{"title":"藤沢薬品工業の歴史概略","sections":[{"start_year":1894,"end_year":1949,"main_title":"藤沢友吉商店 ── 道修町の薬種商から製薬会社へ、そして上場まで","subsections":[{"title":"蜂蜜と粗製樟脳から始まった道修町の薬種商","text":"1894年1月、初代藤沢友吉は大阪・道修町2丁目に薬種商「藤沢友吉商店」を開いた。扱ったのは蜂蜜と蜜蝋、それに粗製樟脳の仕入れと販売である。道修町は江戸期に問屋仲間が特権的な地位を認められて以来の薬種問屋街で、武田・塩野義・田辺といった後の大手はいずれもこの町から出ている。『会社銀行八十年史』は「今日の代表的製薬会社たる武田、塩野義、田辺等の諸会社、東京本町、大阪道修町の二大市場の基礎はすでに、この時代から固められてきた」と書いた。藤沢友吉商店の創業は、その系譜の末に連なる。\n\nもっとも、薬種商であることと製薬会社であることは、当時まだ別だった。明治期の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず、国内で作られていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまる。実態を支えていたのは、輸入薬を仕入れて売る問屋の商いである。日露戦争後になって、輸入薬品を扱っていた武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎らが小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り始めた。商人が製薬業を兼ねる道が開いたのは、この時期にあたる。藤沢友吉商店が扱った蜂蜜・蜜蝋・粗製樟脳も、薬そのものではなく薬の材料である。出発点は製薬ではなく、あくまで薬種の商いだった。\n\n藤沢の場合、その移行は1899年に始まる。粗製樟脳を仕入れて売るだけでなく自ら精製するため、大阪・天満橋4丁目に工場を建てた。1904年には東京支店を置き、大阪・天神橋筋におよそ1万3000平方メートルの用地を取得して、翌年に天六工場を完成させている。『会社銀行八十年史』は1904年の工場建設を「近代的メーカーとしての地歩を確立した」転機と記した。なお『会社銀行八十年史』は、この工場の所在を大阪市北区浮田町と記す。樟脳は硝化綿とともにセルロイドの主原料でもあり、需要の裾野が広い品目だった。創業から10年で、販売の東京進出と生産設備の拡張が同時に進んだ。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"第一次大戦の輸入途絶が生んだブルトーゼとサントニン","text":"藤沢が自社品を持つきっかけは戦争だった。当時の日本の医薬品市場は、バディッシュ・バイエル・ヘキストといったドイツのIG組合が押さえており、日本企業が技術を導入しようとしても国際的な独占組織に拒まれた。1914年に第一次大戦が始まってドイツからの輸入が止まると、医薬品は一斉に品不足に陥る。政府は1915年6月に「染料医薬品製造奨励法」を公布し、条件を満たす会社に10年間、年8分の配当を保証すると約束した。国産化への圧力と補助が同時にかかった。もっとも、技術の壁は高い。日本企業が先進国から技術を導入しようとすれば国際的な独占組織に拒まれ、製品を作れてもダンピングにさらされる恐れが強かった。\n\n藤沢もこの波のなかで新製剤の開発に向かい、1917年に補血強壮剤ブルトーゼを、1919年に回虫駆除剤サントニンを発売した。『企業の歴史 明治百年』は「以後ブルトーゼとサントニンは藤沢を発展させる強力な武器となった」と記す。1925年には海人草から有効成分を抽出する工業化に成功し、回虫駆除剤マクニンを送り出している。輸入代替として始まった自社品が、以後の販売を支える柱になった。ブルトーゼは補血強壮剤、サントニンとマクニンは回虫駆除剤で、薬効は重なっていない。単品に依存せず複数の柱を並べる構えは、このときすでに現れている。\n\n販路は国内にとどまらない。1921年には京城と上海へ支店・出張所を設けている。1926年に大阪市東淀川区加島町で新工場の建設へ着手し、天六工場の手狭を解消する大阪工場が1930年5月に完成した。その落成の年に、懸案だった株式組織が実現する。1930年12月、資本金315万円で株式会社藤沢友吉商店を設立した。加島町の工場は、以後この会社の本工場として動く。創業から36年を経ての法人化であり、個人商店の経営から近代会社の体裁へ移った。ただし商号は「藤沢友吉商店」のままで、薬種商の屋号をそのまま残している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大陸の足場を失った敗戦と、社名の切り替え","text":"1921年に置いた京城と上海の拠点が、その先行例にあたる。1938年以降、藤沢は満州・朝鮮・中国に関係会社を相次いで設立した。国内でも1943年から1944年にかけて、京都・三国・帝塚山・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を合併・買収・増設している。政府の大陸政策と医薬品の国産化運動が結びついた時期で、大陸へ出ること自体は当時の産業政策に沿った選択だった。大陸に置いた関係会社は現地生産と販売の拠点で、国内工場の増設と一体で動いている。資本金も1944年に333万5000円、次いで351万円、385万円と刻むように増えている。\n\n1943年、商号を藤沢薬品工業に変更した。明治期から登録商標として持っていた富士山印を、このとき正式な社章に採用している。『企業の歴史 明治百年』は「富士山印は藤沢の藤に相通ずるものがあり、かつ世界的に有名な霊峰富士の如く薬品市場に君臨し伸展することを表徴したもの」と説明する。商標そのものは明治期から使われており、社名の変更に社章の制定が続いた。薬種商の屋号を残した「藤沢友吉商店」から、製薬企業を名乗る「藤沢薬品工業」への切り替えであり、呼称を医家向け医薬中心という事業の実態に合わせるものだった。以後62年間この社名で通した。\n\n敗戦は、その拡大の前提を一挙に消した。海外に持っていた足場をすべて失った同社は、1945年12月に600万円へ増資し、残る国内地盤の強化へ切り替える。1946年に福岡支店、1947年に札幌支店と京都研究所を開設した。同じ1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年には認可条件を実行して3600万円へ増資し、指定を離脱している。1949年、株式を上場した。京都研究所を戦後すぐに置いたのは、輸入にも大陸生産にも頼れないなかで自社開発に活路を求めたためであろう。大陸に依存した成長の道筋は断たれ、国内市場での再出発が始まった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1950,"end_year":1980,"main_title":"抗生物質で「盟主武田を抜く」 ── 品目分散から主力集中への転換","subsections":[{"title":"工場閉鎖と技術導入で組み直した戦後の製品構成","text":"戦後の再出発は、規模の縮小から始まった。薬業界の不況に対処するため、藤沢は三国・石切・信太山・尼ケ崎の各工場を閉鎖して生産を集中し、1950年5月に機構改革を断行する。戦中に買い集めた工場群を、数年で手放したことになる。当時の資金繰りは楽ではなく、1950年ごろは銀行の支援でようやく倒産を免れる状態にあったと、のちに早川三郎社長が語っている。閉鎖したのは、1943年から1944年にかけて合併・買収・増設したばかりの工場である。戦中の拡大を、戦後に自ら巻き戻す作業だった。ここを底に、生産と販売は急速に回復した。\n\n回復を後押ししたのは抗生物質だった。ペニシリンの製造には1948年ごろ82社が進出して競い合い、1955年時点では約20社にまで減っている。1954年の抗生物質製剤の生産金額は128億円で、医薬品総生産額の17%を占めた。ただし日本の製薬業が取った経路は、自前の創薬ではない。『会社銀行八十年史』は「海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化」と要約し、その結果として特許係争が絶えないことも指摘している。藤沢が山之内とともに西独ベーリンガー社と提携したパラキシンも、三共のクロロマイセチンとの係争の当事者だった。\n\n藤沢もこの経路を歩んだ。1953年2月に9000万円、同年12月に1億8000万円へ倍額増資して設備を強化し、スイスのガイギー社との技術契約を正式に結んだ。提携品のロイマチス治療剤イルガピリンは1952年から発売しており、高級サルファ剤イルガフェンとともに主力に据えている。1955年にはスウェーデンのアストラ社との提携品キシロカインを発売した。一方で1954年には、自社開発の新抗生物質トリコマイシンを送り出している。1955年3月期の売上高は11億円だった。ガイギー、カルロ・エルバ、アストラと、提携先は欧州各社に及ぶ。導入品と自社品を並走させる構えが、この時期に固まった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版（1961年3月期の事業別売上・大株主）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本企業要覧 1975年版（1975年3月期の大株主）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1977年11月7日号「藤沢薬品工業。“盟主”武田抜いた下剋上経営の秘密」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年3月26日号「藤澤友吉郎氏（藤沢薬品工業）登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"1961年の売上構成が示す品目分散と、銀行が握った資本","text":"1950年代後半から1960年代にかけて、藤沢は品目を広げた。1956年に三洋化学を吸収合併して名古屋工場とし、1958年にはチオクト酸を日本で初めて治療薬として開発、1961年にこれとビタミンBを結合した新製剤ノイビタを創製する。同じ1961年、食品の酸化防止剤エルビットの工業化に日本で初めて成功して非医薬品部門へ進出し、本社ビルも完成した。エルビットは食品向けであり、医薬の外へ出た最初の製品だった。設備投資では1962年の総合製剤工場、1964年の中央研究所と中央倉庫、1966年の富士工場が続く。\n\nその姿は数字にも出ている。1961年3月期・半期の事業別売上をみると、ビタミン剤・ホルモン剤が7億2612万円で28.7%、神経系薬剤が5億9649万円で23.6%、抗生物質・化学療法剤が5億9443万円で23.5%を占めた。この3区分だけで全体の4分の3を超える。残りは他社商品12.4%、自社製品その他5.7%、消化器系薬剤3.2%、循環器・呼吸器系薬剤2.9%と細かく分かれていた。特定の薬効に寄りかからない構成である。のちに主力となる抗生物質は、この時点ではまだ3番手で、全体の4分の1に届いていない。\n\n1968年時点の年間売上高は220億円、利益は14億5000万円で、5年前のおよそ3倍になった。販売高の6%以上を研究開発に投入し、直近5年に発売した製品が売上に占める比率は常に40%以上を保っている。イルガピリン、キシロカイン、ケミセチン、トリコマイシンなど主要10品目群で全売上高の66%を占め、8割以上が医家向けだった。一方、資本の側は銀行が握る。1961年3月期の大株主は大和銀行5.5%、東海銀行5.0%、安田信託銀行5.0%と並び、藤沢友吉は3.4%、内柴信吉が3.3%にとどまる。1975年3月期には三和銀行と東海銀行が各9.36%、日本生命保険が7.91%を持ち、創業家は上位10位から外れた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版（1961年3月期の事業別売上・大株主）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本企業要覧 1975年版（1975年3月期の大株主）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1977年11月7日号「藤沢薬品工業。“盟主”武田抜いた下剋上経営の秘密」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年3月26日号「藤澤友吉郎氏（藤沢薬品工業）登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"セファメジンが変えた売上構成と、1977年3月期の逆転","text":"1971年8月、藤沢は抗生物質セファメジンを発売した。発売年度に37億円を売り上げ、1976年度には年商300億円を超える。1977年当時の月商は27億円に達し、ライセンス輸出は60カ国に及んだ。1961年3月期に全体の23.5%だった抗生物質・化学療法剤は、1977年3月期には薬効分類別で40.9%を占める。神経系薬剤の25.7%と合わせれば、この2区分だけで66.6%になる。発売から5年で年商が8倍を超えた計算になる。10品目を並べて売上の66%を得ていた会社が、2つの薬効群に寄る構成へ変わった。\n\n1977年3月期、藤沢の経常利益は191億円となり、武田薬品工業の168億円を上回った。売上高は1013億円で、5年前と比べれば売上高は2.4倍、経常利益は2.8倍になっている。日経ビジネスはこれを「“盟主”武田抜いた下剋上経営」と書いた。ただし逆転したのは経常利益に限られる。売上高では武田を100として34.8にとどまり、規模の差は3倍近く開いたままだった。売上高経常利益率は18.9%で、規模の劣勢を利益率が埋めていた。首位に立ったという表現は、利益の一項目についてのみ正しい。\n\nそれでも、この一件が業界に残したものは小さくない。開発力があれば下位の会社が上位を制しうるという見方を、序列の固まっていた医薬品業界に持ち込んだ。1978年1月、早川三郎前社長の後任として藤澤友吉郎が社長に就任した。創業者の孫にあたり、1953年に東北大学理学部を卒業して入社、東京支社長・常務・副社長を経ての49歳での就任だった。もっとも、セファメジンの成功は次の課題も残した。ライセンス供与で終わらせるかぎり、海外で生まれる利益の大半は供与先に残る。この反省が、次の20年の海外展開の出発点になる。そして同じ藤澤友吉郎が、1998年にその海外展開の責任を取って会長職を退く。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 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段階的M&Aが残したもの","subsections":[{"title":"合弁への出資と家庭用品の切り離しが同時に進んだ1980年代前半","text":"1981年、藤沢は米スミスクラインと折半出資で販売会社フジサワスミスクラインを設立した。セファメジンをライセンス供与で終わらせた反省から、自社の販売網を作りに行ったものである。持分はそれぞれ50%で、経営も費用も折半である。合弁で相手のノウハウを借りながら、ゼロから網を敷く方式だった。しかし日本から持ち込んで製品化できたのは1品目にとどまり、赤字が続く。1983年には西独の中堅メーカー、クリンゲファルマに28%を出資した。米国と欧州に同時に足を掛けたものの、どちらもまだ小さな持分にすぎない。\n\n同じ時期、国内では薬価の引き下げが続いていた。営業利益はピーク時のおよそ半分に落ちている。1985年5月、藤沢はトイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品事業の約20品目をライオンへ譲渡した。1984年度の売上は37億円、譲渡額は業界推定で10億円前後にすぎない。譲渡したのは商標を含む諸権利で、生産は下請け10社近くが引き続き担い、家庭用品部の社員は全員が社内の他部門へ移った。3月初めの接触から2カ月余りで最終合意に達している。短期間で話がまとまったのは、譲渡の対象が工場でも人員でもなく商標を含む諸権利に限られていたためであろう。\n\n1961年に食品の酸化防止剤エルビットで非医薬品部門へ出てから24年、藤沢は医薬の外へ広げた事業を手放した。低収益の部門を切り離し、医療用医薬品へ資源を集めるためである。もっとも、譲渡額10億円という規模からすれば、得られた現金が海外投資の原資になるわけではない。この売却の意味は金額ではなく、経営が見るべき対象を医療用医薬品に絞ったことにある。以後、藤沢の投資は医療用医薬品と、それを売るための海外拠点にだけ向かう。同じ年の11月、藤沢は米国の後発医薬品メーカー、ライフォメッドに22.5%を資本参加した。","references":[{"title":"日経ビジネス 1985年9月16日号「ライオン、何を狙う？ 藤沢薬品の家庭用品事業とり込み」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年6月13日号「藤沢薬品工業 段階的M&Aで世界3極体制」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年12月14日号「堀口勝弘氏［藤沢薬品工業常務経営企画室長］新薬落ち込みに不正事件 米子会社不振で連結赤字」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「［特集］2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"出資を積み増して組み上げた日米欧の3極体制","text":"海外は、少しずつ買い足して広げた。ライフォメッドへの出資比率はのちに30%まで引き上げている。後発品メーカーを選んだのは、新薬メーカーの買収では投資額が大きすぎるという判断からである。1988年4月には、クリンゲファルマの出資比率を74%へ引き上げて経営権を取得し、欧州での基盤を確保した。少額の出資から入り、様子を見ながら比率を上げて子会社化する。1985年の22.5%、その後の30%、1988年の74%と、比率だけを並べれば緩やかな階段である。日経ビジネスはこの手法を「段階的M&Aで世界3極体制」と呼んだ。\n\n1989年10月、藤沢はライフォメッドの買収で合意した。金額は1070億円である。当時の年商のおよそ半分を投じる規模で、合弁を足掛かりにするのが通例だった製薬業界では異例の大型投資だった。1990年4月に手続きを完了し、既存の新薬会社と統合してフジサワUSAを設立する。組織と製品を一度に手に入れ、米国の販売網を仕上げる構想である。合意から手続きの完了まで半年を要している。段階を踏んで積み増してきた出資が、ここで一気に全部買いへ振れた。フジサワUSAは、新薬と後発品を併せ持つ会社になった。\n\nこの判断は、当時の条件のもとでは筋が通っている。日本の製薬会社が米国で自社販売するには相応の営業組織が要り、一から作れば10年はかかる。買えば数年で済む。後発品メーカーを対象にしたのも、新薬メーカーの価格からすれば手が届く範囲だったためである。1981年のフジサワスミスクラインで、合弁だけでは製品が流れないことも確かめていた。医薬品は効能の情報提供を含む販売活動そのものが収益の源泉で、主要国に子会社を持って自社販売できるかどうかが差になる。週刊東洋経済が後年そう書いたとおり、販売網を持つこと自体に価値があった。誤算は構想ではなく、買った会社の中身にあった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1985年9月16日号「ライオン、何を狙う？ 藤沢薬品の家庭用品事業とり込み」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年6月13日号「藤沢薬品工業 段階的M&Aで世界3極体制」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年12月14日号「堀口勝弘氏［藤沢薬品工業常務経営企画室長］新薬落ち込みに不正事件 米子会社不振で連結赤字」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「［特集］2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"虚偽データの発覚から上場来初の最終赤字まで","text":"1991年12月、買収前のライフォメッド時代にFDAへ提出していた承認申請データの虚偽が発覚した。対象は利尿剤フロセマイドを含む約10品目に及ぶ。販売中止にとどまらず、生産工程と新規の承認申請が2年にわたって止まった。工程不良による回収と合わせた損害は2000万ドルに上る。買収時の調査が経営状態にとどまり、当局への申請データまで検証していなかったことが露呈した。発覚したのは買収の手続きを終えてから1年8カ月後である。週刊東洋経済は、後発品のノウハウを自身で持たないため買収先の選択を米銀に頼らざるをえなかったと書いている。\n\n1992年6月、藤山朗が社長に就任し、翌年1月に計30人を米国へ派遣して立て直しに着手する。派遣した部隊は約2年を要し、1994年8月にFDAの承認申請保留措置が解除された。その間に業績は崩れる。米国の主力オーファンドラッグ「ペンタム」が優先権の期限切れで前年度のおよそ3分の1に落ち、不正事件の処理費用が重なった。1993年3月期、藤沢は連結で初めての赤字に転落する見通しとなった。FDAの措置が解けるまでの2年、米国事業は新規の承認申請を出せないまま推移した。当時の常務は、入社して以来34年、単体でも連結でも赤字を経験したことがないと語っていた。\n\n1998年3月期、藤沢は米国の後発医薬品事業の売却を決めた。黒字化の見通しが立たず、主眼である新薬との相乗効果も期待できないという判断である。米国再編成に伴う特別損失460億円を計上し、単独では1949年の上場以来はじめてとなる最終赤字369億円を出した（連結の最終赤字は15億円）。赤字は積立金の取り崩しで処理して翌期に持ち越さず、配当も継続している。買収を主導した藤澤友吉郎会長は引責辞任した。当初掲げた1994年度の米国売上6億ドルに対し、1997年度の実績は約3億ドルにとどまる。売却後の米国事業は、新設する新薬子会社としてプログラフの販売に絞られる。買収から8年での撤退だった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1985年9月16日号「ライオン、何を狙う？ 藤沢薬品の家庭用品事業とり込み」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年6月13日号「藤沢薬品工業 段階的M&Aで世界3極体制」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年12月14日号「堀口勝弘氏［藤沢薬品工業常務経営企画室長］新薬落ち込みに不正事件 米子会社不振で連結赤字」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「［特集］2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"安達洽平","role":"藤沢薬品工業 取締役経理部長","date":"1998-04","text":"米国の法制、会計、税制やＦＤＡとの関係等のノウハウ、そして米国で人材教育できたこと","source":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","paragraph":3}]}]},{"start_year":1998,"end_year":2005,"main_title":"プログラフと新薬中心への再編 ── 自前の海外販売網と合併による幕引き","subsections":[{"title":"移植医療という狭い市場が成立させた少人数の販売体制","text":"後発品事業を切り離した米国事業に残ったのは、免疫抑制剤プログラフだった。1993年に日本、翌1994年に米国と英国で発売した薬で、セファメジン以来、久しぶりの独自の大型新薬である。この薬の性格が、それまで解けなかった問題を解いた。臓器移植に使う薬なので、売り先は移植センターと移植医に限られる。医師をカバーしきるだけなら、米国で数十人、欧州の各国で数人という人数で足りる。1000人規模の営業組織を抱えずとも、自前の海外販売網が成立した。1990年に買った販売網が抱えていた難点は、そこに載せる自社製品が乏しいことだった。この薬がその穴を埋めた。\n\n皮肉なことに、1000億円を投じて買った販売網では作れなかったものを、対象の狭い一つの薬が作った。1998年に後発品事業を切り離したのち、米国事業は新設した新薬子会社としてプログラフの販売拠点に立て直された。フジサワUSA自体は清算されている。週刊東洋経済は同じ年末の特集で、藤沢を「不採算の後発品事業を切り離しプログラフの販売拠点として立て直した」会社として挙げている。1999年にはアトピー性皮膚炎治療薬プロトピック軟膏を日本で発売する。プログラフと同じ成分の外用剤で、2001年に米国、2002年に欧州での発売を計画した。\n\n1999年6月、米国法人の再建にあたった青木初夫が社長に就任した。1960年に入社した研究者で、1972年に農学博士となっている。1993年に常務就任と同時に渡米し、米法人会長として不正の処理と再建を担った人物である。研究一筋の経歴から、米国での危機処理を経て経営者になった。買収の失敗を主導した創業家の会長が退き、その後始末をした技術者が社長に座る。1998年の撤退から1年、その後始末を担った人物が経営を引き継いだ。経営陣の顔ぶれの入れ替わりは、この会社が何を失敗と認めたかを示している。","references":[{"title":"日経ビジネス 1999年7月12日号「青木初夫氏［藤沢薬品工業］登場 米国法人再建で研究者から経営者に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「［特集］2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「［特集］世界の最強・日本の最強 医薬 世界企業はM&Aで巨大化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月28日号「［特集］あなたの部下で勝てますか？ 藤沢薬品工業 新しい発想に期待」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年4月17日号「［KeyPerson］竹中登一 山之内製薬社長 初の大型合併に踏み切る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"海外比率36%という到達点と、四位グループという定位置","text":"20年をかけた海外展開は、2000年前後にようやく利益として返ってきた。2000年9月の中間決算で連結の海外売上高比率は36%に達する。北米は外部売上高の19%を占めながら営業利益の44%を稼ぎ、欧州も外部売上高の10%に対し営業利益の13%を寄せた。連結売上高はおよそ3000億円である。北米は売上に占める比率より、利益に占める比率が倍以上高い。単体の輸出比率でも武田薬品・三共・第一製薬と並んで15%以上に入り、欧米で伸びる製品としてプログラフの名が挙げられた。1990年の買収から10年を経て、投じた資金がようやく利益の側に現れた。\n\nそれでも国内の序列は動かなかった。1999年時点で武田薬品・三共・山之内が上位3社の指定席を占め、第一製薬・エーザイ・藤沢薬品工業が四位グループを団子状態で構成する。世界に目を移せば差はさらに開いていた。1987年に国内首位の武田の医薬品売上高は3965億円、世界首位の米メルクは6114億円で、その差は1.5倍にすぎない。ところが10年後、世界の五強と日本の五強の売上高は一桁違うところまで開いている。武田でさえ世界17位だった。国内で四位グループにいることと、世界の順位表で圏外にいることは、同じ事実の裏表である。\n\n国内の販売体制も作り替えている。かつて接待で売り込んだプロパーは、医師に学術情報を提供して売るMRへ変わっていた。藤沢はMRの中途採用で国内勢に先んじ、2001年度には中途採用者が新卒を超える。しかも外資系のようにMR経験者を奪い合うだけでなく、銀行など異業種の営業職からも採った。人事部の山野新造リクルート担当部長は「製薬業界に長くいると、営業方法も固定化しがち」と語っている。当時のMR資格保有者は6万人で、欧米系外資が国内営業網の構築に向けて争奪戦を繰り広げていた。研究開発でも販売でも、外から人と発想を入れる会社になっていた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1999年7月12日号「青木初夫氏［藤沢薬品工業］登場 米国法人再建で研究者から経営者に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「［特集］2002年に勝ち残る会社の条件 医薬品 カギ握る海外展開、研究開発力」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「［特集］世界の最強・日本の最強 医薬 世界企業はM&Aで巨大化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月28日号「［特集］あなたの部下で勝てますか？ 藤沢薬品工業 新しい発想に期待」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年4月17日号「［KeyPerson］竹中登一 山之内製薬社長 初の大型合併に踏み切る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"111年の幕引きで残ったものと消えたもの","text":"2004年2月、藤沢薬品工業は山之内製薬との合併を決めた。合併比率は山之内1に対し藤沢0.71である。決断の前提にあった自社の姿は、これまで見てきたとおりのものだった。連結売上高は約3000億円で国内7番手にとどまる。医薬品の序列でも、武田薬品・三共・山之内に次ぐ四位グループの一角だった。海外売上高比率36%と自前の販売網は持っていたが、それを支える製品はプログラフとプロトピックという同一成分の2剤に寄っていた。大型新薬の開発には10年以上の歳月と数百億円の費用がかかり、しかも世界の五強との規模差は一桁に開いている。\n\n相手から見た藤沢の値打ちは、規模ではなく領域にあった。山之内が強かったのは循環器と泌尿器で、藤沢が持っていたのは移植・免疫の領域である。重なりが小さいぶん、足せばそのまま品目が広がる。加えて藤沢は、狭い専門医市場に少人数で届く欧米の販売網を実際に動かしていた。週刊東洋経済は1998年末の時点で、海外での自社販売展開において山之内と藤沢が三番手以降のなかで頭一つ抜ける可能性が高いと書いている。規模で足りないものを、相手もまた同じように抱えていた。同じ条件を備えた2社が、6年後に一つになった。\n\n2005年4月1日、山之内製薬を存続会社とする合併によってアステラス製薬が発足し、藤沢薬品工業の法人格は消滅した。証券コード4511は同年3月に上場廃止となっている。消えたのは社名と上場銘柄、そして1943年から62年使った富士山印の社章である。残ったのは製品と人だった。プログラフとプロトピックは統合後の主力として売られ続け、移植・免疫という領域はアステラスの柱の一つになった。従業員は統合体へ移り、米国とドイツに置いた拠点もそのまま引き継がれた。1894年に道修町で蜂蜜と粗製樟脳を商った店から数えて、111年での幕引きだった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1999年7月12日号「青木初夫氏［藤沢薬品工業］登場 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