1925年 北海道の酪農家がつくった製酪販売組合から占領期の分割前夜まで
- 1925年有限責任 北海道製酪販売組合設立
- 1926年「雪印」商標決定(「雪印北海道バター」誕生)
- 1926年保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に改組
- 1926年札幌・苗穂に本工場が操業開始(東洋一とされた最新設備)
- 1932年バターの廉売合戦を値下げせず乗り切り、価格を本来水準へ回復
- 1935年雪印バターをロンドンへ初輸出(英国国立検査所の検査で22カ国中4位)
- 1941年酪連と森永・明治・極東の練乳3社を統合し、北海道興農公社が発足(黒澤酉蔵が社長)
雪印乳業の業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
乳価の混乱に抗した酪農家自身による製酪販売組合の設立
雪印乳業の源流は、1925年(大正14)5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合である。関東大震災後の恐慌で乳製品の市況が崩れ、原料乳の買いたたきに苦しんだ北海道の酪農家が、自らの手で乳製品をつくり売るための共同組織として立ち上げた。中心となったのは、米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏と、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏らである。設立からわずか2カ月後の同年7月には仮工場でバターの製造を始め、10月から販売に移った。乳業各社の多くが資本の側から生まれたなかで、この組合は生産者自身の出資でつくられた点で異色の出発だった。 [1][2][3]
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年5月に有限責任北海道製酪販売組合が設立された
- [3]設立2カ月後の1925年7月にバター製造を開始し10月に販売を始めた
- [2]設立の中心は宇都宮仙太郎・黒澤酉蔵らである
1926年、組合はバターに「雪印」の商標を定めた。北海道の検査条例のもとで品質を旗印に掲げた雪印バターは本州へ販路を広げ、生産者による共同販売の仕組みとともに全国ブランドへの足場を築いた。酪農家が乳の値段と売り先を自ら握るという設立の理念は、以後の会社の性格を長く方向づけることになる。 [4]
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1926年に「雪印」の商標を定めた
組合の設立と立ち上げは、酪農家の手弁当で進められた。1925年5月17日の創立総会に集まった組合員は629人で、出資は一口20円だったが、第一回の払い込みすら農家には重く、工場建設の費用は黒澤酉蔵氏と佐藤善七氏が個人で銀行から借り入れて急場をしのいだ。野幌の農家の庭先を借りた仮工場でバターを作った技師は、佐藤善七氏の長男でオハイオ州立大学に学んだ佐藤貢氏である。佐藤氏は機械の据え付けから製造、掃除までを一人でこなし、手回しのバターチャーンを一日に四、五回も回した。酪農家が自ら乳を加工して売る事業は、こうした草創の苦闘のうえに立ち上がった。 [5][6]
- [5]1925年5月17日の創立総会の組合員は629人、出資は一口20円だった
- [6]工場建設費は黒澤酉蔵と佐藤善七が個人で銀行借入して工面し、仮工場の技師は佐藤善七の長男・佐藤貢だった
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年5月に有限責任北海道製酪販売組合が設立された
- [3]設立2カ月後の1925年7月にバター製造を開始し10月に販売を始めた
- [4]1926年に「雪印」の商標を定めた
- [2]設立の中心は宇都宮仙太郎・黒澤酉蔵らである
- [5]1925年5月17日の創立総会の組合員は629人、出資は一口20円だった
- [6]工場建設費は黒澤酉蔵と佐藤善七が個人で銀行借入して工面し、仮工場の技師は佐藤善七の長男・佐藤貢だった
戦時統制下の国策会社化と占領期の集中排除の指定
戦時体制が強まると、組合は統制のなかで組織を変えた。1941年に有限会社北海道興農公社を設立して事業を継承し、同年9月に株式会社へ組織を改めた。戦後の1947年には北海道酪農協同株式会社へ社名を変えたが、まもなく占領政策の波を受けることになる。1948年、同社は過度経済力集中排除法の指定を受け、巨大化した事業体の分割を迫られた。北海道の生乳を広く集めて加工する一元的な体制は、集中排除が問題とする典型と見なされ、25年をかけて築いた事業基盤はいったん解体を求められた。 [7][8][9]
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1941年に有限会社北海道興農公社を設立し事業を継承、同年9月に株式会社へ組織変更した
- [8]1947年に北海道酪農協同株式会社へ社名変更した
- [9]1948年に過度経済力集中排除法の指定を受けた
北海道興農公社は、酪連の事業に森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合した、北海道の乳業を一本化する準国策会社であった。1940年8月、東京・芝の料亭「嵯峨野」で戸塚久一郎北海道庁長官と各社の首脳が会し、製乳と土地改良を一体で担う公社案がまとまった。いわゆる嵯峨野会談である。翌1941年に発足した公社の社長には、酪連会長だった黒澤酉蔵氏が推された。黒澤氏は「事業運営は営利を目的とするものではない」「従業員は使用人にあらず」と産業組合の理念を掲げたが、原料乳の集荷から加工までを一手に握るこの体制は、戦後、占領政策のもとで独占の象徴と受け止められることになる。 [10][11]
- [10]興農公社は酪連と森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合したもので、1940年8月の嵯峨野会談でまとまった
- [11]1941年発足の興農公社の社長に酪連会長の黒澤酉蔵が推された
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1941年に有限会社北海道興農公社を設立し事業を継承、同年9月に株式会社へ組織変更した
- [8]1947年に北海道酪農協同株式会社へ社名変更した
- [9]1948年に過度経済力集中排除法の指定を受けた
- [10]興農公社は酪連と森永・明治・極東の三練乳会社の道内事業を統合したもので、1940年8月の嵯峨野会談でまとまった
- [11]1941年発足の興農公社の社長に酪連会長の黒澤酉蔵が推された