大日本製糖の事業は、鈴木藤三郎氏が1890年に東京の砂村へ開設した鈴木製糖所に始まる[1]。鈴木藤三郎氏は1895年12月、同じ砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した[2]。この日本精製糖が大日本製糖の母体であり、設立後は増資を重ねた[3]。安政の開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地の糖業は衰え、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入全体の約半分を占めた[4]。1891年には新式製糖機械を備えた甜菜糖の官営工場が北海道に建設されたが、安価な甘蔗糖に押されて1895年に作業を中止し、国内需要の約8割は輸入糖でまかなわれていた[5]。
渋沢栄一氏は1889年に佐野常樹氏を綿業事情の視察でインドへ派遣する際、南洋の糖業事情もあわせて調べるよう依頼した[6]。その報告を受けて渋沢栄一氏は日本にも精製糖業を興すことを決め、1894年2月16日に松本重太郎氏らと精糖事業調査会を組織し、精糖の試験と海外調査にあたった[7]。調査会は1895年12月22日に日本精糖の設立を決議して創業総会を開き、12月26日に設立免許を申請、翌1896年1月15日に免許が下り、渋沢栄一氏は取締役に就いた[8]。日本精糖は精糖用の諸機械を英国から購入し、1898年6月15日に操業を開始した[9]。
1906年11月5日、日本精製糖は臨時株主総会で大阪の日本精糖との合併を決議し、新役員を選出した[10]。同月11日に合併が成立し、商号を大日本製糖に改めた[11]。旧日本精糖の創設者である渋沢栄一氏は、新会社では取締役ではなく相談役に推薦され、社長には渋沢栄一氏が推挙した酒匂常明氏が就任した[12]。
甘蔗の栽培に適した台湾を領有したことで、近代工業としての製糖業が生まれた[13]。当時は台湾の開発と、米と砂糖の輸入が累年増えて貿易収支が悪化する米糖問題の解決が、官民の関心を集めた[14]。政府は多額の助成金をもって、台湾に原料甘蔗の生産と砂糖製造を併せ営む大企業の計画を立てた[15]。第3代台湾総督の児玉源太郎氏が三井合名理事長の益田孝氏と、官政界および実業界に勢力のあった井上馨氏の賛助を求めて計画を進め、1900年12月に三井財閥の巨額の出資で台湾製糖が設立された[16]。渋沢栄一氏は台湾製糖の株主になった[17]。
大日本製糖は1906年の商号変更とあわせて、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へ転換した[18]。1906年12月には台湾総督府から斗六の原料糖工場の設立許可を得た[19]。1907年、大日本製糖は台湾糖業の開拓に着手した[20]。
1907年、大日本製糖は大里製糖所を買収した[21]。大里製糖所は1904年に鈴木商店が設立した工場で、関門海峡沿いの北九州市門司区大里にあり、現在も関門製糖として精糖事業を営んでいる[22]。台湾に原料を求めたのは大日本製糖だけではなく、明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が創設され、大正初期にはさらに4社が設立された[23]。渋沢栄一氏は1906年10月6日の第1回発起人会で明治製糖の創立委員長となり、同年12月29日の創立総会では議長として取締役と監査役を指名し、自らは相談役に就いた[24]。
1909年1月11日、経営が行き詰まった大日本製糖では酒匂常明社長以下の役員が相前後して辞職し、渋沢栄一氏も酒匂常明氏を推薦した責任をとって相談役を辞した[25]。
渋沢栄一氏は同年3月8日に大株主会から後継役員候補者の選定を請われ、4月27日の臨時株主総会で藤山雷太氏ら7人を指名した[26]。藤山雷太氏は同年4月に取締役社長へ就いた[27]。
1906年の商号変更の直後から、大日本製糖は台湾から質のよい精製糖が大量に輸入される市況のもとで、大幅な過剰在庫に見舞われた[28]。この経営悪化に政治がからんで日糖疑獄事件へ発展し、1909年1月に酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負って辞職、同年4月には贈収賄をめぐる事件が発覚した[29]。日糖の倒産が産業各界へ波及することを恐れた渋沢栄一氏は、再建を藤山雷太氏に持ちかけて口説いた[30]。藤山雷太氏は1909年4月に取締役社長へ就任し、社業の充実を進めるとともに、このころから台湾に事業地を開拓して海外進展の第一歩を踏んだ[31]。のちに藤山コンツェルンを創設したのも、この藤山雷太社長である[32]。
日清戦争で甘蔗栽培に適した台湾を領有したことにより、わが国に近代工業としての製糖業が生まれ、明治末期までに明治製糖・塩水港製糖・新興製糖・大日本製糖・新高製糖・帝国製糖が創設され、大正初期にもさらに4社が設立された[33]。原料の産地を押さえた会社が並び立つなか、大日本製糖は台湾の外へも調達先を求め、1919年に朝鮮製糖を合併して朝鮮で甜菜糖業を営んだ[34]。1923年には内外製糖を合併し、ジャワのゲダレン農作会社を所有経営してジャワ糖業へ進出した[35]。台湾糖業を軸に、東南アジアで砂糖・酵母・アルコール・ブタノール・酪農の総合事業を手がけた[36]。
1927年7月、大日本製糖は台湾第2位の製糖会社である東洋製糖を合併し、合併後の資本金は5,141万円となった[37]。合併が続いた1934年、1909年から社長を務めた藤山雷太社長が辞任し、子息の藤山愛一郎氏が跡を継いだ[38]。藤山雷太氏の社長在任は1909年から1934年までの25年に及んだ[39]。翌1935年1月には新高製糖を合併し、合併後の資本金は6,197万円に達した[40]。1895年12月に鈴木藤三郎氏が資本金30万円で興した日本精製糖から数えると、大日本製糖の資本金は約40年で200倍を超えた[41]。
1940年、大日本製糖は昭和製糖を合併し[42]、同年11月には明治末期までに台湾で創設された帝国製糖も合併して、合併後の資本金は9,617万円となった[43][44]。1943年、中央製糖を合併[45]。合併のたびに資本金は積み上がり、1927年の5,141万円から1935年の6,197万円を経て9,617万円へ達した[46]。1919年の朝鮮製糖から1943年の中央製糖まで、藤山雷太氏の社長就任後に大日本製糖が合併した会社は7社に上った[47]。東洋製糖・新高製糖・昭和製糖・帝国製糖・中央製糖の5社を相次いで取り込み、大日本製糖は台湾糖業の再編成を完了した[48]。
台湾の糖業は、日清戦争後に政府が莫大な助成金を出し、原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を一体で立ち上げたところから始まった[49]。大日本製糖が合併を重ねた時期、その甘蔗作は1940年から1941年にかけて米作におされて作付面積を減らし、さらに暴風の被害が予想されたことから、糖業の再編成が提唱された[50]。当時存続した6社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、大日本製糖・明治製糖・台湾製糖・塩水港製糖の4社が残った[51]。4社は製糖45工場とアルコール工場・ブタノール工場・パルプ工場を経営した[52]。
大正末期から1939年ごろにかけて、わが国の糖業は生産を伸ばし、総生産量の80%以上を台湾産糖が占めた[53]。1939年の産糖は、わが国の糖業が創設されて以来の最高を記録した[54]。しかしこの年、糖価に公定価格制が実施され、糖業は自由の時代から統制の時代へ入った[55]。国内の精製糖工場は1928年に16工場、日産能力2,800屯、年製造高867万担に達していたが、台湾で耕地白糖の製造設備が普及するにつれ、精製糖の価値は相対的に下がり、生産高も年を追って減少した[56]。太平洋戦争の進展に伴う企業整備で、1943年には精製糖工場がほとんど操業中止の状態となった[57]。
1943年11月、大日本製糖は資本金を1億5,000万円とし、商号を日糖興業に改めた[58]。1940年11月の帝国製糖合併の時点で9,617万円だった資本金は、3年で1億5,000万円へ増えた[59]。本店を台湾に置いたまま[60]、事業は東亜の各地域へ広がり、内地・朝鮮・台湾・ジャワ・海南島・沖縄・大東島などに20数工場を構え、砂糖・酒精・高級燃料・酵母・デリス・燐鉱石・農林・牧畜の各種事業を営んだ[61]。砂糖は東洋最大の生産力を持ち、日本全領域消費量の約3分の1を供給した[62]。その同じ1943年、国民一般に対する砂糖の配給はまったく途絶え、戦後の1947年まで配給停止が続いた[63]。
1945年9月、日糖興業は外地会社の指定を受け、国内財産まで連合国の管理下に移った[64]。海外の事業設備一切は太平洋戦争の終結とともに接収されており、本店を台湾に置く外地会社であったことから、戦災を免れた門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなり、経営はさまざまな制約を受けた[65]。1946年3月には台湾の製糖工場と資産を中国側へ引き渡し、1909年から37年かけて台湾・朝鮮・ジャワに並べた原料地と20数工場は、半年余りで会社の手を離れた[66]。翌1947年1月、藤山愛一郎社長が公職追放の指定を受けた[67]。
太平洋戦争が終わると、日糖興業の海外の事業設備一切は連合国側に接収され、本店を台湾に置く外地会社であったため、門司工場その他の国内財産も連合国側の管理下に入った[68]。戦災を免れた唯一の生産設備は門司工場だけで、大日本製糖の前身は往時の醗酵技術を生かし、1946年11月にここでパン用イーストの製造を始めた[69]。1948年4月には原料倉庫を営業倉庫に転用し、1949年4月から糖蜜とイースト残滓による焼酎の醸造に入った[70]。太平洋戦争以来中絶していた粗糖の輸入が再開されると、1949年7月に門司工場で精製糖の製造を戻した[71]。
1949年8月に公布された法令で在外会社の制限が解かれ、日糖興業は内地財産の整理に入った[72]。1950年4月7日、その内地残財産5,497万余円の現物出資と藤山愛一郎社長の現金出資引受により、事業の全部を承継する新会社が資本金5,500万円・発行株数110万株で発足した[73]。証券コード2101の法人はこの第二会社を指し、1895年に日本精製糖として発足し台湾に事業地を広げた戦前の大日本製糖とは法人格を異にする[74]。承継したのは内地に残った資産だけで、台湾をはじめとする海外の20数工場は一切含まれない[75]。本社は東京都千代田区神田富山町二、営業目的には精製糖の製造販売、パン用イーストと焼酎の製造販売、物品の保管業務を掲げた[76]。1950年6月26日、110万株を東京証券取引所に上場した[77]。
発足時の生産拠点は門司市大里東口の1工場だけで、営業所を横浜・名古屋・大阪・神戸・門司に置いた[78]。主な設備は工場建物6,286坪と倉庫建物3,242坪で、その他を含めた建物は合計11,582坪に及んだ[79]。精製糖の施設は日産200トンを備えていたが、粗糖の割当が極少量かつ不定期のため、一定限度の原料が集まって経済的に機械を運転できる時を待って集中的に操業に入った[80]。1950年5月に受けた1,287トンの割当を6月と7月に加工し、7月末の3,883トンは7月から9月の3カ月に分けて溶かした[81]。同年1月から6月の砂糖生産は月287トンから900トンの間で振れ、設備の稼働率は4.0%から18.0%にとどまった[82]。
発足直後の収益を支えたのは砂糖ではなくパン用イーストで、月産24万ポンドと能力以上に運転され、この部門が収益の重要部分を占めた[83]。焼酎はイーストの残滓からつくる月200石程度の副業にすぎず、ほかに倉庫収入が若干あった[84]。株主は1950年4月7日現在で16,899名を数え、うち15,805名が100株未満、その持株は309,732株で全体の28.16%にあたる[85]。1万株以上の大株主には閉鎖機関の戦時金融金庫・台湾銀行・日本証券・台湾商工が合計90,600株で並び、藤山同族46,587株、協和銀行34,900株、明治生命30,754株が続いた[86]。閉鎖機関の持株は1株76円で全部が従業員へ処分された[87]。
粗糖の割当を待つほかない状態は、大日本製糖1社の事情ではない。台湾と南洋群島という原料甘蔗の栽培適地を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入し、それを精製するのみという姿へ変わった[88]。しかも1952年4月に統制が撤廃されるまで、精製糖各社の仕事は政府が輸入した原糖の委託加工にすぎず、割当を受けて加工したうえで公団へ売り戻す仕組みだった[89]。1950年度の日産割当は大日本製糖185トン、名古屋製糖110トン、大阪90トン、九州65トン、横浜55トンなど11社合計700トンで、各社が精製できる量は政府が決めた[90]。砂糖の統制は1951年10月に業務用が外れ、1952年4月の全面撤廃で自由販売へ移った[91]。
京浜地区へ出るため、大日本製糖は横浜市新子安の1万6千坪を昭和電工から買収し、所要資金1億6千万円で新工場の建設に入った[92]。1950年11月に資本金を5,500万円から1億2,000万円へ増額して着工し、1951年7月の竣工とともにイーストと精製糖の製造を始めた[93]。資本金はその後も工場建設に連動し、1951年11月の倍額増資で2億4,000万円、1953年1月の半額無償増資と同年4月の倍額増資を経て7億2,000万円まで積み上がった[94]。1953年7月に堺工場が竣工すると、溶糖能力は門司・横浜・堺の3工場合計で日産935屯となり、業界最高の能力を備えた[95]。イーストも1953年末に横浜・門司両工場合計で月産70万ポンドの設備を完成させ、業界第一の生産力を持つに至った[96]。
各社が能力を積み増した理由は需要の伸びではなく、原糖の輸入外貨の割当基準が能力七・実績三の比率だったことにある[97]。割当を多く取るには設備を増やすほかなく、1949年末に9社9工場・日産溶糖能力585屯だった国内の精製糖設備は、1952年に18社27工場・5,740屯、1954年には25社36工場・8,965屯へ膨らんだ[98]。需要は統制撤廃直後の急増が頭打ちとなり、設備過剰だけが残った[99]。1954年3月期に製糖各社が軒並み増益となったのは、デフレ政策にからむ外貨節約で原糖輸入が大幅に削減されるとの見通しが濃くなり、製品相場が高騰してメーカーの在庫が払底したためである[100]。大日本製糖は1954年3月までの半期に総売上高85億9,700万円、純益5億900万円を計上した[101]。他社が増配へ動くなか、藤山愛一郎社長は2割5分配当の据え置きを自ら指示し、社外流出を抑えて社内に蓄積させた[102]。
1956年のスエズ動乱以来、原料の砂糖は高値を続けた一方、国内の供給能力は消費量を上回り、市場価格は弱いまま推移した[103]。大日本製糖の売上高は1955年3月期の165億円から1957年3月期には138億円へ減り、営業利益も13億円から6億円へ落ちた[104]。3年続きの豊作で米食が増え、原料糖蜜の逼迫も重なってパン用イーストが不調となり、醸造部門も焼酎の売行不振と添加用酒精の減少に押された[105]。1957年7月、社長は藤山愛一郎氏から藤山勝彦氏へ替わった[106]。1960年には横浜工場でシュガーエステルの事業化に着手した[107]。それでも1962年3月期の半期売上は精製糖が90.6%を占め、シュガーエステルは0.3%にとどまった[108]。1962年10月、北海道本別町に本別製糖所を設け、国内に原料を持つてん菜糖業へ進出した[109]。
1963年8月の原糖輸入の自由化を境に、製糖業界をとりまく環境は急変した[110]。それまでの製糖事業は高い収益のもとに安定していたが、自由化以後は慢性的な生産過剰におちいり、大日本製糖も苦しい業績を続けた[111]。製糖業界では1965年から糖価安定法の成立、不況カルテルの実施、商社による系列化が進んだが、過当競争と乱売合戦は収まらなかった[112]。売上高は1963年3月期の185億円から1965年3月期の237億円へ伸びたが、当期純利益は1963年3月期の7億円、1964年3月期の4億円から一転し、1965年3月期は11億円の損失となった[113]。
自力での立て直しをあきらめた大日本製糖は、1965年11月、藤山勝彦社長が社長の座を当時三菱商事相談役だった辻喜代治氏へ引き継いだ[114]。大日本製糖は1966年3月期から、従来から関係の深かった三菱商事の資本を導入し、同時に全面的な提携に入った[115]。それでも半期を合算した当期純利益は、1966年3月期に8億円、1967年3月期に11億円、1968年3月期と1969年3月期にそれぞれ2億円、1970年3月期に1億円の損失となり、赤字は6年続いた[116]。1966年3月期の売上構成は精製糖70.3%、てん菜糖11.8%、砂糖・糖蜜・酵母の仕入商品11.7%で、輸入原料糖の精製が7割を占めた[117]。
北海道でてん菜糖に踏み込んだ事業も、6年たたずに手放した。合理化のなかで不採算の本別製糖所が切り離しの対象となり、大日本製糖は台糖、芝浦製糖との3社共同で北海道糖業を設立、1968年2月5日に設立手続を終えた[118]。甜菜糖関係の従業員172名を新会社へ移籍させたうえで、本別製糖所の設備一切を4月1日付で譲渡した[119]。本別製糖所の設置は1962年10月であり、国内に原料をつくる拠点を置いた期間は5年半にとどまった[120]。1970年3月期の売上構成は精製糖が83.4%を占め、シュガーエステル4.0%、パイン缶詰1.8%、酵母1.5%が続いた[121]。
1968年5月25日、丸の内の本社で第36回定時株主総会が開かれた[122]。辻喜代治社長の営業報告は約25分に及び、8期ぶりに純益6,900万円を計上したと述べた[123]。精製糖部門は期中に原糖79,800トンを溶糖して製品72,700トンを販売し、売上高81億円、純益1億7,400万円をあげた[124]。甜菜糖部門は前年同期を約1億円上回った[125]が、イースト部門は売上高も販売数量も減り、約4,000万円の赤字を出した[126]。化成品・シュガーエステル部門は売上高4億4,400万円、利益1億円[127]。これらを合わせた売上高は124億5,000万円、計上利益は1億1,800万円となった[128]。
黒字の主因は外部にあり、辻喜代治社長は1967年11月の英ポンド切り下げが砂糖業界にとって予期しない有利な事態だったと報告した[129]。営業外収入は前年同期の4億400万円から1億1,300万円へ減り、有価証券売却益が出ず、固定資産売却益も3,000万円にとどまった[130]うえ、営業外支払は合計5億6,500万円にのぼり、うち支払利息が4億1,300万円を占め、営業外は3億8,200万円の支払超過となった[131]。精製糖部門の過剰設備については、全日本製糖工業会として試案をまとめ、行政官庁に差し出して所見を求めていると説明した[132]。
株主の追及は、大日本製糖が株式780万株を持ち、2億円を出資したうえ40億円近い債務保証を背負っていたホテル・ニュージャパンに集まった[133]。1968年2月29日のホテル・ニュージャパンの株主総会は荒れ、3,000株しか持たない中央土地に経営権を取られた[134]。辻喜代治社長の営業報告は関連事業部門の説明を飛ばして特別損益に移り、ホテル・ニュージャパンには触れなかった[135]。議長の藤山勝彦会長は、解決を取締役の植村甲午郎氏に一任していると答え、5月末までに片づけたいと述べた[136]。第一号議案の可決には1時間12分を要した[137]。
三菱商事との一体化は工場の共同運営にまで進み、1971年1月、大日本製糖は三菱商事、明治製糖と共同で東日本製糖を発足させた[138]。1971年3月期は経常利益21億円、当期純利益20億円を計上し、6年続いた赤字から抜けた[139]。同年4月、不動産の売却などで累積赤字を一掃したのを機に、藤山愛一郎氏の子息である藤山覚一郎氏が社長に就任[140]。1973年2月に化成品部門を分離して菱糖を設立し、1974年10月には横浜工場を閉鎖した[141]。もっとも国内の砂糖消費量は1973年の318万4,000トン、1人当たり29.2キログラムを頂に減少へ転じた[142]。1974年に精製糖企業33社が豪州と結んだ粗糖の輸入長期契約と、その後の国際相場の急落が、製糖各社の業績悪化に拍車をかけた[143]。
大日本製糖の債務超過は1978年3月の中間決算で約170億円に達し[144]、3年以上の債務超過かつ5年以上の無配継続という東京証券取引所の上場廃止基準への抵触が避けられなくなった[145]。同年3月末の筆頭株主は横井英樹氏で、発行済株式の32.81%にあたる約1,300万株を握っていた[146]。輸入精糖業界33社は1976年以降の市況悪化でほとんどが経営危機に陥り、上場会社11社は上場基準の改正で廃止の瀬戸際に立った[147]。三井製糖は減資と第三者割当増資、3工場の売却とリースバック、商標権の売却で上場を保ち、台糖と塩水港製糖も主力工場や非製造部門を分離した[148]。上場を維持できなかったのは大日本製糖と明治製糖の2社だけで、大日本製糖の株式は証券会社の店頭銘柄扱いに移った[149]。三菱商事の砂糖部幹部は、その理由に横井英樹氏が大量に株を買って大株主になったことを挙げた[150]。
過剰設備は減らず、1981年の業界は需要が300万トン前後、供給能力が400万トン強で、100万トンの設備が余った[151]。1978年2月から1980年9月までの時限立法だった砂糖特例法は、業界が付帯決議の求める体質改善を実現しなかったため1年半延長された[152]。大日本製糖は1982年、三菱商事と戸畑工場の西日本製糖を設立[153]。1983年9月期には、資本金39億6,000万円に対して累積赤字が109億円に達し、業界シェアは7.9%で5位を占めた[154]。三菱商事は貸付金の金利棚上げが重荷となり、回収困難な債権の帳消しを選んだ[155]。1984年2月中旬に三菱商事が100%出資で資本金10億円のニットーを設立し、負債を除く従業員、取引先など営業の一切を引き継がせた[156]。大日本製糖と明治製糖、三菱商事は1984年3月下旬の解散を記者発表し、三菱商事は債権160億円の大半を1984年3月期決算で償却した[157]。
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|---|---|---|---|---|
| 1890〜1909年鈴木藤三郎氏の精製糖工場から台湾の原料を追った先の日糖疑獄 | 鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設 | ★ | ||
| 東京の砂村に日本精製糖を設立 | ★★ | |||
| 大阪の日本精糖を合併して大日本製糖に商号変更 | ★★ | |||
| 台湾総督府から斗六の原料糖工場設立許可を取得 | ★★ | |||
| 国内初の角砂糖の製造と発売を開始 | ★★ | |||
| 酒匂常明氏ら全重役が財産状態の責任を負い辞職 | ★★ | |||
| 関税還付の期限延長を狙った代議士買収と粉飾の露見、全重役の辞職と藤山雷太氏の招聘 1909年、大日本製糖の取締役である磯村音介氏と秋山一裕氏による衆議院議員への贈賄と、タコ配当や株価操縦を含む粉飾が露見した事件。株主が選任した監査役の瓜生震氏の報告を契機に酒匂常明社長以下の全重役が辞職し、渋沢栄一氏が後継役員を指名して藤山雷太氏が社長に就いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 藤山雷太氏が取締役社長に就任 | ★★ | |||
| 1910〜1945年渋沢栄一氏に招かれた藤山雷太氏と東洋製糖まで取り込んだ台湾の拡張 | 台湾第二位の製糖会社である東洋製糖を合併 | ★★★ | ||
| 新高製糖を合併 | ★★ | |||
| 東京工場を閉鎖 | ★ | |||
| 帝国製糖を合併 | ★★ | |||
| 日糖興業に商号変更 | ★★ | |||
| 外地会社の指定で国内財産が連合国の管理下に移行 | ★★ | |||
| 1946〜1962年門司の一工場から建て直した輸入原糖を精製するだけの会社 | 台湾の製糖工場と資産を中国側に引渡し | ★★ | ||
| 門司工場でパン用イーストの生産を開始 | ★ | |||
| 藤山愛一郎氏が公職追放の指定を受領 | ★★ | |||
| 門司工場で精製糖の製造を開始 | ★ | |||
| 藤山愛一郎 | 日糖興業の内地財産だけを承継した第二会社の設立と、門司一工場からの再出発 1950年4月7日、在外資産を失った日糖興業の国内残財産5,497万余円の現物出資と、藤山愛一郎社長個人の現金出資引受により、事業の全部を承継する新会社として大日本製糖が資本金5,500万円で発足した。証券コード2101の法人はこの第二会社にあたり、台湾やジャワに20数工場を擁した戦前の会社とは別法人である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤山愛一郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 藤山愛一郎 | 横浜工場で精製糖の製造を開始 | ★ | ||
| 藤山愛一郎 | 大阪証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 藤山愛一郎 | 堺工場が竣工 | ★ | ||
| 藤山愛一郎 | ポリエチレン袋入り砂糖を発売 | ★★ | ||
| 藤山勝彦 | 北海道に本別製糖所を設置 | ★ | ||
| 1963〜1993年1963年の原糖自由化からニットーへの営業譲渡と解散まで | 辻喜代治 | 本別製糖所を北海道糖業に譲渡 | ★★ | |
| 藤山覚一郎 | 三菱商事・明治製糖と東日本製糖を設立 | ★★ | ||
| 藤山覚一郎 | 酵素分解法による調味料コクベースを発売 | ★★ | ||
| 藤山覚一郎 | 化成品部門を分離して菱糖を設立 | ★★ | ||
| 藤山覚一郎 | 横浜工場を閉鎖 | ★★ | ||
| 株式の上場を廃止 | ★★ | |||
| 三菱商事と西日本製糖を設立 | ★ | |||
| ニットーを設立 | ★★ | |||
| 負債を除く営業全部のニットーへの譲渡と解散 1984年3月下旬、大日本製糖が臨時株主総会で解散を決議し、負債を除く従業員・取引先など営業の一切を、三菱商事が100%出資して同年2月中旬に設立した新会社ニットー株式会社へ譲渡した経営判断。明治製糖も同時に解散し、明糖産業へ営業を移した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 清算が結了 | ★ |
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事実根拠:出所(大日本製糖)