中外製薬

の歴史

創業

1925年

創業者

上野十蔵

創業地

東京都

直近売上高(2025/12)

12,579億円

中外製薬の長期業績と経営の転換点売上高・利益率・経営トップ
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1966年の無配転落のあと、中外製薬は自前の研究へ向かったのか
A 単一製品への依存が業績の振れをそのまま会社へ及ぼしたためである。解毒剤グロンサンが売上の柱に育つ一方、1966年3月期には販売不振で無配へ転落し、早期退職者420名の募集に追い込まれた。外部の学術成果を製品化する手法では製品の幅を広げられないと判明し、1960年に新設した総合研究所を足場に、1971年の臨床検査薬参入など自前の研究から次の軸を生む動きを進めた。1970年代半ばに始めたバイオ研究は、この無配の記憶を長期投資の支えとした。
Q なぜ2002年に中外製薬は資本の過半をロシュへ渡したのか
A 抗体技術を蓄えながら、1品目数百億円の後期臨床と海外販売網を自社で抱えられなかったためである。1987年のEPO特許訴訟で海外単独展開の限界が露わになり、国内中堅の資本規模では創薬力を市場へ届ける手段を欠いた。そこで2002年10月にロシュと提携し、2003年3月末で50.13%の過半を渡す代わりに、上場と経営の自律性を保ったまま後期開発と海外販売をロシュへ委ねた。中外製薬はロシュ導入品の国内独占販売権も得て、創薬と初期開発に特化する収益構造へ移った
Q なぜ2023年に中外製薬は研究機能を横浜へ集約したのか
A ロシュへ後期開発を委ねた以上、競争力の源泉は創薬と初期開発の速度に絞られたためである。2023年3月に富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉じ、同年4月に中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働させて、分散していた創薬研究を一拠点へ集めた。抗体に続く中分子医薬とAI創薬へ資源を寄せ、探索から初期開発までの速度を上げる狙いだった。2020年に就いた奥田修社長が成長戦略「TOP I 2030」で掲げる自前の創薬力増強を、拠点の側から裏づける投資である

1923年〜 「ザルブロ一点張り」が築いた単一製品依存

  1. 1925年中外新薬商会を創業
  2. 1927年医薬品製造に着手
  3. 1943年株式会社化と「中外製薬」へ商号変更
  4. 1944年松永製薬所を吸収合併・松永工場開設
  5. 1951年解毒剤「グロンサン」の発売
  6. 1956年東京証券取引所に株式上場
  7. 1966年無配転落・早期退職者を募集

中外製薬の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

輸入代理から注射薬製造への踏み出し

1923年の関東大震災後、貿易会社に勤めていた上野十蔵氏は医薬品需要の持続性に着目し、1925年3月に個人事業として中外新薬商会を創業した。ドイツのゲーへ社から医薬品の輸入代理を開始し、製造設備を持たずに市場参入する手法を選んだ。1927年には池袋に工場を新設して医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を始め、輸入代理から製造業への転換を果たした。上野氏は自ら「ザルブロ一点張り」と語り、単一製品へ経営資源を集中させ、多角化よりも既存製品の製造と販売の効率化を選び続けた。ゲーへ社との輸入契約が途絶えるリスクと、少数製品への集中投資という選択が、戦前の中外製薬の骨格を決めた。 [1][2][3][4]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
    • [2]創業者は上野十蔵
    • [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った

1936年に高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年に株式会社へ組織変更して資本調達の基盤を整えた。戦前の中外製薬は研究開発投資を限定的にとどめ、少数製品への集中投資と供給能力の積み上げで事業を運営した。上野氏は「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐しており、研究開発力と人材の制約が製品範囲を規定していたことを本人も認めていた。輸入代理の延長線上にある事業モデルは、自前の研究基盤を持たないまま製造業へ移行するという構造的な弱さを抱えていた。戦後、上野氏が「日本の復興にはまず薬屋が必要」(月刊経済 1965/6)と語ったように、事業拡張の原動力は需要予測であり、自社の研究力ではなかった。 [5][6][7]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1943年に株式会社へ組織変更した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した
    • [7]上野十蔵が「日本の復興にはまず薬屋が必要」と語った
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
    • [2]創業者は上野十蔵
    • [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
    • [5]1943年に株式会社へ組織変更した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った
    • [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した
    • [7]上野十蔵が「日本の復興にはまず薬屋が必要」と語った

グロンサン依存が招いた無配転落の帰結

戦後、肝機能薬への医療需要が拡大するなか、東京大学の石館守三教授によるグルクロン酸研究を工業化する機会が生まれた。1950年に特許権を取得し、1951年に注射液として解毒剤「グロンサン」を発売。月産1トンへの増産を進めるさい、社内には反対論もあったが、上野氏は「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」(ダイヤモンド 1963/3/25)と言い切って押し切った。1954年には澱粉と希硝酸による合成法が確立され、医療用から大衆薬へと市場が広がった。自社研究所からの新薬創出ではなく、外部の学術成果を製品化する手法は、戦前の輸入代理モデルを国内発の学術基盤へ置き換えたもので、研究開発投資の規模と人材の制約をそのまま抱えた選択だった。 [8]

  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
    • [8]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った

グロンサンは中外製薬の売上の柱に育ったが、単一製品依存の高さは経営リスクとして跳ね返った。1965年には後発の田辺製薬「アスパラ」が好調な一方、対抗で投入した「オルパ」は「鳴かず飛ばず」と報じられ、「どこに『オルカ』と皮肉を言いたくなる」(月刊経済 1965/6)とまで評された。1964年9月には薬局向医薬品の安定需要を確保するため「中外会」制度を発足させたが、過当競争に加え保健薬の買い控え傾向やカゼ薬禍事件などの悪環境が重なり、薬局向製品の売り上げが落ち込んだ。その結果、1966年3月期にはグロンサンの販売不振もあって業績が悪化し、無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた。この経験が研究開発の多様化と事業ポートフォリオの再考を促し、1960年に総合研究所を新設、1971年に臨床検査薬へ参入するなど製品の幅を広げる動きが始まった。ザルソブロカノンから続いた「一点張り」の運営が限界を迎え、次の軸を自前の研究から生み出す必要に迫られた時期だった。翌1970年代半ばに着手するバイオ研究は、この反省を出発点とし、無配転落の記憶が未成熟な技術領域への長期投資を支える原資となった。 [9][10][11]

  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
    • [10]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
    • [11]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた
  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
    • [8]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った
  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
    • [10]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
    • [11]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた

1972年〜 収益化の見えないバイオ研究に賭けた20年

  1. 1984年米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
  2. 1987年EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
  3. 1987年富士御殿場研究所を新設
  4. 1989年米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
  5. 1990年ローヌ・プーランと合弁・中外ローヌ・プーラン設立
  6. 1991年バイオ製剤「ノイトロジン」を発売
  7. 1993年英国に中外ファーマ・ユーケーを設立

中外製薬の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

ノイトロジンが開いたバイオ創薬の道

1970年代半ば、中外製薬は白血球を増やす遺伝子組換え製剤「ノイトロジン」の研究に着手した。分子量は低分子薬の数十倍におよび、製造方法も未確立だった。当時のバイオ技術は基礎研究の段階にあり、製品化までの見通しも業界全体で共有されていなかった。1980年代初め、社長の上野公夫氏と研究開発担当役員の佐野肇氏は、収益化の時期が見えないバイオ研究への投資継続を決めた。後年、永山治社長は、当時の経営者がバイオ開発の継続を決断していなければ今の中外はないと振り返っている。無配転落の記憶が新しいなかで未成熟な技術領域に資源を振り向けた判断が、次の20年の骨格を決めた。 [12]

  • HARVARD BUSINESS REVIEW 2022年12月7日
    • [12]永山治社長は当時の経営者がバイオ開発の継続を決断していなければ今の中外はないと振り返っている

1987年に臨床試験が始まり、1991年にバイオ製剤として上市した。研究着手から十数年を要したが、遺伝子組換え製剤の開発と製造に関する技術と人材が社内に蓄積された。この蓄積は1990年代後半に臨床段階へ入った抗体医薬「アクテムラ」の開発に直結した。同時にバイオ医薬品の事業化に必要な投資規模と時間軸の長さが浮かび上がり、自社単独で後期臨床試験から海外展開までを担う資本的な限界も見えてきた。1品目の後期臨床試験にかかる費用は数百億円規模に達し、国内中堅の中外製薬には重すぎる負担だった。創薬力を持ちながら市場への到達手段を欠くという矛盾が、2000年代の提携交渉の出発点になる。

  • HARVARD BUSINESS REVIEW 2022年12月7日
    • [12]永山治社長は当時の経営者がバイオ開発の継続を決断していなければ今の中外はないと振り返っている

EPO訴訟で露わになった海外展開の資本の壁

1984年、中外製薬は米Genetics Instituteに資本参加し、造血ホルモンEPOの製造販売権を取得した。バイオ医薬品の商業化に向けた布石だったが、1987年に米アムジェン社からEPO特許をめぐる訴訟を受け、海外展開における知的財産リスクが表面化した。同年に富士御殿場研究所を新設し、1989年には米ジェンブローブ社を買収してDNA診断薬へ参入するなど、研究基盤の拡充が続いた。国内でバイオ創薬の技術を積み上げる一方、海外では単独で戦う足場を持たない弱さが表れた。特許訴訟は技術の優劣ではなく訴訟コストと交渉体力で決まる面も、国内単独で世界市場を狙う難しさを経営陣に突きつけた。

1992年、永山治氏が社長に就任し、バイオ医薬品を軸とする経営方針を掲げた。1995年に米国現地法人を新設し、2001年に筑波研究所を開設するなど研究開発体制の整備が続いた。だが後期臨床試験の費用と海外販売網の構築には自社の資本規模を超える投資が必要で、創薬力を保ちつつ世界市場へ到達する手段を見つけることが経営課題に浮上した。世界の製薬業界は「売上高100億ドル、研究開発費20億ドル」(日経新聞 2000/1/21)を生き残りの条件とする再編圧力にさらされ、国内中堅の中外製薬は単独での成長路線と他社との結合路線の岐路に立たされた。自前で販売網を構築する道か、創薬に特化して後期開発と販売を外部へ預ける道か。永山社長体制の10年は、この二択を詰める期間でもあった。 [13]

  • 日経新聞 2000年1月21日
    • [13]世界の製薬業界は「売上高100億ドル、研究開発費20億ドル」を生き残りの条件とする再編圧力にさらされた
  • 日経新聞 2000年1月21日
    • [13]世界の製薬業界は「売上高100億ドル、研究開発費20億ドル」を生き残りの条件とする再編圧力にさらされた

2002年〜 資本の過半をロシュへ委ねて守った創薬の自律性

  1. 2002年ロシュと戦略提携を締結
  2. 2002年米国持株会社・中外USAを設立
  3. 2002年ジェン・プローブをスピンオフ
  4. 2005年鏡石工場と東北中外製薬をニプロに譲渡
  5. 2012年シンガポールに研究子会社を設立
  6. 2014年中国に日健中外製薬を設立
  7. 2022年中国における開発・販売機能を統合

中外製薬の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

上場維持を条件に創薬機能を残した提携設計

2002年10月、中外製薬はスイスのロシュと戦略提携を結んだ。ロシュは公開買付けと第三者割当増資で株式の過半を取得し、2003年3月末時点の保有比率は50.13%に達した。永山治社長とフランツ・フーマーCEOは、21世紀は新薬開発の難度が上がり研究開発費も増大するとの認識を共有しており、バイオ創薬に強みを持つ両社の資源補完が提携の出発点となった。主力の腎性貧血治療剤「エポジン」の特許が2004年末に切れる事情も重なり、「単独では中長期の成長戦略を描けない苦しい台所事情が浮かび上がる」(日経新聞 2001/12/17)と当時の報道は伝えた。永山社長は提携交渉時点で確信があったわけではないと述懐し、ロシュとの規模差を自ら平幕と横綱と表現した。自律性を条件に提示できた背景には、ノイトロジン以来のバイオ技術蓄積への外部評価があった。 [14][15][16][17]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [14]2002年10月にスイスのロシュと戦略提携を結んだ
  • 中外製薬 決算補足資料(2003年3月末 大株主)
    • [15]ロシュの株式保有比率は2003年3月末時点で50.13%に達した
  • 日経新聞 2001年12月17日
    • [16]「単独では中長期の成長戦略を描けない苦しい台所事情が浮かび上がる」と当時の報道が伝えた
  • 日経ビジネス 2002年9月9日号
    • [17]永山治社長はロシュとの規模差を平幕と横綱と表現した

提携の骨格は創薬と販売の役割分担にあった。中外製薬は創薬と初期開発へ特化し、後期臨床試験と海外販売はロシュのグローバルネットワークに委ねた。同年にはロシュ日本法人と合併し、国内でのロシュ製品販売も中外製薬が担う体制へ移った。資本の過半を外国企業に握られながら創薬機能の自律性を保つ構造は、上場維持と経営の自主性を条件に設計された。国内製薬業界で前例のない契約が、自社単独では超えられない投資規模と海外販売網の壁を一度に解く答えになった。EPO訴訟で露わになった海外単独展開の限界と、ノイトロジンで蓄積したバイオ創薬の技術基盤が、この契約設計の交渉力を裏から支えた。 [18]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [18]2002年にロシュ日本法人と合併した
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [14]2002年10月にスイスのロシュと戦略提携を結んだ
    • [18]2002年にロシュ日本法人と合併した
  • 中外製薬 決算補足資料(2003年3月末 大株主)
    • [15]ロシュの株式保有比率は2003年3月末時点で50.13%に達した
  • 日経新聞 2001年12月17日
    • [16]「単独では中長期の成長戦略を描けない苦しい台所事情が浮かび上がる」と当時の報道が伝えた
  • 日経ビジネス 2002年9月9日号
    • [17]永山治社長はロシュとの規模差を平幕と横綱と表現した

祖業の大衆薬を手放し抗体医薬へ絞った事業選別

ロシュとの提携後、中外製薬は創薬と初期開発へ資源を集めるため、祖業に連なる事業と研究拠点を切り離した。2002年9月には1989年に買収した米DNA診断薬企業ジェン・プローブをスピンオフし、中外診断科学の全株式を富士レビオへ譲渡した。2003年12月には高田研究所と松永工場を閉鎖し、2004年12月にはグロンサンの流れをくむ一般用医薬品事業をライオンへ譲渡した。2005年3月には2001年に開いたばかりの筑波研究所を閉鎖し、同年6月には鏡石工場と東北中外製薬をニプロへ譲渡した。創業者の上野十蔵氏が「一点張り」を貫いた大衆薬の系譜を手放し、医療用の抗体医薬へ事業の輪郭を絞り込む選別だった。 [19][20]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [19]2002年9月に米DNA診断薬企業ジェン・プローブをスピンオフし中外診断科学の全株式を富士レビオへ譲渡した
    • [20]2005年6月に鏡石工場と東北中外製薬をニプロへ譲渡した

拠点の取捨と並行して、提携が狙った創薬の成果が世に出た。2005年には国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売した。1990年代後半に臨床段階へ入ったこの抗体医薬は、ノイトロジン以来のバイオ技術蓄積を出発点とし、ロシュのグローバルネットワークを通じて海外市場へ届いた。2015年7月には血友病A治療薬「ヘムライブラ」(エミシズマブ)を発売した。後期臨床試験の費用と海外販売網を自社単独で抱えられないという1990年代の制約を、創薬と初期開発に特化し後期開発と販売をロシュへ預ける役割分担で解いた構造が、自前パイプラインを海外市場へ届ける成果を生んだ。

創薬集中の体制が定着すると、中外製薬は研究機能の海外拡張と国内拠点の集約を同時に進めた。2012年1月には抗体医薬の探索研究を担う研究子会社をシンガポールに設立し、2014年3月には中国に日健中外製薬を設立、2022年4月には中国の開発機能と販売機能を統合して現地での意思決定を速める体制へ再編した。国内では2023年3月に富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖し、同年4月に中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働して研究機能を一カ所へ集めた。EPO訴訟で露わになった海外単独展開の限界を、ロシュとの役割分担と研究拠点の選別で乗り越えた現在の中外製薬の輪郭が、ここに定まった。 [21][22][23][24]

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [21]2012年1月に抗体医薬の探索研究を担う研究子会社をシンガポールに設立した
    • [22]2014年3月に中国に日健中外製薬を設立した
    • [23]2022年4月に中国の開発機能と販売機能を統合した
    • [24]2023年3月に富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖した
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [19]2002年9月に米DNA診断薬企業ジェン・プローブをスピンオフし中外診断科学の全株式を富士レビオへ譲渡した
    • [20]2005年6月に鏡石工場と東北中外製薬をニプロへ譲渡した
    • [21]2012年1月に抗体医薬の探索研究を担う研究子会社をシンガポールに設立した
    • [22]2014年3月に中国に日健中外製薬を設立した
    • [23]2022年4月に中国の開発機能と販売機能を統合した
    • [24]2023年3月に富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖した

中外製薬の沿革1925〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
中外新薬商会を創業★★★
医薬品製造に着手★★
株式会社化と「中外製薬」へ商号変更★★
松永製薬所を吸収合併・松永工場開設★★
解毒剤「グロンサン」の発売★★★
東京証券取引所に株式上場
総合研究所を新設
無配転落・早期退職者を募集★★
臨床検査薬に参入
米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
富士御殿場研究所を新設
米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
ローヌ・プーランと合弁・中外ローヌ・プーラン設立★★★
宇都宮工場を新設
バイオ製剤「ノイトロジン」を発売★★★
永山治永山治氏が代表取締役社長に就任
永山治英国に中外ファーマ・ユーケーを設立★★
永山治米国に現地法人を新設(バイオ)
永山治筑波研究所を新設
永山治米国持株会社・中外USAを設立★★
永山治ジェン・プローブをスピンオフ★★
永山治ロシュと戦略提携を締結★★★
永山治高田研究所・松永工場を閉鎖
永山治一般用医薬品事業をライオンに譲渡
永山治国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
永山治筑波研究所を閉鎖
永山治鏡石工場と東北中外製薬をニプロに譲渡★★
永山治医薬品製造事業を子会社に移管
永山治中外製薬工業 鎌倉工場を閉鎖
永山治シンガポールに研究子会社を設立★★
永山治中国に日健中外製薬を設立★★
永山治海外子会社を再編
永山治抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
奥田修中国における開発・販売機能を統合★★
奥田修富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖
奥田修中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働
出典・参考
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
  • 月刊経済 1965年6月号
  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
  • HARVARD BUSINESS REVIEW 2022年12月7日
  • 日経新聞 2000年1月21日
  • 中外製薬 決算補足資料(2003年3月末 大株主)
  • 日経新聞 2001年12月17日
  • 日経ビジネス 2002年9月9日号

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