雪印乳業

の歴史

創業
1925年
創業地
北海道
創業者
宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵
上場
非上場
売上高(2009/3)
2,947 億円
営業利益(2009/3)
105 億円
従業員数(2009/3)
経営トップ
高野瀬忠明
雪印乳業の長期業績と経営の転換点売上高と利益率の長期推移
売上高(億円純利益率(%)

1925 北海道の酪農家がつくった製酪販売組合から占領期の分割前夜まで

  1. 1925年有限責任 北海道製酪販売組合設立
  2. 1926年「雪印」商標決定(「雪印北海道バター」誕生)
  3. 1926年保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に改組
  4. 1926年札幌・苗穂に本工場が操業開始(東洋一とされた最新設備)
  5. 1932年バターの廉売合戦を値下げせず乗り切り、価格を本来水準へ回復
  6. 1935年雪印バターをロンドンへ初輸出(英国国立検査所の検査で22カ国中4位)
  7. 1941年酪連と森永・明治・極東の練乳3社を統合し、北海道興農公社が発足(黒澤酉蔵が社長)

雪印乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

乳価の混乱に抗した酪農家自身による製酪販売組合の設立

雪印乳業の源流は、1925年(大正14)5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合である。関東大震災後の恐慌で乳製品の市況が崩れ、原料乳の買いたたきに苦しんだ北海道の酪農家が、自らの手で乳製品をつくり売るための共同組織として立ち上げた。中心となったのは、米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏と、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏らである。設立からわずか2カ月後の同年7月には仮工場でバターの製造を始め、10月から販売に移った。乳業各社の多くが資本の側から生まれたなかで、この組合は生産者自身の出資でつくられた点で異色の出発だった。 [1][2][3]

1926年、組合はバターに「雪印」の商標を定めた。北海道の検査条例のもとで品質を旗印に掲げた雪印バターは本州へ販路を広げ、生産者による共同販売の仕組みとともに全国ブランドへの足場を築いた。酪農家が乳の値段と売り先を自ら握るという設立の理念は、以後の会社の性格を長く方向づけることになる。 [4]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1926年に「雪印」の商標を定めた

組合の設立と立ち上げは、酪農家の手弁当で進められた。1925年5月17日の創立総会に集まった組合員は629人で、出資は一口20円だったが、第一回の払い込みすら農家には重く、工場建設の費用は黒澤酉蔵氏と佐藤善七氏が個人で銀行から借り入れて急場をしのいだ。野幌の農家の庭先を借りた仮工場でバターを作った技師は、佐藤善七氏の長男でオハイオ州立大学に学んだ佐藤貢氏である。佐藤氏は機械の据え付けから製造、掃除までを一人でこなし、手回しのバターチャーンを一日に四、五回も回した。酪農家が自ら乳を加工して売る事業は、こうした草創の苦闘のうえに立ち上がった。 [5][6]

    • [5]1925年5月17日の創立総会の組合員は629人、出資は一口20円だった
    • [6]工場建設費は黒澤酉蔵と佐藤善七が個人で銀行借入して工面し、仮工場の技師は佐藤善七の長男・佐藤貢だった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1925年5月に有限責任北海道製酪販売組合が設立された
    • [3]設立2カ月後の1925年7月にバター製造を開始し10月に販売を始めた
    • [4]1926年に「雪印」の商標を定めた
    • [2]設立の中心は宇都宮仙太郎・黒澤酉蔵らである
    • [5]1925年5月17日の創立総会の組合員は629人、出資は一口20円だった
    • [6]工場建設費は黒澤酉蔵と佐藤善七が個人で銀行借入して工面し、仮工場の技師は佐藤善七の長男・佐藤貢だった

戦時統制下の国策会社化と占領期の集中排除の指定

戦時体制が強まると、組合は統制のなかで組織を変えた。1941年に有限会社北海道興農公社を設立して事業を継承し、同年9月に株式会社へ組織を改めた。戦後の1947年には北海道酪農協同株式会社へ社名を変えたが、まもなく占領政策の波を受けることになる。1948年、同社は過度経済力集中排除法の指定を受け、巨大化した事業体の分割を迫られた。北海道の生乳を広く集めて加工する一元的な体制は、集中排除が問題とする典型と見なされ、25年をかけて築いた事業基盤はいったん解体を求められた。 [7][8][9]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1941年に有限会社北海道興農公社を設立し事業を継承、同年9月に株式会社へ組織変更した
    • [8]1947年に北海道酪農協同株式会社へ社名変更した
    • [9]1948年に過度経済力集中排除法の指定を受けた

北海道興農公社は、酪連の事業に森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合した、北海道の乳業を一本化する準国策会社であった。1940年8月、東京・芝の料亭「嵯峨野」で戸塚久一郎北海道庁長官と各社の首脳が会し、製乳と土地改良を一体で担う公社案がまとまった。いわゆる嵯峨野会談である。翌1941年に発足した公社の社長には、酪連会長だった黒澤酉蔵氏が推された。黒澤氏は「事業運営は営利を目的とするものではない」「従業員は使用人にあらず」と産業組合の理念を掲げたが、原料乳の集荷から加工までを一手に握るこの体制は、戦後、占領政策のもとで独占の象徴と受け止められることになる。 [10][11]

    • [10]興農公社は酪連と森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合したもので、1940年8月の嵯峨野会談でまとまった
    • [11]1941年発足の興農公社の社長に酪連会長の黒澤酉蔵が推された
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1941年に有限会社北海道興農公社を設立し事業を継承、同年9月に株式会社へ組織変更した
    • [8]1947年に北海道酪農協同株式会社へ社名変更した
    • [9]1948年に過度経済力集中排除法の指定を受けた
    • [10]興農公社は酪連と森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合したもので、1940年8月の嵯峨野会談でまとまった
    • [11]1941年発足の興農公社の社長に酪連会長の黒澤酉蔵が推された

1950 集排法下で発足した雪印乳業の上場と総合乳業への歩み

  1. 1950年過度経済力集中排除法の適用により雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割し、雪印乳業株式会社設立
  2. 1950年東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
  3. 1950年肉製品・種苗の事業を分離し雪印食品工業株式会社・雪印種苗株式会社を設立
  4. 1951年強化乳「雪印ビタミルク」発売
  5. 1954年「6Pチーズ」大量生産化
  6. 1955年八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒事件
  7. 1958年クローバー乳業株式会社(旧・北海道バター)を合併

雪印乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

過度経済力集中排除法による分割と雪印乳業株式会社の上場

1950年6月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法にもとづいて二分され、その一方として雪印乳業株式会社が設立された。もう一方は北海道バター株式会社(のちのクローバー乳業)である。雪印乳業は「雪印」の商標を引き継ぎ、設立からわずか2カ月後の同年8月には東京証券取引所と札幌証券取引所に株式を上場して、証券市場から資本を調達できる株式会社として再出発した。1925年に酪農家の共同組合として始まった事業体は、戦時の国策会社化と占領期の分割という二度の改組をへて、ここで上場企業になった。 [12][13]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1950年6月に集排法の適用で雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割された
    • [13]1950年8月に東京証券取引所・札幌証券取引所に株式を上場した

発足間もない雪印乳業は事業の切り分けも進めた。1950年末には肉製品と種苗の事業を分離して雪印食品工業(のちの雪印食品)と雪印種苗を設立し、乳製品を中核に据える体制を整えた。分割で分かれた事業を株式会社として個別に立てる手法は、以後この会社が事業ごとに子会社を束ねてグループ経営を広げていく流れにつながった。 [14]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1950年末に肉製品・種苗事業を分離して雪印食品工業・雪印種苗を設立した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1950年6月に集排法の適用で雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割された
    • [13]1950年8月に東京証券取引所・札幌証券取引所に株式を上場した
    • [14]1950年末に肉製品・種苗事業を分離して雪印食品工業・雪印種苗を設立した

クローバー乳業の再合併と定番商品群の確立

1951年に強化乳「雪印ビタミルク」を発売し、バター・チーズの会社から飲む牛乳や育児用食品も扱う総合乳業への歩みを始めた。1954年には「6Pチーズ」の大量生産に踏み切っている。分割で分かれた北海道バターはクローバー乳業と改称して同じ市場で競い合ったが、占領の終結で分割を強いた政策環境が変わると再結合が課題にのぼり、1958年に雪印乳業はクローバー乳業を合併して分割前の生産基盤を一つに戻した。1961年には札幌酪農牛乳も合併し、続いて「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」(1962年)、「雪印コーヒー」(1963年)、「雪印ネオ マーガリンソフト」(1968年、現・ネオソフト)と、のちの主力が次々に生まれた。 [15][16][17]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1951年に「雪印ビタミルク」、1954年に「6Pチーズ」大量生産化を実施した
    • [16]1958年にクローバー乳業、1961年に札幌酪農牛乳を合併した
    • [17]1962年にカマンベール・スライスチーズ、1963年に雪印コーヒー、1968年にネオソフトを発売した

発足5年目の1955年3月、東京都内の小学校で雪印乳業八雲工場が製造した脱脂粉乳による集団食中毒が起きた。製造機の故障と停電で原料が長時間放置され、黄色ブドウ球菌が増殖したものと推定され、患者は1,500人を超えた。当時の社長佐藤貢氏は「全社員に告ぐ」と題する文書を全社に発して品質への出直しを求め、この文書は同社の品質管理の原点として語り継がれた。ただし、その教訓が組織のなかで保たれ続けたわけではなく、同じ菌による事故は45年をへて再び起きることになる。 [18][19]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1951年に「雪印ビタミルク」、1954年に「6Pチーズ」大量生産化を実施した
    • [16]1958年にクローバー乳業、1961年に札幌酪農牛乳を合併した
    • [17]1962年にカマンベール・スライスチーズ、1963年に雪印コーヒー、1968年にネオソフトを発売した
    • [18]1955年3月に八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒が発生した
    • [19]当時の社長佐藤貢が「全社員に告ぐ」を発した

1970 総合乳業の頂点と多角化、一兆円規模の食品メーカーへ

  1. 1979年プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売
  2. 1980年「ストリングチーズ」(現「さけるチーズ」)発売

雪印乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

市乳網の拡大とヨーグルト・チーズの主力化

1970年代以降、雪印乳業は市乳と日配品へ事業の幅を広げた。1972年に全国農協牛乳直販株式会社を設立して農協系の牛乳販売網を築き、1979年にプレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」、1980年に「ストリングチーズ」(現・さけるチーズ)を発売した。牛乳・ヨーグルトからチーズ、マーガリンまでを一手に扱う総合乳業として、家庭用の定番を数多く抱える体制がこの時期に固まっている。 [20][21]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1972年に全国農協牛乳直販株式会社を設立した
    • [21]1979年に「雪印ナチュレ」、1980年に「ストリングチーズ」を発売した

市乳の全国展開は、雪印にとって規模と収益の両面で重みを増した。北海道で集めた生乳を全国の消費地へ届ける牛乳・乳飲料の事業は、毎日の食卓に入り込むことでブランドの露出を大きくした。その一方で、牛乳は商品ごとの違いを出しにくく特売の対象になりやすいため、売上規模のわりに利益が薄いという構造的な弱さもあわせ持っていた。この採算の重さは、のちに事業を見直すたびにくり返し問われることになる。 [22]

  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [22]牛乳は差別化が難しく安売りの対象になりやすい薄利の事業である
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1972年に全国農協牛乳直販株式会社を設立した
    • [21]1979年に「雪印ナチュレ」、1980年に「ストリングチーズ」を発売した
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [22]牛乳は差別化が難しく安売りの対象になりやすい薄利の事業である

医薬・機能性への多角化と牛乳事業の重い採算

1980年代に入ると、乳で培った技術を土台に事業の裾野を広げた。1983年には医薬品事業への進出をねらって生物科学研究所を設立し、約130人の研究者を集めて研究体制を築いた。この立ち上げを主導した研究本部出身の片山純男氏は1993年6月に社長へ就任し、ウルグアイ・ラウンド交渉で迫る乳製品の輸入自由化に対して一層の体制づくりに挑むと語った。1990年代後半には牛乳への乳成分強化で「毎日骨太」がヒットし、機能性を前面に出す商品開発は、以後の同社がくり返し使う手法になった。 [23][24][25]

  • 日経ビジネス 1993年11月22日号
    • [23]1983年に医薬品事業進出をねらい生物科学研究所を設立した
    • [24]片山純男は1993年6月に社長に就任した
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [25]「毎日骨太」は1990年代後半のヒット商品である

総合乳業として広げた事業の裾野は、雪印乳業を売上高一兆円規模の食品メーカーへ押し上げていた。市乳・乳製品を中核に、冷凍食品・育児品・アイスクリーム・飼料・種苗までを子会社群で束ねるグループは、業界首位の座を長く占めた。もっとも、差別化の難しい牛乳事業を大きく抱える収益構造は、規模の拡大とともに採算の重さも同時に抱え込んでいた。ブランドへの絶大な信頼と、それを支える巨大な生産・物流網は、次の10年に試されることになる。 [26]

  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [26]雪印乳業は市乳・乳製品を中核に多数の事業を子会社群で束ね業界首位を占めた
  • 日経ビジネス 1993年11月22日号
    • [23]1983年に医薬品事業進出をねらい生物科学研究所を設立した
    • [24]片山純男は1993年6月に社長に就任した
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [25]「毎日骨太」は1990年代後半のヒット商品である
    • [26]雪印乳業は市乳・乳製品を中核に多数の事業を子会社群で束ね業界首位を占めた

2000 二つの不祥事によるグループ解体と統合による雪印乳業の終焉

  1. 2000年雪印乳業集団食中毒事件(大阪工場製低脂肪乳、被害13,420人)
  2. 2001年冷凍食品事業を分離し雪印冷凍食品株式会社(現・株式会社アクリフーズ)を設立
  3. 2002年子会社・雪印食品の牛肉偽装事件が発覚
  4. 2002年雪印食品株式会社が解散を決議
  5. 2003年市乳事業を分離し、全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合して日本ミルクコミュニティ株式会社設立(「メグミルク」ブランド)
  6. 2009年日本ミルクコミュニティ株式会社と経営統合し、共同持株会社「雪印メグミルク株式会社」を設立して東京証券取引所市場第一部・札幌証券取引所に上場(雪印乳業株式は上場廃止)
  7. 2011年雪印メグミルク株式会社が雪印乳業株式会社および日本ミルクコミュニティ株式会社を吸収合併し、雪印乳業は解散・消滅

雪印乳業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

被害1万3420人の集団食中毒と経営陣の退陣

2000年6月27日、大阪市保健所に雪印乳業大阪工場製造の低脂肪乳による食中毒の届出があった。原因をさかのぼると、同年3月末に北海道の大樹工場で停電事故が起き、汚染された脱脂粉乳を再溶解してつくった脱脂粉乳が、大阪工場で低脂肪乳の原料に使われていた。黄色ブドウ球菌がつくる毒素による被害者は13,420人にのぼり、戦後最大級の集団食中毒事件となった。45年前の八雲工場事件と同じ菌による、二度目の大規模食中毒である。毎日の食卓に届く牛乳で起きた事故であり、雪印の名はこの一件で消費者の信用を失った。 [27][28]

事件対応は後手に回った。商品回収と消費者への告知は遅れ、当時の社長石川哲郎氏は7月4日夜の会見を「私は寝ていないんだ」と打ち切り、この映像がくり返し放映されて批判を決定づけた。石川氏は7月6日に辞意を表明し、後任には営業出身の西紘平氏が急きょ就いた。西氏のもとで大阪工場をはじめ全国8工場の閉鎖、従業員の15%にあたる1,000人の人員削減という再建策が実行に移されたが、いったん失った信用の回復は容易でなかった。 [29][30]

  • 日経ビジネス 2000年10月2日号
    • [29]石川哲郎社長は7月4日夜の会見で「私は寝ていないんだ」と発言し、7月6日に辞意を表明した
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号
    • [30]全国8工場の閉鎖と従業員の15%にあたる1,000人の削減が実施された

雪印食品の牛肉偽装とグループの解体

信頼回復が進みかけた2002年1月23日、子会社の雪印食品がBSE対策の国産牛肉買い上げ制度を悪用し、安価な輸入牛肉を国産と偽って交付金を不正受給していたことが新聞報道で発覚した。食中毒事件からわずか1年半での二度目の不祥事であり、今度は法を犯した詐欺事件だった。消費者の反発は前回に増して激しく、雪印食品は同年4月末に解散に追い込まれた。雪印乳業本体の販売も再び急落し、2002年3月期の連結売上高は1兆1,647億円を計上したものの、当期は717億円の純損失に沈んだ。 [31][32]

西社長は事件から10日で他社資本の受け入れを決断し、2002年3月28日に市乳事業などを本体から切り離す再建策を発表した。当初ネスレの資本参加を望んだ西氏に対し、農林水産省が全農・全酪連との市乳事業統合を後押しし、最終的に全農を筆頭株主とし伊藤忠商事も資本参加する農協系主導の再建に落ち着いた。育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと、事業ごとに提携先を探す事実上のグループ解体だった。西氏は雪印乳業本体をチーズ・バターの乳製品メーカーとして残し、「チーズ1000億円構想」で再興を期すと語った。 [33][34][35]

  • 日経ビジネス 2002年4月22日号
    • [33]2002年3月28日に市乳事業などを切り離す再建策を発表した
    • [34]再建策は全農を筆頭株主とし伊藤忠商事も資本参加する内容で、育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと提携した
    • [35]西紘平は「チーズ1000億円構想」を掲げた
    • [31]2002年1月23日に雪印食品の牛肉偽装が報道で発覚した
    • [32]雪印食品は2002年4月末に解散した
  • 日経ビジネス 2002年4月22日号
    • [33]2002年3月28日に市乳事業などを切り離す再建策を発表した
    • [34]再建策は全農を筆頭株主とし伊藤忠商事も資本参加する内容で、育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと提携した
    • [35]西紘平は「チーズ1000億円構想」を掲げた

市乳分社から統合による雪印乳業の終焉

グループ解体の再建策は、雪印乳業本体からの相次ぐ事業分離として実行された。2001年に冷凍食品事業、2002年に育児品・アイスクリーム事業を切り離し、2003年1月には市乳事業を全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合して日本ミルクコミュニティ株式会社を設立した。赤いパッケージの「メグミルク」ブランドはここから生まれている。事業を切り出したあとの雪印乳業は、連結売上高が2002年3月期の1兆1,647億円から2004年3月期には3,181億円へ縮み、チーズ・バターを中核とする乳製品専業のメーカーへと姿を変えた。 [36][37]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2001年に冷凍食品事業、2002年に育児品・アイスクリーム事業を分離した
    • [37]2003年1月に市乳事業を分離し日本ミルクコミュニティ株式会社を設立した

身軽になった雪印乳業は、収益性の高いチーズ事業を軸に立て直しを進めた。2004年3月期に経常利益と当期純利益がそろって黒字へ浮上し、以後は連結売上高2,800億〜2,900億円台で経常利益100億円前後を安定して稼ぐ体質に戻り、復配も果たした。2005年には大阪証券取引所の上場を廃止し、事業を絞り込んだ専業メーカーとして再建に区切りをつけた。ブランドをいったんは失いかけた会社が、規模をピーク時の10分の3ほどに縮めながらも、黒字を出せる乳製品メーカーとして生き残った。 [38]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [38]2005年に大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止した

2009年10月、雪印乳業は市乳事業を担ってきた日本ミルクコミュニティと経営統合し、共同持株会社の雪印メグミルク株式会社を設立して東京証券取引所と札幌証券取引所に株式を上場した。雪印乳業の株式はこの統合にともなって上場を廃止された。乳製品に特化していた雪印にとって市乳部門との再結合は、縮小する国内の乳資源を確保し、牛乳からチーズまでを一貫して扱う総合乳業への回帰を意味した。雪印乳業の高野瀬忠明社長は統合を「過去の雪印に戻るのではなく、次の世代に向けて成長するための出発点」と語り、事件については「風化させてはならない」と述べた。そして2011年4月、雪印メグミルクが雪印乳業と日本ミルクコミュニティを吸収合併し、1950年に上場した雪印乳業株式会社は解散して、その名と事業を持株会社に託して幕を閉じた。 [39][40][41]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [39]2009年10月に日本ミルクコミュニティと経営統合し、雪印乳業株式は上場廃止となった
    • [41]2011年4月に雪印メグミルクが雪印乳業・日本ミルクコミュニティを吸収合併し雪印乳業は消滅した
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号
    • [40]高野瀬忠明社長は統合を「次の世代に向けて成長するための出発点」と語った
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2001年に冷凍食品事業、2002年に育児品・アイスクリーム事業を分離した
    • [37]2003年1月に市乳事業を分離し日本ミルクコミュニティ株式会社を設立した
    • [38]2005年に大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止した
    • [39]2009年10月に日本ミルクコミュニティと経営統合し、雪印乳業株式は上場廃止となった
    • [41]2011年4月に雪印メグミルクが雪印乳業・日本ミルクコミュニティを吸収合併し雪印乳業は消滅した
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号
    • [40]高野瀬忠明社長は統合を「次の世代に向けて成長するための出発点」と語った

雪印乳業の沿革1925〜2011年における主な出来事を抜粋

年月区分社長・CEO出来事重要度
会社設立有限責任 北海道製酪販売組合設立★★★
組織再編保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に改組★★
札幌・苗穂に本工場が操業開始(東洋一とされた最新設備)★★
「雪印」商標決定(「雪印北海道バター」誕生)★★★
バター輸送に冷蔵貨車の使用を開始
バターの廉売合戦を値下げせず乗り切り、価格を本来水準へ回復★★★
黒澤酉蔵が北海道酪農義塾を設立(のちの酪農学園)
海外進出雪印バターをロンドンへ初輸出(英国国立検査所の検査で22カ国中4位)★★
組織再編嵯峨野会談で酪連と森永・明治・極東の練乳3社の統合が合意★★
組織再編酪連と森永・明治・極東の練乳3社を統合し、北海道興農公社が発足(黒澤酉蔵が社長)★★★
北海道酪農協同株式会社に社名変更★★
組織再編過度経済力集中排除法の指定を受ける★★
会社設立・組織再編過度経済力集中排除法の適用により雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割し、雪印乳業株式会社設立★★★
株式上場東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場★★★
会社設立肉製品・種苗の事業を分離し雪印食品工業株式会社・雪印種苗株式会社を設立
強化乳「雪印ビタミルク」発売
「6Pチーズ」大量生産化★★
経営危機八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒事件★★
クローバー乳業株式会社(旧・北海道バター)を合併★★
札幌酪農牛乳株式会社を合併
「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」発売
「雪印コーヒー」発売
株式上場大阪証券取引所市場第一部に株式上場
「雪印ネオ マーガリンソフト」(現「ネオソフト」)発売
プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売
「ストリングチーズ」(現「さけるチーズ」)発売
経営危機雪印乳業集団食中毒事件(大阪工場製低脂肪乳、被害13,420人)★★★
組織再編冷凍食品事業を分離し雪印冷凍食品株式会社(現・株式会社アクリフーズ)を設立★★
経営危機子会社・雪印食品の牛肉偽装事件が発覚★★★
組織再編雪印食品株式会社が解散を決議★★
組織再編育児品事業をビーンスターク・スノー株式会社に承継、アイスクリーム事業をロッテスノー株式会社に営業譲渡★★
組織再編・会社設立市乳事業を分離し、全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合して日本ミルクコミュニティ株式会社設立(「メグミルク」ブランド)★★★
高野瀬忠明大阪証券取引所市場第一部の上場廃止
雪印種苗株式会社を完全子会社化
組織再編・株式上場日本ミルクコミュニティ株式会社と経営統合し、共同持株会社「雪印メグミルク株式会社」を設立して東京証券取引所市場第一部・札幌証券取引所に上場(雪印乳業株式は上場廃止)★★★
組織再編雪印メグミルク株式会社が雪印乳業株式会社および日本ミルクコミュニティ株式会社を吸収合併し、雪印乳業は解散・消滅★★★
出典・参考

免責事項およびポリシー