明治製糖:株式の上場廃止と明糖産業への全営業の譲渡
1974年〜史上空前の砂糖ブームと豪州原糖の高値買付契約
1974年、精糖業界は史上空前の砂糖ブームとなり、各社は史上最高の好決算で無配からの有配転換や累積赤字の一掃を実現した。スーパーの店頭から砂糖が消え、1人2袋までの購入制限も起きた。輸入した原糖を溶かして製品にする精製業にとって、製品価格の高騰はそのまま利益に直結した。明治製糖の売上高は1974年3月期の368億円から1975年3月期の521億円へ伸び、1億円の経常損失は21億円の経常利益に変わった。当期損益も1億円の損失から10億円の利益に転じ、1975年3月期には年3円で復配した。1975年3月時点の大株主は明治製菓223万7,000株、第一勧業銀行220万株、三菱商事220万株、明治乳業125万株、東京海上火災121万5,000株、日本甜菜製糖118万株で、総株式数は2,200万株を数えた。
- 実業往来 1976年
- [1]1974年、精糖業界は史上空前の砂糖ブームとなり、各社は史上最高の好決算で無配からの有配転換や累積赤字の一掃を実現した
- [2]砂糖ブームでスーパーの店頭から砂糖が消え、1人2袋までの購入制限も起きた
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [3]明治製糖の売上高は1974年3月期368億円、1975年3月期521億円。経常損益は1974年3月期が1億円の経常損失、1975年3月期が21億円の経常利益
- [5]1975年3月時点の明治製糖の大株主は明治製菓223万7千株・第一勧業銀行220万株・三菱商事220万株・明治乳業125万株・東京海上火災121万5千株・日本甜菜製糖118万株。総株式数は2,200万株
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)/実業往来 1976年「経営失敗で窮地に立つ、名門・明治製糖――労使対立悪化で事態は深刻一途」
- [4]明治製糖の当期損益は1974年3月期が1億円の当期損失、1975年3月期が10億円の当期純利益。1975年3月期に年3円で復配した
好決算のさなかで明治製糖は原糖の大量買付け契約を率先して行い、とくにオーストラリア産原糖に手を出した。1974年当時の国際砂糖相場は上昇一途で、1キロあたり1,000ポンド相場になるとさえいわれ、明治製糖は250ポンドから200ポンドで買付契約を締結した。ところが1975年に入ると砂糖ブームは消滅し、国際相場は急落して100ポンドを割った。明治製糖は契約を破棄できず、1976年の時点でもなお高値の原糖を豪州から輸入し続けた。大日本製糖、塩水港製糖、フジ製糖も同じ豪州原糖に手を出し、大日本製糖はキャンセル料10億円を支払った。日新製糖だけは豪州原糖に手を出さず、安い原糖の買付けを一貫した。
- 実業往来 1976年
- [6]明治製糖は原糖の大量買付け契約を率先して行い、とくにオーストラリア産原糖に手を出した
- [7]1974年当時、国際砂糖相場は上昇一途で1キロあたり1,000ポンド相場になるとさえいわれ、明治製糖は250ポンドから200ポンドで買付契約をした
- [8]1975年に入って砂糖ブームは消滅し、国際相場は急落して100ポンドを割った
- [9]明治製糖は契約を破棄できず、1976年の記事の時点でもなお高値の原糖を豪州から輸入し続けていた
- [10]大日本製糖、塩水港製糖、フジ製糖も豪州原糖に手を出し、大日本製糖はキャンセル料10億円を支払った
- [11]日新製糖だけは豪州原糖に手を出さず、安い原糖の買付けを一貫した
原料地を持たない会社にとって、原糖をいつ・いくらで買うかという判断が損益を決めた。豪州以外の高値原糖は1976年3月期で一巡したものの、明治製糖は他社がキャンセルや在庫減らしに走った4月以降も買い続け、原糖コストと製品価格の逆ザヤが拡大した。選択肢は三つあった。契約を解いたり先延ばしにしたりして違約金を払うか、契約の通りに原糖を買い入れるか、損を承知で精製して売るかである。精糖工業会の宮永事務部長は、どれに最も金がかからないかを見比べて決めるのは企業の側だが、どの道を選んでも出ていく金が巨額になる点は同じだと見ていた。1976年の時点で、輸入される原糖の6割は三菱商事の手を通り、国内での販売は明治商事が一手に担っていた。
- 実業往来 1976年
- [12]豪州以外の高値原糖は1976年3月期で一巡したが、明治製糖は他社がキャンセルや在庫減らしに走った4月以降も買い続け、原糖コストと製品価格の逆ザヤが拡大した
- [13]精糖工業会の宮永事務部長は、キャンセルや引きのばしの罰金、契約通りの原糖輸入、赤字覚悟の精糖販売の三者にかかる資金の比較は企業の判断であり、いずれにせよ膨大な出費になることは変わらないと述べた
- [14]1976年当時、明治製糖の原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた
参考文献[1]-[14]
- 実業往来 1976年
- [1]1974年、精糖業界は史上空前の砂糖ブームとなり、各社は史上最高の好決算で無配からの有配転換や累積赤字の一掃を実現した
- [2]砂糖ブームでスーパーの店頭から砂糖が消え、1人2袋までの購入制限も起きた
- [6]明治製糖は原糖の大量買付け契約を率先して行い、とくにオーストラリア産原糖に手を出した
- [7]1974年当時、国際砂糖相場は上昇一途で1キロあたり1,000ポンド相場になるとさえいわれ、明治製糖は250ポンドから200ポンドで買付契約をした
- [8]1975年に入って砂糖ブームは消滅し、国際相場は急落して100ポンドを割った
- [9]明治製糖は契約を破棄できず、1976年の記事の時点でもなお高値の原糖を豪州から輸入し続けていた
- [10]大日本製糖、塩水港製糖、フジ製糖も豪州原糖に手を出し、大日本製糖はキャンセル料10億円を支払った
- [11]日新製糖だけは豪州原糖に手を出さず、安い原糖の買付けを一貫した
- [12]豪州以外の高値原糖は1976年3月期で一巡したが、明治製糖は他社がキャンセルや在庫減らしに走った4月以降も買い続け、原糖コストと製品価格の逆ザヤが拡大した
- [13]精糖工業会の宮永事務部長は、キャンセルや引きのばしの罰金、契約通りの原糖輸入、赤字覚悟の精糖販売の三者にかかる資金の比較は企業の判断であり、いずれにせよ膨大な出費になることは変わらないと述べた
- [14]1976年当時、明治製糖の原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [3]明治製糖の売上高は1974年3月期368億円、1975年3月期521億円。経常損益は1974年3月期が1億円の経常損失、1975年3月期が21億円の経常利益
- [5]1975年3月時点の明治製糖の大株主は明治製菓223万7千株・第一勧業銀行220万株・三菱商事220万株・明治乳業125万株・東京海上火災121万5千株・日本甜菜製糖118万株。総株式数は2,200万株
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)/実業往来 1976年「経営失敗で窮地に立つ、名門・明治製糖――労使対立悪化で事態は深刻一途」
- [4]明治製糖の当期損益は1974年3月期が1億円の当期損失、1975年3月期が10億円の当期純利益。1975年3月期に年3円で復配した
1976年〜70億円の経常損失と川崎工場閉鎖をめぐる労使対立
1976年3月期の明治製糖は売上高500億円に対して70億円の経常損失と60億円の税引損失を計上し、6分配当だった前期から無配へ転落した。借入金の総額は66億5,400万円で、うち第一勧業銀行の融資が43億円を占めた。その第一勧業銀行は、1975年8月に原糖代金決済のための協調融資20億円を実施したのを最後に、資金面の援助を打ち切った。融資を完全に止めたわけでも見限ったわけでもないが、元金の確実な回収の目途がなければ貸せないというのが、同行の審査担当課長の説明だった。同じ1976年3月期に台糖は売上高740億円で140億円、三井製糖は売上高820億円で70億円の経常損失を計上してともに無配へ転落し、大日本製糖は50億円、塩水港製糖は70億円の大幅欠損を計上した。
- 実業往来 1976年
- [15]明治製糖の1976年3月期は売上高500億円・経常赤字70億円・税引赤字60億円で無配。前年同期は6分配当だった
- [16]明治製糖の借入金総額は66億5,400万円で、うち第一勧業銀行の融資が43億円
- [17]第一勧業銀行は1975年8月に原糖代金決済のための協調融資20億円を実施したのを最後に資金面の援助を打ち切った
- [18]第一勧業銀行審査第二部審査第三課長の榧木氏は、融資を完全にストップしたわけでも見限ったわけでもないが、元金の確実な回収の目途がないと貸せないと述べた
- [19]1976年3月期に台糖は売上高740億円・経常赤字140億円で無配、三井製糖は売上高820億円・経常赤字70億円で無配に転落。大日本製糖は50億円、塩水港製糖は70億円の大幅欠損
川崎工場の閉鎖は1976年に突然持ち上がった案ではない。明治製糖は東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた。しかし石油危機後の砂糖ブームで川崎工場がフル操業となって収益を上げたため、明治製糖は当初予定の閉鎖売却案を引っ込めた。そのブームが消えた1976年には買い手が見つからず、閉鎖すら進められない状態が続いた。会社側が1976年1月に打ち出した合理化策は、その川崎工場の閉鎖から始まった。担当者は、川崎工場の閉鎖売却の方針を絶対に崩さないとした。
- 実業往来 1976年
- [20]明治製糖は東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた
- [21]石油危機後の砂糖ブームで川崎工場がフル操業となって収益を上げたため、明治製糖は当初予定の閉鎖売却案を引っ込めた
- [22]不況期の1976年当時は買い手が見つからず、川崎工場は閉鎖すらおぼつかない状態にあった
- [23]会社側が1976年1月に打ち出した合理化策は、川崎工場の閉鎖と従業員220人の削減だった
- [24]明治製糖の担当者は、川崎工場の閉鎖売却の方針は絶対崩さないと述べた
1976年当時、明治製糖の舵を取っていたのは熊取谷弥一郎社長である。会社が示した合理化策には、もう一つの柱として、従業員全体の3分の1強に当たる220人を減らす案が含まれていた。労使の団体交渉はほぼ連日開かれた。組合が経営の責任を問うて役員の退陣を求める一方、会社は人員の削減を譲らず、両者の主張は交わらなかった。経営の誤りやしくじりから生じた負担を働く者に回すことは断じて受け入れない、というのが組合の立場である。1975年3月の時点で大株主に並んでいた日本甜菜製糖や明治製菓など明治グループの会社は、この時期に明治製糖の資金を支える役には関わっていない。
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [25]1976年版の会社年鑑の役員欄は明治製糖の社長を熊取谷弥一郎と記載している(就任年月の記載は無い)
- 実業往来 1976年
- [26]1976年1月の合理化策は川崎工場の閉鎖と、全従業員の3分の1強にあたる従業員220人の削減だった
- [27]労使の団交が連日のように開かれ、組合は経営責任を追及して役員の退陣を要求し、会社は人員合理化を主張して平行線をたどった
- [28]明治製糖の組合側は、経営者の経営の失敗とミスのつけを従業員におしつけることは絶対認められないとした
- 実業往来 1976年 /会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [29]日本甜菜製糖・明治製菓などの明治グループはノータッチの状態にあった。1975年3月時点で明治製菓・明治乳業・日本甜菜製糖は明治製糖の大株主
参考文献[15]-[29]
- 実業往来 1976年
- [15]明治製糖の1976年3月期は売上高500億円・経常赤字70億円・税引赤字60億円で無配。前年同期は6分配当だった
- [16]明治製糖の借入金総額は66億5,400万円で、うち第一勧業銀行の融資が43億円
- [17]第一勧業銀行は1975年8月に原糖代金決済のための協調融資20億円を実施したのを最後に資金面の援助を打ち切った
- [18]第一勧業銀行審査第二部審査第三課長の榧木氏は、融資を完全にストップしたわけでも見限ったわけでもないが、元金の確実な回収の目途がないと貸せないと述べた
- [19]1976年3月期に台糖は売上高740億円・経常赤字140億円で無配、三井製糖は売上高820億円・経常赤字70億円で無配に転落。大日本製糖は50億円、塩水港製糖は70億円の大幅欠損
- [20]明治製糖は東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた
- [21]石油危機後の砂糖ブームで川崎工場がフル操業となって収益を上げたため、明治製糖は当初予定の閉鎖売却案を引っ込めた
- [22]不況期の1976年当時は買い手が見つからず、川崎工場は閉鎖すらおぼつかない状態にあった
- [23]会社側が1976年1月に打ち出した合理化策は、川崎工場の閉鎖と従業員220人の削減だった
- [24]明治製糖の担当者は、川崎工場の閉鎖売却の方針は絶対崩さないと述べた
- [26]1976年1月の合理化策は川崎工場の閉鎖と、全従業員の3分の1強にあたる従業員220人の削減だった
- [27]労使の団交が連日のように開かれ、組合は経営責任を追及して役員の退陣を要求し、会社は人員合理化を主張して平行線をたどった
- [28]明治製糖の組合側は、経営者の経営の失敗とミスのつけを従業員におしつけることは絶対認められないとした
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [25]1976年版の会社年鑑の役員欄は明治製糖の社長を熊取谷弥一郎と記載している(就任年月の記載は無い)
- 実業往来 1976年 /会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- [29]日本甜菜製糖・明治製菓などの明治グループはノータッチの状態にあった。1975年3月時点で明治製菓・明治乳業・日本甜菜製糖は明治製糖の大株主
1980年〜三菱商事の債権100億円と明糖産業への営業譲渡
明治製糖の買掛金と支払手形のうち5割近くは三菱商事に対するもので、金額は100億円を超えていた。第一勧業銀行が資金面の支えを打ち切ってから2か月後の1975年10月以降、三菱商事は明治製糖の赤字を埋める資金の手当てに乗り出した。資金をつなぐ役は、他の債権者はさておき自社は融資から手を引けないとした三菱商事が担った。ただ、第一勧業銀行の側を見れば、大日本製糖ではメインバンクで大株主、日本甜菜製糖でも大株主で準メインの銀行という立場にあった。三菱商事は、大幅な欠損に陥った大日本製糖と新光製糖も抱えていた。
- 実業往来 1976年
- [30]三菱商事は明治製糖の買掛金・支払手形の5割近くを占める大口債権者で、その額は100億円を突破していた
- [31]三菱商事は1975年10月以降、明治製糖の赤字資金対策を展開した。第一勧業銀行は1975年8月の協調融資20億円を最後に資金面の援助を打ち切った
- [32]三菱商事は、他の債権者は別として融資を見限るわけにはいかないとした
- [33]第一勧業銀行は明治製糖の大株主であると同時に、大日本製糖のメインバンク兼大株主、日本甜菜製糖の大株主兼準メイン銀行でもあった
- [34]三菱商事は大幅欠損会社として大日本製糖・新光製糖を抱えていた
原料を自ら持たない精製業として原糖を買い続けた明治製糖の最後の10年は、設備と会社そのものの整理に充てられた。1980年10月、明治製糖は上場廃止となった。翌1981年2月には、角砂糖やラッキーシュガーなどの生産拠点として千葉工場が操業を開始した。西日本製糖株式会社への経営参加は1983年2月で、同社はのちの関門製糖株式会社にあたる。1984年2月には明糖産業株式会社が設立された。翌3月、明治製糖は営業のすべてを明糖産業株式会社へ譲渡し、解散を決議した。清算の結了は同年8月である。
- DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)
- [35]1980年10月、明治製糖株式会社は上場廃止
- [36]1981年2月、角砂糖・ラッキーシュガー等の生産拠点として千葉工場が操業を開始した
- [37]1983年2月、西日本製糖株式会社(現 関門製糖株式会社)に経営参加した
- [38]1984年2月、明糖産業株式会社を設立した
- [39]1984年3月、営業のすべてを明糖産業株式会社に譲渡し、解散を決議した
- [40]1984年8月に清算を結了した
参考文献[30]-[40]
- 実業往来 1976年
- [30]三菱商事は明治製糖の買掛金・支払手形の5割近くを占める大口債権者で、その額は100億円を突破していた
- [31]三菱商事は1975年10月以降、明治製糖の赤字資金対策を展開した。第一勧業銀行は1975年8月の協調融資20億円を最後に資金面の援助を打ち切った
- [32]三菱商事は、他の債権者は別として融資を見限るわけにはいかないとした
- [33]第一勧業銀行は明治製糖の大株主であると同時に、大日本製糖のメインバンク兼大株主、日本甜菜製糖の大株主兼準メイン銀行でもあった
- [34]三菱商事は大幅欠損会社として大日本製糖・新光製糖を抱えていた
- [35]1980年10月、明治製糖株式会社は上場廃止
- [36]1981年2月、角砂糖・ラッキーシュガー等の生産拠点として千葉工場が操業を開始した
- [37]1983年2月、西日本製糖株式会社(現 関門製糖株式会社)に経営参加した
- [38]1984年2月、明糖産業株式会社を設立した
- [39]1984年3月、営業のすべてを明糖産業株式会社に譲渡し、解散を決議した
- [40]1984年8月に清算を結了した
1974年〜1984年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1974年03月期 | 単体 | 368 | n/a | ▲1 | ▲1 | ▲0.3% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 521 | +41.6% | 21 | 10 | 1.9% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
5件
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)/実業往来 1976年「経営失敗で窮地に立つ、名門・明治製糖――労使対立悪化で事態は深刻一途」
- 実業往来 1976年 /会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
- 実業往来 1976年
- DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)