1915年〜 輸入途絶が生んだ会社——アーセミン商会から第一製薬へ
- 1915年匿名組合アーセミン商会を創立
- 1916年アーセミン商会に改組
- 1918年第一製薬を設立
- 1918年アーセミン商会を解散
- 1918年本社を東京・日本橋に、工場を本所に設置
- 1918年初代社長に柴田清之助氏が就任
- 1923年関東大震災で本社・工場が全焼
サルバルサンが国内で作れなかった1915年
1914年に始まった第一次世界大戦で、日本の医薬品市場はドイツからの供給を絶たれた。当時の日本の製薬業は、江戸期からの薬種問屋が輸入販売から製造へ手を伸ばした段階にあり、明治末に国内生産できていたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎなかった。染料・医薬品はドイツのバディッシュ、バイエル、ヘキストによる国際的な独占組織が日本市場を支配しており、日本企業が技術導入を求めても拒まれ、製品を作り出せてもダンピングにさらされる状況にあった。政府は1914年に化学工業調査会を、続いて臨時薬業調査会を設けて振興策を諮問し、その答申にもとづいて1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布した。一定の条件に適合する会社へ10年間、年8分の配当を政府が保証するという内容である。 [1][2][3]
- [1]第一次大戦の開戦でドイツからの輸入が止まり、ソーダ・染料・医薬品など国民生活に深くかかわる品目が欠乏し始めた
- [3]臨時薬業調査会の答申にもとづき1915年6月に染料医薬品製造奨励法が公布され、条件に適合する会社に10年間・年8分の配当保証が与えられた
- [2]明治末に国内生産されたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にすぎず、薬種問屋の商業活動のほうが盛んだった
とりわけ切実だったのが梅毒治療剤サルバルサンである。エールリヒとハタが創製したこの砒素製剤は輸入に全面的に依存しており、供給が途絶えれば代替がなかった。1915年7月、薬学博士の慶松勝左衛門氏がその製造に成功する。同年10月1日、この工業化を目的として匿名組合アーセミン商会が創立された。社名は砒素(arsenic)に由来する。国産駆梅剤「ネオ・ネオアーセミン」を主体に、医薬品の製造販売を始めた。この匿名組合が第一製薬の出発点である。翌1916年12月31日には合資会社へ改組した。 [4][5][6]
- [4]1915年7月に薬学博士慶松勝左衛門がサルバルサンの製造に成功し、その工業化を図って同年10月に匿名組合アーセミン商会が創立された
- [6]同商会は国産駆梅剤「ネオ・ネオアーセミン」を主体として医薬品の製造販売を開始し、1916年12月に合資会社へ改組した
- [5]四十年史は創業期を「自大正四年十月一日 至大正七年一月三十一日」と区切り、第一章に匿名組合アーセミン商会、第二章に合資会社アーセミン商会を置いている
- [1]第一次大戦の開戦でドイツからの輸入が止まり、ソーダ・染料・医薬品など国民生活に深くかかわる品目が欠乏し始めた
- [3]臨時薬業調査会の答申にもとづき1915年6月に染料医薬品製造奨励法が公布され、条件に適合する会社に10年間・年8分の配当保証が与えられた
- [2]明治末に国内生産されたのは薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度にすぎず、薬種問屋の商業活動のほうが盛んだった
- [4]1915年7月に薬学博士慶松勝左衛門がサルバルサンの製造に成功し、その工業化を図って同年10月に匿名組合アーセミン商会が創立された
- [6]同商会は国産駆梅剤「ネオ・ネオアーセミン」を主体として医薬品の製造販売を開始し、1916年12月に合資会社へ改組した
- [5]四十年史は創業期を「自大正四年十月一日 至大正七年一月三十一日」と区切り、第一章に匿名組合アーセミン商会、第二章に合資会社アーセミン商会を置いている
創業年と法人設立年が食い違って伝わる理由
1918年1月31日、医薬品および工業薬品の製造販売を目的として資本金50万円の第一製薬株式会社が設立された。経営陣は合資会社アーセミン商会と同一で、新会社が合資会社の事業を継承し、アーセミン商会は解散した。本社を東京・日本橋に、工場を本所に置き、初代社長には柴田清之助氏が選ばれている。翌1919年4月には津村重舎氏が2代目社長に就いた。なお第一製薬の設立年には二通りの記載がある。社史『四十年史』が創業期を1915年10月1日から1918年1月31日までとし、第二部「建設期」の冒頭に「第一製薬株式会社の発足」を置くのに対し、『会社銀行八十年史』の企業項目は設立を「大正4年10月1日」と記す。後者はアーセミン商会の創立日を会社の設立日として扱ったものであり、法人としての第一製薬株式会社が設立されたのは1918年1月31日である。本稿では創業1915年、法人設立1918年として書き分ける。 [7][8][9]
- [7]1918年1月に資本金50万円の第一製薬株式会社が同一の経営陣により設立され、合資会社アーセミン商会の事業を継承してアーセミン商会は解散した
- [8]本社を東京日本橋に、工場を本所に設け、初代社長に柴田清之助が選ばれ、翌1919年4月に津村重舎が2代目社長に就任した
- [9]『会社銀行八十年史』の第一製薬の項は「設立‥‥‥‥‥大正4年10月1日」と記載しており、四十年史が示す法人設立日(1918年1月31日)と食い違う
設立後の3年間で、第一製薬は駆梅剤の系列を買い集めている。1920年7月に丹波敬三郎博士が完成した駆梅剤を持つ匿名組合国産製薬所の事業を継承し、同年9月には役員が発起人となって資本金150万円の第二製薬を創立、即日これを吸収合併して資本金を200万円へ引き上げた。合併を目的とした会社を作って直ちに吸収する手順を踏んでいる。同時に、サルバルサン剤の主要原料を自給し販売する目的で工業薬品にも手を広げ、抜染剤アルバライト、漂白剤ハイドロサルハイトの製造に着手した。1922年12月には大阪支店を設けている。 [10][11]
- [10]1920年7月に匿名組合国産製薬所(丹波敬三郎博士完成の駆梅剤)の事業を継承し、同年9月に第二製薬を創立して即日吸収合併、資本金は200万円となった
- [11]サルバルサン剤の主要原料の自給と販売を目的に、工業薬品である抜染剤アルバライト、漂白剤ハイドロサルハイトの製造にも従事し、1922年12月に大阪支店を設置した
- [7]1918年1月に資本金50万円の第一製薬株式会社が同一の経営陣により設立され、合資会社アーセミン商会の事業を継承してアーセミン商会は解散した
- [8]本社を東京日本橋に、工場を本所に設け、初代社長に柴田清之助が選ばれ、翌1919年4月に津村重舎が2代目社長に就任した
- [9]『会社銀行八十年史』の第一製薬の項は「設立‥‥‥‥‥大正4年10月1日」と記載しており、四十年史が示す法人設立日(1918年1月31日)と食い違う
- [10]1920年7月に匿名組合国産製薬所(丹波敬三郎博士完成の駆梅剤)の事業を継承し、同年9月に第二製薬を創立して即日吸収合併、資本金は200万円となった
- [11]サルバルサン剤の主要原料の自給と販売を目的に、工業薬品である抜染剤アルバライト、漂白剤ハイドロサルハイトの製造にも従事し、1922年12月に大阪支店を設置した
創業から5年で生産基盤を失った関東大震災
1923年9月の関東大震災で、本社と工場はいずれも全焼した。第一製薬は同年11月に半額減資を行って損害を補填し、ただちに復興へ着手する。京都に分工場を開設してまずサルバルサン剤の操業を始め、同年12月には本社事務所が完成、1924年7月には柳島工場も再開した。社史『四十年史』が第二部「建設期」を1918年1月31日から1923年12月15日までと区切り、その第二章に「関東大震災と減資」を置いているのは、震災と減資をもって建設期の終わりと見ていたためである。設立からわずか5年で生産設備を失い、減資によって資本を半分に削ってから再出発する。この経験が、以後の設備投資の進め方を決めたのであろう。第一製薬はこののち、東京の一箇所に生産を集めず、柳島・亀戸・船堀・平井と工場を分けて置き、大阪府高槻にも拠点を構えている。 [12][13]
- [12]1923年9月の関東大震災により本社・工場は全焼し、損害補填のため同年11月に半額減資を行い、京都分工場の開設と本社事務所の完成(同年12月)、柳島工場の再開(1924年7月)へ進んだ
- [13]四十年史は第二部「建設期」を1918年1月31日から1923年12月15日までとし、その第二章を「関東大震災と減資」としている
創業から震災までの8年で、第一製薬の輪郭は定まった。梅毒治療剤の国産化という一点から始まり、駆梅剤の同業を買い集め、原料を自給するために工業薬品へ広げ、大阪に支店を置いて販路を作る。同時期の製薬業界を見ると、大阪の武田長兵衛氏・田辺五兵衛氏・塩野義三郎氏は江戸期からの薬種問屋が輸入薬品の精製から製造業へ移った系譜にあり、三共の創立者塩原又策氏は横浜で羽二重の売り込みから薬品の輸入販売へ移り、高峰譲吉氏と鈴木梅太郎氏の発明の工業化を軸に製薬業へ進んだ。第一製薬はどちらの道も通っていない。輸入が止まったという事態そのものが会社を作り、慶松勝左衛門氏の合成の成功が最初の製品をもたらした。問屋の商いでも発明家の起業でもなく、供給の空白が創業の動機だった。 [14][15]
- [14]日露戦争後に大阪の問屋仲間で伸びたのは輸入薬品を扱う武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎で、彼らは小工場で薬品を精製し自家の商標をつけて売り、商人から製薬業兼業への道を歩んだ
- [15]三共の創立者塩原又策は横浜で羽二重売り込みから薬品に手を伸ばして輸入・販売業へ移り、高峰譲吉および鈴木梅太郎の発明した薬品の工業化を中心に製薬業へ進出、1913年に資本金95万円の三共株式会社を設立した
- [12]1923年9月の関東大震災により本社・工場は全焼し、損害補填のため同年11月に半額減資を行い、京都分工場の開設と本社事務所の完成(同年12月)、柳島工場の再開(1924年7月)へ進んだ
- [13]四十年史は第二部「建設期」を1918年1月31日から1923年12月15日までとし、その第二章を「関東大震災と減資」としている
- [14]日露戦争後に大阪の問屋仲間で伸びたのは輸入薬品を扱う武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎で、彼らは小工場で薬品を精製し自家の商標をつけて売り、商人から製薬業兼業への道を歩んだ
- [15]三共の創立者塩原又策は横浜で羽二重売り込みから薬品に手を伸ばして輸入・販売業へ移り、高峰譲吉および鈴木梅太郎の発明した薬品の工業化を中心に製薬業へ進出、1913年に資本金95万円の三共株式会社を設立した