雪印乳業 の歴史

創業

1925年

創業者

宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵

創業地

北海道

直近売上高(2009/3)

2,947億円

長期業績と転換点(1980/3〜2009/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1925年に酪農家自身が製酪販売組合を設立したのか
A 練乳会社に原料乳の値段を握られる限り、増産しても酪農家の手取りは増えず経営は安定しない。この従属を断つには、加工と販売を生産者の側へ取り込むほかなかった。1925年、関東大震災後の恐慌で乳の買いたたきに苦しんだ北海道の酪農家が、宇都宮仙太郎氏と黒澤酉蔵氏を中心に有限責任北海道製酪販売組合を設立し、設立2カ月後にバターの製造を始めた。資本の側から生まれた乳業各社と違い、生産者自身が乳の値段と販路を握るための共同組織だった
Q なぜ2000〜2002年の二つの不祥事はグループ解体に行き着いたのか
A 牛乳は毎日の食卓に入る商品ゆえ、安全への信頼こそが売上を支える土台であり、その信頼が二度続けて崩れれば本体だけで事業を保つのは難しくなる。2000年、大阪工場製の低脂肪乳による集団食中毒で被害者は13,420人にのぼり、戦後最大級の事件となった。回復途上の2002年1月、子会社・雪印食品の牛肉偽装が発覚し、同社は4月末に解散した。西紘平社長は事件から10日で他社資本の受け入れを決め、育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと、事業ごとに提携先を探す事実上のグループ解体だった
Q なぜ2009年に日本ミルクコミュニティと再統合し雪印乳業は姿を消したのか
A 不祥事で切り離した市乳と乳製品が別会社のままでは、縮む国内の生乳を奪い合い、牛乳からチーズまで一貫して扱う総合乳業の強みを取り戻せない。専業に縮んだ雪印乳業が再び総合乳業へ戻るには、市乳部門との再結合が要った。2009年10月、雪印乳業は市乳を担う日本ミルクコミュニティと経営統合し、共同持株会社の雪印メグミルク株式会社を設立して、雪印乳業の株式は上場を廃止した。2011年4月、雪印メグミルクが両社を吸収合併し、1950年に上場した雪印乳業株式会社は解散して幕を閉じた

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1925年〜 乳価の従属を断つ製酪販売組合の設立から戦時統制下の一本化まで

乳の買いたたきに抗した酪農家自身の製酪販売組合

雪印乳業の源流は、1925年5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合[1][2]である。関東大震災のあと本州の練乳会社が北海道へ進出し、恐慌で乳製品の市況が崩れると、練乳各社は原料乳の受け入れを制限し、酪農家は余乳の行き場を失った[3]。米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏、佐藤善七氏ら十数名が、札幌ほか十数の町や村の酪農家629名を集め、出資金5,450円でバターの製造を始めた[4]。一口の出資は20円だったが、第一回の払い込みすら農家には重い[5]負担だった。工場建設の費用は黒澤酉蔵氏と佐藤善七氏が個人で銀行から借り入れて工面した[6]。野幌の農家の庭先を借りた仮工場で製造を担ったのは、佐藤善七氏の長男でオハイオ州立大学に学んだ佐藤貢氏[7]で、機械の据え付けから製造、掃除までを一人でこなし、手回しのバターチャーンを一日に四、五回も回した[8]

    • [1]1925年5月 有限責任北海道製酪販売組合を札幌で設立
    • [4]組合員629名・出資金5,450円でバター製造を開始
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1925年5月 有限会社北海道製酪販売組合設立(有報沿革の表記)
    • [3]震災後の練乳会社進出で原料乳の受け入れ制限が起き余乳の行き場が失われた
    • [5]出資は一口20円で第一回の払い込みすら農家には重かった
    • [6]工場建設費は黒澤酉蔵・佐藤善七が個人で銀行借入して工面
    • [7]仮工場の技師は佐藤善七の長男・オハイオ州立大学卒の佐藤貢
    • [8]手回しのバターチャーンを1日に4〜5回まわして製造した

組合の設立から2カ月後の1925年7月25日[9]、野幌の仮工場でバターの製造が始まった[10]。翌1926年3月には全道に散らばる大小の製酪組合を束ねて北海道製酪販売組合連合会を組織し[11]、同年12月に商標を「雪印」と定めて[12]製造と販売を一本化した。専務理事の黒澤酉蔵氏が全国を行商して回った調査では、道産バターが「大島バター」などの名に改装され、包装や冷蔵設備の不備で品質が損なわれる実態[13]が判明していた。そこで札幌の中央工場に米国から取り寄せた最新設備を据えて近代的なバターの製造を始め[14]、1930年ごろには鉄道貨車に氷を積む冷蔵輸送に踏み切り[15]、原料塩も精製塩へ切り替えた[16]。北海道庁は1929年にバター検査条例を設けて優良品に推奨マークを与え[17]、品質で選ばせる売り方を後押しした。

    • [1]1925年5月 有限責任北海道製酪販売組合を札幌で設立
    • [4]組合員629名・出資金5,450円でバター製造を開始
    • [10]札幌郊外白石村字野津幌の仮工場でバター製造を開始
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1925年5月 有限会社北海道製酪販売組合設立(有報沿革の表記)
    • [3]震災後の練乳会社進出で原料乳の受け入れ制限が起き余乳の行き場が失われた
    • [5]出資は一口20円で第一回の払い込みすら農家には重かった
    • [6]工場建設費は黒澤酉蔵・佐藤善七が個人で銀行借入して工面
    • [7]仮工場の技師は佐藤善七の長男・オハイオ州立大学卒の佐藤貢
    • [8]手回しのバターチャーンを1日に4〜5回まわして製造した
    • [13]全国行商の調査で道産バターが「大島バター」等に改装され品質が損なわれていた
    • [16]原料塩を精製塩へ切り替え
    • [9]1925年7月25日 バター製造開始
    • [12]1926年12月 商標「雪印」決定
    • [14]札幌の中央工場に米国製の最新設備を導入し近代的バター製造を開始
    • [15]1930年ごろ 鉄道貨車に氷を積む冷蔵輸送を開始
    • [17]1929年 北海道庁がバター検査条例を制定し優良品に推奨マークを付与
    • [11]1926年3月 各地の製酪組合を統合し北海道製酪販売組合連合会を組織

廉売合戦への不追従と舶来バターの駆逐

1930年の金解禁と翌年の大不況でバターの市況は崩れ、酪連だけでも80万ポンドの滞貨[18]を抱えた。市価は1ポンド95銭から半値以下の40銭まで落ち[19]、他社は牛乳の受け入れを制限しながら投げ売りに走った[20]。黒澤酉蔵氏は他社に追従した値下げをしないと決め[21]、滞貨資金の金利負担に耐えて待ち、呼び値だけを下げて実売を断る空売りで相場を動かした[22]。佐藤貢氏と瀬尾俊三氏は上海へ渡って米海軍の入札を落とし[23]、2ポンド買えば1ポンドを添える特売で7万ポンドの大半を処分した[24]。他社の在庫が尽きるのを待って売りに出た結果、1932年にバターの価格は本来の水準へ戻り、乳価ももとに復した[25]

    • [18]1930年の金解禁と翌年の大不況で酪連の滞貨は80万ポンドに達した
    • [20]他社は牛乳の受け入れを制限しつつ投げ売りに走った
    • [21]黒澤酉蔵は他社追従の値下げを拒み呼び値だけの空売りで相場を動かした
    • [22]呼び値だけを下げ実売を断る空売りを用いた
    • [19]バター市価は1ポンド95銭から40銭まで下落
    • [23]佐藤貢・瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落とし特売で7万ポンドの大半を処分
    • [24]2ポンド購入者に1ポンドを付す特売で7万ポンドの大半を処分
    • [25]1932年にバター価格と乳価が本来の水準へ回復

当時の日本は年に80万ポンドのバターを輸入していた[26]が、問屋は道産品を扱おうとしなかった。黒澤酉蔵氏らが明治屋に何度も足を運んでも動かず、神戸支店長にかけ合い[27]、先入観を除くため米国のカートンに詰めて試食させたところ、評価が一変して神戸と大阪で売り出す運びとなった[28]。東京の明治屋も雪印バターを全面的に扱い、ほかの問屋も追随して、輸入バターは日本の食品市場から姿を消した[29]。1932年には国内バター生産量の75%[30]を雪印が占めた。1935年には外貨獲得の国策に乗ってロンドンへ見本2トンを送り、ロンズデール社と100万ポンドの輸出契約を結び[31]、英国国立検査所の検査で22カ国中4位の評価[32]を受けた。

    • [18]1930年の金解禁と翌年の大不況で酪連の滞貨は80万ポンドに達した
    • [20]他社は牛乳の受け入れを制限しつつ投げ売りに走った
    • [21]黒澤酉蔵は他社追従の値下げを拒み呼び値だけの空売りで相場を動かした
    • [22]呼び値だけを下げ実売を断る空売りを用いた
    • [32]英国国立検査所の検査で22カ国中4位
    • [19]バター市価は1ポンド95銭から40銭まで下落
    • [23]佐藤貢・瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落とし特売で7万ポンドの大半を処分
    • [24]2ポンド購入者に1ポンドを付す特売で7万ポンドの大半を処分
    • [25]1932年にバター価格と乳価が本来の水準へ回復
    • [26]昭和6〜7年ごろの輸入バターは年80万ポンド
    • [27]明治屋神戸支店長と交渉し米国のカートンに詰めた試食で評価が一変
    • [28]先入観を除くため米国のカートンで試食させ神戸・大阪での販売につながった
    • [29]東京の明治屋と他の問屋も追随し輸入バターが市場から消えた
    • [31]1935年 ロンドンへ見本2トンを送りロンズデール社と100万ポンドの輸出契約
    • [30]1932年 国内バター生産量の75%を占めた

戦時統制下の一本化と占領期の集中排除指定

1940年になると北海道の乳業を一本化する動きが表面化し、橋渡しには町村敬貴氏が立って各社の幹部と話し合った[33]。同年8月、東京・芝の料亭「嵯峨野」で戸塚久一郎北海道庁長官を立会人に[34]、酪連と森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の首脳が会し、製乳と土地改良を一体で担う公社案に合意した[35]。翌1941年3月、五者の現物出資により資本金1,200万円の有限会社北海道興農公社が発足して事業を継承し[36]、同年9月に株式会社へ組織を改めた[37]。社長には酪連会長の黒澤酉蔵氏が就き、専務には佐藤貢氏[38]が就いた。のちに北海道庁が500万円、農林中央金庫と北海道拓殖銀行も出資し[39]、配当は6分に抑えて超過分を生産設備へ回す仕組み[40]をとった。1944年から翌年にかけては製薬にも手を広げ、日本で最初のペニシリンを製造した[41]

    • [33]町村敬貴が代表として各社幹部と統合を話し合った
    • [36]資本金1,200万円の有限会社北海道興農公社が現物出資で発足
    • [38]興農公社の社長に黒澤酉蔵、専務に佐藤貢が就いた
    • [39]北海道庁が500万円、農林中央金庫・北海道拓殖銀行も出資し配当は6分に抑制
    • [40]配当を6分に抑え超過分を生産設備へ充てる仕組み
    • [41]1944〜45年に製薬へ進出し日本で最初のペニシリンを製造
    • [34]1940年8月 東京・芝の料亭「嵯峨野」で戸塚久一郎北海道庁長官立会いの会談
    • [35]酪連と森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の首脳が製乳と土地改良を担う公社案に合意
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1941年3月 有限会社北海道興農公社設立・事業継承、同年9月 株式会社へ組織変更

1941年4月には明治・森永両社の道内工場を合併し[42]、北海道の生乳をほぼ一手に集める体制ができた。戦後の1946年に土地改良部門を北海道農材工業として独立させ[43]、1947年1月には社名を北海道酪農協同株式会社に改め[44]、北海道庁や明治・森永が持っていた株式を酪農家へ譲渡した[45]。1948年2月、同社は過度経済力集中排除法の指定[46]を受けた。黒澤酉蔵氏は1万8,000人の署名や代表による「五七会」の結成[47]、連合国軍総司令部への働きかけで指定解除を求め、持ちかけられた裏金を拒んで正攻法を通した[48]。佐藤貢氏は2年にわたり東京に駐在してこの問題に当たり[49]、当初の三分割指令は全道酪農民大会や聴聞会での抵抗を経て二分割へ緩んだ[50]

    • [42]1941年4月 明治・森永の道内乳製品工場を合併
    • [43]1946年 土地改良部門を北海道農材工業として分離独立
    • [45]北海道庁・明治・森永の持ち株を酪農家へ譲渡し株式を民主化
    • [49]佐藤貢は2年間東京に駐在して集排法問題に当たった
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1947年1月 北海道酪農協同株式会社へ社名変更
    • [46]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
    • [47]1万8,000人の署名と代表による「五七会」の結成で指定解除を求めた
    • [48]裏金の誘惑を拒み正攻法で指定解除運動を進めた
    • [50]当初の三分割指令は全道酪農民大会や聴聞会での抵抗を経て二分割へ緩和
    • [33]町村敬貴が代表として各社幹部と統合を話し合った
    • [36]資本金1,200万円の有限会社北海道興農公社が現物出資で発足
    • [38]興農公社の社長に黒澤酉蔵、専務に佐藤貢が就いた
    • [39]北海道庁が500万円、農林中央金庫・北海道拓殖銀行も出資し配当は6分に抑制
    • [40]配当を6分に抑え超過分を生産設備へ充てる仕組み
    • [41]1944〜45年に製薬へ進出し日本で最初のペニシリンを製造
    • [43]1946年 土地改良部門を北海道農材工業として分離独立
    • [45]北海道庁・明治・森永の持ち株を酪農家へ譲渡し株式を民主化
    • [49]佐藤貢は2年間東京に駐在して集排法問題に当たった
    • [34]1940年8月 東京・芝の料亭「嵯峨野」で戸塚久一郎北海道庁長官立会いの会談
    • [35]酪連と森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の首脳が製乳と土地改良を担う公社案に合意
    • [47]1万8,000人の署名と代表による「五七会」の結成で指定解除を求めた
    • [48]裏金の誘惑を拒み正攻法で指定解除運動を進めた
    • [50]当初の三分割指令は全道酪農民大会や聴聞会での抵抗を経て二分割へ緩和
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1941年3月 有限会社北海道興農公社設立・事業継承、同年9月 株式会社へ組織変更
    • [44]1947年1月 北海道酪農協同株式会社へ社名変更
    • [46]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
    • [42]1941年4月 明治・森永の道内乳製品工場を合併

1950年〜 集中排除法による二分割から本州進出と乳業首位の確立まで

雪印乳業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1950年 集中排除法による会社分割指令への抵抗と、裏金を拒んだ指定解除運動 原料乳を一手に集めた北酪社を、黒澤酉蔵氏はなぜ正攻法だけで守ろうとしたのか
  2. 1950年 東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
  3. 1951年 強化乳「雪印ビタミルク」発売
  4. 1954年 「6Pチーズ」大量生産化
  5. 1955年 八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒事件
  6. 1961年 札幌酪農牛乳を合併
  7. 1962年 「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」発売

二分割による雪印乳業の発足と株式上場

1950年6月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法の適用で二分割され[51]、資本金3億6,000万円の雪印乳業株式会社が第二会社として発足した[52]。存続会社は北海道バター株式会社と改称し、社長には三井武光氏[53]が就いた。商標は分割にあたって「雪印」を雪印乳業が引き継ぎ、北海道バターは昭和初期に関西で使っていた「クロバー」印を継いだ[54]。会長の黒澤酉蔵氏ら8人の重役が公職追放となり[55]、雪印乳業の社長には佐藤貢氏が就任した[56]。株主だった農業会は事業者団体法により乳製品の製造販売ができなくなるため[57]、その持ち株を個々の農民へ分散したうえで発足にこぎつけた[58]

発足からわずか2カ月後の1950年8月[59]、雪印乳業は東京証券取引所市場第一部と札幌証券取引所に株式を上場した[60]。同年12月には肉製品と種苗の事業を切り離して雪印食品工業株式会社と雪印種苗株式会社を設立し[61]、皮革と製薬の部門も別会社として独立させた[62]。佐藤貢氏が分割を機に雪印乳業を乳製品専門の会社とする方針をとり、付帯事業を部門ごとに株式会社として立てた[63]ためである。1952年10月には株式会社雪アイスを設立し、1957年3月には雪印運輸株式会社の株式を買い取って[64]、生産から輸送・販売までを子会社で束ねた。

  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1950年8月 東京証券取引所市場第一部・札幌証券取引所に株式上場
    • [60]上場先は東証一部と札証
    • [61]1950年12月 肉製品・種苗事業を切り離し雪印食品工業・雪印種苗を設立
    • [64]1952年10月 株式会社雪アイス設立、1957年3月 雪印運輸の株式買取り
    • [62]1950年12月に肉加工・種苗・皮革・製薬の各部門を分離し新会社とした
    • [63]佐藤貢は分割を機に乳製品専門とする方針をとり付帯事業を分社した
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1950年6月 集排法の適用で雪印乳業と北海道バターに分割
    • [59]1950年8月 東京証券取引所市場第一部・札幌証券取引所に株式上場
    • [60]上場先は東証一部と札証
    • [61]1950年12月 肉製品・種苗事業を切り離し雪印食品工業・雪印種苗を設立
    • [64]1952年10月 株式会社雪アイス設立、1957年3月 雪印運輸の株式買取り
    • [52]第二会社の雪印乳業は資本金3億6,000万円で発足
    • [56]1950年6月 佐藤貢が雪印乳業社長に就任
    • [53]存続会社は北海道バターと改称し社長に三井武光が就任
    • [54]商標「雪印」は雪印乳業が所有し北海道バターは「クロバー」印を継承
    • [55]黒澤酉蔵ら8人の重役が追放となり佐藤貢が社長を継いだ
    • [57]事業者団体法により農業会の持ち株を個々の農民へ分散した
    • [58]農業会の持ち株を農民へ分散して発足にこぎつけた
    • [63]佐藤貢は分割を機に乳製品専門とする方針をとり付帯事業を分社した
    • [62]1950年12月に肉加工・種苗・皮革・製薬の各部門を分離し新会社とした

本州進出とクローバー乳業の再合併

分割で規模も性格も変わった雪印乳業は、本州への進出で力を取り戻そうとした[65]。1952年5月には岩手県の花巻市を中心に5工場を新設し[66]、1953年には東京に市乳工場を建てて本州での市乳事業を始めた[67]。以後は東北・九州・関西・東海・四国へ製造と販売を広げ[68]、1954年10月に資本金を4億8,000万円へ増やした[69]。1951年にはビタミン入り粉ミルク「ビタミルク」を発売し、1954年には「雪印6Pチーズ」を売り出した[70]。1954年度の売上総額は90億円に達し[71]、本社のほか東京支社・5支店・4出張所・58工場・314の処理場と集乳所[72]を抱えた。当時の製品はバター、チーズ、煉乳、ビタミルク、脱脂粉乳、バターキャラメル、マーガリン、アイスクリーム、市乳[73]などである。

分割で分かれた北海道バターはクローバー乳業と改称して同じ市場で競い合った[74]が、占領が終わって分割を強いた政策環境が変わると、再結合が課題になった。1958年11月、雪印乳業はクローバー乳業を合併し[75]、分割前の生産基盤を一つに戻した。合併時に15億円だった資本金は、1968年には75億円[76]まで増えた。1961年4月には札幌酪農牛乳を合併し、1966年3月に大阪証券取引所市場第一部[77]へ株式を上場した。1963年6月には食品部門の業務を雪印食品工業へ移し[78]、乳製品と市乳に本体の事業を絞った。商品では1962年に「雪印スライスチーズ」と缶入りの「雪印カマンベールチーズ」[79]、1963年にテトラパックの「雪印コーヒー牛乳」、1968年に「雪印ネオマーガリンソフト」を発売した[80]

    • [65]分割で規模と性格が変わったため本州進出を計画した
    • [74]北海道バターはブランド名をとってクローバー乳業へ改称した
    • [66]1952年5月 岩手県花巻市を中心に5工場を新設
    • [69]1954年10月 資本金4億8,000万円
    • [71]1954年度の売上総額90億円
    • [72]東京支社・5支店・4出張所・58工場・314処理場集乳所
    • [73]1954年当時の製品はバター・チーズ・煉乳・ビタミルク・脱脂粉乳・マーガリン・アイスクリーム・市乳など
    • [67]1953年 東京に市乳工場を建設し本州の市乳事業に着手
    • [68]東北・九州・関西・東海・四国へ製造販売を拡張
    • [76]合併時の資本金15億円が1968年に75億円へ
    • [70]1951年「ビタミルク」発売、1954年「雪印6Pチーズ」発売
    • [79]1962年 雪印スライスチーズ・缶入り雪印カマンベールチーズ発売
    • [80]1963年 テトラパックの雪印コーヒー牛乳、1968年 雪印ネオマーガリンソフト発売
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1958年11月 クローバー乳業を合併
    • [77]1961年4月 札幌酪農牛乳を合併、1966年3月 大阪証券取引所市場第一部に上場
    • [78]1963年6月 食品部門の業務を雪印食品工業へ移譲

八雲工場の集団食中毒と乳業首位の確立

発足5年目の1955年3月、雪印乳業八雲工場が製造した脱脂粉乳による集団食中毒が東京都内の小学校で起きた[81]。製造機の故障と停電で原料乳が粉にする前に長時間放置され、黄色ブドウ球菌が増えた[82]ことが原因である。給食を口にした7,638人のうち患者は1,579人にのぼり、東京都の記録では1,936人[83]とされる。社長の佐藤貢氏は「全社員に告ぐ」と題する文書を全社へ発し[84]、品質への出直しを求めた。この文書はのちに同社の品質管理の原点として語り継がれたが、同じ黄色ブドウ球菌による大規模な食中毒は45年後にもう一度起きた[85]

    • [81]1955年3月 八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒
    • [82]製造機の故障と停電で原料乳が粉化前に長時間放置され黄色ブドウ球菌が増殖
    • [83]給食者数7,638人・患者1,579人(東京都記録では1,936人)
    • [84]社長の佐藤貢が「全社員に告ぐ」を全社に発した
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号「学習しない会社 雪印乳業の朽ちたブランド」
    • [85]1955年と同じ黄色ブドウ球菌による食中毒が45年後に再発

1968年3月期、雪印乳業は全国生産に占める比率でバター69.9%、チーズ62.9%、粉乳37.3%、マーガリン22.2%、市乳19.4%[86]を占め、集乳量では25.3%に達した[87]。同期の売上高は1,056億円で、集乳費・売上高・資本金のいずれでも乳業界の首位[88]に立った。社長は瀬尾俊三氏、従業員は10,281人[89]で、1966年度には米国を除く世界の大企業200社のうち175位[90]に数えられた。当時は事業部制をとり、全国に8事業所、12支店、56の主要工場、106の集乳工場[91]を置いていた。佐藤貢氏は1963年に会長へ退き、1971年に取締役相談役[92]となった。

    • [86]1968年3月期の全国生産比率 バター69.9%・チーズ62.9%・粉乳37.3%・マーガリン22.2%・市乳19.4%
    • [87]集乳量の全国比25.3%
    • [88]1968年3月期の売上高1,056億円・集乳費と売上高と資本金で乳業界首位
    • [89]1968年時点の社長は瀬尾俊三、従業員10,281人
    • [90]1966年度に米国を除く世界の大企業200社で175位
    • [91]事業部制で8事業所・12支店・56主要工場・106集乳工場
    • [92]佐藤貢は1963年に会長、1971年に取締役相談役
    • [81]1955年3月 八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒
    • [82]製造機の故障と停電で原料乳が粉化前に長時間放置され黄色ブドウ球菌が増殖
    • [83]給食者数7,638人・患者1,579人(東京都記録では1,936人)
    • [84]社長の佐藤貢が「全社員に告ぐ」を全社に発した
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号「学習しない会社 雪印乳業の朽ちたブランド」
    • [85]1955年と同じ黄色ブドウ球菌による食中毒が45年後に再発
    • [86]1968年3月期の全国生産比率 バター69.9%・チーズ62.9%・粉乳37.3%・マーガリン22.2%・市乳19.4%
    • [87]集乳量の全国比25.3%
    • [88]1968年3月期の売上高1,056億円・集乳費と売上高と資本金で乳業界首位
    • [89]1968年時点の社長は瀬尾俊三、従業員10,281人
    • [90]1966年度に米国を除く世界の大企業200社で175位
    • [91]事業部制で8事業所・12支店・56主要工場・106集乳工場
    • [92]佐藤貢は1963年に会長、1971年に取締役相談役

1970年〜 市乳の全国展開と多角化、そして輸入自由化への備え

  1. 1979年 プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売
  2. 1980年 「ストリングチーズ」発売

市乳網の全国化と薄利をかかえた収益構造

1970年代以降、雪印乳業は市乳と日配品へ商いの中心を移し、1972年に全国農協牛乳直販株式会社を設立して農協系の牛乳販売網を築いた[93]。同年には首都圏で日本初の無調整牛乳「農協牛乳」を売り出し[94]、1979年にプレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」、1980年に「雪印ストリングチーズ」(現・さけるチーズ)を発売した[95]。量販店の拡大にいち早く対応したことが乳業界での首位を支え、その実働部隊がグループの食品卸である雪印アクセス[96]だった。自前の流通網で急な注文にも応じる対応力には定評があり、連結売上高1兆3,000億円弱の5割以上をアクセスが占めた[97]。バターやチーズなどの乳製品では販売シェアが業界の4〜5割にのぼり[98]、同量のバターで数十円高くても2倍売れることがあった[99]

    • [93]1972年 全国農協牛乳直販株式会社を設立
    • [94]1972年 首都圏で日本初の無調整牛乳「農協牛乳」を発売
    • [95]1979年「雪印ナチュレ」、1980年「雪印ストリングチーズ」発売
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]雪印事件の波紋 組織を覆う機能不全 虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [96]量販店の拡大への早期対応が乳業界首位の要因で実働部隊は雪印アクセス
    • [97]連結売上高1兆3,000億円弱の5割以上を雪印アクセスが占めた
    • [98]バター・チーズなど乳製品の販売シェアは業界の4〜5割
    • [99]同量のバターで数十円高くても2倍売れることがあった

牛乳は成分を調整できず商品ごとの違いを出しにくいため、スーパーの特売の定番となり、もうけはほとんど出なかった[100]。パック牛乳1リットルの製造原価は原料代と人件費を含めて約160円と見られ、市場価格150円では1本あたり10円の赤字[101]が出る計算だった。そこで各社は低脂肪やカルシウム入りなど付加価値を付けた加工乳・乳飲料の販売に力を入れ[102]、雪印乳業も1990年代後半に乳成分を強めた「毎日骨太」を年商600億円超の看板商品に育てた[103]。強固なブランドを持ちながら営業利益率では他社と差がほとんどなく、従業員一人当たりの粗利益額は明治乳業・森永乳業を下回った[104]。販売拠点や工場の削減といった収益力を高める手立て[105]は、この時期には十分に進まなかった。

  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「[企業レポート]再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
    • [100]牛乳は成分調整ができず差別化しにくくスーパー特売の定番で儲けが出ない
    • [102]各社は低脂肪やカルシウム入りなど付加価値を付けた加工乳・乳飲料に注力した
    • [103]「毎日骨太」は年商600億円以上の看板商品だった
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「[企業レポート]経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
    • [101]パック牛乳1リットルの製造原価は約160円、市価150円で1本10円の赤字
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]雪印事件の波紋 組織を覆う機能不全 虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [104]営業利益率は他社と差がなく従業員一人当たり粗利益額は明治・森永より低い
    • [105]販売拠点や工場の削減など収益力強化の取り組みは十分でなかった
    • [93]1972年 全国農協牛乳直販株式会社を設立
    • [94]1972年 首都圏で日本初の無調整牛乳「農協牛乳」を発売
    • [95]1979年「雪印ナチュレ」、1980年「雪印ストリングチーズ」発売
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]雪印事件の波紋 組織を覆う機能不全 虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [96]量販店の拡大への早期対応が乳業界首位の要因で実働部隊は雪印アクセス
    • [97]連結売上高1兆3,000億円弱の5割以上を雪印アクセスが占めた
    • [98]バター・チーズなど乳製品の販売シェアは業界の4〜5割
    • [99]同量のバターで数十円高くても2倍売れることがあった
    • [104]営業利益率は他社と差がなく従業員一人当たり粗利益額は明治・森永より低い
    • [105]販売拠点や工場の削減など収益力強化の取り組みは十分でなかった
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「[企業レポート]再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
    • [100]牛乳は成分調整ができず差別化しにくくスーパー特売の定番で儲けが出ない
    • [102]各社は低脂肪やカルシウム入りなど付加価値を付けた加工乳・乳飲料に注力した
    • [103]「毎日骨太」は年商600億円以上の看板商品だった
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「[企業レポート]経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
    • [101]パック牛乳1リットルの製造原価は約160円、市価150円で1本10円の赤字

医薬品への多角化と自由化を前にした世代交代

乳で培った技術を土台に、雪印乳業は1983年、医薬品事業への進出をねらって栃木県石橋町に生物科学研究所を設立[106]した。研究所の責任者だった常務が急逝したため、当時研究本部副本部長だった片山純男氏が急きょ所長として陣頭指揮をとった[107]。130人からなる研究者の多くは社外からのスカウト[108]で、医薬品分野は同社にとって未経験の領域で、研究開発の方向づけは模索が続いた[109]。片山氏は組織をまとめるのは精神的にもつらかったと振り返りつつ、医薬品事業の必要性を明確にして部隊をまとめ、1985年に初代の医薬品本部長となった[110]

  • 日経ビジネス 1993年11月22日号「新社長登場 片山純男氏[雪印乳業]医薬進出で頭角、乳製品自由化に備え」
    • [106]1983年 医薬品事業進出をねらい栃木県石橋町に生物科学研究所を設立
    • [107]研究所責任者の常務が急逝し研究本部副本部長の片山純男が所長として陣頭指揮
    • [108]研究者130人の多くは社外からのスカウトだった
    • [109]医薬品分野が未経験で研究開発の方向づけは模索が続いた
    • [110]片山純男は1985年に初代医薬品本部長となった

1951年に東京大学農学部を卒業して同年に雪印乳業へ入った片山純男氏[111]は、1983年に取締役研究本部副本部長、1988年に専務、1990年に副社長を経て、1993年6月に社長へ就任した[112]。ウルグアイ・ラウンド交渉で乳製品の輸入自由化が迫り、事業環境は厳しさを増していた[113]。片山氏は北海道の酪農家が欧州諸国並みの競争力を付けてきたとして[114]、打つべき手は打ったうえで自由化をにらんで一層の体制づくりに挑むと述べた[115]。1997年に社長を務めていた石川哲郎氏は、41あった工場のうち10ほどは減らさなければならないと述べ[116]、国内の生乳生産量860万トンに対し輸入が400万トンにのぼる[117]現状で原料の確保が課題になると語った。

  • 日経ビジネス 1993年11月22日号「新社長登場 片山純男氏[雪印乳業]医薬進出で頭角、乳製品自由化に備え」
    • [111]片山純男は1951年東京大学農学部卒・同年雪印乳業入社
    • [112]1983年取締役研究本部副本部長・1988年専務・1990年副社長・1993年6月社長就任
    • [113]乳製品の自由化問題など事業環境は厳しかった
    • [114]北海道の酪農家は欧州諸国並みの競争力を付けつつあると片山は述べた
    • [115]打つべき手は打って自由化をにらみ一層の体制づくりに挑むと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「[ひと]雪印乳業社長 石川哲郎 乳製品自由化を前に気骨の精神で正面勝負」
    • [116]工場は41あり10ほど減らす必要があると石川哲郎社長が述べた
    • [117]国内生乳生産量860万トンに対し輸入400万トン
  • 日経ビジネス 1993年11月22日号「新社長登場 片山純男氏[雪印乳業]医薬進出で頭角、乳製品自由化に備え」
    • [106]1983年 医薬品事業進出をねらい栃木県石橋町に生物科学研究所を設立
    • [107]研究所責任者の常務が急逝し研究本部副本部長の片山純男が所長として陣頭指揮
    • [108]研究者130人の多くは社外からのスカウトだった
    • [109]医薬品分野が未経験で研究開発の方向づけは模索が続いた
    • [110]片山純男は1985年に初代医薬品本部長となった
    • [111]片山純男は1951年東京大学農学部卒・同年雪印乳業入社
    • [112]1983年取締役研究本部副本部長・1988年専務・1990年副社長・1993年6月社長就任
    • [113]乳製品の自由化問題など事業環境は厳しかった
    • [114]北海道の酪農家は欧州諸国並みの競争力を付けつつあると片山は述べた
    • [115]打つべき手は打って自由化をにらみ一層の体制づくりに挑むと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「[ひと]雪印乳業社長 石川哲郎 乳製品自由化を前に気骨の精神で正面勝負」
    • [116]工場は41あり10ほど減らす必要があると石川哲郎社長が述べた
    • [117]国内生乳生産量860万トンに対し輸入400万トン

雪印ブランドに頼らない商品づくりと海外提携

1989年3月、雪印乳業は米国最大の青果会社ドールの関連会社ドール・パッケージド・フーズと折半出資で合弁会社の雪印ドールを設立[118]した。4月から「ドール」ブランドで紙パック入り100%天然果汁ジュース4種を発売し、初年度は販売目標を38%上回る売上高65億円を達成した[119]。パッケージに雪印乳業の名は製造・販売者として小さく記すだけで、テレビ広告でも雪印の名は一切出さなかった[120]。1990年度の売上高は前年度比41.5%増の92億円へ伸び、ドールブランドの総売上高は130億円近く[121]に達した。当時の雪印乳業はバターで37.4%、マーガリンで38.6%、チーズで36.4%のシェア[122]を握っていた。

  • 日経ビジネス 1991年4月15日号「雪印乳業 雪印ブランドを隠した「天然果汁」ヒットの新風」
    • [118]1989年3月 ドール・パッケージド・フーズと折半出資で雪印ドールを設立
    • [119]1989年4月に紙パック入り100%天然果汁4種を発売し初年度売上65億円(目標を38%超過)
    • [120]パッケージの雪印表示は小さく、テレビ広告でも雪印の名を出さなかった
    • [121]1990年度売上高92億円(前年度比41.5%増)・ドールブランド総売上130億円近く
    • [122]バター37.4%・マーガリン38.6%・チーズ36.4%のシェア(矢野経済研究所調べ)

1990年1月には米ハーシーとライセンス提携を結んでチョコレート飲料とチョコアイスクリームの生産販売を始め[123]、紙パック入り紅茶飲料でもトワイニングの商標使用権を得て発売した[124]。雪印乳業が雪印以外のブランドで年商100億円規模の商品を育てたのはドールが初めてで、それ以前の海外ブランド導入はいずれも成功していなかった[125]。社内には雪印ブランド至上主義といえる空気が根強く[126]、交渉段階で横やりが入ったり、雪印ブランドに気を遣って踏み込めなかったりした[127]ためである。1991年2月には、売上高を1990年度の5,300億円から1995年度に7,000億円へ広げる中期経営5カ年計画「フレッシュ70」[128]を発表した。

  • 日経ビジネス 1991年4月15日号「雪印乳業 雪印ブランドを隠した「天然果汁」ヒットの新風」
    • [123]1990年1月 米ハーシーとライセンス提携しチョコレート飲料・チョコアイスを発売
    • [124]紙パック入り紅茶飲料でトワイニングの商標使用権を取得
    • [125]雪印以外のブランドで年商100億円規模の商品を育てたのはドールが初めて
    • [126]雪印ブランド至上主義の社風が他ブランド導入の壁になっていた
    • [127]交渉段階の横やりや雪印ブランドへの気遣いで積極展開に踏み切れなかった
    • [128]1991年2月 中期経営5カ年計画「フレッシュ70」(1990年度5,300億円→1995年度7,000億円)
  • 日経ビジネス 1991年4月15日号「雪印乳業 雪印ブランドを隠した「天然果汁」ヒットの新風」
    • [118]1989年3月 ドール・パッケージド・フーズと折半出資で雪印ドールを設立
    • [119]1989年4月に紙パック入り100%天然果汁4種を発売し初年度売上65億円(目標を38%超過)
    • [120]パッケージの雪印表示は小さく、テレビ広告でも雪印の名を出さなかった
    • [121]1990年度売上高92億円(前年度比41.5%増)・ドールブランド総売上130億円近く
    • [122]バター37.4%・マーガリン38.6%・チーズ36.4%のシェア(矢野経済研究所調べ)
    • [123]1990年1月 米ハーシーとライセンス提携しチョコレート飲料・チョコアイスを発売
    • [124]紙パック入り紅茶飲料でトワイニングの商標使用権を取得
    • [125]雪印以外のブランドで年商100億円規模の商品を育てたのはドールが初めて
    • [126]雪印ブランド至上主義の社風が他ブランド導入の壁になっていた
    • [127]交渉段階の横やりや雪印ブランドへの気遣いで積極展開に踏み切れなかった
    • [128]1991年2月 中期経営5カ年計画「フレッシュ70」(1990年度5,300億円→1995年度7,000億円)

2000年〜 二つの不祥事によるグループ解体と統合による雪印乳業の終焉

雪印乳業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2000年 雪印乳業集団食中毒事件(大阪工場製低脂肪乳、被害13,420人)
  2. 2002年 子会社・雪印食品の牛肉偽装事件が発覚
  3. 2002年 雪印食品が解散を決議
  4. 2003年 全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合し日本ミルクコミュニティを設立
  5. 2009年 日本ミルクコミュニティと経営統合し共同持株会社「雪印メグミルク」を設立
  6. 2011年 雪印乳業が解散・消滅

被害1万3420人の集団食中毒と経営陣の退陣

2000年6月27日、大阪市保健所に雪印乳業大阪工場製造の低脂肪乳による食中毒の届出[129]があった。原因をさかのぼると、同年3月に北海道の大樹工場で停電事故が起きて冷却装置が3時間止まり[130]、常温で放置された原料乳からつくった脱脂粉乳が、大阪工場で低脂肪乳の原料に使われていた[131]。黄色ブドウ球菌がつくる毒素エンテロトキシンによる被害者は13,420人にのぼり[132]、戦後最大級の集団食中毒となった。45年前の八雲工場の事件と同じ菌による、二度目の大規模食中毒[133]である。回収した低脂肪乳を再利用する際、開封作業の一部が屋外で行われていた[134]ことも判明した。

    • [129]2000年6月27日 大阪市保健所へ最初の届出
    • [131]大樹工場の汚染脱脂粉乳が大阪工場で低脂肪乳の原料に使われた
    • [132]黄色ブドウ球菌の毒素エンテロトキシンによる被害者は13,420人
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号「学習しない会社 雪印乳業の朽ちたブランド」
    • [130]2000年3月の停電事故で冷却装置が3時間停止し原料乳が常温放置された
    • [133]1955年の八雲工場事件と同じ黄色ブドウ球菌による二度目の大規模食中毒
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]雪印事件の波紋 組織を覆う機能不全 虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [134]回収した低脂肪乳の再利用で開封作業の一部が屋外で行われていた

事件対応は後手に回り、6月30日に被害者は145人から3,572人へ増えた[135]。7月1日の会見では製造ラインの洗浄が不十分だったことを工場長が明かし、社長の石川哲郎氏が絶句[136]した。7月4日夜の会見を石川氏は「私は寝ていないんだ」と言い放って打ち切り[137]、その映像がくり返し放映された。石川氏は7月6日に辞意を表明し、7月28日には9月に就任予定だった西紘平氏を前倒しで登板[138]させた。西氏のもとで大阪工場をはじめ全国8工場の閉鎖と、従業員の15%にあたる1,000人の削減が決まり[139]、2000年度の連結最終赤字は475億円に達した[140]

  • 日経ビジネス 2000年10月2日号「学習しない会社 雪印乳業の朽ちたブランド」
    • [135]6月30日に被害者が145人から3,572人へ激増
    • [136]7月1日の会見で工場長が洗浄不足を明かし石川哲郎社長が絶句した
    • [137]7月4日夜の会見を「私は寝ていないんだ」と打ち切った
    • [138]7月6日に辞意表明、7月28日に9月就任予定の西紘平を前倒し登板
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「[企業レポート]再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
    • [139]全国8工場の閉鎖と全従業員の15%にあたる1,000人の削減
  • 週刊東洋経済 2000年10月7日号「[TopNews]世界ブランドの介添えで窮地脱出もくろむ雪印 ネスレの狙いはコア事業?」
    • [140]2000年度の連結最終赤字は475億円

2000年10月には世界最大の食品メーカーであるネスレの日本法人と業務提携の検討で合意し[141]、ヨーグルトや乳酸菌飲料などの乳製品を対象に据えた[142]。牛乳類やバター、チーズといった中核事業は検討の範囲から外し、自主再建[143]を掲げた。2001年に入ると売上は事故直後の8割減から3割減まで戻り[144]、バターやチーズは近畿圏でシェア首位に復した[145]。ただし回復は思い切った値引きに支えられた面があり、2001年3月期は売上高が予想を100億円以上下回って最終赤字が70億円膨らんだ[146]。同年3月には骨の代謝を助ける成分を加えた「毎日骨太MBP」を前倒しで発売し[147]、販売促進費に頼らない売り方への切り替えを図った[148]

  • 週刊東洋経済 2000年10月7日号「[TopNews]世界ブランドの介添えで窮地脱出もくろむ雪印 ネスレの狙いはコア事業?」
    • [141]2000年10月 ネスレ日本と業務提携の検討で合意(対象はヨーグルト・乳酸菌飲料等)
    • [142]提携検討の対象分野はヨーグルトや乳酸菌飲料などの乳製品
    • [143]牛乳類・バター・チーズのコア事業は提携検討の範疇から外し自主再建を掲げた
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「[企業レポート]再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
    • [144]売上は事故直後の8割減から2001年6月に3割減まで回復
    • [145]バターやチーズは近畿圏でシェアトップに戻った
    • [146]2001年3月期は売上が予想を100億円以上下回り最終赤字が70億円膨らんだ
    • [147]2001年3月に「毎日骨太MBP」を前倒し発売した
    • [148]販売促進費に頼らない提案型マーケティングへの切り替えを課題とした
    • [129]2000年6月27日 大阪市保健所へ最初の届出
    • [131]大樹工場の汚染脱脂粉乳が大阪工場で低脂肪乳の原料に使われた
    • [132]黄色ブドウ球菌の毒素エンテロトキシンによる被害者は13,420人
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号「学習しない会社 雪印乳業の朽ちたブランド」
    • [130]2000年3月の停電事故で冷却装置が3時間停止し原料乳が常温放置された
    • [133]1955年の八雲工場事件と同じ黄色ブドウ球菌による二度目の大規模食中毒
    • [135]6月30日に被害者が145人から3,572人へ激増
    • [136]7月1日の会見で工場長が洗浄不足を明かし石川哲郎社長が絶句した
    • [137]7月4日夜の会見を「私は寝ていないんだ」と打ち切った
    • [138]7月6日に辞意表明、7月28日に9月就任予定の西紘平を前倒し登板
  • 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]雪印事件の波紋 組織を覆う機能不全 虚構のブランド「雪印」漂流するトップブランドの行方」
    • [134]回収した低脂肪乳の再利用で開封作業の一部が屋外で行われていた
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「[企業レポート]再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
    • [139]全国8工場の閉鎖と全従業員の15%にあたる1,000人の削減
    • [144]売上は事故直後の8割減から2001年6月に3割減まで回復
    • [145]バターやチーズは近畿圏でシェアトップに戻った
    • [146]2001年3月期は売上が予想を100億円以上下回り最終赤字が70億円膨らんだ
    • [147]2001年3月に「毎日骨太MBP」を前倒し発売した
    • [148]販売促進費に頼らない提案型マーケティングへの切り替えを課題とした
  • 週刊東洋経済 2000年10月7日号「[TopNews]世界ブランドの介添えで窮地脱出もくろむ雪印 ネスレの狙いはコア事業?」
    • [140]2000年度の連結最終赤字は475億円
    • [141]2000年10月 ネスレ日本と業務提携の検討で合意(対象はヨーグルト・乳酸菌飲料等)
    • [142]提携検討の対象分野はヨーグルトや乳酸菌飲料などの乳製品
    • [143]牛乳類・バター・チーズのコア事業は提携検討の範疇から外し自主再建を掲げた

雪印食品の牛肉偽装とグループの解体

信頼の回復が進みかけた2002年1月23日、子会社の雪印食品がBSE対策の国産牛肉買い上げ制度を悪用し[149]、安価な輸入牛肉を国産と偽って交付金を不正に受給していた[150]ことが新聞報道で明らかになった。食中毒事件から1年半での二度目の不祥事で、今度は法を犯した詐欺だった[151]。消費者の反発は前回に増して激しく、雪印食品は2002年4月末に解散した[152]。西紘平氏は前回のように行政の安全宣言で下落が反転する機会は得られないと見て[153]、事件から10日後の2月5日、他社の資本を受け入れると記者会見で表明した[154]。当初はネスレを筆頭株主に迎える構想を描いたが[155]、外資の酪農参入を嫌う農林水産省と自民党の農林族議員が難色を示し[156]、この案は退けられた。

    • [149]2002年1月23日 雪印食品の牛肉偽装が朝日・毎日新聞の報道で発覚
    • [150]安価な輸入牛肉を国産とすり替えて交付金を不正受給した詐欺事件
    • [152]2002年4月末 雪印食品が解散
  • 日経ビジネス 2002年4月22日号「敗軍の将、兵を語る 西紘平氏[雪印乳業社長]それでも雪印は復活する」
    • [151]牛肉偽装は法を犯した事件で前回の食中毒とは性質が異なった
    • [153]安全宣言のような反転の機会が得られないと西紘平は判断した
    • [154]2002年2月5日 事件から10日で他社資本の受け入れを会見で表明
    • [155]当初はネスレを筆頭株主に迎える構想だった
  • 週刊東洋経済 2003年12月6日号「[ニュース最前線]メグミルク迷走 八方塞がりの「国策牛乳」 寄り合い所帯に不協和音」
    • [156]外資の酪農参入を嫌う農林水産省と自民党農水議員が難色を示した

代わって浮上した相手が全国農業協同組合連合会[157]であった。2月20日には農林中央金庫が交渉の議長役に就き[158]、3月28日に発表した経営再建策では、全農を筆頭株主に迎え、伊藤忠商事にも資本参加を求めて300億円の増資を要請した[159]。市乳や医薬品など多くの事業を本体から切り離し、育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと、事業ごとに提携先を探す内容だった[160]。西氏は業界3位に入らなければ適正な利益は確保できないと述べ[161]、シェア5〜6位のアイスクリーム事業が50年にわたり赤字を出し続けてきた[162]ことを挙げた。雪印乳業本体はチーズ・バターなどの乳製品メーカーとして残し、「チーズ1000億円構想」に挑むとした[163]

  • 日経ビジネス 2002年4月22日号「敗軍の将、兵を語る 西紘平氏[雪印乳業社長]それでも雪印は復活する」
    • [157]ネスレ案に代わり全国農業協同組合連合会が提携相手として浮上
    • [158]2002年2月20日 農林中央金庫が交渉の議長役に就いた
    • [160]育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと提携
    • [161]業界3位に入らなければ適正な利益は確保できないと西紘平は述べた
    • [162]シェア5〜6位のアイスクリーム事業は50年にわたり赤字だった
    • [163]本体はチーズ・バターの乳製品メーカーとして残し「チーズ1000億円構想」に挑む
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「[企業レポート]経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
    • [159]2002年3月28日の再建策で全農を筆頭株主とし伊藤忠にも資本参加を求め300億円の増資を要請

財務の傷も深く、2002年3月期の連結売上高1兆1,647億円に対し、経常損失は353億円、当期純損失は717億円に達した[164]。雪印食品の清算にともなう損失を含む特別損失に加え、繰延税金資産192億円の取り崩しが重なった[165]ためである。連結株主資本645億円では債務超過に陥るため、土地再評価法による差額金384億円を計上[166]して回避した。本体が抱える有利子負債は約1,800億円にのぼり、うち1,300億円が銀行借り入れだった[167]。資本金278億円を98%減資して欠損金の補填に充て、300億円の債務免除と200億円の債務の株式化[168]を受ける計画を立てた。6月27日の株主総会で旧取締役8人は総退陣し、社長は西紘平氏から執行役員だった高野瀬忠明[169]へ交代した。

  • 雪印乳業 有価証券報告書(第56期)【主要な経営指標等の推移】
    • [164]2002年3月期 連結売上高1兆1,647億円・経常損失353億円・当期純損失717億円
  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「[特集]決算書に強くなる 雪印乳業 巨額赤字で金融支援要請へ 深すぎる事件の傷跡」
    • [165]雪印食品の清算損失を含む特別損失と繰延税金資産192億円の取り崩し
    • [166]連結株主資本645億円・土地再評価差額金384億円の計上で債務超過を回避
    • [168]資本金278億円を98%減資し300億円の債務免除と200億円の債務株式化を計画
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「[企業レポート]経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
    • [167]本体の有利子負債約1,800億円のうち1,300億円が銀行借入
  • 週刊東洋経済 2002年7月13日号「[主役脇役]雪印乳業 執行役員から社長に急登板」
    • [169]2002年6月27日の株主総会で旧取締役8人が総退陣し高野瀬忠明が社長に就任
    • [149]2002年1月23日 雪印食品の牛肉偽装が朝日・毎日新聞の報道で発覚
    • [150]安価な輸入牛肉を国産とすり替えて交付金を不正受給した詐欺事件
    • [152]2002年4月末 雪印食品が解散
  • 日経ビジネス 2002年4月22日号「敗軍の将、兵を語る 西紘平氏[雪印乳業社長]それでも雪印は復活する」
    • [151]牛肉偽装は法を犯した事件で前回の食中毒とは性質が異なった
    • [153]安全宣言のような反転の機会が得られないと西紘平は判断した
    • [154]2002年2月5日 事件から10日で他社資本の受け入れを会見で表明
    • [155]当初はネスレを筆頭株主に迎える構想だった
    • [157]ネスレ案に代わり全国農業協同組合連合会が提携相手として浮上
    • [158]2002年2月20日 農林中央金庫が交渉の議長役に就いた
    • [160]育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと提携
    • [161]業界3位に入らなければ適正な利益は確保できないと西紘平は述べた
    • [162]シェア5〜6位のアイスクリーム事業は50年にわたり赤字だった
    • [163]本体はチーズ・バターの乳製品メーカーとして残し「チーズ1000億円構想」に挑む
  • 週刊東洋経済 2003年12月6日号「[ニュース最前線]メグミルク迷走 八方塞がりの「国策牛乳」 寄り合い所帯に不協和音」
    • [156]外資の酪農参入を嫌う農林水産省と自民党農水議員が難色を示した
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「[企業レポート]経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
    • [159]2002年3月28日の再建策で全農を筆頭株主とし伊藤忠にも資本参加を求め300億円の増資を要請
    • [167]本体の有利子負債約1,800億円のうち1,300億円が銀行借入
  • 雪印乳業 有価証券報告書(第56期)【主要な経営指標等の推移】
    • [164]2002年3月期 連結売上高1兆1,647億円・経常損失353億円・当期純損失717億円
  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「[特集]決算書に強くなる 雪印乳業 巨額赤字で金融支援要請へ 深すぎる事件の傷跡」
    • [165]雪印食品の清算損失を含む特別損失と繰延税金資産192億円の取り崩し
    • [166]連結株主資本645億円・土地再評価差額金384億円の計上で債務超過を回避
    • [168]資本金278億円を98%減資し300億円の債務免除と200億円の債務株式化を計画
  • 週刊東洋経済 2002年7月13日号「[主役脇役]雪印乳業 執行役員から社長に急登板」
    • [169]2002年6月27日の株主総会で旧取締役8人が総退陣し高野瀬忠明が社長に就任

市乳分社と乳製品専業化をへた統合

グループ解体の再建策は本体からの相次ぐ事業分離として実行され、2001年10月には冷凍食品事業を雪印冷凍食品として切り出した[170]。2002年10月には育児品事業をビーンスターク・スノーへ承継させ、アイスクリーム事業をロッテスノーへ営業譲渡[171]した。2003年1月には市乳事業を全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合して日本ミルクコミュニティ株式会社へ承継させ[172]、全農が4割を出資して筆頭株主となった[173]。牛乳のシェアでは明治乳業を抜いて国内首位に立ち、赤いパッケージの「メグミルク」が4つ目のブランド[174]として打ち出された。統合した3社は従業員の3分の1にあたる1,000人を削減[175]した。

  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [170]2001年10月 冷凍食品事業を切り離し雪印冷凍食品を設立
    • [171]2002年10月 育児品事業をビーンスターク・スノーへ承継、アイスクリーム事業をロッテスノーへ営業譲渡
    • [172]2003年1月 会社分割により市乳事業を日本ミルクコミュニティへ承継
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「[時々刻々]乳業業界 雪印農協連合が誕生 新ブランドも迫力不足 問われる非牛乳事業の実力」
    • [173]全農が4割を出資して筆頭株主となり牛乳シェアで明治乳業を抜き国内首位
    • [174]牛乳シェアで明治乳業を抜き国内首位となり4ブランド目に「メグミルク」を打ち出した
    • [175]統合3社は従業員の3分の1にあたる1,000人を削減

事業を切り出したあとの連結売上高は、2002年3月期の1兆1,647億円から2004年3月期には3,181億円へ縮んだ[176]。同期に経常利益33億円、当期純利益14億円を計上して黒字へ浮上し[177]、2005年3月期以降は売上高2,800億〜2,900億円台で経常利益67億〜126億円を稼ぐ体質に戻り[178]、復配も果たした[179]。2005年5月には大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止[180]した。一方、市乳を引き受けた日本ミルクコミュニティは発足初年度の2003年度に132億円の営業赤字を出して債務超過に陥り[181]、工場閉鎖と物流・営業拠点の再編をへて2004年度に黒字化し、2006年に農林中央金庫の支援で債務超過を脱した[182]

  • 雪印乳業 有価証券報告書(第56期)【主要な経営指標等の推移】
    • [176]連結売上高は2002年3月期1兆1,647億円から2004年3月期3,181億円へ縮小
    • [177]2004年3月期 経常利益33億円・当期純利益14億円で黒字転換
  • 雪印乳業 有価証券報告書(第59期)【主要な経営指標等の推移】
    • [178]2005年3月期以降 売上高2,800億〜2,900億円台・経常利益67億〜126億円
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「乳業 日本ミルクと経営統合 雪印、乳業回帰の茨道」
    • [179]事業リストラの結果2003年度に黒字浮上し復配も果たした
    • [181]日本ミルクコミュニティは2003年度に132億円の営業赤字で債務超過
    • [182]工場閉鎖と物流・営業拠点の再編で2004年度に黒字化、2006年に農林中金の支援で債務超過を脱した
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [180]2005年5月 大阪証券取引所市場第一部の上場廃止

2009年10月、雪印乳業は市乳を担ってきた日本ミルクコミュニティと経営統合し、共同持株会社の雪印メグミルク株式会社を設立して[183]東京証券取引所と札幌証券取引所へ株式を上場した[184]。雪印乳業の株式は統合にともない上場を廃止[185]された。2008年度の業績を両社で単純合算すると売上高5,250億円、営業利益120億円となり、2位の森永乳業に迫った[186]。乳製品に特化した雪印乳業の原料調達先は北海道のホクレンだけだったが、全国13工場を持つ日本ミルクコミュニティは9つの生産者団体と取引しており[187]、統合で川上への交渉力が増した[188]。2011年4月、雪印メグミルクが雪印乳業と日本ミルクコミュニティを吸収合併し[189]、1950年に上場した雪印乳業株式会社は解散した[190]

  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「乳業 日本ミルクと経営統合 雪印、乳業回帰の茨道」
    • [183]2009年10月 日本ミルクコミュニティと経営統合し共同持株会社「雪印メグミルク」を設立
    • [186]2008年度の単純合算で売上高5,250億円・営業利益120億円、2位森永乳業に肉迫
    • [187]雪印乳業の原料調達先はホクレンのみ、日本ミルクは全国13工場で9つの生産者団体と取引
    • [188]規模拡大で川上への発言力が増した
    • [184]雪印メグミルクは東証・札証に株式を上場し雪印乳業株式は上場廃止となった
    • [185]統合にともない雪印乳業の株式は上場廃止
    • [189]2011年4月 雪印メグミルクが雪印乳業と日本ミルクコミュニティを吸収合併
    • [190]吸収合併により1950年上場の雪印乳業株式会社は解散した
  • 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [170]2001年10月 冷凍食品事業を切り離し雪印冷凍食品を設立
    • [171]2002年10月 育児品事業をビーンスターク・スノーへ承継、アイスクリーム事業をロッテスノーへ営業譲渡
    • [172]2003年1月 会社分割により市乳事業を日本ミルクコミュニティへ承継
    • [180]2005年5月 大阪証券取引所市場第一部の上場廃止
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「[時々刻々]乳業業界 雪印農協連合が誕生 新ブランドも迫力不足 問われる非牛乳事業の実力」
    • [173]全農が4割を出資して筆頭株主となり牛乳シェアで明治乳業を抜き国内首位
    • [174]牛乳シェアで明治乳業を抜き国内首位となり4ブランド目に「メグミルク」を打ち出した
    • [175]統合3社は従業員の3分の1にあたる1,000人を削減
  • 雪印乳業 有価証券報告書(第56期)【主要な経営指標等の推移】
    • [176]連結売上高は2002年3月期1兆1,647億円から2004年3月期3,181億円へ縮小
    • [177]2004年3月期 経常利益33億円・当期純利益14億円で黒字転換
  • 雪印乳業 有価証券報告書(第59期)【主要な経営指標等の推移】
    • [178]2005年3月期以降 売上高2,800億〜2,900億円台・経常利益67億〜126億円
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「乳業 日本ミルクと経営統合 雪印、乳業回帰の茨道」
    • [179]事業リストラの結果2003年度に黒字浮上し復配も果たした
    • [181]日本ミルクコミュニティは2003年度に132億円の営業赤字で債務超過
    • [182]工場閉鎖と物流・営業拠点の再編で2004年度に黒字化、2006年に農林中金の支援で債務超過を脱した
    • [183]2009年10月 日本ミルクコミュニティと経営統合し共同持株会社「雪印メグミルク」を設立
    • [186]2008年度の単純合算で売上高5,250億円・営業利益120億円、2位森永乳業に肉迫
    • [187]雪印乳業の原料調達先はホクレンのみ、日本ミルクは全国13工場で9つの生産者団体と取引
    • [188]規模拡大で川上への発言力が増した
    • [184]雪印メグミルクは東証・札証に株式を上場し雪印乳業株式は上場廃止となった
    • [185]統合にともない雪印乳業の株式は上場廃止
    • [189]2011年4月 雪印メグミルクが雪印乳業と日本ミルクコミュニティを吸収合併
    • [190]吸収合併により1950年上場の雪印乳業株式会社は解散した

雪印乳業の沿革1925〜2011年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
有限責任 北海道製酪販売組合設立
保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に改組
「雪印」商標の制定と品質・冷蔵物流への投資による道産バターのブランド化安値と偽名に沈んでいた道産バターを、黒澤酉蔵はいかにして品質ブランドへ引き上げようとしたか 詳細を読む★★★
廉売合戦への不追従と、空売りによる相場水準の引き戻し投げ売りの渦中で「値下げしない」を貫いた酪連は、どのように崩れた相場を取り戻したか 詳細を読む★★★
雪印バターをロンドンへ初輸出(英国国立検査所の検査で22カ国中4位)
嵯峨野会談で酪連と森永・明治・極東の練乳3社の統合が合意★★
酪連と森永・明治・極東の道内乳業を束ねた「北海道興農公社」の設立狭い北海道で競い合う乳業各社を、黒澤酉蔵氏はなぜ一つの公社へまとめようとしたか 詳細を読む★★★
黒澤酉蔵氏が社長に就任
北海道酪農協同に商号変更
過度経済力集中排除法の指定を受ける★★
集中排除法による会社分割指令への抵抗と、裏金を拒んだ指定解除運動原料乳を一手に集めた北酪社を、黒澤酉蔵氏はなぜ正攻法だけで守ろうとしたのか 詳細を読む★★★
東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
強化乳「雪印ビタミルク」発売
「6Pチーズ」大量生産化
八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒事件★★
札幌酪農牛乳を合併
「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」発売
「雪印コーヒー」発売
大阪証券取引所市場第一部に株式上場
「雪印ネオ マーガリンソフト」発売
プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売
「ストリングチーズ」発売
雪印乳業集団食中毒事件(大阪工場製低脂肪乳、被害13,420人)★★
子会社・雪印食品の牛肉偽装事件が発覚★★
雪印食品が解散を決議
全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合し日本ミルクコミュニティを設立★★
日本ミルクコミュニティと経営統合し共同持株会社「雪印メグミルク」を設立★★
雪印乳業が解散・消滅
出典・参考

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