大日本製糖関税還付の期限延長を狙った代議士買収と粉飾の露見、全重役の辞職と藤山雷太氏の招聘

身内の監査役か、外部の目か——額面割れした日糖株のもとで株主が選んだ道

時期 1909年4月
意思決定者(推定) 磯村音介・秋山一裕・渋沢栄一 大日本製糖 取締役・大日本製糖 相談役
論点 不正会計の露見と経営体制の刷新
概要
1909年、大日本製糖の取締役である磯村音介氏と秋山一裕氏による衆議院議員への贈賄と、タコ配当や株価操縦を含む粉飾が露見した事件。株主が選任した監査役の瓜生震氏の報告を契機に酒匂常明社長以下の全重役が辞職し、渋沢栄一氏が後継役員を指名して藤山雷太氏が社長に就いた。
背景
1902年、内地の製糖会社へ原料の関税相当額を還付する5年の時限立法が設けられ、期限が近づくと各社は延長を求めて政界へ働きかけた。1906年の合併で資本金1,200万円の大日本製糖が生まれ、磯村音介氏と秋山一裕氏は社長の鈴木藤三郎氏を追放して取締役に就いていた。
内容
2人は還付の延長と会社の官営化を求めて贈賄に走り、選挙費用も会社の資金から出していた。損失は未納税金の残額の操作で隠され、国庫に預けた自社株を会社資金による買い注文で吊り上げてから売却する手口も併用された。1909年1月に株主が選んだ監査役の瓜生震氏がタコ配当を報告し、4月に株式は取引停止となった。
含意
磯村音介氏と秋山一裕氏は実刑判決を受け、渋沢栄一氏は日糖をはじめ59社の役職を辞して実業界を退いた。1909年11月に農商務省が公許会計士制度調査書をまとめ、1911年の改正商法は取締役と監査役の民事責任と罰則を定めた。第三者による専門的な監査を制度として備える必要が、明治の財界に突きつけられた。
筆者の見解

制度の果実と、身内でない監査役

1908年11月の総会で株主が通せた議案は、調査委員会の設置ではなく監査役の入れ替え一つにすぎない。資本金1,200万円の会社が額面50円の株を18円10銭まで落とすあいだ、社内に経営を止める仕組みはなかった。そこへ座った瓜生震氏が社外で実務を積んだ人物であったことが、タコ配当と未納税金の操作を表に出す唯一の回路になったとみられる。磯村音介氏と秋山一裕氏が握っていたのは事業の成績ではなく、還付の延長と官営化という制度の側の果実であった。

ただ、この一件で監査の仕組みがすぐ整ったわけではない。農商務省が公許会計士制度調査書をまとめてから計理士法までに18年が空き、その間の抑止は1911年の改正商法の罰則と、経済雑誌が重ねた解説記事に委ねられた。会社の側でも、傷を負った日糖を立て直したのは制度ではなく、渋沢栄一氏が口説いて連れてきた藤山雷太社長という個人であった。第三者の目を制度として備えるまでの距離が、この事件の後始末には残っていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

台湾の領有と原料関税の還付という保護策

1895年、日清戦争の講和条約により日本の台湾統治が始まった。甘蔗の栽培に適した土地を得たことで、近代工業としての製糖業が生まれた。もっとも砂糖の原料は、内地の製糖会社の多くがジャワや香港から輸入した。日本政府は台湾の原料生産を保護する方針の下、台湾から原料を輸入する企業への保護策も講じ、1902年には内地の製糖会社へ原料の関税相当額を還付する制度を設けた。5年の時限立法であり、期限が近づくと各社は延長を求めて政界に働きかけを重ねた[1][2][3]

1906年11月、日本精製糖は大阪の日本精糖との合併を臨時株主総会で決議し、商号を大日本製糖へ改めた。株式会社の資本金が平均11万円であった当時、新会社の資本金は1,200万円と桁が違った。同社は商号の変更とあわせて事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へ転換し、翌1907年には台湾糖業の開拓に乗り出した。原料を台湾に求めた以上、還付制度の行方は経営そのものを左右する条件へ変わった[4][5][6]

官営化の要求と会社資金で賄った選挙費用

旧日本精糖の創設者である渋沢栄一氏は、新会社では取締役ではなく相談役に退き、社長の椅子には渋沢栄一氏が推挙した酒匂常明氏が座った。一方、旧日本精製糖の役員であった磯村音介氏と秋山一裕氏は、合併に際して社長の鈴木藤三郎氏を追放し、新会社の取締役に就いた。実権を握った2人は還付の期限延長を求めて衆議院議員への贈賄に走り、要求は国家予算を引き出すための官営化にまで広がった。官営化の法案は提出されたうえで否決された[7][8][9]

否決されても2人はあきらめず、1908年5月の第10回衆議院議員総選挙へ出馬し、秋山一裕氏が当選した。選挙にかかった費用は、会社の資金から捻出されていた。当選を機に、新聞や雑誌の記者は秋山一裕氏の身辺と大日本製糖の経営へ厳しい視線を向け始め、まもなく業績の低迷が相次いで報じられた。1908年11月26日の株主総会は紛糾し、翌日の中外商業新報は会場の喧騒を伝えた[10][11][12]

決断

株主が送り込んだ監査役・瓜生震氏の報告

紛糾した1908年11月26日の総会で、株主が請求した調査委員会の設置を求める議案は否決され、新たな監査役の任命を求める議案だけが可決された。当時の商法は監査役を株主から選出すると定めており、空いた席に座ったのは、三菱合資会社副支配人や麒麟麦酒取締役を歴任した瓜生震氏である。既存の監査役を磯村音介氏と秋山一裕氏のイエスマンとみていた株主らは、社外で実務を積んだ瓜生震氏の報告を待った。会社の帳簿を身内でない者に読ませる——株主の手に残ったのは、この一手にすぎない[13][14]

1909年1月24日の株主総会で、瓜生震氏は経営陣がタコ配当に及んでいたと報告した。十分な利益がないなかでの配当を指すが、実際には利益どころか損失が出ており、前年11月から膨らみ続けた。帳簿のつじつま合わせに使われたのは、未納税金の残額である。製糖会社は砂糖消費税を現金で国庫に納める際、担保として自社株を一時的に預けることができ、株を取り出して納付するまでは未納として扱われた。磯村音介氏と秋山一裕氏は、この残額を操作していた[15][16]

株価操縦の露見と酒匂常明社長以下の辞職

2人の不正は帳簿の操作にとどまらなかった。値を下げた自社株を買い入れて国庫に預け、後日、会社資金を流用した大量の買い注文で株価を吊り上げてから、預けた株を取り出して売却し、利益を得た。この手口は、日糖創設時の合併に協力した鈴木久五郎氏の入れ知恵による。日糖株は1906年の創業時に額面50円の3倍以上を付けていたが、1909年の年明け早々に額面を割り、18円10銭まで落ちた。株式は同年4月1日に取引停止となった[17][18]

経営の行き詰まりは、事件の発覚より先に人事へ表れた。1909年1月11日、合同以来の経営難を受けて酒匂常明社長以下の役員が相前後して辞職し、渋沢栄一氏も酒匂常明氏を推薦した責任をとって相談役を退いた。同年3月8日、渋沢栄一氏は大株主会から後継役員候補者の選定を請われた。日糖の倒産が産業各界へ波及することを恐れた渋沢栄一氏は、再建を藤山雷太氏に持ちかけて口説いた。4月27日の臨時株主総会で藤山雷太氏ら7人が後継役員に指名され、同月、藤山雷太氏が取締役社長へ就任した[19][20][21]

結果

実刑判決と渋沢栄一氏の実業界引退

1909年4月、秋山一裕氏が検事官舎へ出頭したことから事件は表に出た。磯村音介氏と秋山一裕氏、21人の衆議院議員、若干名の株主が贈収賄の容疑で検挙され、無罪となったのは3人にとどまった。贈賄側の磯村音介氏と秋山一裕氏には実刑判決が下された。秋山一裕氏の出頭より前から日糖の経営不振と不正は報じられていたが、代議士の買収が絡んだことで、事件は政界を巻き込む規模へ広がった[22]

渋沢栄一氏は、引責辞任について記者の前で否定していた。不祥事の責任を取って辞任する風潮を許せば国が立ち行かなくなる、と力説した。それでも渋沢栄一氏は日糖をはじめ59社の役職を次々に辞し、事実上の引責として実業界を退いた。残された会社の再建は藤山雷太社長に委ねられ、藤山雷太社長は社業の充実を進めるとともに、このころから台湾へ事業地を広げた[23][24]

公許会計士制度調査書から1911年の改正商法へ

事件は、会計監査の制度化を後押しする契機となった。1909年11月、農商務省は公許会計士制度調査書をまとめ、専門性を備えた第三者が監査を果たすための枠組みを模索した。制度としての実現は1927年の計理士法まで18年を要している。1911年の改正商法では、株式会社の取締役と監査役の民事責任が明確化され、不正な経営に対して禁錮・懲役・罰金などの罰則が定められた[25]

制度が整うまでの間を埋めたのは、活字の側であった。東京経済雑誌・東洋経済新報・実業之日本といった経済雑誌は、会計監査に関する専門家の解説記事を重ね、企業の財務内容について粉飾の可能性を示唆する記事も載せて、監査の啓蒙を進めた。日糖事件の発覚前にも、製糖業の状況からするとこの財務諸表は怪しいという内容の記事が出た。罰則より先に動いたのは、読み手へ判断の材料を渡す働きである[26][27]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2025年4月19日号(横山和輝)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
  • 農畜産業振興機構 2025年1月「渋沢栄一と製糖業~日本の製糖業の変遷~」
  • 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表

免責事項およびポリシー