大日本製糖 の歴史

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創業 1895年
創業者 鈴木藤三郎
創業地 東京・砂村(現 江東区北砂)
創業
1895年12月、鈴木藤三郎氏が東京の砂村(現在の江東区北砂)に資本金30万円で日本精製糖を設立した。1890年に同じ地へ開いた鈴木製糖所が前身で、輸入した粗糖を精製して売る商いである。精製糖は原料の粗糖を輸入に依存し、値も量も外に握られる。日清戦争の講和条約で甘蔗の栽培に適した台湾が日本領となり、1902年に政府が内地の製糖会社へ原料の関税相当額を還付する制度を設けると、台湾に原料地を持つ側が有利になった。1906年11月には大阪の日本精糖を合併して大日本製糖へ商号を改め、方針を内地精糖中心から粗糖中心へ転換している。
決断
事業の輪郭を引いたのは経営者ではなく、そのつどの制度だった。関税還付は5年の時限立法で、実権を握った磯村音介氏と秋山一裕氏は延長と官営化を求めて衆議院議員へ贈賄し、1909年に日糖疑獄として露見して全重役が辞職した。招かれた藤山雷太氏のもとで1927年に東洋製糖、1935年に新高製糖を合併し、台湾へ広がった。敗戦で失ったのは外地の設備だけではない。本店を台湾に置く外地会社であったため、門司工場など国内財産まで連合国側の管理下に入った。1949年8月の政令第291号で在外会社の制限が解けると、翌1950年4月に内地財産だけを承継した第二会社として門司一工場から再出発した
現況
1963年8月の原糖輸入自由化のあと、一度も自力で立て直せなかった。自由化を境に精製糖は慢性的な生産過剰へ転じ、売上高は1963年3月期の185億円から1965年3月期の237億円へ伸びた一方、当期純利益は7億円から11億円の損失へ転じた。1965年からの糖価安定法、不況カルテル、商社による系列化も乱売を止めていない。債務超過は1978年3月の中間決算で約170億円に達し、1983年9月期には資本金39億6,000万円に対して累積赤字が109億円へ積み上がった。株式は1979年4月に上場廃止となっている。
競合
同じ制度に乗った製糖各社が、同じ年にまとめて整理された。1981年の業界は需要が300万トン前後、供給能力が400万トン強で、100万トンの設備が余っていた。大日本製糖は業界シェア7.9%の5位を保ちながら、単独では過剰設備を減らせない。1982年7月に三菱商事と戸畑工場の西日本製糖を設立して共同化を試みたが、1984年2月、三菱商事は100%出資のニットーを設立し、大日本製糖と明治製糖の営業を負債抜きで引き継がせた。負債を除く営業の全部をニットーへ譲渡して解散を決議したのは同年3月で、三菱商事は債権160億円の大半をその期に償却している。原料も価格も制度が決める事業では、会社の帰趨まで債権者が決めた。
長期業績の推移 1950〜1979年
大日本製糖:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1954年3月期1975年3月期

創業ストーリー 鈴木藤三郎氏の精製糖工場から台湾の原料を追った先の日糖疑獄 (1890年〜)

鈴木藤三郎氏の精製糖工場から台湾の原料を追った先の日糖疑獄

創業ストーリー(1)

砂村の鈴木製糖所から資本金1,200万円の合併新会社へ

大日本製糖の事業は、鈴木藤三郎氏が1890年に東京の砂村へ開設した鈴木製糖所に始まる[1]。鈴木藤三郎氏は1895年12月、同じ砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した[2]。この日本精製糖が大日本製糖の母体であり、設立後は増資を重ねた[3]。安政の開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地の糖業は衰え、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入全体の約半分を占めた[4]。1891年には新式製糖機械を備えた甜菜糖の官営工場が北海道に建設されたが、安価な甘蔗糖に押されて1895年に作業を中止し、国内需要の約8割は輸入糖でまかなわれていた[5]

  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [1]1890年、鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設した。
    • [2]1895年12月、東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [3]大日本製糖の歴史は鈴木藤三郎氏が資本金30万円で創設した日本精製糖に始まり、以後増資を重ねた。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [4]安政開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地糖業は衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた。
    • [5]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甜菜糖より安価な甘蔗糖に圧倒されて明治28年に作業中止となり、当時の需要の約8割は輸入糖でまかなっていた。

渋沢栄一氏は1889年に佐野常樹氏を綿業事情の視察でインドへ派遣する際、南洋の糖業事情もあわせて調べるよう依頼した[6]。その報告を受けて渋沢栄一氏は日本にも精製糖業を興すことを決め、1894年2月16日に松本重太郎氏らと精糖事業調査会を組織し、精糖の試験と海外調査にあたった[7]。調査会は1895年12月22日に日本精糖の設立を決議して創業総会を開き、12月26日に設立免許を申請、翌1896年1月15日に免許が下り、渋沢栄一氏は取締役に就いた[8]。日本精糖は精糖用の諸機械を英国から購入し、1898年6月15日に操業を開始した[9]

    • [6]1889年に佐野常樹を綿業事情視察のためインドへ派遣する際、渋沢栄一は南洋の糖業事情についても調査するよう依頼した。
    • [7]その結果を受けて日本にも精製糖業を興そうと考え、1894年2月16日に松本重太郎らとともに精糖事業調査会を組織して精糖試験および海外調査に従事した。
    • [8]1895年12月22日、精糖事業調査会にて日本精糖株式会社の設立を決定して創業総会を開催、12月26日に設立免許を申請し、翌年1月15日に免許が下りて渋沢栄一は取締役に就任した。
    • [9]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。

1906年11月5日、日本精製糖は臨時株主総会で大阪の日本精糖との合併を決議し、新役員を選出した[10]。同月11日に合併が成立し、商号を大日本製糖に改めた[11]。旧日本精糖の創設者である渋沢栄一氏は、新会社では取締役ではなく相談役に推薦され、社長には渋沢栄一氏が推挙した酒匂常明氏が就任した[12]

    • [10]1906年11月5日、日本精製糖株式会社は臨時株主総会において日本精糖株式会社と合併する件を決議し、新役員を選出した。日本精糖は大阪の会社である。
    • [11]同月11日に合併が成立して社名を大日本製糖株式会社と改めた。
    • [12]旧日本精糖の創設者である渋沢栄一は日糖の取締役ではなく相談役の座に置かれ、酒匂常明を社長として推挙した。
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [1]1890年、鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設した。
    • [2]1895年12月、東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [3]大日本製糖の歴史は鈴木藤三郎氏が資本金30万円で創設した日本精製糖に始まり、以後増資を重ねた。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [4]安政開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地糖業は衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた。
    • [5]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甜菜糖より安価な甘蔗糖に圧倒されて明治28年に作業中止となり、当時の需要の約8割は輸入糖でまかなっていた。
    • [6]1889年に佐野常樹を綿業事情視察のためインドへ派遣する際、渋沢栄一は南洋の糖業事情についても調査するよう依頼した。
    • [7]その結果を受けて日本にも精製糖業を興そうと考え、1894年2月16日に松本重太郎らとともに精糖事業調査会を組織して精糖試験および海外調査に従事した。
    • [8]1895年12月22日、精糖事業調査会にて日本精糖株式会社の設立を決定して創業総会を開催、12月26日に設立免許を申請し、翌年1月15日に免許が下りて渋沢栄一は取締役に就任した。
    • [9]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。
    • [10]1906年11月5日、日本精製糖株式会社は臨時株主総会において日本精糖株式会社と合併する件を決議し、新役員を選出した。日本精糖は大阪の会社である。
    • [11]同月11日に合併が成立して社名を大日本製糖株式会社と改めた。
    • [12]旧日本精糖の創設者である渋沢栄一は日糖の取締役ではなく相談役の座に置かれ、酒匂常明を社長として推挙した。
創業ストーリー(2)

台湾領有と関税還付が動かした原料糖への方針転換

甘蔗の栽培に適した台湾を領有したことで、近代工業としての製糖業が生まれた[13]。当時は台湾の開発と、米と砂糖の輸入が累年増えて貿易収支が悪化する米糖問題の解決が、官民の関心を集めた[14]。政府は多額の助成金をもって、台湾に原料甘蔗の生産と砂糖製造を併せ営む大企業の計画を立てた[15]。第3代台湾総督の児玉源太郎氏が三井合名理事長の益田孝氏と、官政界および実業界に勢力のあった井上馨氏の賛助を求めて計画を進め、1900年12月に三井財閥の巨額の出資で台湾製糖が設立された[16]。渋沢栄一氏は台湾製糖の株主になった[17]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [13]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
    • [14]当時、台湾の開発と、米と砂糖の累年の輸入増加による外国貿易尻の悪化という米糖問題の解決が官民の大関心事であった。
    • [15]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建の大企業計画を立てた。
    • [16]第三代の台湾総督児玉源太郎が三井合名の理事長益田孝、官政界および実業界に勢力のあった井上馨らの賛助を求めて計画を進め、明治33年12月に三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された。
    • [17]1900年12月10日に台湾製糖株式会社が創立し、渋沢栄一は株主になった。

大日本製糖は1906年の商号変更とあわせて、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へ転換した[18]。1906年12月には台湾総督府から斗六の原料糖工場の設立許可を得た[19]。1907年、大日本製糖は台湾糖業の開拓に着手した[20]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [18]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。
    • [20]明治40年に台湾糖業の開拓に着手した。
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [19]1906年12月、台湾総督府から斗六の原料糖工場設立許可を取得した。

1907年、大日本製糖は大里製糖所を買収した[21]。大里製糖所は1904年に鈴木商店が設立した工場で、関門海峡沿いの北九州市門司区大里にあり、現在も関門製糖として精糖事業を営んでいる[22]。台湾に原料を求めたのは大日本製糖だけではなく、明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が創設され、大正初期にはさらに4社が設立された[23]。渋沢栄一氏は1906年10月6日の第1回発起人会で明治製糖の創立委員長となり、同年12月29日の創立総会では議長として取締役と監査役を指名し、自らは相談役に就いた[24]

    • [21]1904年に鈴木商店が大里製糖所として設立した工場を、1907年に大日本製糖が買収した。
    • [22]大里製糖所は現在も関門製糖(北九州市門司区大里)として精糖事業を続けており、関門海峡沿いに明治時代のレンガ造りの建屋が残っている。
    • [24]1906年10月6日の第1回発起人会で渋沢栄一は明治製糖の創立委員長となり、同年12月29日の創立総会では議長となって取締役および監査役を指名し、自らは相談役となった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [23]明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に4社の設立をみた。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [13]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
    • [14]当時、台湾の開発と、米と砂糖の累年の輸入増加による外国貿易尻の悪化という米糖問題の解決が官民の大関心事であった。
    • [15]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建の大企業計画を立てた。
    • [16]第三代の台湾総督児玉源太郎が三井合名の理事長益田孝、官政界および実業界に勢力のあった井上馨らの賛助を求めて計画を進め、明治33年12月に三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された。
    • [23]明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に4社の設立をみた。
    • [17]1900年12月10日に台湾製糖株式会社が創立し、渋沢栄一は株主になった。
    • [21]1904年に鈴木商店が大里製糖所として設立した工場を、1907年に大日本製糖が買収した。
    • [22]大里製糖所は現在も関門製糖(北九州市門司区大里)として精糖事業を続けており、関門海峡沿いに明治時代のレンガ造りの建屋が残っている。
    • [24]1906年10月6日の第1回発起人会で渋沢栄一は明治製糖の創立委員長となり、同年12月29日の創立総会では議長となって取締役および監査役を指名し、自らは相談役となった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [18]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。
    • [20]明治40年に台湾糖業の開拓に着手した。
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [19]1906年12月、台湾総督府から斗六の原料糖工場設立許可を取得した。
創業ストーリー(3)

代議士買収とタコ配当が露見した1909年の取引停止

1909年1月11日、経営が行き詰まった大日本製糖では酒匂常明社長以下の役員が相前後して辞職し、渋沢栄一氏も酒匂常明氏を推薦した責任をとって相談役を辞した[25]

渋沢栄一氏は同年3月8日に大株主会から後継役員候補者の選定を請われ、4月27日の臨時株主総会で藤山雷太氏ら7人を指名した[26]。藤山雷太氏は同年4月に取締役社長へ就いた[27]

    • [25]1909年1月11日、大日本製糖は諸製糖会社合同以来経営困難に陥り、酒匂社長以下役員が相前後して辞職し、渋沢栄一も酒匂を推薦した責任をとり相談役を辞職した。
    • [26]1909年3月8日に渋沢栄一は大株主会より後継役員候補者の選定を請われ、4月27日の臨時株主総会において藤山雷太ら7人を指名した。
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [27]1909年4月、藤山雷太氏が取締役社長に就任した。

渋沢栄一氏に招かれた藤山雷太氏と東洋製糖まで取り込んだ台湾の拡張

創業ストーリー(4)

渋沢栄一氏の口説きで社長に就いた藤山雷太氏の台湾開拓

1906年の商号変更の直後から、大日本製糖は台湾から質のよい精製糖が大量に輸入される市況のもとで、大幅な過剰在庫に見舞われた[28]。この経営悪化に政治がからんで日糖疑獄事件へ発展し、1909年1月に酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負って辞職、同年4月には贈収賄をめぐる事件が発覚した[29]。日糖の倒産が産業各界へ波及することを恐れた渋沢栄一氏は、再建を藤山雷太氏に持ちかけて口説いた[30]。藤山雷太氏は1909年4月に取締役社長へ就任し、社業の充実を進めるとともに、このころから台湾に事業地を開拓して海外進展の第一歩を踏んだ[31]。のちに藤山コンツェルンを創設したのも、この藤山雷太社長である[32]

  • 経済展望 1978年
    • [28]1906年の社名変更直後から経営が悪化し、台湾から質のよい精製糖が大量に輸入されて大幅な過剰在庫に見舞われた
    • [30]日糖の倒産が産業各界に波及することを恐れた渋沢栄一氏が、その再建について藤山雷太氏を口説いた。1909年のこと
    • [32]藤山雷太氏は藤山コンツェルンの創設者
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [29]経営悪化に政治がからんで日糖疑獄事件に発展し、社長以下主だった役員が連帯辞任した。1909年1月に酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負い辞職、同年4月に贈収賄をめぐる日糖疑獄事件が発覚
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [31]1909年4月に藤山雷太氏が取締役社長に就任。社業の充実を図るとともに、このころより台湾に事業地を開拓し海外進展の第一歩を踏んだ

日清戦争で甘蔗栽培に適した台湾を領有したことにより、わが国に近代工業としての製糖業が生まれ、明治末期までに明治製糖・塩水港製糖・新興製糖・大日本製糖・新高製糖・帝国製糖が創設され、大正初期にもさらに4社が設立された[33]。原料の産地を押さえた会社が並び立つなか、大日本製糖は台湾の外へも調達先を求め、1919年に朝鮮製糖を合併して朝鮮で甜菜糖業を営んだ[34]。1923年には内外製糖を合併し、ジャワのゲダレン農作会社を所有経営してジャワ糖業へ進出した[35]。台湾糖業を軸に、東南アジアで砂糖・酵母・アルコール・ブタノール・酪農の総合事業を手がけた[36]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [33]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで近代工業としての製糖業が生れた。明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に四社の設立をみた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [34]大正8年、朝鮮製糖を合併し、朝鮮における甜菜糖業を営む
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [35]大正12年、内外製糖を合併し、ジャワのゲダレン農作会社を所有経営してジャワ糖業へ進出した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [36]これによって社業は大きく発展し、台湾糖業を中心に東南アジアに砂糖、酵母、アルコール、ブタノール、酪農など総合事業を営んだ
  • 経済展望 1978年
    • [28]1906年の社名変更直後から経営が悪化し、台湾から質のよい精製糖が大量に輸入されて大幅な過剰在庫に見舞われた
    • [30]日糖の倒産が産業各界に波及することを恐れた渋沢栄一氏が、その再建について藤山雷太氏を口説いた。1909年のこと
    • [32]藤山雷太氏は藤山コンツェルンの創設者
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [29]経営悪化に政治がからんで日糖疑獄事件に発展し、社長以下主だった役員が連帯辞任した。1909年1月に酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負い辞職、同年4月に贈収賄をめぐる日糖疑獄事件が発覚
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [31]1909年4月に藤山雷太氏が取締役社長に就任。社業の充実を図るとともに、このころより台湾に事業地を開拓し海外進展の第一歩を踏んだ
    • [34]大正8年、朝鮮製糖を合併し、朝鮮における甜菜糖業を営む
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [33]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで近代工業としての製糖業が生れた。明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に四社の設立をみた
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [35]大正12年、内外製糖を合併し、ジャワのゲダレン農作会社を所有経営してジャワ糖業へ進出した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [36]これによって社業は大きく発展し、台湾糖業を中心に東南アジアに砂糖、酵母、アルコール、ブタノール、酪農など総合事業を営んだ
創業ストーリー(5)

東洋製糖から中央製糖まで5社を合併した台湾糖業の再編成

1927年7月、大日本製糖は台湾第2位の製糖会社である東洋製糖を合併し、合併後の資本金は5,141万円となった[37]。合併が続いた1934年、1909年から社長を務めた藤山雷太社長が辞任し、子息の藤山愛一郎氏が跡を継いだ[38]。藤山雷太氏の社長在任は1909年から1934年までの25年に及んだ[39]。翌1935年1月には新高製糖を合併し、合併後の資本金は6,197万円に達した[40]。1895年12月に鈴木藤三郎氏が資本金30万円で興した日本精製糖から数えると、大日本製糖の資本金は約40年で200倍を超えた[41]

  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [37]1927年7月、台湾第二位の製糖会社である東洋製糖を合併。合併後の資本金5,141万円
    • [40]1935年1月、新高製糖を合併。合併後の資本金6,197万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [38]昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任し、子息の藤山愛一郎氏が社長に就任した
    • [39]1909年4月に藤山雷太氏が取締役社長に就任。昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任した
    • [41]鈴木藤三郎氏が資本金30万円をもって日本精製糖を創設し、以後増資を重ねた

1940年、大日本製糖は昭和製糖を合併し[42]、同年11月には明治末期までに台湾で創設された帝国製糖も合併して、合併後の資本金は9,617万円となった[43][44]。1943年、中央製糖を合併[45]。合併のたびに資本金は積み上がり、1927年の5,141万円から1935年の6,197万円を経て9,617万円へ達した[46]。1919年の朝鮮製糖から1943年の中央製糖まで、藤山雷太氏の社長就任後に大日本製糖が合併した会社は7社に上った[47]。東洋製糖・新高製糖・昭和製糖・帝国製糖・中央製糖の5社を相次いで取り込み、大日本製糖は台湾糖業の再編成を完了した[48]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [42]昭和15年、昭和製糖を合併
    • [45]昭和18年、中央製糖を合併
    • [47]大正8年に朝鮮製糖、大正12年に内外製糖、昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を合併。1909年に藤山雷太氏が社長に就任
    • [48]昭和二年東洋製糖、十年新高製糖、十五年昭和製糖、十六年帝国製糖、十八年中央製糖を相次いで合併し、台湾糖業の再編成を完了
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [43]1940年11月、帝国製糖を合併。合併後の資本金9,617万円
    • [46]合併後の資本金は東洋製糖5,141万円(1927年7月)、新高製糖6,197万円(1935年1月)、帝国製糖9,617万円(1940年11月)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [44]明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設された

台湾の糖業は、日清戦争後に政府が莫大な助成金を出し、原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を一体で立ち上げたところから始まった[49]。大日本製糖が合併を重ねた時期、その甘蔗作は1940年から1941年にかけて米作におされて作付面積を減らし、さらに暴風の被害が予想されたことから、糖業の再編成が提唱された[50]。当時存続した6社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、大日本製糖・明治製糖台湾製糖・塩水港製糖の4社が残った[51]。4社は製糖45工場とアルコール工場・ブタノール工場・パルプ工場を経営した[52]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [49]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建の大企業計画を立て、明治33年12月に台湾製糖が設立された
    • [50]台湾糖業も、昭和十五、六年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想されて、糖業の再編成が提唱された
    • [51]当時存続した六社のうち、帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、ついに大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社となった
    • [52]四社が、製糖四十五工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [37]1927年7月、台湾第二位の製糖会社である東洋製糖を合併。合併後の資本金5,141万円
    • [40]1935年1月、新高製糖を合併。合併後の資本金6,197万円
    • [43]1940年11月、帝国製糖を合併。合併後の資本金9,617万円
    • [46]合併後の資本金は東洋製糖5,141万円(1927年7月)、新高製糖6,197万円(1935年1月)、帝国製糖9,617万円(1940年11月)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [38]昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任し、子息の藤山愛一郎氏が社長に就任した
    • [39]1909年4月に藤山雷太氏が取締役社長に就任。昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任した
    • [41]鈴木藤三郎氏が資本金30万円をもって日本精製糖を創設し、以後増資を重ねた
    • [42]昭和15年、昭和製糖を合併
    • [45]昭和18年、中央製糖を合併
    • [47]大正8年に朝鮮製糖、大正12年に内外製糖、昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を合併。1909年に藤山雷太氏が社長に就任
    • [48]昭和二年東洋製糖、十年新高製糖、十五年昭和製糖、十六年帝国製糖、十八年中央製糖を相次いで合併し、台湾糖業の再編成を完了
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [44]明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設された
    • [49]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建の大企業計画を立て、明治33年12月に台湾製糖が設立された
    • [50]台湾糖業も、昭和十五、六年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想されて、糖業の再編成が提唱された
    • [51]当時存続した六社のうち、帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、ついに大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社となった
    • [52]四社が、製糖四十五工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
創業ストーリー(6)

日糖興業への改称と敗戦で失った台湾・ジャワの原料地

大正末期から1939年ごろにかけて、わが国の糖業は生産を伸ばし、総生産量の80%以上を台湾産糖が占めた[53]。1939年の産糖は、わが国の糖業が創設されて以来の最高を記録した[54]。しかしこの年、糖価に公定価格制が実施され、糖業は自由の時代から統制の時代へ入った[55]。国内の精製糖工場は1928年に16工場、日産能力2,800屯、年製造高867万担に達していたが、台湾で耕地白糖の製造設備が普及するにつれ、精製糖の価値は相対的に下がり、生産高も年を追って減少した[56]。太平洋戦争の進展に伴う企業整備で、1943年には精製糖工場がほとんど操業中止の状態となった[57]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [53]大正末期から昭和14、5年にかけてわが国糖業は著しい飛躍。総生産量の八〇%以上は台湾産糖が占めていた
    • [54]昭和14年にはわが国糖業が創設されて以来の最高を記録した
    • [55]この華やかな年を契機として、同年糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った
    • [56]国内の精製糖工場は最盛期昭和3年には十六工場を数え、日産能力は二千八百屯、年製造高も八百六十七万担に達した。台湾で耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった
    • [57]太平洋戦争の進展とともに、企業整備に遭い、十八年には殆んど操業中止の状態となった

1943年11月、大日本製糖は資本金を1億5,000万円とし、商号を日糖興業に改めた[58]。1940年11月の帝国製糖合併の時点で9,617万円だった資本金は、3年で1億5,000万円へ増えた[59]。本店を台湾に置いたまま[60]、事業は東亜の各地域へ広がり、内地・朝鮮・台湾・ジャワ・海南島・沖縄・大東島などに20数工場を構え、砂糖・酒精・高級燃料・酵母・デリス・燐鉱石・農林・牧畜の各種事業を営んだ[61]。砂糖は東洋最大の生産力を持ち、日本全領域消費量の約3分の1を供給した[62]。その同じ1943年、国民一般に対する砂糖の配給はまったく途絶え、戦後の1947年まで配給停止が続いた[63]

  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [58]1943年11月、資本金1億5,000万円として日糖興業に商号変更
    • [59]1940年11月に帝国製糖を合併し合併後の資本金9,617万円。1943年11月に資本金1億5,000万円として日糖興業に商号変更
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [60]本社が台湾にあった関係上、連合軍により外地会社として全資産を接収された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [61]事業は東亜の各地域にわたり広く進展し、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に二十数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した
    • [62]特に砂糖は東洋最大の生産力を有し、日本全領域消費量の約三分の一を供給した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [63]国民一般に対する配給も十八年に至りまったく杜絶し、戦後二十二年まで配給停止がつづいた

1945年9月、日糖興業は外地会社の指定を受け、国内財産まで連合国の管理下に移った[64]。海外の事業設備一切は太平洋戦争の終結とともに接収されており、本店を台湾に置く外地会社であったことから、戦災を免れた門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなり、経営はさまざまな制約を受けた[65]。1946年3月には台湾の製糖工場と資産を中国側へ引き渡し、1909年から37年かけて台湾・朝鮮・ジャワに並べた原料地と20数工場は、半年余りで会社の手を離れた[66]。翌1947年1月、藤山愛一郎社長が公職追放の指定を受けた[67]

  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [64]1945年9月、外地会社の指定で国内財産が連合国の管理下に移行
    • [66]1946年3月、台湾の製糖工場と資産を中国側に引渡し
    • [67]1947年1月、藤山愛一郎氏が公職追放の指定を受領
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [65]太平洋戦争終熄とともに、海外の事業設備一切は連合国側に接収されたのみならず、本店を台湾に有する外地会社であったため、現門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなり、経営上種々制約を受けた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [53]大正末期から昭和14、5年にかけてわが国糖業は著しい飛躍。総生産量の八〇%以上は台湾産糖が占めていた
    • [54]昭和14年にはわが国糖業が創設されて以来の最高を記録した
    • [55]この華やかな年を契機として、同年糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った
    • [56]国内の精製糖工場は最盛期昭和3年には十六工場を数え、日産能力は二千八百屯、年製造高も八百六十七万担に達した。台湾で耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった
    • [57]太平洋戦争の進展とともに、企業整備に遭い、十八年には殆んど操業中止の状態となった
    • [63]国民一般に対する配給も十八年に至りまったく杜絶し、戦後二十二年まで配給停止がつづいた
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [58]1943年11月、資本金1億5,000万円として日糖興業に商号変更
    • [59]1940年11月に帝国製糖を合併し合併後の資本金9,617万円。1943年11月に資本金1億5,000万円として日糖興業に商号変更
    • [64]1945年9月、外地会社の指定で国内財産が連合国の管理下に移行
    • [66]1946年3月、台湾の製糖工場と資産を中国側に引渡し
    • [67]1947年1月、藤山愛一郎氏が公職追放の指定を受領
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [60]本社が台湾にあった関係上、連合軍により外地会社として全資産を接収された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [61]事業は東亜の各地域にわたり広く進展し、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に二十数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した
    • [62]特に砂糖は東洋最大の生産力を有し、日本全領域消費量の約三分の一を供給した
    • [65]太平洋戦争終熄とともに、海外の事業設備一切は連合国側に接収されたのみならず、本店を台湾に有する外地会社であったため、現門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなり、経営上種々制約を受けた

門司の一工場から建て直した輸入原糖を精製するだけの会社

創業ストーリー(7)

門司工場のイーストから始めた再出発と法人格の断絶

太平洋戦争が終わると、日糖興業の海外の事業設備一切は連合国側に接収され、本店を台湾に置く外地会社であったため、門司工場その他の国内財産も連合国側の管理下に入った[68]。戦災を免れた唯一の生産設備は門司工場だけで、大日本製糖の前身は往時の醗酵技術を生かし、1946年11月にここでパン用イーストの製造を始めた[69]。1948年4月には原料倉庫を営業倉庫に転用し、1949年4月から糖蜜とイースト残滓による焼酎の醸造に入った[70]。太平洋戦争以来中絶していた粗糖の輸入が再開されると、1949年7月に門司工場で精製糖の製造を戻した[71]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [68]太平洋戦争終熄とともに海外の事業設備一切は連合国側に接収され、本店を台湾に有する外地会社であったため門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなった
    • [70]1948年4月から原料倉庫を活用して営業倉庫を経営し、1949年4月から糖蜜・イースト残渣の利用による焼酎の製造に着手した
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [69]戦災を免れた唯一の生産設備である門司工場で、1946年11月にパン用イーストの製造に着手した
    • [71]太平洋戦争以来中絶していた粗糖の輸入をみるに及び、1949年7月に門司工場で精製糖の製造を開始した

1949年8月に公布された法令で在外会社の制限が解かれ、日糖興業は内地財産の整理に入った[72]。1950年4月7日、その内地残財産5,497万余円の現物出資と藤山愛一郎社長の現金出資引受により、事業の全部を承継する新会社が資本金5,500万円・発行株数110万株で発足した[73]。証券コード2101の法人はこの第二会社を指し、1895年に日本精製糖として発足し台湾に事業地を広げた戦前の大日本製糖とは法人格を異にする[74]。承継したのは内地に残った資産だけで、台湾をはじめとする海外の20数工場は一切含まれない[75]。本社は東京都千代田区神田富山町二、営業目的には精製糖の製造販売、パン用イーストと焼酎の製造販売、物品の保管業務を掲げた[76]。1950年6月26日、110万株を東京証券取引所に上場した[77]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [72]1949年8月、法令の公布により在外会社の制限も解除されることとなった
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [73]旧大日本製糖の新会社たる日糖興業が法令に基きその国内残財産(5,497万余円)の現物出資および現社長藤山愛一郎氏の現金出資引受により事業の全部を承継して1950年4月に新発足した。設立は1950年4月7日、資本金5,500万円、発行株数110万株
    • [76]本社は東京都千代田区神田富山町二。営業目的は「精製糖の製造販売、パン用イースト、焼酎の製造販売、物品の保管業務」
    • [77]新規上場は1950年6月26日、上場株式110万株
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [74]鈴木藤三郎が資本金30万円で日本精製糖を創業。1906年に日本精糖と合併し大日本精糖と改め、1909年に藤山雷太が社長に就任して台湾に事業地を開拓した。1943年に資本金1億5,000万円とし日糖興業と改称
    • [75]日糖興業は内地・朝鮮・台湾・ジャワ・海南島・沖縄・大東島等に20数工場を擁したが、戦後、海外の設備一切は連合国に接収され、1950年4月に承継したのは日糖興業の内地財産である
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [68]太平洋戦争終熄とともに海外の事業設備一切は連合国側に接収され、本店を台湾に有する外地会社であったため門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなった
    • [70]1948年4月から原料倉庫を活用して営業倉庫を経営し、1949年4月から糖蜜・イースト残渣の利用による焼酎の製造に着手した
    • [72]1949年8月、法令の公布により在外会社の制限も解除されることとなった
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
    • [69]戦災を免れた唯一の生産設備である門司工場で、1946年11月にパン用イーストの製造に着手した
    • [71]太平洋戦争以来中絶していた粗糖の輸入をみるに及び、1949年7月に門司工場で精製糖の製造を開始した
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [73]旧大日本製糖の新会社たる日糖興業が法令に基きその国内残財産(5,497万余円)の現物出資および現社長藤山愛一郎氏の現金出資引受により事業の全部を承継して1950年4月に新発足した。設立は1950年4月7日、資本金5,500万円、発行株数110万株
    • [76]本社は東京都千代田区神田富山町二。営業目的は「精製糖の製造販売、パン用イースト、焼酎の製造販売、物品の保管業務」
    • [77]新規上場は1950年6月26日、上場株式110万株
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [74]鈴木藤三郎が資本金30万円で日本精製糖を創業。1906年に日本精糖と合併し大日本精糖と改め、1909年に藤山雷太が社長に就任して台湾に事業地を開拓した。1943年に資本金1億5,000万円とし日糖興業と改称
    • [75]日糖興業は内地・朝鮮・台湾・ジャワ・海南島・沖縄・大東島等に20数工場を擁したが、戦後、海外の設備一切は連合国に接収され、1950年4月に承継したのは日糖興業の内地財産である
創業ストーリー(8)

粗糖割当を待って動かす日産200トンの精製設備

発足時の生産拠点は門司市大里東口の1工場だけで、営業所を横浜・名古屋・大阪・神戸・門司に置いた[78]。主な設備は工場建物6,286坪と倉庫建物3,242坪で、その他を含めた建物は合計11,582坪に及んだ[79]。精製糖の施設は日産200トンを備えていたが、粗糖の割当が極少量かつ不定期のため、一定限度の原料が集まって経済的に機械を運転できる時を待って集中的に操業に入った[80]。1950年5月に受けた1,287トンの割当を6月と7月に加工し、7月末の3,883トンは7月から9月の3カ月に分けて溶かした[81]。同年1月から6月の砂糖生産は月287トンから900トンの間で振れ、設備の稼働率は4.0%から18.0%にとどまった[82]

  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [78]工場は門司市大里東口の1カ所。営業所は横浜・名古屋・大阪・神戸・門司
    • [79]主なる設備は工場建物6,286坪、倉庫建物3,242坪、その他建物を合せ11,582坪
    • [80]精製糖施設は日産200トン。ただし粗糖の割当が極少量かつ不定期のため、一定限度の原料が集って経済的に機械を運転し得る時を待って初めて集中的に操業している状況
    • [81]5月に1,287トンの割当があり6・7月中に加工、7月末に3,883トンの割当があり7・8・9の3カ月に分けて加工
    • [82]1950年1〜6月の砂糖生産(トン)は1月434、2月300、3月900、4月287、6月678。稼働率は8.7/4.0/18.0/5.7/13.5%

発足直後の収益を支えたのは砂糖ではなくパン用イーストで、月産24万ポンドと能力以上に運転され、この部門が収益の重要部分を占めた[83]。焼酎はイーストの残滓からつくる月200石程度の副業にすぎず、ほかに倉庫収入が若干あった[84]。株主は1950年4月7日現在で16,899名を数え、うち15,805名が100株未満、その持株は309,732株で全体の28.16%にあたる[85]。1万株以上の大株主には閉鎖機関の戦時金融金庫・台湾銀行・日本証券・台湾商工が合計90,600株で並び、藤山同族46,587株、協和銀行34,900株、明治生命30,754株が続いた[86]。閉鎖機関の持株は1株76円で全部が従業員へ処分された[87]

  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [83]イーストは最近月産24万ポンドで能力以上に運転されており、「目下のところ此部門が収益の重要部分をなしている」
    • [84]焼酎は大体月200石程度で、イーストの残滓によってつくられる副業的なもの。他に倉庫収入若干あり
    • [85]株主数16,899名、株数1,100,000株(1950年4月7日現在)。うち百株未満の株主が15,805名・309,732株(28.16%)
    • [86]大株主(1万株以上)は閉鎖機関90,600株(戦金、台銀、日証、台湾商工)、藤山同族46,587株、協和銀行34,900株、明治生命30,754株ほか
    • [87]閉鎖機関所有のものは最近全部従業員に76円をもって処分された

粗糖の割当を待つほかない状態は、大日本製糖1社の事情ではない。台湾と南洋群島という原料甘蔗の栽培適地を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入し、それを精製するのみという姿へ変わった[88]。しかも1952年4月に統制が撤廃されるまで、精製糖各社の仕事は政府が輸入した原糖の委託加工にすぎず、割当を受けて加工したうえで公団へ売り戻す仕組みだった[89]。1950年度の日産割当は大日本製糖185トン、名古屋製糖110トン、大阪90トン、九州65トン、横浜55トンなど11社合計700トンで、各社が精製できる量は政府が決めた[90]。砂糖の統制は1951年10月に業務用が外れ、1952年4月の全面撤廃で自由販売へ移った[91]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [88]台湾、南洋群島の原料甘蔗の栽培適地を失ったわが国糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入し、それを精製するのみという姿に変つた
    • [89]それも、1952年4月に統制が撤廃されるまでは、政府が輸入した原糖の委託加工にすぎなかつた/砂糖は政府から輸入粗糖の割当を受け、加工の上公団に売り戻す仕組み
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [90]業界の割当基準(日産)は日糖185トン、名古屋製糖110、大阪90、九州65、横浜55、日東45、芝浦45、台湾40、新光40、富士17、一宮8、計700トン
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [91]砂糖の統制は1951年10月に業務用が、さらに1952年4月には全面的撤廃となり、自由販売となった
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [78]工場は門司市大里東口の1カ所。営業所は横浜・名古屋・大阪・神戸・門司
    • [79]主なる設備は工場建物6,286坪、倉庫建物3,242坪、その他建物を合せ11,582坪
    • [80]精製糖施設は日産200トン。ただし粗糖の割当が極少量かつ不定期のため、一定限度の原料が集って経済的に機械を運転し得る時を待って初めて集中的に操業している状況
    • [81]5月に1,287トンの割当があり6・7月中に加工、7月末に3,883トンの割当があり7・8・9の3カ月に分けて加工
    • [82]1950年1〜6月の砂糖生産(トン)は1月434、2月300、3月900、4月287、6月678。稼働率は8.7/4.0/18.0/5.7/13.5%
    • [83]イーストは最近月産24万ポンドで能力以上に運転されており、「目下のところ此部門が収益の重要部分をなしている」
    • [84]焼酎は大体月200石程度で、イーストの残滓によってつくられる副業的なもの。他に倉庫収入若干あり
    • [85]株主数16,899名、株数1,100,000株(1950年4月7日現在)。うち百株未満の株主が15,805名・309,732株(28.16%)
    • [86]大株主(1万株以上)は閉鎖機関90,600株(戦金、台銀、日証、台湾商工)、藤山同族46,587株、協和銀行34,900株、明治生命30,754株ほか
    • [87]閉鎖機関所有のものは最近全部従業員に76円をもって処分された
    • [90]業界の割当基準(日産)は日糖185トン、名古屋製糖110、大阪90、九州65、横浜55、日東45、芝浦45、台湾40、新光40、富士17、一宮8、計700トン
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [88]台湾、南洋群島の原料甘蔗の栽培適地を失ったわが国糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入し、それを精製するのみという姿に変つた
    • [89]それも、1952年4月に統制が撤廃されるまでは、政府が輸入した原糖の委託加工にすぎなかつた/砂糖は政府から輸入粗糖の割当を受け、加工の上公団に売り戻す仕組み
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [91]砂糖の統制は1951年10月に業務用が、さらに1952年4月には全面的撤廃となり、自由販売となった
創業ストーリー(9)

能力七実績三の外貨割当が招いた3工場935屯の設備競争

京浜地区へ出るため、大日本製糖は横浜市新子安の1万6千坪を昭和電工から買収し、所要資金1億6千万円で新工場の建設に入った[92]。1950年11月に資本金を5,500万円から1億2,000万円へ増額して着工し、1951年7月の竣工とともにイーストと精製糖の製造を始めた[93]。資本金はその後も工場建設に連動し、1951年11月の倍額増資で2億4,000万円、1953年1月の半額無償増資と同年4月の倍額増資を経て7億2,000万円まで積み上がった[94]。1953年7月に堺工場が竣工すると、溶糖能力は門司・横浜・堺の3工場合計で日産935屯となり、業界最高の能力を備えた[95]。イーストも1953年末に横浜・門司両工場合計で月産70万ポンドの設備を完成させ、業界第一の生産力を持つに至った[96]

  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [92]横浜新子安に新工場を建設することとなり、既に昭和電工より敷地1万6千坪を買収済。建設所要資金は大体1億6千万円
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [93]1950年11月、資本金5,500万円を1億2,000万円に増額して横浜工場の建設に着手、1951年7月竣工、イースト及び精製糖の製造を開始
    • [94]1951年11月、倍額増資で資本金2億4,000万円。1953年1月半額無償増資、同年4月これを倍額増資して資本金7億2,000万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [95]1953年7月に堺工場を建設。これによって溶糖能力は3工場合計日産935屯に達して業界最高となった
    • [96]イーストも1953年末に横浜・門司両工場合計月産70万封度の設備を完成、業界第一の生産力を保つに至った

各社が能力を積み増した理由は需要の伸びではなく、原糖の輸入外貨の割当基準が能力七・実績三の比率だったことにある[97]。割当を多く取るには設備を増やすほかなく、1949年末に9社9工場・日産溶糖能力585屯だった国内の精製糖設備は、1952年に18社27工場・5,740屯、1954年には25社36工場・8,965屯へ膨らんだ[98]。需要は統制撤廃直後の急増が頭打ちとなり、設備過剰だけが残った[99]。1954年3月期に製糖各社が軒並み増益となったのは、デフレ政策にからむ外貨節約で原糖輸入が大幅に削減されるとの見通しが濃くなり、製品相場が高騰してメーカーの在庫が払底したためである[100]。大日本製糖は1954年3月までの半期に総売上高85億9,700万円、純益5億900万円を計上した[101]。他社が増配へ動くなか、藤山愛一郎社長は2割5分配当の据え置きを自ら指示し、社外流出を抑えて社内に蓄積させた[102]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [97]原糖の輸入外貨の割当基準が能力七実績三の比率であつたから、原糖の割当を多く取るため、各社は能力増強に狂奔した
    • [98]会社数・工場数・日産溶糖能力の推移は1949年末 9社9工場585屯、1950年 14・14・1,219、1951年 15・17・2,325、1952年 18・27・5,740、1953年 19・29・6,430、1954年 25・36・8,965
    • [99]精糖能力は急速に増強されたが、需要は統制撤廃直後の急激な増加も頭打ちとなり、設備過剰は免れない
  • 東邦経済 1954年「業態向上・活況の大日本製糖」
    • [100]前期に製糖各社が軒並み収益増を記録したのは、デフレ政策にからむ外貨節約のため原糖輸入が大幅に削減されるとの見通しが濃くなり、製品相場が高騰し、メーカーのストックが皆無となり著しく採算が向上したため
    • [102]前期の好決算にも藤山社長自ら二割五分配当踏襲を指示した。当社はこれに備えて社外流出を極力押えるのが方針である
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [101]1960年に横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手

1956年のスエズ動乱以来、原料の砂糖は高値を続けた一方、国内の供給能力は消費量を上回り、市場価格は弱いまま推移した[103]。大日本製糖の売上高は1955年3月期の165億円から1957年3月期には138億円へ減り、営業利益も13億円から6億円へ落ちた[104]。3年続きの豊作で米食が増え、原料糖蜜の逼迫も重なってパン用イーストが不調となり、醸造部門も焼酎の売行不振と添加用酒精の減少に押された[105]。1957年7月、社長は藤山愛一郎氏から藤山勝彦氏へ替わった[106]。1960年には横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手した[107]。それでも1962年3月期の半期売上は精製糖が90.6%を占め、シュガーエステルは0.3%にとどまった[108]。1962年10月、北海道本別町に本別製糖所を設け、国内に原料を持つてん菜糖業へ進出した[109]

  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [103]昨年のスエズ動乱発生以来、砂糖は高値を続け強含みのまま推移。しかも供給能力の過大がそのまま過剰から市場価格を弱くする
    • [105]1957年のイースト部門は豊作が続いたことや原料糖蜜の逼迫から不調。醸造部門も焼酎の売行不振、業者間の競争、添加用酒精の添加減少などから期待できず
  • 上場会社総覧 1956年版/上場会社総覧 1959年版
    • [104]売上高は1955年3月期165億円・営業利益13億円、1956年3月期146億円・7億円、1957年3月期138億円・営業利益6億円(半期合算)
  • 上場会社総覧 1959年版
    • [106]藤山勝彦氏は1957年7月に大日本製糖の代表取締役社長に就任した
    • [107]1960年に横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [108]1962年3月期(半期)の売上構成は精製糖90.6%、仕入商品6.0%、酵母1.9%、添加用アルコール0.6%、焼酎0.4%、シュガーエステル0.3%、倉庫業0.2%
  • 会社年鑑(1971年版)【沿革】
    • [109]1962年10月、北海道に本別製糖所を設置
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
    • [92]横浜新子安に新工場を建設することとなり、既に昭和電工より敷地1万6千坪を買収済。建設所要資金は大体1億6千万円
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
    • [93]1950年11月、資本金5,500万円を1億2,000万円に増額して横浜工場の建設に着手、1951年7月竣工、イースト及び精製糖の製造を開始
    • [94]1951年11月、倍額増資で資本金2億4,000万円。1953年1月半額無償増資、同年4月これを倍額増資して資本金7億2,000万円
    • [103]昨年のスエズ動乱発生以来、砂糖は高値を続け強含みのまま推移。しかも供給能力の過大がそのまま過剰から市場価格を弱くする
    • [105]1957年のイースト部門は豊作が続いたことや原料糖蜜の逼迫から不調。醸造部門も焼酎の売行不振、業者間の競争、添加用酒精の添加減少などから期待できず
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [95]1953年7月に堺工場を建設。これによって溶糖能力は3工場合計日産935屯に達して業界最高となった
    • [96]イーストも1953年末に横浜・門司両工場合計月産70万封度の設備を完成、業界第一の生産力を保つに至った
    • [97]原糖の輸入外貨の割当基準が能力七実績三の比率であつたから、原糖の割当を多く取るため、各社は能力増強に狂奔した
    • [98]会社数・工場数・日産溶糖能力の推移は1949年末 9社9工場585屯、1950年 14・14・1,219、1951年 15・17・2,325、1952年 18・27・5,740、1953年 19・29・6,430、1954年 25・36・8,965
    • [99]精糖能力は急速に増強されたが、需要は統制撤廃直後の急激な増加も頭打ちとなり、設備過剰は免れない
  • 東邦経済 1954年「業態向上・活況の大日本製糖」
    • [100]前期に製糖各社が軒並み収益増を記録したのは、デフレ政策にからむ外貨節約のため原糖輸入が大幅に削減されるとの見通しが濃くなり、製品相場が高騰し、メーカーのストックが皆無となり著しく採算が向上したため
    • [102]前期の好決算にも藤山社長自ら二割五分配当踏襲を指示した。当社はこれに備えて社外流出を極力押えるのが方針である
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [101]1960年に横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手
  • 上場会社総覧 1956年版/上場会社総覧 1959年版
    • [104]売上高は1955年3月期165億円・営業利益13億円、1956年3月期146億円・7億円、1957年3月期138億円・営業利益6億円(半期合算)
  • 上場会社総覧 1959年版
    • [106]藤山勝彦氏は1957年7月に大日本製糖の代表取締役社長に就任した
    • [107]1960年に横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [108]1962年3月期(半期)の売上構成は精製糖90.6%、仕入商品6.0%、酵母1.9%、添加用アルコール0.6%、焼酎0.4%、シュガーエステル0.3%、倉庫業0.2%
  • 会社年鑑(1971年版)【沿革】
    • [109]1962年10月、北海道に本別製糖所を設置

1963年の原糖自由化からニットーへの営業譲渡と解散まで

創業ストーリー(10)

原糖輸入自由化を境にした赤字転落と三菱商事の資本導入

1963年8月の原糖輸入の自由化を境に、製糖業界をとりまく環境は急変した[110]。それまでの製糖事業は高い収益のもとに安定していたが、自由化以後は慢性的な生産過剰におちいり、大日本製糖も苦しい業績を続けた[111]。製糖業界では1965年から糖価安定法の成立、不況カルテルの実施、商社による系列化が進んだが、過当競争と乱売合戦は収まらなかった[112]。売上高は1963年3月期の185億円から1965年3月期の237億円へ伸びたが、当期純利益は1963年3月期の7億円、1964年3月期の4億円から一転し、1965年3月期は11億円の損失となった[113]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [110]業界をとりまく環境は1963年8月の原糖輸入の自由化を契機として急変した
    • [111]それまでの製糖事業は高い収益のもとに安定した事業だったが、自由化以後は慢性的な生産過剰の状態におちいり、大日本製糖もその影響を受けて苦しい業績を続けた
    • [112]1963年の粗糖輸入自由化が転機となり、それまで好況を享受していた製糖業界は過当競争・乱売合戦に陥り疲弊し、1965年より糖価安定法成立、不況カルテル実施、商社による系列化などが進んだものの状況は改善されなかった
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [113]大日本製糖の売上高は1963年3月期185億円、1965年3月期237億円。当期純利益は1963年3月期7億円、1964年3月期4億円、1965年3月期はマイナス11億円

自力での立て直しをあきらめた大日本製糖は、1965年11月、藤山勝彦社長が社長の座を当時三菱商事相談役だった辻喜代治氏へ引き継いだ[114]。大日本製糖は1966年3月期から、従来から関係の深かった三菱商事の資本を導入し、同時に全面的な提携に入った[115]。それでも半期を合算した当期純利益は、1966年3月期に8億円、1967年3月期に11億円、1968年3月期と1969年3月期にそれぞれ2億円、1970年3月期に1億円の損失となり、赤字は6年続いた[116]。1966年3月期の売上構成は精製糖70.3%、てん菜糖11.8%、砂糖・糖蜜・酵母の仕入商品11.7%で、輸入原料糖の精製が7割を占めた[117]

  • 経済展望 1978年
    • [114]1963年の原糖自由化以後に経営が悪化し、1965年11月に自らの建て直しをあきらめて三菱商事グループとして再建の道を辿ることとなり、社長も藤山勝彦氏から当時三菱商事相談役の辻喜代治氏へ交代した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [115]1966年3月期から、従来同社と関係の深かった三菱商事の資本を導入し、同時に全面的な提携を行った
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [116]大日本製糖の当期純利益は1966年3月期マイナス8億円、1967年3月期マイナス11億円、1968年3月期マイナス2億円、1969年3月期マイナス2億円、1970年3月期マイナス1億円
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [117]1966年3月期の売上構成比は精製糖70.3%、てん菜糖11.8%、砂糖・糖蜜・酵母の仕入商品11.7%

北海道でてん菜糖に踏み込んだ事業も、6年たたずに手放した。合理化のなかで不採算の本別製糖所が切り離しの対象となり、大日本製糖は台糖、芝浦製糖との3社共同で北海道糖業を設立、1968年2月5日に設立手続を終えた[118]。甜菜糖関係の従業員172名を新会社へ移籍させたうえで、本別製糖所の設備一切を4月1日付で譲渡した[119]。本別製糖所の設置は1962年10月であり、国内に原料をつくる拠点を置いた期間は5年半にとどまった[120]。1970年3月期の売上構成は精製糖が83.4%を占め、シュガーエステル4.0%、パイン缶詰1.8%、酵母1.5%が続いた[121]

  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [118]大日本製糖と台糖株式会社、芝浦製糖株式会社の3社共同による新会社・北海道糖業株式会社が2月5日に設立手続を完了した
    • [119]甜菜糖関係従業員172名を新会社に移籍し、本別製糖所の設備一切を含めて4月1日付で新会社に譲渡した
  • 会社年鑑(1971年版)【沿革】
    • [120]1962年10月に北海道に本別製糖所を設置した
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [121]1970年3月期の売上構成比は精製糖83.4%、シュガーエステル4.0%、パイン缶詰1.8%、酵母1.5%
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [110]業界をとりまく環境は1963年8月の原糖輸入の自由化を契機として急変した
    • [111]それまでの製糖事業は高い収益のもとに安定した事業だったが、自由化以後は慢性的な生産過剰の状態におちいり、大日本製糖もその影響を受けて苦しい業績を続けた
    • [115]1966年3月期から、従来同社と関係の深かった三菱商事の資本を導入し、同時に全面的な提携を行った
    • [112]1963年の粗糖輸入自由化が転機となり、それまで好況を享受していた製糖業界は過当競争・乱売合戦に陥り疲弊し、1965年より糖価安定法成立、不況カルテル実施、商社による系列化などが進んだものの状況は改善されなかった
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [113]大日本製糖の売上高は1963年3月期185億円、1965年3月期237億円。当期純利益は1963年3月期7億円、1964年3月期4億円、1965年3月期はマイナス11億円
    • [117]1966年3月期の売上構成比は精製糖70.3%、てん菜糖11.8%、砂糖・糖蜜・酵母の仕入商品11.7%
  • 経済展望 1978年
    • [114]1963年の原糖自由化以後に経営が悪化し、1965年11月に自らの建て直しをあきらめて三菱商事グループとして再建の道を辿ることとなり、社長も藤山勝彦氏から当時三菱商事相談役の辻喜代治氏へ交代した
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [116]大日本製糖の当期純利益は1966年3月期マイナス8億円、1967年3月期マイナス11億円、1968年3月期マイナス2億円、1969年3月期マイナス2億円、1970年3月期マイナス1億円
    • [121]1970年3月期の売上構成比は精製糖83.4%、シュガーエステル4.0%、パイン缶詰1.8%、酵母1.5%
  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [118]大日本製糖と台糖株式会社、芝浦製糖株式会社の3社共同による新会社・北海道糖業株式会社が2月5日に設立手続を完了した
    • [119]甜菜糖関係従業員172名を新会社に移籍し、本別製糖所の設備一切を含めて4月1日付で新会社に譲渡した
  • 会社年鑑(1971年版)【沿革】
    • [120]1962年10月に北海道に本別製糖所を設置した
創業ストーリー(11)

英ポンド切り下げによる8期ぶりの黒字と株主総会の紛糾

1968年5月25日、丸の内の本社で第36回定時株主総会が開かれた[122]。辻喜代治社長の営業報告は約25分に及び、8期ぶりに純益6,900万円を計上したと述べた[123]。精製糖部門は期中に原糖79,800トンを溶糖して製品72,700トンを販売し、売上高81億円、純益1億7,400万円をあげた[124]。甜菜糖部門は前年同期を約1億円上回った[125]が、イースト部門は売上高も販売数量も減り、約4,000万円の赤字を出した[126]。化成品・シュガーエステル部門は売上高4億4,400万円、利益1億円[127]。これらを合わせた売上高は124億5,000万円、計上利益は1億1,800万円となった[128]

  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [122]1968年5月25日午前10時30分より、丸の内の大日本製糖本社・工業倶楽部で第36回定時株主総会が開かれた
    • [123]辻喜代治社長の営業報告は約25分に及び、8期ぶりに純益6,900万円を計上したと報告した
    • [124]精製糖部門は期中に原糖7万9,800トンを溶糖し、製品7万2,700トンを販売、売上高81億円、純益1億7,400万円をあげた
    • [125]甜菜糖部門は前年同期に比較して約1億円の業績改善となった
    • [126]イースト部門は売上高・販売数量とも若干減少し、約4,000万円の赤字となった
    • [127]化成品・シュガーエステル部門は売上高4億4,400万円、利益1億円
    • [128]総合して売上高124億5,000万円、計上利益1億1,800万円

黒字の主因は外部にあり、辻喜代治社長は1967年11月の英ポンド切り下げが砂糖業界にとって予期しない有利な事態だったと報告した[129]。営業外収入は前年同期の4億400万円から1億1,300万円へ減り、有価証券売却益が出ず、固定資産売却益も3,000万円にとどまった[130]うえ、営業外支払は合計5億6,500万円にのぼり、うち支払利息が4億1,300万円を占め、営業外は3億8,200万円の支払超過となった[131]。精製糖部門の過剰設備については、全日本製糖工業会として試案をまとめ、行政官庁に差し出して所見を求めていると説明した[132]

  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [129]1967年11月の英国のポンド為替レート切り下げという砂糖業界にとって全く予期しない有利な事態が発生し、同業各社とも久しぶりに業績が好転した
    • [130]営業外収入は前年同期の4億400万円に比べ約2億2,000万円少ない1億1,300万円。有価証券売却益が出ないこと、固定資産売却益が3,000万円にとどまったことが主因
    • [131]営業外支払は合計5億6,500万円、うち支払利息が4億1,300万円で、差引3億8,200万円の支払超過
    • [132]精製糖部門の基本的な懸案事項である過剰設備の処理は、全日本製糖工業会として一応試案を取りまとめ、行政官庁に差し出して所見を求めている段階だった

株主の追及は、大日本製糖が株式780万株を持ち、2億円を出資したうえ40億円近い債務保証を背負っていたホテル・ニュージャパンに集まった[133]。1968年2月29日のホテル・ニュージャパンの株主総会は荒れ、3,000株しか持たない中央土地に経営権を取られた[134]。辻喜代治社長の営業報告は関連事業部門の説明を飛ばして特別損益に移り、ホテル・ニュージャパンには触れなかった[135]。議長の藤山勝彦会長は、解決を取締役の植村甲午郎氏に一任していると答え、5月末までに片づけたいと述べた[136]。第一号議案の可決には1時間12分を要した[137]

  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [133]大日本製糖はホテル・ニュージャパンの株式780万株を保有し2億円を出資、さらに40億円近い債務保証を背負っていた
    • [134]1968年2月29日にホテル・ニュージャパンの株主総会が大荒れで開かれ、わずか3,000株しか持たない中央土地にその経営権を取られた
    • [135]辻喜代治社長の営業報告は関連事業部門の説明を飛ばして特別損益の説明に移り、ホテル・ニュージャパンに言及しなかった
    • [136]議長の藤山勝彦会長は、取締役の植村甲午郎氏にホテル問題の解決を一任していると答え、大体その月の末までは解決したいと述べた
    • [137]第一号議案の可決までに1時間12分を要した
  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
    • [122]1968年5月25日午前10時30分より、丸の内の大日本製糖本社・工業倶楽部で第36回定時株主総会が開かれた
    • [123]辻喜代治社長の営業報告は約25分に及び、8期ぶりに純益6,900万円を計上したと報告した
    • [124]精製糖部門は期中に原糖7万9,800トンを溶糖し、製品7万2,700トンを販売、売上高81億円、純益1億7,400万円をあげた
    • [125]甜菜糖部門は前年同期に比較して約1億円の業績改善となった
    • [126]イースト部門は売上高・販売数量とも若干減少し、約4,000万円の赤字となった
    • [127]化成品・シュガーエステル部門は売上高4億4,400万円、利益1億円
    • [128]総合して売上高124億5,000万円、計上利益1億1,800万円
    • [129]1967年11月の英国のポンド為替レート切り下げという砂糖業界にとって全く予期しない有利な事態が発生し、同業各社とも久しぶりに業績が好転した
    • [130]営業外収入は前年同期の4億400万円に比べ約2億2,000万円少ない1億1,300万円。有価証券売却益が出ないこと、固定資産売却益が3,000万円にとどまったことが主因
    • [131]営業外支払は合計5億6,500万円、うち支払利息が4億1,300万円で、差引3億8,200万円の支払超過
    • [132]精製糖部門の基本的な懸案事項である過剰設備の処理は、全日本製糖工業会として一応試案を取りまとめ、行政官庁に差し出して所見を求めている段階だった
    • [133]大日本製糖はホテル・ニュージャパンの株式780万株を保有し2億円を出資、さらに40億円近い債務保証を背負っていた
    • [134]1968年2月29日にホテル・ニュージャパンの株主総会が大荒れで開かれ、わずか3,000株しか持たない中央土地にその経営権を取られた
    • [135]辻喜代治社長の営業報告は関連事業部門の説明を飛ばして特別損益の説明に移り、ホテル・ニュージャパンに言及しなかった
    • [136]議長の藤山勝彦会長は、取締役の植村甲午郎氏にホテル問題の解決を一任していると答え、大体その月の末までは解決したいと述べた
    • [137]第一号議案の可決までに1時間12分を要した
創業ストーリー(12)

170億円の債務超過を経た上場廃止と解散決議

三菱商事との一体化は工場の共同運営にまで進み、1971年1月、大日本製糖は三菱商事明治製糖と共同で東日本製糖を発足させた[138]。1971年3月期は経常利益21億円、当期純利益20億円を計上し、6年続いた赤字から抜けた[139]。同年4月、不動産の売却などで累積赤字を一掃したのを機に、藤山愛一郎氏の子息である藤山覚一郎氏が社長に就任[140]。1973年2月に化成品部門を分離して菱糖を設立し、1974年10月には横浜工場を閉鎖した[141]。もっとも国内の砂糖消費量は1973年の318万4,000トン、1人当たり29.2キログラムを頂に減少へ転じた[142]。1974年に精製糖企業33社が豪州と結んだ粗糖の輸入長期契約と、その後の国際相場の急落が、製糖各社の業績悪化に拍車をかけた[143]

  • 会社年鑑(1976年版)【沿革】
    • [138]1971年1月に三菱商事・明治製糖と東日本製糖を設立した
    • [141]1973年2月に化成品部門を分離して菱糖を設立し、1974年10月に横浜工場を閉鎖した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [139]大日本製糖の1971年3月期は経常利益21億円、当期純利益20億円
  • 経済展望 1978年
    • [140]1971年4月、折から不動産売却などで累積赤字を一掃したのを機会に、藤山愛一郎氏の子息である藤山覚一郎氏が社長に就任した
    • [142]国内の砂糖消費量および1人当たりの年間消費量は、1973年の318万4,000トンおよび29.2キログラムをピークに減少に転じた
    • [143]1974年に精製糖企業33社と豪州とで締結した粗糖の輸入長期契約と、その後の国際相場の急落が、製糖各社のさらなる業績悪化に拍車を掛けた

大日本製糖の債務超過は1978年3月の中間決算で約170億円に達し[144]、3年以上の債務超過かつ5年以上の無配継続という東京証券取引所の上場廃止基準への抵触が避けられなくなった[145]。同年3月末の筆頭株主は横井英樹氏で、発行済株式の32.81%にあたる約1,300万株を握っていた[146]。輸入精糖業界33社は1976年以降の市況悪化でほとんどが経営危機に陥り、上場会社11社は上場基準の改正で廃止の瀬戸際に立った[147]。三井製糖は減資と第三者割当増資、3工場の売却とリースバック、商標権の売却で上場を保ち、台糖と塩水港製糖も主力工場や非製造部門を分離した[148]。上場を維持できなかったのは大日本製糖と明治製糖の2社だけで、大日本製糖の株式は証券会社の店頭銘柄扱いに移った[149]三菱商事の砂糖部幹部は、その理由に横井英樹氏が大量に株を買って大株主になったことを挙げた[150]

  • 経済展望 1978年
    • [144]債務超過は1978年3月中間決算で約170億円を記録し、無配をすでにかなり長期にわたって続けていた
    • [145]東京証券取引所の上場廃止基準は3年以上債務超過でかつ5年以上無配継続であり、このままだと上場廃止基準に抵触することは必定だった
    • [146]1978年3月末現在で横井英樹氏が発行済株式の32.81%、約1,300万株を占め筆頭株主となった
  • 実業往来 1981年
    • [147]輸入精糖業界は合計33社あり、1976年以降の市況悪化でほんの1、2社を除いてどこも経営危機に陥り、上場会社11社はいずれも上場基準の改正で廃止の憂き目に遭う瀬戸際に立った
    • [148]三井製糖は減資から第三者割当増資、3工場の売却とそのリース、商標権の売却まで行って上場維持を果たし、台糖も塩水港製糖も主力工場や非製造部門を分離するなどして上場を維持した
    • [149]上場維持を果たせず置いていかれたのは大日糖と明糖の2社で、その株式は証券会社の店頭銘柄扱いとなった
    • [150]両社とも上場廃止となった理由は、大日糖については横井英樹氏が大量に株を買い大株主になったことが三菱商事の作戦を迷わせたことによる(三菱商事砂糖部幹部の説明)

過剰設備は減らず、1981年の業界は需要が300万トン前後、供給能力が400万トン強で、100万トンの設備が余った[151]。1978年2月から1980年9月までの時限立法だった砂糖特例法は、業界が付帯決議の求める体質改善を実現しなかったため1年半延長された[152]。大日本製糖は1982年、三菱商事と戸畑工場の西日本製糖を設立[153]。1983年9月期には、資本金39億6,000万円に対して累積赤字が109億円に達し、業界シェアは7.9%で5位を占めた[154]三菱商事は貸付金の金利棚上げが重荷となり、回収困難な債権の帳消しを選んだ[155]。1984年2月中旬に三菱商事が100%出資で資本金10億円のニットーを設立し、負債を除く従業員、取引先など営業の一切を引き継がせた[156]。大日本製糖と明治製糖三菱商事は1984年3月下旬の解散を記者発表し、三菱商事は債権160億円の大半を1984年3月期決算で償却した[157]

  • 実業往来 1981年
    • [151]1981年時点で業界は設備過剰。需要300万トンそこそこに対して供給能力は400万トン強で、100万トンの設備が過剰だった
    • [152]砂糖特例法(指定糖の売戻しについて臨時特例に関する法律)は1978年2月1日から1980年9月30日までの時限立法だったが、この期間に業界が法施行の付帯決議(政府に精糖業界の体質改善を指導するよう求めたもの)を実現してこなかったため、再度1年半延長された
  • 月刊経済 1984年
    • [153]大日本製糖と明治製糖は生産部門を切り離し、1971年に東日本製糖(千葉工場)、1982年に西日本製糖(戸畑工場)を共同生産会社として設立した
    • [154]大日本製糖は業界で7.9%のシェアを占め5位の大手だが、資本金39億6,000万円に対し累積赤字は109億円(1983年9月期決算)に及んだ
    • [155]現会社を解散する方法をとるのは、両社への貸付金の金利棚上げが続いていることが三菱商事の重荷となっているためで、三菱商事としては回収が困難な債権を帳消しにしたほうが現状を続けるより得策だと判断した
    • [156]解散に先立って三菱商事が100%出資して1984年2月中旬に設立する新会社のうち大日本製糖側がニットー株式会社(本社は大日本製糖と同じ、資本金10億円)で、負債を除き従業員、取引先など営業の一切を受け継ぎ砂糖類の販売を行う
    • [157]大日本製糖(本社・東京都千代田区、桜井喜久夫社長)と明治製糖(本社・東京都中央区、中崎力信社長)が3月下旬に解散することになり、両社と三菱商事が記者発表した。三菱商事は両社に対する出資金、貸付金を含めた債権160億円の大半を1984年3月期決算で償却する
  • 会社年鑑(1976年版)【沿革】
    • [138]1971年1月に三菱商事・明治製糖と東日本製糖を設立した
    • [141]1973年2月に化成品部門を分離して菱糖を設立し、1974年10月に横浜工場を閉鎖した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [139]大日本製糖の1971年3月期は経常利益21億円、当期純利益20億円
  • 経済展望 1978年
    • [140]1971年4月、折から不動産売却などで累積赤字を一掃したのを機会に、藤山愛一郎氏の子息である藤山覚一郎氏が社長に就任した
    • [144]債務超過は1978年3月中間決算で約170億円を記録し、無配をすでにかなり長期にわたって続けていた
    • [145]東京証券取引所の上場廃止基準は3年以上債務超過でかつ5年以上無配継続であり、このままだと上場廃止基準に抵触することは必定だった
    • [146]1978年3月末現在で横井英樹氏が発行済株式の32.81%、約1,300万株を占め筆頭株主となった
    • [142]国内の砂糖消費量および1人当たりの年間消費量は、1973年の318万4,000トンおよび29.2キログラムをピークに減少に転じた
    • [143]1974年に精製糖企業33社と豪州とで締結した粗糖の輸入長期契約と、その後の国際相場の急落が、製糖各社のさらなる業績悪化に拍車を掛けた
  • 実業往来 1981年
    • [147]輸入精糖業界は合計33社あり、1976年以降の市況悪化でほんの1、2社を除いてどこも経営危機に陥り、上場会社11社はいずれも上場基準の改正で廃止の憂き目に遭う瀬戸際に立った
    • [148]三井製糖は減資から第三者割当増資、3工場の売却とそのリース、商標権の売却まで行って上場維持を果たし、台糖も塩水港製糖も主力工場や非製造部門を分離するなどして上場を維持した
    • [149]上場維持を果たせず置いていかれたのは大日糖と明糖の2社で、その株式は証券会社の店頭銘柄扱いとなった
    • [150]両社とも上場廃止となった理由は、大日糖については横井英樹氏が大量に株を買い大株主になったことが三菱商事の作戦を迷わせたことによる(三菱商事砂糖部幹部の説明)
    • [151]1981年時点で業界は設備過剰。需要300万トンそこそこに対して供給能力は400万トン強で、100万トンの設備が過剰だった
    • [152]砂糖特例法(指定糖の売戻しについて臨時特例に関する法律)は1978年2月1日から1980年9月30日までの時限立法だったが、この期間に業界が法施行の付帯決議(政府に精糖業界の体質改善を指導するよう求めたもの)を実現してこなかったため、再度1年半延長された
  • 月刊経済 1984年
    • [153]大日本製糖と明治製糖は生産部門を切り離し、1971年に東日本製糖(千葉工場)、1982年に西日本製糖(戸畑工場)を共同生産会社として設立した
    • [154]大日本製糖は業界で7.9%のシェアを占め5位の大手だが、資本金39億6,000万円に対し累積赤字は109億円(1983年9月期決算)に及んだ
    • [155]現会社を解散する方法をとるのは、両社への貸付金の金利棚上げが続いていることが三菱商事の重荷となっているためで、三菱商事としては回収が困難な債権を帳消しにしたほうが現状を続けるより得策だと判断した
    • [156]解散に先立って三菱商事が100%出資して1984年2月中旬に設立する新会社のうち大日本製糖側がニットー株式会社(本社は大日本製糖と同じ、資本金10億円)で、負債を除き従業員、取引先など営業の一切を受け継ぎ砂糖類の販売を行う
    • [157]大日本製糖(本社・東京都千代田区、桜井喜久夫社長)と明治製糖(本社・東京都中央区、中崎力信社長)が3月下旬に解散することになり、両社と三菱商事が記者発表した。三菱商事は両社に対する出資金、貸付金を含めた債権160億円の大半を1984年3月期決算で償却する

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沿革年表 1890〜1993年

大日本製糖の沿革1890〜1993年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1890〜1909年鈴木藤三郎氏の精製糖工場から台湾の原料を追った先の日糖疑獄鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設
東京の砂村に日本精製糖を設立★★
大阪の日本精糖を合併して大日本製糖に商号変更★★
台湾総督府から斗六の原料糖工場設立許可を取得★★
国内初の角砂糖の製造と発売を開始★★
酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負い辞職★★
関税還付の期限延長を狙った代議士買収と粉飾の露見、全重役の辞職と藤山雷太氏の招聘

1909年、大日本製糖の取締役である磯村音介氏と秋山一裕氏による衆議院議員への贈賄と、タコ配当や株価操縦を含む粉飾が露見した事件。株主が選任した監査役の瓜生震氏の報告を契機に酒匂常明社長以下の全重役が辞職し、渋沢栄一氏が後継役員を指名して藤山雷太氏が社長に就いた。

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★★★
藤山雷太氏が取締役社長に就任★★
1910〜1945年渋沢栄一氏に招かれた藤山雷太氏と東洋製糖まで取り込んだ台湾の拡張台湾第二位の製糖会社である東洋製糖を合併★★★
新高製糖を合併★★
東京工場を閉鎖
帝国製糖を合併★★
日糖興業に商号変更★★
外地会社の指定で国内財産が連合国の管理下に移行★★
1946〜1962年門司の一工場から建て直した輸入原糖を精製するだけの会社台湾の製糖工場と資産を中国側に引渡し★★
門司工場でパン用イーストの生産を開始
藤山愛一郎氏が公職追放の指定を受領★★
門司工場で精製糖の製造を開始
藤山愛一郎日糖興業の内地財産だけを承継した第二会社の設立と、門司一工場からの再出発

1950年4月7日、在外資産を失った日糖興業の国内残財産5,497万余円の現物出資と、藤山愛一郎社長個人の現金出資引受により、事業の全部を承継する新会社として大日本製糖が資本金5,500万円で発足した。証券コード2101の法人はこの第二会社にあたり、台湾やジャワに20数工場を擁した戦前の会社とは別法人である。

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★★★
藤山愛一郎東京証券取引所に株式を上場
藤山愛一郎横浜工場で精製糖の製造を開始
藤山愛一郎大阪証券取引所に株式を上場
藤山愛一郎堺工場が竣工
藤山愛一郎ポリエチレン袋入り砂糖を発売★★
藤山勝彦北海道に本別製糖所を設置
1963〜1993年1963年の原糖自由化からニットーへの営業譲渡と解散まで辻喜代治本別製糖所を北海道糖業に譲渡★★
藤山覚一郎三菱商事・明治製糖と東日本製糖を設立★★
藤山覚一郎酵素分解法による調味料コクベースを発売★★
藤山覚一郎化成品部門を分離して菱糖を設立★★
藤山覚一郎横浜工場を閉鎖★★
株式の上場を廃止★★
三菱商事と西日本製糖を設立
ニットーを設立★★
負債を除く営業全部のニットーへの譲渡と解散

1984年3月下旬、大日本製糖が臨時株主総会で解散を決議し、負債を除く従業員・取引先など営業の一切を、三菱商事が100%出資して同年2月中旬に設立した新会社ニットー株式会社へ譲渡した経営判断。明治製糖も同時に解散し、明糖産業へ営業を移した。

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★★★
清算が結了
出典・参考 20件
出典・参考
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
  • 上場会社総覧 1956年版/上場会社総覧 1959年版
  • 上場会社総覧 1959年版
  • 会社年鑑(1963年版)
  • 会社年鑑(1967年版)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
  • 会社年鑑(1971年版)【沿革】
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1976年版)【沿革】
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 証券 1950年 新規上場会社紹介
  • 東邦経済 1954年「業態向上・活況の大日本製糖」
  • 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
  • 経済展望 1978年
  • 実業往来 1981年
  • 月刊経済 1984年
  • 農畜産業振興機構 2025年1月「渋沢栄一と製糖業~日本の製糖業の変遷~」

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