台湾領有の当初、日本の糖業は含蜜糖をわずかに産出するにとどまり、内需の大部分は外国産の糖に依存していた[1]。欧米に留学して糖業を科学的に研究し、東京高等工業学校教授と台湾総督府技師を兼ねていた相馬半治氏は、官を辞し、小川錦吉氏ほか数氏とともに1906年12月、資本金500万円をもって台湾に明治製糖株式会社を設立した[2]。本社事務所は台南に置き、わが国で4番目の精製糖会社として発足[3]。設立の地は台湾台南州の麻豆街であり、糖業の権威者であった相馬半治氏が中心となって、日本の糖業を発展させ、その自給を確立することを目的に掲げた[4]。
甘蔗を刈り取って糖に変える設備が動き出すまでには、設立から1年余りを要した。製品が初めて出荷されたのは1908年、麻豆工場からであった[5]。創立以来、相馬半治氏が自ら経営にあたり、有嶋健助氏らがこれを補佐した[6]。原料地に工場を据えた明治製糖は、次に内地の精製設備を手に入れる。1912年1月、横浜精糖株式会社との合併により川崎工場を継承した[7]。台湾で採れた粗糖を内地で精糖に仕上げる二段構えが、この合併で整った。その川崎工場は1923年9月の関東大震災で倒壊し、1924年に再建を終えた[8]。1936年には川崎研究所が完成した[9]。
粗糖だけを売る会社にとどまらないという構想は、1916年10月25日に相馬半治氏が各重役へ送った製菓事業ニ関スル調査書の冒頭に置かれていた[10]。販路拡張の必要から精製糖工場を合併したうえで増設し、角糖機械を新設し、糖蜜についても同じ事由から酒精工場を新設して増設する[11]。次に要るのは氷糖と粉糖の設備であり、さらに一歩を進めて製菓糖果の事業へ着手すべきだという筋道であった[12]。同年12月、明治製糖は砂糖加工業に着手し、資本金150万円の大正製菓株式会社を創立した[13]。創立委員は相馬半治氏と有嶋健助氏が務めた[14]。大正製菓は1917年1月に東京菓子株式会社となって明治製糖が過半数の株を所有し、1924年9月に明治製菓株式会社と改称した[15]。
台湾では工場の新設と同業会社の合併・買収を随時行い、製品は粗糖のほか精糖・アルコール・酵母におよび、私設鉄道も経営した[16]。1920年前後には大和製糖を合併して渓湖工場とし、資本金は3,250万円となった[17]。1927年には新明治製糖を合併して烏樹林・南靖の両工場を加え、資本金は4,800万円に増えた[18]。出資の先は台湾の外にも広がった。1918年に資本金500万円のスマトラ興業株式会社を創立してオランダ領スマトラ島東海岸州キサラン附近でゴム栽培に着手し、翌1919年には資本金50万円の明治護謨工業株式会社を設立した[19]。1920年11月には資本金50万円の明治商店が同系会社として設けられ、有嶋健助氏が社長を務めた[20]。
甘蔗のほかにも原料を求め、明治製糖は北海道と樺太の甜菜へ向かった。1920年に十勝清水へ資本金1,000万円で設立された日本甜菜製糖株式会社は営業不振で経営が困難となり、1922年に同社取締役の原邦造氏から合併の相談があった[21]。相馬半治氏は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮してこれを受諾し、1923年6月に明治製糖へ合併した[22]。これが清水工場である[23]。1931年に起きた明糖事件は1932年に再燃し、1933年に解決をみた[24]。甜菜の原料地はさらに北へも広げ、1935年に王子製紙と協同して資本金500万円の樺太製糖株式会社を創立[25]。北海道では1936年に士別工場を新たに設けた[26]。創立30年にあたる1935年には明治製糖株式会社30年史を発行した[27]。
産糖高は1938年度から1939年度にかけて500万ピクル以上に達した[28]。北海道と樺太には甜菜糖工場を、内地と上海には精糖工場を建設または買収していた[29]。1943年には台東製糖を合併し、資本金は6,100万円となった[30]。同じ年の明治製糖は諸積立金1億円を擁し、蔗糖工場8(圧搾能力16,400トン)、甜菜糖工場2(さい断能力1,300トン)、精製糖工場4(製糖能力1,050トン)、アルコール工場6(醸造能力1,230ヘクトリットル)、私設鉄道546マイル、従業員5,000名を抱える四大製糖会社の一つであった[31]。
明治製糖の出資は砂糖から離れた領域にも及んだ。1938年に株式会社山越工場へ資本および経営参加を行い、1943年に山越機械株式会社と改称した[32]。山越機械は明治製糖川崎工場の一部を借用し、工作機械の製作にあてた[33]。乳業では、1935年12月に明治製糖が極東煉乳株式会社の株の過半数を引き受け、経営には明治製菓があたった[34]。極東煉乳は1940年12月に明治乳業株式会社と改称し、1943年8月に明治製菓の乳製品部門資産の全部と明治製糖の2牧場を譲り受けた[35]。同系の明治商店も1942年6月に明治商事株式会社へ社名を変えた[36]。
戦時統制は内地の工場の稼働を止めた。1943年、明治製糖は川崎・神戸・戸畑の3工場を閉鎖[37]。内地で確保していた甜菜糖の原料地も手放し、1944年に士別工場を北海道製糖株式会社へ現物出資したうえ、1945年には清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した[38]。1943年に2つを数えた甜菜糖工場は、これで明治製糖の手元から消えた[39]。1935年に王子製紙と協同して創立した樺太製糖株式会社も、1944年5月に樺太開発株式会社へ包括譲渡した[40]。1945年8月、終戦により外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った[41]。
終戦とともに旧明治製糖は外地の全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った[42]。本社を台湾に置いていたため内地資産も1945年に連合国の管理下に入り、一切の取引が大蔵大臣の許可を要するものとなった[43]。甘蔗畑も製糖工場も台湾にあり、内地に残ったのは川崎・戸畑・神戸の建屋と、製糖その他の食品工業で積み上げた技術にすぎなかった[44]。その残存設備と技術を生かすため、1946年9月に再開転換事業として製薬業と倉庫業の許可を得て操業を始めた[45]。製薬業は川崎の製薬工場で、転化糖注射薬を中心にザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、家畜の人工受精用薬糖を製造した[46]。倉庫業は川崎と戸畑で主要食糧と専売公社の葉煙草を保管し、神戸ではそのほか輸出入貿易商品も預かった[47]。
1949年8月、旧明治製糖は政令第291号『在外会社の本邦内財産の整理に関する法令』により在外会社の指定を受け、内地資産の整理に入った[48]。1950年8月には、その内地資産を現物出資して資本金3,660万円の明糖株式会社を設立し、製薬業と倉庫業を中心に内地資産の一切を新会社へ移した[49]。新会社の株式は旧明治製糖の株主へ10株につき6株の割合で無償交付された[50]。証券コード2103の法人はこの明糖であって、1906年創立の旧明治製糖とは法人格が別であり、引き継いだのは事業と株主だけである[51]。明糖は1952年1月に株式を上場し、同年5月に社名を明治製糖へ戻した[52]。甜菜糖を担った北海道の清水工場は、それに先立つ1945年に北海道興農工業株式会社へ売却しており、内地に原料地は残っていなかった[53]。
戦後に他の製糖各社が製造を始めるなか、明糖は戦火を受けた工場を抱えて操業を見送り、その間を倉庫業と製薬業で凌いだ[54]。砂糖統制の撤廃に見込みがつくと川崎で急ぎ操業に入り、1951年12月25日、日産原料糖溶解能力235トンで精製糖業へ復帰した[55]。設備費は他社より3分の1安く上がった[56]。短期間で復旧できた理由として、小塚泰一社長は相馬半治氏が築いた信用と全員一致の努力を挙げた[57]。川崎工場長の丹野恒次氏は1919年に東北帝国大学理学部化学科を卒業して入社し、30年を研究所と現場で過ごした[58]。1937年に『砂糖の利用法』で学位を取得し、その研究が戦後の転化糖など医薬品の製造に生きた[59]。糖汁濾過用の硅藻土は、全国20数か所を探して掘り出し、日本産でも使えるものにした[60]。
1952年5月に戸畑工場の再開を決め、同年9月末に復旧工事が完了して溶糖能力250トンで出発した[61]。これと並行して川崎も350トンへ拡張[62]。医薬部門は1952年5月をもって休止し、製薬業そのものも戸畑精糖工場の復旧を機に同年7月で解消した[63]。資本金は1952年2月に1億2,000万円、同年10月に2億5,000万円、1953年4月には5億円まで増えた[64]。増資資金の一部は川崎・戸畑両製糖工場の拡張工事に充てられ、新査定による1日あたりの溶糖能力は830トンとなった[65]。1952年10月から1953年3月までの期の純利益は1億7,000万円、対資本金利益率は7割3分[66]。両工場はその後も数次にわたり拡張され、1955年時点の日産原料糖溶解能力は川崎475トン・戸畑375トンの合計850トンに達した[67]。
1953年10月に宮内庁御用達が復活した[68]。川崎工場では骨炭設備を完成させて合理化を図り、東南アジア方面への輸出も広げた[69]。その川崎工場は川崎駅に近く六郷川を臨む1万3,000坪の敷地で、隣は当時の明治製菓、従業員は200名そこそこ、1人当たり生産高は月200万円を超えた[70]。操業度は常に60%から70%の間にあった[71]。倉庫業は川崎2,422坪・神戸1,910坪・戸畑1,884坪の営業坪数を持ったが、寄託貨物の大半が農産物で、葉煙草の不作や内地米の減収で廻送が減ると集荷に困難を来した[72]。一方、業界は設備能力が過剰で製品価格は不安定な様相にあり、各社間で安定化が協議されていた[73]。国民の砂糖消費量が年間100万トンに達しないのに設備能力は200万トンあり、原糖の手配は3か月前に済ませる必要があった[74]。
半期決算の1955年9月期の売上高は50億8,600万円で、直前の3月期に比べ約6億9,000万円減った[75]。それでも計上利益は4億6,300万円と3月期より1,500万円増え、対資本金利益率18割5分、配当3割を計上した[76]。同期の溶糖実績は川崎31,900トン・戸畑10,956トンの合計42,856トンで、政府の輸入予算が削られたため3月期より6,000トン少ない[77]。減った溶糖量で利益を伸ばせたのは、海外市況が概ね軟調ななかで原糖の買付を有利に運んだことによる[78]。年間の砂糖輸入ワクは80万トンで、その枠内の原糖をいつ、いくらで買うかが利益を左右した[79]。1955年9月時点の大株主は第一生命保険579,168株、住友信託銀行527,548株[80]。総株式数1,000万株のうちには、当時の明治製菓200,000株や明治商事144,000株も並んだ[81]。
砂糖の国内消費が年々増える一方で原糖のほとんどを海外に頼るという事情が、日本の製糖事業を性格づけてきた[82]。総需要量の9割以上を輸入に頼る状態に対し、政府は国内産糖の育成方針を立て、甜菜糖業への保護策として建設資金を低利で貸与する恩典を設けた[83]。明治製糖は1958年2月5日、甜菜糖工場の申請書を農林大臣へ提出[84]。農林省の事務当局が1960年までに甜菜の増産を行うというので、それに合わせて1961年度に公称1,200トンの甜菜糖をつくる計画を立てた[85]。かつて北海道で甜菜の栽培に経験を持っていた[86]が、その仕事を担った清水工場は1945年に手放していた[87]。政府は先に芝浦精糖と北連へ甜菜工場の建設を許可し、1958年10月には芝浦の日産1,200トン工場が操業期に入る運びとなった[88]。
結晶葡萄糖は始めてから1年が経過し、深谷の工場は2トンの試作過程にあった[89]。1年間の研究の結果、政府が売り出そうとする1貫匁185円の澱粉価格では赤字と出た[90]。政府は農産物価格安定法で買い上げた4,000万貫のイモ澱粉を抱え、その金利と倉敷料は1億何千万円に達していた[91]。結晶葡萄糖の甘味は一般の砂糖と比べて75%で、当時の輸入は3,000トン[92]。明治製糖は10トン工場を理想として持っていたものの、すぐに建設する具体案は持たなかった[93]。台湾で砂糖をつくりはじめて軌道に乗るまで何回も減資したときと同じ覚悟がなければ甜菜糖も結晶葡萄糖もやれないと、小塚泰一社長は述べた[94]。
明治製糖の原料は、外から買ってくる原糖だけであった。1963年8月末の輸入自由化までは、割り当てられた原糖を買い、それを白くして売る仕組みであり、供給の面で制約を受けていた[95]。制約のある枠の内側で、売上高は1959年3月期108億円、1960年3月期107億円、1961年3月期121億円、1962年3月期126億円[96]。1959年3月期から1962年3月期までの4期で18億円増えた計算になる。1963年3月期の売上高は134億円、当期純利益は6億円に達した[97]。翌1963年4月の増資で資本金は11億円となった[98]。
しかし自由化は、供給を抑えていた枠そのものを外した。自由化の当時ですでに2割か3割の設備過剰にあり、その後も設備増強と工場新設が相次いだため、精糖各社は10年ほど経たなければフルに稼働しえない設備能力を持つに至った[99]。設備過剰は製品の供給過剰を招き、市価の下落で各社の内容が悪化した[100]。精製糖の輸出は直接費をペイする程度にとどまった[101]。制度がすべて外れたわけではなく、糖価安定法により外国から持ち込む砂糖には調整金がかかり、それが国産糖の育成資金に使われた[102]。明治製糖の売上高は1964年3月期152億円、1965年3月期156億円、1966年3月期144億円[103]。当期純利益は1964年3月期4億円、1965年3月期はほとんど残らず、1966年3月期は6億円の当期損失に転じた[104]。
収入の中身は、原糖を溶かして白くする一本に寄っていた。1966年3月期の売上構成は精糖126億2,371万6千円が87.9%を占め、原糖売却代他6億671万9千円が4.2%、角砂糖5億7,540万円が4.0%、倉庫収入4億6,093万円が3.2%、糖蜜8,934万2千円が0.6%と続いた[105]。株主の側も金融機関が上位に並び、1966年3月時点の大株主は住友信託銀行150万株、日本勧業銀行133万6千株、第一生命保険127万4千株、第一銀行121万4千株[106]。総株式数2,200万株のうち、同じ1966年3月時点では明治製菓の44万株も10位に入った[107]。
1967年3月期の売上高は155億円に伸びた一方、7億円の当期損失を計上した[108]。1966年3月期の6億円に続く2期連続の当期損失である[109]。過剰な能力を抱えたまま数量を追えば市価が崩れるため、業界は生産調整に動いた。相馬敏夫社長は業界団体の会長を務めた2年半のあいだにカルテルを4回実施したが、いずれも効果が上がらなかった[110]。カルテルの期間中も工場の新増設が行われ、市価はかえって下がった[111]。削減を任意に任せれば実行した会社の効果も全般には及ばないと相馬敏夫社長はみていた[112]。日本の砂糖会社は25社も30社もあった[113]。
そこで相馬敏夫社長が示した構造改善案は、業界全体の能力の3割カットを同時かつ普遍的に行うというものだった[114]。期間は3か月から半年とし、各社が同じ基準で同じように犠牲を負担する[115]。この案は受け入れられず、3割減を目標に3年ほどのあいだ各社任意で行い、削減した会社にある程度の補償をするという案が役所に提出された[116]。相馬敏夫社長はその後まもなく業界団体の会長を辞任し、案は実を結ばなかった[117]。英国では1864年に51社あった砂糖会社の統合に60年ほどを要し、テート・アンド・ライルが1924年に成立した[118]。
再編が動かないまま、明治製糖の損益はポンド切下げと社内のコストダウンで持ち直した[119]。1968年3月期は売上高171億円で当期純利益2億円、1969年3月期は177億円で3億円[120]。2期の当期純利益は合わせて5億円で、1966年3月期と1967年3月期の当期損失13億円には届かなかった[121]。借入れによる工場整備は1969年3月中旬で一応終わる見通しにあった[122]。相馬敏夫社長は多角経営が必要だとして数年前に建材へ乗り出し、アルミサッシと畜産を手がけた[123]。それでも精糖の市価が戻らず、1970年3月期は売上高176億円に対し2億円の当期損失を計上した[124]。
1970年3月期の売上構成は精糖143億7,007万4千円が81.6%を占め、角糖9億7,180万1千円が5.5%、原糖7億7,323万9千円が4.4%、倉庫収入7億5,973万7千円が4.3%、液糖5億8,119万円が3.3%、粉糖8,405万4千円が0.5%、糖蜜5,902万9千円が0.3%[125]。1970年3月時点の大株主は山種物産156万8千株、日本勧業銀行148万6千株、第一銀行136万4千株、第一生命保険127万株[126]。同じ1970年3月時点では明治商事109万6千株と明治製菓64万株も名を連ね、総株式数は2,200万株のままであった[127]。
原料の調達も製品の販売も外に置いた明治製糖は、1971年に入って製造そのものを他社と共同で設けた会社へ移した。原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた[128]。1971年1月、明治製糖は三菱商事株式会社および大日本製糖株式会社と共同して、砂糖製造受託会社の東日本製糖株式会社を設立した[129]。東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、明治製糖は川崎工場を閉鎖して売却する手筈にあった[130]。自社の釜を減らす一方で製品の幅は広げ、1972年にはブランデーシュガーを発売した[131]。
売上高は1971年3月期217億円、1972年3月期246億円、1973年3月期313億円と伸びた[132]。増えた売上が利益に届かず、経常利益は1971年3月期2億円から、1972年3月期は1億円の経常損失、1973年3月期は12億9,400万円の経常損失へ振れた[133]。当期純利益も1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の当期損失、1973年3月期は14億円の当期損失[134]。相馬敏夫社長は1969年の対談で、砂糖は付加価値が小さく銘柄商品でもないため、どこかが安く売ればその値段に引っ張られると述べていた[135]。株主への配当は1971年9月期から止まり、以後は無配であった[136]。
1974年、精糖業界は史上空前の砂糖ブームとなり、各社は史上最高の好決算で無配からの有配転換や累積赤字の一掃を実現した[137]。スーパーの店頭から砂糖が消え、1人2袋までの購入制限も起きた[138]。輸入した原糖を溶かして製品にする精製業にとって、製品価格の高騰はそのまま利益に直結した。明治製糖の売上高は1974年3月期の368億円から1975年3月期の521億円へ伸び、1億円の経常損失は21億円の経常利益に変わった[139]。当期損益も1億円の損失から10億円の利益に転じ、1975年3月期には年3円で復配した[140]。1975年3月時点の大株主は明治製菓223万7,000株、第一勧業銀行220万株、三菱商事220万株、明治乳業125万株、東京海上火災121万5,000株、日本甜菜製糖118万株で、総株式数は2,200万株を数えた[141]。
好決算のさなかで明治製糖は原糖の大量買付け契約を率先して行い、とくにオーストラリア産原糖に手を出した[142]。1974年当時の国際砂糖相場は上昇一途で、1キロあたり1,000ポンド相場になるとさえいわれ、明治製糖は250ポンドから200ポンドで買付契約を結んだ[143]。ところが1975年に入ると砂糖ブームは消滅し、国際相場は急落して100ポンドを割った[144]。明治製糖は契約を破棄できず、1976年の時点でもなお高値の原糖を豪州から輸入し続けた[145]。大日本製糖、塩水港製糖、フジ製糖も同じ豪州原糖に手を出し、大日本製糖はキャンセル料10億円を支払った[146]。日新製糖だけは豪州原糖に手を出さず、安い原糖の買付けを一貫した[147]。
原料地を持たない会社にとって、原糖をいつ・いくらで買うかという判断が損益を決めた。豪州以外の高値原糖は1976年3月期で一巡したものの、明治製糖は他社がキャンセルや在庫減らしに走った4月以降も買い続け、原糖コストと製品価格の逆ザヤが拡大した[148]。1976年当時、原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた[149]。解約や引きのばしで罰金を払うか、契約どおり原糖を輸入するか、赤字を覚悟で精糖して販売するか。精糖工業会の事務部長は、その三者にかかる資金を比較してどれが一番安くつくかは企業の判断であり、いずれにせよ膨大な出費になることは変わらないと述べた[150]。
1976年3月期の明治製糖は売上高500億円に対して70億円の経常損失と60億円の税引損失を計上し、6分配当だった前期から無配へ転落した[151]。借入金の総額は66億5,400万円で、うち第一勧業銀行の融資が43億円を占めた[152]。その第一勧業銀行は、1975年8月に原糖代金決済のための協調融資20億円を実施したのを最後に、資金面の援助を打ち切った[153]。融資を完全に止めたわけでも見限ったわけでもないが、元金の確実な回収の目途がなければ貸せないというのが、同行の審査担当課長の説明だった[154]。同じ1976年3月期に台糖は売上高740億円で140億円、三井製糖は売上高820億円で70億円の経常損失を出してともに無配へ転落し、大日本製糖は50億円、塩水港製糖は70億円の大幅欠損を計上した[155]。
川崎工場の閉鎖は1976年に突然持ち上がった案ではない。明治製糖は東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた[156]。しかし石油危機後の砂糖ブームで川崎工場がフル操業となって収益を上げたため、明治製糖は当初予定の閉鎖売却案を引っ込めた[157]。そのブームが消えた1976年には買い手が見つからず、閉鎖すら進められない状態が続いた[158]。会社側が1976年1月に打ち出した合理化策は、その川崎工場の閉鎖から始まった[159]。担当者は、川崎工場の閉鎖売却の方針を絶対に崩さないとした[160]。
合理化策のもう一つの内容は、全従業員の3分の1強にあたる220人の削減だった[161]。労使の団交は連日のように開かれ、組合は経営責任を追及して役員の退陣を要求し、会社は人員合理化を主張して平行線をたどった[162]。組合側は、経営の失敗とミスのつけを従業員におしつけることは絶対に認められないと主張した[163]。熊取谷弥一郎社長が1976年当時の明治製糖を率いていた[164]。日本甜菜製糖や明治製菓など、1975年3月時点で大株主に名を連ねた明治グループの各社は、この時期の明治製糖への資金支援に関与していなかった[165]。
資金をつないだのは三菱商事だった。三菱商事は明治製糖の買掛金と支払手形の5割近くを占める大口債権者で、その額は100億円を突破していた[166]。第一勧業銀行が資金面の援助を打ち切った2か月後の1975年10月以降、三菱商事は明治製糖の赤字資金対策に乗り出した[167]。三菱商事は、他の債権者は別として融資を見限るわけにはいかないとした[168]。もっとも、第一勧業銀行は大日本製糖のメインバンク兼大株主であり、日本甜菜製糖の大株主兼準メイン銀行でもあった[169]。三菱商事も、大幅欠損会社として大日本製糖と新光製糖を抱えていた[170]。
原料を自ら持たない精製業として原糖を買い続けた明治製糖の最後の10年は、設備と会社そのものの整理に充てられた。1980年10月、明治製糖は上場廃止となった[171]。翌1981年2月には、角砂糖やラッキーシュガーなどの生産拠点として千葉工場が操業を始めた[172]。西日本製糖株式会社への経営参加は1983年2月で、同社はのちの関門製糖株式会社にあたる[173]。1984年2月には明糖産業株式会社が設立された[174]。翌3月、明治製糖は営業のすべてを明糖産業株式会社へ譲渡し、解散を決議した[175]。清算の結了は同年8月である[176]。
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|---|---|---|---|---|
| 1906〜1945年台湾台南に興した糖業と四大製糖会社への拡大 | 相馬半治氏らが台南で明治製糖を創立 | ★★★ | ||
| 横浜精糖を合併し川崎工場を継承 | ★★ | |||
| 相馬半治 | 東京菓子を設立(明治製菓の前身) | ★ | ||
| 相馬半治 | 大和製糖を合併 | ★ | ||
| 相馬半治 | 日本甜菜製糖を合併し甜菜糖事業に参入 | ★★ | ||
| 相馬半治 | 関東大震災で川崎工場が倒壊 | ★★ | ||
| 相馬半治 | 川崎工場の再建が完成 | ★ | ||
| 相馬半治 | 新明治製糖を合併 | ★ | ||
| 相馬半治 | 明糖事件が発生(脱税嫌疑) | ★★ | ||
| 北海道に士別製糖所を新設 | ★ | |||
| 川崎研究所が完成 | ★ | |||
| 台東製糖を合併 | ★ | |||
| 戦時統制で川崎・神戸・戸畑の3工場を閉鎖 | ★★ | |||
| 終戦で台湾など外地資産の全てを喪失 | ★★★ | |||
| 大蔵省令83号により在外会社に指定 | ★★ | |||
| 1946〜1958年台湾の原料地を失い川崎で再開した第二会社・明糖 | 倉庫業と製薬業で事業を再開 | ★★ | ||
| 政令291号に基づく内地財産の特殊整理を開始 | ★★ | |||
| 内地資産の現物出資で第二会社の明糖を設立 | ★★★ | |||
| 倉庫業と製薬業による操業の繋ぎと、川崎工場復旧による精製糖業への復帰 1951年12月25日、明糖(旧明治製糖の第二会社。翌1952年5月に明治製糖へ商号復帰)が川崎工場を日産原料糖溶解能力235トンで復旧し、精製糖業へ復帰した経営判断。戦後、他社が次々に製造を再開するなかで操業を見送り、その間を倉庫業と製薬業で凌いだうえでの再開であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 明治製糖に商号変更 | ★★ | |||
| 製薬業を解消 | ★ | |||
| 戸畑工場の復旧が完成 | ★ | |||
| 資本金を5億円に増資 | ★ | |||
| 1959〜1973年1963年の輸入自由化と設備過剰が招いた赤字転落 | 相馬敏夫 | 資本金を11億円に増資 | ★ | |
| 相馬敏夫 | 精製糖業界への設備能力3割削減案の提出と、任意・補償方式への後退 1963年8月末の輸入自由化のあとに膨れ上がった精製糖の設備過剰に対し、明治製糖の相馬敏夫社長が、業界全体の設備能力を同時かつ普遍的に3割削るという構造改善案を業界へ示した経営判断。案は受け入れられず、3年ほどのあいだ各社が任意に削り、削減した会社へ補償を出すという形に改められて役所へ提出された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 相馬敏夫 | 三菱商事・大日本製糖と東日本製糖を設立 | ★★ | ||
| 相馬敏夫 | ブランデーシュガーを発売 | ★ | ||
| 相馬敏夫 | 経常赤字が拡大 | ★★ | ||
| 1974〜1984年豪州原糖の高値買付契約から上場廃止と解散へ | 熊取谷弥一郎 | 株式の上場廃止 | ★★ | |
| 千葉工場が操業を開始 | ★ | |||
| 西日本製糖に経営参加 | ★ | |||
| 受け皿会社として明糖産業を設立 | ★★ | |||
| 三菱商事全額出資の明糖産業への全営業譲渡と、明治製糖の解散 1984年3月、明治製糖が負債を除く営業の一切を三菱商事全額出資の新会社・明糖産業へ譲渡し、臨時株主総会で解散を決議した経営判断。1983年9月中間期で77億円に達した累積赤字を負債ごと旧会社に残し、従業員・取引先・商号・商標は新会社が引き継いだ。大日本製糖も同じ方式で同時に解散した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 清算結了により法人格が消滅 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(明治製糖)