1781年〜 道修町の薬種仲買から、輸入途絶が促した自社製造へ
- 1781年 武田薬品工業創業——道修町の薬種仲買から自社製造の製薬企業へ 幕府公認の薬種株仲間が集散を握る道修町で、初代武田長兵衛氏が起こした無製造の和漢薬仲買は、どのように自社製造の製薬企業へ姿を変えたか
- 1871年 洋薬の輸入買付を開始
- 1895年 医薬品の製造に参入
- 1904年 五代武田長兵衛氏が家業を継承
- 1915年 武田製薬所を新設
- 1918年 武田製薬を設立
- 1925年 武田製薬と合併し武田長兵衛商店を設立
株仲間が束ねた信用と、洋薬へ広げた四代長兵衛
1722年、徳川吉宗は各地から産出する和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合を通じ、組合の検査のもとで売買させる制度を定め[1]、問屋に特権的な地位を認めた[2]。大阪道修町二丁目に薬種仲間が形成されたのもこの年[3]で、初代武田長兵衛氏が仲間株を譲り受けて独立営業を始めた[4]のは、それから60年後の1781年6月である[5]。屋号は「近江屋長兵衛」、店は道修町堺筋に構え[6]、和漢薬の取扱いを業として発足した。文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買い求めて移り[7]、この場所が後の本社所在地となる。創業から明治に至るまでは代々父祖の業を継ぎ、和漢薬の販売に従事した[8]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
- [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
- [2]問屋の特権的地位の公認
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
- [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
- [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
- [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
明治に入って若くして家業を継いだ四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し[9]、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し[10]、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け[11]、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入[12]にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行した[13]ため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として[14]医薬品の製造と研究に乗り出す。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった[15]。武田姓を名乗るようになったのも四代目[16]のときである。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
- [11]1894年 店内に外国部を設置
- [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
- [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
- [15]当時はなお家内工業の域
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
- [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
- [1]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
- [2]問屋の特権的地位の公認
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [3]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
- [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
- [13]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
- [16]武田姓を名乗ったのは四代目から
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
- [10]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
- [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
- [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
- [9]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
- [11]1894年 店内に外国部を設置
- [12]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
- [14]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
- [15]当時はなお家内工業の域
五代長兵衛が据えた製造と研究
1904年に五代長兵衛氏が家業を継ぐ[17]と、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功[18]し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を始めた[19]。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け[20]、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立[21]という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた「サギウロコ会」を組織して[22]流通を束ね、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設[23]した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
- [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
- [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
- [21]五代長兵衛氏の四つの構想
- [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
- [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
大戦前の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず[24]、明治末期に国内で生産されていたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にとどまり[25]、古来の伝統を経て輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動のほうが盛んだった[26]。1914年に欧州で大戦が起こると輸入薬品の供給が杜絶し[27]、薬品市場は大きな混乱に陥る。洋薬の輸入を柱に据えていた武田は事業の前提を失い、内林工場を補強する[28]とともに、同年8月に市外中津町へ武田薬品試験所を設けた[29]。研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟にあたる武田二郎氏である[30]。同じ1914年8月には武田研究部も置かれた[31]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
- [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
- [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
- [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
- [28]内林工場の補強
- [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
- [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1914年8月 武田研究部を設置
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [17]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
- [18]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
- [19]約20種の局方医薬品の製造を開始
- [27]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
- [28]内林工場の補強
- [29]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
- [30]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [20]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
- [21]五代長兵衛氏の四つの構想
- [22]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
- [23]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
- [24]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
- [25]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
- [26]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1914年8月 武田研究部を設置
自社製造への転換と株式会社への移行
1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設[32]した。現在の大阪工場が建つ場所[33]で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立[34]している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び[35]、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を[36]、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設けた[37]。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ[38]社名を変えた。
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
- [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
- [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
- [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [33]神津村=現在の大阪工場所在地
- [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
- [35]製造に成功した薬品 約30種
大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた[39]。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で[40]株式会社武田長兵衛商店が設立された[41]。設立日は1月29日[42]で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる[43]。商標として1898年に登録されていたウロコの標章[44]は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起[45]に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた[46]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
- [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
- [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [42]設立日 1925年1月29日
- [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
- [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
- [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [32]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
- [36]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
- [37]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
- [38]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
- [41]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [33]神津村=現在の大阪工場所在地
- [34]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
- [35]製造に成功した薬品 約30種
- [39]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
- [40]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
- [43]製造と販売の両部門を持つ法人組織
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [42]設立日 1925年1月29日
- [44]1898年 ウロコの標章を商標登録
- [45]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
- [46]1943年 社名変更と同時に社章として制定