武田薬品工業 の歴史

更新:

創業

1781年

創業者

武田長兵衛

創業地

大阪府大阪市中央区道修町

直近売上高(2026/3)

45,057億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ武田は1781年の創業以来「武田長兵衛」を代々襲名し、屋号と信用を軸に事業を継いだのか
A 1781年6月、初代武田長兵衛氏が大坂道修町で薬種商を開いて以来、武田は当主が「武田長兵衛」を代々襲名する慣行を守った。道修町の薬種商は株仲間として相互の信用で取引したため、個人ではなく屋号に信用を蓄え次代へ渡す必要があったからである。仲買の信用は長い取引でしか育たず、襲名はその時間資本を屋号ごと引き継ぐ仕組みだった。1871年には西洋薬の輸入も始め、環境が変われば業態を捨て川上へ移る癖がここで身についた
Q なぜ2011年にナイコメッドを約1兆1000億円で買収し海外へ広げたのか
A 自前パイプラインが細り、新薬を一から育てる時間が足りなかったからである。2008年にミレニアムを約89億ドルで買収した長谷川閑史社長は、2011年にナイコメッドを約96億ユーロ(約1兆1200億円)で取得し、進出国を28から70超へ広げて欧州と新興国の販売網を一括で得た。長谷川社長は「これまでの弱点を相当に補強できる」と述べ、同族の「タケダ」を世界の「TAKEDA」へ変える構想を掲げた。全額現金で株式希薄化は避けたが、無借金経営から負債依存へ転じる決断でもあった。
Q なぜ2019年にShireを約6兆8000億円で買収し、いま負債返済と自前創薬の二正面に立つのか
A 自前でアクトス級の新薬を生めないまま、買収で売上規模を確保するほかなかったからである。2019年1月、ウェバー体制の武田は希少疾患に強いShireを約460億ポンド(約6兆8000億円)で買収し、売上高3兆円規模で世界トップ10入りした。買収額の大きさは経営の危機感を映し、有利子負債はFY17の9,857億円からFY18に約5兆7500億円へ膨らんだ。武田はこの負債をFY24に約4兆5000億円へ返しながら、買収と導入で並べたパイプラインから次の主力品を自前で出せるかを確かめている

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1781年〜 道修町の薬種仲買から、輸入途絶が促した自社製造へ

  1. 1781年 武田薬品工業創業——道修町の薬種仲買から自社製造の製薬企業へ 幕府公認の薬種株仲間が集散を握る道修町で、初代武田長兵衛氏が起こした無製造の和漢薬仲買は、どのように自社製造の製薬企業へ姿を変えたか
  2. 1871年 洋薬の輸入買付を開始
  3. 1895年 医薬品の製造に参入
  4. 1904年 五代武田長兵衛氏が家業を継承
  5. 1915年 武田製薬所を新設
  6. 1918年 武田製薬を設立
  7. 1925年 武田製薬と合併し武田長兵衛商店を設立

株仲間が束ねた信用と、洋薬へ広げた四代長兵衛

1722年、徳川吉宗は各地から産出する和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合を通じ、組合の検査のもとで売買させる制度を定め[1]、問屋に特権的な地位を認めた[2]。大阪道修町二丁目に薬種仲間が形成されたのもこの年[3]で、初代武田長兵衛氏が仲間株を譲り受けて独立営業を始めた[4]のは、それから60年後の1781年6月である[5]。屋号は「近江屋長兵衛」、店は道修町堺筋に構え[6]、和漢薬の取扱いを業として発足した。文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買い求めて移り[7]、この場所が後の本社所在地となる。創業から明治に至るまでは代々父祖の業を継ぎ、和漢薬の販売に従事した[8]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [2]問屋の特権的地位の公認
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事

明治に入って若くして家業を継いだ四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し[9]、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し[10]、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け[11]、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入[12]にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行した[13]ため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として[14]医薬品の製造と研究に乗り出す。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった[15]。武田姓を名乗るようになったのも四代目[16]のときである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [11]1894年 店内に外国部を設置
    • [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [15]当時はなお家内工業の域
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [2]問屋の特権的地位の公認
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
    • [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
    • [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
    • [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [11]1894年 店内に外国部を設置
    • [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [15]当時はなお家内工業の域

五代長兵衛が据えた製造と研究

1904年に五代長兵衛氏が家業を継ぐ[17]と、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功[18]し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を始めた[19]。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け[20]、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立[21]という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた「サギウロコ会」を組織して[22]流通を束ね、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設[23]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [21]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)

大戦前の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず[24]、明治末期に国内で生産されていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまり[25]、古来の伝統を経て輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動のほうが盛んだった[26]。1914年に欧州で大戦が起こると輸入薬品の供給が杜絶し[27]、薬品市場は大きな混乱に陥る。洋薬の輸入を柱に据えていた武田は事業の前提を失い、内林工場を補強する[28]とともに、同年8月に市外中津町へ武田薬品試験所を設けた[29]。研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟にあたる武田二郎氏である[30]。同じ1914年8月には武田研究部も置かれた[31]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [28]内林工場の補強
    • [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1914年8月 武田研究部を設置
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
    • [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [28]内林工場の補強
    • [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [21]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1914年8月 武田研究部を設置

自社製造への転換と株式会社への移行

1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設[32]した。現在の大阪工場が建つ場所[33]で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立[34]している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び[35]、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を[36]、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設けた[37]。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ[38]社名を変えた。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [33]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [35]製造に成功した薬品 約30種

大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた[39]。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で[40]株式会社武田長兵衛商店が設立された[41]。設立日は1月29日[42]で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる[43]。商標として1898年に登録されていたウロコの標章[44]は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起[45]に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた[46]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [42]設立日 1925年1月29日
    • [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
    • [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [33]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [35]製造に成功した薬品 約30種
    • [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [42]設立日 1925年1月29日
    • [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定

1926年〜 戦時下の拡張と、ビタミン剤が築いた収益基盤

武田薬品工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1934年 海外出張所の開設を開始
  2. 1938年 ビタミンB1の合成に成功
  3. 1943年 武田薬品工業に商号変更
  4. 1950年 総合ビタミン剤「パンビタン」を発売
  5. 1954年 大衆薬「アリナミン」を発売
  6. 1959年 キノホルム製剤の販売を開始
  7. 1970年 行政の指示によりキノホルム製剤が販売中止

研究所の整備と、大陸・南方への出張所網

昭和に入ると、武田は研究所の人材養成と設備の充実、付属図書館の整備[47]を進め、あわせて大阪工場の近代化に取り組んだ[48]。新薬では強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功[49]し、スルファミン剤といった化学療法剤の製造にも着手[50]した。1934年の経済恐慌では業界も相当の影響[51]を受けた。販売の拡張にも力を注いだ結果、経営規模は次第に大きくなり、この間に海外へも進出してアジア各地に農園・出張所・駐在所を設けた[52]。1927年の台湾嘉義と1929年の沖縄の薬草園開設[53]を皮切りに、1934年から1938年にかけては奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイなどへ出張所を開いた[54]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [47]昭和期 研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備
    • [48]大阪工場の近代化
    • [49]強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功
    • [50]スルファミン剤など化学療法剤の製造に着手
    • [51]1934年 経済恐慌の影響下でも堅実経営で社礎を固める
    • [52]アジア各地に農園・出張所・駐在所を設置
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [53]1927年 台湾嘉義/1929年 沖縄に薬草園を開設
    • [54]1934〜1938年 奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所

国産医薬品の創製に向けた研究は、1937年のビタミンC、1938年のB1、1942年のKの合成[55]という成果に結びついた。1940年には五代長兵衛氏が武田家の『規』を定め[56]、「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」を筆頭に五箇条[57]を掲げている。1943年8月、社名を武田薬品工業へ改める[58]とともに武田鋭太郎氏が社長に就き、六代目を襲名[59]した。前社長の五代長兵衛氏は和敬と改名して相談役に退いた[60]。翌1944年7月には東京の小西薬品とラヂウム製薬を吸収合併[61]し、これが後の東京支店と東京工場の基礎となった[62]。資本金は同月3,570万円となった[63]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [55]1937年ビタミンC・1938年B1・1942年Kの合成に成功
    • [56]1940年 五代長兵衛氏が武田家の『規』を制定
    • [57]『規』第一条「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1943年8月 武田薬品工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [59]1943年8月 武田鋭太郎氏が社長就任、六代武田長兵衛を襲名
    • [60]五代長兵衛氏は和敬と改名し相談役へ
    • [61]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
    • [62]合併が東京支店・東京工場の基礎に
    • [63]1944年7月 資本金3,570万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [47]昭和期 研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備
    • [48]大阪工場の近代化
    • [49]強力メタボリンなどビタミン剤の合成に成功
    • [50]スルファミン剤など化学療法剤の製造に着手
    • [51]1934年 経済恐慌の影響下でも堅実経営で社礎を固める
    • [52]アジア各地に農園・出張所・駐在所を設置
    • [59]1943年8月 武田鋭太郎氏が社長就任、六代武田長兵衛を襲名
    • [60]五代長兵衛氏は和敬と改名し相談役へ
    • [61]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
    • [62]合併が東京支店・東京工場の基礎に
    • [63]1944年7月 資本金3,570万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [53]1927年 台湾嘉義/1929年 沖縄に薬草園を開設
    • [54]1934〜1938年 奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所
    • [55]1937年ビタミンC・1938年B1・1942年Kの合成に成功
    • [56]1940年 五代長兵衛氏が武田家の『規』を制定
    • [57]『規』第一条「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1943年8月 武田薬品工業へ社名変更

戦後復興と株式上場

戦後の混乱期にも武田は生産設備が無事だったため、所持していた原料と入手できる限りの原料で[64]ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬などを生産[65]した。製剤を闇販売に回さず正規のルートで一般へ供給し[66]、この方針が世の信用を高めている。1946年5月には山口県の旧海軍光工廠跡を取得し[67]、細菌製剤を主とする光工場の建設に着手した[68]。北海道には札幌工場を新設[69]した。工場は大阪・神奈川・猪名川・東京・光・札幌の六つとなり、その生産高は全国生産高の11〜12%[70]に達する。販売網も広がり、東京・札幌・福岡の三支店に名古屋・広島・仙台の出張所を加え、特約店は1,700軒[71]を数えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [64]戦後 生産設備が無事で原料の範囲で生産を継続
    • [65]生産品目 ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬
    • [66]闇販売に回さず正規ルートで供給し信用を高める
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を建設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [68]光工場は細菌製剤を主とする
    • [69]北海道に札幌工場を新設
    • [70]六工場体制/生産高は全国生産高の11〜12%
    • [71]三支店・三出張所/特約店1,700軒

1949年5月、武田は東京証券取引所と大阪証券取引所へ株式を上場[72]した。技術面でも成果が続き、1952年12月にはビタミンKの製造法が世界的に優れたものとして米国サイアナミッド社へ貸与[73]された。1953年には研究陣が「サントニン合成法」を発見[74]している。世界の化学界で最難関とされていた合成[75]にあたる。資本金は戦後数次の増額を経て1953年6月に14億円、1954年6月に21億円[76]となり、1955年3月期の総売上高は66億3,000万円に達した[77]。原料の確保では福知山に大試験農場を開いた[78]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [72]1949年5月 東京・大阪両証券取引所へ株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [73]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
    • [74]1953年 研究陣が「サントニン合成法」を発見
    • [75]サントニン合成は世界の化学界で最難関とされた
    • [76]資本金 1953年6月14億円/1954年6月21億円
    • [77]1955年3月期 総売上高66億3,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [78]福知山に大試験農場を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [64]戦後 生産設備が無事で原料の範囲で生産を継続
    • [65]生産品目 ビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬
    • [66]闇販売に回さず正規ルートで供給し信用を高める
    • [78]福知山に大試験農場を開設
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を建設
    • [72]1949年5月 東京・大阪両証券取引所へ株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [68]光工場は細菌製剤を主とする
    • [69]北海道に札幌工場を新設
    • [70]六工場体制/生産高は全国生産高の11〜12%
    • [71]三支店・三出張所/特約店1,700軒
    • [73]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
    • [74]1953年 研究陣が「サントニン合成法」を発見
    • [75]サントニン合成は世界の化学界で最難関とされた
    • [76]資本金 1953年6月14億円/1954年6月21億円
    • [77]1955年3月期 総売上高66億3,000万円

アリナミンと、多角化が広げた事業構成

1954年3月、武田はビタミンB1誘導体を有効成分とする大衆薬「アリナミン」を発売した。ビタミン剤は戦後の武田を支える柱となり、1968年の時点で売上高の27%ほどを占めている[79]。医薬品全体では売上の65%にあたり、そのうちビタミン剤が40%以上[80]を占めた。主力のビタミン剤は日本の生産高のおよそ4割に達する[81]。医薬品以外では、全国の米穀店を販売網とする「プラッシー」や複合調味料「いの一番」[82]を擁する食品部門が伸び、1968年には全体の17%を占めた[83]。1962年8月には台湾へ台湾武田Ltd.を設けている[84]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [79]1968年 ビタミン剤が売上高の約27%
    • [80]1968年 医薬品が売上の65%、うちビタミン剤が40%以上
    • [81]ビタミン剤は国内生産高の約4割
    • [82]食品部門の主力 プラッシー・いの一番
    • [83]1968年 食品部門が全体の17%
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1962年8月 台湾武田Ltd.を設立

1968年の武田は、製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の各事業部と研究開発部制[85]を敷き、年間売上高は1,200億円に達した[86]。資本金は150億円、従業員は1万1,611名[87]を数える。工場は光のほか清水・高砂・湘南・徳山に置かれ[88]、各工場が所属事業部に応じて連係した。関係会社には吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業などが並ぶ[89]。医薬品に関連する食品や化粧品、農薬へ進出を重ねた[90]結果、武田は医薬品を中核に置きながら食品・化学品・農薬を抱える会社となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [85]1968年 製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の事業部制と研究開発部制
    • [86]1968年 年間売上高1,200億円
    • [87]1968年 資本金150億円・従業員11,611名
    • [88]工場 光・清水・高砂・湘南・徳山
    • [89]関係会社 吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業ほか
    • [90]医薬品関連の食品・化粧品・農薬へ進出

1959年、武田は腸内殺菌薬として使われていたキノホルム製剤の販売を始めた。1960年代に入ると、下痢の治療後に視覚障害や歩行障害を伴う神経症状が各地で報告され、のちにスモンと呼ばれる薬害が社会問題となる。国は1970年にキノホルム製剤の販売を中止させ、1970年代半ばには全国で集団訴訟が起こされた。武田は1977年から和解と補償に備えて訴訟引当金の計上を始めており、その負担は長く残った。連結貸借対照表には「スモン訴訟填補引当金」の科目が置かれ、2010年3月期で27億7,900万円、2013年3月期でも23億8,600万円[91]が計上されている。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
    • [91]スモン訴訟填補引当金 2010年3月期27億7,900万円/2013年3月期23億8,600万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [79]1968年 ビタミン剤が売上高の約27%
    • [80]1968年 医薬品が売上の65%、うちビタミン剤が40%以上
    • [81]ビタミン剤は国内生産高の約4割
    • [82]食品部門の主力 プラッシー・いの一番
    • [83]1968年 食品部門が全体の17%
    • [85]1968年 製薬・医薬品販売・食品・化学品・農薬・外国の事業部制と研究開発部制
    • [86]1968年 年間売上高1,200億円
    • [87]1968年 資本金150億円・従業員11,611名
    • [88]工場 光・清水・高砂・湘南・徳山
    • [89]関係会社 吉富製薬・大五栄養化学・日本レダリー・和光純薬工業・武田食品工業ほか
    • [90]医薬品関連の食品・化粧品・農薬へ進出
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1962年8月 台湾武田Ltd.を設立
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
    • [91]スモン訴訟填補引当金 2010年3月期27億7,900万円/2013年3月期23億8,600万円

1976年〜 リュープリンが開いた米国と、武田國男氏の選択と集中

武田薬品工業の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1977年 スモン訴訟填補引当金の計上を開始
  2. 1985年 前立腺がん治療薬「リュープロン」を発売
  3. 1985年 アボット・ラボラトリーズとの合弁でTAPファーマシューティカルズを設立
  4. 1991年 消化性潰瘍薬ランソプラゾールを発売
  5. 1993年 非医薬事業を切り、医療用医薬品に絞った武田國男氏の選択と集中 総合化学会社だった武田薬品は、なぜ食品も農薬も手放し「薬だけの会社」へ戻ったのか——十年をかけて固まった医薬専業化
  6. 1995年 中期経営計画「95/00」を開始
  7. 1996年 医療用医薬品以外の5事業にカンパニー制を導入

TAPへの出向と、リュープリンへの賭け

1976年に物質特許制度が実施されると新薬の特許が実効性を持ち、武田は研究開発費を積み増した。1983年、当時会長だった小西新兵衛氏は武田國男氏を呼び出し[92]、米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社TAPへの赴任[93]を命じた。國男氏は副社長として渡米する[94]。TAPが米国で設立されたのは1985年5月[95]である。國男氏がそこで見たのは「二つの派閥の先兵が、米国でいがみ合っている」状態[96]で、のちに社内報へ「悪夢の三年間。しかしTAPでの経験がなければ今の私は存在しない」と書いた。 [97]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [92]1983年 小西新兵衛会長が武田國男氏にTAP赴任を命じる
    • [93]TAPは米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社
    • [94]武田國男氏は副社長として赴任
    • [96]TAPの内情「二つの派閥の先兵が、米国でいがみ合っている」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1985年5月 TAPファーマシューティカルズを米国に設立
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [97]武田國男氏の社内報での回顧「悪夢の三年間」

TAPで焦点となったのは取扱商品の選択[98]である。抗生物質は武田の十八番で、そのための絢爛豪華な新工場もすでに完成[99]していた。もう一方の候補は前立腺の抗がん剤リュープリンで、海のものとも山のものとも知れない新薬なうえ、毎日注射しなければ効き目がなかった[100]。國男氏はリュープリンに軍配を上げた[101]。爛熟期の抗生物質は先行きの消耗戦が見えており[102]、ニッチのリュープリンに賭ける判断だった。数年して効能を長期間維持する徐放剤が開発されるとリュープリンは売れ始め[103]、TAPは軌道に乗る。もっとも社内の期待は当初限定的で、開発担当の森田桂常務は1985年に「残念ながら市場はそう大きくない」と述べていた[104]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [98]TAPの焦点は抗生物質かリュープリンかの選択
    • [99]抗生物質は武田の十八番、専用の新工場が完成済み
    • [100]リュープリンは毎日注射が必要な前立腺の抗がん剤
    • [101]武田國男氏がリュープリンを選択
    • [102]選択の理由 爛熟期の抗生物質は消耗戦、ニッチのリュープリンに賭ける
    • [103]徐放剤の開発でリュープリンが伸び、TAPが軌道に乗る
  • 日経ビジネス 1985年12月9日号
    • [104]森田桂常務の1985年の発言「残念ながら市場はそう大きくない」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [92]1983年 小西新兵衛会長が武田國男氏にTAP赴任を命じる
    • [93]TAPは米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社
    • [94]武田國男氏は副社長として赴任
    • [96]TAPの内情「二つの派閥の先兵が、米国でいがみ合っている」
    • [98]TAPの焦点は抗生物質かリュープリンかの選択
    • [99]抗生物質は武田の十八番、専用の新工場が完成済み
    • [100]リュープリンは毎日注射が必要な前立腺の抗がん剤
    • [101]武田國男氏がリュープリンを選択
    • [102]選択の理由 爛熟期の抗生物質は消耗戦、ニッチのリュープリンに賭ける
    • [103]徐放剤の開発でリュープリンが伸び、TAPが軌道に乗る
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1985年5月 TAPファーマシューティカルズを米国に設立
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [97]武田國男氏の社内報での回顧「悪夢の三年間」
  • 日経ビジネス 1985年12月9日号
    • [104]森田桂常務の1985年の発言「残念ながら市場はそう大きくない」

武田國男氏の改革と、医薬専業への絞り込み

1993年6月、武田國男氏が社長に就いた[105]。武田家の長兄が急逝したことで、本来なら一生傍流の部屋住みで終わるはずだった三男が社長の座に上がり[106]、周囲は武田家への大政奉還と揶揄した[107]。就任した1993年は、経常利益でライバルの三共に抜かれた年[108]でもある。國男氏は社長就任前に役員子弟の入社を禁じ、自分が武田家出身の最後の社長になることも宣言[109]していた。1994年にはまず経営幹部へ成果重視の人事評価・報酬制度を導入し、1997年4月には全社員へ適用[110]した。年功要素を排して「ジョブ・サイズ」によって報酬を決める仕組み[111]である。

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [105]1993年6月 武田國男氏が社長就任
    • [111]年功要素を排し「ジョブ・サイズ」で報酬を決定
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [106]長兄の急逝で三男の國男氏が社長へ
    • [107]周囲は「大政奉還」と揶揄
    • [108]1993年 経常利益で三共に抜かれる
    • [109]役員子弟の入社禁止と「武田家出身の最後の社長」宣言
    • [110]1994年 経営幹部へ成果主義導入/1997年4月 全社員へ適用

1995年、武田は中期経営計画「95/00」を始めた[112]。1万1,000人に膨らんでいた社員数を2005年までに7,500人へ減らす方針[113]を掲げ、武田史上初の早期退職優遇制度に踏み切っている[114]。反発は激しく、先代の長兵衛氏が終戦時に不用不急の農場まで開設して復員兵・引揚者を無条件で全員再雇用していた[115]だけに、その息子が何ということをするのかという声が社内に上がった。経営企画の担当常務は神経を病み、國男氏のもとには怪文書が届いた[116]。1996年には医療用医薬品以外の五事業を独立採算のカンパニー制へ移し[117]、医薬事業の収益に頼らない自立を迫っている。医薬品事業部は社長直轄とし、医薬営業のボスを一掃[118]した。「象牙の塔」と呼ばれていた研究所も、応用技術研究所など目的の不明な組織を潰して組み替えた[119]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [112]1995年 中期経営計画「95/00」を開始
    • [114]武田史上初の早期退職優遇制度
    • [115]先代長兵衛氏は終戦時に農場まで開設し復員兵・引揚者を全員再雇用
    • [116]担当常務が神経を病み、國男氏へ怪文書が届く
    • [118]医薬品事業部を社長直轄とし医薬営業の幹部を一掃
    • [119]「象牙の塔」と呼ばれた研究所の組み替え
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [113]社員1万1,000人を2005年までに7,500人へ削減する方針
    • [117]1996年 医療用医薬品以外の五事業をカンパニー制へ

1996年、國男氏は15時間に及ぶ手術で前立腺・膀胱・リンパ腺を摘出[120]した。それでも手術から2か月足らずの同年6月に株主総会の議長を自ら務め[121]、5か月後には化学療法で丸坊主になった頭のまま9月中間決算の記者会見に出て、がんの告白と完治宣言を同時に行っている[122]。1998年7月の修正中期計画では、2000年度をめどにROE11%、粗利益率54%、損益分岐点比率65%、一人当たり営業利益1,500万円という四つの目標[123]を掲げた。同年3月末に9,800人だった人員は2000年度に8,700人[124]とし、「2010年には五〇〇〇人でいい」とも語っている[125]。改革の途上で國男氏が使ったのは「触わっただけで水が滴り落ちるダブダブの塗れ雑巾を、まだ絞ってもいない」[126]という言い方だった。2000年3月期にはROE12%を実現して目標を1年早くクリア[127]し、営業キャッシュフローは1,590億円と1995年度の2倍[128]、株式時価総額は5.7兆円と1995年度の3.8倍[129]に達した。

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [120]1996年 15時間の手術で前立腺・膀胱・リンパ腺を摘出
    • [121]手術2か月弱で株主総会の議長、5か月後の会見でがんの告白と完治宣言
    • [122]9月中間決算会見でがんの告白と完治宣言
    • [127]2000年3月期 ROE12%で目標を1年前倒しで達成
    • [128]2000年3月期 営業キャッシュフロー1,590億円(1995年度の2倍)
    • [129]2000年3月期 株式時価総額5.7兆円(1995年度の3.8倍)
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [123]1998年7月 修正中期計画の四目標(ROE11%・粗利益率54%・損益分岐点比率65%・一人当たり営業利益1,500万円)
    • [124]人員 1998年3月末9,800人→2000年度8,700人
    • [125]武田國男氏の発言「2010年には五〇〇〇人でいい」
    • [126]武田國男氏の発言「ダブダブの塗れ雑巾を、まだ絞ってもいない」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [105]1993年6月 武田國男氏が社長就任
    • [111]年功要素を排し「ジョブ・サイズ」で報酬を決定
    • [112]1995年 中期経営計画「95/00」を開始
    • [114]武田史上初の早期退職優遇制度
    • [115]先代長兵衛氏は終戦時に農場まで開設し復員兵・引揚者を全員再雇用
    • [116]担当常務が神経を病み、國男氏へ怪文書が届く
    • [118]医薬品事業部を社長直轄とし医薬営業の幹部を一掃
    • [119]「象牙の塔」と呼ばれた研究所の組み替え
    • [120]1996年 15時間の手術で前立腺・膀胱・リンパ腺を摘出
    • [121]手術2か月弱で株主総会の議長、5か月後の会見でがんの告白と完治宣言
    • [122]9月中間決算会見でがんの告白と完治宣言
    • [127]2000年3月期 ROE12%で目標を1年前倒しで達成
    • [128]2000年3月期 営業キャッシュフロー1,590億円(1995年度の2倍)
    • [129]2000年3月期 株式時価総額5.7兆円(1995年度の3.8倍)
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [106]長兄の急逝で三男の國男氏が社長へ
    • [107]周囲は「大政奉還」と揶揄
    • [108]1993年 経常利益で三共に抜かれる
    • [109]役員子弟の入社禁止と「武田家出身の最後の社長」宣言
    • [110]1994年 経営幹部へ成果主義導入/1997年4月 全社員へ適用
    • [113]社員1万1,000人を2005年までに7,500人へ削減する方針
    • [117]1996年 医療用医薬品以外の五事業をカンパニー制へ
    • [123]1998年7月 修正中期計画の四目標(ROE11%・粗利益率54%・損益分岐点比率65%・一人当たり営業利益1,500万円)
    • [124]人員 1998年3月末9,800人→2000年度8,700人
    • [125]武田國男氏の発言「2010年には五〇〇〇人でいい」
    • [126]武田國男氏の発言「ダブダブの塗れ雑巾を、まだ絞ってもいない」

米国での自前販売網と、次の主力をめぐる不安

米国では自前の販売網づくりが進み、1993年3月にタケダ・アメリカ[130]、1997年10月に武田アメリカ研究開発センターと武田アイルランド[131]、同年12月に武田アメリカ・ホールディングス[132]、1998年5月に武田ファーマシューティカルズ・アメリカ[133]、同年9月に武田欧州研究開発センターを相次いで設けている[134]。TAPは調査会社の評価で1996年と1997年に泌尿器科領域のMR評価1位を獲得[135]したが、成功しすぎたためにアボットが株の買い取り交渉に応じず、独自の販売戦略は手詰まりに陥っていた[136]。1998年に立ち上げた100%販売子会社は糖尿病領域に強い米リリー社と提携[137]し、2000年に予定していた次の大型薬アクトスの米国投入[138]に備えた。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [130]1993年3月 タケダ・アメリカを設立
    • [131]1997年10月 武田アメリカ研究開発センターと武田アイルランドを設立
    • [132]1997年12月 武田アメリカ・ホールディングスを設立
    • [133]1998年5月 武田ファーマシューティカルズ・アメリカを設立
    • [134]1998年9月 武田欧州研究開発センターを設立
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [135]TAPが1996・1997年に泌尿器科領域のMR評価1位
    • [136]アボットが株買い取り交渉に応じず販売戦略が手詰まりに
    • [137]1998年に100%販売子会社を設立し米リリー社と提携
    • [138]アクトスの米国投入予定は2000年

1998年7月末の株式時価総額は3.2兆円で、5年前の2.8倍[139]に増えた。ただし米『ビジネスウィーク』誌の1998年株式時価総額ランキングでは137位から174位へ順位を下げており[140]、メルク、ファイザー、ブリストルマイヤーズ・スクイブ、グラクソ・ウェルカムといった製薬トップグループのほうが順位を上げている[141]。2000年の時点でTAPの純益は928億円に達し、武田本体を上回った[142]。國男氏が最も気にしていたのは後継者で、経営会議の他の三人は62歳から65歳と高齢[143]だった。1998年6月にはコーポレート・オフィサー制度を新設して取締役候補の育成と選抜に着手[144]した。國男氏自身は「私が号令かけないと会社が前に進まないのも事実」[145]と述べている。

  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [139]1998年7月末 株式時価総額3.2兆円(5年前の2.8倍)
    • [140]ビジネスウィーク誌の時価総額ランキングで137位→174位
    • [141]メルク・ファイザー・ブリストルマイヤーズ・スクイブ・グラクソ・ウェルカムが順位を上げる
    • [143]経営会議の他の三人は62〜65歳
    • [144]1998年6月 コーポレート・オフィサー制度を新設
    • [145]武田國男氏の発言「私が号令かけないと会社が前に進まない」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [142]2000年 TAPの純益928億円で武田本体を上回る
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [130]1993年3月 タケダ・アメリカを設立
    • [131]1997年10月 武田アメリカ研究開発センターと武田アイルランドを設立
    • [132]1997年12月 武田アメリカ・ホールディングスを設立
    • [133]1998年5月 武田ファーマシューティカルズ・アメリカを設立
    • [134]1998年9月 武田欧州研究開発センターを設立
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
    • [135]TAPが1996・1997年に泌尿器科領域のMR評価1位
    • [136]アボットが株買い取り交渉に応じず販売戦略が手詰まりに
    • [137]1998年に100%販売子会社を設立し米リリー社と提携
    • [138]アクトスの米国投入予定は2000年
    • [139]1998年7月末 株式時価総額3.2兆円(5年前の2.8倍)
    • [140]ビジネスウィーク誌の時価総額ランキングで137位→174位
    • [141]メルク・ファイザー・ブリストルマイヤーズ・スクイブ・グラクソ・ウェルカムが順位を上げる
    • [143]経営会議の他の三人は62〜65歳
    • [144]1998年6月 コーポレート・オフィサー制度を新設
    • [145]武田國男氏の発言「私が号令かけないと会社が前に進まない」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
    • [142]2000年 TAPの純益928億円で武田本体を上回る

2003年〜 買収で得た規模と、創薬力の再建という課題

武田薬品工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2003年 非医薬事業を切り、医療用医薬品に絞った武田國男氏の選択と集中 総合化学会社だった武田薬品は、なぜ食品も農薬も手放し「薬だけの会社」へ戻ったのか——十年をかけて固まった医薬専業化
  2. 2003年 長谷川閑史氏が社長に就任
  3. 2008年 北米処方薬事業の本格化——TAP合弁の解消とミレニアム買収 半身の合弁から、なぜ2008年に米国の処方薬事業を自前で握りにいったのか
  4. 2011年 ナイコメッドの約1.1兆円買収による欧州・新興国販売網の一括取得 特許切れを控えた武田薬品工業は、なぜ自前で広げず1兆円超で販売網を買ったのか
  5. 2015年 外国人CEOクリストフ・ウェバー氏の招聘とグローバル経営体制への転換 創業家と生え抜きが200年余り率いてきた製薬最大手は、なぜ経営そのものを外国人に委ねたのか
  6. 2019年 自前創薬の限界を越えるための約6兆8000億円のシャイアー買収 国内首位に立ちながら次の新薬に行き詰まった武田薬品工業は、なぜ日本企業最大級の借金を負ってまで海外企業を丸ごと買ったのか
  7. 2020年 大衆薬事業のブラックストーンへの売却 Shire買収で膨らんだ負債を前に、武田薬品工業はなぜ看板の大衆薬アリナミンまで手放したのか

長谷川体制での非医薬事業の切り離しと米国買収

2003年6月、長谷川閑史氏が社長に就いた[146]武田國男氏が10年間の在任で増収増益を続けた[147]後を継いだ形で、当時の武田は世界で15位にとどまっていた[148]。長谷川氏は糖尿病治療薬アクトス以後に大型新薬が出ていない理由を、「過去の成功で知らぬ間に過信、気の緩みが生じて、組織が保守化、官僚化してきていた」[149]と説明している。日本で日本人が研究を行う強みを追わずに流行を追い、コンピュータで合成して大量にスクリーニングする方法に流され、専門誌への論文掲載を重視しすぎた[150]とも述べた。「約一〇年間に四品目も出たから、ホームランの味が忘れられず、ポテンヒットでも何でもちゃんと育てておかなかった」[151]というのが本人の総括である。自身の役割については「カリスマ経営者が少数の腹心の部下を使って突っ走っていたのを普通のチームで経営する会社に変えるのが私の仕事です」[152]と語った。

  • 週刊東洋経済 2004年4月3日号
    • [146]2003年6月 長谷川閑史氏が社長就任
    • [147]武田國男氏は社長在任10年間で増収増益を継続
    • [148]2004年時点で武田は世界15位
    • [149]長谷川氏の分析「過去の成功で知らぬ間に過信、気の緩みが生じて、組織が保守化、官僚化」
    • [150]流行の追随・大量スクリーニング・論文重視への傾斜
    • [151]長谷川氏の総括「ホームランの味が忘れられず、ポテンヒットでも何でもちゃんと育てておかなかった」
    • [152]長谷川氏の役割認識「普通のチームで経営する会社に変えるのが私の仕事」

多角化事業の切り離しは長谷川体制で加速し、2005年4月に生活環境事業の日本エンバイロケミカルズを大阪ガスケミカルへ[153]、同年6月には動物用医薬品事業の武田シェリング・プラウアニマルヘルスをシェリング・プラウへ譲渡[154]している。2006年1月にはビタミン事業のBASF武田ビタミンをBASFジャパンへ[155]、同年4月に化学品事業の三井武田ケミカルを三井化学へ渡した[156]。2007年4月には食品事業の武田キリン食品を麒麟麦酒へ[157]、同年10月には飲料・食品事業のハウスウェルネスフーズをハウス食品へ、農薬事業の住化武田農薬を住友化学へ譲渡[158]した。買収の側では2005年3月に米国のシリックスを取得している[159]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [153]2005年4月 日本エンバイロケミカルズ(生活環境事業)を大阪ガスケミカルへ譲渡
    • [154]2005年6月 武田シェリング・プラウアニマルヘルス(動物用医薬品)を譲渡
    • [155]2006年1月 BASF武田ビタミン(ビタミン事業)をBASFジャパンへ譲渡
    • [156]2006年4月 三井武田ケミカル(化学品事業)を三井化学へ譲渡
    • [157]2007年4月 武田キリン食品(食品事業)を麒麟麦酒へ譲渡
    • [158]2007年10月 ハウスウェルネスフーズ・住化武田農薬を譲渡
    • [159]2005年3月 米国のシリックスを買収

2008年3月、武田はアボットとのTAP合弁を解消してTAPを完全子会社化[160]し、同じ月に米アムジェンの日本法人アムジェン株式会社も買収した[161]。同年5月には株式の公開買付けにより米ミレニアム・ファーマシューティカルズを子会社[162]としている。買収総額は約8,800億円で、武田にとって当時過去最高の投資[163]だった。長谷川氏は買収プレミアムについて「ここ数年間のバイオ医薬品の例を見ると平均値は五〇%くらい。今回のプレミアムは五二・九%なので、その範囲内だ」と説明している。ミレニアムが持つ多発性骨髄腫治療薬ベルケードは、臨床試験開始からわずか4年半で販売許可を取得した薬[165]だった。武田は2010年前後に米国でプレバシドとアクトスの特許切れを控えており[166]、ベルケードの成長でその影響を抑える狙いもあった。 [164]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [160]2008年3月 TAP合弁を解消し完全子会社化
    • [161]2008年3月 米アムジェンの日本法人を買収
    • [162]2008年5月 公開買付けでミレニアム・ファーマシューティカルズを買収
  • 週刊東洋経済 2008年4月26日号
    • [163]ミレニアム買収総額 約8,800億円(当時過去最高の投資)
    • [164]長谷川氏の説明 買収プレミアム52.9%(バイオ医薬品の平均は約50%)
    • [165]ベルケードは臨床試験開始から4年半で販売許可を取得
    • [166]2010年前後に米国でプレバシド・アクトスの特許切れ
  • 週刊東洋経済 2004年4月3日号
    • [146]2003年6月 長谷川閑史氏が社長就任
    • [147]武田國男氏は社長在任10年間で増収増益を継続
    • [148]2004年時点で武田は世界15位
    • [149]長谷川氏の分析「過去の成功で知らぬ間に過信、気の緩みが生じて、組織が保守化、官僚化」
    • [150]流行の追随・大量スクリーニング・論文重視への傾斜
    • [151]長谷川氏の総括「ホームランの味が忘れられず、ポテンヒットでも何でもちゃんと育てておかなかった」
    • [152]長谷川氏の役割認識「普通のチームで経営する会社に変えるのが私の仕事」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [153]2005年4月 日本エンバイロケミカルズ(生活環境事業)を大阪ガスケミカルへ譲渡
    • [154]2005年6月 武田シェリング・プラウアニマルヘルス(動物用医薬品)を譲渡
    • [155]2006年1月 BASF武田ビタミン(ビタミン事業)をBASFジャパンへ譲渡
    • [156]2006年4月 三井武田ケミカル(化学品事業)を三井化学へ譲渡
    • [157]2007年4月 武田キリン食品(食品事業)を麒麟麦酒へ譲渡
    • [158]2007年10月 ハウスウェルネスフーズ・住化武田農薬を譲渡
    • [159]2005年3月 米国のシリックスを買収
    • [160]2008年3月 TAP合弁を解消し完全子会社化
    • [161]2008年3月 米アムジェンの日本法人を買収
    • [162]2008年5月 公開買付けでミレニアム・ファーマシューティカルズを買収
  • 週刊東洋経済 2008年4月26日号
    • [163]ミレニアム買収総額 約8,800億円(当時過去最高の投資)
    • [164]長谷川氏の説明 買収プレミアム52.9%(バイオ医薬品の平均は約50%)
    • [165]ベルケードは臨床試験開始から4年半で販売許可を取得
    • [166]2010年前後に米国でプレバシド・アクトスの特許切れ

ナイコメッド買収と、外国人CEOの招聘

2011年9月、武田はスイスのナイコメッドを[167]96億ユーロ、日本円で約1兆1,000億円で買収した[168]。欧州・ロシア・アジア・中南米に広がる販売網を一括で得て、進出国は28から70超へ広がっている[169]。対価は新株を発行せず現金で払い、手元資金に約6,000億円の借入を加えて充当[170]した。実質無借金だった財務はここで変わり、有利子負債は2011年3月期末の13億円から2012年3月期末には5,428億円へ増えた[171]。医療用医薬品の世界売上順位は16位から12位へ[172]上がっている。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [167]2011年9月 スイスのナイコメッドを買収
  • 薬事日報(2011年5月20日)
    • [168]ナイコメッド買収額 96億ユーロ・約1兆1,000億円
    • [169]進出国が28から70超へ拡大
    • [170]対価は現金のみ/約6,000億円の借入で充当
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
    • [171]有利子負債 2011年3月期末13億円→2012年3月期末5,428億円
  • 薬事日報(2011年10月3日)
    • [172]医療用医薬品の世界売上順位が16位から12位へ

研究開発の体制も組み替え、2011年2月には大阪とつくばにあった研究拠点を集約する形で神奈川県に湘南研究所を開いた[173]。当時およそ1,200人が働く拠点[174]となる。だが期待に反して有力候補薬の開発失敗が続く[175]。2004年3月期から2012年9月中間期までの9年半で約2兆4,000億円を研究開発に投じても[176]、アクトスに匹敵する大型品は生まれなかった。長谷川氏は組織のグローバル化を進めるなかで研究本部のトップに外資製薬大手出身の外国人を招き[177]、重点領域ごとに分けた5つのユニット長のポストのうち4つも外部から招いた外国人に委ねている[178]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [173]2011年2月 湘南研究所を開設
  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
    • [174]湘南研究所は開設当時およそ1,200人
    • [175]湘南研究所では有力候補薬の開発失敗が続いた
    • [177]長谷川氏が研究本部トップに外資出身の外国人を招聘
    • [178]5つのユニット長のうち4つを外部の外国人に委ねる
  • 週刊東洋経済 2013年2月2日号
    • [176]2004年3月期〜2012年9月中間期の9年半で研究開発費 約2兆4,000億円

2014年6月、武田は英グラクソ・スミスクライン出身のクリストフ・ウェバー氏を社長に迎え、2015年4月にCEOへ就けた[179]。ウェバー氏は1966年フランス生まれで、リヨン大学で薬学・薬物動態学の博士号を取得し、グラクソ・スミスクラインに約20年勤めた[180]経歴を持つ。外国人の社長として在任期間を問われた際には「いいえ、マックスで一〇年やります」と答えている[181]。ウェバー体制のもとで2016年から2017年にかけて湘南研究所のリストラが行われ、2017年時点の研究者は500人ほどまで減った[182]。がんと消化器系疾患の研究は米国に集約し、湘南には神経精神疾患系のみが残る[183]。2018年4月には研究施設をベンチャーに開放して湘南ヘルスイノベーションパークとし[184]、武田自身はテナントとして入居する形になった[185]

  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
    • [179]2014年6月 クリストフ・ウェバー氏が社長就任、2015年4月にCEO
    • [180]ウェバー氏の経歴 1966年フランス生まれ・リヨン大学で博士号・GSKに約20年
    • [181]ウェバー氏の発言「マックスで一〇年やります」
    • [182]2016〜2017年 湘南研究所のリストラ/2017年時点の研究者は約500人
    • [183]がん・消化器系は米国へ集約、湘南は神経精神疾患系のみ
    • [185]武田はテナントとして入居する形へ
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [184]2018年4月 湘南ヘルスイノベーションパークを開設
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [167]2011年9月 スイスのナイコメッドを買収
    • [173]2011年2月 湘南研究所を開設
    • [184]2018年4月 湘南ヘルスイノベーションパークを開設
  • 薬事日報(2011年5月20日)
    • [168]ナイコメッド買収額 96億ユーロ・約1兆1,000億円
    • [169]進出国が28から70超へ拡大
    • [170]対価は現金のみ/約6,000億円の借入で充当
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
    • [171]有利子負債 2011年3月期末13億円→2012年3月期末5,428億円
  • 薬事日報(2011年10月3日)
    • [172]医療用医薬品の世界売上順位が16位から12位へ
  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
    • [174]湘南研究所は開設当時およそ1,200人
    • [175]湘南研究所では有力候補薬の開発失敗が続いた
    • [177]長谷川氏が研究本部トップに外資出身の外国人を招聘
    • [178]5つのユニット長のうち4つを外部の外国人に委ねる
    • [179]2014年6月 クリストフ・ウェバー氏が社長就任、2015年4月にCEO
    • [180]ウェバー氏の経歴 1966年フランス生まれ・リヨン大学で博士号・GSKに約20年
    • [181]ウェバー氏の発言「マックスで一〇年やります」
    • [182]2016〜2017年 湘南研究所のリストラ/2017年時点の研究者は約500人
    • [183]がん・消化器系は米国へ集約、湘南は神経精神疾患系のみ
    • [185]武田はテナントとして入居する形へ
  • 週刊東洋経済 2013年2月2日号
    • [176]2004年3月期〜2012年9月中間期の9年半で研究開発費 約2兆4,000億円

シャイアー買収と、負債圧縮のなかの創薬力

2017年2月、武田は株式の公開買付けにより米国のアリアド・ファーマシューティカルズを買収[186]した。2018年7月には東京都中央区に武田グローバル本社を開き[187]、同年12月にはニューヨーク証券取引所へ米国預託証券を上場している[188]。そして2019年1月、スキーム・オブ・アレンジメントによりアイルランドのシャイアーを買収した[189]。投じた金額は約6兆8,000億円[190]で、日本企業によるクロスボーダーM&Aとして過去最大級の規模である。連結売上収益は2019年3月期の2兆972億円から2020年3月期には3兆2,912億円へ増えた[191]。有利子負債は2018年3月期末の9,857億円から2019年3月期末に5兆7,510億円へ膨らみ[192]、のれんは4兆2,403億円、総資産は13兆7,928億円となった[193]

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [186]2017年2月 公開買付けでアリアド・ファーマシューティカルズを買収
    • [187]2018年7月 武田グローバル本社(東京都中央区)を開設
    • [188]2018年12月 ニューヨーク証券取引所へ米国預託証券を上場
    • [189]2019年1月 スキーム・オブ・アレンジメントによりShireを買収
  • Bloomberg(2018年5月8日)
    • [190]シャイアー買収額 約6兆8,000億円
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [191]連結売上収益 2019年3月期2兆972億円→2020年3月期3兆2,912億円
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
    • [192]有利子負債 2018年3月期末9,857億円→2019年3月期末5兆7,510億円
    • [193]2019年3月期末 のれん4兆2,403億円・総資産13兆7,928億円

膨らんだ負債の圧縮のため非中核事業の売却が続き、2017年4月には試薬・化成品・臨床検査薬事業の和光純薬工業を富士フイルムへ譲渡[194]した。2021年3月には武田コンシューマーヘルスケアの全株式をブラックストーンが運用するファンドへ[195]企業価値2,420億円で渡し[196]、1954年発売のアリナミンを含む大衆薬が本体から切り離された。2022年10月には日本製薬の血漿分画製剤事業を会社分割で承継[197]し、2024年7月に日本製薬の株式をアリナミン製薬へ[198]、2025年3月には武田テバファーマの株式をテバへ譲渡した[199]。有利子負債は2025年3月期末で4兆5,153億円まで[200]下がっている。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [194]2017年4月 和光純薬工業を富士フイルムへ譲渡
    • [195]2021年3月 武田コンシューマーヘルスケアをBlackstoneへ譲渡
    • [197]2022年10月 日本製薬の血漿分画製剤事業を会社分割で承継
    • [198]2024年7月 日本製薬株式をアリナミン製薬へ譲渡
    • [199]2025年3月 武田テバファーマ株式をTevaへ譲渡
  • 日本経済新聞(2020年8月24日)
    • [196]大衆薬事業の譲渡は企業価値2,420億円
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
    • [200]有利子負債 2025年3月期末4兆5,153億円

2024年5月の決算説明会で、ウェバー氏は年間1,400億円をかけた構造改革を発表[201]した。米サンディエゴの拠点を閉鎖し、ボストンでは約850人を削減して米国全体で1,000人規模の人員を減らし[202]、8月には国内でも希望退職の募集を発表している[203]。主力の潰瘍性大腸炎薬エンタイビオは年間約8,000億円を稼ぐが、これは2008年に買収したミレニアムからの導入品[204]で、2032年に特許が切れる。約1,200億円を稼ぐタケキャブも2031年に特許満了を迎え、合計1兆円近い売上の消失[205]が控えている。後期開発品では自己免疫疾患向けのTAK-279と、自社開発品のTAK-861に投資を集中[206]させた。ウェバー氏は「もしシャイアーを買収していなければ、武田の米国での位置づけは今よりずっと低かっただろう」[207]と述べている。2026年3月期は売上収益4兆5,057億円に対して営業利益が62億円にとどまり、1,524億円の純損失を計上した。2026年6月には、米国事業を率いたジュリー・キム氏がCEOを引き継ぐ予定である。

  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
    • [201]2024年5月 年間1,400億円の構造改革を発表
    • [202]サンディエゴ拠点閉鎖・ボストン約850人・米国全体で1,000人規模の削減
    • [203]2024年8月 国内で希望退職の募集を発表
    • [204]エンタイビオは年間約8,000億円/ミレニアムからの導入品/2032年に特許切れ
    • [205]タケキャブは約1,200億円・2031年に特許満了/合計1兆円近い売上消失
    • [206]後期開発品 TAK-279(自己免疫疾患)とTAK-861(ナルコレプシー、自社開発品)
    • [207]ウェバー氏の発言「シャイアーを買収していなければ、武田の米国での位置づけは今よりずっと低かった」
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [186]2017年2月 公開買付けでアリアド・ファーマシューティカルズを買収
    • [187]2018年7月 武田グローバル本社(東京都中央区)を開設
    • [188]2018年12月 ニューヨーク証券取引所へ米国預託証券を上場
    • [189]2019年1月 スキーム・オブ・アレンジメントによりShireを買収
    • [194]2017年4月 和光純薬工業を富士フイルムへ譲渡
    • [195]2021年3月 武田コンシューマーヘルスケアをBlackstoneへ譲渡
    • [197]2022年10月 日本製薬の血漿分画製剤事業を会社分割で承継
    • [198]2024年7月 日本製薬株式をアリナミン製薬へ譲渡
    • [199]2025年3月 武田テバファーマ株式をTevaへ譲渡
  • Bloomberg(2018年5月8日)
    • [190]シャイアー買収額 約6兆8,000億円
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [191]連結売上収益 2019年3月期2兆972億円→2020年3月期3兆2,912億円
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
    • [192]有利子負債 2018年3月期末9,857億円→2019年3月期末5兆7,510億円
    • [193]2019年3月期末 のれん4兆2,403億円・総資産13兆7,928億円
    • [200]有利子負債 2025年3月期末4兆5,153億円
  • 日本経済新聞(2020年8月24日)
    • [196]大衆薬事業の譲渡は企業価値2,420億円
  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
    • [201]2024年5月 年間1,400億円の構造改革を発表
    • [202]サンディエゴ拠点閉鎖・ボストン約850人・米国全体で1,000人規模の削減
    • [203]2024年8月 国内で希望退職の募集を発表
    • [204]エンタイビオは年間約8,000億円/ミレニアムからの導入品/2032年に特許切れ
    • [205]タケキャブは約1,200億円・2031年に特許満了/合計1兆円近い売上消失
    • [206]後期開発品 TAK-279(自己免疫疾患)とTAK-861(ナルコレプシー、自社開発品)
    • [207]ウェバー氏の発言「シャイアーを買収していなければ、武田の米国での位置づけは今よりずっと低かった」

武田薬品工業の沿革1781〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
武田薬品工業創業——道修町の薬種仲買から自社製造の製薬企業へ幕府公認の薬種株仲間が集散を握る道修町で、初代武田長兵衛氏が起こした無製造の和漢薬仲買は、どのように自社製造の製薬企業へ姿を変えたか 詳細を読む★★★
洋薬の輸入買付を開始★★
医薬品の製造に参入★★
五代武田長兵衛氏が家業を継承
武田研究部を設置
武田製薬所を新設★★
武田製薬を設立★★
大五製薬を設立
武田化学薬品を設立
武田製薬と合併し武田長兵衛商店を設立★★
海外出張所の開設を開始
ビタミンB1の合成に成功★★
武田長兵衛武田薬品工業に商号変更★★
武田長兵衛小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
武田長兵衛光工場を新設
武田長兵衛東京・大阪の各証券取引所に上場
武田長兵衛総合ビタミン剤「パンビタン」を発売★★
武田長兵衛大衆薬「アリナミン」を発売★★
武田長兵衛キノホルム製剤の販売を開始★★
武田長兵衛事業部制を導入
武田長兵衛台湾武田Ltd.を設立
武田長兵衛年間売上高が1200億円に到達
武田長兵衛行政の指示によりキノホルム製剤が販売中止★★
小西新兵衛スモン訴訟填補引当金の計上を開始★★
小西新兵衛医薬品の販売を開始
倉林育四郎前立腺がん治療薬「リュープロン」を発売★★
倉林育四郎アボット・ラボラトリーズとの合弁でTAPファーマシューティカルズを設立★★
森田桂消化性潰瘍薬ランソプラゾールを発売★★
武田國男タケダ・アメリカを設立
武田國男非医薬事業を切り、医療用医薬品に絞った武田國男氏の選択と集中総合化学会社だった武田薬品は、なぜ食品も農薬も手放し「薬だけの会社」へ戻ったのか——十年をかけて固まった医薬専業化 詳細を読む★★★
武田國男経営幹部に成果重視の人事評価・報酬制度を導入
武田國男中期経営計画「95/00」を開始★★
武田國男医療用医薬品以外の5事業にカンパニー制を導入★★
武田國男武田ファーマシューティカルズ・アメリカを設立★★
武田國男修正中期経営計画で4つの数値目標を設定★★
武田國男糖尿病治療薬「アクトス」を発売★★
武田國男ROE12%を達成★★
長谷川閑史長谷川閑史氏が社長に就任★★
長谷川閑史日本エンバイロケミカルズの株式を大阪ガスケミカルに譲渡★★
長谷川閑史TAPファーマシューティカルズを完全子会社化★★
長谷川閑史北米処方薬事業の本格化——TAP合弁の解消とミレニアム買収半身の合弁から、なぜ2008年に米国の処方薬事業を自前で握りにいったのか 詳細を読む★★★
長谷川閑史湘南研究所を開設★★
長谷川閑史ナイコメッドの約1.1兆円買収による欧州・新興国販売網の一括取得特許切れを控えた武田薬品工業は、なぜ自前で広げず1兆円超で販売網を買ったのか 詳細を読む★★★
長谷川閑史有利子負債が5428億円に増加
クリストフウェバークリストフ・ウェバー氏が社長に就任★★
クリストフウェバー外国人CEOクリストフ・ウェバー氏の招聘とグローバル経営体制への転換創業家と生え抜きが200年余り率いてきた製薬最大手は、なぜ経営そのものを外国人に委ねたのか 詳細を読む★★★
クリストフウェバー日本の長期収載品事業を会社分割により分離★★
クリストフウェバー公開買付けによりアリアド・ファーマシューティカルズを子会社化★★
クリストフウェバー和光純薬工業の株式を富士フイルムに譲渡★★
クリストフウェバー湘南ヘルスイノベーションパークを開設
クリストフウェバー武田グローバル本社を開設
クリストフウェバーニューヨーク証券取引所に米国預託証券を上場
クリストフウェバー自前創薬の限界を越えるための約6兆8000億円のシャイアー買収国内首位に立ちながら次の新薬に行き詰まった武田薬品工業は、なぜ日本企業最大級の借金を負ってまで海外企業を丸ごと買ったのか 詳細を読む★★★
クリストフウェバー有利子負債が5兆7510億円に増加
クリストフウェバー連結売上収益が3兆2912億円に増加★★
クリストフウェバー大衆薬事業のブラックストーンへの売却Shire買収で膨らんだ負債を前に、武田薬品工業はなぜ看板の大衆薬アリナミンまで手放したのか 詳細を読む★★★
クリストフウェバー年間1400億円をかけた構造改革を発表★★
クリストフウェバー武田テバファーマの株式をTevaに譲渡★★
クリストフウェバー純損失1524億円を計上★★
クリストフウェバージュリー・キム氏がCEOに就任予定
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結貸借対照表)
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号
  • 週刊東洋経済 1998年8月29日号
  • 日経ビジネス 1985年12月9日号
  • 週刊東洋経済 2004年4月3日号
  • 週刊東洋経済 2008年4月26日号
  • 薬事日報(2011年5月20日)
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結財政状態計算書)
  • 薬事日報(2011年10月3日)
  • 週刊東洋経済 2024年10月5日号
  • 週刊東洋経済 2013年2月2日号
  • Bloomberg(2018年5月8日)
  • 武田薬品工業 有価証券報告書(連結損益計算書)
  • 日本経済新聞(2020年8月24日)

免責事項およびポリシー