1923年〜 「ザルブロ一点張り」が築いた単一製品依存
- 1925年中外新薬商会を創業
- 1927年医薬品製造に着手
- 1943年株式会社化と「中外製薬」へ商号変更
- 1944年松永製薬所を吸収合併・松永工場開設
- 1951年解毒剤「グロンサン」の発売
- 1956年東京証券取引所に株式上場
- 1966年無配転落・早期退職者を募集
中外製薬の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
輸入代理から注射薬製造への踏み出し
1923年の関東大震災後、貿易会社に勤めていた上野十蔵氏は医薬品需要の持続性に着目し、1925年3月に個人事業として中外新薬商会を創業した。ドイツのゲーへ社から医薬品の輸入代理を開始し、製造設備を持たずに市場参入する手法を選んだ。1927年には池袋に工場を新設して医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を始め、輸入代理から製造業への転換を果たした。上野氏は自ら「ザルブロ一点張り」と語り、単一製品へ経営資源を集中させ、多角化よりも既存製品の製造と販売の効率化を選び続けた。ゲーへ社との輸入契約が途絶えるリスクと、少数製品への集中投資という選択が、戦前の中外製薬の骨格を決めた。 [1][2][3][4]
- 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
- [2]創業者は上野十蔵
- [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
- 月刊経済 1965年6月号
- [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った
1936年に高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年に株式会社へ組織変更して資本調達の基盤を整えた。戦前の中外製薬は研究開発投資を限定的にとどめ、少数製品への集中投資と供給能力の積み上げで事業を運営した。上野氏は「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐しており、研究開発力と人材の制約が製品範囲を規定していたことを本人も認めていた。輸入代理の延長線上にある事業モデルは、自前の研究基盤を持たないまま製造業へ移行するという構造的な弱さを抱えていた。戦後、上野氏が「日本の復興にはまず薬屋が必要」(月刊経済 1965/6)と語ったように、事業拡張の原動力は需要予測であり、自社の研究力ではなかった。 [5][6][7]
- 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
- [5]1943年に株式会社へ組織変更した
- 月刊経済 1965年6月号
- [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した
- [7]上野十蔵が「日本の復興にはまず薬屋が必要」と語った
- 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
- [2]創業者は上野十蔵
- [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
- [5]1943年に株式会社へ組織変更した
- 月刊経済 1965年6月号
- [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った
- [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した
- [7]上野十蔵が「日本の復興にはまず薬屋が必要」と語った
グロンサン依存が招いた無配転落の帰結
戦後、肝機能薬への医療需要が拡大するなか、東京大学の石館守三教授によるグルクロン酸研究を工業化する機会が生まれた。1950年に特許権を取得し、1951年に注射液として解毒剤「グロンサン」を発売。月産1トンへの増産を進めるさい、社内には反対論もあったが、上野氏は「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」(ダイヤモンド 1963/3/25)と言い切って押し切った。1954年には澱粉と希硝酸による合成法が確立され、医療用から大衆薬へと市場が広がった。自社研究所からの新薬創出ではなく、外部の学術成果を製品化する手法は、戦前の輸入代理モデルを国内発の学術基盤へ置き換えたもので、研究開発投資の規模と人材の制約をそのまま抱えた選択だった。 [8]
- ダイヤモンド 1963年3月25日号
- [8]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った
グロンサンは中外製薬の売上の柱に育ったが、単一製品依存の高さは経営リスクとして跳ね返った。1965年には後発の田辺製薬「アスパラ」が好調な一方、対抗で投入した「オルパ」は「鳴かず飛ばず」と報じられ、「どこに『オルカ』と皮肉を言いたくなる」(月刊経済 1965/6)とまで評された。1964年9月には薬局向医薬品の安定需要を確保するため「中外会」制度を発足させたが、過当競争に加え保健薬の買い控え傾向やカゼ薬禍事件などの悪環境が重なり、薬局向製品の売り上げが落ち込んだ。その結果、1966年3月期にはグロンサンの販売不振もあって業績が悪化し、無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた。この経験が研究開発の多様化と事業ポートフォリオの再考を促し、1960年に総合研究所を新設、1971年に臨床検査薬へ参入するなど製品の幅を広げる動きが始まった。ザルソブロカノンから続いた「一点張り」の運営が限界を迎え、次の軸を自前の研究から生み出す必要に迫られた時期だった。翌1970年代半ばに着手するバイオ研究は、この反省を出発点とし、無配転落の記憶が未成熟な技術領域への長期投資を支える原資となった。 [9][10][11]
- '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
- [9]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
- [10]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
- [11]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた
- ダイヤモンド 1963年3月25日号
- [8]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った
- '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
- [9]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
- [10]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
- [11]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた