江戸時代後期において、和漢薬の商売の中心地だった大阪・道修町にて初代・武田長兵衛氏)が薬種商を創業。和漢薬の販売を開始したのが武田薬品工業の歴史の始まりである。このため、武田薬品は江戸時代から続く老舗企業としても知られる。創業以後、武田長兵衛の襲名が伝統となり、武田薬品のトップは5代目まで「武田長兵衛」を襲名することで有名であった

武田薬品工業の歴史
日本を代表する医薬品メーカー。海外で巨額買収を積極化するが利益率は長期低迷へ
日本を代表する医薬品メーカー。海外で巨額買収を積極化するが利益率は長期低迷へ
江戸時代後期において、和漢薬の商売の中心地だった大阪・道修町にて初代・武田長兵衛氏)が薬種商を創業。和漢薬の販売を開始したのが武田薬品工業の歴史の始まりである。このため、武田薬品は江戸時代から続く老舗企業としても知られる。創業以後、武田長兵衛の襲名が伝統となり、武田薬品のトップは5代目まで「武田長兵衛」を襲名することで有名であった
明治時代に入り、武田家は主力事業を和漢薬から、ドイツの近代的な医薬品に転換。洋薬の輸入を本格化した
第一次世界大戦の勃発により、ドイツからの輸入が途絶えため、医薬品の国産化を決定。大阪にて医薬品を製造するための工場を新設した。前年の1914年に設置された「武田研究部」との相乗効果により、医薬品の開発・製造に本格参入した。それまでは問屋や輸入商であったが、この決断によって医薬品メーカーとして発展する契機となった
旧来の個人経営から株式会社に組織変更
武田薬品工業と小西薬品が合併。以後、武田薬品の経営トップは武田家が歴任したが、小西家も役員に就任して武田薬品の経営に携わった。このため、武田薬品の創業家には「武田家」と「小西家」という2つの系統が存在する。
ビタミン剤として「アリナミン」を発売。終戦後の栄養不足の日本においてビタミン剤の市場が急速に成長し、アリナミンは積極的な広告宣伝(当時人気だった映画俳優の三船敏郎を起用)によって売上を拡大。国内における武田薬品の知名度と業績向上に寄与(FY1955において売上高の37%がビタミン剤)する大型製品となった。なお、ビタミン剤に参入する企業も多かったため、他の医薬品メーカーとの厳しい競争にさらされたが、武田薬品は「タケダ会」という販売会を組織して対応。アリナミンを再販指定品目に登録したことで「全国統一価格・正価販売」を組織的に実現し、武田薬品工業の高収益を支える製品に育った。
経営多角化のために食品事業に参入。清涼飲料「プラッシー」を製造販売した
アリナミンのヒットで武田薬品はビタミン剤国内シェア1位を確保。積極的な生産および広告投資が寄与した
製薬・医薬販売・食品・化学品・外国の5部署からなる組織体制に変更。医薬以外の多角事業にも注力
関東地区における生産を強化するため、神奈川県藤沢市に湘南工場を新設。アリナミン錠剤の主力工場上として稼働。1965年からは医療用医薬品(注射薬など)の製造を開始
アリナミンの価格の高さが社会的に問題視され、武田薬品はアリナミンなどの15品目については5%の値下げを決定。利益率が急降下して業績が悪化した
ビタミン剤ブームの終焉を受けて、医療用医薬品の開発を強化。抗生物質に焦点を当て、医療用医薬品の強化に舵を切った
抗生物質を自社開発。1970年代の最盛期には年間10億円の売上を記録し、武田薬品工業の大型新薬となった。一方で、リラシリン以外の大型新薬の市場投入には苦戦し、海外からの導入品や、食品・化成品といった多角事業の収益が武田薬品工業を支えた。このため、1970年代を通じて武田薬品は「大型新薬がなかった」(1981/5投資月報)ことが利益率悪化の原因と言われ、経営に苦戦した。
5代目武田長兵衛氏(1943年社長就任)が70歳にて社長を退任。1944年に経営統合した小西薬品の創業家出身の小西新兵衛氏が社長就した。小西氏は社長就任時から海外展開を意識しており、当時の製薬メーカーでは珍しくグローバルな経営者であった
1975年に日本政府は製薬業界における資本自由化を実施し、欧米メーカーが日本法人を通じて国内事業に参入した。これを受けて、武田薬品の小西新兵衛社長は、欧米企業との競争に打ち勝つためには海外展開を積極化することが有効と判断。そこで、1970年代以降の武田薬品は海外の現地法人を通じた医療用医薬品販売および開発への投資を本格化した。
スモン訴訟の引当金として、FY1977〜FY1980にかけて累計約200億円の引当金を計上
新薬の共同開発のために米国のアボット社と提携
新薬の共同開発のためにドイツのグリュネンタール社と提携
日本では1976年に「物質特許制度」が実施され、後発企業が製法を変えるという抜け道が塞がれ、実質的に創薬に対する特許の有効範囲が広がった。これを受けて、1970年代後半から武田薬品は医療用医薬品への創薬投資を強化。国内の競合他社が年間100億円の研究開発費を計上する中で、FY1979に武田薬品は2倍となる210億円を研究開発費として捻出して200億円を突破。業界内でも特に創薬重視の方向を鮮明にした
発売から2年で売上高300億円の大型新薬に成長。1980年代前半における武田薬品のトップ製品となった。なお、1983年時点の医療用医薬品の主力製品は「ハンスポリン(抗生物質)」「ダーゼン(消化酵素剤)」「ニコリン(意識障害治療薬)」「アダラート(循環器系薬剤・西独バイエル社から導入)」など
小西新兵衛氏は米国にアボット社と合弁による現地法人を設立し、自社開発の医薬品の米国市場への投入を狙った。現地の責任者は創業家出身の武田國男氏であったが、設立当初は競争力のある医療用医薬品がなく経営に苦戦した。だが、1989年にリュープリン(投与回数を減らした改良型)が米国発売されると、現地法人の売上増大に寄与して業績を改善。現地法人の成功例となり、武田薬品ののグローバル化を象徴する合弁会社となった
武田國男氏(アメリカ現地法人・責任者)は、競争が激しい抗生物質の開発中止を決め、代わりにがん治療薬として開発中だった「リュープリン」に投資する方針を決定。当時は抗生物質の開発が業界内で盛んであったため、武田氏は周囲の反対論を抑えつつ、抗がん剤としての「リュープリン」の米国発売に踏み切った。1989年に投入したリュープリンは投薬回数を抑えるメリットがあり、市場を席巻することになった
プロトンポンプ阻害剤として開発し、欧州で販売開始。一般名は「ランソプラゾール」。米国ではリュープリン、欧州ではタケプロンが収益増大に寄与。武田薬品のグローバルの支えとなる基幹製品となった
新薬の開発費高騰を受けて、武田國男社長は、グローバル企業として生き残ることに賭け、選択と集中を強化。多角化事業を含めた採算性を重視する方針を打ち出し、各事業部への収益意識を高めるためにカンパニー制を導入し、将来の事業売却の布石とした。また、新規採用の抑制によって10年間で人員3500名を削減する方針を提示し、固定費削減への意識を鮮明に打ち出した
大型新薬のリュープリンが米国を中心に売上を拡大。FY1995時点で国内217億円+米国638億円+欧州ほか153億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に育った
高血圧治療薬として発売。一般名は「カンデサルタン・シレキセチル」
糖尿病治療薬である「アクトス」が米国で承認され販売開始。1999年には日本でも承認された。化合物の選定が1986年(AD-4833)、臨床試験の開始が1989年であり、約10年の開発期間を経て市場に投入。2000年代を通じて武田薬品の収益に貢献した大型新薬となった
大型新薬のタケプロンが米国を中心に売上を拡大。FY1995時点で国内95億円+米国1690億円+欧州ほか265億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に育った
大型新薬のグローバル展開の方針が功を奏し、1998年3月期に武田薬品は売上高当期純利益ベースで10%を突破。日本国内の製薬メーカーが経営統合(第一製薬+三共→第一三共・藤沢薬品+山之内製薬→アステラス製薬)によって生き残りを図る中で、武田薬品は単独企業として存続に成功し、利益率の高さに注目が集まった。
生活環境・動物医薬品・ビタミン・化学品・食品・飲料・農薬の各事業について、2005年から2008年にかけて事業を売却
1154億円の事業譲渡益を計上
米国の製薬メーカーARIAD社を5831億円で買収。希少疾患(白血病・肺がん・希少がん)向けの医療用医薬品の拡充を目論んだ。
富士フイルムHDに売却
アイルランドの大手医薬品メーカーのShireを6.2兆円で買収。希少疾患(消化器疾患・神経精神疾患)向けの医療用医薬品を拡充する目論見があった。買収金額のうち、武田薬品は3.0兆円を現金で、残額の3.2兆円は普通株式(第三者割当増資)にて支払うとともに、Shire社の有利子負債1.6兆円を引き受けた。このため、武田薬品のFY2019時点の有利子負債は5.7兆円に達し、財務体質が悪化した。
Shire買収によって悪化した財務体質を改善するために、非注力事業の大衆薬事業(アリナミンなど)を投資ファンドに売却。売却額は約2500億円
ビタミン剤として「アリナミン」を発売。終戦後の栄養不足の日本においてビタミン剤の市場が急速に成長し、アリナミンは積極的な広告宣伝(当時人気だった映画俳優の三船敏郎を起用)によって売上を拡大。国内における武田薬品の知名度と業績向上に寄与(FY1955において売上高の37%がビタミン剤)する大型製品となった。なお、ビタミン剤に参入する企業も多かったため、他の医薬品メーカーとの厳しい競争にさらされたが、武田薬品は「タケダ会」という販売会を組織して対応。アリナミンを再販指定品目に登録したことで「全国統一価格・正価販売」を組織的に実現し、武田薬品工業の高収益を支える製品に育った。
抗生物質を自社開発。1970年代の最盛期には年間10億円の売上を記録し、武田薬品工業の大型新薬となった。一方で、リラシリン以外の大型新薬の市場投入には苦戦し、海外からの導入品や、食品・化成品といった多角事業の収益が武田薬品工業を支えた。このため、1970年代を通じて武田薬品は「大型新薬がなかった」(1981/5投資月報)ことが利益率悪化の原因と言われ、経営に苦戦した。
日本では1976年に「物質特許制度」が実施され、後発企業が製法を変えるという抜け道が塞がれ、実質的に創薬に対する特許の有効範囲が広がった。これを受けて、1970年代後半から武田薬品は医療用医薬品への創薬投資を強化。国内の競合他社が年間100億円の研究開発費を計上する中で、FY1979に武田薬品は2倍となる210億円を研究開発費として捻出して200億円を突破。業界内でも特に創薬重視の方向を鮮明にした
最近の医薬品業界では、この業界に特有な、そして革新的な重大な出来事が連続して起きてまいりました。物質特許制度移行、GMP制度の実施、薬効再評価、銘柄別薬価制度、等がその主だったものです。いずれ1つを取っても重大な変革であり、ここにも複雑な内容があり、しかもこれらが相互に関連しあって、この産業のあり方に大きな影響を与えるという性格のものであります。
まず物質特許制度への移行でありますが、これは特に今後の医薬品業界に重大な体質変化を促すものと思います。この製法だけを異にする後追いの真似をする精度は、長い目で見ますと、研究開発の意欲と能力のある企業が本当の力を発揮するようになる、という大きな流れを方向づけています。
小西新兵衛氏は米国にアボット社と合弁による現地法人を設立し、自社開発の医薬品の米国市場への投入を狙った。現地の責任者は創業家出身の武田國男氏であったが、設立当初は競争力のある医療用医薬品がなく経営に苦戦した。だが、1989年にリュープリン(投与回数を減らした改良型)が米国発売されると、現地法人の売上増大に寄与して業績を改善。現地法人の成功例となり、武田薬品ののグローバル化を象徴する合弁会社となった
今日では日本の研究力は欧州に比して劣らない高さに達し、実際、日本で発明されて欧米の大会社にライセンスを与えている新薬がかなり増加してきました。しかしこの技術力は近年になってようやくこの高さまで到達したものですし、いまだ日本の企業は欧米において現地子会社を設立して自分のネットワークで販売するところまで、その海外活動は進んでいません。したがって、日本オリジンの新薬について、全部が「物質」の輸出というわけにいかないで、かなりの部分が「知識」の輸出、つまりロイヤルティとして技術代金収入になります。
また、医薬品を外国で販売するときは、もちろんその国の保健当局の許可を要しますが、この審査内容、手続きが国によって異なり、その取得は容易なことではありません。欧米の企業にとって日本の許認可制度がわかりにくいのと同様、あるいはこれ以上に日本企業にとっては、欧米の精度はわかりにくいのです。これは、そうした事業を現に進めている当事者としての実感です。
武田國男氏(アメリカ現地法人・責任者)は、競争が激しい抗生物質の開発中止を決め、代わりにがん治療薬として開発中だった「リュープリン」に投資する方針を決定。当時は抗生物質の開発が業界内で盛んであったため、武田氏は周囲の反対論を抑えつつ、抗がん剤としての「リュープリン」の米国発売に踏み切った。1989年に投入したリュープリンは投薬回数を抑えるメリットがあり、市場を席巻することになった
アイルランドの大手医薬品メーカーのShireを6.2兆円で買収。希少疾患(消化器疾患・神経精神疾患)向けの医療用医薬品を拡充する目論見があった。買収金額のうち、武田薬品は3.0兆円を現金で、残額の3.2兆円は普通株式(第三者割当増資)にて支払うとともに、Shire社の有利子負債1.6兆円を引き受けた。このため、武田薬品のFY2019時点の有利子負債は5.7兆円に達し、財務体質が悪化した。