1894年〜 藤沢友吉商店 ── 道修町の薬種商から製薬会社へ、そして上場まで
- 1894年初代藤沢友吉が大阪・道修町に薬種商「藤沢友吉商店」を創始
- 1899年大阪・天満橋に精製樟脳の工場を新設
- 1899年仕入販売から製造へ移行
- 1904年東京支店を開設
- 1904年大阪・天神橋筋に用地を取得
- 1930年藤沢友吉商店を設立
- 1943年商号を藤沢薬品工業に変更
蜂蜜と粗製樟脳から始まった道修町の薬種商
1894年1月、初代藤沢友吉は大阪・道修町2丁目に薬種商「藤沢友吉商店」を開いた。扱ったのは蜂蜜と蜜蝋、それに粗製樟脳の仕入れと販売である。道修町は江戸期に問屋仲間が特権的な地位を認められて以来の薬種問屋街で、武田・塩野義・田辺といった後の大手はいずれもこの町から出ている。『会社銀行八十年史』は「今日の代表的製薬会社たる武田、塩野義、田辺等の諸会社、東京本町、大阪道修町の二大市場の基礎はすでに、この時代から固められてきた」と書いた。藤沢友吉商店の創業は、その系譜の末に連なる。 [1][2][3]
- [1]1894年1月 初代藤沢友吉が大阪道修町2丁目に薬種商・藤沢友吉商店を創始
- [2]創業時の取扱品は蜂蜜・蜜蝋・粗製樟脳
- [3]道修町を出自とする代表的製薬会社として武田・塩野義・田辺が挙げられている
もっとも、薬種商であることと製薬会社であることは、当時まだ別だった。明治期の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず、国内で作られていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまる。実態を支えていたのは、輸入薬を仕入れて売る問屋の商いである。日露戦争後になって、輸入薬品を扱っていた武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎らが小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り始めた。商人が製薬業を兼ねる道が開いたのは、この時期にあたる。藤沢友吉商店が扱った蜂蜜・蜜蝋・粗製樟脳も、薬そのものではなく薬の材料である。出発点は製薬ではなく、あくまで薬種の商いだった。 [4][5]
- [4]明治末期に国内生産されていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ等にすぎなかった
- [5]日露戦争後に武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎らが商人から製薬業兼業へ移行した
藤沢の場合、その移行は1899年に始まる。粗製樟脳を仕入れて売るだけでなく自ら精製するため、大阪・天満橋4丁目に工場を建てた。1904年には東京支店を置き、大阪・天神橋筋におよそ1万3000平方メートルの用地を取得して、翌年に天六工場を完成させている。『会社銀行八十年史』は1904年の工場建設を「近代的メーカーとしての地歩を確立した」転機と記した。なお『会社銀行八十年史』は、この工場の所在を大阪市北区浮田町と記す。樟脳は硝化綿とともにセルロイドの主原料でもあり、需要の裾野が広い品目だった。創業から10年で、販売の東京進出と生産設備の拡張が同時に進んだ。 [6][7][8]
- [6]1899年 大阪・天満橋4丁目に精製樟脳の工場を建設
- [7]1904年 東京支店設置・天神橋筋に約1万3000平方メートルを取得、翌年天六工場が完成
- [8]会社銀行八十年史は1904年の工場建設を近代的メーカーとしての地歩の確立と記す
- [1]1894年1月 初代藤沢友吉が大阪道修町2丁目に薬種商・藤沢友吉商店を創始
- [2]創業時の取扱品は蜂蜜・蜜蝋・粗製樟脳
- [6]1899年 大阪・天満橋4丁目に精製樟脳の工場を建設
- [7]1904年 東京支店設置・天神橋筋に約1万3000平方メートルを取得、翌年天六工場が完成
- [3]道修町を出自とする代表的製薬会社として武田・塩野義・田辺が挙げられている
- [4]明治末期に国内生産されていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ等にすぎなかった
- [5]日露戦争後に武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎らが商人から製薬業兼業へ移行した
- [8]会社銀行八十年史は1904年の工場建設を近代的メーカーとしての地歩の確立と記す
第一次大戦の輸入途絶が生んだブルトーゼとサントニン
藤沢が自社品を持つきっかけは戦争だった。当時の日本の医薬品市場は、バディッシュ・バイエル・ヘキストといったドイツのIG組合が押さえており、日本企業が技術を導入しようとしても国際的な独占組織に拒まれた。1914年に第一次大戦が始まってドイツからの輸入が止まると、医薬品は一斉に品不足に陥る。政府は1915年6月に「染料医薬品製造奨励法」を公布し、条件を満たす会社に10年間、年8分の配当を保証すると約束した。国産化への圧力と補助が同時にかかった。もっとも、技術の壁は高い。日本企業が先進国から技術を導入しようとすれば国際的な独占組織に拒まれ、製品を作れてもダンピングにさらされる恐れが強かった。 [9][10]
- [9]染料・医薬品はドイツのIG組合(バディッシュ・バイエル・ヘキスト)が日本市場を支配していた
- [10]1915年6月 染料医薬品製造奨励法の公布。10年間・年8分の配当保証
藤沢もこの波のなかで新製剤の開発に向かい、1917年に補血強壮剤ブルトーゼを、1919年に回虫駆除剤サントニンを発売した。『企業の歴史 明治百年』は「以後ブルトーゼとサントニンは藤沢を発展させる強力な武器となった」と記す。1925年には海人草から有効成分を抽出する工業化に成功し、回虫駆除剤マクニンを送り出している。輸入代替として始まった自社品が、以後の販売を支える柱になった。ブルトーゼは補血強壮剤、サントニンとマクニンは回虫駆除剤で、薬効は重なっていない。単品に依存せず複数の柱を並べる構えは、このときすでに現れている。 [11][12]
- [11]1917年 ブルトーゼ発売/1919年 サントニン発売
- [12]1925年 海人草からの抽出・工業化に成功しマクニンを発売
販路は国内にとどまらない。1921年には京城と上海へ支店・出張所を設けている。1926年に大阪市東淀川区加島町で新工場の建設へ着手し、天六工場の手狭を解消する大阪工場が1930年5月に完成した。その落成の年に、懸案だった株式組織が実現する。1930年12月、資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立した。加島町の工場は、以後この会社の本工場として動く。創業から36年を経ての法人化であり、個人商店の経営から近代会社の体裁へ移った。ただし商号は「藤沢友吉商店」のままで、薬種商の屋号をそのまま残している。 [13][14]
- [13]1921年 京城・上海に支店および出張所を設置
- [14]1930年12月 資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立
- [9]染料・医薬品はドイツのIG組合(バディッシュ・バイエル・ヘキスト)が日本市場を支配していた
- [10]1915年6月 染料医薬品製造奨励法の公布。10年間・年8分の配当保証
- [11]1917年 ブルトーゼ発売/1919年 サントニン発売
- [12]1925年 海人草からの抽出・工業化に成功しマクニンを発売
- [13]1921年 京城・上海に支店および出張所を設置
- [14]1930年12月 資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立
大陸の足場を失った敗戦と、社名の切り替え
1921年に置いた京城と上海の拠点が、その先行例にあたる。1938年以降、藤沢は満州・朝鮮・中国に関係会社を相次いで設立した。国内でも1943年から1944年にかけて、京都・三国・帝塚山・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を合併・買収・増設している。政府の大陸政策と医薬品の国産化運動が結びついた時期で、大陸へ出ること自体は当時の産業政策に沿った選択だった。大陸に置いた関係会社は現地生産と販売の拠点で、国内工場の増設と一体で動いている。資本金も1944年に333万5000円、次いで351万円、385万円と刻むように増えている。 [15][16]
- [15]1938年以降 満州・朝鮮・中国に関係会社を設立、1943〜44年に国内6工場を合併・買収・増設
- [16]資本金は1944年に333万5000円、次いで351万円、385万円へ増加
1943年、商号を藤沢薬品工業に変更した。明治期から登録商標として持っていた富士山印を、このとき正式な社章に採用している。『企業の歴史 明治百年』は「富士山印は藤沢の藤に相通ずるものがあり、かつ世界的に有名な霊峰富士の如く薬品市場に君臨し伸展することを表徴したもの」と説明する。商標そのものは明治期から使われており、社名の変更に社章の制定が続いた。薬種商の屋号を残した「藤沢友吉商店」から、製薬企業を名乗る「藤沢薬品工業」への切り替えであり、呼称を医家向け医薬中心という事業の実態に合わせるものだった。以後62年間この社名で通した。 [17][18]
- [17]1943年 商号を藤沢薬品工業に変更し、富士山印を正式な社章に採用
- 企業の歴史 明治百年(1968年)第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」/週刊東洋経済 2004年4月17日号「[KeyPerson]竹中登一 山之内製薬社長 初の大型合併に踏み切る」
- [18]1943年から2005年の合併まで62年間、藤沢薬品工業の社名で通した
敗戦は、その拡大の前提を一挙に消した。海外に持っていた足場をすべて失った同社は、1945年12月に600万円へ増資し、残る国内地盤の強化へ切り替える。1946年に福岡支店、1947年に札幌支店と京都研究所を開設した。同じ1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年には認可条件を実行して3600万円へ増資し、指定を離脱している。1949年、株式を上場した。京都研究所を戦後すぐに置いたのは、輸入にも大陸生産にも頼れないなかで自社開発に活路を求めたためであろう。大陸に依存した成長の道筋は断たれ、国内市場での再出発が始まった。 [19][20][21]
- [19]1945年 敗戦により満州・朝鮮・中国の事業基盤を喪失、同年12月に600万円へ増資
- [20]1946年 特別経理会社の指定、1948年に3600万円へ増資して離脱
- 週刊東洋経済 1998年4月11日号
- [21]1949年 株式を上場
- [15]1938年以降 満州・朝鮮・中国に関係会社を設立、1943〜44年に国内6工場を合併・買収・増設
- [16]資本金は1944年に333万5000円、次いで351万円、385万円へ増加
- [19]1945年 敗戦により満州・朝鮮・中国の事業基盤を喪失、同年12月に600万円へ増資
- [20]1946年 特別経理会社の指定、1948年に3600万円へ増資して離脱
- [17]1943年 商号を藤沢薬品工業に変更し、富士山印を正式な社章に採用
- 企業の歴史 明治百年(1968年)第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」/週刊東洋経済 2004年4月17日号「[KeyPerson]竹中登一 山之内製薬社長 初の大型合併に踏み切る」
- [18]1943年から2005年の合併まで62年間、藤沢薬品工業の社名で通した
- 週刊東洋経済 1998年4月11日号
- [21]1949年 株式を上場