明治乳業 の歴史

創業

1917年

創業者

馬越恭平

創業地

静岡県三島町

直近売上高(2011/3)

7,075億円

長期業績と転換点(2002/3〜2011/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1917年に静岡と札幌で始まった煉乳会社が、1940年に明治の名を継いだのか
A 明治グループが乳業を二つ抱えていたためである。1917年12月、馬越恭平氏を初代社長として資本金150万円で設立された極東煉乳は、静岡県三島町と札幌市に工場を置いて煉乳と育児用ミルクを作った。一方、のちの明治製菓にあたる東京菓子も1920年に房総煉乳を吸収して乳製品に入っている。1940年12月、この重複は極東煉乳の側へ寄せられた。新しい会社を作ったのではなく、極東煉乳が商号を明治乳業へ改め、明治製菓の乳製品部門の経営を引き受けている。法人としては、いまも1917年の会社が続いている。
Q なぜ1990年に、年250億円を売る主力ブランドを自ら手放したのか
A ボーデンの条件が、製造だけを請け負う立場への後退だったためである。米ボーデンとの提携で、明治乳業はレディボーデンを軸にアイスクリーム・チーズ・マーガリンを扱い、ボーデンブランドは1990年3月期に250億円を売っていた。総売上高3,921億円の6%にあたる。乳製品の輸入自由化を前に、ボーデンは自社主導の拠点で生産販売を行い、日本の商慣習と保冷輸送を明治に任せる案を示す。中山悠社長はこれを受けず、5月末に断った。家庭用高級アイスクリーム市場の6割を占めるブランドと引き換えに、競合品を出せない制約を外している
Q なぜ2000年に乳酸菌を機能で売る道へ進み、それでも2009年に統合を選んだのか
A 一つの商品が当たっても、会社全体の規模は変わらなかった。2000年に発売したLG21は、胃で生き抜く乳酸菌をうたって初年度に80億円を売った。目標の30億円に対して3倍近く、乳製品では20億から30億円でヒットとされる世界である。それでも連結売上高は2002年3月期の7,140億円から2009年3月期の7,114億円まで7,000億円台の前半で動かなかった。菓子と医薬を持つ明治製菓との統合に合意したのは2008年9月で、その後の11月から12月にかけて飼料高騰による生乳価格の引き上げと牛乳の再値上げが続いている

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1917年〜 北の生乳を消費地へ運ぶ会社として ── 極東煉乳の設立と明治系という出自

  1. 1917年極東煉乳を設立(明治乳業の前身)
  2. 1928年「明治牛乳」を発売
  3. 1935年明治製糖が極東煉乳の過半数の株式を取得
  4. 1938年東京・大阪に乳製品工場を設置

明治乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

三島と札幌に工場を置いた煉乳会社

明治乳業の法人は、1917年12月に設立された極東煉乳から続いている。資本金150万円、工場は静岡県三島町と札幌市の二か所で、札幌市外には軽川牧場を持った。生乳の産地である北海道と、消費地に近い静岡へ、工場を分けて置いた。当時の乳製品業界で名の挙がる会社は、極東煉乳・北海道煉乳・明治製菓・森永製菓・北海道製酪販売組合の五者であった。煉乳と育児用ミルクが主な製品で、生乳をそのまま売る市乳の事業はまだ小さい。1938年には東京と大阪にも工場を設け、二つの大消費地へ供給する体制を整えている。 [1][2][3]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [1]極東煉乳は1917年12月に資本金150万円で設立され、静岡県三島町と札幌市に乳製品工場、札幌市外に軽川牧場を設けた
    • [3]1938年に東京および大阪に工場を設けた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「その他食品 概説」
    • [2]昭和初頭の乳製品業界の主要メーカーは極東煉乳・北海道煉乳・明治製菓・森永製菓・北海道製酪販売組合の五者である

経営は楽ではなかった。森永乳業の大野勇氏が後年に書いたところでは、大正期の育児用ミルクは極東煉乳や北海道煉乳も作っていたが、規格に届かない品はすべて森永に持ち込まれ、森永製菓がこれを買い上げてキャラメルの原料にしていた。昭和の初めには極東煉乳の江別工場が森永に売られている。森永側の評価額は5、6千円だったが、河井専務が黙って3万円を出したところ、極東の岩波専務と一日で話がまとまったという。買い手が付けば工場をすぐ手放す状態にあった。育児用ミルクという難しい製品を抱えながら、資金の面では余裕を欠いていた。 [4][5]

  • 私の履歴書 経済人20(1986年)大野勇
    • [4]大正期の育児用ミルクで極東煉乳・北海道煉乳の不適格品はすべて森永に持ち込まれ、森永製菓が買い上げてキャラメルにした
    • [5]昭和初期に森永が極東煉乳の江別工場を買収した際、森永側の評価額5〜6千円に対し河井専務が3万円を出して一日で話がまとまった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [1]極東煉乳は1917年12月に資本金150万円で設立され、静岡県三島町と札幌市に乳製品工場、札幌市外に軽川牧場を設けた
    • [3]1938年に東京および大阪に工場を設けた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「その他食品 概説」
    • [2]昭和初頭の乳製品業界の主要メーカーは極東煉乳・北海道煉乳・明治製菓・森永製菓・北海道製酪販売組合の五者である
  • 私の履歴書 経済人20(1986年)大野勇
    • [4]大正期の育児用ミルクで極東煉乳・北海道煉乳の不適格品はすべて森永に持ち込まれ、森永製菓が買い上げてキャラメルにした
    • [5]昭和初期に森永が極東煉乳の江別工場を買収した際、森永側の評価額5〜6千円に対し河井専務が3万円を出して一日で話がまとまった

明治系という出自を、資料はどこまで書いているか

極東煉乳が明治系に入った時点は、はっきりしている。1935年12月、当時3大乳業会社の一つに数えられていた極東煉乳の過半数の株式を、明治製糖が取得した。会長には明治製菓専務の有島健助氏が就き、経営そのものは明治製菓に任されている。設立から18年を経ての傘下入りであり、1917年の時点で明治製糖が出資したわけではない。もっとも、まったく縁がなかったわけでもない。同じ1917年の4月、明治製糖は房総煉乳へ資本参加している。乳業をめぐる明治製糖の関心は、極東煉乳が生まれたのと同じ年に始まっていた。 [6]

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」
    • [6]明治乳業は極東煉乳の設立年月日(1917年12月)を会社設立の日としており、法人の連続性は二次資料でも確認できる

もう一つの傍証は、販売の側にある。1920年11月に明治製糖と明治製菓の販売機関として設立された明治商店は、砂糖・酒精・ビートパルプ・菓子・乳製品・食品缶詰を扱った。設立時の取扱品目に、すでに乳製品が入っている。一方、のちに明治製菓となる東京菓子も1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に入り、グループの内側には乳業が二つ並んだ。極東煉乳が煉乳と育児用ミルクを、東京菓子改め明治製菓が房総煉乳から引き継いだ設備をそれぞれ持つ状態である。この重複が、1940年に一つへ束ねられる下地になった。 [7][8]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [7]明治商店は1920年11月に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立され、砂糖・酒精・ビートパルプ・菓子・乳製品・食品缶詰類を扱った
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」「明治製菓」
    • [8]房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手したのは1920年12月だが、当時の商号は東京菓子で、明治製菓への改称は1924年9月である(日本会社史総覧「房総煉乳は20年12月に東京菓子に吸収合併され、東京菓子の練乳部門と位置づけされた」)
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」
    • [6]明治乳業は極東煉乳の設立年月日(1917年12月)を会社設立の日としており、法人の連続性は二次資料でも確認できる
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [7]明治商店は1920年11月に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立され、砂糖・酒精・ビートパルプ・菓子・乳製品・食品缶詰類を扱った
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」「明治製菓」
    • [8]房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手したのは1920年12月だが、当時の商号は東京菓子で、明治製菓への改称は1924年9月である(日本会社史総覧「房総煉乳は20年12月に東京菓子に吸収合併され、東京菓子の練乳部門と位置づけされた」)

1940年〜 戦時に二度手放した設備を、戦後に買い戻す ── 明治乳業の発足と再建

  1. 1940年商号を明治乳業に変更し、明治製菓の乳製品部門の経営を受任
  2. 1940年東京・芝の料亭「嵯峨野」で北海道の乳業再編を協議
  3. 1941年北海道の全工場を北海道興農公社へ現物出資
  4. 1943年明治製菓の乳製品部門を全面譲受
  5. 1945年東京・千葉の事業を統制会社へ現物出資
  6. 1946年大阪工場にペニシリン製造設備を新設
  7. 1949年日本乳製品ほか3社の営業を譲受

明治乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

嵯峨野会談から、明治乳業への商号変更まで

発端は1940年1月にあった。北海道酪農義塾を率いる黒沢酉蔵氏のもとを町村敬貴氏が訪ね、酪連と煉乳各社が折り合わない現状を「こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と説いた。両名は道庁長官宅へ向かい、町村氏が森永・極東・明治の各社を歴訪する。同年8月17日、東京・芝の料亭「嵯峨野」で会談が持たれ、戸塚道庁長官が興北農業総合公社の案を示した。明治の相馬半治氏は、公社が製糖事業もあわせて行うべきだと修正を求めている。この協議が、翌1941年3月の北海道興農公社の発足につながった。 [9][10][11]

  • 私の履歴書 経済人17(1981年)黒沢酉蔵
    • [9]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢酉蔵宅を訪ね「酪連と練乳各社は折り合いが悪い。こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と述べた
    • [10]1940年8月17日に東京・芝の料亭「嵯峨野」で会談が開かれ、戸塚道庁長官が興北農業総合公社案を提示し、相馬半治が製糖事業もあわせて行うべきだと修正を求めた
    • [11]北海道興農公社は1941年3月17日に発足した

1940年12月、極東煉乳は商号を明治乳業に改めた。新しい会社を作ったのではなく、法人はそのままである。同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を引き受け、1943年9月にはこれを全面的に譲り受けた。あわせて明治製糖の牧場も引き継いでいる。臨時資金調整法のもとでグループ内に分散していた乳業を1社へ束ねる再編で、明治製菓は菓子と食品に、明治乳業は乳製品に事業が分かれた。まず経営を預かり、次に資産を譲り受ける順で移した。乳業専業の会社としての形は、ここで整った。社名は明治を名乗ったが、法人としては極東煉乳がそのまま続いた。設立から数えれば、この時点で23年の会社であった。 [12][13]

  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1940年12月に極東煉乳が商号を明治乳業へ変更し、同時に明治製菓の乳製品部門の経営を受任した
    • [13]1943年9月に明治製菓の乳製品部門を全面譲受し、明治製糖の二牧場も引き継いだ。譲受月は有報【沿革】と八十年史「明治製菓」(十八年九月)が9月、八十年史「明治乳業」のみ十八年四月とする
  • 私の履歴書 経済人17(1981年)黒沢酉蔵
    • [9]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢酉蔵宅を訪ね「酪連と練乳各社は折り合いが悪い。こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と述べた
    • [10]1940年8月17日に東京・芝の料亭「嵯峨野」で会談が開かれ、戸塚道庁長官が興北農業総合公社案を提示し、相馬半治が製糖事業もあわせて行うべきだと修正を求めた
    • [11]北海道興農公社は1941年3月17日に発足した
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1940年12月に極東煉乳が商号を明治乳業へ変更し、同時に明治製菓の乳製品部門の経営を受任した
    • [13]1943年9月に明治製菓の乳製品部門を全面譲受し、明治製糖の二牧場も引き継いだ。譲受月は有報【沿革】と八十年史「明治製菓」(十八年九月)が9月、八十年史「明治乳業」のみ十八年四月とする

北海道と首都圏、二度にわたって手放した生産設備

明治乳業は、発足から5年のあいだに生産設備を二度手放している。一度目は1941年、北海道興農公社の設立に際して北海道所在の全工場を現物出資した。生乳の主産地に置いた拠点を失い、以後は本州の乳製品事業に専念した。二度目は1945年2月で、東京牛乳乳製品統制会社の設立に都内のミルクプラント全部を、千葉酪業の設立に千葉県内の事業全部を、いずれも現物出資した。主産地と主要市場の設備を、続けて失った。残ったのは静岡と大阪、そして明治製菓から譲り受けた設備であった。いずれも自ら望んだ処分ではない。北海道は道庁主導の公社設立、東京と千葉は統制会社の設立にともなうもので、戦時の政策がそのまま生産基盤を削った。 [14][15]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [14]1941年の北海道興農公社設立に際して北海道所在の全工場を現物出資し、以後は本州の乳製品事業に専念した
    • [15]1945年2月に東京牛乳乳製品統制会社の設立で都内のミルクプラント全部を、千葉酪業の設立で千葉県内の事業全部を現物出資した

敗戦の直後、明治乳業は乳業とは別の製品にも手を伸ばした。1946年10月、大阪工場にペニシリンの製造設備を新設して各種ペニシリンの生産を始めている。同じ月に明治製菓も川崎工場でペニシリンの製造を開始しており、グループの2社が別々の工場で同時に抗生物質へ入った。発酵と培養の設備を持つ会社が、原料の入らない本業の代わりに医薬へ回る。統制下の各社が採った道であった。もっとも明治乳業にとってこれは副業にとどまる。明治製菓が抗生物質を全社の柱へ育てたのに対し、こちらは乳業へ戻った。本業の再建は、別の方法で進んだ。 [16][17]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [16]1946年10月に大阪工場へペニシリン製造設備を新設し、各種ペニシリンの製造を開始した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [17]明治製菓も1946年10月から川崎工場でペニシリンの製造を開始しており、グループ2社が別々の工場で抗生物質に参入した(八十年史「明治製菓」は「二十一年十月から川崎工場において製造を開始」と記す。11月はフォスター博士来朝の月)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [14]1941年の北海道興農公社設立に際して北海道所在の全工場を現物出資し、以後は本州の乳製品事業に専念した
    • [15]1945年2月に東京牛乳乳製品統制会社の設立で都内のミルクプラント全部を、千葉酪業の設立で千葉県内の事業全部を現物出資した
    • [16]1946年10月に大阪工場へペニシリン製造設備を新設し、各種ペニシリンの製造を開始した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [17]明治製菓も1946年10月から川崎工場でペニシリンの製造を開始しており、グループ2社が別々の工場で抗生物質に参入した(八十年史「明治製菓」は「二十一年十月から川崎工場において製造を開始」と記す。11月はフォスター博士来朝の月)

合併で買い戻した首都圏の市乳基盤

再建の方法は、手放した設備を買い戻すことであった。1949年11月に日本乳製品ほか3社の営業を譲り受け、1950年12月には東京乳業と湘南牛乳を吸収合併する。この東京乳業は、5年前に都内のミルクプラントを現物出資して作られた統制会社そのものであった。1951年12月には朝日乳業を合併し、千葉の事業も取り戻した。1950年2月に飲用牛乳の統制令が撤廃されると、市乳は自由競争の商品になった。1952年に烏山工場、1954年に戸田橋工場を新設し、1953年には帯広・三川・月形の三工場で北海道にも再び足場を築いている。 [18][19][20]

  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1949年11月に日本乳製品ほか3社の営業を譲受し、1950年12月に東京乳業と湘南牛乳を吸収合併、1951年12月に朝日乳業を合併した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [19]1950年2月に飲用牛乳統制令が撤廃された
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [20]1952年に烏山工場、1954年に戸田橋工場を新設し、1953年に帯広・三川・月形の三工場で北海道へ再進出した

この時期の業界再編は、持株会社整理委員会が主導した。北海道酪農協同に本州の四工場を明治と森永へ譲渡させ、社名を雪印乳業と改めさせた再編である。委員会にいた野田岩次郎氏によれば、明治と森永から「雪印は北海道内だけでやるべきで本州に進出すべきでない」という陳情があったが、これはしりぞけられ、三社で競争させる方針が採られた。市乳の上位10社の生産集中度は1950年の29%から1955年に37%へ上がっている。1955年3月期の明治乳業は全国に41の工場と牧場を持ち、売上高は43億5,000万円であった。同じ期の明治製菓が52億円、前年度の雪印乳業が90億円である。 [21][22][23]

  • 私の履歴書 経済人20(1986年)野田岩次郎
    • [21]持株会社整理委員会は北海道酪農協同に本州の四工場を明治・森永へ譲渡させて雪印乳業とし、明治・森永の「雪印は本州に進出すべきでない」という陳情をしりぞけて三社の競争を勧めた
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [22]市乳の上位10社の生産集中度は1950年29%から1955年37%へ上昇した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [23]1955年3月期の明治乳業は全国41の工場・牧場を擁し売上高43億5,000万円、同期の明治製菓は52億円、前年度の雪印乳業は90億円である
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1949年11月に日本乳製品ほか3社の営業を譲受し、1950年12月に東京乳業と湘南牛乳を吸収合併、1951年12月に朝日乳業を合併した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [19]1950年2月に飲用牛乳統制令が撤廃された
    • [22]市乳の上位10社の生産集中度は1950年29%から1955年37%へ上昇した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
    • [20]1952年に烏山工場、1954年に戸田橋工場を新設し、1953年に帯広・三川・月形の三工場で北海道へ再進出した
    • [23]1955年3月期の明治乳業は全国41の工場・牧場を擁し売上高43億5,000万円、同期の明治製菓は52億円、前年度の雪印乳業は90億円である
  • 私の履歴書 経済人20(1986年)野田岩次郎
    • [21]持株会社整理委員会は北海道酪農協同に本州の四工場を明治・森永へ譲渡させて雪印乳業とし、明治・森永の「雪印は本州に進出すべきでない」という陳情をしりぞけて三社の競争を勧めた

1960年〜 借りたブランドで売った20年 ── 米ボーデンとの提携と、その解消

  1. 1969年紙パック入り「明治牛乳ピュアパック」を発売
  2. 1971年米ボーデンとの提携で高級アイスクリームを発売
  3. 1972年明治商事の乳製品部門の営業を譲受
  4. 1973年「明治ブルガリアヨーグルト」を発売
  5. 1976年冷凍食品分野に参入
  6. 1978年「明治ステップ」を発売
  7. 1990年米ボーデンとの20年間の提携を解消

明治乳業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

レディボーデンという借りものの主力商品

明治乳業が米国のボーデン社と組んだのは1970年代の初めである。高級アイスクリームが1971年、スライスチーズが1973年に出た。ボーデン社側の記録は商標権の許諾を1972年、チーズの合弁を1974年とし、開始年は資料によって振れる。アイスクリーム・チーズ・マーガリンの3事業で、アイスクリームとマーガリンは明治乳業が生産と販売を担ってボーデンへ技術使用料を払い、チーズは折半出資の明治ボーデンが明治乳業の設備を借りて生産する形をとった。高級アイスクリームの「レディボーデン」は日本に入って13か月で年20億円を売り、1990年3月期にはボーデンブランド全体で250億円に達している。総売上高3,921億円の6%にあたる内訳は、アイスクリーム120億円、チーズ80億円、マーガリン50億円であった。 [24][25][26]

  • 証券 1987年10月号「新規上場会社紹介 Borden, Inc.(ボーデン・インク)」
    • [24]ボーデン社の記録【日本との関係】は「1972年 明治乳業に対しレディーボーデンの商標権許諾及びアイスクリームに関する技術援助を開始」「1974年 明治乳業と合弁でのチーズの製造・販売を開始」とする。日本会社史総覧も高級アイスクリーム71年・スライスチーズ73年とし、1970年開始と明記した資料は無い(日経ビジネスは「20年にわたる提携関係」とのみ記す)
  • 証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」
    • [25]レディボーデンは日本導入から13か月で年間約20億円を売り上げた
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [26]1990年3月期のボーデンブランド年間売上高は250億円で総売上高3,921億円の6%、内訳はアイスクリーム120億円・チーズ80億円・マーガリン50億円である

首位のシェアを支えていたのは、ボーデンから借りたブランドであった。1990年3月期のアイスクリームの出荷額シェアは明治15.3%で、森永と並ぶ首位である。家庭用の高級アイスクリーム市場は10年ほど年率10%で伸び、そのうち約6割をレディボーデンが占めた。ただし提携している間は、競合する製品を自社で開発できない。明治ボーデンは折半出資でありながら、チーズ工場は明治乳業の持ちもので、送り込む社長だけが代表権を持つ実質的な子会社であった。明治ボーデン社長を兼ねた福田耕作専務は、経営を任された以上は赤字配当にできないと、明治乳業が犠牲を払って黒字にしてきたと語っている。 [27][28]

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [27]1990年3月期のアイスクリーム出荷額シェアは明治15.3%・森永15.3%・雪印14.1%で、家庭用高級アイス市場は年率10%程度で伸びレディボーデンが約6割を占めた
    • [28]明治ボーデン社長を兼務した福田耕作専務は「経営を任された以上、赤字配当はできないと、明治乳業が犠牲を払って黒字化してきた」と述べた
  • 証券 1987年10月号「新規上場会社紹介 Borden, Inc.(ボーデン・インク)」
    • [24]ボーデン社の記録【日本との関係】は「1972年 明治乳業に対しレディーボーデンの商標権許諾及びアイスクリームに関する技術援助を開始」「1974年 明治乳業と合弁でのチーズの製造・販売を開始」とする。日本会社史総覧も高級アイスクリーム71年・スライスチーズ73年とし、1970年開始と明記した資料は無い(日経ビジネスは「20年にわたる提携関係」とのみ記す)
  • 証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」
    • [25]レディボーデンは日本導入から13か月で年間約20億円を売り上げた
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [26]1990年3月期のボーデンブランド年間売上高は250億円で総売上高3,921億円の6%、内訳はアイスクリーム120億円・チーズ80億円・マーガリン50億円である
    • [27]1990年3月期のアイスクリーム出荷額シェアは明治15.3%・森永15.3%・雪印14.1%で、家庭用高級アイス市場は年率10%程度で伸びレディボーデンが約6割を占めた
    • [28]明治ボーデン社長を兼務した福田耕作専務は「経営を任された以上、赤字配当はできないと、明治乳業が犠牲を払って黒字化してきた」と述べた

提携の傍らで進めた自社製品と、事業領域の拡張

提携の外側では、自社の製品も出している。1973年12月に発売した明治ブルガリアヨーグルトは、砂糖を加えない酸味のあるプレーンヨーグルトで、国内にヨーグルトという分野そのものを作った。1976年4月には冷凍食品に参入し、1978年6月には幼児向け粉ミルクの明治ステップを発売した。1980年代の前半には甘さ離れが進み、アイスクリームに似た味でカロリーと甘さを半分にうたうフローズンヨーグルトが明治乳業と雪印乳業から発売されて、若い女性に受けた。1986年3月には医薬関連の分野にも入っている。広げた先は、いずれも乳と乳酸菌から離れない領域であった。 [29][30][31]

  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1973年12月に明治ブルガリアヨーグルトを発売した
    • [31]1976年4月に冷凍食品分野へ、1986年3月に医薬関連分野へ参入し、1978年6月に明治ステップを発売した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [30]1980年代前半に甘さ離れが進み、カロリーと甘さを半分とうたうフローズンヨーグルトが明治乳業や雪印乳業から発売されて若い女性に人気を集めた

販売の側も整えている。1972年3月、グループの明治商事が持っていた乳製品の営業を譲り受け、製造と販売を一つの会社に収めた。同じ年の4月には明治製菓も明治商事を合併し、グループ全体が製販一体へ動いた。1983年には牛乳の宅配を立て直す取り組みを始め、宅配でしか買えないカルシウム強化牛乳などの専用商品を作った。量販店の店頭で値段を競う市乳とは別の売り場を、自前で持とうという判断である。売れる量は一軒ずつしか増えず、成果が出るまでに10年近くを要した。それでもこの地味な商売は、20年後に市場の4割を占める規模へ育っている。 [32][33]

  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1972年3月に明治商事の乳製品部門の営業を譲受し、同年4月には明治製菓も明治商事を合併した
  • 週刊東洋経済 2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」
    • [33]1983年に牛乳宅配を立て直すプロジェクトを始め、宅配専用商品(カルシウム強化牛乳など)を作った
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1973年12月に明治ブルガリアヨーグルトを発売した
    • [31]1976年4月に冷凍食品分野へ、1986年3月に医薬関連分野へ参入し、1978年6月に明治ステップを発売した
    • [32]1972年3月に明治商事の乳製品部門の営業を譲受し、同年4月には明治製菓も明治商事を合併した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [30]1980年代前半に甘さ離れが進み、カロリーと甘さを半分とうたうフローズンヨーグルトが明治乳業や雪印乳業から発売されて若い女性に人気を集めた
  • 週刊東洋経済 2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」
    • [33]1983年に牛乳宅配を立て直すプロジェクトを始め、宅配専用商品(カルシウム強化牛乳など)を作った

ニューヨークで交わされた2日間の交渉

提携の相手方が変わった。1986年にロメオ・ベントレス氏が最高経営責任者に就くと、ボーデンは乳製品の大手から買収と売却を重ねてパスタとスナックの会社へ姿を変える。1987年12月には明治ボーデンへ代表権を持つ副社長として松山和夫氏が送り込まれた。もと明治乳業の社員である。福田専務は、この時から意見がことごとく対立して意思決定が難しくなったと振り返っている。乳製品の輸入自由化が進むなか、日本市場で売上をもっと伸ばせるはずだと考えるボーデンと、従来どおり日本側が主体で運営したい明治乳業との差は開いていった。 [34][35]

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [34]1986年に最高経営責任者へ就任したロメオ・ベントレスのもとで、ボーデンは乳製品トップメーカーから買収と売却を重ねて米国有数のパスタ・スナックメーカーへ変貌した
    • [35]1987年12月にボーデンが明治ボーデンへ代表権を持つ副社長として松山和夫(もと明治乳業勤務)を送り込み、以後意見が対立して意思決定が難しくなった

1990年4月、ニューヨークのボーデン本社で2日間の交渉が持たれた。ベントレス会長の最終提案は、ボーデンが中心になって作る拠点で生産と販売を行い、日本の商慣習で難しい部分や保冷輸送を明治に任せるというものであった。事実上、明治乳業を下請けに置く内容である。前年6月に常務の末席から8人を越えて社長へ就いていた中山悠氏は、これを受けなかった。5月末に正式に断り、20年続いた提携は順次解けていく。マーガリンは1990年10月、アイスクリームは1991年8月、チーズは1992年4月に契約が切れた。年250億円の売上と、市場の6割を占めるブランドを手放す判断であった。 [36][37][38]

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [36]1990年4月にニューヨークのボーデン本社で2日間の交渉が行われ、ベントレス会長の最終提案はボーデン中心の拠点で生産販売し明治には商慣習面と保冷輸送を任せるものだった
    • [38]1990年5月末に正式に拒否し、マーガリンは1990年10月・アイスクリームは1991年8月・チーズは1992年4月に契約が切れて提携は全面解消した
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号「新社長登場 中山悠氏(明治乳業)」
    • [37]中山悠は1989年6月に常務の末席から8人を飛び越えて明治乳業社長に就任した(52歳・前社長の島村靖三より13歳若い)
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [34]1986年に最高経営責任者へ就任したロメオ・ベントレスのもとで、ボーデンは乳製品トップメーカーから買収と売却を重ねて米国有数のパスタ・スナックメーカーへ変貌した
    • [35]1987年12月にボーデンが明治ボーデンへ代表権を持つ副社長として松山和夫(もと明治乳業勤務)を送り込み、以後意見が対立して意思決定が難しくなった
    • [36]1990年4月にニューヨークのボーデン本社で2日間の交渉が行われ、ベントレス会長の最終提案はボーデン中心の拠点で生産販売し明治には商慣習面と保冷輸送を任せるものだった
    • [38]1990年5月末に正式に拒否し、マーガリンは1990年10月・アイスクリームは1991年8月・チーズは1992年4月に契約が切れて提携は全面解消した
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号「新社長登場 中山悠氏(明治乳業)」
    • [37]中山悠は1989年6月に常務の末席から8人を飛び越えて明治乳業社長に就任した(52歳・前社長の島村靖三より13歳若い)

1991年〜 自社ブランドと乳酸菌の19年 ── 提携解消から明治製菓との統合まで

  1. 1994年軽井沢工場が竣工
  2. 2000年「明治プロビオヨーグルトLG21」を発売
  3. 2002年「明治おいしい牛乳」を全国発売
  4. 2003年宅配チャネルを再構築
  5. 2008年酪農危機を受けて牛乳の再値上げを決定
  6. 2009年明治製菓との共同株式移転により明治ホールディングスの完全子会社となる
  7. 2009年東京証券取引所・名古屋証券取引所での株式の上場を廃止

明治乳業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

自社ブランドの立ち上げと、宅配という遅い商売

提携の解消を前に、明治乳業は自社ブランドのアイスクリームを出した。1990年9月発売の「AYA〈彩〉」で、レディボーデンより高い価格帯を狙っている。ボーデンからは提携中に競合商品を出さない契約に反するとの抗議が書面で届き、のちにニューヨーク連邦地裁へマーガリンの発売差し止めを求める仮処分が申請されたが、これは却下された。1991年に高級アイスの「ブルージェ」、1992年にプロセスチーズの「明治十勝」を出している。福田専務は、開発力のない会社に未来はない、ボーデンブランドへの依存から脱して自分たちのブランドを作るという意欲が社内に感じられるようになったと述べた。 [39][40]

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [39]1990年9月にアイスクリーム「AYA〈彩〉」を発売し、ボーデンから提携中の競合商品発売は契約違反との書面抗議を受けた
    • [40]福田耕作専務は「開発力のない会社に未来はない。ボーデンブランド依存から脱却して自分たちのブランドをつくっていくのだという意欲と熱気が社内に感じられるようになった」と述べた

もう一つ、時間のかかる商売を立て直している。牛乳の宅配は1976年に2万1,000店あった販売店が半減し、契約軒数は1992年の120万軒で底を打った。明治乳業は1983年から宅配でしか買えない専用商品を作り、訪問営業を積み重ねる方針をとる。量販店の1リットル紙パックが200円前後で売られるなか、宅配は200ミリリットル瓶が120円で、価格競争とは別の場所に商売を置いた。2003年には契約が260万軒で市場の4割を占め、2位の森永乳業を引き離している。市乳販売本部の日野正雄氏は、一軒ずつの積み重ねでウルトラCのヒットがない世界だと語った。 [41][42][43]

  • 週刊東洋経済 2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」
    • [41]宅配の販売店数は1976年の2万1,000店をピークに半減し、契約軒数は1992年の120万軒で底を打った
    • [43]市乳販売本部販売店グループ課長の日野正雄は「宅配は一軒一軒の積み重ね。ウルトラCのヒットがない世界です」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」
    • [42]2003年の宅配契約は260万軒で市場の4割を占め、2位の森永乳業(約3割)を上回った。量販店の1L紙パック200円前後に対し宅配は200mL瓶120円である
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
    • [39]1990年9月にアイスクリーム「AYA〈彩〉」を発売し、ボーデンから提携中の競合商品発売は契約違反との書面抗議を受けた
    • [40]福田耕作専務は「開発力のない会社に未来はない。ボーデンブランド依存から脱却して自分たちのブランドをつくっていくのだという意欲と熱気が社内に感じられるようになった」と述べた
  • 週刊東洋経済 2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」
    • [41]宅配の販売店数は1976年の2万1,000店をピークに半減し、契約軒数は1992年の120万軒で底を打った
    • [43]市乳販売本部販売店グループ課長の日野正雄は「宅配は一軒一軒の積み重ね。ウルトラCのヒットがない世界です」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」
    • [42]2003年の宅配契約は260万軒で市場の4割を占め、2位の森永乳業(約3割)を上回った。量販店の1L紙パック200円前後に対し宅配は200mL瓶120円である

乳酸菌を味ではなく機能で売るという道

2000年、明治乳業は胃で生き抜く乳酸菌を使ったヨーグルトを出した。ボーデンの提案を断った中山悠氏は、このとき社長の11年目にあたる。1月27日にピロリ菌と乳酸菌LG21の説明会を開くと、年初に311円だった株価は翌日445円のストップ高となる。2月にテレビ番組でピロリ菌への抗菌作用が紹介され、翌朝の全国紙には胃の写真を背景にした一面広告が載り、株価は668円と1997年以来の高値をつけた。薬事法すれすれの宣伝として厚生省の監視指導課に呼び出されてもいる。3月27日の発売時の目標は年30億円だったが、初年度は80億円を売った。乳製品は20億から30億円で成功とされる世界である。 [44][45][46][47]

  • 明治乳業 有価証券報告書 第128期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [44]中山悠は1989年6月から2003年4月まで明治乳業の社長を務め、1990年のボーデン提携解消も2000年のLG21も在任中の出来事である
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」
    • [45]2000年1月27日のLG21説明会の翌日に株価は311円から445円のストップ高となり、2月17日には668円と1997年来の高値をつけた
    • [46]薬事法すれすれの宣伝手法として2000年2月上旬に厚生省監視指導課へ呼び出された
  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」
    • [47]LG21は2000年3月27日発売で初年度目標30億円に対し80億円を売り上げた。乳製品は20億〜30億円でヒットとされる

売り方は、味ではなく体への働きを説明するものへ変わった。2000年7月に雪印乳業が食中毒事件を起こして乳業への信頼が揺れたなかでも、LG21は伸びている。2002年4月には「明治おいしい牛乳」を全国で発売した。酸素を抜いて風味の劣化を抑える製法とキャップ付きの紙容器を組み合わせ、価格競争に沈んでいた牛乳で、品質を理由に高い値段を選んでもらう売り方を採っている。ただし全社の売上は動かなかった。連結売上高は2002年3月期の7,140億円から2009年3月期の7,114億円まで、7,000億円台の前半で推移している。経常利益は同じ期間に80億円から234億円まで振れ、統合前年は139億円であった。 [48][49]

  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [48]2002年4月に「明治おいしい牛乳」を全国発売した
  • 明治乳業 有価証券報告書
    • [49]連結売上高は2002年3月期7,140億円から2009年3月期7,114億円まで7,000億円台前半で推移し、経常利益は80億円から234億円まで振れて2009年3月期は139億円である
  • 明治乳業 有価証券報告書 第128期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [44]中山悠は1989年6月から2003年4月まで明治乳業の社長を務め、1990年のボーデン提携解消も2000年のLG21も在任中の出来事である
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」
    • [45]2000年1月27日のLG21説明会の翌日に株価は311円から445円のストップ高となり、2月17日には668円と1997年来の高値をつけた
    • [46]薬事法すれすれの宣伝手法として2000年2月上旬に厚生省監視指導課へ呼び出された
  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」
    • [47]LG21は2000年3月27日発売で初年度目標30億円に対し80億円を売り上げた。乳製品は20億〜30億円でヒットとされる
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [48]2002年4月に「明治おいしい牛乳」を全国発売した
  • 明治乳業 有価証券報告書
    • [49]連結売上高は2002年3月期7,140億円から2009年3月期7,114億円まで7,000億円台前半で推移し、経常利益は80億円から234億円まで振れて2009年3月期は139億円である

原料乳の調達が揺らいだ2008年と、統合の決定

2008年、原料乳の調達そのものが揺らいだ。配合飼料の価格は2年前と比べて約6割上がり、生産費に占める飼料の割合は採算ラインの4割に対して6割から7割まで上昇する。沖縄では年内に酪農家の1割が廃業し、その夏は生乳の不足で牛乳が品切れになった。11月に乳業各社が生乳の買い取り価格を15円引き上げ、12月には明治乳業が2009年3月からの出荷価格を1リットルあたり平均10円上げると発表している。同時に希望小売価格を廃止した。安売りが多く、希望小売価格が形だけのものになっていたためであった。 [50][51]

  • 週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」
    • [50]配合飼料価格は2年前と比べ約6割上昇し、生産費に占める飼料割合は採算ライン4割に対して6〜7割まで上がった
    • [51]2008年11月に乳業各社が生乳買い取り価格を15円引き上げ、12月に明治乳業は2009年3月からの牛乳出荷価格を1L平均10円値上げすると発表し、あわせて希望小売価格を廃止した

2008年9月、明治乳業と明治製菓は経営統合に合意した。中山氏は2003年4月に会長へ退き、統合の判断は浅野茂太郎社長のもとで行われている。2009年3月に東京証券取引所と名古屋証券取引所での上場を廃止し、翌4月の共同株式移転で明治ホールディングスが発足して、両社はその完全子会社となる。株式移転では明治乳業の1株に共同持株会社の0.117株、明治製菓の1株に0.1株が割り当てられた。1917年の極東煉乳から92年、1949年5月の上場から60年で、独立した会社としての明治乳業が終わっている。もっとも法人は残った。2011年4月、旧明治製菓のフード&ヘルスケア事業を引き継いだうえで商号を株式会社明治へ改める。菓子の名を継いだのは、乳業の側の法人であった。 [52][53][54][55]

  • 明治乳業 有価証券報告書 第128期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [52]中山悠は2003年4月に取締役会長へ退き、浅野茂太郎が同月に取締役社長へ就任した
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [53]2009年3月に東証・名証第一部での上場を廃止し、4月の共同株式移転で明治ホールディングスの完全子会社となった
    • [55]2011年4月に旧明治製菓のフード&ヘルスケア事業を継承し、商号を株式会社明治へ変更した
  • 明治乳業 有価証券報告書 第131期(2009年3月期)「株式移転比率」
    • [54]株式移転比率は明治乳業の普通株式1株に共同持株会社の0.117株、明治製菓の普通株式1株に0.1株である
  • 週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」
    • [50]配合飼料価格は2年前と比べ約6割上昇し、生産費に占める飼料割合は採算ライン4割に対して6〜7割まで上がった
    • [51]2008年11月に乳業各社が生乳買い取り価格を15円引き上げ、12月に明治乳業は2009年3月からの牛乳出荷価格を1L平均10円値上げすると発表し、あわせて希望小売価格を廃止した
  • 明治乳業 有価証券報告書 第128期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [52]中山悠は2003年4月に取締役会長へ退き、浅野茂太郎が同月に取締役社長へ就任した
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [53]2009年3月に東証・名証第一部での上場を廃止し、4月の共同株式移転で明治ホールディングスの完全子会社となった
    • [55]2011年4月に旧明治製菓のフード&ヘルスケア事業を継承し、商号を株式会社明治へ変更した
  • 明治乳業 有価証券報告書 第131期(2009年3月期)「株式移転比率」
    • [54]株式移転比率は明治乳業の普通株式1株に共同持株会社の0.117株、明治製菓の普通株式1株に0.1株である

明治乳業の沿革1917〜2009年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
極東煉乳を設立(明治乳業の前身)★★★
「明治牛乳」を発売★★
明治製糖が極東煉乳の過半数の株式を取得★★★
東京・大阪に乳製品工場を設置★★
東京・芝の料亭「嵯峨野」で北海道の乳業再編を協議★★
商号を明治乳業に変更し、明治製菓の乳製品部門の経営を受任★★★
北海道の全工場を北海道興農公社へ現物出資★★
明治製菓の乳製品部門を全面譲受★★★
東京・千葉の事業を統制会社へ現物出資★★
大阪工場にペニシリン製造設備を新設★★
東京証券取引所に株式を上場
日本乳製品ほか3社の営業を譲受★★
東京乳業と湘南牛乳を吸収合併★★
「ソフトカード明治コナミルク」を発売★★
明治飼糧に資本参加
全国41の工場・牧場を擁し、売上高43億5,000万円に達する★★
紙パック入り「明治牛乳ピュアパック」を発売★★
米ボーデンとの提携で高級アイスクリームを発売★★
明治商事の乳製品部門の営業を譲受★★
「明治ブルガリアヨーグルト」を発売★★★
冷凍食品分野に参入★★
「明治ステップ」を発売★★
ヘルスサイエンス研究所を新設★★
医薬関連分野に参入★★
中山悠が社長に就任★★
米ボーデンとの20年間の提携を解消★★★
アイスクリーム「AYA〈彩〉」を発売★★
軽井沢工場が竣工
「明治プロビオヨーグルトLG21」を発売★★★
「明治おいしい牛乳」を全国発売★★★
宅配チャネルを再構築★★
浅野茂太郎が社長に就任し、中山悠は会長へ
酪農危機を受けて牛乳の再値上げを決定★★
東京証券取引所・名古屋証券取引所での株式の上場を廃止★★
明治製菓との共同株式移転により明治ホールディングスの完全子会社となる★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治乳業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「その他食品 概説」
  • 私の履歴書 経済人20(1986年)大野勇
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治乳業」「明治製菓」
  • 私の履歴書 経済人17(1981年)黒沢酉蔵
  • 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 私の履歴書 経済人20(1986年)野田岩次郎
  • 証券 1987年10月号「新規上場会社紹介 Borden, Inc.(ボーデン・インク)」
  • 証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
  • 週刊東洋経済 2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号「新社長登場 中山悠氏(明治乳業)」
  • 週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」
  • 明治乳業 有価証券報告書 第128期(2006年3月期)【役員の状況】
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」
  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」
  • 明治乳業 有価証券報告書
  • 週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」
  • 明治乳業 有価証券報告書 第131期(2009年3月期)「株式移転比率」

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