藤山愛一郎
大日本製糖・元代表取締役社長(1950年4月に内地資産で再設立された大日本製糖)
社長就任 1950年
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自
大日本製糖社長・藤山雷太氏の長男に生まれ、慶応義塾を出て英国に遊学した。帰国後はサラリーマン志望を父に退けられ、1925年の東京フロリスト、1927年の池田化学と、父の資金で興した小さな会社の社長を渡り歩いた。大日本製糖には1932年に常務として入り、1934年4月に父の跡を継いで社長へ就任した。父・雷太氏は1909年の日糖事件による行き詰まりの打開のため迎えられた人で、藤山家は創業家ではない。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1947年1月に公職追放の指定を受け、海軍省顧問や大政翼賛会総務を務めた責任から日本・東京両商工会議所の会頭を辞して隠遁していた。大日本製糖は敗戦で本拠の台湾を失い、外地会社に指定されて台湾の資産を全て接収された。外地資産と切り離して内地資産だけで国内法人として認める扱いができたため、1950年4月に会社を再建し、戦前の旧社を率いた藤山氏がそのまま社長へ就任した。
在任中の主な施策
施策
再建後は、砂糖を原料に航空燃料を研究していた門司工場で建築用テックスと食用イーストをつくることから再出発し、横浜・堺の両工場を順次新設した。1949年に砂糖の輸入が再開されて精糖業へ戻り、日産処理能力935トンと国内2位の設備を持つまでになった。売上高は1954年3月期の159億円から1957年3月期は138億円へ減少した。1957年、岸信介内閣の外務大臣となって社長を離れた。
門司工場ひとつでの再起在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1934〜1957年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-