との直取引に賭け、問屋業の顔をしながら洋薬の窓口を内に抱え込んだ。

  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年3月に薬種問屋(後の塩野義)が創業した
    • [2]創業者は初代塩野義三郎
    • [3]創業地は大阪・道修町で、当初は薬種問屋(和漢薬の販売)だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [4]初代塩野義三郎が独立したのは満24歳の誕生日にあたる明治11年(1878年)3月17日だった
    • [5]明治30年ごろから欧米の商社と直接取引を行うようになった

この転換が、のちの自社製造への布石となった。洋薬を扱うには成分分析と品質管理の知識が必要で、問屋業務のなかで製薬の基礎が蓄積された。1908年に本格的な製薬研究へ取り組み、[6]1910年2月、塩野製薬所を建設して問屋業から自社製造へ進出した。[7]大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に置かれたこの塩野製薬所(のちの淀川工場)で自社製品の製造を始め、当初の製品は塩酸キニーネ、サリチル酸ソーダ、制酸剤[8]アンタチヂンだった。販売と製造を社内に併せ持つ二段階の体制が、製薬専業企業としての出発点となった。和漢薬の流通から洋薬の製造へという業態転換は近代日本の医薬流通史でも早い時期にあたる動きで、創業から30年あまりで問屋から製造業への移行が一段落した。明治末の製薬業はドイツ製の輸入原料に依存する脆弱な構造で、自社で原料から製剤まで手掛ける企業は少なかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [6]明治41年(1908年)に本格的な製薬研究へ取り組み始めた
    • [8]塩野製薬所(のちの淀川工場)は大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に置かれ、当初の製品は塩酸キニーネ・サリチル酸ソーダ・制酸剤アンタチヂンだった
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1910年2月に塩野製薬所を建設し問屋業から自社製造へ進出した
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年3月に薬種問屋(後の塩野義)が創業した
    • [2]創業者は初代塩野義三郎
    • [3]創業地は大阪・道修町で、当初は薬種問屋(和漢薬の販売)だった
    • [7]1910年2月に塩野製薬所を建設し問屋業から自社製造へ進出した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [4]初代塩野義三郎が独立したのは満24歳の誕生日にあたる明治11年(1878年)3月17日だった
    • [5]明治30年ごろから欧米の商社と直接取引を行うようになった
    • [6]明治41年(1908年)に本格的な製薬研究へ取り組み始めた
    • [8]塩野製薬所(のちの淀川工場)は大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に置かれ、当初の製品は塩酸キニーネ・サリチル酸ソーダ・制酸剤アンタチヂンだった

株式会社化から社名に込めた「製薬専業」の宣言

1919年6月、塩野義三郎商店は塩野製薬所を合併し[9][10]、資本金150万円で株式会社塩野義商店に改組して東京に出張所を開設した。[11]個人商店から近代的な株式会社への移行であり、資本調達と経営の継続性を担保する組織形態を備えた。第一次世界大戦でドイツからの薬品輸入が途絶するなか、塩野義は強心利尿剤デキタミン、ビタミンB剤パラヌトリン、神経痛治療剤の塩酸シノメニンを中心に製薬事業を進めた[12]。1921年に浦江試験部を新設し、[13]1922年5月には神戸醋酸工業の土地・建物を買収して杭瀬工場を発足させ、製造拠点を関西圏に複数化した。[14][15]1930年末にはこの杭瀬工場でシオノアスピリンの結晶[16]が生まれ、続いてプレホルモンやアクチゾールなどの薬品がつくられた。輸入途絶による国産化圧力は道修町の老舗問屋が製造業へ主力を移す流れを生み、塩野義も株式会社化と工場増設を重ねて製造能力で販売力を裏打ちする構造を築き直した。

  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1919年6月に株式会社塩野義商店へ改組した
    • [11]1919年の株式会社化時の資本金は150万円だった
    • [14]1922年5月に神戸醋酸工業の土地・建物を買収して杭瀬工場を発足させた
    • [15]1922年5月に神戸醋酸工業の土地・建物を買収して杭瀬工場を発足させた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [10]1919年の改組時に塩野義三郎商店は塩野製薬所を合併し東京に出張所を開設した
    • [12]第一次世界大戦でドイツからの薬品輸入が途絶するなか、デキタミン(強心利尿剤)・パラヌトリン(ビタミンB剤)・塩酸シノメニン(神経痛治療剤)を中心に製薬事業を進めた
    • [13]1921年に浦江試験部を新設した
    • [16]1930年末に杭瀬工場でシオノアスピリンの結晶が生まれ、続いてプレホルモン・アクチゾールなどの薬品がつくられた

1937年の日華事変を契機に薬品行政が強化されるなかで、塩野義の新薬[17]はその実力を示した。1943年7月、戦時下で社名を『塩野義製薬株式会社』に改称した[18]。『商店』から『製薬』への商号変更は、製造業としてのアイデンティティを社名で明確化する宣言だった。戦時統制下では医薬品が軍需資材として位置付けられ、製薬専業の旗印を立てることが事業継続の前提でもあった。1945年8月には塩野義化学を合併して赤穂工場として発足[19]させ、1946年1月に滋賀県へ油日農場を開設して薬用植物研究を開始した[20]。敗戦直後、3代目塩野孝太郎氏は幹部に『今後は世界が相手になることだ。われわれは何事も、国際水準を目標に努力し、精進しなければ生き残ることはできない』[引用元]と訓示している。[21]問屋出自の販売力に、自社製造と原料研究を縦に積み上げた企業形態が、戦後の上場企業塩野義となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [17]1937年の日華事変を契機に薬品行政が強化されるなか塩野義の新薬が実力を示した
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1943年7月に社名を「塩野義製薬株式会社」へ改称した
    • [19]1945年8月に塩野義化学を合併して赤穂工場を発足させた
    • [20]1946年1月に滋賀県へ油日農場を開設し薬用植物研究を開始した
  • ダイヤモンド臨時増刊(ダイヤモンド社, 1967年2月25日号)
    • [21]3代目(敗戦直後の経営者)は塩野孝太郎
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1919年6月に株式会社塩野義商店へ改組した
    • [11]1919年の株式会社化時の資本金は150万円だった
    • [14]1922年5月に神戸醋酸工業の土地・建物を買収して杭瀬工場を発足させた
    • [15]1922年5月に神戸醋酸工業の土地・建物を買収して杭瀬工場を発足させた
    • [18]1943年7月に社名を「塩野義製薬株式会社」へ改称した
    • [19]1945年8月に塩野義化学を合併して赤穂工場を発足させた
    • [20]1946年1月に滋賀県へ油日農場を開設し薬用植物研究を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
    • [10]1919年の改組時に塩野義三郎商店は塩野製薬所を合併し東京に出張所を開設した
    • [12]第一次世界大戦でドイツからの薬品輸入が途絶するなか、デキタミン(強心利尿剤)・パラヌトリン(ビタミンB剤)・塩酸シノメニン(神経痛治療剤)を中心に製薬事業を進めた
    • [13]1921年に浦江試験部を新設した
    • [16]1930年末に杭瀬工場でシオノアスピリンの結晶が生まれ、続いてプレホルモン・アクチゾールなどの薬品がつくられた
    • [17]1937年の日華事変を契機に薬品行政が強化されるなか塩野義の新薬が実力を示した
  • ダイヤモンド臨時増刊(ダイヤモンド社, 1967年2月25日号)
    • [21]3代目(敗戦直後の経営者)は塩野孝太郎

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塩野義製薬の沿革1878〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1878〜1948年道修町の薬種問屋から洋薬へ賭けた業態転換初代塩野義三郎が薬種問屋を創業
塩野製薬所を建設★★
塩野義商店に改組
杭瀬工場を取得
塩野義三郎塩野義製薬に商号変更
塩野義三郎塩野義化学を合併
塩野義三郎油日農場を開設
1949〜2007年戦後上場から創業家経営の終焉までの多領域モデル塩野義三郎東京・大阪両証券取引所に株式上場
塩野孝太郎導入品依存からの転換と、独創品開発に向けた新研究所の建設

1950年代後半から1962年にかけて、塩野義製薬が外国からの技術導入に頼る製品構成を改め、自社創製の独創品と研究所への投資を経営の軸に据えた経営判断。1961年に新研究所が完成し、1962年3月には社長の塩野孝太郎氏が社内へ『人真似の歴史』からの転換を宣言した。

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★★★
塩野孝太郎プロパーをディテールマンに名称変更
塩野孝太郎台湾塩野義製薬を設立
塩野孝太郎摂津工場を新設
塩野孝太郎日亜薬品工業を設立
吉利一雄金ケ崎工場を新設
塩野芳彦武州製薬を設立
塩野芳彦塩野元三氏が社長に就任
塩野元三シオノギUSAを設立
2008〜2023年感染症特化とロイヤリティ経営による利益構造の転換手代木功手代木功氏が社長に就任
手代木功米サイエル・ファーマをTOBで完全子会社化し、初の本格的な米国販売基盤を築く

2008年9月1日、塩野義製薬が米ジョージア州の製薬会社サイエル・ファーマを株式公開買付け(TOB)などで買収すると発表した経営判断。1株31ドル、総額約14億2400万ドル(約1500億円)を投じて完全子会社化し、同年10月に買収を完了した。同年4月に社長へ就任した手代木功氏の主導による、初の本格的な米国事業基盤の獲得であった。

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★★★
手代木功武州製薬の全株式を譲渡
手代木功医薬研究センターを新設
手代木功HIV合弁持分の英ViiV Healthcareへの移転と、ViiV株式10%の取得

2012年10月29日、塩野義製薬が英ViiV Healthcare Ltd.との新たな枠組みについて最終契約を締結したと発表した経営判断。HIVインテグラーゼ阻害薬ドルテグラビルなどの権利を持つ合弁会社の持分50%をViiV社へ移転し、対価としてViiV社株式1,112株(10.0%)を取得する内容で、同月31日に取引を完了した。

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★★★
手代木功シオノギヘルスケアを設立
手代木功シオノギファーマを設立★★
手代木功手代木功が代表取締役会長兼社長CEOに就任
手代木功新型コロナ経口薬ゾコーバの緊急承認制度による承認取得と、承認前からの生産着手

2022年11月22日、塩野義製薬の新型コロナウイルス感染症治療薬『ゾコーバ錠125mg』が、厚生労働省から緊急承認制度に基づく製造販売承認を取得した経営判断。同制度が適用された最初の承認医薬品であり、承認と同日に日本政府が100万人分を購入する売買契約が締結された。

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★★★
手代木功Qpex Biopharmaを買収★★
手代木功平安塩野義を完全子会社化★★
出典・参考
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「塩野義製薬」の項
  • ダイヤモンド臨時増刊(ダイヤモンド社, 1967年2月25日号)

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